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北方領土の私的検証(その1)川路 聖謨・プチャーチンの日露和親条約

2018 DEC 18 15:15:54 pm by 野村 和寿

北方四島か二島返還か? ロシアを相手に、平和条約締結に向けて、駆け引きが再び盛んになってきました。この問題のルーツを調べているうちに、興味深いことをいくつもみつけたので、ブログに書いてみます。

露側全権プチャーチンを描いた当時の瓦版錦絵

本問題に関しては、興味をもてば持つほどに、興味深い点がたくさん出てきます。

興味深い点その1,千島列島をどこからどこまでとするかは、日・露で1855年以来ずっと解釈の違いがありました。

日露和親条約 日本語版全文

まず日露和親条約(1855年 安政2年)です。

露側代表 エフィム・プチャーチン

露側代表・エフィム・プチャーチン(1803-1883年)、

日本側代表・川路 聖謨

日本側代表・川路 聖謨(としあきら)(1801-1868年)

■川路 聖謨 海防掛・勘定奉行による交渉

1853年、長崎に来航したロシア使節プチャーチンとの交渉を露使応接掛となり

12月20日から国境、和親通商について第1回交渉を開始。

1854年 10月7日下田に出張、

12月23日、安政東海地震(マグニチュード8.4)・津波が起きて交渉中断。

露全権プチャーチンの乗船していたディアナ号は、津波に攫われた日本人を救助、船医が治療。ディアナ号津波で破損。応急修理をして戸田港へ向かうも1855年1月15日風と波により浸水航行不能に陥りました。江戸幕府は、ディアナ号にあったほかの船の設計図をもとに、日本の船大工を動員して、新しい代船ヘタ(日本名・戸田)号の建造に尽力しました。

1855年1月1日(嘉永7年11月13日)中断されていた交渉再開5回の会談の結果、2月7日(安政元年12月21日)、日露和親条約締結調印に成功します。(ディアナ号の日本人救助が、日本側に好印象、また代替船の建造が露側に好印象だったことが、早期条約締結になったと思われます。

■条約交渉の言語はオランダ語で行われました。交渉はオランダ語により、オランダ語条文ロシア語条文があり、さらに、ロシア語条文から日本語訳が作られました。(なぜか、オランダ語から日本語訳は作られませんでした)

日露和親条約では、択捉(えとろふ・英語名Itrup)島・得撫島(うるっぷ・Urup)間に日露の国境を画定。択捉(えとろふ)島は、日本の領土で確定しました。下の図中央の1855年の線が、それです。

日露和親条約(1855年)第二条「両国の国境を択捉島とウルップ島の間とし、樺太については国境を定めず、雑居地とする」となりました。

■条文内で注目すべき論点

条文では、クリル(千島列島)諸島部分で日・露で異なります。後々、クリル(千島列島)諸島がどこからか?という問題がここで始まっていました。

■露語による第二条

日露和親条約条文・露語 「残りの北のほうのクリル」

(解説:クリル諸島の地理的呼称は「得撫(うるっぷ)島以北」に限定することはできない。つまり択捉(えとろふ)島もクリル諸島の一部であるようにも読める)

■日本語(オランダ語訳→露語訳→日本語訳)による第二条

日露和親条約条文・日本語「それより北のほうのクリル」

(解説:残りが抜けている。クリル(千島列島)諸島の地理的呼称が、得撫(うるっぷ)島よりも北であるかのように読める。つまり択捉(えとろふ)島はもともとクリル(千島列島)諸島に含まれないと読める)

■ここまでのまとめ 日露和親条約(1855年)で、日露の国境を画定。

択捉(えとろふ)島は、日本の領土で確定しましたが、後々に問題となる、どこまでが千島列島(クリル諸島)なのか?ということについて、日露ですでに見解が分かれていたことがうかがえます。

■日本側 千島列島(クリル諸島)に、択捉(えとろふ)島は含まれない日本固有の領土。

■露側 クリル諸島(千島列島)に、択捉(えとろふ)島は含まれる。

この際の川路聖謨の交渉は見事で、硬軟使い分けて日本の主張を認めさせました。日本側代表・川路 聖謨(としあきら)(1801-1868年)は、プチャーチンをして「日本の川路という官僚は、ヨーロッパでも珍しいほどのウィットと知性を備えた人物であった」と書かしめています。「川路を、私たちは皆、気に入っていた。川路は非常に聡明であった。彼はロシアに反発する巧妙な弁論を以って、知性をほのめかすものの、なおもこの人物を尊敬しない訳には行かなかった。彼の一言一句、一瞥、そして物腰までが、全て良識と機智と慧眼と練達を現わしていた」副官だったゴンチャロフ「日本渡航記」(1941年井上満訳・岩波文庫)より

後、1887年(明治20年)、プチャーチンの孫娘のオルガ・プチャーチナ伯爵は所縁の地、静岡県戸田村を訪ね、そこに100ルーブルの寄付をしています。その後の歴史の激動の中にも両家の交流は続き、2008年にも日露修好150年を祝っています。1868年(慶應4年)江戸城開城の報を聞き割腹のうえピストル自殺。享年68歳。なお、冒頭の写真が、不鮮明なように見えるのは、若い頃に煩った、病気・疱瘡(ほうそう)の痕だそうです。川路聖謨は、自らのことを酷い顔をしているといっていたそうです。

これを裏付けるように2018年12月3日の毎日新聞紙上で、国境警備にあたった松前藩士の墓が、択捉(えとろふ)島で見つかったというニュースが飛び込んできました。「北方領土・択捉(えとろふ)島中部の振別(ふるべつ)付近で、在島ロシア人が日本人の墓所を発見し。」墓には、文政11年(1829年)3月8日 (松前藩士 藤原正蔵隆則の墓と読める)

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