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『妖星ゴラス』1962年を今日的に観るその1

2018 MAR 3 9:09:40 am by 野村 和寿

『妖精ゴラス』(1962年公開 東宝映画)物語は1979年9月から始まる。もちろん1962年公開時点での1979年つまり17年後の近未来の話。すでに日本には宇宙省があり、宇宙開発への積極アプローチが発展途上にあった。宇宙省は、土星探索のためのロケットJX-1隼号を、11兆8千億円をかけて開発した。園田艇長をはじめ乗組員は総勢39名。秒速は11.2㎞、

JX−1「隼」号 当初の航程

1976年9月29日20:00富士山麓宇宙港より打ち上げた。

火星軌道通過は同年10月3日11:40、木星通過は同年10月8日01:00、

土星到着予定は同年10月15日14:00であった。土星まで17日間で到達する予定となっていた。

『妖星ゴラス』

『妖星ゴラス』公開時のポスター(1962年東宝)出演 池部良 上原謙 志村喬 白川由美 水野久美 久保聡 ジョージ・ファーネス

 

 

折から富士山麓宇宙港を飛び立った日本の宇宙船、JX-1隼号は一路、土星探検に地球を離れ、主エンジンを停止し慣性飛行に入る。

JX-1「隼」号

日本の科学技術の粋を集めて11兆8千億円の予算をかけて建造された土星探査船「隼」号。秒速は11.2㎞。内部は超アナログで、艇長は潜望鏡を上げて操作、三次元の方向指示装置がみえる。

ちょうどその頃、パロマ天文台がゴラス地球の4分の3の大きさだが、質量地球の6000倍もある黒色矮星ゴラスを、太陽系でいちばん遠い惑星冥王星(現在は準惑星扱いとなっているが)36分の方向で発見。

最寄りの宇宙船JX-1が、ゴラスの探査へと舵を切る。JX-1隼号はゴラスの引力圏へ接近。JX-1は最後に、驚くべき観測データを地球へ送信し消息を絶つ。

妖星ゴラス

ゴラスはいわば老年期に入った太陽。なお表面は千数百度の熱を発している。質量は6200G。ゴラスの重力に、JX−1隼号は乗組員もろとも引き寄せられていく。

ゴラスの影響で地球に壊滅的な被害が出ることが判明したのだ。JX-1隼号のあえなく、覚悟をした乗組員39名から万歳を叫ぶうち、隼号の園田艇長とともに妖星ゴラスへと飲み込まれ乗組員は全員ゴラスの犠牲となる。園田艇長の娘・園田智子(白川由美)は、父の突然の訃報を知る。

 

その2につづく

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映画『HIROSHIMA』で鈴木貫太郎を観る

2018 FEB 28 12:12:17 pm by 野村 和寿

先の太平洋戦争を終結させるのに貢献した鈴木貫太郎翁のとられた行いについて、ぼくはいつも敬意を払い見つめることにしてきた。

最近、『HIROSHIMA』1,運命の日、2,破滅への道というタイトルのテレビ映画(カナダ・日本・アメリカ合作1995年カナダ側・ロジャー・スポティスウッド監督、日本側・蔵原惟繕監督)があったことを思い出し、鈴木貫太郎の視点を理解する一助として興味深く見つめることが出来た。

1945年7月28日の内閣記者団との会見において鈴木首相(松村達雄扮する)は「ポツダム宣言は重視する要なきものと思う」と言明した。テレビ映画『HIROSHIMA』より

1945年7月26日ベルリン時間夜9時30分、対日戦に関する連合国側のいわゆる「ポツダム宣言」が発出された。この映画の中から該当部分を拾ってみると

・・・・

鈴木内閣閣議 1945年7月26日

1945年7月26日ポツダム宣言が発表された直後、鈴木内閣はただちに閣議を開きこの宣言を検討した。(写真右から鈴木首相(松村達雄扮する)、下村内閣情報局総裁、阿南陸相(高橋幸治扮する)、写真奥 東郷外相(井川比佐志扮する)、米内陸相(神山繁扮する)テレビ映画『HIROSHIMA』より

 

映画『HIROSHIMA』より                        アメリカのニュースフィルム「日本にポツダム宣言を発しました。ヒロヒトは敵対をやめ戦争を停止しなければ、恐ろしい結果になる」

1946年7月28日 鈴木貫太郎内閣が、記者会見で、ポツダム宣言について「黙殺」と言明。

鈴木首相(松村達雄扮する)・内閣記者会との会見で

「ポツダム宣言は、カイロ宣言の焼き直しであり、政府としては、重要視しておりません。黙殺するだけです」

1946年7月28日ドイツ・ハベルスベルク 日本の反応の「黙殺」という言葉の意味を、トルーマンは随行の米國・日本語教授に問いただすというシーン

米國・日本語教授「モクサツです。めったに使われません。文字通りの意味は「沈黙」を殺すです。誰が使うかで違います。かなり年配で高い地位の人物なら、違った意味で使います。たとえて言うなら、あなたの靴を買いたい。私は100マルクを提示、あなたは500で売りたい、しかし安すぎると言って私を侮辱したくないので、そのかわりに黙っている。聞かなかったフリを。それによって条件に不満だと分かるのです」

トルーマン大統領「交渉してもよいという意味か?」

米國・日本語教授「それもあり得ます。しかし、より近い意味は最後通告を無言の軽蔑で受け止めたと見られたいのです。言い換えれば交渉の余地はないということです」

・・・・

映画『HIROSHIMA』のなかで、「黙殺」ということばを鈴木首相が使ったことに東郷外相がカンカンになって詰め寄るシーン

鈴木首相「梅津(参謀総長)は正しいよ。誰かが告げなければならなかった。軍人でない君にはわからない。連合軍に発言したんじゃない。誰かが軍に告げなきゃならなかった」

東郷外相(井川比佐志扮する)「あなたは独断で最後通牒を拒否したんです」

鈴木首相「公に言ったんじゃない。わが陸海軍兵士に告げたのだ」

東郷「ラジオでね。連合国は聞きましたよ。夕べあなたの見解が放送されたんです」

鈴木 「連合軍に対して発言したわけじゃない。わが情報部に発言した」

東郷 「ラジオでね」(強くいい放つ)

・・・・

テレビ映画『HIROSHIMA』の中では、東京からのラジオ放送で、日本政府の言明のなかに、「黙殺」という言葉を使い、米側の翻訳係が、意味をはかりとかねたために、原文の「モクサツ」と英語訳の両方を提示するというシーンがあり、「モクサツ」は、の米国随行員の日本語学者に問いただすというシーンで使われていた。

そもそも「黙殺」という言葉を鈴木首相自ら使ったかどうかについて少し書いてみる。

ポツダム宣言についての、日本政府の反応について「黙殺」という言葉を鈴木首相が使ったか?それとも使わなかったか?については、現在に至るまでも、各種の推論がなされてきた。鈴木首相の動きの中でももっとも大事なくだりである。

 

私の蔵書の『鈴木貫太郎自伝』(鈴木一著・昭和43年時事通信社)には、この部分についての既述が、戦後すぐの月刊「労働文化」別冊鈴木貫太郎述「終戦の表情」(労働文化社社長河野来吉 対談8時間の筆録)書かれている。

「この宣言にたいしては、意思表示をしないことに決定し、新聞紙にも帝国政府該宣言を黙殺するという意味を報道したのであるが、国内の世論と、軍部の強硬派はむしろかかる宣言にたいしては、逆に徹底的反発を加え、戦意高揚に資すべきであることを余に迫り、なんらかの公式声明をなさずして事態を推移させることは、いたずらに国民の疑惑を招くものであると極論する者さえ出てくる有様であった、そこで余は心ならずも7月28日の内閣記者団との会見において「この宣言は重視する要なきものと思う」との意味を答弁したのである。この一言は後々に至るまで余の誠に遺憾と思う点であり、この一言を余に無理強いに答弁させたところに当時の軍部の極端なところの抗戦意識が、いかに冷静なる判断を書いていたかが判るのである。ところで余の談話はたちまち外国に報道され、我が方の宣言拒絶を外字紙は大々的に取り扱ったのである。そしてこのことはまた、ソ連をして参戦せしめる絶好の理由をも作ったのであった」(『鈴木貫太郎自伝』より)

自伝のなかで、鈴木(当時元首相)は、「黙殺」とは、自分では言っていないが、新聞記者が、見出しで、「黙殺」と表現してしまったということを示唆している。ポツダム宣言の反応についての、朝日・読売各紙を調べてみると、

1945年7月28日読売新聞は「笑止 トルーマン、チャーチル、蒋連名 ポツダムより放送す」とあり、さらに「戦争完遂に邁進 帝国政府問題とせず」「敵米英並に重慶は不逞にも世界に向かって日本抹殺の対日共同宣言を発表、我に向かって謀略的屈服案を宣明にしたが、帝国政府としてはかかる敵の謀略については問題外として笑殺、断固自存自衛たつ大東亜戦争に挙国邁進、以て敵の意図を粉砕する方針である」

これに対し、1945年7月28日朝日新聞は「米英重慶 日本の降伏の最後条件を声明 三国共同の謀略放送」「帝国政府としては米英重慶三国の共同声明に関しては何ら重大な価値あるものに非ずといてこれを黙殺すると共に、断固戦争完遂に邁進するとの決意を固めている」としている。(『宰相 鈴木貫太郎』小堀桂一郎 1987年文春文庫 高見順日記より引用)

つまり、鈴木首相は「黙殺」と直接言明したことはない という説もある。

*『HIROSHIMA』というテレビ映画について

『hiroshima』1995年カナダ・日本・アメリカ合作のテレビ映画。ジャケットは、トルーマン大統領(ケネス・ウェルシュ)、昭和天皇(梅若猶彦)日本側監督・蔵原惟繕 英語版のDVDジャケット

1995年に主にカナダ・スタッフと日本・オールスターキャストによって製作されたテレビ放送向け映画。カナダのほか、フランスでも放送された。映画は、1945年4月それまで蚊帳の外だったトルーマンが、ルーズベルトの突然の死によって、大統領に選任するところから、始まり、マンハッタン計画の新型爆弾である原爆の開発を知らされ、使用するかどうかで悩む。一方日本の鈴木首相をはじめとする鈴木内閣は、特に阿南陸将、梅津参謀長を向こうに回して、戦争終結反対あくまで本土決戦を主張する、阿南陸将、梅津参謀長とのやりとりを中心に、昭和天皇が、積極的に戦争終結に関与し、スターリンへの特使派遣を企図するというものになっている。

日本側部分は、ありがちだった、いわゆる「へんな日本人」のような外国の描く日本ではなく、日本側スタッフには蔵原惟繕(くらはら これよし)監督 脚本石堂淑朗(としろう)が並々ならぬ精力であたっている。

鈴木首相役に、松村達雄、阿南惟幾陸相役に、高橋幸治、米内光政海相役に神山繁、東郷外相役に、井川比佐志と当時の名優を揃えている。特に、昭和天皇裕仁役に、能役者の梅若猶彦を起用し、それまでの映画作品とは違い、昭和天皇が、直接、戦争遂行に積極的に関与したことを思わせる、近衛元首相(加藤和夫扮する)木戸内府(佐藤慶扮する)とのソ連仲介の労をとることを提案し、ある意味で、戦争終結に直接関与したと思われるシーンが登場する。それまで映画のなかでは、昭和天皇が、御前会議に臨席するシーンなどはあったが、なかなか直接の関与を思わせるシーンは、この映画が初めてだと思われる。

ソ連に和平の仲介を頼もうと、天皇の考えに伴って近衛元首相に特使を派遣しようとする。左から昭和天皇裕仁(梅若猶彦)、近衛首相(加藤和夫扮する)テレビ映画『HIROSHIMA』より

 

映画『HIROSHIMA』より

近衛:みんな戦争にうんざりしています。国民はこの戦争に疲れ切っています。これ以上戦争をつづけたならばまず大規模な反乱が起こり、それから共産主義者たちが、革命を起こすでしょう。もちろん、私はいつでもモスクワに参ります。今晩にでも参りましょうか?

天皇:今晩ではなくてもいいが、なるべく早急に。できればスターリンがポツダムに発つ前がいいだろう。

近衛:もちろんです。

天皇:国内には多くの狂信者がいるから、近衛の使命が何たるかを知れば飛行機がモスクワに着くのを妨げるかも知れない。

近衛:ひとつだけおたずねします。スターリンに頼みごとをする見返りに何を提供すればいいのですか?

天皇:いろいろ聞いているが、どんな情報を貰っても信用しないことにした。近衛自身が判断すべきだ。だがスターリンはあまり多くを求めないだろう。彼自身戦争に疲れているからな。

近衛:もちろんです陛下。そうに違いありません。

テロップ スターリンはポツダム会談前後近衛侯爵との会見を拒否した。

御前会議

御前会議 ポツダム宣言受諾の可否について、メンバーから意見が開陳された。最後に天皇の聖断(1945年8月10日午前0時3分)がくだされた。宣言を受諾することが決定された。テレビ映画『HIROSHIMA』より

最近、刊行中の『昭和天皇実録』のなかで、いわゆるポツダム宣言受諾の聖断がなされたのは、1945年8月10日午前0時3分とわかってきた。

鈴木貫太郎のことを書いてくると、鈴木首相の日本の舵取りに関与した時代が難しかったかについて、改めてついつい考えてしまう。

HIROSHIMA 運命の日

『HIROSHIMA』(1 ビデオ化のタイトルは『ジ・エンド・オブ・パールハーバー運命の日』2001年12月リリース)1945年4月ルーズヴェルト米大統領の急逝で、副大統領だったトルーマンが大統領にになったときからストーリーは始まる。パート1にあたる。

ちなみに、このテレビ映画は、1996年8月5日と6日、2回にわけて、NHK総合テレビで『ヒロシマ〜原爆投下までの4ヶ月』というタイトルで、深夜23時50分から一度だけ放送された。後に、発売元 大映映画、販売元徳間ジャパンコミュニケーションズビデオからVHSビデオで、『HIROSHIMA ジ・エンド・オブ・パールハーバー運命の日、破滅への道』というタイトルで、2本に亘りリリースされたことがある。しかし今はほとんど知られていない作品となってしまった。

HIROSHIMA2破滅への道

『HIROSHIMA』(ビデオ化のタイトルは『ジ・エンド・オブ・パールハーバー 破滅への道』2002年1月リリース)トルーマン大統領は、マンハッタン計画で原爆が完成したことを伝えられる。一方日本側は心ある戦争終結への努力と軍部との対立が激しくなる。パート2にあたる。

 

このVHSは、もちろん既に廃盤になっている。しかし、最近、私は偶然、北海道の中古ビデオ店でこの作品のVHSテープを見つけ出した。思えば、この作品を最初に観たのは、1995年東京・青山のカナダ大使館の試写室だった。当時、私の私淑していた映像作家の貝山知弘氏が、本作品のキャスティングに関わったことで試写に呼んでいただいたのだった。

 

映画『HIROSHIMA』で鈴木貫太郎を観る Ⅱ


 

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映画『甘い生活』とは何か?

2018 FEB 16 3:03:40 am by 野村 和寿

1960年公開のフェデリコ・フェリーニの伊映画『甘い生活』(原題 Dolce Vita=ドルチェ・ビータ)。ぼくはこの映画をこの20年の間何度となく観賞してきた。たぶん10回ではきかないくらいだ。174分という遙かに長いこの作品は、映画評をあたってみたり多くのフェリーニについて語られる書物を読んでも、絶賛の嵐だった。曰く「世界で唯一の素晴らしい映画」『人生におけるみるべき最高の作品』等々、どこにいっても、その結論は一致していた。

しかし、残念ながら、「浅学非才」のぼくにとっては、いったいどこがそんなに素晴らしいのか、本当のところ、不明であった。さらにはこの映画は、「筋を追うのではなしにフィーリングで楽しむのである」のような、わかったようで、わからない映画評も多かった。主人公マルチェロ・マストロヤンニ扮するマルチェロは、ジャーナリスト、それもどちらかといえば、トップ家風情であり、あまりプライドをもてるジャーナリストではない。スターのゴシップを追いかけるのが仕事。仕事相手は、みなお金持ちで、大きな家に住み、毎日をナイトクラブや自宅でのパーティーに時間を無駄に浪費しているという人々。しかし、マルチェロはトップ屋の生活にはあきあきしており、「時々、夜になると、静けさと暗さがつらい」と嘆いている。人生を変えたい!

『甘い生活』フェデリコ・フェリーニ監督イタリア・フランス合作1960年公開 マルチェロ・マストロヤンニ、アニタ・エグバーグ、アヌーク・エーメ

ぼくも、編集者だったので、どこか主人公との境遇が似ていて共感するところもあった。そして、この174分の作品をもっと知りたい、本当のところはこの映画のいわんとするところは? と思い始めた。

ぼくの通っているイタリア語学校の先生は、50代のボローニャ大学、ヴェネチア大学を出たインテリであり、イタリア文化のことは、どんなことでも詳しかったので、ちょうど映画に関する授業のときに、思い切って、『甘い生活・ドルチェ・ビータ』のどこがそんなによろしいのか?を聞いてみた。

咄嗟の質問であったのにもかかわらず、イタリア人の先生の答えは、明快そのもので、どこの映画評論家よりも当を得ていた。

イタリア人の先生いわく、この映画には一度も「食事をするシーン」というのが出てこない。イタリア人にとってダ・ヴィンチの『最後の晩餐』の絵画をみてのとおり、晩餐・食事というのは、非常に大事な要素を占めている。ところが、「食事をするシーン」が皆無。唯一、ナイトクラブで、主人公たちが、シャンペンに口をつけるというシーンだけがあった。

これでわかるとおり、「人生」とはシャンペンの消えていく「泡」のようなものさということをいいたいんだそうだ。

映画は174分を過ぎた最後にさしかかったシーンで、唐突に漁師の網に「えい」のような怪魚があがったと、登場人物たちを含めた人々が見物しに集まってくる。この怪魚に目を奪われていると、実はそうではなくて、ペルージャから海の家に手伝いにきていた少女パオラ(聖画から抜け出たような清純な少女)が、海辺で、大人たちに向けて、遠くから叫ぶ。

大人たちには遠くて彼女の声を聞き取ることが出来ない。あれは、「大人たち、人生を変えてみないか?」と少女パオラにいわせているんだそうで。

この映画のなかでは、いくつもの、シーケンス(Sequence 後述する)が込められたシーンが出てくる。

たとえば、マルチェロが、裕福な大学教授の友人のパーティーにいくと、壁にはモランディの静物画がなにげなく飾られている。

ジョルジュ・モランディ(1890-1964)は、イタリア・ボローニャ出身の現代を代表する画家で、自宅に設えたスタジオでもって、自らが置いた静物 ワインの瓶や花瓶の絵だけを、ひたすら描いてきたちょっと奇妙な作家である。主人公にモランディのことを「彼の絵は偶然に描けるのではないとフェリーニは語らせている。いつも同じように置かれている静物にさえも、生きた証、人生があるのだというように。

『甘い生活』のなかで、主人公が友人のパーティーで画家モランディのことを口にするシーン 画面右側に見えるのがモランディの静物画

 

 

一夜だけのアバンチュールに精を出すマルチェロ。大富豪で社交界を泳ぐ有閑マダムは、アヌーク・エーメが扮するマッダレーナ。アヌーク・エーメは、後にクロード・ルルーシュの仏映画『男と女』(1966年仏)にも主役として登場するいわゆる小股の切れ上がったいい女である。マッダレーナが、マルチェロをさそって乗り回す車は、アメリカの1958年製のGM系の高級車キャデラックで、別名を「エルドラド」という。

マッダレーナ(アヌーク・エーメ)の車はアメリカのキャデラック1958年製造 愛称・エルドラド。マルチェロが助手席に収まる。

「エルドラドEl Dorado」を調べてみると、大航海時代にスペインに伝わった南米・アンデスの奥地に存在するとされた伝説上の土地で、スペインにとっての「黄金郷」をさす言葉だそうだ。

マッダレーナ運転する「黄金郷」という車の助手席にマルチェロも同乗している、男女。そして、お金持ちの生活ははたして単純で夢のないものではないか?そんなことをフェリーニはいいたげである。

 

 

この映画というと、まず登場するシーンが「トレヴィの泉」のなかに、グラマーな女優とマルチェロが入っていくシーン。スウェーデン出身のハリウッド女優シルヴィア(アニタ・エグバーク)は、ターザン役者の男優と夫婦。旅行でローマを訪れ、ゴシップ屋のマルチェロにとっては最高の取材対象にもなってくる。

『甘い生活』のローマ・トレヴィの泉の名シーン。アニタ・エグバーグ扮するシルヴィアとマルチェロ・マストロヤンニ扮するマルチェロが、トレヴィの泉の中へ入って踊るシーン「。

「トレヴィの泉のシーン」のほんの少し前にも、路上で捨て猫を拾って、マルチェロに、深夜にもかかわらず、子猫のために、ミルクを買いに行かせる。迷い込んだ捨て猫に待ち受けている猫の人生ならぬ猫の生活はこれからいったいどんなものだろうか?ということも想起できそうだ。シルヴィアには、配役と同じスウェーデン出身のアニタ・エグバーグ。ぎりぎりまでのグラマラスな肢体が、マルチェロとのトレヴィの泉で踊るシーンはあまりにも有名だ。彼女も女優として有名にはなったものの、夫との仲には不満を抱えていて、グラマラスな肢体と同じように自分をもてあましている。

しかし、この「トレヴィの泉」でのシーンは、映画のクライマックスでは決してなくて、174分の作品のなかでも、せいぜいが、53分ごろに登場するにすぎない。

マルチェロの婚約者エンマ フランス人の踊り子ファニー、パーティーで人生初のストリップに興じるナディア、マルチェロの実父で田舎パッサーノ村から突然やってきたり、そして霊媒師のいる没落した貴族の朽ち果てた広大な屋敷に、お化けが出たりと、人生を語るにいろいろな人物がマルチェロの間を交錯する。

映画とは、1分間に1度、この映画であれば174個のシーケンスがあるそうだ。シーケンスとは辞書的には、「Sequence:映画で一続きのシーンによて構成できるストーリー展開上の1つのまとまり」とあるが、要するには、映画の面白さを醸し出す秘密のエッセンスといえるものである。ぼくが、ここにみつけられたフェリーニのシーケンスはまだまだ少ない。しかし、シーケンスをみつけるということは映画のもう一つの楽しみなのではないだろうか?

最後のシーンに登場する少女パオラが大人達に語る。「人生を変えてみたら」。

この映画にはなぜか、納得させられてしまうことが多くなった。ぼくもそれだけ人生を重ねてしまったからなのだろうか?

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カズオ・イシグロの小説に見るヨーロッパのクラスファイ

2017 NOV 1 14:14:46 pm by 野村 和寿

入院中に、時間だけはたっぷりあったので、ちょっと難しそうな本をもっていって読んでみようと思い、カズオ・イシグロ『わたしたちが孤児だったころ』When We Were Orphans (2000年・早川書房)を読みました。2017年にノーベル文学賞を受賞した日本・長崎生まれ、イギリス国籍の小説家。ぼくと同じ1954年生まれなのに親近感がわいています。

カズオ・イシグロカズオ・イシグロ(イギリス国籍 1954年11月8日生まれ 2017年ノーベル文学賞受賞 写真はポーランド・クラクフにて、2005年10月29日撮影。ウィキペディアより

なぜ、『わたしたちが孤児だったころ』をいまどき読んだかと言えば、自宅に購入してからずっと、読まずにおいてあったからに他なりません。仕事で忙しくて、読みたいと思う本を購入はしたのに、読まずに本棚に眠っている多数の本のうちのひとつだったのですが、入院に際し、持参してみようと思った次第です。

『わたしが孤児だったころ』原題”WhenWeWereOrphans”カズオ・イシグロ 入江真佐子訳2000年

この話、正直、今まで読んだどの小説とも異なり、まことに読みにくく、自分には扱いにくいものでした。

普通、小説と言えば、物語があって、結局結末に向かって、主人公を始めとする登場人物がキャラクターとして、自分のなかでも、動くようになり、主人公は読み手である、自分に成り代わり、いろいろなことを体験しつつ、目標たる、最終物に向かって話を進めていく。読者は、自分になりかわって動きをみせる主人公に思い入れして、次は、次は・・・と要するには、血湧き肉躍るのを喜ぶという寸法に動いていくんだと思います。

ところが、このカズオ・イシグロの小説には、物語性というものが、あるにはあるものの、ほとんどストーリーに動きがなく、もっぱら、自分の心の変化のようなことが大事になってきて、外面的な動きには興味がないといった風を、物語全体に装うのです。

要するには、自分の範疇では、つまらぬ小説ということになってしまうのが、通常ではないかと思うのです。

ところが、入院という余った時間がたくさんあるのと、ほかに、読むものが払底しているものだから、この本に集中せざるを得ず、結果として、この本を読み進めていくにあたり、理解できない文章については、いちいち、どうしてこんなことになるのか?と自問自答し、それをクリアーしない限り、先に進まないということを基本方針として、もっぱら求道僧のように、それこそ、1行1行読み進めていきました。

普通の日本人社会のなかで、編集者という普通の職業よりはほんの少しだけ視野が広いつもりであっても、ご多分にもれず入院しているという境遇ですと、些細なことが、いっぱい見えてくるのに、大袈裟にいえば似ているかもしれないです。

舞台は1930年7月24日から1958年11月14日・ロンドンと、1937年11月20日上海・キャセイホテル

写真は1928年上海市中心部の黄浦区にあった 外灘(バンド・英語名:The Bund)

 

人間の内面では、常に揺れ動く心情というものがあり、事件ともいえないような些細な事件とは常に遭遇している。一方、自分の子どもの頃、自分の周囲に起こっていたこと、幼なじみとの冒険談は、大人にとっては、他愛のない、失笑ものの事件であったとしても、子どもの自分にとっては、「大事件」。

ところが、大人になって、自分の周囲に起こることは、「大事件」だと感じてしまう。ところが本当にそうなんだろうか? つまり、子どもの頃遭遇する子どもにとっての「大事件」と、大人になってから遭遇する「大事件」は、自分の内面において捕らえるならば、両方とも「大事件」だったのではないか?

これを逆に描くとすれば、大人の自分が周囲に起こっていることなど、本当は、大したことではないのではないのだろうか? だからこそ、カズオ・イシグロは、大人になってからの普通なら大事件に発展する「物語」を、読者の望むように、そう発展させずに、むしろ淡々と、しかも、主人公・自分の内面の事細かな変化だけを丹念に描く。

読者側に、カズオ・イシグロの求めるリテラシー(読み書き能力、たとえば1920年代の貴族制が残存する、ロンドンの社交界、上海の外国人租界イギリス地区の状況など)が備わっていないと、読み進めていくのは難しいという小説です。それは、大衆性の求められるわかりやすいのを是としている日本社会へのアンチ・テーゼのようです。

小説中に、1930年代の上海租界イギリス人地区が出てきます。もちろん、中国人はメイドでしかなく、中国の土地なのに、警察権もイギリス、司法権もイギリスがもっています。しかも、主人公の父親は、インドから上海へ阿片を合法的に輸入する商社の一員で、中国マーケットに阿片を売っているのです。阿片を売るということにイギリス人はなんの後ろめたさもなくて、ひとつのビジネスとして認めてもいます。そんな時代の雰囲気が小説には登場します。

「当時は中国は政治的にも文化的にも遅れているから、イギリスを始めとするヨーロッパ租界が、中国人たちをリードしている」という大前提があり、それがいいだな悪いだのではなくて、物語の前提ともなっています。読み進めるうちに、なんとなくですが読者も、1930年代のイギリス租界の支配層の気持ちにもなっていくのです。そこに現れる新興勢力が日本人たちでもあります。もちろん現在の中国は、中国人のための独立した国家を形成しているわけですが。

カズオ・イシグロの小説を読んで感じたのは、小説は決して「万人のために書かれた」ものでなく、あるリテラシー(読み書き能力)を持っているあるインテリのクラスファイされた読者のみに向けて享受されるように書かれているということでした。それがよいかどうかではなくて、ヨーロッパに根付いている伝統でもあるような気もします。

「わかりにくさ」ということでいえば、音楽の世界でも、リヒャルト・ワーグナーのわかりやすい、すでにあった北欧の歴史伝説を下敷きにした楽劇『ニーベルングの指環』に対して、リヒャルト・ワーグナー自身が作曲・物語の構成まで関与したことにより、まるで難解になってしまった舞台神聖祝祭劇『パルジファル』を完全に理解して、聴き進めていくのに似ているなと思います。

 

R.ワーグナーの舞台神聖祝典劇『パルジファル』の上演舞台

『夜想曲集』原題”Nocturnes Five Stories of Music and Nightfall”カズオ・イシグロ  土屋政雄訳 2009年

 

一方、短編集である『夜想曲集〜音楽と夕暮れをめぐる5つの物語』Nocturnes five Stories of Music and Nightfull土屋政雄訳(ハヤカワepi文庫)は「わかりやすさ」でいっぱいでした。正直、安堵いたしました。音楽のことが好きであればなおさらのこと、音楽を想起させながら興味深く読める小説です。

ペリー・コモ

物語で登場する往年のアメリカン・ボーカル歌手リンディは1950年代のボーカリスト・ペリー・コモをモデルにしているのではないかと思われます。写真は、本文とは直接関係ないのですが。

ベネチアのサンマルコ広場にあるカフェ・フローリアンやクアドリなど、4つのカフェが交互に音楽を演奏している。主人公はこの楽団で伴奏ギターを弾いています。

第1作目「老歌手」Croonerを少々紹介すると、主人公は、イタリア・ベネチアのサンマルコ広場の5つあるカフェで伴奏ギターを弾いている東欧ポーランド出身の音楽家ヤネク。カフェのアメリカ人観光客のなかに、自分の母が好きだったボーカリスト・リンディをみつけます。

共産圏時代の1950年代ポーランドで使われていた電蓄です。東欧圏では、西側のアメリカのレコードが入手難なだけに憧れの的でした。

共産圏時代・アメリカのレコード、1950年代アメリカで、ロス郊外道路沿いにある食堂に集まる歌手目当てで成り上がりたいウエイトレス・女子、ベネチアのゴンドリヨーロ(漕ぎ手)・ビットーリオはイタリア人としてもセコくそして少しはずるい・・・といった魅力的な数々の「キーワード」がいくつも登場するなかで、物語は、簡潔にしかし、とても面白く、そして、意外な結末まで用意してくれていて、なかなかに楽しませてくれます。

ベネチアのゴンドラの上で伴奏ギタリスト・リンディの伴奏で、往年のヒットメロディーを歌う老歌手リンディ。写真はイメージです。


米CBSでかつて放送されたテレビ・ドラマ『アリス』です。写真は、本文とは関係ないのです。1976年から1985年にかけてアメリカCBSテレビで放送されたシット・コム(演技中に観客の笑いが入るあれです)1950年代のウェイトレスです。写真は本文とは直接関係ないのですがイメージです。

ベネチアでの話というのに、遠く離れた1950年代のアメリカのジャジーな雰囲気を適当にフレーバーしてあります。この小説で要求される読者の資格は、もっぱら、「音楽が好きなこと、そして、音楽の背景に流れているものを信じていること」だと思われます。

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耳に聴こえてきた音楽 早期の「がん」になって

2017 OCT 30 12:12:02 pm by 野村 和寿

曲がりなりにも、長いこと出版社で編集者の端くれの生活だったので、この体験をなるだけ忠実に記しておこうと思った。10月初旬、大病院の消化器内科の担当お医者様は、外来の診察で、開口一番、「早期の胃がん」ですと私に告げた。とても無表情だったのが、かえって信憑性を増した感じだった。外来からの帰宅途中、いつもより遠回りして、きっとまだ気持ちの整理がつかず、端からは相当にとぼとぼと歩いていたようにも思える。昼間の住宅街を歩いていると、耳にウォークマンみたいに、聴こえてきたのは、プッチーニの歌劇『マノン・レスコー』の第3幕の冒頭で鳴る「間奏曲(インテルメッゾ)」。たしかカラヤンの演奏のもの。

 

劇的にヒロイン・マノンの行く末を暗示し、舞台はヨーロッパから米国にまで飛んでしまうという、ロマンチックすぎるオペラ。たしか1986年に、時ならぬ大雪で交通が麻痺した最中のNHKホールで、ウィーンの国立歌劇場が『マノン・レスコー』強行上演をしたときに、聴いたものも同じ曲で、それがあまりにも、たたみかけるような情熱的なシノーポリの指揮だったものだからそれが耳に残っていたのだろう。

(プッチーニ歌劇『マノン・レスコー』フレーニ(マノン) ドヴォルスキ(騎士デ・グリュー) オットー・シェンク演出 シノーポリ指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団 NHKホール 1986年4月3日)下記の音源は、同じ演者のもの。冒頭に3幕が始まる前の情熱的な間奏曲(インテルメッゾ)が収録されている。

続いて聴こえてきたのは、プッチーニの悲劇的なオペラ『トスカ』最終幕、舞台はローマに今も残るサンタンジェロ城の場内で、トスカが歌うアリア。恋人であるカヴァラドッシにもう死んだふりをしなくていいのよ、と歌うところ。歌劇『トスカ』 第3幕「 待つということは、なんて長いことでしょう!

Maria Callas “Come è lunga l`attesa” Tosca

実は恋人の画家カヴァラドッシはこの時点では、すでに銃殺隊の銃弾に倒れていて、息絶えていたのだったが。それを知らない歌姫トスカが歌う。

少々、一九五〇年代のオペラがまさにグランド・オペラだった、大時代がかった演技のマリア・カラスが耳にウォークマンも何もしていないのに飛び込んできた。それも聴こえてくる音は、いつもよりも『透明感』もあって、ノイズもなしにきわめて鮮明に。街を歩いていても、ずっと聴こえてくるオペラのアリア。

がんの告知前の体調では、少し気分が悪く、少し熱があり、胃が少しもたれ、お腹も少し痛かったのに、告知された後は、むしろ、それら「少し」が一旦停止の感あり。

小林一茶の句「目出度さもちゅう位なりおらが春 」をもじるならば、

「あちこちのいたさも ちゅう位なりおらが春」

気持ち悪さも、なにか普通の状態にもどったのに近く、むしろ、センシティブな分、頭が少しだけ聡明というか、鮮明になったような気分だ。

頭をもたげてくるのは、不思議にも、昔、懸案で解決しなかった、いろいろな問題だった。撮影のときの問題とか、企画がなかなか思い通りにいかなかったとか、その当時は、大問題だと思っていた問題が、次から次へと頭に湧いては消えていく。それらの問題は結局の所、全部うまくいかなかった問題ばかりだったのだが。

ぼくの耳から聴こえてくる「人間ウォークマン」は、ときと場所を選ばずに、いろいろな音楽がきわめてランダムに、聴こえてくるから不思議だった。

逆に言えばなんでこの曲がこんなに大事なときに聴こえてくるのかよくわからない。半信半疑だったともいえるだろう。続いて聴こえてきたのは、なんと「イギリス音楽」。ディーリアスやボーン=ウイリアムス、エルガー、ホルストなどのイギリス音楽。いつもは、イギリス音楽なんて・・・とあたかも小馬鹿にしていたように、ヘンリー・パーセルのあと、ハンデル(イギリス読みのヘンデル)があって、そのあとは、ダイレクトに、ブリテンまで「島国イギリスの音楽」なんてなかろうに・・・と思って、「高(たか)を括(くく)っていたというのに」イギリス音楽は、ホルストの「火星」や「木星」のように、メロディーがストレートに自分の内面に飛び込んでくるかのようなそんな気持ち。

まったく不思議な体験である。ディーリアス「春初めてのかっこうを聞いて」もそう。このまか不思議な曲は、たった一度、ロンドンで聴いたことがあるだけだというのに。動画は「夏の庭園で」という曲。

 

自然のなかで奏でているように。ヨーロッパ大陸の昔のようなたたずまいが、かえって島国であるイギリスに奇跡的にも残っているのとにているように。ディーリアスの音楽にもこの「不思議なたたずまい」を感じてしまう。上記youtubeは、ジョン・バルビローリのイギリスのハレ管弦楽団の演奏である。

別に特に田舎の景色のいいところをそぞろ歩いているわけでもなく単に街の住宅街をとぼとぼと歩いていただけなのに、これまた不思議だった。

ディーリアスは、なんだかんだと理屈がまったくなくて、ウイスキーをストレートで呑んだときのような、少し、重ったるいけれど、どこかすきっとくる気持ちに似ていた。まったく不思議だった。

ぼくの「人間ウォークマン」は、幻聴なのだろうか? どうして、こんな種類の音楽が予期せずに聴こえてくるのだろうか?それは、どうも自分が予期せずに、病気のなかでも、超有名な胃がんの患者になった、一種のヒロイズムにも似た不思議なマイナー意識を、どこかで、自分で自分を慰めるような、アドレナリンのような気持ちでもあったように思う。

こういうときは、いつもならば、「モーツァルト」とか聴きたくなったのだが、不思議にも「モーツァルト」は聴こえてこず、本当の機械のウォークマンでもって、イヤホンを自分の耳に挿入し、モーツァルトをかけてみても、本来、自分の予測のなかでは、「モーツァルトの音楽」は爽やかなはずなのに、どうも「もったり」としていて、あまり耳には芳しくなく、正直なところ、目が回るようで、あんまり気持ちの良いものではなかった。いつもなら、あんなに好きなモーツァルトなのに。

そして、ぼくのもっとも大好きなベートーヴェンは、手術も無事終わり、いまのところは小康状態を保ち、開口一番がんを宣告したお医者によれば、患部はとりきれたという。もちろん、まだまだ予断は許されない状態をキープしてはいる。手術から1週間が経ち、ようやく、少しはお粥が食べられるようになったころ、ぼくの「人間ウォークマン」にベートーヴェンも登場してきた。

それも、あまたのベートーヴェンのなかでも、聴こえてきたのはそれまで、まったくといってよいほど、「予期」もしていなかった、ベートーヴェンの交響曲のなかでも一番地味といってもよい、「交響曲第二番」だった。不思議なものである。

後に、病院から退院したとき、いつもは滅多に聴かないベートーヴェンの「交響曲第二番」をオーディオでかけて聴いてみた。こういうときは、苦労の末に酸いも甘いもわかったような指揮をするチェコの指揮者ラファエル・クーベリックだろう。そう思えてならなかった。下記の映像は、クーベリック指揮のオランダのロイヤル・コンセルトヘボウ・オーケストラの映像である。

どうでもいい音楽なんて、やはり世の中にはなくて、こちらの気持ちが、予期しないぐらいに心身共に、ある別の状態に向かっているときこそ、本来の意味での

「癒やしの音楽」が普段とはまったく違った形で、しかも予期しない形で流れてくるのだろう。ぼくはこの病気とともに暮らしていくことになったいわば、まだ初心者もいいところだ。しかし音楽には不思議な力のようなものがあるものだ。ぼくの「人間ウォークマン」は、まだ調整がきかずに、突然耳のなかで、鳴り出すという癖を持っている。最近は、プッチーニの『マノン・レスコー』の「インテルメッゾ」も『トスカ』も鳴らなくなり、もっぱらベートーヴェンの「交響曲第二番」のそれも、第一楽章の序奏が終わってオーケストラが動き出すところ」なのである。嘘のような本当の話である。

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ケストナーの『ふたりのロッテ』とメルヘン・オペラ『ヘンゼルとグレーテル』

2017 AUG 16 18:18:31 pm by 野村 和寿

ドイツの詩人で児童文学者のエーリッヒ・ケストナー(1899-1974)の子ども向け小説『ふたりのロッテ』を読了しました。翻訳は高橋健二の翻訳で『ケストナー少年文学全集6』に所収の1962年版(岩波書店)と、池田香代子の翻訳で『岩波少年文庫138)に所収の2006年版(岩波書店)とが出ていて、そのどちらもを読んでみました。ちなみに、少年文庫には、小学4・5年以上と書いてあります。ぼくもその意味では、小学4・5年以上に該当しているので大丈夫かと。

ケストナーのロッテ”Das Doppelte Lottchenドイツ語の原本

この作品は単なる子どもだましの作品かと思うと大いに違っていて、大人が身につまされる作品です。ネタバレを覚悟で、書いてみます。ビュール湖のほとりのセービュールにある夏の間だけの寄宿学校にやってきた二人の少女、ひとりはルイーゼ・パルフィー ウィーンからやってきた長い巻き毛の少女。南ドイツ・ミュンヘンからやってきたのはきっちり編んだおさげの、ロッテ・ケルナー。ふたりは、髪の毛の形以外、姿形がうり二つだったのです。ふたりのそっくりさんは、同じ部屋、ベッドも隣同士になります。

ルイーゼには父親しかおらず、ロッテには母親しかありません。

ウィーンからやってきた巻き毛のルイーゼのお父さんパルフィー氏は、オペラの楽長、ウィーンで作曲の傍ら、歌劇場で指揮をしているという設定。どうも、R.シュトラウスを思わせる設定なのが面白いです。

ふたりのロッテ

『ふたりのロッテ』エーリッヒ・ケストナー作 高橋健二訳 ケストナー少年文学全集6 岩波書店 1560円

歌劇場では、まさにフンパーディンク(1854-1921)のメルヘン・オペラ『ヘンゼルとグレーテル』(1893年初演)が上演されようとしています。本のなかででてくる「ふたりのロッテ」とこのメルヘン・オペラは浅からぬ因縁です。フンパーディンクのほうは、グリム童話を翻案して3幕ものの子どもたちの為の『オペラにしたててあります。グリムが悲劇なのに対して、オペラではハッピーエンドになっています。対象が子どもたちといっても、作曲者フンパーディンク自身、ワーグナーの弟子だったので、その全体を流れるメルヘンといっても、かなりワーグナーの色が濃い作品になっています。

しかも、よくよく考えると、このメルヘン・オペラ『ヘンゼルとグレーテル』は、箒(ほうき)職人の兄ヘンゼとグレーテル(妹)が、両親に捨てられて、森の中に送り出されます。しかも両親は子どもたちを愛しているのです。両親はそうすることを悲しんでいます。森の中で迷ったところからストーリーが始まります。

この点も『ふたりのロッテ』は、しっかりと、関係させています。もちろん、少年時代にこの本を読んだときは、そんなこと知るよしもありませんでした。

メルヘン・オペラの『ヘンゼルとグレーテル』の話を少し。なかで、お菓子の家 実は魔法でおびきよせた子どもたちを食べてしまう悪い魔女の家に、日本では、「お菓子の家」と称しているのですが、「ふたりのロッテ」の中では、「ぽりぽりと取れるコショウ菓子の家」と書いてあります。少し調べてみると、香辛料お菓子レープクーエン(Lebkuchen)わけても、家の形をしたものを、プフェッファークーヘンハウス(Pfeffer kuchenhaus)と称するのだそうです。哱蜜、香辛料、オレンジ・レモンの皮、ナッツを用いて作ったケーキのことだそうです。

そのことを日本では、「お菓子の家」と呼んでいたのを、今回初めて知りました。

映像では、1981年にわざわざ凝ったバイエルン州立歌劇場を中心に活躍した演出家エファーディングの凝った演出のもと、ゲオルグ・ショルティ指揮ウィーンフィルハーモニー管弦楽団が、小さなオペラハウス、会場にいる観客は、子どもたちだけ、そして、ピットには、コンサート・マスター ゲルハルト・ヘッツェル率いるウィーンフィルハーモニーが、ちゃんと正装の燕尾服を着用して演奏にのぞむという映像です。

歌手陣も素晴らしく ヘンゼル=ブリギッテ・ファスベンダー(メゾ・ソプラノ) グレーテル:エディタ・グルベローバ(ソプラノ) ペーター:ヘルマン・プライ(バリトン)お母さん ヘルガ・デルネシュ(ソプラノ)。最初の3人は有名だと思いますが、デルネシュは、1967年のバイロイトでワルキューレを歌ったり、カラヤンの『トリスタンとイゾルデ』でトリスタンを歌っている往年の名歌手です。ワーグナーの弟子だった作曲者フンパーディンクはこのあたりにも、ワーグナーの影響の歌手をおいているところがなかなかにくい演出です。全部で1時間49分。ヨーロッパでは、よく子供連れで聞くことが出来るクリスマスの上演になっています。全曲 下記に動画がありました。

 

ほかにも、YouTubeでみつかりました。第2幕に「夕べの祈り」というヘンゼルとグレーテルの歌う二重唱がありますが、ここでは、エリーザベト・シュヴァルツコップとエリーザベト・グリュンマーが歌う音楽がありました。カラヤン指揮のフィルハーモニア管弦楽団です。

 

 

エリーザベト・シュヴァルツコップ エリーザベト・グリュンマー

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮フィルハーモニア管弦楽団

次に続くのが14人の天使たちによる、「夢のパントマイム」という曲です。この曲をオットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団が演奏している音声です。

夢のパントマイム 1960年 オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団

さて本題は「ふたりのロッテ」ケストナー作に戻ります。

二人のロッテのうちのウィーンのルイーゼは、父親ルートウィッヒ・パルフィー氏がオペラの作曲家で「真の芸術家かたぎ」の楽長、奥さん(母)がいないので、食事はインピリアルホテルの食堂で、オムレツ(ウィーン風)、父親は牛の足のいぶし肉(Tafel spitz ターフェル・シュピッツ)をいつも食べています。父の内面生活は独特なもので、複雑、音楽的な着想がわくと、それを書き付け、作曲するためにひとりにならなければならない。ウィーンのフィルハーモニーがバルフィー氏の最初のピアノ協奏曲を初演(のために作曲)したときは、彼は無造作にグランドピアノをとりにやらせ、ケルントナー環状通り(ウィーンのリンク)に借りた仕事部屋に運ばせたとあります、仕事部屋では楽譜を書いているばかりでなく、オペラの女の歌手たちと歌の約の研究に余念がありません。お父さんパルフィー氏のつきあっている女性はイレーネ・ゲルラハ嬢といいます。ワーグナーの『ニーベルンクの指環』のワルハラを想像してしまう名前です。もじりでしょう。

ウィーン国立歌劇場で、『ヘンゼルとグレーテル』をパルフィー楽長が指揮をします。ロッテは、よそいきの服を着て、ウィーン国立歌劇場の2階のロージェという小部屋のようになった上等の席で、天鵞絨針(びろうど)の手すりに体をおしつけて、目を輝かせながらオーケストラを見下ろしています。えんび服を着たおとうさんは、なんとすばらしいスタイルでしょう。楽手たちの中にはずいぶん歳をとった人もいるのに、なんとみんなが指揮に従っています。お父さんが棒で強くおどすと、みんなはできるだけ大きな音で演奏します。低くさせようと思えば、みんなは夕べの風のようにさらさらと鳴らします、みんなはおとうさんをこわがっているにちがいありません。お父さんはさっき満足そうに桟敷席のルイーゼにむかって、目くばせをしました。ウィーン国立歌劇場には顧問官(医者)もいます。医者の顧問官シュトローブル先生です。この先生さすがにウィーンらしく、フロイト(ジークムント 1856-1939年)の影響を受けている精神科医なのです。このあたりも面白いです。この人物もあとあと物語に効いてくる存在です。

一方、もうひとりのロッテ ミュンヘンのロッテは、母だけで父がいません。母はルイーゼロッテ・パルフィー婦人(旧姓ケルナー)は、6年前に夫と離婚、ミュンヘングラフ出版社でグラフ誌の編集長です。編集者なので、帰宅は夜遅くなり、ロッテが、「うちの小さい主婦さん」をしています。ミュンヘンのマックス・エマヌエル通りの小さな住まいに住んでいますが、ロッテは、母のために小さな主婦さんとして、晩のおかずの材料を買いに行きます。オイゲン王子通りのかどの肉やフーバー親方のところで牛肉を半ポンド、かのこまだらのヒレ肉で、腎臓と骨を少しずつ添えてもらいます。スープに入れる野菜とマカロニと塩をかうためワーゲンターラーおかみさんの食料品店に通います。マカロニスープをつくります。マカロニの水のなかに塩をどれくらいいれたらよいのか?ニクズク(ナツメグの和名です・ニクズク(肉荳蔲))をおろしたり、野菜を洗って、ニンジンを削ったりします。20分前に煮立っているお湯にマカロニを投げ込まなければなりません。

もう賢明なる読者のみなさんはおわかりだと思うのですが、夏の寄宿学校から、夏が終わるときに、ミュンヘンへ、ウィーンへ、ふたりのロッテが帰宅するときに、なにしろうり二つの姿形のふたりは、ふたりで、謀って、取り替えっこをしてしまうのです。つまり、ミュンヘンから来たロッテは、「ウィーンのルイーゼ」になりすまし、ウィーンへ。ウィーンから来たルイーゼは、「ミュンヘンのロッテ」になりすまし、ミュンヘンへ戻ります。

姿形はうり二つなのに、性格の違うこのふたりにふりかかる毎日の生活とは? ふたりのロッテは、ふたりだけの情報交換の手紙に、局留め郵便を利用しています番号は「ワスレナグサ ミュンヘン18番」です。そしてふたりのロッテの結末は?お父さんパルフィー氏の音楽家と、お母さん編集者ルイーゼロッテ・パルフィー女史の運命は?

あとは、みなさんお読みになってみてください。全部でわずか205ページほどの佳作です。原題は”DAS DOPPELTE LOTTCHEN” Erich Kästner 1949です。

ケストナー

エーリッッヒ・ケストナー(1899-1974年)ドイツ・ドレスデン生まれ、小説家・詩人 第2次世界大戦時も、ナチス・ファシズムを非難し、自由・民主主義を擁護、戦後初代西ドイツペンクラブ会長。「エーミールと探偵たち」「点子ちゃんとアントン」「飛ぶ教室」などがある。

ふたりのロッテ 岩波少年文庫

『ふたりのロッテ』岩波少年文庫138 池田理香子訳 岩波少年文庫640円

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『飛行艇クリッパーの客』Ken Forettの乗客になる

2017 AUG 5 6:06:09 am by 野村 和寿

飛行艇を舞台にした海外小説『飛行艇クリッパーの客』(新潮文庫・上下巻1993年)を読了しました。前回『インペリアル航空第109便』(リチャード・ドイル著)の飛行艇は、英国のショート社製ショート・サザーランドと呼ばれる飛行艇でしたたが、今回の飛行艇は、アメリカ・ボーイング社が1938年に完成させたB-314飛行艇です。

B-314クリッパー機は全長109フィート(33.2メートル)、翼幅長さ152フィート(45.6メートル)通常、船だと大西洋横断に、4-5日かかってましたが、クリッパーだと、正味25-30時間で、イギリスとNYを結ぶことが出来ました。

1939年現在のポンドとドルの交換率は1対4.2 1ドルは3.5円でしたので、NYロンドン⇒NY運賃 片道90ポンド 2017年現在の円レートで概算すると、片道375万円です。ちなみに英国航空のファーストクラス現在のロンドン・NY片道運賃は、122万円ですので、当時の片道運賃は現在の運賃の約3.07倍ということになります。この価格がわずか19人の乗客になると思うと高いのか高くないのかさて・・・?

KEN FOLLETTのオリジナル版です。

「空飛ぶ宮殿」と呼ばれ、いわく、美しくこわれやすいシャボン玉。世界一ロマンチックな飛行機、史上最大の大西洋横断旅客機といわれていた。19人の乗客をのせて、イギリスのサウンサンプトン河口域を離水のためにエンジンをパワー全開にして、風上に機首を向け、一路最初の着水地、アイルランドのフォインズ目指して、離水しました。B-314クリッパーは、4基の巨大星形1500馬力のエンジンを4基もち、航続距離は、ゆうに、アイルランドから一気にカナダ・ニューファンドランドまで3000㎞を飛行することができます。B-314クリッパーは1938年に完成し、全部で12機が製造されました。その中の1機が物語に登場する「クリッパー」とは、もともと快速の帆船の意味です。

ボーイング社が米パンアメリカン航空と英インペリアル航空のために製造したB-314クリッパーです。写真はウィキより引用しました。クリックすると拡大できます。

 

前回取り上げた飛行艇の「インペリアル航空第109便」(リチャード・ドイル著)の物語が、飛行艇の乗員の話だったのに対して、今回とりあげるケン・フォレットの作品「クリッパーの乗客」は、飛行艇に乗り合わせた乗客を中心とする物語。「袖振り合うも多生の縁」ということで、ぼくもこのクリッパー機の乗客になったつもりで読み進んでみることにしました。

飛行艇クリッパーの乗客上下

飛行艇クリッパーの乗客は平成5年(1993)年新潮文庫から刊行されましたが、現在絶版。古書ではアマゾンで1円から入手可能です。ちなみに1円でも怪しいものではありません。ほかに郵送料が257円(関東への送料)かかるため古書店はペイするのです。

 

ロンドンから特別仕立ての車両に乗車し、列車内では、フルコースのランチ(シュリンプ・カクテル、フィレミニヨン・ステーキ、アスパラガス・オランデーズソース、マッシュポテト添え、ピーチメルバ、プチフール、コーヒーこれだけみても英国的という感じで感心はしませんね)をいただき、飛行艇の出発地である、サウサンプトンの港へと向かう。ときは1939年の9月 ヒトラーによるポーランド侵攻で幕が落とされた第2次世界大戦の幕が落とされたその3日後ということになってい。ちなみに、9月1日は日曜日、最初のロンドンに出た独空軍空襲に対しての空襲警報は、英国国教会の礼拝の最中、11時28分に出されたとあります。このようなエピソードがわかって面白いです。

その3日後の9月4日、戦争の難をのがれアメリカを目指す幾多の人々のなかで、このNY行きのB-314クリッパー機も登場します。著者のケン・フォレットは、入念な準備による細かい描写で知られた作家です。代表作『大聖堂(ドゥオーモ)』で、ぼくは、ヨーロッパ各地にある大聖堂がなぜ、同じ形をしているかを知ることが出来ました。つまり大聖堂ばかりを建築して回っている職人集団が存在し、彼らがあちこちの大聖堂を建築したので、形が同じだったのです。

話をクリッパーの乗客に戻しましょう。

ここに登場する乗客にも、ぼくが今まで知らなかった1939年当時の事情がわかってとても興味深いものがありました。アルジャーノン・オクスンフォード卿一家が登場します。父親であるオクスンフォード卿は、なんとイギリスのファシスト党の党首をしていた人物に描かれています。英国ファシスト党の考えというのは、戦後タブーでなかなか真意がわかりませんでしたが、今回、それを知ることが出来ました。

英国ファシスト党の考え方は、「資本主義、社会主義、がともに破綻し、民主主義は結局一般大衆にはなんの利益ももたらさない。善意独裁者が、産業を統制する強権国家主義をめざし、大衆に訴える。世界はこのままいくと混血児とユダヤ人のものになってしまう」と信じる。なぜ、ファシスト党なのか? これには、第一次世界大戦後のイギリス経済、特に農産物価格の世界的暴落をもろに受け、オクスンフォード家は破産寸前になった。そこで、アメリカ人銀行家の跡取り娘を嫁に迎えている。

イギリス貴族の経済的衰退とファシズムとが結びついたという例は、ほかでもみたことがあります。日系の作家カズオ・イシグロが書き、映画『日の名残』(1993年・英国)となって名優アンソニー・ホプキンスが、その執事役として演じていました。また、史実でも、英国にもあった黒シャツ党は、ロンドンにも存在しデモ行進をしていたとありました。ファシズムはイタリア・ドイツだけではなく、英国にも、独伊以外でもっとも浸透をみせていたのでした。父の影響を受けた長女エリザベスは、21歳。熱烈な王制主義者でナチ崇拝者。「このままだと世界は混血児とユダヤ人のものになってしまう」と思い込んでいます。しかし父への反発は強く、旅行中に「ドイツ・ナチズムを崇拝する外国人」になりたくて、リスボン行きの船でドイツへと向かいます。

一方で、ユダヤ人に救いの手を差し出す人物も登場します。フランス人の銀行家ガボン男爵。シオニズムのようなユダヤ民族主義運動に莫大な富を投じ、イギリスの不興をかている。ガボン男爵の考えは「我々ユダヤ人自身の国家を作らねばならない。アラブ人を排除することにつながる。軍国主義と人種差別が合体したものがファシズムだ」とし、ドイツの世界的に高名な原子物理学者カール・ハートマンをアメリカへの亡命に手を貸そうとしています。

終始、モーツァルトの歌劇『魔笛』でいえば、パパゲーノとパパゲーナのように道化で登場するのが二人の若者。ハリー・バンデンポスト・アルビー 実名はハリー・マークス 22-3歳とオクスンフォード卿の次女マーガレット19歳。

マーガレットは、侯爵家によくあったように家庭教師に勉強を教わり、学校には通ったことがない。その恋人で、オックスフォードの最終学年だったイアン・ロチデールをスペイン市民戦争義勇兵として国際旅団に参加し戦死。社会主義者で、ジャズが好き、キュビズムの絵が好き、自由詩が好き、英国軍の傷病者運搬車の運転手になりたい。

一方のハリー・マークスは、父親が第一次大戦で戦死し、ビルの清掃婦の母親の手ひとつで、貧しいバターシーのアパート、共同流し場とトイレで育ったが、高級宝石店のショウウインドウをのぞき、宝石をみる目を磨いているうちに、近代的なブリリアント・カットと19世紀の旧式マインカットのダイヤモンドのカットの違いを覚え、午後のテニスの合間にお茶を飲みに戻ってくるという生活や、遅くに起き陶器のカップでコーヒーを飲み、華美な服装をし、高いレストランでの食事に憧れていた。アスコット競馬場で、器量のよくない金持ちの令嬢に次から次へと声をかけ、夜会に呼ばれ、ドーセット伯爵邸では、ジョージ王朝風の銀のボンボン入れや、同漆塗りのかぎ煙草入れ、ミセス・ハリージャスパーズ邸では、ティファニーのルビーの留め金付きパールのブレスレットを、マルボリ伯爵夫人邸では、銀のチェーンつきアールデコのダイヤモンドペンダントを失敬、2年間の盗みの総決算として247ポンドを盗みます。この若い二人は一服の清涼剤として登場します。

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飛行艇ボーイングB-314クリッパーです。写真はウィキより引用しました。クリックすると拡大できます。

飛行艇クリッパーの航路

飛行艇クリッパーの航路です。クリックすると拡大してみることができます。

ちなみに、本ブログを書くにあたり調べていくうちに面白いことに気がつきました。当時、実際に、飛行艇の途中経由地である。アイルランドのフォインズ(首都ダブリンから4-5㎞)に、現在、フォインズ博物館飛行艇&海軍博物館のホームページを見つけてしまいました。こういうことはやっていて、なにかとてもうれしいことでした。下記からURLでいきつくことができるので、是非のぞいてみてください。

アイルランド・フォインズに、「フォインズ博物館飛行艇&海軍博物館」のホームページをみつけました。実際のB-314飛行艇のレプリカが展示されています。手作りのかわいい博物館です。

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1945年伯林からの警鐘

2017 AUG 4 16:16:15 pm by 野村 和寿

終戦の二ヶ月前に、ドイツ・ベルリンからベルリン敗戦の記事が当時の朝日新聞に掲載されました。あまりよく知られていないのですが、当時、厳しい検閲がしかれている昭和20年になぜ、ベルリン敗戦の記事が、まだ戦争中だった新聞に掲載されたのでしょうか?

当時鈴木貫太郎内閣のもとで、情報局総裁は、下村宏という人でした。朝日新聞出身です。当時情報局は、新聞記事の掲載許可不許可を握る立場にありました。下村宏総裁局総裁によって、本記事は、昭和20年6月5日掲載許可されました。当時の日本国民は、本土決戦一色のなか、日本の敗戦への覚悟を、暗にというか直接間接に、ベルリンの敗戦という形で、知らせたのではないか?とぼくは思いました。

守山義雄記者は、1945年5月2日のナチスドイツの崩壊、ベルリン陥落までベルリンにとどまって情勢を見守っていました。筆致は具体的で、しかも、日本に対して、警鐘を鳴らすという意味を込めていたように思われてしまいます。見出しに「ベルリン前支局長」とあり、「現」でないのは、この記事を書いたのは、実は守山記者が、すでに、ソ連によりベルリンの邦人が日本に送還されるシベリア鉄道の送還列車の中で書いたことによります。

以下、昭和2065日 たった2ページの表裏のペラペラの新聞にあって、異例の長い署名記事です。あまり知られているとも思えなかったので、ここに読んでみました。よろしければどうぞごいっしょに。

19450605朝日新聞

1945(昭和20)年6月5日付け、朝日新聞より 当時のペラペラの2ページの新聞のなかで、5段もの段数をつかって守山義雄記者が渾身の記事を書いています。

 

『戦敗ドイツの実相』前ベルリン支局長 守山義雄記

余すなく徹底破壊 がれきのベルリン死一色 戦争の真理は結末にあり

ついに奇跡は起こらなかった。奇跡を期待した人たちは今呆然として廃墟の中にたたずんでいる。ヨーロッパの廃墟、惨憺(さんたん)たる破壊、累積せる悲劇、一体これは何事が起こったか。廃墟の痛手と深さは人々からものを考える力を奪ってしまった。呆然としてただ呆然として人々はおそろしくひもじいとのみ感じている。これはドイツ国民の現状だ。そのひもじさの底からしみじみとこみ上げてくる一つの涙がある。さらに次の涙がある。さらに新しい三の涙がある。悔しい涙であろう、しからず、悔しいと思うときには、これに反抗力の残滓(ざんし)を認めることができよう。しかしこのような反抗力は徹底的に失われた今のドイツ人からはどこを押しても出てこない。今度の戦争が独国民にあたえた破壊はそれほど完全であり、余すところなく徹底していた。

安っぽい言葉ではあるが、運命を嗤(わら)うというそういう表現が、この場合最も当てはまる。やっぱり駄目だったという率直な直観、これが限りなく冷酷な現実に通じているのだ。

彼らはただ泣く、生まれながらにかたくなな合理主義者が、一言の反駁(はんばく)も許されず、極端な宿命論者たることを強いられるほど世に悲惨なことはない。

 

中間的な解決なし

 

ドイツの指導者はかつて、「この戦争の結果には勝ち残る者と死に絶える者の2つがある。われわれは断じて後者であってはならない」と、それはあまりにも痛々しい予感となった。

近代総力戦にはこれが、総力戦なるが故に中間的な解決はないのだ。

そしてドイツは行くところまで行ってしまったのだ。あの苦しいベルリン生活の思い出は瞬間にして遠い遠い夢のかなたの世界に吹っ飛んでしまった。同僚から何か書けと鉛筆をつきつけられたが、まるで見当がつかない。そしてそれが日本の読者に何の参考になるだろうか。今実に重大な国運の分岐点に立っている日本にはもっと大切な事があるはずだと思う。独ソ開戦の興奮、スターリングラードの悲劇、ノルマンディの血戦、V1号の出現したときのあの戦慄的な熱狂など、大向こうを騒然とさせる材料は山ほど

あるはずだ。しかし今それが何の足しになるだろうか。芝居の途中の筋書きは複雑起伏を極めていればいるほど面白い。しかし戦争には最後の結末だけが大切である、最後の終止符だけが戦争のすべてである。したがってここに再びあの虚偽と宣伝の絡み合った戦争の道ゆきを思い出して反芻することはちょっと辛抱しきれない。

 

奇跡は遂に起こらず

 

戦争の持ついかなる真理はその結果に潜んでいる。同時に近代総力戦においては奇跡は容易に起こりえない。ソ連がぶり返したのも英国ががんばったのもあれは奇跡ではない。それぞれ力の裏打ちがあってはじめてなしえたのである。強い力は弱い力より強い、このきわめて常識的なことが戦争の結末には真理となって現れてくる。その意味でヨーロッパの戦争は徹頭徹尾きわめて物理的な推移をみせた。強いて奇跡を認めるならばあのような国民性と国体をもった独は、誰の目にも絶体絶命の境地にありつつとにかく最後までベルリンをとられるまでがんばり通したということはこれを奇跡といえばいうことができる。もちろんラインを突破された後の独のがんばりは、戦略的にも政治的にもすべて希望を失った、ただナチスの精神力だけの頑張りであった。しかし精神力がものの力を補い得るのは一定の限度までである、ことにこのことはヨーロッパ戦場において、躊躇なく断言しえたのである。この独国民は水ももらさぬ総力戦の(一字不明)型のなかでかろうじて自分の義務だけをかろうじて呼吸していたのである。さすがの独がついに恐ろしい真相を告白しはじめたのは去る4月16日ソ連の89個軍団の大軍が、オーデル河戦線で、直接ベルリンに対し最終的な総攻撃の火ぶたをきったときからであった。

 

ヒ総統布告の疑問

 

そこにひとつの奇妙なことが起こった。ソ連軍の行動開始を2日間見送っていよいよ本物のベルリン総攻撃であることを確認したヒットラー総統は16日付けで独軍将兵に告げる布告を出した。「東部戦線こそ独の運命を決する戦線だ、ベルリンは永久に独のものとして残るだろう。東部戦線の将兵よ断乎がんばってくれ」という内容だ、しかしこのときの戦況は西部戦線の米英軍は中部独の心臓部になだれこみすでにエルベ河東岸に橋頭堡を作ってまさに西からベルリン攻略に参加せんとしていた。緊張せる局面にあったなぜヒットラー総統は、東部戦線の危険のみを強調して、米英軍の防衛に関してはほとんどひとこともふれないのだろうか。それはわれわれの抱いた最初の疑問であった。ついでベルリン市は非武装都市として開放を宣言されぬではなかろうか、ということがわれわれの間で大きな問題となった。人口の3分の2は疎開したとはいえ、その後東部独からの避難民を収容したベルリンは当時人口300万の女子供をも含む大都市であったのだ。臨戦成功となれば食物はどうする、負傷者はどうする、ほとんど歴史に例のない惨憺たる考慮をめぐらせたのも、当然だ。われわれの観察したところでは、ベルリン市民のほとんど全部は、非武装都市の宣言を今日か明日かと待っていた。トランス。オツェアン通信なども、ベルリン非武装都市問題は、22日の日曜日中にいずれかに決定するだろうという通信を出したほどだった。

 

指導者間に縺(もつ)れ

 

すでにソ連軍の20センチの重砲弾が、朝日支局のあった市の中心部に雨のごとく落下してくるまっただなかにあって、全市民は地下室の中でかたずをのんでいる。文字通りベルリンは沸騰し、わきあがり大揺れに揺れかえる思いだった。ヒムラーが各市各村の徹底抗戦を命令した後だったので、さすがに世紀の悲劇を前にして指導当局の間にも紛争のもつれがあった。25日に至り、ベルリン防衛責任者たるゲッペルス宣伝相が、この問題に中間的な解決をあたえ、制服を着た軍人のみで、ベルリン防衛戦を遂行せよと布告が発せられた。女も防衛戦に参加する以上は、ユニフォームを着ろという指令である。だがベルリンの運命にとっては結局同じことであった。かくしてベルリンは傍観者の目には、まったく無謀にみえる形で世紀の悲劇の中にまきこまれていったのだ。

それからおよそ10日間言語に絶した市街戦が続いた。ソ連軍の砲撃のものすごさというのを、われわれもおかげで身をもって体験した。25日まで朝日支局のあったアンハルターの駅前でがんばっていた頃、地下室まで砲弾に打ち砕かれ、われわれの事務所に女や子供の屍体がもちこまれた。われわれの支局が一般大衆のための仮納骨所みたいになってからさすがにいたたまれず、同僚原君とふたりで、死にものぐるいの運転をやり、チャーガルテンの日本大使館に飛び込んだ。ここでも河原参事官以下11名の館員諸氏と、民間では正金(横浜正金銀行)の人たちはすでに悲壮な籠城生活を始めていた。大使館も幾度もの爆弾を浴びたことか、真っ暗な地下室で天長節の式をあげた。感激など今から顧みれば皆無。ことに助かったことが不思議なほどで、すべて筆紙につくしがたい体験であった。

 

呆気なく戦いの終幕

 

そしてある朝が明けた「これはロシアの兵隊らしい」と誰かがとびらの隙間からのぞいて叫んだ。なるほど見慣れた独兵の鉄兜とは形が違う。朝もやの中で、独軍兵士の残骸の間を自動小銃を構えたソ連兵が3人、5人ぞろぞろ歩いている。何かを探しているようでもあるが、散歩しているようでもある。みんな熊の子のように真っ黒になっている。それがベルリンでソ連兵をみた歴史的な瞬間であった。

そしてヒトラー総統戦死の放送をわれわれが、万感迫る思いで聞いたのはその前夜のことだった。ヨーロッパ戦争は、ベルリン戦争をもって淋しく呆気なくついにその幕を閉じたのである。今日ベルリン市街の徹底的な破壊の跡を見るものは何が独にここまで戦わせたかをいっそう不思議に考えるに違いない。政府、官庁街を中心として市の中心部8キロ四方は、がれきの原っぱと化した。

2年間の爆撃よりも10日間の市街戦のほうが、2倍も3倍も破壊力は大きいのだ。

ナチス・ドイツの敗戦の理由、そのような複雑な問題は、一言や二言では尽くせない。しかしドイツが最初から苦しんでいたのは、二正面戦争の悔恨だった。そして最後の瞬間までこの戦争を一正面に修正したいという希望を捨てなかった。ナチス・ドイツが戦略的にも全然見込みない最後の抵抗を試みたのも米英とソ連間の軋轢(あつれき)の結果を期待し、ここにドイツがつかみ得る政治的な機瞥(きべつ)を、待ちもうけていたのであった。ヒムラーの米英単独降伏提案は、その最後のはかない試みであった。今日ドイツは米英・ソ連三国のほかに、フランスまで加わり、全国土余すところなく、四国軍隊に占領されている。ベルリンには至るところ赤旗がひるがえり、うちひしがれた市民は生きるために食わんがためにすべての過去を忘れている。富めるものも中産階級もすべて消滅し、今ドイツの街頭にみるすべての人間の形は事実死の色に塗りつぶされてしまった。記者は南京をはじめ、ワルソー、ブラッセル、パリと4つの首都をそれぞれ占領第一日に勝利の軍隊に従軍して見聞したが、いまははじめて敗軍の首都の悲惨さを内部かた体験して戦争の結末こそ、戦争のすべてだという考えをいっそう強くしたのであった。

194565日 朝日新聞より(現代仮名遣い折りがな等変更しました。)

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歴史家・鳥居民が丸谷才一の語ったところとして、「守山義雄は、19455月、ソ連軍によってベルリンから日本へ送り返されたが、その旅の途中、シベリヤ鉄道のなかで、本記事を書いた」とあります。

守山義雄氏(1910-1964年)大阪外国語学校ドイツ語部を卒業して大阪朝日新聞社会部入社、1939年ベルリン特派員、1940年独軍に従軍してパリ入城記、19457月帰国。1951年サンフランシスコ講和会議を取材。

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カメラのおけいこその⑩復刻版ズマロン28㎜

2017 JUL 14 16:16:15 pm by 野村 和寿

このSummron(ズマロン)28㎜f5.6は、なんと2016年に復刻された最新レンズなのです。全長もわずか18㎜、重量も約165グラムしかありません。ぼくにとっては、ものすごくかわいい小型のレンズです。このレンズはもともと1955年から1963年にかけて全部で6200本製造されたとされるSummron(ズマロン)28㎜f5.6をライカ自社で復刻したレンズになります。

ズマロン28mmf5.6

ズマロン28㎜f5.6のフォーカスレバーと無限遠のロックです。

レンズフードは、とても価値のある伝統的なフードSLOOBKと呼ぶフードの復刻版が附属されていました。

ズマロン28㎜f5.6をライカの最新カメラ ライカSLに装着したところです。

しかし62年も前のレンズをライカは何故復刻したのでしょうか?そしてぼくは何故このレンズを入手してしまったのでしょうか? それはライカのもつ、普遍性に触れることにもなりとても大事な点なのです。たんに、オールドファッションが懐かしくて素敵ということではなく、現代のレンズ研磨技術をもってすると、シンプルな62年前には果たせなかったような、特に赤に顕著なあかかぶりなどを払拭しているようにも思えました。

ズマロン28㎜f5.6

ズマロン28㎜f5.6を上からみたところです。絞りは5.6から22まで絞り込みが出来ます。メートル表示のピント距離計、ライカSLとはマウントアダプターM-Tで装着可能です。

横浜港船勢揃い

横浜港大桟橋で豪華クルーズ船勢揃いの風景です。写真をクリックすると拡大できます。

 

28㎜の広角レンズというのは日本では人気のある広角レンズだそうです。日本では35㎜、28㎜、20㎜というラインナップに対して、欧米では24㎜が主流だと聞いたことがあります.日本ではなかなか24㎜をみかけたことがありませんが、アメリカのライカ好きに出会ったときに、やはり24㎜をつけていました。ぼくは前々から28㎜が好きであらゆるといってよいほどの28㎜を集めに集めてきました。そして2016年11月に発表されたこのズマロン28㎜復刻版を入手するかどうか悩みに悩んだ末に、入手することにし、4ヶ月待ちで2017年3月ようやく入手できました。それは期待を裏切らない素晴らしいレンズでした。たしかにf5.6という現代のレンズではちょっとありえないくらい暗いレンズではあるのですが、現代のデジタルカメラのISO感度をもってすると、十分に実用に耐えられます。

にっぽん丸の入港風景

にっぽん丸の入港風景です。横浜港大桟橋乗客ターミナルにて 写真をクリックすると拡大できます。

エントランスを取り付ける

にっぽん丸に乗降用のエントランスを取り付けているところです。写真をクリックすると拡大できます。

横浜港大桟橋に、豪華クルーズ船にっぽん丸は、驚くほどすーっと着岸してきました。岸壁に幅寄せしていくように、だんだんと岸壁に近づき、エントランス用の乗降口とのドッキングを果たしました。このような、にっぽん丸の横腹とエントランスの状況などなど、情報量の多い写真を撮影するのには、広角レンズは活躍すると思います。

ダイヤモンドプリンセス

こちらは英国船籍のダイヤモンド・プリンセス号です。なんと総トン数は115875トンもある世界最大級のクルーズ船です。こうした巨大な船の全貌を撮影するのは、大変に難しいですが、広角レンズの活躍のしどころです。写真をクリックすると拡大できます。

ズマロン28㎜f5.6

最新のカメラ・ライカSLに最新の復刻版!ズマロン28㎜f5.6を装着したところです。

正面からみたところLEICAとSUMMARON-M-1:5.6/28mmと表示されています。

 

カメラのおけいこその⑨マウンテン・エルマー105㎜

2017 JUL 14 9:09:47 am by 野村 和寿

マウンテンエルマー105㎜

全長わずか90㎜のライツ(ライカ)一かわいらしい望遠レンズ。Elmar105mmf6.3はなんと1932年製と、今から85年も前に製造された望遠レンズです。現行のカメラLeica SLにもきちんと装着出来、撮影できるところがライカらしいところで嬉しいです。

ポケットに1本望遠レンズをしのばせて、ハイキングに行く。こんなときの望遠レンズは、大きいと邪魔なので極力小さくてしかも望遠というなかなか矛盾したレンズが必要です。1932年生まれのELMAR(エルマー)105㎜f6.3は、製造本数わずか3975本しか作られませんでした。

マウンテン・エルマー105㎜

横浜港内のパイロット船。水先案内人を運ぶ小型船です。今からなんと85年も前に作られた1932年製のマウンテン・エルマー105㎜f6.3で撮影しました。

今の望遠レンズのようにシャープさ一方の感じではなくて、味わいのある柔らかな写真になります。

マウンテンエルマー105㎜

マウンテンエルマー105㎜f6.3 レンズは3群4枚 全長90㎜の小さなレンズです。L39マウントから、M、T(L)と2つの変換アダプターを介すると、最新のライカSL1に装着することができました。

 

このレンズはさすがに絞りf値がf6.3とだいぶ暗いので、1932年当時のフィルム感度では、とても使い物にならいとされたせいか、3975本しか製造されませんでした。現在では、デジタルのおかげでISO感度はf値が多少低くても十分使用に値できます。

マウンテンエルマー105㎜

マウンテンエルマー105㎜を真正面から見たところです。Ernst Leitzの表示があります。高品質のクロームメッキ仕上げのボディです。

小型コンパクトの強みは、さっと、レンズを変更して、装着し、撮影できるところにあります。おりから、大桟橋を静かに出航していった豪華クルーズ船飛鳥Ⅱを捉えてみました。ここでも、古い写真のように淡い印象の飛鳥Ⅱになっています。

横浜港大桟橋を離岸したばかりの飛鳥Ⅱ(総トン数50142トン)。タグボートにひかれて、横浜ベイブリッジにゆっくりと向かっているところです。マウンテン・エルマー105㎜ f6.3 1932年ライツ(ライカ)の望遠レンズです。

ライツ エルマー105㎜は、マウンテン・エルマー別名をアルペン・エルまーと呼ばれています。いかにもドイツのアルプス好きなドイツの作ったとても面白い望遠レンズです。

横浜税関の建造物

マウンテンエルマー105㎜で撮影しました。1934年建造の5階建ての横浜税関(通称クイーンの頭)5階建てで高さ36㍍。本レンズが作られた2年後に建てられています。

いまに至るも、こんなアルプスの名前のついたレンズなんて聞いたことがありません。

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