映画『甘い生活』とは何か?
2018 FEB 16 3:03:40 am by 野村 和寿
1960年公開のフェデリコ・フェリーニの伊映画『甘い生活』(原題 Dolce Vita=ドルチェ・ビータ)。ぼくはこの映画をこの20年の間何度となく観賞してきた。たぶん10回ではきかないくらいだ。174分という遙かに長いこの作品は、映画評をあたってみたり多くのフェリーニについて語られる書物を読んでも、絶賛の嵐だった。曰く「世界で唯一の素晴らしい映画」『人生におけるみるべき最高の作品』等々、どこにいっても、その結論は一致していた。
しかし、残念ながら、「浅学非才」のぼくにとっては、いったいどこがそんなに素晴らしいのか、本当のところ、不明であった。さらにはこの映画は、「筋を追うのではなしにフィーリングで楽しむのである」のような、わかったようで、わからない映画評も多かった。主人公マルチェロ・マストロヤンニ扮するマルチェロは、ジャーナリスト、それもどちらかといえば、トップ家風情であり、あまりプライドをもてるジャーナリストではない。スターのゴシップを追いかけるのが仕事。仕事相手は、みなお金持ちで、大きな家に住み、毎日をナイトクラブや自宅でのパーティーに時間を無駄に浪費しているという人々。しかし、マルチェロはトップ屋の生活にはあきあきしており、「時々、夜になると、静けさと暗さがつらい」と嘆いている。人生を変えたい!
ぼくも、編集者だったので、どこか主人公との境遇が似ていて共感するところもあった。そして、この174分の作品をもっと知りたい、本当のところはこの映画のいわんとするところは? と思い始めた。
ぼくの通っているイタリア語学校の先生は、50代のボローニャ大学、ヴェネチア大学を出たインテリであり、イタリア文化のことは、どんなことでも詳しかったので、ちょうど映画に関する授業のときに、思い切って、『甘い生活・ドルチェ・ビータ』のどこがそんなによろしいのか?を聞いてみた。
咄嗟の質問であったのにもかかわらず、イタリア人の先生の答えは、明快そのもので、どこの映画評論家よりも当を得ていた。
イタリア人の先生いわく、この映画には一度も「食事をするシーン」というのが出てこない。イタリア人にとってダ・ヴィンチの『最後の晩餐』の絵画をみてのとおり、晩餐・食事というのは、非常に大事な要素を占めている。ところが、「食事をするシーン」が皆無。唯一、ナイトクラブで、主人公たちが、シャンペンに口をつけるというシーンだけがあった。
これでわかるとおり、「人生」とはシャンペンの消えていく「泡」のようなものさということをいいたいんだそうだ。
映画は174分を過ぎた最後にさしかかったシーンで、唐突に漁師の網に「えい」のような怪魚があがったと、登場人物たちを含めた人々が見物しに集まってくる。この怪魚に目を奪われていると、実はそうではなくて、ペルージャから海の家に手伝いにきていた少女パオラ(聖画から抜け出たような清純な少女)が、海辺で、大人たちに向けて、遠くから叫ぶ。
大人たちには遠くて彼女の声を聞き取ることが出来ない。あれは、「大人たち、人生を変えてみないか?」と少女パオラにいわせているんだそうで。
この映画のなかでは、いくつもの、シーケンス(Sequence 後述する)が込められたシーンが出てくる。
たとえば、マルチェロが、裕福な大学教授の友人のパーティーにいくと、壁にはモランディの静物画がなにげなく飾られている。
ジョルジュ・モランディ(1890-1964)は、イタリア・ボローニャ出身の現代を代表する画家で、自宅に設えたスタジオでもって、自らが置いた静物 ワインの瓶や花瓶の絵だけを、ひたすら描いてきたちょっと奇妙な作家である。主人公にモランディのことを「彼の絵は偶然に描けるのではないとフェリーニは語らせている。いつも同じように置かれている静物にさえも、生きた証、人生があるのだというように。
一夜だけのアバンチュールに精を出すマルチェロ。大富豪で社交界を泳ぐ有閑マダムは、アヌーク・エーメが扮するマッダレーナ。アヌーク・エーメは、後にクロード・ルルーシュの仏映画『男と女』(1966年仏)にも主役として登場するいわゆる小股の切れ上がったいい女である。マッダレーナが、マルチェロをさそって乗り回す車は、アメリカの1958年製のGM系の高級車キャデラックで、別名を「エルドラド」という。
「エルドラドEl Dorado」を調べてみると、大航海時代にスペインに伝わった南米・アンデスの奥地に存在するとされた伝説上の土地で、スペインにとっての「黄金郷」をさす言葉だそうだ。
マッダレーナ運転する「黄金郷」という車の助手席にマルチェロも同乗している、男女。そして、お金持ちの生活ははたして単純で夢のないものではないか?そんなことをフェリーニはいいたげである。
この映画というと、まず登場するシーンが「トレヴィの泉」のなかに、グラマーな女優とマルチェロが入っていくシーン。スウェーデン出身のハリウッド女優シルヴィア(アニタ・エグバーク)は、ターザン役者の男優と夫婦。旅行でローマを訪れ、ゴシップ屋のマルチェロにとっては最高の取材対象にもなってくる。
「トレヴィの泉のシーン」のほんの少し前にも、路上で捨て猫を拾って、マルチェロに、深夜にもかかわらず、子猫のために、ミルクを買いに行かせる。迷い込んだ捨て猫に待ち受けている猫の人生ならぬ猫の生活はこれからいったいどんなものだろうか?ということも想起できそうだ。シルヴィアには、配役と同じスウェーデン出身のアニタ・エグバーグ。ぎりぎりまでのグラマラスな肢体が、マルチェロとのトレヴィの泉で踊るシーンはあまりにも有名だ。彼女も女優として有名にはなったものの、夫との仲には不満を抱えていて、グラマラスな肢体と同じように自分をもてあましている。
しかし、この「トレヴィの泉」でのシーンは、映画のクライマックスでは決してなくて、174分の作品のなかでも、せいぜいが、53分ごろに登場するにすぎない。
マルチェロの婚約者エンマ フランス人の踊り子ファニー、パーティーで人生初のストリップに興じるナディア、マルチェロの実父で田舎パッサーノ村から突然やってきたり、そして霊媒師のいる没落した貴族の朽ち果てた広大な屋敷に、お化けが出たりと、人生を語るにいろいろな人物がマルチェロの間を交錯する。
映画とは、1分間に1度、この映画であれば174個のシーケンスがあるそうだ。シーケンスとは辞書的には、「Sequence:映画で一続きのシーンによて構成できるストーリー展開上の1つのまとまり」とあるが、要するには、映画の面白さを醸し出す秘密のエッセンスといえるものである。ぼくが、ここにみつけられたフェリーニのシーケンスはまだまだ少ない。しかし、シーケンスをみつけるということは映画のもう一つの楽しみなのではないだろうか?
この映画にはなぜか、納得させられてしまうことが多くなった。ぼくもそれだけ人生を重ねてしまったからなのだろうか?
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