Sonar Members Club No45

月別: 2017年1月

トルコ音楽に魅せられて

2017 JAN 14 5:05:11 am by 野村 和寿

モーツァルト(1756—91年)やベートーヴェン(1770-1827年)の時代、オーストリア(ハプスブルク君主国)ウィーンでは、トルコへの関心が高まっていました。

ベートーヴェンの時代(1792−1827年・彼の人生の後半の35年間にあたります)はオスマントルコが、ウィーン(ハプスブルク君主国の首都)を包囲して100年程度しか経っていません。

 オスマントルコとオーストリア(当時のハプスブルク君主国)の戦争は、墺土戦争(Austro-Turkish War, 1716ー1718年)と呼ばれる。18世紀にオーストリア(ハプスブルク君主国)とオスマン帝国が東ヨーロッパ・バルカン半島のセルビアを主戦場として衝突した戦争でした。

異民族への関心は、今の日本語でいえば、民衆のレベルでは、エスニックなものへの関心ということであり、あるいはエキゾチシズム、夢の王国としての異国への憧憬の表現でもあります。モーツァルトやベートーヴェンに、当時のウィーンで日常的であったはずの「ヤニチャール音楽」をあえて「トルコ風」というところに、フォルクローレとエスニシティ(エキゾチシズム)に対するウィーン古典派の音楽との差異を鋭敏に感じ取ったことを発見するのです。

ベートーヴェンの第九交響曲の第4楽章で、テナー・ソロがトルコマーチ(アラ・マルチャ)にのって、歌うのは、その歌詞がまさに異教的で、ギリシャ神話を連想させるからにほかなりません。

そこで、まずは、本家本元のオスマントルコの軍楽隊の音楽を御紹介します。これは、トルコ・イスタンブールにある軍事博物館で午後2時から毎日演奏されています。曲名は「オスマントルコ 軍楽隊 オスマンの響き 古い陸軍行進曲 ジェッディン・デデン 祖先も祖父も」です。

この曲が有名になったのは、NHKで放送された向田邦子の『阿修羅のごとく』(1979−80年 演出和田勉 出演加藤治子、八千草薫、いしだあゆみ 佐分利信)というテレビドラマで最初に流れた音楽になってからです。耳をつんざくチャルメラの一種ズルナ、太鼓ダウル、ラッパ=ボル、シンバル=ズィル、そして、日本の山伏が修行の際に用いる音の鳴る杖=チェブギャーン、この強烈な音楽は、さぞや敵国を圧倒したことでしょう。圧倒したついでに、ベートーヴェンやモーツァルトの心もわしづかみにしたはずです。

ベートーヴェンが、トルコの音楽に触発されて作曲したとされるトルコ行進曲は、もともと、劇音楽 アテネの廃墟の第5曲に登場します。

ピアノで演奏される版は、後にピアノ用に編曲されたものです。

まずは、 ベートーヴェン「トルコ行進曲」オーケストラ版

劇音楽 「アテネの廃墟」より第5曲

演奏はユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団の演奏です。

同 ピアノ版 アントン・ルービンシュタイン

(チャイコフスキーと同じ頃のロシアのピアニスト)編曲

エフゲニ・キーシン(ピアノ)BBCプロムスより

次はモーツァルトです。ベートーヴェンがまじめに、トルコ音楽を踏襲したのにくらべると、モーツァルトのは、機知に溢れてとてもかわいくて、いたずらっ子なところがあります。

モーツァルト 「ピアノソナタ第11番」から「トルコ行進曲」       ラン・ランのピアノ独奏です。

https://youtu.be/uWYmUZTYE78

さらにモーツァルトは、明らかに、歌劇「後宮からの誘拐」‘または「後宮への逃走」1782年作曲)というトルコを思わせる某国でのお話をオペラにしました。冒頭に演奏される序曲も、最初からトルコの香りがいっぱいに漂ってきます。恋人コンスタンツェを某国(トルコ)から救い出すという話です。

モーツァルト 歌劇『後宮からの誘拐』序曲K.384

ファビオ・ルイージ指揮ウィーン交響楽団 2006年日本ツアーのときの演奏です。

さらにモーツァルトには、トルコ風と題されたバイオリン協奏曲第5番があります。

第3楽章(ユーチューブの演奏では全部で29:05のうちの、20:13から)は、フランスの舞曲風に始まるのですが、22:17から、これがまったく肌合いの違うトルコ音楽になります。とくに24:10からは顕著で、まさに、トルコの軍楽隊のようなあらあらしい変奏があって、優雅から粗暴へと、モーツァルトはここでも遊んでいます。

モーツァルト バイオリン協奏曲第5番 ヒラリー・ハーン(バイオリン)

パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルハーモニー 2012年12月4-5日ドイツ・ブレーメン録音

 

最後は再びベートーヴェンです。ベートーヴェンは、あまり宗教的な人でなかったので、むしろ、ギリシャやトルコなどに興味をもっていたようです。第九のフィナーレで、テノールのソロが歌うところは、まさにトルコ行進曲の歓喜への行進です。楽譜にも、「アラ・マルチア(行進曲風)と記されています。

ベートーヴェン『第九交響曲』第4楽章から「アラ・マルチア」

ヨーゼフ・クリップス指揮ロンドン交響楽団 全体は1:05:38ですが、該当部分は、51:09からにあります。

ソリストは、ジェニファー・ヴィヴィアン(ソプラノ)シャーリー・ヴァーレット(メゾ・ソプラノ)ルドルフ・ペトラーク(テノール)ドナルド・ベル(バリトン)BBC合唱団レスリー・ウッドゲート(合唱指揮)

録音時期:1960年1月録音場所:ロンドン、ウォルサムストウ・アセンブリー・ホール 録音当時最新鋭を誇ったアメリカのエヴェレスト・レーベル35㎜磁気フィルムに記録・収録されています。

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「ホルン信号」と「ポストホルン」とは別?

2017 JAN 12 3:03:43 am by 野村 和寿

ボクは敬愛してやまない作曲家である、ハイドンと、モーツァルトに、この何十年ものあいだ、とんだ勘違いをしていました。とても些細なというかトリビアな話題なのですが、ハイドンの交響曲やモーツァルトのセレナーデのことです。 ハイドンの交響曲第31番は、副タイトルに、「ホルン信号(英語では、Horn signal)」というのが付いており、モーツァルトのセレナーデに「ポストホルン」というのがあるのです。ぼくは、白状してしまいますが、これをまったく逆に、あるいは混同して理解していました。 大学のオーケストラのホルンの名手 T先輩に指摘されて、もう何十年ぶりかで理解を改めることが出来ました。

ホルンのいろいろ

写真上がポスト(〒)ホルン、下がナチュラルホルン(狩用コルノ・ダ・カッチャから音楽用にだいぶ進化している)今のフレンチホルンと違ってピストンやロータリーがない。

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809年)は、少なくとも104曲以上の交響曲を作曲したことから「交響曲の父」と呼ばれますが、なかでも交響曲第31番は、副タイトルが、「ホルン信号」と呼ばれています。 なぜ、ホルン信号と呼ばれるのか? なぜ、ハイドンはこんな名前の交響曲を作曲したのか? 当時、伺候していたハプスブルク家(後にオーストリア=ハンガリー帝国)のアイゼンシュタットにあるエステルハージ宮(水晶の館と呼ばれます)で、1756年から1790年まで、1796年から1809年までと、なんと都合47年間も、お抱えの作曲家だったハイドンが、日々の宮廷生活からヒントを得て、交響曲に生かしていったといってもおかしくはありません。

ホルン信号を発するのは、「コルノ・ダ・カッチャ(直訳すると狩猟用の角笛)」と呼ばれる楽器でした。 この楽器は、通常、貴族たちの狩のときに、狩りをする人々の相互の連絡用として、鳴らされ、重宝されてきました。なにしろ、狩猟ですから、鉄砲を使うわけで。誤って別の貴族を撃ってはならないわけです。しかも、多くの狩猟犬をかかえているので、合図が聴こえるように、コルノ・ダ・カッチャは用いられました。 しかし、まだまだ音楽用に使える程度ではなかったので、これをもとにして、音楽用に改造されて完成したのが、ナチュラルホルンです。

ナチュラルホルンは、さらに進化して、現在の、フレンチホルンへと発展を遂げます。ナチュラルホルンは、今のフレンチホルンと外見は似ているものの、ピストンやロータリーがなく、音は基本的に倍音といって、音の系列が同じ音だけを出すのが基本的です。

ハイドン交響曲第31番から

ハイドン交響曲第31番第4楽章の第4変奏にはホルンの超絶技巧がある。第5変奏には通常のほかにチェロのソロがある。

ただ、技が6種類あって、音の吹き出し口を右手で、押さえ方を微妙に調整することで、なにもピストンなしでも、ドレミファの音階が出せるのでした。もちろん、演奏は難しいのですが、名手の手にかかれば、できないことでもない。 そして、ナチュラルホルンは、ごく弱いピアニシモから、強いフォルテシモに至るまで表現力が豊かなのです。それで、現代に甦った古楽器を使った演奏団体では、往々にして、昔のナチュラルホルンの柔らかな音色を生かして演奏するということまで行われています。

クリストファー・ホグウッド(1941-2014年)指揮エンシェント室内管弦楽団の演奏です。 https://youtu.be/H30PPIqVsSU

 

一方、モーツァルト(1756-1791年)のセレナーデ第9番「ポストホルン」に使われている、ポストホルンという楽器は、名前は似ているのですが、こちらはいわゆる喇叭(ラッパ族)の仲間です。郵便馬車に分乗して旅を続け、生涯のうちで、その3分の1を旅に費やしたといわれるモーツァルトが、いつもお世話になっている郵便馬車の警笛がわりのポストホルンに着目したとしても不思議はありません。モーツァルトは、貴族たちの前で宴会の世界で入場と退場の音楽を前と後につけたセレナードを作曲しました。この1779年モーツァルト22歳のときの、セレナーデ第9番K.320もそのうちの1曲で、特に第6楽章には、ポストホルンによるソロがあります。このユーチューブ映像ですと、曲のはじめからですと41:36から43:10の間になります。ポストホルンが、トランペット奏者によって、煌びやかに、高らかに鳴らされています。 宴会の音楽でも手を抜かないどころか、どこまでも典雅でしかも、清涼感あふれるところが、モーツァルトのモーツァルトゆえんたるところです。

ニコラウス・アーノンクール(1953-2016年)指揮ドレスデン国立歌劇場管弦楽団の演奏です。 https://youtu.be/tIVqr2xqzAk

なお、ベートーヴェン(1770-1827年)も交響曲第8番第3楽章で、ポストホルンを思わせる音楽を作曲しています。 1812年夏、ベートーヴェンも、「不滅の恋人」といわれるブレンターノ嬢(が有力とされる)と会ったとされる、チェコの温泉地カールズバードを訪れていますが、そんなときに郵便馬車を利用しているのです。モーツァルトと違ってこちらも、郵便馬車の和やかな馬車の揺れのような感じを音楽で表現しています。第3楽章は全体で、5:57ありますが、このうち、2:49から4:22までのところが、郵便馬車からベートーヴェンがヒントを得て作曲したといわれている部分になります。ただし、ベートーヴェンの場合は、それを、ポストホルンでなくて、ホルン(ナチュラルホルンや、現在のフレンチホルン)で演奏しています。このあたりが、混同を招くところの原因のような気もします。

オット-・クレンペラー(1885-1973年)指揮ニューフィルハーモニア管弦楽団の演奏です。

 

まとめです。ホルンという名前でも、ホルンの系統のナチュラルホルン(ハイドン交響曲31番) 現在のフレンチホルンがある。またトランペットの系統のポストホルン(モーツァルトセレナーデ第9番第6楽章)もあり、こちらは、通常ホルン奏者でなく、トランペット奏者が演奏することが多い。さらに、ポストホルンを模したベートーヴェン交響曲第8番第3楽章は、ナチュラルホルン、あるいは現在ではフレンチホルンで演奏される。

*本稿と直接関係ないのですが、ハイドンの交響曲第31番は、まだまだ、交響曲が定型になる前の作品であり、ホルン信号以外にも、オーケストラのほか、ソロ・バイオリン、ソロ・チェロ(ブログ上の楽譜の写真右)、そしてなんとソロ・コントラバスまでが登場してとてもユニークな音色が楽しめます。

*郵便馬車のことを、音楽書でみると、必ずといってよいほど「当時の未舗装の道路を郵便馬車でいくのは、現在の道路とは比べものにならないくらい大変だったろう」という文をみかけます。ところが、ウィーンで実際に当時の馬車をみかけ、乗車したときは、ウィーンの中心部が石畳であったこともありますが、実にクッションがきいていて、快適でした。18世紀に入るとドイツでは、市民階級をも巻き込んだ国際的な観光ブームがおこっていたそうで、1790年から1810年にかけて旅行手引き書がヨーロッパで300点も出版されています。たとえば、時代は若干さかのぼりますが、アドルフ・クニッゲ(Adolph Knigge 1752-96年)というドイツの作家による「ブラウンシュヴァイクへの旅」などという18世紀の旅行ブームの火付け役になった本も出版されています。音楽書だけでなく人間科学の分野の本も参考にすると、驚くほど違った光景が見られる一例です。(参考:東洋大学人間科学研究所紀要2008年8号)

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チェロという楽器をご存じでしょうか

2017 JAN 11 6:06:02 am by 野村 和寿

チェロという楽器をご存知でしょうか。

2010年と2016年の2回、ベートーヴェンの第九交響曲を、母校早稲田大学のOBのオーケストラで演奏する機会がありました。ちなみに、演奏団体は、早稲田でオーケストラを共にした50歳以上のメンバーのオーケストラです。

平均年齢はなんと67歳くらいで、ボクなど一番若いひよっこの部類に入っていました。

 

2016年第9演奏会チラシ

2016年5月8日上野・東京文化会館にて第九を演奏した早稲田大学2016フロイデメモリアル演奏会のチラシです。

ベートーヴェンの第九交響曲は、この世の混沌を表すような、弓の先で聴こえるか聴こえないかわからないくらいに、極小さく第1楽章が始まります。常に冷静に音の出るコンマ何秒か前に指揮者からくる指示と、楽譜に書かれた旋律の速度やニュアンスの指示を読み取り、右手で弓に伝え、左手の音程で瞬時に音に変えていくという作業を続けます。

第4楽章! 冒頭は、低音を担当するチェロのまさに「世紀の見せ場」です。満場の聴衆が固唾をのむ中、歌舞伎役者が見得を切るように、対話が始まります。「ここまでの音楽では『歓喜』は来ない」と、今までの旋律をことごとく否定するのがチェロの役です。満場の聴衆がチェロの動きを注視しているのが分かります。到達する「歓喜の歌」の最初は、小さく弾く必要があり、過度に気持ちの高ぶりを抑え、音が上滑りにならぬよう必死で押さえながら、楽器が一番いい音で鳴るように制御します。チェロで弾かれる朗々と歌う旋律が、満場の観客の注視の中で静かに流れます。合唱が入ってきました。オーケストラの伴奏で、合唱が絶叫します。オケと合唱の約400名が1つになり、「歓喜の歌」を高らかに歌い全力で疾走します。第9を弾くときは人生で何度かしか味わえない満ち足りた時間が過ぎていき、不思議な高揚感で至福なときです。チェロとともに生きる実感を持てるのです。

今回の演奏で、気がついたことは、第1楽章で登場する、付点音符がついた音の形(ター ンタタタタン)が、第4楽章の最後の最後で、同じようなところにつながっていること。つまり、あの第九の緊迫感は、最初から最後まで一貫していたことにきがつかされました。やはり、ベートーヴェンは演奏のたびに、新たな発見があるものです。

第九演奏中の本人

第九演奏中の本人です。

早稲田大学2016フロイデメモリアル演奏会の演奏風景です。ほんの少しですがお裾分けです。

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赤とんぼとシューマン

2017 JAN 8 5:05:06 am by 野村 和寿

前回のボクのブログで、「夕焼け小焼け」を御紹介しましたが、もうひとつの
「夕焼け・・・」ではじまる童謡「ゆうやーけこやけーの あかとんぼ」。そうです。今回は「赤とんぼ」を中心として、シューマンとの関係を語りたいと思います。ボクは長い間、「夕焼け小焼け」と「赤とんぼ」とを混同して疑いませんでした。申し訳ないです。

「赤とんぼ」は、1921(大正10)年に雑誌「眞珠島」に掲載された三木露風の詞を元に、山田耕筰が1927年に作曲した童謡です。

赤とんぼ(作詞:三木露風、作曲:山田耕筰 1927年)
1, 夕焼け小焼けの 赤とんぼ 負われて見たのは いつのひか
2, 山の畑の 桑の実を 小籠(おかご)に摘んだは、まぼろしか。
3, 十五で姐(ねえ)やは嫁にいき お里のたよりも 絶えはてた
4, 夕焼け小焼けの 赤とんぼ とまっているよ 竿の先

赤とんぼ 由紀さおり 安田祥子(うた)

シューマンの「ピアノとオーケストラのための序奏とアレグロ・アパショナート ト長調 作品54」を聴いてみますと、少なくとも、ボクの聴いた限りでも、
全体の演奏時間13:48のなかでも、2:53、3:06,3:15、4:48、5:47、5:56,7:35,10:31、10:43に山田耕筰の「赤とんぼ」中の「ゆうやーけこやけーの」のメロディーと、瓜二つの部分が登場してきます。
まずは、お時間があれば、この映像で聴いてみてくださいませ。

シューマン ピアノと管弦楽のための序奏と協奏的アレグロ op134
アンジェラ・ヒューイット(ピアノ独奏)、アンドリュー・マンツェ指揮BBC交響楽団 2011年プロムス 8月14日Prom48 Brahms&Schumann ロイヤル・アルバートホールでの演奏です。

よりその部分だけの抜き出した映像もありました。

1981年(昭和56)年4月12日付けの夕刊フジ紙に、作家の吉行淳之介氏(1924大正13年−1994平成6年)が発表した見出し「赤とんぼ・・・シューマンから飛び出した!!ピアノと管弦楽作品聞いていた そっくり旋律18回も」とまるで、スクープ記事のような大見出しの記事を掲載しました。
この夕刊フジの記事の元ネタはの文藝春秋の昭和56年(1981年)9月号に吉行淳之介の寄稿したエッセイからきています。
ボクがシューマンの「ピアノとオーケストラのための序奏とアレグロ・アパショナート」のなかで、数えて「赤とんぼ」のメロディーだと思ったのは9回でしたが、上記記事では18回とありました。
この記事以前にも1963(昭和36)年に石原慎太郎氏がドイツの友人から聞いた話として、ある雑誌で「ドイツの古い民謡だ」と発表し、当時存命中だった山田耕筰の猛抗議をうけています。

▇ボクの推理
山田耕筰(1886明治19年〜1965昭和40年)は、1910(明治45)年から1914(大正3)年にかけて、ドイツ・ベルリン(当時のプロイセン王国)の王立アカデミーに留学して、作曲家マックス・ブルッフ(1838−1920年 チェロの名曲「コール・ニドライ」の作曲者で有名)に師事しています。留学中に日本初の交響曲「勝ちどきの平和」を作曲したりしています。
彼が帰朝後「赤とんぼ」をスケッチして作曲したのは1927(昭和2)年です。

いっぽう、ロベルト・シューマン(1810〜1856年)が、本曲を作曲したのは1849年のことです。
山田耕筰が、ベルリン留学中にシューマンの「ピアノとオーケストラのための序奏とアレグロ・アパショナート ト長調 作品54」を演奏会で聴いたことは、十分にありえるのです。
ボクは、シューマンはドイツの古い民謡からメロディーを採った→山田耕筰はそのシューマンからメロディーを採って「赤とんぼ」を作曲したのではないかと思います。ただ、クラシックの世界では、別の作曲家のメロディーを、ほかの作曲家が、本歌取りするという例はほかにもたくさんあり、それが、悪いといっているのではなくて、クラシック音楽というのは長い間、メロディーをそうやって伝えてきたともボクは、考えています。

*ちなみに、以前「赤とんぼの謎」というCDがキングレコードから2004年に発売されたことがありました。今でも購入可能です。世界40カ国以上で歌われている「赤とんぼ」の謎について集めたテノール・ヘフリガー、バイオリン・カンポーリ、フルート・ランパルまで24種類の音源を集めたCDでした。

赤とんぼの謎

CD キングレコード2004年
9月発売 フルート・ランパル、イ・ムジチ合奏団、バイオリン・カンポーリ、テノール・ヘフリガーなど24種類の赤とんぼが聴ける。

*ちなみに本題から外れますが、シューマンの映像中、ピアニスト・アンジェラ・ヒューイットが弾いているピアノは、ベーゼンドルファー、スタインウェイ、ヤマハといった大メーカーのピアノではなくて、イタリアのFazioliファツィオリというブランドのピアノです。1981年に出来たばかりの新進ですが、最近人気になってきました。音が柔らかで優しい音が特長です。
ピアノ工房はイタリア・ベニスから北へ60キロメートルのサチーレにあります。ご興味ある向きには下記をご覧くださいませ。
社史の映像はこちらから
社史はこちらから
工場ツアー映像はこちらから

*シューマンは音楽評論家もしていたので『音楽と音楽家』(岩波文庫青502 Ⅰ)という興味深い評論集が出ています。ちなみにこの評論集は、音楽評論家の吉田秀和氏(1913大正2年〜2012平成24年)が翻訳し、吉田氏の最初の著作で1941(昭和16)年2月に創元社から出版されました。なんと戦争の始まる年です。今も絶版にはならず刊行中です。非常に面白いです。

音楽と音楽家 シューマン

音楽と音楽家 ロベルト・シューマン著 吉田秀和訳  岩波文庫青502Ⅰ

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プッチーニと「夕焼け小焼け」の関係

2017 JAN 7 8:08:43 am by 野村 和寿

ぼくはオペラを聴くときに、どうしても音楽、メロディーから先に聴いてしまい、ストーリーが後になってしまう傾向があるのですが、メロディーからときどき面白いことに気づかせられることがあります。プッチーニと日本の童謡で誰でもご存じの「夕焼け小焼け」について今回は述べることにします。

ジャコモ・プッチーニ(1858−1924年イタリア)

プッチーニ

ジャコモ・プッチーニ(1858-1924年)最後の作品が『トゥーランドット』です。

といえば、『マノン・レスコー』1893年作、『ラ・ボエーム』1896年作、『トスカ』1900年作、『マダム・バタフライ(蝶々夫人)』1904年作と、立て続けにヒット・オペラ作品を作曲していったが、『トゥーランドット』は、1924年11月彼の死によって未完に終わりました。このオペラを契機に、ロッシーニ、ヴェルディ、ドニゼッティ、レオンカヴァッロ、そしてプッチーニと続いたイタリアのグランド・オペラは一気に衰退していくことになるのですが。
『蝶々夫人』の作曲時に、日本から日本の歌謡の楽譜を大量に取り寄せたことはよく知られていて、「お江戸日本橋」のメロディーが、『蝶々夫人』の中に出てきたりします。

そして歌劇『トゥーランドット』を観ていると、どこかで聞き覚えのあるメロディーが聴こえてきます。そうです。これは童謡『夕焼け小焼け』(草川信作曲中村雨紅作詞1923年)の『やーまのおてらのかねがなる』の音楽部分に非常によく似ています。というよりもそっくり同じです。
この音楽は、プッチーニが、きっとまた、東洋を舞台にした、オペラを作曲するにあたって、中国も、日本も、東洋である一緒に考えていて、中国を舞台にしているのに、日本の「夕焼け小焼け」からメロディーを拝借したと考えてもおかしくないのではないかと思われます。

夕焼け小焼け 草川信作曲 中村雨紅作詞 1923年
1 夕やけこやけで 日が暮れて
山のお寺の 鐘がなる
お手々つないで みなかえろ
からすといっしょに かえりましょ

2 子供がかえった あとからは
まあるい大きな お月さま
小鳥が夢を 見るころは
空にはきらきら 金の星

夕焼け小焼け号

写真は路線バス「夕焼け小焼け」号。歌を作詞した中村雨紅の故郷、東京府南多摩郡恩方村(現在の東京都八王子市)の「夕焼小焼」バス停にて。バスは2006年まで運行されていたボンネットバスが運行されていました。(ウィキペディアより引用)

DATA:プッチーニ(1858-1924年) 歌劇『トゥーランドット』(初演1925年)
1919年作曲にとりかかり、途中1921年から22年作曲が中段されるが、1923年作曲再開1924年11月29日プッチーニの死により未完におわる。アルファーノが補作し1925年4月ミラノ・スカラ座でトスカニーニの指揮により初演。

映像DATA:ジャコモ・プッチーニ 歌劇『トゥーランドット』
トゥーランドット:ガブリエレ・シュナウト
カラフ:ヨハン・ボータ
リュー:クリスティーナ・ガイヤルド=ドマス
ティムール:パータ・ブルチュラーゼ
ウィーン国立歌劇場合唱団テルツ少年合唱団
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:ワレリー・ゲルギエフ
演出:デイヴィッド・パウントニー
収録:2002年8月、ザルツブルク祝祭大劇場

今回は、よりプッチーニの意図に沿った形で、第3幕の悲劇のヒロイン「リューの死」以降をイタリアの現代音楽の作曲家ルチアーノ・ベリオが補作した版をお聴きください。

ぼくが、数えた中でも第1幕13:45 17:30、20:50、34:08 58:12 1:13:04,1:15:50
第3幕 1:31:18と、なんどもなんども・・・
「やーまのおてらのかねがなる」のメロディーが聴こえました。もしお時間があったら、ぜひ、「夕焼け小焼け」を念頭に入れて、このオペラを聴いてみると面白いと思います。
ベリオ補作版でさえも、これだけの「夕焼け小焼け」が出てくるのです。通常のアルファーノ補作版であれば、さらにエンディングにこれでもかと「夕焼け小焼け」がでてくると思います。

さらに調査を続行していくと、思わぬ事が分かってきました。
中国の古謡に「‪茉莉花(ジャスミン)」という曲があり、これを聴いていくと
まさに「夕焼け小焼け」の「やーまのおてらの」にそっくりなのです。この曲は清末から伝わっている曲だそうです。つまり年代から推定すると、「夕焼け小焼け」のほうが、中国の古謡から採っているのかもしれなません。あるいは偶然?

いやいやプッチーニは、日本のメロディー「夕焼け小焼け」から採っているのだとすると、こういう状況証拠もあります。
1900年オペラ『蝶々夫人』作曲時に、当時の在イタリア大使夫人 大山久子から、日本の音楽のレクチャーを受けてとあり、大山久子(大山巌大将の親族で長州藩出身 夫は薩摩藩出身)の紹介で、1902年には、海外公演中の日本の女優川上貞奴にもパリ万国博のときに会って、日本の音楽について取材もしています。そのときの印象があって、日本から新曲1922年作の「夕焼け小焼け」の楽譜を取り寄せたのかも知れません。

また、元に戻って、プッチーニの『トゥーランドット』は、ぼくの頭の中では、いまだに「夕焼け小焼け」で鳴っているのです。

「トゥーランドット」というと、ついつい、「ネッスン・ドルマ[誰も寝てはならぬ]が有名でそこばかりが、クローズアップされがちですが、オペラの楽しみはそれだけではありません。すこしでもオペラを知って欲しいと思いまして書いてみました。

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成瀬巳喜男の『銀座化粧』を観る

2017 JAN 6 2:02:28 am by 野村 和寿

『銀座化粧』成瀬巳喜男監督

1951年公開当時、田中絹代(41歳)、香川京子(19歳)、成瀬巳喜男監督(45歳)だった。

小津安二郎(1903-1963年)と並んで、昭和の名匠の一人に、成瀬巳喜男(1905-1969年)がいます。小津が、ノーブルな古くからの伝統的な肌合いを求めたのに対し、成瀬は、登場人物1人1人の個性に優しい眼差しで臨んだ監督であるとボクは思っています。ストーリーだけに終わる現代の映画とはずいぶん違います。まずは、全体の感じ、雰囲気こそ大事という姿勢なのです。

『銀座化粧』は、昭和26年に成瀬が新東宝で撮ったわずか87分の佳作です。ボクは、一度観たときは、いったいどこが面白いのか皆目見当が付きませんでした。その主たる理由は、公開当時の昭和26年頃の銀座の風俗があまりにも今とかけ離れていて、別世界の出来事のようでシンパシイが湧かずじまいだったこと、そしてなんのストーリーもないという、普段はどうしてもストーリーを追いかけている我が身にとっては、まことにつらい映画だったのですが、再見するにおよび、随分と感じ方が異なりました。この映画を好きになっていく自分がいました。

本作には、とにかくたくさんの子どもたちが登場します。チンドン屋や、紙芝居屋に群がる子どもたち、歌いながら登校する通学途上の子どもたち、バーにやってくる美空ひばりのような子役歌手、花売りの少女、その数は、ベビー・ブーマー正にそのもので、今よりも子どもの数がずっと多く、街のあちこちで子どもを見かけることができます。

新東宝『銀座化粧』(1951年公開)

新東宝『銀座化粧』(1951年公開)写真左上の青年・石川京助役は、堀雄二は。後年、TBSテレビの「7人の刑事」の捜査一課長役だった役者の若き日の姿です。

 

銀座の近く、今の中央区新富町と思われる、湾岸沿いには、遠くに聖路加病院の教会堂の塔がみられ、子どもたちの遊び場である空き地がたくさんあり、台場への漁も行われていました。子どもたちはどのシーンでもみんな元気で、けなげで素直なのです。

主人公津路雪子(田中絹代)の息子春雄(子役・西久保好汎)も、明日、上野動物園に連れて行ってもらえる約束を反故にされたり、無断で、お台場へ漁師にくっついて、魚をもらってきて、親の雪子をはじめ周囲の大人たちを心配させたりします。しかし夜母親が不在でも自分で自分の布団を敷いて就寝するといういい子でもあります。

津路雪子は、今で言えばシングル・マザーの走りであり、小学生の男の子を細腕一本で養う為に、銀座のバー・ベラミで夜、女給をしています。

女給にとって、本来、子どもは足手まといな存在なのですが、その子どもの視点で、大人をみつめ、しまいには、人間というものは、大人も子どもも、たくさんの人々の一員として、大事な存在なんだと観客に気づかせてくれるのです。

銀座のバー・ベラミは、昭和17、8年からこの場所にあった場末のバーです。女給たちの間での客の飲み代の踏み倒し、女給たちの客への小さな嘘、バーの身売り話、借金の用立てをする話、客の下手な歌を延々と聴かせられる話など、その一つ一つは実に細々としたごくごく普通のエピソードに過ぎません。

年増の女給・雪子は、年の頃なら40歳くらいの設定です。つきあっていた情夫が、雪子に子どもができたことで、冷たくなり、今は、新富町の長唄の師匠宅の2階で母子二人で借家暮らしをしています。既に落ちぶれた元の情夫・藤村(三島雅夫)はときどき金の無心に、雪子の元へとやってきます。さらにまだ若い女給・京子(香川京子)も2階に同居しています。

大家の長唄の師匠の亭主は競輪に夢中ですってばかりいましたが、一度だけ大穴をあてます。そんな日もあるのです。

当時の銀座のバーの女給といっても、春を鬻(ひさ)ぐなどということは一切なく、自分の身を大切にし、身を売るなどということは良しとせず、囲われ女の口もくるにはくるのですが、決然として、自分の女としての矜持と誇りとをもって銀座に生きているのです。

地方の素封家の次男坊で、独身の測候所に勤務する青年・石川京助(堀雄二)が、上京してきて、わけあって、替わりに、田中絹代が東京案内をすることになります。青年の役は、後年、TBSテレビの「7人の刑事」の捜査一課長役だった役者の若き日の姿です。雪子は、学究肌の石川青年を上野動物園や、銀座通りを案内するのですが、通りかかった自分が女給をしているバー・ベラミが、フランスのモー・パッサンの同名小説の主人公の名前(美しい男友達といのが原意)だということを初めて聞かされます。純粋な石川青年に少し心ときめく雪子でしたが。子どもが行方不明になったおかげで、新橋演舞場に石川を連れて行けなくなり、さらに替わりに案内を、若い女給・京子(香川京子)に任せます。若い青年男女は、ギリシャ神話の星座の話など、星空の話で盛り上がります。若い石川と京子が意気投合するのに時間はかかりませんでした。

二人は意気投合し、恋仲となり、あえなく雪子は元の生活へ。

雪子の息子も台場への漁に行っていた船にのせてもらっていたとかで、無事雪子の元へ。そして、また普通の生活が始まります。

銀座に暮らす有象無象の人々、銀座には、多くの人間が生計をたてており、その生活そのものは、極く些細なことの積み重ねに過ぎません。それは、ちょうど、幾百万のごく弱い光しか放たない星たちが、夜空にはたくさんあるかのように。

情夫の藤村は自分の子である春雄に小遣いをあげようとして、三つ揃えの背広のポケットをあちこちまさぐりますが、手持ちは小銭さえもありません。あきらめて、去って行くのがラストです。

▇もしも、本作品をのぞいてみたくなりましたら、下記よりYou Tubeで、本編を観ることが可能です。


『銀座化粧』その1 本編映像その1はこちらから


『銀座化粧』その2 本編映像その2はこちらから

ストーリーを追うのではなく、一人一人の心情にスポットを当て、淡々と始まり淡々と終わる。そんな成瀬巳喜男の世界を垣間見ることが出来ます。小津映画のように上流社会の人間は一人も出てこないけれど、しっかりと身を寄せ合って雄々しく生きているのです。こんな映画があったのです。本作品は、2013年3月末に閉館した映画館・銀座シネパトスの最終上映作品でもありました。

 

▇『銀座化粧』監督 成瀬巳喜男 出演 田中絹代 香川京子 堀雄二 東野英治郎 三島雅夫 新東宝 1951年公開

 

成瀬巳喜男

成瀬巳喜男監督(1905−1969年)

▇成瀬巳喜男(1905−1969年)

プロフィール 1920年松竹大船撮影所入所、小道具係を皮切りに映画生活をスタートさせる。五所平之助監督に師事1930年監督デビュー、戦後東宝に移籍。東宝争議でフリーとなり、東宝、新東宝、大映、松竹で監督。代表作は『めし』(原節子1951年東宝)、浮き雲(高峰秀子 1955年東宝)、死後、スイスロカルノ映画祭での特別上映を機に一躍名声が世界的になる。

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ルーズベルトの高血圧

2017 JAN 4 17:17:28 pm by 野村 和寿

フランクリン・ルーズベルト第32代米大統領 太平洋戦争をはじめ、第2次世界大戦時の米国大統領。(1933-45年在任)の血圧のグラフというのを、ぼくの教育入院した病院の講座で見せられました。下の写真のグラフです。年代と起こった事件とがリンクされています。

たとえば、ノルマンディー上陸作戦、ヤルタ会談などで血圧の変化が見て取れます。

ルーズベルトの血圧

大統領在任時の時系列と血圧の経過をグラフにしたものです。

それによれば、1937年に130/80だった血圧が、1945年には300/180に上昇し、死因は脳出血とのこと。上が300などというすごい血圧があるんだなあと思いました。なにしろ下でも180ですから。

大統領ともあろうものが、周囲に医者の管理もあったはずなのに、どうして血圧があがったかといえば、血圧を下げる薬が当時なかったんだそうです。医師団はなすすべがなかったので、動脈硬化、腎機能低下、狭心症、腎臓、脳梗塞ときて、最後は脳出血まで血圧の高いのを放置するとこうなりますよというお話です。ボクの通院している病院に、教育入院した座学「糖尿病と心臓病」で、聞いたエピソードです。

ルーズベルト大統領

1882−1945年(大統領在任期間1933−1945年)
CORNEL LIBRARY President Franklin D. Roosevelt seated at desk with microphones.

なお、ルーズベルトの死因については、別の説の本も出版されています。『ルーズベルトの死の秘密 日本が戦った男の死に方』スティーヴ・ロマゾウ、エリック・フェットマン著・渡辺惣樹訳草思社刊

この本では、死因を左眉上にできたメラノーマ(皮膚癌)が頭部と腹部に転移とあります。ロマゾウ氏は神経科専門医、フェットマン氏はニューヨーク・ポスト紙ほかに執筆の政治記者です。

『ルーズベルトの死の秘密』詳しくはこちらから

 

ルーズベルト大統領の急逝に際して、ナチスドイツは激しい非難の声明を出したのに、日本は、鈴木貫太郎首相が、同盟通信に命じて丁重なる弔電を打っています。

昭和20年4 月といえば太平洋戦争も末期も末期。ジュネーブ条約違反の市民無差別爆撃である3月10日の東京大空襲の後、戦時も戦時でした。

鈴木貫太郎首相が、同盟通信社に命じて、短波放送で送った文面は以下の通りです。

「今日アメリカが優勢であるのは、ルーズベルト大統領の指導力の賜物でありましょう。であるから私は、大統領の死がアメリカ国民にとって非常な損失である事を理解します。ここに私の深甚なる弔意を米国民に表明する次第です。しかし私は、ルーズベルト氏の死によって、貴国国民の戦意が変わるとも思っていません。同じように我々も、米英のパワーポリティックスと世界支配に反対するすべての国家の共存共栄のため、戦争を続行する決意をゆるめることは決してないでしょう」

鈴木首相は同じく、ルーズベルト夫人にも非常に丁寧な哀悼の意を表した親書を送っています。鈴木貫太郎については、いずれ別途、御紹介したいと思っています。

CORNEL LIBRARY President Franklin D. Roosevelt seated at desk with microphones.

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命のビザ、遙かなる旅路

2017 JAN 4 5:05:07 am by 野村 和寿

北出明著『命のビザ、遙かなる旅路 ~杉原千畝を陰で支えた日本人たち』(交通新聞社新書044)読了。

命のビザ、遙かなる旅路

杉浦千畝を陰で支えた日本人たち 交通新聞社新書

リトアニアの首都カラナスの杉原千畝総領事の、ユダヤ人難民への日本通過ビザ発給は、つとに有名だが、本書は、ビザ発給を受けたユダヤ人たちが、シベリヤ鉄道の終点ウラジオストクから、国際航路で就航していた日本郵船の「天草丸」に乗船して敦賀港へ向かったとき、実は、JTBの前身、ジャパン・ツーリスト・ビューローや、日本郵船の多くの日本人たちが、半年以上に亘り、彼らを献身的にサポートしていた事実が書かれています。

難民が着いた敦賀市では、戦雲急を告げる中、中学の校長が「ユダヤの民は、今は、ぼろを着ているが、高名な学者や芸術家、銀行家などを多く排出しており、ぼろをきているからといって、けっしてさげすんではいけない」と子ども達に訓示。

ユダヤ人たちに、無償で銭湯を提供したり、宿を提供したり、また、難民たちにりんごを配る少年がいたなどのエピソードを発掘しています。難民たちは、敦賀から列車で、横浜や、神戸に向かい、アメリカを目指しました。著者は長く国際観光振興会に奉職後、たった一人で、ユダヤ人難民の生き残りを探し、家族達を探し当て、アメリカ中を旅をします。

リトアニア・カウナスで発給されたビザを携えたユダヤ難民は経由地である日本の敦賀をめざしました。敦賀市ホームページより引用

リトアニア・カウナスで発給されたビザを携えたユダヤ難民は経由地である日本の敦賀をめざしました。敦賀市ホームページより引用

この事実を当時のユダヤ難民たちの生き残りや家族へのインタビューを通して明らかにしていく迫真のドキュメンタリーです。多くの名もない日本人たちが、敦賀で、神戸で、ユダヤの難民を助けたという事実は重く、運命の糸でつながっていることを感じてしまいます。こんなことを70年経って発掘した本が出るとは本当に、すごいことだと思いました。

▇本書から見つけた興味深いことがら▇

1,本書には「ヴェルディヴ事件」のことが若干触れられていました。1942年7月19日早朝ヴィシー政府下のフランス警察は、自主的にパリ在住のユダヤ人1万3000人を検挙。うち4115人の子、2016人の女性、1129人の男性をエッフェル塔近くの「ヴェルディヴ」と呼ばれる自転車競技場に閉じ込め、最終的にはアウシュビッツに送り込まれ、生存者はわずか25人だった。この事件が公にされたのは1995年シラク大統領の時で、そのときはじめてフランス政府は謝罪したということでした。

2,1937年満州国ハルピンで開かれた第1回極東ユダヤ人大会を開き、ユダヤ人の立場に同情したのが、関東軍指揮下のハルピン特務機関長樋口季一郎中将だったこと。満州国の経済圏の確立を企図したことがうかがえるとはいえ、関東軍はナチスを非難し、ユダヤ人に同情。 1938年3月満州と国境にあるソ連側のオトポール駅にナチスに追われたユダヤ難民が大挙して流れ込んだ。寒さと餓えに苦しむ彼らを救ったのが、で、ユダヤ難民をハルピンに逃れることが出来た。というエピソードにも触れています。

3,ユダヤ人たちを、ウラジオストクから敦賀まで運んだ船、天草丸は数奇な運命の船でした。ドイツで竣工し、帝政ロシアに売却され、日露戦争で、日本海軍に拿捕、そして最後は、米海軍に撃沈されます。つまり、ドイツ→ロシア→日本→アメリカ と結びつきます。しかも時代は異なるものの、ユダヤ人を迫害していたドイツと、ロシアで活躍していた船が、日本でユダヤ人を助けることになるのでした。

天草丸の歴史

ウラジオストク→敦賀間でユダヤ難民を乗せた天草丸

ウラジオストク→敦賀間でユダヤ難民を乗せた天草丸

ドイツ北部バルト海に面する港湾都市ロストックのネフタン造船所で1901年浸水し、帝政ロシア東清鉄道に売却、され、貨客船アムールと命名される。1905年日本海軍が、拿捕、天草丸と改名される。

1906年に大阪商船に払い下げ、1929年北日本汽船に売却、その後日本海汽船に引き継がれ、敦賀~ウラジオストク間に就航。1932年、ジュネーブの国際連盟会議に出席する全権代表の松岡洋右:後の外務大臣が乗船していることである。

天草丸その2

数奇な運命をたどった天草丸

1943年合併から大阪商船に移籍、1944年台湾近海で、米海軍潜水艦バングとレッド・フィッシュの両潜水艦の水上雷撃により沈没

 

 

 

4,杉浦千畝の発給したビザの有効期間はわずか10日間でした。これではとても日本からアメリカへの乗船までの期間が確保できません。窮状を聞きつけたユダヤ研究家小辻節三は、松岡が南満鉄総裁時代の部下だったことから、窮状を当時の外相松岡洋右に直訴。松岡は「ドイツ・イタリアと同盟は結んだが、ユダヤ人を殺せとまでは約束していない」として、小辻に秘策を伝授。それは、元官僚らしく、ビザの延長権限は地方公共団体の警察にあることを話し、これが認められれば、外務省はぐうの根も出ないとアドバイス。そこで、小辻は神戸の警察幹部に、1回のビザ延長15日間を認め、事実上何度も申請することで、無期限までビザ延長が可能になったのです。

小辻節三については、下記のHPで詳細がありました。

ユダヤ人ビザに奔走した小辻節三についてのHP

敦賀市によるユダヤ難民関係のHP

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大森実の『戦後秘史』を読了

2017 JAN 3 7:07:42 am by 野村 和寿

1975年に刊行された、大森実の『戦後秘史』(講談社刊)を、アマゾンで1-5巻まで揃えました。ぼくはこの本を、大学のときに、本当にスゴイジャーナリストがいるもんだと、感動して読んだのを思い出します。それからもうかれこれ30年、再び読んでいます。

古書が揃えられるのは、アマゾン恐るべしです。

大森実著 戦後秘史

戦後秘史料全10巻その1
1975(昭和50)年第1冊講談社より刊行開始

元毎日新聞の国際事件記者 大森実が、終戦直前、終戦直後に、関わった人々に直接取材する時間がないと、精力的に、インタビューを重ねた力作です。

文章は、まるで目の前で事件が起きているように新聞記者の平易な文章で血湧き肉躍ります。各巻には、直撃インタビューが掲載されていて、当事者の肉声が聴けます。その多くは既に鬼籍に入っているので、今や話を聞けない人々ばかりです。

1 日本崩壊 児玉誉志夫(上海海軍児玉機関長)

2 天皇と原子爆弾 阿南綾(陸軍大臣阿南惟幾大将未亡人)

迫水久常 (鈴木貫太郎内閣 書記官長)

松本俊一(鈴木貫太郎内閣 外務次官)藤村義朗(海軍中佐

在スイス日本公使館駐在海軍武官)

3 祖国革命工作 野坂参三(日本共産党議長 参議院議員)

西氏恒次郎・ジョー小出(元アメリカ共産党員)

4 赤旗とGHQ ジョン・エマーソン(OWIスタッフ 元駐日公使)

テオドル・コーエン(GHQ労働部長)

志賀義雄(日本のこえ全国委員長)

鹿地亘(作家)

5 マッカーサーの憲法 鈴木九萬(横浜終戦連絡委員会 委員長)

後藤隆之介(近衛公ブレーン 昭和同人会代表委員)

近衛通隆(東大助教授)いずれも肩書きは本中のもの

6 禁じられた政治

曾禰益(終戦連絡事務局政治部長)敗戦時のポイントを握る外交部長

塚原太郎(GHQ民政局公職審査課適正分析官・元米国陸軍中尉)

反軍国 主義の帰米二世

福田篤泰(第一次吉田内閣総理首席秘書官)吉田茂の最大の事情通

都留重人(GHQ経済科学局アドバイザー、朝日新聞論説顧問)

財閥解体に取り組んだ第一級の経済学者

エリノア・スメドレー(GHQ民政局財閥問題担当官)

財閥解体の精密な証言者

岩崎昶(あきら)(元日映製作局長)

吉田が圧(おさ)えた「日本の悲劇」

7 謀略と冷戦の十字路

鹿地亘(作家)朝鮮戦争と絡んだ運命の変遷

山田善二郎(日本国民救援会中央本部事務局次長)鹿地亘の救出者

9 朝鮮の戦火

カール・バーナード(”タスク”・フォース・スミス戦闘部隊中隊長)

生々しい歴戦の証言者

ヒュー・ブラウン(第二十四師団二十一連隊第三大隊L中隊曹長)

徹底的に戦闘した鬼軍曹

韓載徳(『朝鮮中央通信社』主筆補兼外信部長)

『金日成将軍伝』を口述筆記

呉基完(北朝鮮人民軍第一〇五戦車旅団付政治将校)

三十八度線を突破した北朝鮮軍将校

大森実 戦後秘史その2

戦後秘史第9巻・第10巻 1976(昭和51)年初版。

9 講話の代償

ジョン・アリソン(講和工作当時 米国務省東北アジア局長 次官補を経て

吉田政権の駐日大使)対日講和の唯一の生き残り証人

ウイリアム・ディーン(朝鮮戦争時、米国第二十四歩兵師団長)

三十八度線を越えて生還してきた男

10 大宰相の虚像

リチャード・フィン(米国務省政策立案スタッフ)対日戦略に携わった米

政府きっての日本通

那須聖(毎日新聞元ワシントン特派員)池田・ロバートソン会談の取材秘

▇大森実著戦後秘史 第1巻 日本崩壊(講談社文庫81年8月15日刊)。

巻末に収録された1974年5月25日に東京銀座数寄屋橋の塚本素山ビルで行われた右翼の大物児玉誉志夫(上海・海軍児玉機関長)との、緊迫したインタビューは、大森実の真骨頂でありました。

戦時中は、上海特務として、戦後の裏面史に見え隠れする児玉の、むしろフランクな天皇観などの意外な一面を、ジャーナリストが浮き彫りにする。緊迫感がいまでも伝わってくる圧巻。児玉機関の金塊が、鳩山に流れ、自民党の結党の資金になったことなど今にもつながる内容でした。

・・・・

それから 半年かけて、元毎日新聞の大森実氏の著書「戦後秘史」全10巻を読了しました。

元新聞記者の筆致は明快で分かりやすく、無駄のない文章で、おびただしい取材によって、戦後登場した宰相から元軍人、共産党の幹部、成金の親分まで、幾多の人物に取材し、その人物像をあぶりだしていました。自分の到底知ることのなかった有象無象に現れては消えていく人物たちが、それぞれの立場でもって、戦後の混乱の中を泳ぎ、そのどの人物たちも「日本」という曖昧で独特な国家を再建していくなかで、懸命に努力し、動いていたことが活写されています。

昭和51年(1976年)の刊行。取材当時は、終戦からまだ30年しか経過しておらず、GHQのニューディーラーや参謀本部の旧軍人や、日本側の終戦対応の人たち、右翼の大物、成金や、左翼の大物など、存命であり、取材ができた最後の年代でした。曖昧模糊とした日本独特の人物の動きは、今と少しも変わっていないように思いました。偶然と偶然が重なり合って、大きなうねりとなり、「歴史」というものの、表裏を構成し、余人の想像とは違った方向に流れていくものだと思いました。この10冊は、後世に残る労作だと思います。

 

「戦後秘史」の中でみつけた、ごく小さいエピソード記事だったのですが、ボクにとって興味深いこと。

日本郵船 信濃丸

1900年英国・グラスゴー竣工、1951年廃船

「日本郵船 信濃丸の数奇な運命」です。

なにしろ、この船1900年に、イギリス・グラスゴーで竣工、シアトル航路用貨客船として、イギリス・グラスゴーで竣工。シアトル航路に、作家の永井荷風が乗船、1904年に日露戦争が起こると、仮装巡洋艦になり、対馬海域で哨戒任務についたときに、なんと、バルチック艦隊の船影を日本海軍として初めて発見し、「敵艦見ゆ」を打電、日本海海戦の勝利につながったのです。

その後、シアトル航路に復帰、乗船名簿に亡命者孫文の名前があります。1930年に日ロ漁業に売られ、太平洋漁業のサケマス船に転用、折からの太平洋戦争中には、陸軍に徴用され、輸送船として活躍しますが、戦没せず活躍を続けます。まんが家水木しげるが、乗船しています。戦役を、戦後まで生き延びます。

戦後、今度は、舞鶴を母港に、引き揚げ船として活躍し、シベリアからの帰還兵の輸送にあたります、作家の大岡昇平が、乗船名簿にあり、1951年にスクラップとなるまで活躍を続けたのです。なんと日露戦争、太平洋戦争と2度の戦役を生き延びて戦後まで活躍した船、船のことを、よく彼女にたとえますが、こんなに長生きでしかも、強い船があったなんてちょっと驚きでした。

▇大森実プロフィール

1922−2010年 神戸生まれ 神戸高商卒業 1945年毎日新聞大阪本社入社 ワシントン支局長、ニューヨーク支局長、外信部長、ベトナム戦争報道でライシャワー駐日大使の不当干渉に屈した毎日新聞社に抗議して1966年退職 UCI(米国カリフォルニア大学アーバイン校常任理事 フリージャーナリストとして、UCLA国際ジャーナリスト賞、ボーン・上田国際記者賞、日本新聞協会賞、ギャラクシー賞などを受賞。カリフォルニア州ラグナビーチに住居をかまえた。戦後秘史 全10巻、人物現代史全13巻

大森実氏の死を報じる毎日新聞

大森実氏の死を報じる2010年6月28日付け毎日新聞特別版

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イタリア人の見た富士山

2017 JAN 2 5:05:14 am by 野村 和寿

あけましておめでとうございます。ぼくは冬になるとほぼ毎日、ぼくの自宅のある東京・世田谷のマンションから、富士山の写真を撮っています。

自宅から見た富士山

自宅から見た2017年1月1日朝の富士山です。陽光を受けて冠雪した富士山が輝いています。                  camera:Canon EOS5DmkⅢ lens:Leitz teryt 500mm f8

 

最近、東京の空気が冬で澄んでいるのに加えて、大気が昔よりも乾燥しているそうで、世田谷からでも、富士山は綺麗にみることが出来るようになりました。

ぼくの好きなイタリア人学者・エッセイスト、登山家、写真家、人類学者と多彩な活躍をみせてフォスコ・マライーニの綴った富士山への思慕を綴った記述は、我々日本人に、とても新鮮な示唆を与えてくれます。少し長いのですが、『随筆日本イタリア人の見た昭和の日本』より引用してみます。

 

ある曲がり角にさしかかるとまことに天高く世界で最も知られた火山のひとつ、

そして最も美しい富士山が姿を現した。17世紀の終わり頃、魅惑的な詩人であり、強い情熱の持ち主であった松尾芭蕉は、冬の一日、この峠を越えながら嵐をはらむ雨雲の下にいた。富士山を目にすることを願ったが、それは叶わぬ願いだった。舗装された道路を自動車で行く現在と違い、芭蕉の時代にあって旅をすることは、徒歩または馬の背に揺られていくことであり、労苦をともなう企てだった。失望は残酷なものであったが、芭蕉は備忘録に次のように書き置いた。

 

霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き

(素晴らしいのはまた曇りの日 その日は雨が富士を隠してしまうから)

2017年1月1日の富士山の夕焼け

2017年1月1日の富士山の夕焼けです。                                                                                                                                               camera:Canon EOS5DmkⅢ lens:Canon zoom lens EF100-400mm lisⅡ usm f4.5-5.6

 

きょうもまたそんな1日だった。すでに昼前に地平線に一群の綿雲が姿を現した。もっと遅い時間になれば、逃れることのできない靄の天井がその周囲を補うことだろう。けれども、そのあいだにも富士はひとりその稜線の気高さのうちに聳え立っている。

もちろん、その偉大な山がいっそう高く、いっそう荘厳で、またいっそうカレイに見ることができる場所はほかにもたくさんある。だがわたしの脳裏に浮かぶのは、富士山の北側に宝石のごとく煌めく富士五湖の岸辺で過ごした冬の日々である。

1月1日の富士山の夕焼けその2

雲間に太陽が沈んだばかりの富士山です。2017年1月1日夕刻撮影。camera 上記と同じ。

その時、富士の頂は、一月の穏やかな太陽の赤い残光を受け、氷りに埋もれた輝く秘宝のように、ガラスの光を彼方へ反射していた。あるいは、山麓の田園での春の日々、歩を進めるたびに、咲き乱れる桜の花と純白の頂きの運命的な出会いが繰り返される。あるいはまた夏の海での日々、太平洋の波は、長旅の果てにミホの松原(原文通り)の砂浜で勢いを失って散っていく。

曲がりくねった老松の縦列が、海岸の柔らかい曲線を辿り、その輪郭に砂浜と渚の輝き、打ち寄せる波の飛沫の曲線が重なり合う。すべての線は水平線上の一点へと収斂していく。そして彼方では、また別の線が、まったく別の次元で天へ向かってあらたに突き進む。まるで神秘的なリズムを刻む見事な舞踊のように、それが富士なのである。ひとつひとつの波が浜で砕けるあいだ、水は海へと引き返して流れ、砂浜は鏡に変わり,一瞬富士が逆向きの姿をあらわす。地球の胎内に納められたシルル紀の無限の空間の幻覚だ。

マライーニ(写真左)とその家族

マライーニ本人とその家族です。Oishi Kuranosuke – Flickr: FOSCO, TETI E IL VETERINARIO GARFAGNINO

(フォスコ・マライーニ『随筆日本イタリア人の見た昭和の日本』より引用)

 

思いも寄らないレベルで富士山という存在を活写しているようにボクには思えます。

富士山はやっぱり「いい」ですね。

2001年マライーニ展図録

2001年に東京都写真美術館で開催されたイル・ミラモンド レンズの向こうの世界 フォスコ・マライーニ写真展 60年間のイメージの記録 監修フォスコ・マライーニ コジモ・キアレッリ 図録です。

 

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