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月別: 2017年2月

日独を結んだ潜水艦 深海の使者たちその③

2017 FEB 28 18:18:49 pm by 野村 和寿

私の母(昭和2・1927年生まれ・90歳)が、横浜に在住しておりましたので、いつだかはっきりしないのですが、ドイツの潜水艦で来日した水兵達が、神奈川県庁のある日本大通りで、ドイツ海軍による分列行進をしたのを女学生みんなで見たと申しておりました。水兵たちは、足を真っ直ぐにしてきびきびと歩くので、とても格好良くて、印象的だったそうです。さて、このあたりで、日独間の深海を結んだ、あるいは結ぼうとした潜水艦を比較してみました。日本とドイツの潜水艦の意外な違いをまとめてみました。なんとなく、ドイツ潜水艦は、日本の潜水艦に比べて巨大で速力も速くと思っていました。ところがずいぶんと違っていました。まとめてみたのが下図になります。日本の細かなからくりの工夫を施したのに対して、ドイツの合理的な工夫、両国の設計の違いが明らかにわかります。

ドイツUボート

ドイツUボートの特徴をまとめてみました。

日本の潜水艦

日本の潜水艦の特徴についてまとめてみました。

イ号第八潜水艦

昭和18年6月1日呉軍港出港、8月31日旧フランス領ブレスト軍港到着、10月5日ブレスト出港、12月21日呉軍港入港 日独往復した唯一の日本海軍潜水艦

U505

米シカゴ科学博物館に展示されているドイツUボートU505(9C型)です。塗装は大西洋のため灰色に塗装されています。

U161

米海軍偵察機がとらえたドイツUボートU161(9C型)

大日本帝国海軍潜水艦乗務記録 インド洋♯1

下の動画は、実際に日本海軍が撮影した記録映画です。救いなのは潜水艦の乗員はみな明るく比較的自由にふるまっていること。これだけ厳しい規律の下だと、むしろ自由にふるまえるというところがあるのかもしれません。You Tubeには「その6」まで分かれて約50分間の映像がアップされています。ご興味のある方はどうぞ。

大日本帝国海軍潜水艦乗務記録 インド洋♯1

「消えたイ52号」(NHKスペシャル)97年3月2日初回放送。こちらは、沈没したイ第五十二潜水艦の引き上げの記録ドキュメントです。

伊号第五十二潜水艦は、第5次の遣独計画の潜水艦として、昭和19(1944)年3月10日呉軍港出港、2トンの金塊、錫、モリブデン、タングステン228トンを積載、3月21日シンガポール入港、3月23日シンガポール出港、6月8日レーダー逆探知装置をドイツ潜水艦をより受領し伊号に設置しました。6月21日スペイン海域で米海軍アベンジャー雷撃機より攻撃を受けて沈没しました。金塊を引き上げる計画がもちあがり、1995年引き上げが計画されたが、深海5000メートルなので、断念した経緯があります。これで「深海の使者」のブログ記事は終わりです。最後に著者の吉村昭氏の本文庫は非常に読み応えがあります。是非、ご一読をお薦めします。

ブログに使用した写真はウィキペディアのパブリック・ドメインのものを使用しています。

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日独を結んだ潜水艦 深海の使者たちその②

2017 FEB 28 6:06:03 am by 野村 和寿

さらに日本とドイツの第2次世界大戦中の主に潜水艦による交流について調べてみました。日本からドイツまで、1万5千海里(3万キロ弱)を航行してさえも、日本が主に欲しがっていたのは、ドイツの工業技術でした。

魚雷艇用ダイムラーベンツ3000馬力内火発動機 電波探知機(レーダー)、小型潜水艦設計図 対戦車砲の特殊弾、噴射推進式飛行機(ターボジェット)の設計資料Me163 Me262、工業用ダイヤモンド

これに対して、ドイツが欲しかったのは南方の工業用材料 雲母 キニーネ、生ゴム、クローム、マニラ麻、コブラ、さらに、日本海軍からの贈呈品として、航空母艦設計図、酸素魚雷、ほかに日本海軍が考案した水中でも安定して潜行していられる自動懸吊装置、重油漏洩防止装置、真珠湾攻撃に使われた特殊潜航艇設計図、無航跡魚雷などを送る目的がありました。

またドイツに留学していた海軍の技術将校のレーダー技術や造船技術を習得した将校の帰着も目指していました、

これらのいくつかは、無事、日本に到着し活用されました。特に噴射推進式飛行機は、実際に特攻機櫻花のエンジンに使われました。(残念な使われ方でした)、電波探針機(レーダー)は早くも遣独潜水艦で活用されました。

イ号第二十九潜水艦は、昭和18年4月26日アフリカ・マダガスカル島沖で、印度独立運動の闘士チャンドラ・ボースをドイツ潜水艦から引き継いで、日本へ運搬した。東京着

ドイツに亡命中の印度独立運動の闘士チャンドラ・ボースを日本に連れてきて、印度独立運動を支援するために、印度独立運動の闘士、チャンドラ・ボースをドイツUボートと連携して、日本に連れてくるということも潜水艦はしました。(ボクは今まであの新宿・中村屋の娘と結婚したのが、その人と思っていました。これは誤りであり、中村屋のほうの日本に帰化した人物は、同じボースでもビハリ・ボースで、チャンドラ・ボースの下で働いた人物でした)

マレーにおいて、自由印度独立義勇軍を設立し、日本に帰化していたビハリ・ボース(新宿中村屋の娘と結婚し、日本に帰化)とともに独立義勇軍を組織しました。

イタリアも日本との軍事同盟をなんとかいかそうとして、飛行機による渡航を行いました。船と違ってプロペラが3基あるイタリアの輸送機をつかえば、船で約90日間かけているのにくらべると、わずかに、3日間で、ヨーロッパと日本との間を結ぶことが出来ました。

サヴォイア・マルケッティSM75改

イタリア・サヴォイア・マルケッティSM75改 搭乗員5名1942年7月1日伊ロードス島7月2日内モンゴル包頭到着、7月3日東京・福生飛行場到着 7月16日福生発、包頭7月17日包頭、7月19日ウクライナ・オデッサ、ローマ・グイドーニア飛行場到着

イタリアも同盟関係にあったので、日伊関係を改善する目的で、ローマから日本へ向けて1942年7月1日に伊ロードス島基地から日本を目指して飛行機を飛ばしました。サヴォイア・マルケッティSM75改がそれです。

ところが、ソ連領上空をわずかにかすめると、距離7000㎞なのに対して印度洋上空を飛ぶと12000㎞にもなるので、日本の印度洋を飛ぶことをいったん了承しながらも、実際には、ソ連領上空をわずかにかすめて飛行し、当時日本の占領下の内モンゴル包頭飛行場に飛来、給油後に東京福生飛行場に到着しました。ところが、ソ連領上空を飛行したことを、ソ連側に知れることをひたすら隠したかった日本は、この飛行の成功を大々的に宣伝することはなく、ひた隠しにし、このことがきっかけで、日伊の同盟関係は冷え切っていきます。いったん了承すればわからなけりゃいいじゃないかという伊的発想と、どこまでもがちがちな日本軍との発想の違いとが垣間見られ今となっては、興味深いところです。日本もドイツまでの無着陸飛行を目指しました。

キ77 2号機

東大宇宙航空研究所、立川飛行機製作所製造キ77号2号機が、セ号飛行計画で独を目指したが、失敗した。写真は、キ77 1号機を終戦後米軍が撮影したもの

無着陸欧州飛行ということでは、朝日新聞航空部が、昭和14(1939)年、東京・ロンドン間15357㎞を所要時間94時間17分56秒で結んだことは有名だと思います。これに使われたのは実は、日本陸軍司令部偵察機キー15制式名九十七式でした。また、東京日日新聞が、昭和14(1939)年ニッポン号が各国の飛行場を経由して世界一周飛行を試みました。航続距離52860㎞。これに使われたのは日本海軍九十六式陸上攻撃機でした。またその1年前の昭和13(1938)年5月には航空研究所長距離機(通商 航研機)には、東大航空研究所設計、東京瓦斯電気工業製造で、木更津、太田、平塚の三角点を結ぶ周回コースを3日間、11,651.011㎞を無着陸で飛行し、当時、無着陸飛行の世界記録を打ち立てました。この流れで作られたA-26(後に日本陸軍キ77と銘々)で日本ドイツ間を無着陸飛行を企図し、東大航空研設計、立川飛行機試作工場製造で製造されたキ77 2号機が投入されました。シンガポールからベルリン間12000㎞を所要時間55時間程度で飛行するという計画は、昭和18年6月30日東京・福生を飛び立ち、7月7日シンガポール・カラン飛行場からベルリンを目指しました。キ77 2号機はシンガポールからインド洋、紅海、伊ロードス島を飛行予定でした。ところが7月10日インド洋上で消息をたち、遣独飛行は失敗に終わりました。ここまでの残りの渡欧計画をまとめると次のようになります。

日独3

第2次世界大戦中の日独交流その3です。

 

本ブログの記述は、吉村昭著『深海の使者』(文春文庫所収)をもとに、周辺の補強をして記述しました。写真はすべて、ウィキペディアによるパブリック・ドメインの写真を使用しています。

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日独を結んだ潜水艦・深海の使者たちその①

2017 FEB 28 5:05:02 am by 野村 和寿

ドイツ大使館・総領事館のホームページ「日独交流150年の歴史」(文:上智大学准教授スヴェン・サーラ氏 訳ドイツ大使館岩村偉史氏)に興味深いことが載っていました。「日独関係は軍事同盟へと進展していき、日独伊三国同盟(1940年)と1942年の軍事協定により頂点に達します。しかしながら、戦争中に日独が実際に協力しあうことはありませんでした。両国の政治指導部は互いに相手に対してむしろ懐疑的で、軍事同盟はまず第一に宣伝手段としての役目を果たしていたのです。ドイツと日本は別々に戦争を行い、そしてドイツ帝国は1945年5月8日に、日本は1945年9月2日にそれぞれ別々に降伏しました。ちょうど6年前にドイツがポーランドに侵攻したのとほぼ同じ日に、第二次世界大戦が終わりました。2800人にふくれあがった在留ドイツ人社会では(オランダ領東インドからの避難民約700人と海軍兵士500人を含む)その大部分がドイツに強制送還されましたが、ドイツにいた日本人たちも同様でした。」(太字・本ブログ)

ボクは、学校のときに、第2次世界大戦では、日本とドイツは日独伊三国同盟で連合国と戦ったと常に教えられてきました。ところが、上記の赤字は、日本とドイツは別々に戦争したのであって、特に協力しなかったとあります。確かに、最近の歴史学では、三国同盟はほとんど戦略的に機能することはなかったという説が有力なのです。

そこで、頭に浮かんだのが、吉村昭『深海の使者』(1973年)です。

吉村昭(1927−2006年)は、『戦艦武蔵』をはじめ、単なる戦記物とは内容を異にし、徹底した取材によって得られたデータを元に下ノンフィクションで著作する作家です。そこで、日本とドイツの間を、第2次大戦中に、主に潜水艦での交流を調べてみることにしました。

日本には、長距離の航行が可能な潜水艦がありました。イ号潜水艦です。海中深く潜行し、主に、現在のマレーシアにあった日本海軍基地ペナンを出港し速力12−16ノットで印度洋を南下、喜望峰からアフリカ大西洋に入り、一路ドイツを目指しました。訳66日かけて、ドイツ占領下のロリアン、ブレスト軍港に入港するという計画でした。夜間は水上航行、昼間は深海深く水中航行をするということを繰り返しました。乗員たちは10時間以上にもおよぶ潜行で酸素の欠乏と炭酸ガスの増大にもよく耐えました。

ここに『深海の使者』に登場する潜水艦の日本とドイツ1万5千浬を海中深く潜行した潜水艦を紹介します。始まったのは昭和17年4月11日に呉軍港を出港したイ号第三十潜水艦です。途中、現在のマレーシアの日本海軍基地であったペナンで燃料補給をし、それから一路欧州を目指しました。約4ヶ月かけて、ドイツが当時占領していた旧フランス領ロリアン軍港に到着。帰途は8月22日ロリアン軍港出港し、行きと全く反対の経路をたどりつつ、10月8日に無事ペナンに入港したのですが、指揮命令系統の混乱と多少の到達の気の緩みも正直あったのかもしれません。日本帰港をめざした矢先、10月13日にイギリス海軍の敷設した機雷に触れて、シンガポール沖で沈没しました。往復はしたのですが、まったく惜しいところで生還を逃してしまいました。

0227日独1

第2次世界大戦時の日本とドイツの交流 その1です。

日独2

第2次世界大戦時の日本とドイツの交流その2です。

イ号第八潜水艦

昭和18年6月1日呉軍港出港、8月31日旧フランス領ブレスト軍港到着、10月5日ブレスト出港、12月21日呉軍港入港 日独往復した唯一の日本海軍潜水艦

日本とドイツの間の往復に成功した潜水艦は、日本側では1隻だけありました。イ号第八潜水艦です。昭和18年6月1日に呉軍港を出港し、シンガポール、セレター軍港で、燃料補給を受け、60数日かけて、8月31日無事ドイツ軍の旧フランス了ブレスト軍港に到着、10月5日ブレスト軍港を出港し、12月5日シンガポール水道にあるセレター軍港に入港、12月21日午後無事呉軍港に帰港しました。

イ号第八潜水艦は、昭和6月1日呉軍港を出港し、約3ヶ月後8月31日旧フランス領ブレスト軍港に入港した。

ドイツから日本へむけてUボートでの交流も行われました。

ドイツ潜水艦U511は1944年3月30日 ドイツ軍旧フランス領ブレスト出港、7月15日に現在のマレーシア 日本海軍ペナン基地に入港し、8月6日に無事呉軍港に到着しました。U511はその後、日本海軍に譲渡され「さつき1号」と呼称されました。

ドイツ海軍UボートU511は1943年5月6日ブレストを出港、8月6日呉軍港入港し、日本海軍さつき1号呂号第五百潜水艦と改称された。

イタリアからも潜水艦が日本に向かいました。

ルイージ・トレッリ号

イタリア潜水艦ルイージ・トレッリ号は1943年6月16日フランス・ボルドー出港、8月26日スマトラ島サバン入港 イタリア降伏後、ドイツUIT25そしてイ号五百四潜水艦となり終戦まで生き残った。

4隻向かったのですが、そのうちの1隻は、日本に到着しています。ルイージ・トレッリ号がその潜水艦で、1943年6月16日に旧フランス領ボルドー海軍基地を出港し、8月26日スマトラ島の日本海軍基地サバンに無事入港、8月30日にシンガポール港を出港し、日本に回航されました。途中でイタリアが連合国側に降伏したために、9月にドイツ海軍が本船を拿捕し、名前をドイツ海軍UIT25と改称。日本到着日時は不明ですが、確かに日本に到着しています。昭和20年5月8日にドイツ軍が降伏すると、今度は、日本海軍に接収され、イ号第五百四潜水艦と改称されました。ちなみに本船は、昭和20年の終戦時、三菱神戸造船所で修繕中でした。イタリア・ドイツ・日本と3国を渡り歩いた戦後まで生き延びた数少ない潜水艦ということができます。昭和21年4月16日に、紀伊水道で、米国海軍によって処分されました。

最初のドイツ大使館の言説とは異なり、非常に微々たる交流ではありましたが、確かに、日本とドイツは物資、技術の上でも軍事的な交流があったことがわかります。この項目つづきます。

 

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カメラのおけいこ⑤ライカのオールド・レンズをソニーに取り付けてみる

2017 FEB 15 16:16:37 pm by 野村 和寿

0215ソニー・ライカ

camera:ソニーα7Ⅱ lens:Leitz(GERMANY)ELMAR50mmf2.8

ライカのレンズを、最新のカメラ・ソニーに取り付けてみました。このカメラ詳しくいうと、一眼レフのような姿をしていますが、実はそうではなくて、ミラーレス一眼カメラというカテゴリーに属し、オールドレンズとの相性がいいのです。ソニーは、前回紹介したFUJIFILMのイメージセンサー(撮像素子)がCMOSと呼ばれる素子で、35㎜相当に換算すると、1/1.5の大きさ、つまり、焦点距離50㎜のライカレンズだと、その1.5倍の75㎜になってしまいます。これに対し、ソニーα7Ⅱ(2014年12月発売)はイメージセンサーが、35㎜相当に換算すると1倍、フルサイズなので、レンズの焦点距離が、たとえば、50㎜であれば、そのまま50㎜で使えるというメリットがあります。われわれ、オールドレンズファンにとっては、このフルサイズといところが、実はこのカメラが受けている一番のポイントです。

ソニーのα7Ⅱのカタログでうたっている「35㎜フルサイズセンサー搭載」とあるのは、実は、そういうことをいっております。

0215フォクトレンダー

フォクトレンダー(日本製)のマウント・アダプターを介して、ライカ(正式には当時はライツ)のレンズをソニーのカメラ本体に取り付けました。

ソニーは、マウントがソニーEマウントを採用しているため、ライカのレンズはそのままでは、取り付けることが出来ません。長野県にあるフォクトレンダー・ブランド(株式会社コシナ)の「フルサイズ・Eマウント・アダプター」という製品が出ていて、これでもって、ライカのレンズをマウントアダプターを介して、ソニーα7Ⅱに取り付けることが出来ます。このマウントアダプターは、なにしろ日本製なので、正確に製造されているのでとても重宝できます。しかもヘリコイドといって、ピントの微調整ができるつまみがついているので、レンズのピント合わせをさらに正確にできるがいいところです。

0215ソニーライカ2

レンズはライツ エルマー50㎜f2.8 1958年生のドイツ・ウェッツラー製です。

前回、御紹介した1958年生まれのライカのレンズ LEITZ WETZLER生まれのELMAR50mm f2.8 沈胴式のレンズを、ソニーα7Ⅱに取り付けて撮影しでみました。

0215ソニーエルマー50㎜1

横浜・山下埠頭大桟橋から旧横浜税関をのぞんだところです。どことなく古めかしい写真なのがわかっていただくといいのですが。写真をクリックすると拡大できます。

オールドレンズは、いまの市販されているレンズにはない独特の甘さと柔らかさをもっているのが特徴でして、どことなく、昔の味わいのある写真を撮ることができます。

0215逆光

オールドレンズ(ライツ エルマー50㎜)の逆光の例です。目黒区立駒場野公園の朝ですが、光が真横からきていて逆光気味になっています。写真をクリックすると拡大できます。

ただし、デメリットもあります。「逆光にはめっぽう弱い」というレンズなのです。確かに以前、子どもの頃、よく「逆光だとカメラは写らないだよ」ということは、父親に教授され、多くの子どもでさえも、逆光というのは常識でした。

左の写真のように、なんとなくもやがかかったようになってしまいます。

0215ソニーエルマー50mm2

山下埠頭大桟橋に停泊中の水産大学校の練習船耕洋丸です。船に対して遠景がややぼけてくるのが、オールドレンズの味です。写真をクリックすると拡大できます。

逆にいえば、ライカのオールドレンズは、逆光にさえ、いつもより注意すればよいともいえなくもありません。一方、カメラボディのほうのソニーα7Ⅱは、価格も、ライカに比べると、1/7くらいで、ずいぶんとお安く、しかも、イメージセンサー(撮像素子)がライカと同じフルサイズですから、かなりなお得感はあります。

ぼくは、シャッター音が、ちょっとカメラっぽくないなと思うのと、あまりにも、電気メーカーっぽい電子音なのが少々不満です。

しかしながら、なんといっても、不満の一番は、デジタルカメラの場合、光からの情報をイメージセンサーで取り込んだ後で、「画像処理エンジン」と呼ばれる、一種の画像処理のためのデジタル回路を通るのですが、ソニーの場合、その画像処理エンジンがあまりに、よく出来すぎていて、なんでも、綺麗に写ってしまう点です。

0215ソニーエルマー3

人気の少ない山下埠頭大桟橋乗客ターミナル。ライカのレンズ(当時は正式にはライツ)は、微妙な光の具合をくっきりとだしてくれます。写真をクリックすると拡大できます。

写真は手前味噌ですが、ちょっと今撮影したとは、思えない、何となくふるくて懐かしいところのあるものになっていたらよいのですが。しかし、ぼくにとってみると、上記写真の出来もなかなか満足はしていないのです。それは・・・

ライカのレンズをライカ本体のカメラで撮影した場合と比べると、なんでも綺麗。贅沢な悩みかもしれません。もっとライカの場合、色のコントラストがくっきりと色濃くついて、出るところと引っ込むところがもっとはっきり出てきます。ところが、ソニーの場合、どうも、「平均的な美人」のような、おしなべて普通のようにも思えてしまう。そこが、唯一というか、もっといえば、最大の難点だと思っています。でも、ソニーα7Ⅱはよくできたカメラであることは確かだと思います。ソニーは、1933年から2006年まで続いたミノルタのカメラ部門が、写ってきたメーカーです。どことなく、昔のミノルタのペンタ部分(でっぱった所)が似ていなくもないと思っています。かつて一世を風靡したロッコールレンズ、ライカと提携も果たしていたミノルタのαではじまる、一眼レフが、デジタル時代に、ソニーに移り、α7Ⅱとなっていると、ボクは思っています。

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カメラのおけいこ④ Fujifilmのカメラに昔のLeica・レンズを装着してみる・・・

2017 FEB 14 5:05:59 am by 野村 和寿

FUJIFILMにLEITZを鶏透けるためのFUJI純正アダプターです。

FUJIFILMにLEITZを取り付けるためのFUJI純正アダプターです。

下北沢のお花屋さんの夕景です。昔の写真みたいにちょっとなっています。

下北沢のお花屋さんの夕景です。昔の写真みたいにちょっとなっています。ISO400 1/60 f2.8

camera:FUJIFILM X-Pro1 lems:Leitz Wetzlar ELMAR 1:2.8/50mm(35mm相当75mm)

camera:FUJIFILM X-Pro1 lems:Leitz Wetzlar ELMAR 1:2.8/50mm(35mm相当75mm)夕景の井の頭線池ノ上駅にて ISO400 1/60 f2.8

夕景の井の頭線・池ノ上駅にてFUJIFILM X-Pro1 LEITZ50mm(35mm相当75㎜)で撮影してみました。 オールド・レンズは最新のデジタルカメラには使えないのでしょうか?確かに、ライカのカメラに、日本のブランドのレンズを取り付けるというのは、ずっと以前から行われてきたことなのですが、ボクの知りうる限り、日本のカメラに、ライカのレンズを装着することはたぶん初めてなんじゃないでしょうか?今やそれだけ、日本のカメラは自他共に認めるくらい優秀で最先端をいっている証だと思います。

xpro1_elmar50mm2

FUJIFILMにLEITZ ELMAR50mmを取り付けます。レンズは沈胴式といって使うときだけ引き上げて使います。

FUJIFILのX-Pro1は、概観が昔のLEICAのようなレンジ・ファインダー仕様だったので、LEICAが昔みたいに元気だったら、こんなデジカメを出しただろうな?と思って、2012年につい入手してしまいました。後で気がついたのですが、FUJIFILMはレンジ・ファインダーではなくて、レンジ・ファインダーのような外観に、電子ビュー・ファインダー仕様です。 さらに魅力をそそったのは、その後になって、LEICA Mマウント、FUJI Xマウントのマウント・アダプターが発売され、うれしくなって2012年6月に入手しました。なぜうれしいかとすれば、切削技術の優れた大手メーカーである、FUJIFILMが、他社であるライカのアダプターを出してくれるなどと言うことは、今までにありませんでしたから、うれしくなったわけです。 これで、LEICAの手持ちのレンズを、FUJIFILM X-Pro1に装着することができます。最初に購入したLEITZ(LEICAは以前はLEITZ社の製品ブランド名)のレンズは、レンズを引っ張り出す沈胴式と呼ばれる方式でした。エルマー50㎜ f2.8は、1978年にLEICAのM3と込みで入手した、ぼくの記念すべきLEITZ初ものレンズです。 LEITZ WETZLAR ELMAR 1:2.8/50 製造番号1932748(1962年製造)の沈胴式のレンズ(LEICA カタログ本・英国HOBE COLLECTION BOOK Leica Camera and Lens Pocket Book 1994による) 早速撮影してみました。FUJIFILMのX-Pro1は、イメージ・センサー(撮像素子)は、23.6×15.6mmのAPS-Cと呼ばれるサイズです。そこで、ライカの35mm用レンズを装着し使うと、焦点距離50mmは、1.5倍の75㎜になります。75㎜といえば、いわゆる標準レンズというよりも、ポートレートなどに使う、中望遠レンズになってしまいます。うまくLEITZを使いこなせるか不安でした。

FUJI X-Pro1の撮影メニュー設定3にあるマウントアダプター設定を75㎜に設定。

FUJI X-Pro1の撮影メニュー設定3にあるマウントアダプター設定を75㎜に設定。

Fuji X-Pro1のボディ右側にあるフォーカスの切り替えをマニュアルに変更する。

Fuji X-Pro1のボディ右側にあるフォーカスの切り替えをマニュアルに変更する。

 

 

 

 

 

 

 

 

  カメラ本体の右側に、オート・フォーカスの切り替えつまみがあります。マニュアル・フォーカスに切り替えます。ファインダー内に表れるマウント・アダプターのレンズ設定を変更します。 右はマウント・アダプター設定>レンズ6>焦点距離設定>焦点距離入力で、75㎜から85㎜に変更。

85mmに焦点距離を変更しました。

85mmに焦点距離を変更しました。

X-Pro1のボディ前面にあるフォーカス・モードは、マニュアルにし、メニュー画面から、マウント・アダプター設定は、75㎜、レンズなしレリーズをONにしていざ撮影です。ところが、どうもピントが甘いのです。 はじめ、オールド・レンズ独特のものかと思ったのですが、よくよくファインダーをみてみると、ピントが、後ろにくる(あとぴん というそうです)。そこで、試行錯誤の末、「マウント・アダプター設定」を、75㎜から85㎜に変更してみました。 この設定はこういう時にあるようでした。X-Pro1は、レンジ・ファインダーのようですが、実は、ファイダーは、液晶画面による電子ビュー・ファインダーなのです。かなり精度はいいのですが、純粋な光学ファインダーではなく、ましてやレンジファインダーではないのです。 ピントはどうしても甘くなる。そこで、マウント・アダプター設定がついていたのだと思いました。 X-Pro1 Leitz Elmar 50mmは、どうだったかというと、相性は、ピント合わせがかなりセンシブルであること。しかし、それを考慮すれば、写真は、ぼくのイメージするオールド・レンズのしっとり感や、コントラストのはっきりとしたいわゆる絵画的な描写が少しですが、実現できたように思います。

品川駅構内です。

品川駅構内です。列車表示の色が鮮やかだと思います。FUJI-Prp1 ISO400 1/28 f2.8写真をクリックすると拡大できます。

大井町の居酒屋看板

大井町の居酒 屋の看板 FUJI X-Pro1 ISO400 1/28秒 f2.8写真をクリックすると拡大できます。

  大井町居酒屋の夕景電灯の色がでています。 ▇ここまでの結論 FUJIFILM X-Pro1にLeitz Elmar50mm(35mm相当75mm)を装着して撮影すると、いままで、FUJIFILM純正では味わえなかったような、まろやかな写真になった。なんとなくピントがあまく写ること。これこそがオールドレンズのよさかもしれないのです。まだまだ、オールドレンズの深みにはまります。 つづきます。 ソナー・メンバーズ・クラブのHPはソナー・メンバーズ・クラブをクリックして下さい。    

60年代のポルトガルは・・・

2017 FEB 12 21:21:38 pm by 野村 和寿

堀田善衛の『スフィンクス』

スフィンクスオリジナル

毎日新聞社 初版1965年

読了。作者は、画家ゴヤを描いたスペインもので有名ですが、1963年に不思議な小説を書いていました。同年4月2日号から毎日新聞の『エコノミスト』誌で1年間連載された小説で、1965年に毎日新聞から単行本化され、1977年に集英社文庫に収録されました。なんと610ページにもなんなんとする大長編で、いまどきは、1冊で、こんなに分厚い文庫はなかなかありません。

集英社文庫1977年

集英社文庫1977年 カバー・イラストは朝倉摂(1922-2014舞台美術家・画家)が担当している。

ボクは、昔の小説を古書店で探してきて読むのが好きです。といいますのは特に、執筆当時の世相がかいまみられて、なかなか今では知ることが出来ないことに遭遇して一喜一憂しています。
『スフィンクス』というタイトルは、エジプトのアブ・シンベル神殿が、アウワンハイダムの建設によって、水中に沈むのを移設する寄付金を募る主人公・国連ユニセフの日本人職員菊池節子というのと、スフィンクスが、神殿をまもる守護神というところからきていて、ストーリー自体はヨーロッパ・ドイツ、スペイン、ポルトガル、スイスが舞台になっています。
小説のなかで、こんな一節をみつけました。「デザートはスイス・ドイツ風な料理とは違って美味なワッフルとそれにイタリー風な、エスプレッソと呼ばれるコォフィであった。」つまり、日本の読者にとって、エスプレッソはなんだか解説しないと分からない飲み物でした。そんな時代だったのです。

『スフィンクス』の書かれた1963年の少し前の時代背景はこんな感じです。1962年 スイスのローザンヌの対岸にあるフランスの街エヴィアンでフランスとアルジェリアの間で交渉が妥結し、同年7月、アルジェリアが正式に独立を果たしています。
また、小説に出てくるポルトガルについての記述に目が行きました。
「ポルトガルはいまなお1275万の植民地人口をもち、その植民地の面積は2090万平方キロにのぼっている。そうしてサラザール政権には、これを解放し独立させる気などはまったくなかった。しゃぶれるだけしゃぶり、反抗するものは徹底的に武力弾圧する。カイロでは、誰もがアルジェリアと今後の次はアンフォラだといっていたことも思い出されてくる」つまり1960年代は、まだ、ポルトガルは大航海時代から連綿と続いてきた大帝国だったのです。というより大帝国の名残といったほうが正確かもしれません。

ポルトガル 植民地

1410年から1999年までのポルトガルの海上帝国 赤はポルトガルが領有したことのある地域、ピンクは領有権を主張したことのある領域、水色は大公開時代に探索、交易、影響が及んだ地域  ウィキペディアより

ポルトガルのサラザール政権を、別途、調べてみると面白いことがわかりました。スペインの市民戦争にナチスの後押しを受けて、フランコ政権は、第2次世界大戦中も中立を宣言したために、戦後もなんと1975年まで独裁を続けたのは有名ですが、ポルトガルもこれとまったく同じ歩調をとっていました。サラザールの独裁体制はエスタド・ノヴォ(新国家体制)と言われ、1933年にドイツとイタリアから顧問を呼ビ国家防衛秘密警察(PIDE・ナチスのゲシュタポを模しています)を創設。サラザールの政敵を弾圧したほか、共産主義者、社会主義者、自由主義者、フリーメーソンも弾圧したのでした。

1936年1月にサラザールは首相、財相、外相、陸軍相、海軍相のポストを兼任し1939年にスペインのフランコ将軍率いる反乱軍に義勇軍を送ったりしています。フランコが勝利すると、スペインと友好不可侵条約を締結し、1940年ローマ教皇庁と政教協定(コンコルダート)を締結しました。ボクはポルトガルにおける全体主義とカトリックに裏打ちされていたと言うことを、恥ずかしながら初めてしりました。

サラザールの政治哲学はカトリックの教義に基づいており、経済政策もカトリックに影響を受けています。高等教育は重視されなかったために、現在でもポルトガルの識字率はヨーロッパ一低いといわれています。

 

サラザール

アントニオ・サラザール(1889−1970 1932−1968ポルトガル首相)写真:ウィキペディアより

そして、この小説の生まれた1960年は、「アフリカの年」と呼ばれたように、アフリカの国々が民族解放の名のもとに、いっせいに誕生しています。1961年にはアンゴラ独立戦争が、はじまり、同年、インドが、ポルトガル領、ゴア、ダマン、ディーウを武力侵攻、1962年にギニアピサウ独立戦争、1964年にモザンビーク独立戦争が起きていました。
サラザールは1968年まで首相でした。その後も、ポルトガル植民地帝国は続いたのですが、1974年のカーネーション革命で打倒されたのです。
ちなみにマカオが、中国に返還されたのは、1999年12月20日のこと。
それまでは、ロシャ・ヴィエラRocha Viera総督が統治していました。司法管轄区分も、リスボン地方裁判所管区支部だったとありました。

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カメラのおけいこ その③ OLYMPUSにシネレンズ

2017 FEB 7 6:06:51 am by 野村 和寿

OLYMPUS E-P1に、オールドレンズKodak25mm、アンジェニューを装着してみました。

OLUMPUS E-P1に、オールドレンズKodak CinEktar(シネエクター)25mm(写真右)、P.ANGENIUX(アンジェニュー)(写真左)を装着してみました。

 

0207FUJI

撮影例①FUJIFILM X-Pro1にレンズ・KODAK Cineエクター25㎜(35㎜相当37.5㎜)を装着した撮影しました。

OLYMPUS  E-P1とCマウント・シネ・オールドレンズと前回、FUJIFILM X-Pro1の「まん丸潜望鏡写真」に衝撃を受けたボクです。これって、普段使いで、受け容れられるのでしょうか? ボクにはとても難しいようにも思いました。しかしこの潜望鏡写真が好きな愛好者も存在するのです。 ミラーレス一眼カメラの草分けだった2009年発売のOLYMPUSのE-P1を持っています。冒頭の写真がOLYMPUS E-P1です。オールドレンズとのマッチングもいいのではないか?とボクは思いました。このカメラは、フォーサーズ(3/4)というイメージセンサー(撮像素子)サイズで、35㎜と比較しますと、焦点距離が2 倍になります。たとえば、しかし、今まで取り上げてきたCHINONの35㎜相当で7倍や、PENTAX Qの35㎜相当5.5倍に比べると、2倍というのは、うなずけそうな予感もします。ちなみに、FUJIFILM X-Pro1はイメージセンサー(撮像素子)が1.5倍でした。でも、まん丸にしか写りません。

▇Cマウントからフォーサーズ・マウントへのマウントアダプター HAWK’S FACTORY C5 C>>>M4/3を、ヨドバシカメラで入手しました。HAWK’S FACTORYは、台湾のメーカーです。Kodak Cine Ektar(シネエクター) 25mmは、35㎜相当で、焦点距離は50㎜、P.ANGENIEUX(アンジェニュー)17−68㎜ F2.2では、34ー136㎜になるはずです。 写真下は、OLYMPUS E-P1 KODAK Cineエクター25mm(35mm相当50㎜)の撮影例 藤の花です。

オリンパス

撮影例②OLYMPUSにオールドレンズKODAK Cineエクター25mm(35mm相当50㎜)を装着して撮影した藤の花です。写真をクリックすると拡大できます

 

  写真下は、 OLYMPUS E-P1 、オールドレンズP.ANGENIUX(アンジェニュー) 17-68mmの撮影例 藤の花です。アンジェニューは17㎜(35㎜相当34㎜)で撮影してみました。

OLYMPUS ANGENIUX

撮影例③OLYMPUS E-P1にオールドレンズP.ANGENIUX(アンジェニュー・フランス)を装着して17㎜(35㎜相当34㎜)で撮影した藤の花です。写真をクリックすると拡大できます。

  アンジェニューは多少周囲が、蹴られた感はあるものの、十分使えるレベルだと思いました。      

お

撮影例④OLYMPUS E-P1に純正レンズZUIKO17mm(35mm相当34㎜)を装着して撮影した藤の花です。ZUIKO純正はなかなかにいいです。写真をクリックすると拡大できます。

  ちなみに、OLYMPUS 純正 ZUIKO 17mm 1:2.8(35mm相当 34mm)けっこう、ZUIKOはがんばっている写真だと思いました。 久しぶりに、さすがに、日本の名ブランドのZUIKOのレンズだけのことはあります。 Cマウントのシネ・オールドレンズと、フォー・サーズのミラーレスカメラとの組み合わせは、よい組み合わせでした。たしかに、ミラーレスカメラ中、フォーサーズは、最も初期のモデルですが、意外にもいちばんよかったと思います。まさに灯台もと暗しの感ありでした。

ここまでの結論 Cマウントのシネ・オールドレンズを
デジタルカメラに取り付けるのは、よほど難しいことを覚悟しないといけない! ミラーレス・デジタルカメラに、Cマウントのオールドレンズを組み合わせる。 CHINON Bellami HD-1、PENTAX Q、FUJIFILM X-Pro1、OLYMPUS E-P1に、 それぞれのマウントアダプターを購入して、Cマウントのシネレンズを装着することをやってみました。 ボクが、やってみてわかったのは、オールドレンズの本来登場した頃には、予期もしなかったデジタルカメラの出現です。すぐに、取り付けられると思う方が、少し、考えが甘いということを思い知らされました。でも、カメラ雑誌にもどこにも、直接的に、注意事項は書いていません。こうしてやってみると、正直オールドレンズを使い切るというところまで、とても達していないなと思います。 オールドレンズの、今のレンズに忘れられたような、色や描写力に魅せられています。一方、デジタルカメラのボディは、フィルムの代わりに、デジタルに像を結ぶために、イメージセンサー(撮像素子)が大事になります。きわめてアナログである、「オールドレンズ」と、きわめてデジタルである「撮像素子の大きさ」とのマッチングに、どう折り合いを付けるか?という問題になるかと思います。デジタルカメラは各社によってまちまちのマウント(ボディとレンズを装着する部分の規格)が存在します。簡単にいえば、Nikonとキヤノンは、それぞれのマウントがあって、それぞれ逆のレンズをそのままでは装着できないのです。 元々16ミリシネカメラ用に作られたCマウントレンズを、CHINONのDマウント、PENTAXのQマウント、FUJIFILMのXマウント、OLYMPUSの3/4(フォーサーズ)の各マウントに装着しようとしました。

■結果は、Cマウント⇔CHINON・Dマウントは、(35㎜相当で)約7倍、Cマウント⇔Qマウントは、5.5倍、Cマウント⇔OLYMPUS3/4マウントは2倍、Cマウント⇔FUJIFILM Xマウントは1.5倍 ということになりました。 一方で、イメージセンサー(撮像素子)があまり、大きいと今度は、得られる写真が、まん丸くなってしまうことがわかりました。結果として、Cマウントのシネレンズを取り付けるときは、3/4のOLYMPUSに取り付けて使うのが妥当でした。 Kodak25㎜は、OLYMPUSでは(35㎜相当の焦点距離)50㎜P.ANGENIUX17-68㎜は、OLYMPUSでは34-136㎜で使えることが分かりました。 写真はともに、アンジェニューのズームを17㎜(35㎜相当34㎜)で撮影した井の頭線です。

あ

撮影例⑤OLYMPUS E-P1にオールドレンズP.ANGENIUXズーム17mm(35mm相当34㎜)に装着して撮影した井の頭線の線路です。写真をクリックすると拡大できます。

ただし、オールドレンズはハレーションにも弱く、補正機能をもっている現代レンズの方が、時として、よい場合もある。逆をいえば、オールドレンズの特徴であるコントラストの美しさを得るまでには、到底達しませんでした。 かようにオールドレンズをデジタルカメラに装着するのは、いうは易く、行うは難しでした。 しかしこれだけはいえます。現代のレンズのシャープな写りは、ピッカピカに写るのに対して、オールドレンズを使うと、まるで昔にもどったように写るのです。これは、ひとつの趣味の価値観ではないかな?とボクには思えるのです。さらにフォーサーズという規格はオールドレンズとよく合う感じがします。

0209 カメラのおけいこ3

ここまでのことをまとめてみました。

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カメラのおけいこ その② PENTAX,FUJIFILMにシネレンズ

2017 FEB 5 7:07:42 am by 野村 和寿

1130下北沢11

オールドレンズでとらえた下北沢の古着屋さんです。しっとりとした表情です。

オールドレンズを使いたい PENTAX Q+マウント・アダプター+Cマウント・シネレンズ
PENTAX QにもCineレンズを付けてみました!

ペンタックスQ

ペンタックスQ P.アンジェニューのシネレンズ・ズーム写真をクリックすると拡大できます。

同じくCマウントレンズPENTAX Qに装着してみようと思いました。PENTAX Qは2011年に入手した小型のかわいらしいカメラです。センサー(撮像素子)は、1/2.3型C MOS 約1240万画素です。マウント・アダプターは、日本のRayqual(レイ・クォール)から、レンズ側Cマウント、ボディ側Qマウントをヨドバシカメラで入手しました。。シネレンズ コダックCineEktar(シネエクター)とP.アンジェニューともにCマウントを、ペンタックスQマウントにすると、Qの撮像素子が、CMOS 1/2.3型で、Bellami HD-1の撮像素子よりも、ちょっと大きいのです。

0406コダック

Pentax QにKodak Cineエクターを装着したところです。

すると、35㎜換算では、5.5倍となり、KodakCineEktar(シネエクター)25mmは、35㎜換算では、137.5㎜P.アンジェニュー17〜68㎜は、93.5㎜から374㎜となります。(その後、PENTAX Qは、改良型第3世代ののQ7となり、センサー(撮像素子)が、1/2.3型から1/1.7型に大型になりました。これを35㎜換算にすると、4.6倍。Kodak CineEktar(シネエクター)25mmは、35㎜換算、115㎜となり、わずかに小さくなりました。) PENTAX  Qに、PENTAXの標準レンズ 5−15㎜(35㎜相当27.5㎜から82.5㎜)を取り付けてみました。

オリンパスのオリジナル

撮影例①ペンタックスQ 標準ズームレンズ(35㎜相当27.5㎜)で撮影しました。写真をクリックすると拡大できます。

STANDARD ZOOM標準 5mm撮影例①(35㎜相当27.5㎜)CHINONで見られた赤かぶりはなくなりましたが、色の濃いオールドレンズ独特の感じは、少しだけ出ていると思います。      

撮影例②

撮影例②ペンタックスQにアンジェニューを装着したところです。写真をクリックすると拡大できます。

  撮影例②P.アンジェニュー 17㎜(35㎜相当93.5㎜)これでも大分望遠レンズになってしまいます。        

撮影例③

撮影例③ペンタックスQにKODAKを装着したところです。写真をクリックすると拡大できます。

  撮影例③Kodak CineEktar(シネエクター)25㎜(35㎜相当137.5㎜)Kodak CineEktar(シネエクター)はなかなか色身が濃くていい感じに写っています。      

試し撮りの結果をみてみると P.アンジェニュー(フランス製)で撮影した写真は、一見、ぼーっとして、ピントがあまいようにみえるかもしれませんが、友人のプロ・カメラマン氏によると、写真にピントはきていて、1枚ベールがかかったように写っているのは、P.アンジェニューというオールドレンズの味なんだそうです。

そしてここまでの結論  PENTAX Qは、CHINON Bellmi HD-1よりは、焦点距離が、短くなったものの、それでも実用で普段使いするというレベルには、ちょっと難しいのではないかというのが中間的な結論です。Cマウントのオールドレンズは、取り付ける方のカメラ本体に、大きく影響されること。ここでは、オールドレンズとの相性は、PENTAX Q>CHINONということに、少なくともぼくの感じではなりました。

▇FUJIFILM+マウント・アダプター+Cマウント・シネレンズ

フジフイルム エクター

フジフイルムX-Pro1にKodak Cineエクター25mmとAngeniux(アンジェニュー)の17-68mmズームレンズです。

FUJIFILM ミラーレス・レンジファインダーカメラ X−Pro1に、Cマウントが取り付けられることを知りました。このカメラは形状がLeicaっぽくてぼくは気に入りました。ちなみに、イメージセンサーのサイズは、APS-Cと呼ばれるチノンBellamiHD-1やペンタックスQよりも、大型のデジタルイメージセンサーを装備しています。ボクの考えでは、イメージセンサーが大きいので当然、いい感じになると思ったのです。 マウント・アダプターを使うと、Cマウントのオールドレンズを、XマウントのFUJIFILM X-Pro1に使えるようになるのです。レンズ・アダプターはKIPON C-FXをヨドバシカメラで見つけました。日本製の金型で作られた中国メーカーの製品です。X-Pro1のセンサー(撮像素子)は、さらに大きくて、35㎜相当では、1.5倍なのです。 Kodak CineEktar(シネエクター)25mmは、35mm相当で、37.5mmP.アンジェニュー17-68mmでは、35mmで、25.5ー102㎜焦点距離は、だいぶ、許容範囲に近づきました。そこで、さっそく、試し撮りをしてみました。これが、また、別の問題に直面するとは・・・

撮影例④

撮影例④フジX-Pro1とコダックで撮るとなんと潜望鏡のような写真になりました。

左の写真はFUJIFILM X-Pro1 Kodak CineEktar(シネエクター)25mmで撮った写真です。最初見た写真に唖然としました。なんと、潜望鏡のようなまん丸い写真!画面で、もうおわかりのように、周囲が、丸く、蹴られてしまいます。調べてみると、これは、もともとのCマウントレンズが小さいために、センサー上すべてには、レンズ画像を結ばないのです。

フジXPRO1

撮影例⑤フジX-Pro1の純正レンズで撮った写真です。写真をクリックすると拡大できます。

ちなみに、FUJIの純正レンズFUJINON ASPHERICAL LENS SUPER EBC f=35mm 1;1.4で同じ藤の花を撮影しました。X-Pro1とのコンビネーションで、美事な藤の写真になっていました。そうすると、別に純正を使えばいいんじゃないの?そこで、レンズで、蹴られた部分を、あとで、カットして使うことになります。

X-PRO1 KODAK

撮影例⑥フジX-Pro1 Kodak Cineエクター25mmで撮影した写真です。写真をクリックすると拡大できます。

  左の写真は、例の潜望鏡の写真を後で、フォトショップを使って、トリミングした写真です。井の頭線の電車では、オールドレンズらしい、渋い味わいが少しですが出ていると思うのですがいかがでしょうか?

ここまでの結論 FUJIFILM X-Pro1 Kodak CineEktar(シネエクター)25mm 焦点距離は、だいぶ、普通状態に近い状態で、使えるのですが、周囲が蹴られたり、まん丸くなったり。これを百も承知で撮影しなければいけないということになります。

撮影例

撮影例⑦フジX-Pro1にアンジェニューで撮影してみました。けっこうしっとりと古い風景みたいな味がでてきました。

次にX-Pro1 アンジェニュー68㎜で撮影してみました。このズーム一番の望遠です。 井の頭線は、しっとりとした感じで、随分いい感じの色が出ています。トリミングしても、アンジェニューの柔らかな色は味わいがちょっとだけあるように思いました。なにか昔ながらの風景のように写りました。

  ■ここまでの結論 FUJIFILM X-Pro1はそのまま、純正のレンズでもよく写ります。さらに、Cマウントのオールドレンズ KodakやP.Angeniux(アンジェニュー)を取り付けることはできました。しかし「まん丸」なんです。このままではなかなか使えないので、トリミングが必要になります。たしかに味があるオールドレンズなんですが、これって実用になるんでしょうか? ぼくには、少なくとも、はなはだ、疑問です。

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カメラのおけいこ その① カメラをいじる

2017 FEB 4 8:08:56 am by 野村 和寿

カメラのおけいこ その①

1125ヘクトール1

オールドレンズでとらえた下北沢のおでんやさんの提灯です。

ボクのいつもの趣味は、カメラをいじることです。上の写真の温かな色、少しピントがゆるめの感じ、これは、オールドレンズをデジタルカメラに装着して撮影した例です。 iPhoneのカメラがあれば、たいていのことは撮影できてしまう昨今、なにもカメラに凝らなくてもよさそうなものです。しかしです。酔狂と思われるかもしれませんが、趣味で、カメラをたしなんでいる人々がけっこういるものです。レンズは、IT時代になる前は、まさにハイテク機器でした。古いレンズも現在のカメラに装着して使うことも可能なのです。イメージセンサーといって、光をデジタル・デバイスによってデジタル信号に変換できることが出来るようになり、デジタルカメラは、生まれました。フイルムのときは、フイルムを買う、撮影する、現像する、引き延ばしするといった一連の作業を誰もが体験していたのですが、デジタルカメラの場合には、その多くのプロセスが不要になり、デジタルカメラで撮影してしまえば、その場でも撮影した写真を確認することもできますし、パソコンに取り込めば、大きく画面に映し出すことも可能となり、ずいぶんと楽になりました。そこで、ぼくがやっていること、それは、フィルム時代を謳歌したレンズを引っ張り出してきて、現在のデジタルカメラに装着して、一風アクセントのある写真が撮れないか?という趣味なのです。 オールドレンズを使いたい その1目標 まずCマウントと呼ばれるシネレンズが流行中です。これは、昔、16㎜のムービー・キャメラがアメリカで人気だった1950年代に、人気だったレンズです。当時日本は、経済的にまだまだ余裕が生まれていなかったために、8㎜カメラはあったのですが、高嶺の花、ましてや、16㎜キャメラは、プロ用には使われていたものの、アマチュアで使っていた人は極めて少なかったのです。そこで、昨今のオールドレンズ・ブームになってから、16㎜に使っていたレンズCマウントが輸入されて、販売されるようになりました。 オールドレンズを、今のカメラに取り付けて味わいいっぱいの写真を撮りたい!って、いったい可能なのでしょうか?実際に、自腹で体験した、カメラ放浪記です。その1は、今のカメラ+レンズ・アダプター+Cマウントのオールドレンズレンズアダプターのこと レンズが交換できるカメラに、オールドレンズを取り付ける。しかし、オールドレンズは、今のカメラには、そのままでは取り付けられません。カメラと、レンズとの間に、「変換アダプター」を介して、取り付けることになります。しかし、実は、あんまり知られていないことがありました。オールドレンズが、元々の焦点距離が、イメージ・センサー(撮像素子)の違いによって、2倍とか1.5倍になっていることを。 ▇イメージセンサーのこと 光をフィルム上に結んだのが、フィルムカメラだとすると、光をデジタルに変換して記録するための素子がイメージセンサーとか撮像素子といわれる部品です。 35㎜フィルムカメラの写真1枚をフルサイズと称し、デジタルセンサーはデジタルカメラの規模により、大きさが異なってきます。簡単に言えば、より簡便なカメラには、小規模のイメージセンサーがつき、本格的なカメラには大きなイメージセンサーがついています。

イメージセンサー

イメージセンサーの大きさの比較をしてみました。

■CHINON Bellami HD-1 8㎜調の20年ぶりに長野の古くからのカメラメーカー「チノン」が出したデジタル・カメラです。中学生の頃、1960年代の日本橋・高島屋デパートで開催されていたカメラショーで、8㎜カメラはあこがれの存在で、もちろん、手が出るものではありませんでした。センサー(撮像素子)は、210万画素の1/3型MOS型イメージセンサーです。 今回の魅力は、8㎜調のデザインもいいのですが、一番の魅力は、なんといってもオールドレンズが使えるとアナウンスされていることでした。さっそく、ネットで「Bellami HD-1」を現物を見もしないで注文してしまいました。

0406チノン

チノンのBellami HD-1です。8ミリカメラのような形が気に入りました。写真をクリックすると拡大できます。

別売アクセサリーとして、用意されていたのは、Cマウント、M42マウントのアダプターです。やっとのことで、CマウントのシネレンズをCHINON Bellami HD-1に装着してみようと思いました。 それは、カメラのイメージセンサーが小さかったことでした。つまりこうです。カメラのイメージセンサーが、35㎜カメラの1/7倍つまりレンズを装着するとレンズの実際の焦点距離は35㎜のときと比べると、7倍になっていまうのです。つまり、Bellami HD-1は、8mmのDマウントであり、付属のレンズは、4mm f1.2でした。これで、35㎜フィルム相当で、28㎜なのです。確認のために、サポートセンターに問い合わせると、やはり、35㎜フィルム相当では、約7倍にするとのこと。 ▇オールドレンズをカメラに装着してみる おもしろいことに、今のカメラはレンズを交換できる仕組みのカメラが多くあります。もちろんカメラメーカーは交換レンズ群をたくさん出しているのですが、 ここで注目したいのは、昔でていたオールドレンズを、デジタルカメラで再度使用してみるというのが、趣味になっているのです。 たとえば、ここで取り上げるのはKodakの16㎜キャメラ用のレンズ25㎜です。Cine Ektor(シネ・エクター)、 これをマウントアダプターで、チノンBellamiHD-1に装着できるのです。

0126コダック アンジェニュー

写真左からレンズ アンジェニュー(フランス)、コダック(アメリカ)

ただし、留意したいのは、KodakのレンズCine Ektar(シネ・エクター)は、本来表示されている焦点距離25mmではなくて、35㎜相当の焦点距離は、チノンBellamiHD-1に装着した場合、175mmの望遠になります。もうひとつ取り上げたフランス製のズームレンズ・P.アンジェニューに至るとや、本来「17-68㎜」のところが、35㎜相当、「119㎜から476㎜」になってしまいます。 これでは、両方のレンズともに超望遠で使うということになります。

チノン 標準レンズ 焦点距離4㎜(Dマウント)で撮影例

撮影例①チノン 標準レンズ 焦点距離4㎜(Dマウント・36㎜相当だと28㎜)写真をクリックすると拡大できます。正直ずいぶんとぼけてしまいます。

自宅近くの目黒区立駒場野公園で、試し撮りをしてみました。まずCHINON Bellami HD-1に装着したのは、CHINON標準の4㎜(Dマウント、やはり相当にぼけています。 次に今回のCマウントのレンズ・コダックCineEktar(シネエクター)25㎜で試し撮りです。絞りは、全部f8 15時曇りの日に撮影。ご覧のように、CHINONとコダック(アメリカ)、P.アンジェニュー(フランス)ともに、色が淡くて、絵画的な描写です。今のデジタルカメラとはかなり違う印象です。しかし、かなり赤かぶりが出ています。なにかピンボケじゃないの?ぜんぜんシャープじゃないね。とおっしゃるかもしれません。

アンジェニュー

撮影例②アンジェニュー(フランス)17ー68㎜ズーム(35㎜相当119−476㎜)35㎜(119㎜)で遠くから撮影。写真をクリックすると拡大できます。

また、写真には、赤っぽく赤のかぶりが出ています。あとで調べてみるとレンズ内の乱反射が関係しているようなのです。 製造当時のレンズ・コーティングはかなり初歩的で、よくこんなことが起こるのです。むしろこの現象を楽しむ姿勢でないとやっていけないのです。そうです。最初にいいましたように、オールドレンズとは、今のレンズでは、むしろ味わえない、独特のピンボケを楽しむという不思議な趣味なのです。

0126チノン4

撮影例③Kodak 25mm(35mm換算175㎜)写真をクリックすると拡大できます。

  ばかみたいとお思いになるかもしれませんし、そのバカみたいが、とても味のあるワビサビにつながるのです。

0126CHINON5

撮影例④アンジェニュー68㎜ズーム(35㎜相当、476㎜)

  ■結論と課題 今回のチノン Bellami HD-1」に確かにオールドレンズを装着できましたが、望遠でしか使えませんでした。チノンのイメージセンサー(撮像素子)は1/3サイズでとてもサイズが小さいのが原因ともいえます。 確かにこうした試行錯誤もバカみたいなのかもしれません。でも、趣味とは誰も到達しない、そのバカみたいなところが好きともいえるのではないでしょうか? この2本のレンズのその後は?以下 続けさせてください。もしかすると、あなたもお好きになるかもしれないので。 ソナー・メンバーズ・クラブのHPはソナー・メンバーズ・クラブをクリックして下さい。  

ホルン信号とポストホルンは別 追加を発見!

2017 FEB 3 6:06:04 am by 野村 和寿

先日ブログに書いた「ホルン信号とポストホルンとは別?」 で、最近もう1つ、クラシック音楽に使われているポストホルン(郵便ラッパのころ 今のホルンではないです)を模した曲について、このたび、発見いたしましたので、改めてここにアップさせていただきます。ブログは追加がきくので、こういうときにブログは便利ですね。

今でもドイツでは、郵便局のマークは、ポストホルンが使われていますが、シューベルトの歌曲『冬の旅』にも郵便という曲が第13曲目にありました。

ドイツ郵便マーク

ドイツ郵便マーク

詳しくは『冬の旅』は、第1部と第2部に分かれていて全24曲からなる連作歌曲集なのですが、その第2部の冒頭の、第13曲目に「郵便」と題する2分半ほどの歌曲がありました。郵便馬車がひづめを鳴らしながら近づいてきて、郵便が到着したことを示すポストホルンの響きが最初に出てきます。主人公は、もしかして恋人からの文ではないかと一瞬いろめきたつという曲です。

「郵便馬車」シューベルト 『冬の旅』より第13曲

通りの方から郵便馬車のラッパが鳴り響く。どうしてそんなに高鳴るんだ

僕の心よ? あの郵便馬車はおまえに何の手紙も持ってこないぞ。

なのにどうしてそれほど変に急かすんだ

僕の心よ? そうだ、あの郵便馬車はあの街から来たんだ

僕が恋人を愛したあの街から。

僕の心よ? きっとあっちの方を見てあの街がどんな様子なのか尋ねたいんだろ

僕の心よ?

シューベルト作曲D.911『冬の旅』ヴィルヘルム・ミュラーの詩による連作歌曲集 第13曲郵便馬車より

最初の前奏の部分に、いかにも郵便馬車のポストホルンのラッパような節が出てきました。シューベルトも郵便馬車にお世話になっていたんですね。

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