Sonar Members Club No45

月別: 2017年4月

1949年のロンドンから東京へ飛行艇の旅

2017 APR 18 16:16:12 pm by 野村 和寿

BOAC(英国海外航空)1949年3月の時刻表から、ロンドンから遠く、ファー・イースト東京までの飛行機の旅を再現してみます。

boac timetable

BOAC(英国海外航空)1949年3月のタイムテーブル(時刻表)です。

ロンドンのBOAC(英国海外航空)の乗客ターミナルから、送迎車でサウサンプトンまで。サウサンプトンといえば、悲劇の客船タイタニック号の出発港として名高い港湾都市です。

就航時刻表

サザンプトン(ロンドン)・横浜(東京)間の就航時刻表です。タイムテーブルの23番目に見つけました。写真をクリックすると拡大できます。

港には、ショート社製の飛行艇サンドリンガム5型号が駐機中。1946年6月22日にデビューした「サンドリンガム号」は2層デッキの飛行艇。艇内は、プロムナードデッキ・ダイニング・カクテル・バーなどを備え、座席で22名、寝台で16名、を搭乗させることができます。

飛行艇

これが搭乗する飛行艇英国ショート社製サンドリンガム5型です。

boac map

BOACの海外ネットワーク図です。右隅にかろうじてTOKYOと記載があります。写真をクリックすると拡大できます。

1949年3月6日日曜日

●ロンドン・ターミナル発7:00(送迎車移動)

  • サウサンプトン(ロンドン)発11:00

    サウサンプトン

    出発港はサウサンプトン

 

 

 

 

 

 

 

 

▇第1経由地は、イタリアのシチリア島

イタリア・シチリア島アウグスタ着19:00

アウグスタ

イタリア・シチリア島の都市アウグスタ(現在)

アウグスタといえば、イオニア海に面した港湾都市で、英国第8軍モントゴメリー将軍によって1943年に連合軍が上陸した都市であります。

この日はアウグスタに宿をとります。

 

 

 

▇3月7日 2日目は、エジプト・アレクサンドリアへ向かいます。

アウグスタ発 午前9:00

アレクサンドリア

アレクサンドリアエジプト第2の都市(現在)

第2経由地は、エジプトのアレクサンドリア 午後15:15着です。

古代エジプトプトレマイオス朝の首都で蟻、エジプト第2の都市です。

ここでまた1泊 飛行艇は、海上のすれすれを飛行するため、昼間の飛行が原則でしかも長時間の飛行は、難しかったのです。

▇3月8日 3日めは、バーレーンヘ向かいます。

バーレーン

バーレーン(現在)

第3経由地は当時英国領バーレーンのバーレーン(現在はマナーマ)

アレクサンドリア発 午前7時

バーレーン着17:00 ここで1時間の休憩をとります。

 

 

 

▇第4経由地パキスタンのカラチヘ向かいます。

バーレーン発 午後18:00

カラチ

カラチ パキスタンの首都

パキスタンの首都カラチ着 日が変わって(3月9日)の日の午前1:45

ここで6:15の休憩 この日はさらに飛行します。

 

 

 

 

▇第5経由地は、インドのカルカッタです。

カラチ発 午前8:00

コルカタ

インドのカルカッタ(現在のコルカタ)(写真は現在)

インドのカルカッタ(現コルカタ)着 午後16:00

コルカタでやっと1泊できます。やれやれ。

 

 

 

▇3月10日 第6経由地は、ビルマのラングーン(現在のミャンマーのヤンゴン)です。コルカタ発 午前6:00

ヤンゴン

ビルマのラングーン(現在のミャンマーのヤンゴン)写真は現在

ビルマのラングーン着 午前11:00 ここで1時間休憩を取ります。

 

 

 

 

BOAC900便の航路図

BOAC900便の航路図を描いてみました。

▇第7経由地は、タイのバンコクです。

3月10日 ラングーン発 午後12:00

バンコク

タイのバンコク

 

第7経由地は、タイのバンコク着午後15:00

ここで1泊します。

 

 

 

 

 

▇3月11日 第8経由地は、香港です。

バンコク発 午前8:00

香港

英国領香港(現在の中国・香港)写真は現在

 

香港着 16:45ここで1泊します。

 

 

 

 

 

 

 

▇3月12日 第9経由地は、上海です。

香港発 午前10:00

上海

中国・上海(写真は現在)

上海着 午後15:00ここで1泊します。

 

 

 

 

 

 

▇3月13日 いよいよ東京(横浜)に向け出発します。

上海発 午前8:00

日本の岩国・到着時刻は午後17:00

横浜

横浜 写真は現在

ここでさらに1泊し

3月14日 岩国発午前7:30

横浜(東京)着10:30

 

時刻表にはどこにもないのですが、たぶん、到着時刻は現地時間のような気が致します。

やっと横浜港に到着しました。なにしろ飛行艇なので、羽田飛行場ではなくあくまでも、横浜港というところが面白いです。

旅程をみると、後年、南回りヨーロッパ行き航路東京=マニラ=バンコク=ラングーン=カルカッタ=ニューデリー=カラチ=バーレーン=カイロ=ローマ=ロンドン(1952年:英国海外航空、機材:デハビランド DH.106 コメットI、経由地:9箇所) とよく似ていたことがわかります。

▇まとめてみますと

3月6日日曜ロンドン・ササンプトン発

3月14日月曜東京(横浜)着

実質飛行時間 73時間45分

所要時間8泊9日 どうですか?素敵な旅をご堪能いただけましたでしょうか?

tokyo料金表1

東京発の運賃表左が片道、2番目が往復運賃、次がエクセス・バゲージ料金です。    写真をクリックすると拡大できます。

 

london料金表

こちらはロンドン発の運賃表 機内持ち込み荷物は24㌔までキロあたり5ポンドです。 写真をクリックすると拡大できます。

気になるお値段ですが、往復387ポンド、片道215ポンドとあり、1949年の円・ポンド換算が1ポンド1,080円でしたので、単純計算すると往復370,046円、片道216,720円となります。昭和24年と平成27年とで7.75倍になっているので、現在の貨幣価値ですと、おおよそ、往復2,86万7,856円 片道1,67万9,580円。 ちなみにBA(ブリティッシュ・エアウェイズ)の正規ファースト・クラス・ロンドン往復航空運賃が1,34万2,690円

所要時間12時間20分(ノンストップ)ですので、約2倍のファースト・クラス運賃と思ってよさそうです。

boac 22

これは当時のBOACのパンフレット(別の路線バーミューダ島路線)から乗り心地を想像できます。BOACは27年の実績からお客様に素晴らしいサービスをお約束いたします。 写真をクリックすると拡大できます。

内部レイアウト

英国ショート社製サンドリンガム5型機内の内部レイアウトです。艇内は、プロムナードデッキ・ダイニング・カクテル・バーなどを備え、座席で22名、寝台で16名を搭乗させることができます。写真をクリックすると拡大できます。

 

Courtesy of http://forum.keypublishing.com/showthread.php?79617-Need-a-Photo-of-Short-Sandringham-5-quot-Portland-quot

エアバスA380

飛行艇サンドリンガム5型は、内部キャビンの豪華さなど、エアバスA380型機と相通じるところがあると思います。

ちなみに、2015年 日本海上自衛隊の飛行艇US-2が、インドへ売却されることに決まりましたが、なぜ日本かといえば、現在飛行艇を生産している国は日本しかないからです。

Special thanks to:

The Collections of either Björn Larson or David zekria

“Airline Timetable Images”

http://www.timetableimages.com/ttimages/complete/complete.htm

 資料 『時刻表世界史』曽我誉旨生著 社会評論社2008年刊

写真・ウィキペディア・パブリック・ドメインより

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イタリア潜水艦カッペリーニ号の奮闘!数奇な運命!

2017 APR 17 18:18:04 pm by 野村 和寿

1943年5月11日イタリア王立海軍コマンダンテ・カッペリーニ号は、大西洋を一路、アフリカの喜望峰を回り、インド洋をへて、15000浬(27780㎞)を、日本海軍の基地シンガポールに向かい昼夜水上航行、潜水航行を繰り返しながら向かっていました。つづいて5月16日同レジナルド・ジュリアーニ号が、さらに、6月16日には同ルイージ・トレッリ号が、相次いでシンガポールを目指し、途中、サバン(現在のインドネシア領)にて、イタリア通報(海防)艦エリトレア号による補給を受け、8月1日から8月30日にかけて相次いでシンガポールに無事到着しました。

0422潜水艦進路

潜水艦進路です。イタリア王立海軍潜水艦コマンダンテ・カッペリーニ号の欧羅巴からアジアへの1943年の航跡です。クリックすると拡大できます。

欧羅巴発アジア到着の3隻の潜水艦を調べるうちに、これらの潜水艦、および上記通報艦は、ジュリアーニ号1隻を除いて、カッペリーニ号、トレッリ号そして、通報艦エリトレア号の3隻は、終戦1945年の終戦後まで生き延びた船舶だということがわかってきました。

カッペリーニ潜水艦

イタリア海軍潜水艦コマンダンテ・カッペリーニ号(1939−1946年) 赤字はイタリア・ラ・リグーリア州ラ・スペッツィア第一潜水艦隊第12小隊とあります。クリックすると拡大できます。

潜水艦ルイージ トレッリ

イタリア海軍潜水艦ルイージ・トレッリ号(1939−1946年)クリックすると拡大できます。

BETASOM

フランス・ヴィシー政権ボルドーにあった独・伊潜水艦基地BETASOM ここから出撃しました。

 

しかも、3隻の潜水艦は単に潜水艦が、欧羅巴からアジアを目指したのではなく、輸送任務潜水艦と呼ばれ、一切の兵装をはずして、ほぼ丸腰での決死的な行動なのでした。

エリトレア2_edited-1

イタリア海軍通報艦エレトレア号(1937−1966年)クリックすると拡大できます。

輸送任務潜水艦とは日本海軍伊号潜水艦のうち第四百一潜水艦をはじめ20隻を輸送任務に就いた。作戦用潜水艦を使って物資等を輸送する任務に当たらせることです。 任務の目的は補給 すき間というすき間に物資を積み込まなくてはならない 魚雷は取り除かれ、発射管さえ物資の保管場所として使われました。物資の積載量を増やすために甲板の砲も外され、潜水艦の攻撃能力をはぎとられました。

小塔 カッペリーニ

イタリア潜水艦カッペリーニ号の小塔部分です。クリックすると拡大できます。        

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3隻の潜水艦と1隻の通報艦の詳細は下記の通りです。

カッペリーニ

イタリア海軍 コマンダンテ・カッペリーニ号の艦歴です。伊降伏後独海軍UIT-24と改名し、さらに、独降伏後、日本海軍伊号第五百三潜水艦と改名しました。クリックすると拡大できます。

下の写真は、カペリーニ号が、独海軍UIT-24として、日本近海・瀬戸内海で活動していたころの写真です。艦橋には日本士官らしき人々がうつっています。日本の伊号潜水艦のように黒塗装ではなく、独Uボート色の灰色塗装です。これは、大西洋の海の色にあわせた色を踏襲しているといえます。1944年撮影。

マンダンテ・カッペリーニ

独潜水艦UIT-24時代の1944年に日本瀬戸内海で撮影されたものです。外装が灰色で塗装されているのはUボート色です。クリックすると拡大できます。

ルイージ・トレッリ

イタリア潜水艦ルイージ・トレッリ号の艦歴です。イタリア降伏後独海軍UIT25と改名し、さらに独降伏後、日本海軍伊号第五百四潜水艦と改名されました。クリックすると拡大できます。

ジュリアーニ

イタリア海軍潜水艦レジナルド・ジュリアーニ号は、シンガポールに到着後、独UIT23号となりましたが、英海軍に攻撃を受け沈没しました。クリックすると拡大できます。

エレトレア

伊通報艦エレトレア号はサバン沖で伊降伏の報を傍受し、英海軍基地に向かい武装解除。戦後、仏海軍に戦利品として譲渡されなんと1966年まで運用されたのです。仏海軍時代の写真です。クリックすると拡大できます。

まとめてみますと、伊海軍潜水艦コマンダンテ・カッペリーニ号、ルイージ・トレッリ号は、ボルドーからシンガポールの日本海軍基地へ、物資を運んだ直後に、伊が降伏し、独海軍UIT-24,UIT-25に改名、さらに、1945年5月に独が降伏すると、日本海軍伊号第五百三、第五百四号として活動したこと。

一方、伊通報艦エリトレア号は、シンガポールやサバンで、補給活動に従事後、伊降伏を聞き、英領コロンボで英国海軍に武装解除を受けた後、伊に回送され、戦後、戦時賠償艦として、仏海軍通報艦フランシス・ガルニエ号として、なんと1966年まで運用されたのです。

日本と独の年長老人どうしの冗談で、「今度やらかすときは、イタリア抜きでやらかしましょうや」というのがありました。つまり、日独伊のうちで、いち早く枢軸国側を離脱した伊を「腰抜け」として笑いの対象にしてしまうという、あまり趣味のよくない冗談でした。ぼくは、以前から伊は、本当に腰抜けだったんだろうか?という疑問を持ち続けておりました。

たとえば、サッカーのドイツ代表対イタリア代表でも、イタリアが優勢であり、現在両国のイタリアの対戦成績でも全34試合で15勝8敗11分でイタリアが優勢です。の成績を残しています。自動車のF1でも、フェラーリはコンストラクターズとして、エンジンメーカーとして1950年以来、224回を誇っています。勇気をもって立ち向かう姿はいずれも凜々しいです。

ほとんど丸腰で、欧羅巴からアジアへ15000浬を勇気をもって横断した伊海軍の潜水艦。不屈の闘志が見受けられます。しかも、潜水艦、通報艦ともに戦後まで生き抜くという意外ともいえる息の長さこそ、伊の魂ここにありということを感じてしまいました。

なお、イタリア海軍コマンダンテ・カッペリーニ号のカッペリーニとは、将軍の名前アルフレッド・カッペリーニ将軍alfred cappelliniからきており、夏の冷製パスタ カペッリーニcapelliniとは関係ありませんのであしからず。(苦笑)。

アルフレッド・カッペリーニ

アルフレッド・カッペリーニ(1828-1866年)は普墺戦争のときの普に与したイタリア海軍の将軍です。犠牲的制震で友軍を助けたとあります。

資料:『潜水艦戦争1939−1945 上巻・下巻』 レオンス・ペイヤール著長塚隆二訳 ハヤカワ文庫刊(1997年)『伊四〇〇型潜水艦最後の航跡 上巻・下巻』 ジョン・J・ヘーガン著 秋山勝訳 草思社刊(2015年)

ウィキペディア イタリア版 日本版

写真 ウィキペディア イタリア版 日本版

 

 

 

 

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『バトル・オブ・ロサンゼルス』を知っていますか?その②

2017 APR 4 21:21:01 pm by 野村 和寿

前回に引き続き、『バトル・オブ・ロサンゼルス』その②です。

米英戦争(1812−1814年)以来、2001年9.11の同時多発テロまで、アメリカ合衆国本土が、攻撃を受けたことは数えるほどしかありません。その唯一の例外が、日本海軍によるカリフォルニア攻撃でした。1942年2月23日に、伊号第十七潜水艦による、米国カリフォルニア州への砲撃が行われています。

さらに調べてみると、1942年9月9日、および9月29日、潜水艦に格納された零式小型戦闘機1機が、オレゴン州とカリフォルニア州を襲い、2発の焼夷弾を投下しました。この都合3度の攻撃こそ、ただ1度のアメリカ本土攻撃でした。ハワイ真珠湾の陰に隠れてあまり知られていない、アメリカ本土攻撃について興味をもちました。

伊十七潜水艦による米本土砲撃を図示してみました。

エルウッド製油所を砲撃した伊号第十七潜水艦

 

エルウッド製油所の攻撃前、1928年撮影された資料写真です。

この絵は、AMERICAN OIL&GAS HISTORICAL SOCIETYのホームページ

Japanese Sub attacks Oilfieldで読むことが出来ました。

1942年9月9日(水曜)午前4時 今度は日本海軍伊号第二十五潜水艦(第十七とは別の艦に搭載されていた、零式小型水上偵察機が、米国西海岸カリフォルニア州からオレゴン州にかけて93㎞の内陸部ブルッキングズ市街の森林地帯 ウィラーリッジ上空に焼夷弾(合計155㎏)攻撃をして、焼夷弾2発を投下し2発ともに爆発しました。これにより小規模の火災が起きましたが、当地は、珍しく前夜から振っていた雨のため森林が湿っていたためにすぐに鎮火されてしまいました。さらに、同潜水艦は、1942年9月29日 ケープ・ブランコ沖合93kmから オレゴン州に2回目の焼夷弾攻撃を行いました。ケープ・ブランコ沖合93㎞から発進した零式小型水上偵察機は、内陸部に30分飛行し、オーフォード近郊の森林地帯に向かって 焼夷弾を2発投下しましたが、残念ながら、幸か不幸か米陸軍に発見されることはありませんでした。

 

焼夷弾攻撃を行った戦闘機は、零式小型水上偵察機です。(写真ウィキペディアより引用)

 

伊第二十五潜水艦から発艦した零式小型水蒸気による米本土攻撃を図示してみました。

 

米本土攻撃2

1942年9月29日日本海軍航空機による米本土攻撃2回目

 

 

まとめてみますと、

日本海軍による本土攻撃2

日本海軍による米本土攻撃をまとめてみました。攻撃は、日本の1942年9月17日付けの朝日新聞にも紹介されています。

 

 

朝日新聞1942年9月17日付け記事(クリックすると拡大して読むことが出来ます)

朝日新聞1942年記事2

朝日新聞1942年9月17日付け記事その2(クリックすると拡大して読むことが出来ます)

確かに、日本海軍による1942年の3度にわたる米本土攻撃は、今に成って思えば、限定的にとどまるといわなければなりません。しかし、米西海岸一帯を不安定な状態に陥れる。米海軍は貴重な戦力を西海岸の警備に割くことになりました。

ところで、『1941』(1979年アメリカ)という映画をご存じでしょうか?スティーブン・スピルバーグ総指揮・ロバート・ゼメキス監督、ジョン・ベルーシ、ダン・エイクロイド、クリトスファー・リー出演です。スピルバーグ唯一の大こけ作品ですが、今でもカルト的人気をもっている映画でもあります。なかで、ハリウッド攻撃のために派遣された日本海軍の潜水艦が、羅針盤を壊してしまうという喜劇ですが、艦長を堂々と演じているのが、日本が誇る三船敏郎でした。その三船は、このドタバタ作品の中で、一度も笑うことがなく、まじめに艦長を演じています。登場しているシーンも入っている一部の映像を貼り付けておきます。なぜ、この『1941』が失敗作に終わったかという一因に、ロサンゼルス攻撃つまり『バトル/オブ・ロサンゼルス』が、映画公開が、この事件から37年後に至るも、アメリカ人にとって、あまりにもなまなましい記憶であり続け、とても笑いの対象ではなりえなかったというのがありました。一度も笑っていない三船敏郎をご覧ください。

参考文献 伊四〇〇型潜水艦 最後の航跡 上巻・下巻 ジョン・J・ケーガン 秋山勝訳 草思社 2015年刊

参考ホームページ 「アメリカン オイル&ガス ヒストリカル・ソサエティ」アメリカ 史学協会 写真 ウィキペディアより引用

*なお米国西海岸への日本海軍の攻撃は、1942年から46年まで実施された日系人収容の口実ともなりました。1988年レーガン大統領は、日系アメリカ人保障法に署名し、1992年ジョージ・ブッシュ大統領は国を代表して謝罪、1999年までかかって賠償金が支払われました。

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『バトル・オブ・ロサンゼルス』を知っていますか?その①

2017 APR 4 20:20:26 pm by 野村 和寿

みなさんは「バトル・オブ・ロサンゼルス(ロサンゼルスの戦い)」という言葉をご存じでしょうか?1940〜41年に戦われた英国本土上陸作戦を前提として、戦われた「バトル・オブ・ブリテン」(英国空軍とドイツ空軍間による戦い)と呼ぶのは聞いたことがあるけれど、「バトル・オブ・ロサンゼルス」なんで聞いたことがないと思われるかもしれません。ロサンゼルス上空を日本軍の戦闘機が来襲したとすることを、「バトル・オブ・ロサンゼルス」と呼びます。

しかし実際のところ、「バトル・オブ・ロサンゼルス」は起こりませんでした。

結論的にいえば、単なる噂によるパニックでした。パニックを引き起こしたのは、ロサンゼルス・タイムスの新聞の号外記事でした。1942年2月25のことです。

ロサンゼルスタイムス号外1942年2月25日21時最終版

 

 

 

 

 

左写真が、ロサンゼルスタイムズの1942年2月25日21時最終版の現物です。翻訳してみました。下記の通りになります。

 

 

 

 

 

抄訳ですが紙面から読み取れる文字を追ってみました。下記の通りになります。

ロサンゼルスタイムズ1942年記事

 

 

 

「バトル・オブ・ロサンゼルス」をまとめると下記のようになります。

バトル・オブ・ロサンゼルス

バトル・オブ・ロサンゼルス(虚情報)をまとめてみました。

ところが、こんな記事も見つけることが出来ました。ロサンゼルスタイムズよりさらに、もっと地域の地方紙であるサンタ・バーバラ・ニュース・プレスの新聞記事です。1942年2月、詳細の発行日は不明です。

サンタ・バーバラ・ニュース・プレスを初めとする本記事は、AMERICAN OIL&GAS HISTORICAL SOCIETYのホームページ

Japanese Sub attacks Oilfieldで読むことが出来ました。

サンタ・バーバラ・ニュース・プレス1942年2月 発行日詳細不明

 

翻訳してみますと下記の通りになりました。この記事が本当だとすると、1942年2月23日(つまりロサンゼルスタイムズの記事に先立つこと2日前)に、日本海軍イ号第十七潜水艦が、石油貯蔵所を攻撃したとあります。

サンタ・バーバラ・ニュースプレスの新聞記事(本ブログで翻訳)

今回はここまでです。この話は、その2につづきます。

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