1945年伯林からの警鐘
2017 AUG 4 16:16:15 pm by 野村 和寿
終戦の二ヶ月前に、ドイツ・ベルリンからベルリン敗戦の記事が当時の朝日新聞に掲載されました。あまりよく知られていないのですが、当時、厳しい検閲がしかれている昭和20年になぜ、ベルリン敗戦の記事が、まだ戦争中だった新聞に掲載されたのでしょうか?
当時鈴木貫太郎内閣のもとで、情報局総裁は、下村宏という人でした。朝日新聞出身です。当時情報局は、新聞記事の掲載許可不許可を握る立場にありました。下村宏総裁局総裁によって、本記事は、昭和20年6月5日掲載許可されました。当時の日本国民は、本土決戦一色のなか、日本の敗戦への覚悟を、暗にというか直接間接に、ベルリンの敗戦という形で、知らせたのではないか?とぼくは思いました。
守山義雄記者は、1945年5月2日のナチスドイツの崩壊、ベルリン陥落までベルリンにとどまって情勢を見守っていました。筆致は具体的で、しかも、日本に対して、警鐘を鳴らすという意味を込めていたように思われてしまいます。見出しに「ベルリン前支局長」とあり、「現」でないのは、この記事を書いたのは、実は守山記者が、すでに、ソ連によりベルリンの邦人が日本に送還されるシベリア鉄道の送還列車の中で書いたことによります。
以下、昭和20年6月5日 たった2ページの表裏のペラペラの新聞にあって、異例の長い署名記事です。あまり知られているとも思えなかったので、ここに読んでみました。よろしければどうぞごいっしょに。
『戦敗ドイツの実相』前ベルリン支局長 守山義雄記
余すなく徹底破壊 がれきのベルリン死一色 戦争の真理は結末にあり
ついに奇跡は起こらなかった。奇跡を期待した人たちは今呆然として廃墟の中にたたずんでいる。ヨーロッパの廃墟、惨憺(さんたん)たる破壊、累積せる悲劇、一体これは何事が起こったか。廃墟の痛手と深さは人々からものを考える力を奪ってしまった。呆然としてただ呆然として人々はおそろしくひもじいとのみ感じている。これはドイツ国民の現状だ。そのひもじさの底からしみじみとこみ上げてくる一つの涙がある。さらに次の涙がある。さらに新しい三の涙がある。悔しい涙であろう、しからず、悔しいと思うときには、これに反抗力の残滓(ざんし)を認めることができよう。しかしこのような反抗力は徹底的に失われた今のドイツ人からはどこを押しても出てこない。今度の戦争が独国民にあたえた破壊はそれほど完全であり、余すところなく徹底していた。
安っぽい言葉ではあるが、運命を嗤(わら)うというそういう表現が、この場合最も当てはまる。やっぱり駄目だったという率直な直観、これが限りなく冷酷な現実に通じているのだ。
彼らはただ泣く、生まれながらにかたくなな合理主義者が、一言の反駁(はんばく)も許されず、極端な宿命論者たることを強いられるほど世に悲惨なことはない。
中間的な解決なし
ドイツの指導者はかつて、「この戦争の結果には勝ち残る者と死に絶える者の2つがある。われわれは断じて後者であってはならない」と、それはあまりにも痛々しい予感となった。
近代総力戦にはこれが、総力戦なるが故に中間的な解決はないのだ。
そしてドイツは行くところまで行ってしまったのだ。あの苦しいベルリン生活の思い出は瞬間にして遠い遠い夢のかなたの世界に吹っ飛んでしまった。同僚から何か書けと鉛筆をつきつけられたが、まるで見当がつかない。そしてそれが日本の読者に何の参考になるだろうか。今実に重大な国運の分岐点に立っている日本にはもっと大切な事があるはずだと思う。独ソ開戦の興奮、スターリングラードの悲劇、ノルマンディの血戦、V1号の出現したときのあの戦慄的な熱狂など、大向こうを騒然とさせる材料は山ほど
あるはずだ。しかし今それが何の足しになるだろうか。芝居の途中の筋書きは複雑起伏を極めていればいるほど面白い。しかし戦争には最後の結末だけが大切である、最後の終止符だけが戦争のすべてである。したがってここに再びあの虚偽と宣伝の絡み合った戦争の道ゆきを思い出して反芻することはちょっと辛抱しきれない。
奇跡は遂に起こらず
戦争の持ついかなる真理はその結果に潜んでいる。同時に近代総力戦においては奇跡は容易に起こりえない。ソ連がぶり返したのも英国ががんばったのもあれは奇跡ではない。それぞれ力の裏打ちがあってはじめてなしえたのである。強い力は弱い力より強い、このきわめて常識的なことが戦争の結末には真理となって現れてくる。その意味でヨーロッパの戦争は徹頭徹尾きわめて物理的な推移をみせた。強いて奇跡を認めるならばあのような国民性と国体をもった独は、誰の目にも絶体絶命の境地にありつつとにかく最後までベルリンをとられるまでがんばり通したということはこれを奇跡といえばいうことができる。もちろんラインを突破された後の独のがんばりは、戦略的にも政治的にもすべて希望を失った、ただナチスの精神力だけの頑張りであった。しかし精神力がものの力を補い得るのは一定の限度までである、ことにこのことはヨーロッパ戦場において、躊躇なく断言しえたのである。この独国民は水ももらさぬ総力戦の(一字不明)型のなかでかろうじて自分の義務だけをかろうじて呼吸していたのである。さすがの独がついに恐ろしい真相を告白しはじめたのは去る4月16日ソ連の89個軍団の大軍が、オーデル河戦線で、直接ベルリンに対し最終的な総攻撃の火ぶたをきったときからであった。
ヒ総統布告の疑問
そこにひとつの奇妙なことが起こった。ソ連軍の行動開始を2日間見送っていよいよ本物のベルリン総攻撃であることを確認したヒットラー総統は16日付けで独軍将兵に告げる布告を出した。「東部戦線こそ独の運命を決する戦線だ、ベルリンは永久に独のものとして残るだろう。東部戦線の将兵よ断乎がんばってくれ」という内容だ、しかしこのときの戦況は西部戦線の米英軍は中部独の心臓部になだれこみすでにエルベ河東岸に橋頭堡を作ってまさに西からベルリン攻略に参加せんとしていた。緊張せる局面にあったなぜヒットラー総統は、東部戦線の危険のみを強調して、米英軍の防衛に関してはほとんどひとこともふれないのだろうか。それはわれわれの抱いた最初の疑問であった。ついでベルリン市は非武装都市として開放を宣言されぬではなかろうか、ということがわれわれの間で大きな問題となった。人口の3分の2は疎開したとはいえ、その後東部独からの避難民を収容したベルリンは当時人口300万の女子供をも含む大都市であったのだ。臨戦成功となれば食物はどうする、負傷者はどうする、ほとんど歴史に例のない惨憺たる考慮をめぐらせたのも、当然だ。われわれの観察したところでは、ベルリン市民のほとんど全部は、非武装都市の宣言を今日か明日かと待っていた。トランス。オツェアン通信なども、ベルリン非武装都市問題は、22日の日曜日中にいずれかに決定するだろうという通信を出したほどだった。
指導者間に縺(もつ)れ
すでにソ連軍の20センチの重砲弾が、朝日支局のあった市の中心部に雨のごとく落下してくるまっただなかにあって、全市民は地下室の中でかたずをのんでいる。文字通りベルリンは沸騰し、わきあがり大揺れに揺れかえる思いだった。ヒムラーが各市各村の徹底抗戦を命令した後だったので、さすがに世紀の悲劇を前にして指導当局の間にも紛争のもつれがあった。25日に至り、ベルリン防衛責任者たるゲッペルス宣伝相が、この問題に中間的な解決をあたえ、制服を着た軍人のみで、ベルリン防衛戦を遂行せよと布告が発せられた。女も防衛戦に参加する以上は、ユニフォームを着ろという指令である。だがベルリンの運命にとっては結局同じことであった。かくしてベルリンは傍観者の目には、まったく無謀にみえる形で世紀の悲劇の中にまきこまれていったのだ。
それからおよそ10日間言語に絶した市街戦が続いた。ソ連軍の砲撃のものすごさというのを、われわれもおかげで身をもって体験した。25日まで朝日支局のあったアンハルターの駅前でがんばっていた頃、地下室まで砲弾に打ち砕かれ、われわれの事務所に女や子供の屍体がもちこまれた。われわれの支局が一般大衆のための仮納骨所みたいになってからさすがにいたたまれず、同僚原君とふたりで、死にものぐるいの運転をやり、チャーガルテンの日本大使館に飛び込んだ。ここでも河原参事官以下11名の館員諸氏と、民間では正金(横浜正金銀行)の人たちはすでに悲壮な籠城生活を始めていた。大使館も幾度もの爆弾を浴びたことか、真っ暗な地下室で天長節の式をあげた。感激など今から顧みれば皆無。ことに助かったことが不思議なほどで、すべて筆紙につくしがたい体験であった。
呆気なく戦いの終幕
そしてある朝が明けた「これはロシアの兵隊らしい」と誰かがとびらの隙間からのぞいて叫んだ。なるほど見慣れた独兵の鉄兜とは形が違う。朝もやの中で、独軍兵士の残骸の間を自動小銃を構えたソ連兵が3人、5人ぞろぞろ歩いている。何かを探しているようでもあるが、散歩しているようでもある。みんな熊の子のように真っ黒になっている。それがベルリンでソ連兵をみた歴史的な瞬間であった。
そしてヒトラー総統戦死の放送をわれわれが、万感迫る思いで聞いたのはその前夜のことだった。ヨーロッパ戦争は、ベルリン戦争をもって淋しく呆気なくついにその幕を閉じたのである。今日ベルリン市街の徹底的な破壊の跡を見るものは何が独にここまで戦わせたかをいっそう不思議に考えるに違いない。政府、官庁街を中心として市の中心部8キロ四方は、がれきの原っぱと化した。
2年間の爆撃よりも10日間の市街戦のほうが、2倍も3倍も破壊力は大きいのだ。
ナチス・ドイツの敗戦の理由、そのような複雑な問題は、一言や二言では尽くせない。しかしドイツが最初から苦しんでいたのは、二正面戦争の悔恨だった。そして最後の瞬間までこの戦争を一正面に修正したいという希望を捨てなかった。ナチス・ドイツが戦略的にも全然見込みない最後の抵抗を試みたのも米英とソ連間の軋轢(あつれき)の結果を期待し、ここにドイツがつかみ得る政治的な機瞥(きべつ)を、待ちもうけていたのであった。ヒムラーの米英単独降伏提案は、その最後のはかない試みであった。今日ドイツは米英・ソ連三国のほかに、フランスまで加わり、全国土余すところなく、四国軍隊に占領されている。ベルリンには至るところ赤旗がひるがえり、うちひしがれた市民は生きるために食わんがためにすべての過去を忘れている。富めるものも中産階級もすべて消滅し、今ドイツの街頭にみるすべての人間の形は事実死の色に塗りつぶされてしまった。記者は南京をはじめ、ワルソー、ブラッセル、パリと4つの首都をそれぞれ占領第一日に勝利の軍隊に従軍して見聞したが、いまははじめて敗軍の首都の悲惨さを内部かた体験して戦争の結末こそ、戦争のすべてだという考えをいっそう強くしたのであった。
1945年6月5日 朝日新聞より(現代仮名遣い折りがな等変更しました。)
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歴史家・鳥居民が丸谷才一の語ったところとして、「守山義雄は、1945年5月、ソ連軍によってベルリンから日本へ送り返されたが、その旅の途中、シベリヤ鉄道のなかで、本記事を書いた」とあります。
守山義雄氏(1910-1964年)大阪外国語学校ドイツ語部を卒業して大阪朝日新聞社会部入社、1939年ベルリン特派員、1940年独軍に従軍してパリ入城記、1945年7月帰国。1951年サンフランシスコ講和会議を取材。
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