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北方領土の私的検証(その7改)サンフランシスコ講和会議の根回し

2019 JAN 14 12:12:55 pm by 野村 和寿

1951年9月4日から8日にかけて、対日講和に関する平和会議がサンフランシスコのオペラハウスで行われ、結果として9月8日サンフランシスコ講和条約が世界48カ国が条約に署名、日本が世界に復帰しました。(1952年4月28日日本批准発効)ここまでは、世界史で学習したことがあると思います。

サンフランシスコ講和会議の映像です。

ぼくは、この対日講和会議の席上で、議論が戦わされたのだと今の今まで思っていました。ところが、前回触れた外務省西村条約局長も著書「サンフランシスコ平和条約日米安保条約」のなかで触れているように「サンフランシスコ平和条約といえば、1945年夏から1952年春にわたる約6カ年にまたがる事柄で、連合国相互間の関係と連合国と日本の関係の双方をふくむ複雑な歴史」(同書 中公文庫1999年刊)と述べています。

要するには会議が始まる前に、当事国間での話し合いはほとんど終了していたのです。

年を追って触れてみたいと思います。

1945年12月24日 モスクワ外相会談

米バーンズ国務長官、英ベビン外相、ソ連モロトフ外相

千島列島と南樺太の帰属問題に言及し、ソ連モロトフ外相は、千島処理については、すでにヤルタで合意しており、最終決定と主張。(つまり千島は、ソ連領と主張 現実には1946年2月2日 ソ連は千島列島全域を自国の領土に編入していました)

ダレス国務長官顧問(のちに国務長官)

1950年9月11日 ダレス国務長官顧問は、対日講和の7原則を関係国へ根回し C項で南樺太、千島列島の地位については、イギリス、ソ連、中国・米国の将来の決定に委ねる。条約発効後1年以内に決定をみなかった場合は国連総会が決定。としている。ここでは、南樺太・千島列島をソ連に引き渡すというヤルタ密約は反故にされています。

これに対して、ソ連国連大使マリクは、ダレスと予備交渉を行っています。

ヤルタ会談で千島列島、南樺太はソ連に譲渡すると決定しており解決済みと主張しました。

これに対して、英国デニング外務次官は、ヤルタ協定の履行を宣言しています。上記7原則C項には強い疑問を表明しました。「ソ連の占領下にすでにある現状を変えるのは非現実的である。イギリス・アトリー労働党内閣は、南樺太、千島列島は日本からソ連に引き渡されるべきという方針であり、ヤルタ協定を否定するのは無理なこと」と主張しました。

米ダレス国務長官顧問は、ヤルタ密約が正当でなかったことをアピールして、妥協をエサにしてソ連を、講和条約に引き込もうという作戦でした。

1950年11月 ソ連国連大使マリク ダレス予備交渉②

マリクソ連国連大使
(1948−52、68−72)どこかで見たことがあります。そうです、1945年8月10日東京で宣戦布告を手交した際のソ連大使でした。

ダレスは「もしソ連が講和条約に参加するなら、千島列島と南樺太はソ連に譲渡されるだろう」とマリクに口頭で伝えました。

1951年4月 英国外務省が条約草案。

「南樺太と千島列島を無条件にソ連に引き渡す」と再び述べています。

ソ連は講和条約調印の方針を認めれば、歯舞・色丹はともかく千島列島も手に入ると思っていました。千島列島に含まれる国後、択捉(えとろふ)については、ソ連への引き渡しが決まっていたと言えます。

ところが、ソ連は、1949年に建国されたばかりの中華人民共和国の講和条約参加を強く求めました。ソ連は「講和会議に中華人民共和国が招かれないのはおかしい」と主張しました。

1951年5月3日

米英対日講和の米英共同草案を提出。米国の案を実質的に英国ものんで、採用されました。「ソ連が講和条約に調印すれば、千島列島と南樺太はソ連に引き渡される」という内容でした。ところが、ソ連はあくまで中華人民共和国の講和会議参加を主張し、米英ソ・中華人民共和国の外相会談を求めました。

米英は、カイロ宣言(1943年)もポツダム宣言(1945年)も中国は中華民国・蒋介石が署名し、まだ中華人民共和国は建国されていなかった。と主張。

1951年6月 ソ連の態度に業を煮やした米英両国は、南樺太と千島列島のソ連への引き渡しを撤回。講和条約には、「南樺太と千島列島の日本の放棄」のみをかき込むことにしました。

(1950年6月25日には、北朝鮮軍が、南朝鮮に侵攻、朝鮮戦争が起きています)

結局 サンフランシスコ講和条約には、日本は千島列島を放棄する。どこの国に引き渡すかは条約にはかき込まれていません。

まったく奇妙な結末を迎えました。

1951年9月4日

ここでようやくサンフランシスコ講和会議が開催されます。9月5日午後の討議で、ダレス国務長官顧問、米国全権は、「歯舞島は千島列島の一部ではない。歯舞島の帰属問題は将来、国際司法裁判所に提起する道が開かれている」と演説しました。

ヤンガー英国代表は、「中華人民共和国は中国を代表する政府である。」と述べています。このあと、メキシコ、ドミニカ代表の演説があり、

グロムイコソ連全権

ソ連全権グロムイコ前外務次官が登壇し1時間2分にも及ぶ長い演説を行いました。「中華人民共和国の参加なしに日本との講和条約解決は問題にならない」「日本国はサハリン南部およびこれに近接するすべての諸島並びに千島列島に対するソ連邦の完全な主権を承認しこれらの領土にたいする一切の権利、権原、請求権を放棄する」とする修正案を提示、会議で修正案は否決)。グロムイコ演説の中で、「樺太と千島はソ連に帰属させる」と演説し、グロムイコ代表は、講和条約署名の意思なしとして、講和条約原案に反対し、署名を拒否して会議場を退席しました。ロシア研究者の木村汎氏の「日露国境交渉史」(中公新書・1993年刊)によれば、このグロムイコ演説は「日本がソ連による千島列島の領有を認めない限り、ソ連は領有権を主張する法的根拠がないことを自ら認めたことになる」として、グロムイコの致命的な失敗としていいます。

そして採択されたのが、米英提出による原案です。

「サンフランシスコ講和条約 第2章領域 第2条領土権の放棄C項」

日本国が1905年9月5日ポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部、およびこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原、および請求権を放棄する

とあり、日本は千島列島を放棄させられたのです。しかしその帰属先は繰り返しになりますが、書かれていません。つまりは、千島列島の範囲がどこまでなのかについて、条約に記載がないのです。その解釈についての、後年に火種を残すことになります。

しかし近年の研究によれば、この「火種」こそは、ダレス米国務長官顧問の深慮遠謀であったといわれています。つまりこれで、日本が過度にソ連に近づけさせないという策略だというのです。

グロムイコ元外務次官・ソ連全権の回顧録によれば「米英両国がヤルタ会談で負った義務と歴史的正義にもかかわらず、サンフランシスコ条約はこれらの島々が固有の領土としてソ連に帰する事態を認めようとしていない。この事実はトルーマン大統領とその周辺がソ連に抱いている敵対意識とをあざやかに浮き彫りにしている」とあります。

サンフランシスコ講和会議署名

日本は9月7日夕方 吉田サンフランシスコ講和会議首席全権が講和条約に対する受諾演説を、巻紙に書いた日本語で行いました。受諾演説全文は下記に記載があります。吉田茂日本首席全権による受諾演説

この演説は、前回紹介した西村熊雄・当時の外務省条約局長、サンフランシスコ講和条約政府随員の著書「サンフランシスコ平和会議 日米安全保障条約」(中公文庫1999年刊)のなかで、「1951年8月11日箱根小涌谷の三井別荘に吉田総理に呼ばれ、今夜ここで受諾演説をかきたまえ、かん詰めにして腹案が語られ午前3時までかかって書き上げた」とあります。「東京出発まで2案用意し、出発前日本政府の閣議で披露された」とあります。吉田首相の演説原稿についてのエピソードは、顧問として同行した白洲次郎とのやりとりとしても伝わっています。下記にありました。白洲次郎が、外務省の演説原稿を、直前になって英語から日本語の巻紙へと変更したとあります。(西村熊雄の同掲書では、当時のシーボルト米大使のアドバイスで、ディグニティーのために日本語での演説にしたとありますが)

 

 

吉田全権の受諾演説中該当部分を抜き出してみます

「千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によつて奪取したものだとのソ連全権の主張に対しては抗議いたします。日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアも何ら異議を挿さまなかつたのであります。ただ得撫以北の北千島諸島と樺太南部は、当時日露両国人の混住の地でありました。1875年5月7日日露両国政府は、平和的な外交交渉を通じて樺太南部は露領とし、その代償として北千島諸島は日本領とすることに話合をつけたのであります。名は代償でありますが、事実は樺太南部を譲渡して交渉の妥結を計つたのであります。その後樺太南部は1905年9月5日ルーズヴェルトアメリカ合衆国大統領の仲介によつて結ばれたポーツマス平和条約で日本領となつたのであります。

千島列島及び樺太南部は、日本降伏直後の1945年9月20日一方的にソ連領に収容されたのであります。また、日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵営が存在したためにソ連軍に占領されたままであります。」

千島諸島地図

実は、太字にした、千島南部の二島、択捉(えとろふ)、国後両島が日本領である、という部分が、大きな問題となります。これは吉田受諾演説のなかでも、「痛恨の部分」かもしれないのです。択捉(えとろふ)、国後を千島南部の2島だと、吉田全権自らはっきりと述べているのです。そして、北海道の一部といえる歯舞、色丹とは違うとの認識を自らはっきりと示してしまいました。

サンフランシスコ講和条約では、日本が放棄した千島列島には択捉(えとろふ)と国後)の2島が、含まれるという解釈が成り立ってしまいます。前校から御紹介してきたとおり、1945年11月から始まる外務省の連合国代表部総司令部への働きかけが、1951年サンフランシスコ講和会議で成就して、1952年4月28日サンフランシスコ条約が発効し、日本は占領を解除され、独立を勝ち取りました。ただし、1945年から外務省が主張してきた千島列島の北千島、南千島にわけた説明は、吉田受諾演説においても表明されたことになります。これで、千島列島を日本は領土放棄しました。繰り返しますが、帰属先は明記されていないのです。

ところで、今回、調べている中でサンフランシスコ講和会議で、意外な事実も発見してしまいました。日本側全権団のメンバーです。

サンフランシスコ講和会議全権委員

首席全権委員・吉田茂(1878-1967)と徳川宗敬、星島二郎、苫米地義三、一萬田尚登、池田勇人(1899-1965、蔵相)の6人の全権委員。

吉田茂(1878−1967年 よしだ しげる民主自民党)、德川宗敬(1897ー1989年 とくがわむねよし)貴族院副議長 参議院議員緑風会、星島二郎(1887-1980年ほししま にろう・日本自由党)、苫米地義三(1880−1959年 とまべち ぎぞう)国民民主党、一萬田尚登(1893−1984年いちまた ひさと)日本銀行総裁 日本民主党、池田勇人(1899−1965年 民主自由党)と、超党派の議員から構成されているということです。これは吉田首相が、将来のことも考えて、全権は超党派がよろしいということで決まったということです。当時、多数講和派と全面講和派とに国論が二分されていて、全面講和派だった日本社会党は、全権委員になることを、自ら拒否しています。

また親ソ派と目されていた日本社会党の鈴木茂三郎(1893−1970年)委員長は、グロムイコソ連全権の演説にあるソ連の修正案を失望して、「少なくとも千島にあるソ連の軍事基地を軍事基地をつぶして、南樺太とともに日本に返還し、同時に中ソ友好同盟を廃棄した上で米国とともに日本の中立を保障する平和への建設的な態度をとって、ソ連が真に平和愛好者だということをみずから立証するような主張でなければ全然筋が通らない。全般的にソ連の修正案には失望した」と述べています。少なくとも、日本社会党は、1951年当時は、「南樺太、全千島列島は、日本領有である」という主張をもっていたことがわかります。

日本はソ連、ポーランド、チェコスロヴァキアなど共産圏を除く48カ国と条約に署名し、52年4月28日日本国会で批准されサンフランシスコ平和条約へ発効しました。

参考資料 「サンフランシスコ平和条約の盲点〜アジア太平洋地域の冷戦と『戦後未解決の諸問題』」(原貴美恵著 2005年・渓水社刊)「サンフランシスコ平和条約 日米安保条約」西村熊雄著 1999年・中公文庫刊)、「ドキュメント北方領土問題の内幕 〜クレムリン・東京・ワシントン」(若宮啓文著・2016年・筑摩選書刊)

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