カメラのおけいこ⑧ライカのVisoflex
2017 JUN 13 7:07:14 am by 野村 和寿
今回ご紹介するレンズは、ライカのなかでも、異色中の異色、Visoflex(ヴィゾフレックス 通称ヴィゾ)という一種のミラーボックス・システムです。今から50年前1960年代を中心に1950年から1970年まで、Leicaを出していたLeitz社は、日本の一眼レフ攻勢で、正直なところ、苦境に立たされていました。ライカの製造するM3を中心とするレンジファインダーカメラは、ファインダー部とレンズ部分が、別々にあるために、大きな難点をもっていたのです。
まず近接撮影、接写ができないということです。一番近くに寄れても70㎝まで。また望遠が難しいこと。望遠にすると、ファインダー内の望遠表示がとても小さくなってしまって、とても使い物にならなくなりました。一方、ニコンやキヤノンを中心とする日本勢の一眼レフカメラは、「スルー・ザ・レンズ」という考え方で、レンズを覗くファインダーで実際に撮影しようとするものの大きさを見ることが出来ました。また接写にも強く、望遠にも撮影しようとする対象物に、大きく寄ることが出来ましたから、報道関係、スポーツ関係ともにプロカメラマンは、こぞって日本製カメラに移行するのが早かったのです。このライカが苦境に立たされていた時期に、ライカが考えたシステムが、Visoflexという名前のシステムです。おおまかにいえば、ファインダーの前に大がかりな一眼レフのペンタプリズムを装着して、無理矢理にレンジ・ファインダーのLeicaを一眼レフ仕様へと変えてしまおうという考え方でした。
Leicaのすごいところは、Leicaはあくまでも、レンジファインダー・カメラ。付属物のVisoflexはあくまでも補足製品であり、別シリーズではないということです。この一環したところがすごいです。
そこで、登場させたレンズが、エルマー65㎜、90㎜、125㎜、200㎜でした。65㎜は50㎜標準レンズ50㎜からしますと、すこし焦点距離が長いのですが、これはあくまでも接写用に考えられたものでした。90㎜と125㎜は、M型マウントでライカのM型のカメラにも装着でき、Visoflexとの共用、200㎜は、Viso専用というように色分けがされていました。90㎜と125㎜をM型にもVisoにもどちらにも使用できるという考えもいかにもLeicaらしいと思います。
Visoflexが思わぬ復活をみせるときがきました。Visoを使わなくても、マウンド・アダプターをレンズとカメラとの間にかませることで、Visoレンズを使用できることになったのです。下は、ソニーのミラーレスカメラα7Ⅱですが、Viso→ライカR→ライカM→ソニーEと変換アダプターを駆使することで、ソニーに装着できました。
さらに、面白いのは、VisoflexIは、レンズとカメラのフィルム(今ですとデジタル素子部分)面までの距離のことを、フランジバックと呼ぶのですが、これがVisoの場合、ずいぶんと深い(長い)ために、現在の一眼レフ たとえば、ニコンの現行機種であるD-810にも、変換アダプターを介して装着できるのでした。この場合はとてもシンプルで、VISO→変換アダプター→ニコンと1つのアダプターで取り付け可能です。
Visoflexにはさらに面白いことに、Leitzの望遠レンズエルマー135mmと90㎜が、ある筒のようなものを介して、Visoとしてつなげるのでした。つまり、Visoflex側のピントを合わせる部分(ヘリコイド)は、エルマー65㎜のものを流用しつつ、90㎜レンズの頭部をねじ式にまわして、とりつけ、また、135㎜の場合は、筒を介して取り付けられるのでした。まわりくどいのですが、このまわりくどさが、なかなかマニア心を惹きつけるのです。
まとめますとこうなります。
1,1960年代日本製の一眼レフ攻勢に後れを取ったLeica(Leitz)は、自社のM型レンジファインダーに、ペンタ部分を取り付けて一眼仕様とした。わけても近接接写と望遠というデメリットを、このVisoflexを装着することで、補うような試みだった。
2,ビゾフレックスと呼ばれた本システムには、それぞれにコードネームファインダー部には16499+16479=16498などと)がふられていた。またユニバーサル・フォーカシングマウント(コードネーム16464)を使用し、ときには延長チューブ(コードネーム16471 OTRPO)を使用することにより、レンズをVISO上で共通使用するという、ドイツ人らしい、質実剛健と合理精神の考え方を取り入れた画期的なシステムだった。
3,50年の年月を経た今日、再びVisoに活躍の場が現れた。ミラーレスカメラにマウントアダプターを介してVisoを取り付けることが出来るようになり、
5,また構造上、なかなかオールドレンズを装着しにくい一眼レフカメラにさえも、Visoは装着可能となった。
しかし、こうしたLeica(Leitz)の努力も、Viso3代に亘り続いた物の、一眼レフの攻勢にはとうとう勝てず、Leicaも一眼レフ(R LEICA REFLEX SYSTEMS)シリーズを誕生させることとなりました。
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インペリアル航空第109便その2
2017 JUN 4 15:15:16 pm by 野村 和寿
本の題名 インペリアル航空第109便とは実際にあった飛行機会社なのでしょうか?これをつきとめるのが、今回です。
インペリアル航空は確かに実在していました。インペリアル航空とは1924年から1939年まで実際に存在した英国の航空会社です。その後第2次世界大戦に突入したため、ブリティッシュエアウェイズ(今のとは異なります)と合併して、英国海外航空(BOAC)となり、さらに、1974年にBA(英国航空)となりました。ショート社のエンパイア、戦後には改造型の諸ショート・サザーランドといった飛行艇を擁していました。
実際にインペリアル航空の運行表をみてみます。
実際の費用は、インペリアル航空の航空運賃をみてみますと、ダーバン(南アフリカ)ロンドン(ササンプトン)間が、往復で225ポンド。
ちなみにインペリアル航空の時代設定である1930年代の貨幣価値は1ポンドが、当時の日本円で17円くらいでした。日本円に換算すると3,842円
なんと510万7393円! すごいお値段です。
現在の英国航空のロンドン・南アフリカ ダーバン便を検索してみます
ヨハネスブルク(南アフリカ)19:20発 ロンドン・ヒースロー着05:30着(いずれも現地時間 所要時間21時間40分 ファーストクラス77万6,700円)
1930年代はやはり飛行艇は10数名しか乗客が登場できず随分と割高だったのがわかります。
■飛行艇は英語ですと、Flying boat になります。Air shipですと飛行船です。船から航空機へ。確かに現在でも航空機の機長はみずからの機をシップと呼び、また自らをキャプテンと呼ばせています。この呼称も船の名残なのだと思います。
■インペリアル航空の運航時刻表をみましょう。不思議なことに、エジプトにはルクソール、カイロ、アレクサンドリアとなんども着水します。最初、これは何だろうと思っていたのですが、どうも観光旅行の一助だと推察します。つまりルクソールのファラオやピラミッドの上空を旋回し、乗客に観光してもらおうという計らいらしいのです。
また、着水場所を調べていくと、湖沼や河、港湾の最奥部のことが多く、なるだけ波静かな海を着水地点に選んでいたこともわかってきました。
南アフリカのダーバンを10:00発
1日め*ダーバン(南アフリカ)発10:00
*ロレンソ・マルケス(旧ポルトガル領モザンビーク現モザンビーク共和国)
着13:00 現在の名称はマプト モザンビークの首都 マプト湾テンベ河口
*べイラ(同)その日の午後着 時間未定 ベイラ1泊
ベイラはモザンビーク湾をのぞむモザンビーク第2の港湾都市
2日め*ベイラ発 06:00
*モザンビーク着10:40
*タンガニーカ・リンディ(旧英国領 タンガニーカ共和国をへて現在タンザニア連合共和国)着14:26タンザニア南部にリンディ湾億に位置する。
*タンガニーカ・タルエスサラーム(同)その日の午後着 時間未定 タラエスラム1泊 インド洋に面した都市 タンザニアの元首都(現在の首都はドドマ)
*なおタンザニア人は、第2次世界大戦では、イギリス軍ニ87000人が出征し、インパール作戦で、イギリス軍の一員として日本軍と戦ったことはあまり知られていません。
3日め*タンガニーカ・タルエスサラーム発08:00
*モンバサ(旧英国領 ケニア)着10:00モンバサはケニア海岸州モンバサ島の都市
*キスム(ケニア)着 その日の午後着 時間未定 キスム1泊キスムはビクトリア湖カビロンド湾奥部
4日め*キスム(ケニア)発07:00
*カンパラ・ポートベル(旧英国領 現・ウガンダ)着7:45
カンバラ・ポートベルはビクトリア湖北岸
*マラカル(英埃=エジプト領スーダン 現・南スーダン)着13:25 マラカルは、スーダン上ナイル地方東部ナイル州
*ハルツーム(スーダン)その日の午後着 時間未定 ハルツーム1泊 ハルツームはウガンダから流れる白ナイル、エチオピアから流れる青ナイルの合流地点の南岸
5日め*ハルツーム(スーダン)発07:00
*ワディハルファ(スーダン)7:45
*ルクソール(エジプト)着14:05 ルクソールはナイル西岸古代エジプトの都テーベがあった所。
*カイロ(エジプト)着16:55 ナイル川下流河岸の交通の要衝
*アレクサンドリア着 夜着 アレクサンドリア1泊 ナイル川デルタの北西部
6日め*アレクサンドリア(エジプト)発05:45
*アテネ(ギリシャ)着11:05
*ブリンディジ(イタリア)13:30 イタリア半島の靴のかかとに位置するプーリア州 19世紀スエズ運河開通以降、アジア、アフリカとヨーロッパとを結ぶ欧亜航路などの発着地の一つ 森鴎外「舞姫」の冒頭に登場します。
*ローマ(ブラチアーノ湖・イタリア)その日の午後着 時間未定 ローマ1泊
7日め*ローマ(イタリア)発8:15
*マルセイユ(フランス)着10:50
*サン・ナゼール(フランス)その日の午後着 時間未定 サン・ナゼール1泊 仏大西洋岸ロワール川三角州の右岸に位置する。
8日め*サン・ナゼール(フランス)発09:00
*ササンプトン(イギリス)着11:00
*ロンドン・ウォータールー駅 午後着 8日めにしてやっとロンドンに到着しました。おつかれさまでした。
そしてとうとうYou tubeで飛行艇の内部、サービス風景、飛行風景の動画を発見しました。BBCのHig Fryers How Britain Took to the Airという映像です。全部で58:11ですが、なかでも42:57前後からインペリアル航空のサウサンプトン発南アフリカ行きの映像が登場します。お楽しみにごらんください。
これも、BBCが制作したThe Last African Flyinfboat full documentary という1980年ごろのドキュメンタリーです。全部で1時間13分の長編ですが、最後にのこったエジプト・アレクサンドリアに残った飛行艇で飛行してみるという内容ですが、冒頭の4分までは、1930年代のインペリアル航空の実際の機内サービスが動画で捉えられています。飛行艇の内部が観られるなんてまさに夢のような瞬間でした。
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