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北方領土の私的検証(その6)1946〜51年の日本側

2019 JAN 14 9:09:11 am by 野村 和寿

1946年 当時の外務省が終戦連絡中央事務局を通じて、連合軍代表部総司令部、対日理事会連合国代表部に、1945年から1950年まで提出した英文冊子は全部で36冊ありました。日本には外交権がないために、来たるべき講和条約のために、外務省は資料をこまめに作成していて、連合軍代表部側にわたしていたのです。上記の資料の表紙には㊙の印が押され、”Minor Islands Adjacent To Japan Proper Part1 The Kurile Islande The Habomai and Shikotan Foreign 〜Office Japanese Goverment  November 1946  Department of External Affairs(対外部門)とオーストラリア側の添え書きがあります。(この文書は、オーストラリア公文書館で1994年発見されました)

(日本に隣接した小離島 第1部 クリル諸島 歯舞・色丹島〜日本政府外務省・原文は全て大文字)”と読むことが出来ます。

図をみてみましょう。

1946年日本外務省調書 表紙と掲載地図 「サンフランシスコ平和条約の盲点」(原貴美恵著・2005年・渓水社刊)

当方で示した①はクリル(千島)諸島 真ん中の択捉(えとろふ)水道に線が引かれています。北部は北クリル(千島)諸島(1875年に締結されたサンクトペテルブルク条約(千島樺太交換条約)で、サハリン(樺太)と交換により日本に割譲さ

②は南クリル(千島)諸島 初期から日本が領有していた。1855年下田(日露和親)条約により確定された。

③は歯舞諸島と色丹島地図です。

ここで、外務省は、千島諸島を北千島と南千島に択捉(えとろふ)水道を境に分けて説明しています。北千島は、1875年に日本の領有となった。南千島は、日本固有の領土。

この文書は、現在に至るも、外務省では公開を拒み、その存在さえ、認否をノーコメントとしています。いったいなぜなのでしょうか?

この文書を作成したのは、当時、外務省条約局で、特に1947年から1952年まで条約局長だった、西村熊雄氏(にしむら くまお・1899−1980年)でした。西村局長は1951年9月8日に開催されたサンフランシスコ講和会議まで、日本外交の最前線にいた人物です。

西村氏の著書「サンフランシスコ平和条約 日米安保条約1999年 中公文庫刊・絶版)に、交渉のいきさつは詳しく載っています。また西村条約局長は、著書のなかで、「1945年11月外務省内に平和問題研究幹事会をつくり、講和対策研究講和資料作成に早くも着手した」とあり、「1950年2月までの5年間に36冊の英文冊子を作成した」とあります。

それも、連合軍代表部総司令部に正面玄関からもっていくわけにはいかないために、日本政府と連合軍代表部総司令部との交渉窓口だった終戦連絡中央事務局を通じて、対日理事会連合国代表部の交渉ある人々に機会をとらえて、資料をてわたしたり、担当者の机の上にそっとおいてきたりすることで、連合軍代表部総司令部に、外務省の意向を伝える努力を続けました。

西村熊雄外務省条約局長(局長在任期間1947−1952)            2012年外務省外交史料館展示資料より

 

サンフランシスコ平和条約 日米安保条約 西村熊雄著 1999年 中公文庫刊 2019年現在古書として2800円と高額で重要視されている本。

1947年8月26日 当時の芦田外相(在任1947−48年)はアチソン駐日米大使に、日本の講和に対する要望書を手渡しました。これでようやく米国に正式に日本の意向を伝えるルートができました。この要望書の(7)領土=ポツダム宣言にいう諸小島を決定されるに際して、本土とこれらの諸小島の間に存在する歴史的・人種的・経済的・文化的その他の関係を充分に考慮してほしいと、要望しました。

1947年岡崎外務次官(在任1947−48年)は、占領軍民政局のホイットニー准将(ダグラス・マッカーサー司令官の分身と呼ばれました)に、講和資料を提示して、総司令部外交局を通じてワシントンに伝達されました。

1951年1月26日

ダレス国務長官顧問は、シーボルト大使、アリソン公使とともに、目黒にあった吉田茂総理公邸を来訪した際に、吉田首相は講和会議に対する日本側の要望を伝えました。日本側意見(C)台湾・澎湖諸島、南樺太・千島列島の地位は英ソ中米、四国による将来の決定を受諾する、条約発効後1年以内に決定がなかった場合は国連総会が決定する旨を伝えました。つまり、日本は占領中であり、まだ外交権がなかったので、アメリカを通じて、日本の講和に対する意向を伝え、「最終的に、決定されたことに従います」と日本の吉田首相がいったわけです。

フランス大使時代の西村熊雄氏1956年1月28日ルーサー・エヴァンスユネスコ事務局長を訪ねたときの写真

今回取り上げた外務省条約局長だった西村熊雄氏(1899〜1980年)は、1923年外務省入省(フランス・スクール)、1951年9月8日に開催されたサンフランシスコ講和会議の政府側随員としてまで、外務省で、対日講和のために奔走しました。その後は、駐フランス大使(1952−1956年)として着任しています。退官後はハーグ常設仲裁裁判所判事、フランスの劇作家『ジロドゥ戯曲全集 第2巻』白水社、1957年、新装版2001年。の翻訳などを手がけた文化人でもありました。

外務省とは、連合国代表部総司令部に、北方領土について、より詳細に説明するために、千島諸島を、北千島・南千島にわけて、なるだけ丁寧に説明しようとしたのです。それはそれで、間違っているとは思えません。日本の官僚らしい、きわめて誠実な姿勢です。しかし、その誠実な姿勢は、いまに至るも思わぬ影響を及ぼしてしまいました。詳細については、次回にご説明します。

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