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日独を結んだ潜水艦 深海の使者たちその②

2017 FEB 28 6:06:03 am by 野村 和寿

さらに日本とドイツの第2次世界大戦中の主に潜水艦による交流について調べてみました。日本からドイツまで、1万5千海里(3万キロ弱)を航行してさえも、日本が主に欲しがっていたのは、ドイツの工業技術でした。

魚雷艇用ダイムラーベンツ3000馬力内火発動機 電波探知機(レーダー)、小型潜水艦設計図 対戦車砲の特殊弾、噴射推進式飛行機(ターボジェット)の設計資料Me163 Me262、工業用ダイヤモンド

これに対して、ドイツが欲しかったのは南方の工業用材料 雲母 キニーネ、生ゴム、クローム、マニラ麻、コブラ、さらに、日本海軍からの贈呈品として、航空母艦設計図、酸素魚雷、ほかに日本海軍が考案した水中でも安定して潜行していられる自動懸吊装置、重油漏洩防止装置、真珠湾攻撃に使われた特殊潜航艇設計図、無航跡魚雷などを送る目的がありました。

またドイツに留学していた海軍の技術将校のレーダー技術や造船技術を習得した将校の帰着も目指していました、

これらのいくつかは、無事、日本に到着し活用されました。特に噴射推進式飛行機は、実際に特攻機櫻花のエンジンに使われました。(残念な使われ方でした)、電波探針機(レーダー)は早くも遣独潜水艦で活用されました。

イ号第二十九潜水艦は、昭和18年4月26日アフリカ・マダガスカル島沖で、印度独立運動の闘士チャンドラ・ボースをドイツ潜水艦から引き継いで、日本へ運搬した。東京着

ドイツに亡命中の印度独立運動の闘士チャンドラ・ボースを日本に連れてきて、印度独立運動を支援するために、印度独立運動の闘士、チャンドラ・ボースをドイツUボートと連携して、日本に連れてくるということも潜水艦はしました。(ボクは今まであの新宿・中村屋の娘と結婚したのが、その人と思っていました。これは誤りであり、中村屋のほうの日本に帰化した人物は、同じボースでもビハリ・ボースで、チャンドラ・ボースの下で働いた人物でした)

マレーにおいて、自由印度独立義勇軍を設立し、日本に帰化していたビハリ・ボース(新宿中村屋の娘と結婚し、日本に帰化)とともに独立義勇軍を組織しました。

イタリアも日本との軍事同盟をなんとかいかそうとして、飛行機による渡航を行いました。船と違ってプロペラが3基あるイタリアの輸送機をつかえば、船で約90日間かけているのにくらべると、わずかに、3日間で、ヨーロッパと日本との間を結ぶことが出来ました。

サヴォイア・マルケッティSM75改

イタリア・サヴォイア・マルケッティSM75改 搭乗員5名1942年7月1日伊ロードス島7月2日内モンゴル包頭到着、7月3日東京・福生飛行場到着 7月16日福生発、包頭7月17日包頭、7月19日ウクライナ・オデッサ、ローマ・グイドーニア飛行場到着

イタリアも同盟関係にあったので、日伊関係を改善する目的で、ローマから日本へ向けて1942年7月1日に伊ロードス島基地から日本を目指して飛行機を飛ばしました。サヴォイア・マルケッティSM75改がそれです。

ところが、ソ連領上空をわずかにかすめると、距離7000㎞なのに対して印度洋上空を飛ぶと12000㎞にもなるので、日本の印度洋を飛ぶことをいったん了承しながらも、実際には、ソ連領上空をわずかにかすめて飛行し、当時日本の占領下の内モンゴル包頭飛行場に飛来、給油後に東京福生飛行場に到着しました。ところが、ソ連領上空を飛行したことを、ソ連側に知れることをひたすら隠したかった日本は、この飛行の成功を大々的に宣伝することはなく、ひた隠しにし、このことがきっかけで、日伊の同盟関係は冷え切っていきます。いったん了承すればわからなけりゃいいじゃないかという伊的発想と、どこまでもがちがちな日本軍との発想の違いとが垣間見られ今となっては、興味深いところです。日本もドイツまでの無着陸飛行を目指しました。

キ77 2号機

東大宇宙航空研究所、立川飛行機製作所製造キ77号2号機が、セ号飛行計画で独を目指したが、失敗した。写真は、キ77 1号機を終戦後米軍が撮影したもの

無着陸欧州飛行ということでは、朝日新聞航空部が、昭和14(1939)年、東京・ロンドン間15357㎞を所要時間94時間17分56秒で結んだことは有名だと思います。これに使われたのは実は、日本陸軍司令部偵察機キー15制式名九十七式でした。また、東京日日新聞が、昭和14(1939)年ニッポン号が各国の飛行場を経由して世界一周飛行を試みました。航続距離52860㎞。これに使われたのは日本海軍九十六式陸上攻撃機でした。またその1年前の昭和13(1938)年5月には航空研究所長距離機(通商 航研機)には、東大航空研究所設計、東京瓦斯電気工業製造で、木更津、太田、平塚の三角点を結ぶ周回コースを3日間、11,651.011㎞を無着陸で飛行し、当時、無着陸飛行の世界記録を打ち立てました。この流れで作られたA-26(後に日本陸軍キ77と銘々)で日本ドイツ間を無着陸飛行を企図し、東大航空研設計、立川飛行機試作工場製造で製造されたキ77 2号機が投入されました。シンガポールからベルリン間12000㎞を所要時間55時間程度で飛行するという計画は、昭和18年6月30日東京・福生を飛び立ち、7月7日シンガポール・カラン飛行場からベルリンを目指しました。キ77 2号機はシンガポールからインド洋、紅海、伊ロードス島を飛行予定でした。ところが7月10日インド洋上で消息をたち、遣独飛行は失敗に終わりました。ここまでの残りの渡欧計画をまとめると次のようになります。

日独3

第2次世界大戦中の日独交流その3です。

 

本ブログの記述は、吉村昭著『深海の使者』(文春文庫所収)をもとに、周辺の補強をして記述しました。写真はすべて、ウィキペディアによるパブリック・ドメインの写真を使用しています。

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