Sonar Members Club No45

月別: 2017年6月

カメラのおけいこ⑧ライカのVisoflex

2017 JUN 13 7:07:14 am by 野村 和寿

こちらはデジタルカメラLeica M9に Visoflex ELMAR65mm(正式にはビゾフレックスⅢ型ペンタ部分のコードネームは16499+16479=16498、レンズはエルマーM65㎜f3.5+ヘリコイド(ピント合わせ部分)ユニバーサルフォーカシング・マウント16464と呼ばれ、ドイツらしくきちんと名前がついています)を装着したところです。ファインダーはペンタ部分からのぞき、シャッターは釘のように突き出ているメカニカルな部分を押します。長いアームを押し下げていきますと、ミラー部分が上昇し、さらに織り込むと、カメラのシャッターボタンを押して撮影することができるという仕組みです。なかなかにローテクです。写真をクリックすると拡大することができます。

今回ご紹介するレンズは、ライカのなかでも、異色中の異色、Visoflex(ヴィゾフレックス 通称ヴィゾ)という一種のミラーボックス・システムです。今から50年前1960年代を中心に1950年から1970年まで、Leicaを出していたLeitz社は、日本の一眼レフ攻勢で、正直なところ、苦境に立たされていました。ライカの製造するM3を中心とするレンジファインダーカメラは、ファインダー部とレンズ部分が、別々にあるために、大きな難点をもっていたのです。

シャクヤク

Leitz Viso Elmar65mmを使って、自宅でシャクヤクの花を接写してみました。ずいぶんと接近して撮影することができます。暗部でISO2400で撮影してみました。写真をクリックすると拡大することができます。

まず近接撮影、接写ができないということです。一番近くに寄れても70㎝まで。また望遠が難しいこと。望遠にすると、ファインダー内の望遠表示がとても小さくなってしまって、とても使い物にならなくなりました。一方、ニコンやキヤノンを中心とする日本勢の一眼レフカメラは、「スルー・ザ・レンズ」という考え方で、レンズを覗くファインダーで実際に撮影しようとするものの大きさを見ることが出来ました。また接写にも強く、望遠にも撮影しようとする対象物に、大きく寄ることが出来ましたから、報道関係、スポーツ関係ともにプロカメラマンは、こぞって日本製カメラに移行するのが早かったのです。このライカが苦境に立たされていた時期に、ライカが考えたシステムが、Visoflexという名前のシステムです。おおまかにいえば、ファインダーの前に大がかりな一眼レフのペンタプリズムを装着して、無理矢理にレンジ・ファインダーのLeicaを一眼レフ仕様へと変えてしまおうという考え方でした。

Leicaのすごいところは、Leicaはあくまでも、レンジファインダー・カメラ。付属物のVisoflexはあくまでも補足製品であり、別シリーズではないということです。この一環したところがすごいです。

TELYT200mm

LEITZではVISO用望遠レンズも発売されました。これは、LEITZ TERYT(テリート) 200mmをLEICA M9にVisoflexを介して装着したところです。LEITZでは1960年代、VISO用望遠レンズも発売されていました。これは、LEITZ TERYT200mmをLEICAのデジタルカメラ M9にVisoflexを介して装着したところです。写真をクリックすると拡大することができます。

そこで、登場させたレンズが、エルマー65㎜、90㎜、125㎜、200㎜でした。65㎜は50㎜標準レンズ50㎜からしますと、すこし焦点距離が長いのですが、これはあくまでも接写用に考えられたものでした。90㎜と125㎜は、M型マウントでライカのM型のカメラにも装着でき、Visoflexとの共用、200㎜は、Viso専用というように色分けがされていました。90㎜と125㎜をM型にもVisoにもどちらにも使用できるという考えもいかにもLeicaらしいと思います。

氷川丸を200㎜で撮影

横浜・山下埠頭にて氷川丸を撮影。LEITZ CANADA TERYT200mmf4写真をクリックすると拡大することができます。

VISO FLEXのペンタ部分

Visoflexのレンズを取り去ると、奥にミラーがあり、ミラーに反射した画像を上部のスクリーンに投影します。このミラーがはねてレンズが撮像素子に光を通すことになります。写真をクリックすると拡大することができます。

Visoflexが思わぬ復活をみせるときがきました。Visoを使わなくても、マウンド・アダプターをレンズとカメラとの間にかませることで、Visoレンズを使用できることになったのです。下は、ソニーのミラーレスカメラα7Ⅱですが、Viso→ライカR→ライカM→ソニーEと変換アダプターを駆使することで、ソニーに装着できました。

sony elmar65mm

SONY α7Ⅱに変換アダプターを駆使。M→R、R→M M→ソニーでLEITZ Visoflex ELMAR65mmを装着したところです。ライカとは似ても似つかぬ姿になってしまいました。写真をクリックすると拡大することができます。

さらに、面白いのは、VisoflexIは、レンズとカメラのフィルム(今ですとデジタル素子部分)面までの距離のことを、フランジバックと呼ぶのですが、これがVisoの場合、ずいぶんと深い(長い)ために、現在の一眼レフ たとえば、ニコンの現行機種であるD-810にも、変換アダプターを介して装着できるのでした。この場合はとてもシンプルで、VISO→変換アダプター→ニコンと1つのアダプターで取り付け可能です。

Visoflexにはさらに面白いことに、Leitzの望遠レンズエルマー135mmと90㎜が、ある筒のようなものを介して、Visoとしてつなげるのでした。つまり、Visoflex側のピントを合わせる部分(ヘリコイド)は、エルマー65㎜のものを流用しつつ、90㎜レンズの頭部をねじ式にまわして、とりつけ、また、135㎜の場合は、筒を介して取り付けられるのでした。まわりくどいのですが、このまわりくどさが、なかなかマニア心を惹きつけるのです。

nikon D-810 LEITZ LENS

Nikonの現行一眼レフである D-810に変換アダプターを介してLEITZのVisoヘリコイド(ピント合わせ)手前は右からLEITZ CANADA ELMAR65mmf3.5,Hector135mmf4.5(レンズ部分を使って延長チューブ16471OTRPOを取り付けたところ)。Visoの特徴である、ヘリコイド(ピント合わせ)の兼用という考え方(これをユニバーサル・フォーカシングマウントと呼びます)は、質実剛健なドイツ人(つまりは、なかなかけち)にあって合理的だったのでしょう。このような倹約精神を発揮したLeicaはその後は現れていません。写真をクリックすると拡大することができます。

 

まとめますとこうなります。

1,1960年代日本製の一眼レフ攻勢に後れを取ったLeica(Leitz)は、自社のM型レンジファインダーに、ペンタ部分を取り付けて一眼仕様とした。わけても近接接写と望遠というデメリットを、このVisoflexを装着することで、補うような試みだった。

2,ビゾフレックスと呼ばれた本システムには、それぞれにコードネームファインダー部には16499+16479=16498などと)がふられていた。またユニバーサル・フォーカシングマウント(コードネーム16464)を使用し、ときには延長チューブ(コードネーム16471 OTRPO)を使用することにより、レンズをVISO上で共通使用するという、ドイツ人らしい、質実剛健と合理精神の考え方を取り入れた画期的なシステムだった。

3,50年の年月を経た今日、再びVisoに活躍の場が現れた。ミラーレスカメラにマウントアダプターを介してVisoを取り付けることが出来るようになり、

5,また構造上、なかなかオールドレンズを装着しにくい一眼レフカメラにさえも、Visoは装着可能となった。

しかし、こうしたLeica(Leitz)の努力も、Viso3代に亘り続いた物の、一眼レフの攻勢にはとうとう勝てず、Leicaも一眼レフ(R LEICA REFLEX SYSTEMS)シリーズを誕生させることとなりました。

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インペリアル航空第109便その2

2017 JUN 4 15:15:16 pm by 野村 和寿

本の題名 インペリアル航空第109便とは実際にあった飛行機会社なのでしょうか?これをつきとめるのが、今回です。

インペリアル航空パンフレット

これが1937年版インペリアル航空イギリス南アフリカ便のパンフレットです。Special thanks to HP  airline timetable

エンパイア

インペリアル航空が実際に運航に使用していたショート・エンパイア飛行艇です。

インペリアル航空は確かに実在していました。インペリアル航空とは1924年から1939年まで実際に存在した英国の航空会社です。その後第2次世界大戦に突入したため、ブリティッシュエアウェイズ(今のとは異なります)と合併して、英国海外航空(BOAC)となり、さらに、1974年にBA(英国航空)となりました。ショート社のエンパイア、戦後には改造型の諸ショート・サザーランドといった飛行艇を擁していました。

インペリアル航空の運航図です。クリックすると拡大できます。この世界図では、イギリス・ササンプトンから南アフリカ・ヨハネスブルクに地図が伸びています。またアジアは、シンガポール、オセアニア・オーストラリアにまで便がのびていることがわかりますが、日本は当時まったくの蚊帳の外なのがわかります。

実際にインペリアル航空の運行表をみてみます。

インペリアル航空運航図

インペリアル航空イギリス・サウサンプトン・南アフリカダーバン間の経由図です。Special thanks to HP  airline timetable

インペリアル航空料金表

インペリアル航空の運賃表です。ロンドンから11番目のDurbanをごらんください。225ポンドとあります。これは往復の運賃です。Special thanks to HP  airline timetable

実際の費用は、インペリアル航空の航空運賃をみてみますと、ダーバン(南アフリカ)ロンドン(ササンプトン)間が、往復で225ポンド。

ちなみにインペリアル航空の時代設定である1930年代の貨幣価値は1ポンドが、当時の日本円で17円くらいでした。日本円に換算すると3,842円

なんと510万7393円! すごいお値段です。

現在の英国航空のロンドン・南アフリカ ダーバン便を検索してみます

ヨハネスブルク(南アフリカ)19:20発 ロンドン・ヒースロー着05:30着(いずれも現地時間 所要時間21時間40分 ファーストクラス77万6,700円)

1930年代はやはり飛行艇は10数名しか乗客が登場できず随分と割高だったのがわかります。

■飛行艇は英語ですと、Flying boat になります。Air shipですと飛行船です。船から航空機へ。確かに現在でも航空機の機長はみずからの機をシップと呼び、また自らをキャプテンと呼ばせています。この呼称も船の名残なのだと思います。

■インペリアル航空の運航時刻表をみましょう。不思議なことに、エジプトにはルクソール、カイロ、アレクサンドリアとなんども着水します。最初、これは何だろうと思っていたのですが、どうも観光旅行の一助だと推察します。つまりルクソールのファラオやピラミッドの上空を旋回し、乗客に観光してもらおうという計らいらしいのです。

また、着水場所を調べていくと、湖沼や河、港湾の最奥部のことが多く、なるだけ波静かな海を着水地点に選んでいたこともわかってきました。

インペリアル航空運行表

実際のインペリアル航空南アフリカダーバンからイギリス・サウサンプトン間の運航旅程表です。Special thanks to HP  airline timetable

南アフリカのダーバンを10:00発

1日め*ダーバン(南アフリカ)発10:00

*ロレンソ・マルケス(旧ポルトガル領モザンビーク現モザンビーク共和国)

着13:00 現在の名称はマプト モザンビークの首都 マプト湾テンベ河口

マプト

ロレンソ・マルケス(マプト)写真をクリックすると拡大できます。

*べイラ(同)その日の午後着 時間未定 ベイラ1泊

ベイラはモザンビーク湾をのぞむモザンビーク第2の港湾都市

ベイラ

1905年頃のベイラです。写真をクリックすると拡大できます。

2日め*ベイラ発 06:00

*モザンビーク着10:40

*タンガニーカ・リンディ(旧英国領 タンガニーカ共和国をへて現在タンザニア連合共和国)着14:26タンザニア南部にリンディ湾億に位置する。

タンガニーカ・リンディ

タンガニーカ・リンディ 写真をクリックすると拡大できます。

*タンガニーカ・タルエスサラーム(同)その日の午後着 時間未定 タラエスラム1泊 インド洋に面した都市 タンザニアの元首都(現在の首都はドドマ)

*なおタンザニア人は、第2次世界大戦では、イギリス軍ニ87000人が出征し、インパール作戦で、イギリス軍の一員として日本軍と戦ったことはあまり知られていません。

3日め*タンガニーカ・タルエスサラーム発08:00

ダルエスサラーム

現在のダルエスサラーム

*モンバサ(旧英国領 ケニア)着10:00モンバサはケニア海岸州モンバサ島の都市

モンバサ

現在のモンバサ 写真をクリックすると拡大できます。

*キスム(ケニア)着 その日の午後着 時間未定 キスム1泊キスムはビクトリア湖カビロンド湾奥部

4日め*キスム(ケニア)発07:00

*カンパラ・ポートベル(旧英国領 現・ウガンダ)着7:45

カンバラ・ポートベルはビクトリア湖北岸

カンパラ

ブルーの部分はアフリカ最大の湖、ビクトリア湖。その北部のわずかに黄色い部分がカンパラ市街です。写真をクリックすると拡大できます。

*マラカル(英埃=エジプト領スーダン 現・南スーダン)着13:25   マラカルは、スーダン上ナイル地方東部ナイル州

*ハルツーム(スーダン)その日の午後着 時間未定 ハルツーム1泊    ハルツームはウガンダから流れる白ナイル、エチオピアから流れる青ナイルの合流地点の南岸

ハルツーム

現在のハルツーム 写真をクリックすると拡大できます。

5日め*ハルツーム(スーダン)発07:00

*ワディハルファ(スーダン)7:45

*ルクソール(エジプト)着14:05 ルクソールはナイル西岸古代エジプトの都テーベがあった所。

ルクソール

古代エジプトの都テーベがあったルクソールです。ナイル川のほとりにあります。写真をクリックすると拡大できます。

*カイロ(エジプト)着16:55 ナイル川下流河岸の交通の要衝

*アレクサンドリア着 夜着 アレクサンドリア1泊 ナイル川デルタの北西部

アレクサンドリア

現在のアレクサンドリアの港湾風景です。アジアとアフリカ、ヨーロッパとを結ぶ要衝に位置していたために、当時飛行艇の基地として有名でした。写真をクリックすると拡大できます。

6日め*アレクサンドリア(エジプト)発05:45

*アテネ(ギリシャ)着11:05

*ブリンディジ(イタリア)13:30 イタリア半島の靴のかかとに位置するプーリア州 19世紀スエズ運河開通以降、アジア、アフリカとヨーロッパとを結ぶ欧亜航路などの発着地の一つ 森鴎外「舞姫」の冒頭に登場します。

ブリンディジ

ブリンディジの港です。写真をクリックすると拡大できます。

*ローマ(ブラチアーノ湖・イタリア)その日の午後着 時間未定 ローマ1泊

ブラチアーノ

ローマ近郊のブラチアーノ湖に飛行艇は着水しました。写真をクリックすると拡大できます。

7日め*ローマ(イタリア)発8:15

*マルセイユ(フランス)着10:50

*サン・ナゼール(フランス)その日の午後着 時間未定 サン・ナゼール1泊 仏大西洋岸ロワール川三角州の右岸に位置する。

8日め*サン・ナゼール(フランス)発09:00

サンナゼール

フランス・大西洋岸のサン・ナゼール 写真をクリックすると拡大できます。

*ササンプトン(イギリス)着11:00

サウサンプトン港はタイタニック号も1912年4月10日にサウサンプトンからニューヨークへ向け出航しました。写真をクリックすると拡大できます。

*ロンドン・ウォータールー駅 午後着 8日めにしてやっとロンドンに到着しました。おつかれさまでした。

ロンドン・ウォータールー

ロンドン・ウォータールー駅

そしてとうとうYou tubeで飛行艇の内部、サービス風景、飛行風景の動画を発見しました。BBCのHig Fryers How Britain Took to the Airという映像です。全部で58:11ですが、なかでも42:57前後からインペリアル航空のサウサンプトン発南アフリカ行きの映像が登場します。お楽しみにごらんください。

これも、BBCが制作したThe Last African Flyinfboat full documentary という1980年ごろのドキュメンタリーです。全部で1時間13分の長編ですが、最後にのこったエジプト・アレクサンドリアに残った飛行艇で飛行してみるという内容ですが、冒頭の4分までは、1930年代のインペリアル航空の実際の機内サービスが動画で捉えられています。飛行艇の内部が観られるなんてまさに夢のような瞬間でした。

 

写真はすべてウィキペディアのパブリックドメインを使用しています。ソナー・メンバーズ・クラブのホームページは、ソナー・メンバーズ・クラブをクリックしてください。

 

 

 

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