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北方領土の私的検証(その5)ポツダム宣言・日本降伏文書調印前後の千島

2019 JAN 12 20:20:16 pm by 野村 和寿

第2次世界大戦前、日本では、千島諸島をどうみていたかを、まず見ておきたいと思います。左記と、下図は、1924(大正13)年日本地図帖(小川琢治編著 成象堂刊)国立国会図書館蔵です。左図は、「千島列島とは択捉(えとろふ)島以下30余の島々をいう」とあります。「その北東端は、占守(しゅむしゅ)島は、千島海峡を隔ててロシアのカムチャッカ半島と相対している。この列島は千島火山脈がとっていて、地勢が険しく、地味もやせ、冬の寒さもはげしいから、住民も少なく陸上の産物もきわめてすくない。けれども、さけます等の水産物が多いから夏の間は漁業のため各地からここに来るものが少なくない」と解説しています。

1924(大正15)年日本地図帖 小川琢治編 成象堂より 本稿第2回で書いた1875年の千島樺太交換条約では、千島諸島の北側 ウルップからシュムシュ島までの18島と新たに日本領とすることが明記されています。

赤く囲った部分に「千島諸島」という文字が見えます。

上記1924年の千島諸島の解説では、「千島は、30余の島々からなる」となっていて、島の数の違いからして、1924年時点では、樺太千島交換条約で日本が獲得した18島に加え、もともと千島諸島南部(南千島)も含めて、その全部を指し千島諸島を指していると考えられます。

私的検証その2まででお伝えしたように、樺太千島交換条約によって、1875(明治8)年に千島諸島全島を獲得した日本は、当然、千島諸島を地図上でも、日本領として、明記しています。

下図は、赤く囲った部分に、千島諸島という文字が見え、黒く囲った部分が、歯舞諸島と色丹島の地図になります。つまり1924年時点では、千島諸島は全部日本領、歯舞諸島と色丹島は、千島諸島とは別の表記で記載されていました。

話はポツダム会談に移ります。

ポツダム会談の様子。1945年7月

ポツダム会談は、ナチス・ドイツ降伏後の1945年7月17日から8月日にかけて、ドイツ・ベルリン郊外ソ連占領地域に米国、英国、ソ連の3カ国の首脳が集まって開催されました。米国は、ルーズベルト大統領死去にともない、副大統領だったトルーマンが大統領として参加、英国は、チャーチル保守党首相から7月26日から選挙で勝利した労働党のアトリーに変わっています。

1945年7月26日 連合国側からポツダム宣言(正式には日本に発された日本への降伏要求の最終宣言・米英支三国共同宣言)が通告されます。ポツダム宣言は、ソ連に相談がなかったのです。米英からすると、いまだ、日本との中立条約中のソ連は中立の立場であるから、宣言を起草する立場にないという理由からです。(ソ連は署名していません。遅れて追認しました)

ポツダム宣言第8条に「カイロ宣言の条項は履行されるべきであり、又日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに我々の決定する諸小島に限られなければならない」とされます。カイロ宣言(1943年)の内容が引き継がれ、その後のヤルタ秘密協定(1945年2月11日)の内容は踏襲されませんでした。

戦艦ミズーリ号上の重光外相・梅津参謀総長ほかの日本全権団

ここで問題となるのは、漠然と示されている「我々の決定する諸小島」の範囲です。1945年9月2日東京湾・米国戦艦ミズーリ号上で開かれた降伏文書とともに、連合国最高司令官SCAP一般命令第1号にも日本政府は署名しました。

1946年1月29日に発布されたSCAPIN(スキャッピン)677号 「若干の外かく地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚え書き」では、

日本の行政権の行使に関する範囲として「千島列島、色丹島、歯舞島」が除かれています。(SCAPの上部組織である1945年12月に設置された極東委員会には軍事作戦行動や領域の調整に関する権限が与えられていない。それを踏まえて、この文書の第6項には「この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない」と、これがあくまでも暫定的な指令である旨が明示されています。

また1946年2月13日になって、極東委員会は「SCAPINが領土決定に関する決定ではない。領土の決定は講和会議によって決定される」と回答しています。

しかし、このSCAPIN677号が、ヤルタ密約とともに、「千島諸島はロシア領で領土は決定済み」という現在なお、ロシアの主張の根拠の一つとなっているのです。

そこで、日本政府は、敗戦後正式な外交ルートを持たなかったのですが、米国に対して占領期間中に英文調書を占領軍に7冊送り続けました。このうち3冊が北方領土を扱っていました。

占領軍に送った英文調書①1946年11月「千島列島・歯舞・色丹」

②1949年1月「樺太」③1949年9月「南千島・歯舞・色丹」の3つです。後年1951年10月19日の衆議院外交委員会で、吉田首相が「千島列島の件につきましては、外務省としては終戦以来研究いたして、日本の見解は米国政府に早くすでに申し入れております」と答弁していますし、1956年3月10日衆議院外務委員会で、政府委員の下田武三委員が「占領中から歯舞・色丹はじめ領土問題につきましては、7冊の民族的にも歴史的にも地理的にも経済的にも、あらゆる角度から検討をいたしました資料を準備いたしまして、アメリカに出したのであります」と証言しています。

しかし、該当文書は、今に至るも、外務省は非公開とされており、今では、該当文書があったかなかったのかさえも、ノーコメントになっています。

(平成十八(2006)年2月24日受領 質問主意書・答弁第72号内閣衆質164第72号より  御指摘の調書の存否を含め、平和条約の締結に関する交渉(以下「交渉」という。)の内容にかかわる事柄について明らかにすることは、今後の交渉に支障を来すおそれがあることから、外務省としてお答えすることは差し控えたい。)

ところが、その該当文書のうちの1946年11月「千島列島、歯舞・色丹」文書が、1994年になって、オーストラリアの公文書館で、カナダ・ウォータールー大学・原貴美恵教授(専門アジア太平洋地域の国際関係)によって発見されました。

下記の図が、1946年11月に外務省が、米国(占領軍)に提出した「千島列島、歯舞、色丹」に付随する千島諸島の説明図です。詳細は次回に行わせてください。

1946年日本外務省調書 表紙と掲載地図

 

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