カズオ・イシグロの小説に見るヨーロッパのクラスファイ
2017 NOV 1 14:14:46 pm by 野村 和寿
入院中に、時間だけはたっぷりあったので、ちょっと難しそうな本をもっていって読んでみようと思い、カズオ・イシグロ『わたしたちが孤児だったころ』When We Were Orphans (2000年・早川書房)を読みました。2017年にノーベル文学賞を受賞した日本・長崎生まれ、イギリス国籍の小説家。ぼくと同じ1954年生まれなのに親近感がわいています。
なぜ、『わたしたちが孤児だったころ』をいまどき読んだかと言えば、自宅に購入してからずっと、読まずにおいてあったからに他なりません。仕事で忙しくて、読みたいと思う本を購入はしたのに、読まずに本棚に眠っている多数の本のうちのひとつだったのですが、入院に際し、持参してみようと思った次第です。
この話、正直、今まで読んだどの小説とも異なり、まことに読みにくく、自分には扱いにくいものでした。
普通、小説と言えば、物語があって、結局結末に向かって、主人公を始めとする登場人物がキャラクターとして、自分のなかでも、動くようになり、主人公は読み手である、自分に成り代わり、いろいろなことを体験しつつ、目標たる、最終物に向かって話を進めていく。読者は、自分になりかわって動きをみせる主人公に思い入れして、次は、次は・・・と要するには、血湧き肉躍るのを喜ぶという寸法に動いていくんだと思います。
ところが、このカズオ・イシグロの小説には、物語性というものが、あるにはあるものの、ほとんどストーリーに動きがなく、もっぱら、自分の心の変化のようなことが大事になってきて、外面的な動きには興味がないといった風を、物語全体に装うのです。
要するには、自分の範疇では、つまらぬ小説ということになってしまうのが、通常ではないかと思うのです。
ところが、入院という余った時間がたくさんあるのと、ほかに、読むものが払底しているものだから、この本に集中せざるを得ず、結果として、この本を読み進めていくにあたり、理解できない文章については、いちいち、どうしてこんなことになるのか?と自問自答し、それをクリアーしない限り、先に進まないということを基本方針として、もっぱら求道僧のように、それこそ、1行1行読み進めていきました。
普通の日本人社会のなかで、編集者という普通の職業よりはほんの少しだけ視野が広いつもりであっても、ご多分にもれず入院しているという境遇ですと、些細なことが、いっぱい見えてくるのに、大袈裟にいえば似ているかもしれないです。
舞台は1930年7月24日から1958年11月14日・ロンドンと、1937年11月20日上海・キャセイホテル
人間の内面では、常に揺れ動く心情というものがあり、事件ともいえないような些細な事件とは常に遭遇している。一方、自分の子どもの頃、自分の周囲に起こっていたこと、幼なじみとの冒険談は、大人にとっては、他愛のない、失笑ものの事件であったとしても、子どもの自分にとっては、「大事件」。
ところが、大人になって、自分の周囲に起こることは、「大事件」だと感じてしまう。ところが本当にそうなんだろうか? つまり、子どもの頃遭遇する子どもにとっての「大事件」と、大人になってから遭遇する「大事件」は、自分の内面において捕らえるならば、両方とも「大事件」だったのではないか?
これを逆に描くとすれば、大人の自分が周囲に起こっていることなど、本当は、大したことではないのではないのだろうか? だからこそ、カズオ・イシグロは、大人になってからの普通なら大事件に発展する「物語」を、読者の望むように、そう発展させずに、むしろ淡々と、しかも、主人公・自分の内面の事細かな変化だけを丹念に描く。
読者側に、カズオ・イシグロの求めるリテラシー(読み書き能力、たとえば1920年代の貴族制が残存する、ロンドンの社交界、上海の外国人租界イギリス地区の状況など)が備わっていないと、読み進めていくのは難しいという小説です。それは、大衆性の求められるわかりやすいのを是としている日本社会へのアンチ・テーゼのようです。
小説中に、1930年代の上海租界イギリス人地区が出てきます。もちろん、中国人はメイドでしかなく、中国の土地なのに、警察権もイギリス、司法権もイギリスがもっています。しかも、主人公の父親は、インドから上海へ阿片を合法的に輸入する商社の一員で、中国マーケットに阿片を売っているのです。阿片を売るということにイギリス人はなんの後ろめたさもなくて、ひとつのビジネスとして認めてもいます。そんな時代の雰囲気が小説には登場します。
「当時は中国は政治的にも文化的にも遅れているから、イギリスを始めとするヨーロッパ租界が、中国人たちをリードしている」という大前提があり、それがいいだな悪いだのではなくて、物語の前提ともなっています。読み進めるうちに、なんとなくですが読者も、1930年代のイギリス租界の支配層の気持ちにもなっていくのです。そこに現れる新興勢力が日本人たちでもあります。もちろん現在の中国は、中国人のための独立した国家を形成しているわけですが。
カズオ・イシグロの小説を読んで感じたのは、小説は決して「万人のために書かれた」ものでなく、あるリテラシー(読み書き能力)を持っているあるインテリのクラスファイされた読者のみに向けて享受されるように書かれているということでした。それがよいかどうかではなくて、ヨーロッパに根付いている伝統でもあるような気もします。
「わかりにくさ」ということでいえば、音楽の世界でも、リヒャルト・ワーグナーのわかりやすい、すでにあった北欧の歴史伝説を下敷きにした楽劇『ニーベルングの指環』に対して、リヒャルト・ワーグナー自身が作曲・物語の構成まで関与したことにより、まるで難解になってしまった舞台神聖祝祭劇『パルジファル』を完全に理解して、聴き進めていくのに似ているなと思います。
一方、短編集である『夜想曲集〜音楽と夕暮れをめぐる5つの物語』Nocturnes five Stories of Music and Nightfull土屋政雄訳(ハヤカワepi文庫)は「わかりやすさ」でいっぱいでした。正直、安堵いたしました。音楽のことが好きであればなおさらのこと、音楽を想起させながら興味深く読める小説です。
第1作目「老歌手」Croonerを少々紹介すると、主人公は、イタリア・ベネチアのサンマルコ広場の5つあるカフェで伴奏ギターを弾いている東欧ポーランド出身の音楽家ヤネク。カフェのアメリカ人観光客のなかに、自分の母が好きだったボーカリスト・リンディをみつけます。
共産圏時代・アメリカのレコード、1950年代アメリカで、ロス郊外道路沿いにある食堂に集まる歌手目当てで成り上がりたいウエイトレス・女子、ベネチアのゴンドリヨーロ(漕ぎ手)・ビットーリオはイタリア人としてもセコくそして少しはずるい・・・といった魅力的な数々の「キーワード」がいくつも登場するなかで、物語は、簡潔にしかし、とても面白く、そして、意外な結末まで用意してくれていて、なかなかに楽しませてくれます。
ベネチアでの話というのに、遠く離れた1950年代のアメリカのジャジーな雰囲気を適当にフレーバーしてあります。この小説で要求される読者の資格は、もっぱら、「音楽が好きなこと、そして、音楽の背景に流れているものを信じていること」だと思われます。
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Categories:本
西村 淳
11/11/2017 | 9:48 PM Permalink
カズオ・イシグロはブッカー賞をとった、というニュースから、私も「夜想曲」を読みました。特別なものではなかったけれど心に沁みる内容でしたがそれだけで終わっていました。それがこのノーベル賞騒ぎで、ちょっと意外な感じもしましたが去年のボブ・ディランのことを思うとそういうものだったのかとも。であれば村上春樹でも全然おかしくないですね。
「音楽が好きなこと、音楽の背景に流れているものを信じていること」であれば私にも十分に資格があると信じています。
野村 和寿
11/12/2017 | 4:42 AM Permalink
西村さま コメントありがとうございます。「夜想曲集」は、カズオ・イシグロのなかで、例外的に平易で読みやすいものだと私は思いました。デビュー作の『充たされざる者』は、世界的なピアニスト・ライダーが主人公になっています。こちらは、文庫本で939ページと異例に長編です。現在、読んでいるところです。なおカズオ・イシグロの長編はわずか8編しかありません。村上春樹の小澤征爾との対談集『小澤征爾さんと音楽について話をする』を読むと、村上春樹さんもやはりクラシック音楽への造詣はかなり深いですね。