イタリア潜水艦カッペリーニ号の奮闘!数奇な運命!
2017 APR 17 18:18:04 pm by 野村 和寿
1943年5月11日イタリア王立海軍コマンダンテ・カッペリーニ号は、大西洋を一路、アフリカの喜望峰を回り、インド洋をへて、15000浬(27780㎞)を、日本海軍の基地シンガポールに向かい昼夜水上航行、潜水航行を繰り返しながら向かっていました。つづいて5月16日同レジナルド・ジュリアーニ号が、さらに、6月16日には同ルイージ・トレッリ号が、相次いでシンガポールを目指し、途中、サバン(現在のインドネシア領)にて、イタリア通報(海防)艦エリトレア号による補給を受け、8月1日から8月30日にかけて相次いでシンガポールに無事到着しました。
欧羅巴発アジア到着の3隻の潜水艦を調べるうちに、これらの潜水艦、および上記通報艦は、ジュリアーニ号1隻を除いて、カッペリーニ号、トレッリ号そして、通報艦エリトレア号の3隻は、終戦1945年の終戦後まで生き延びた船舶だということがわかってきました。
しかも、3隻の潜水艦は単に潜水艦が、欧羅巴からアジアを目指したのではなく、輸送任務潜水艦と呼ばれ、一切の兵装をはずして、ほぼ丸腰での決死的な行動なのでした。
輸送任務潜水艦とは日本海軍伊号潜水艦のうち第四百一潜水艦をはじめ20隻を輸送任務に就いた。作戦用潜水艦を使って物資等を輸送する任務に当たらせることです。 任務の目的は補給 すき間というすき間に物資を積み込まなくてはならない 魚雷は取り除かれ、発射管さえ物資の保管場所として使われました。物資の積載量を増やすために甲板の砲も外され、潜水艦の攻撃能力をはぎとられました。
3隻の潜水艦と1隻の通報艦の詳細は下記の通りです。
下の写真は、カペリーニ号が、独海軍UIT-24として、日本近海・瀬戸内海で活動していたころの写真です。艦橋には日本士官らしき人々がうつっています。日本の伊号潜水艦のように黒塗装ではなく、独Uボート色の灰色塗装です。これは、大西洋の海の色にあわせた色を踏襲しているといえます。1944年撮影。
まとめてみますと、伊海軍潜水艦コマンダンテ・カッペリーニ号、ルイージ・トレッリ号は、ボルドーからシンガポールの日本海軍基地へ、物資を運んだ直後に、伊が降伏し、独海軍UIT-24,UIT-25に改名、さらに、1945年5月に独が降伏すると、日本海軍伊号第五百三、第五百四号として活動したこと。
一方、伊通報艦エリトレア号は、シンガポールやサバンで、補給活動に従事後、伊降伏を聞き、英領コロンボで英国海軍に武装解除を受けた後、伊に回送され、戦後、戦時賠償艦として、仏海軍通報艦フランシス・ガルニエ号として、なんと1966年まで運用されたのです。
日本と独の年長老人どうしの冗談で、「今度やらかすときは、イタリア抜きでやらかしましょうや」というのがありました。つまり、日独伊のうちで、いち早く枢軸国側を離脱した伊を「腰抜け」として笑いの対象にしてしまうという、あまり趣味のよくない冗談でした。ぼくは、以前から伊は、本当に腰抜けだったんだろうか?という疑問を持ち続けておりました。
たとえば、サッカーのドイツ代表対イタリア代表でも、イタリアが優勢であり、現在両国のイタリアの対戦成績でも全34試合で15勝8敗11分でイタリアが優勢です。の成績を残しています。自動車のF1でも、フェラーリはコンストラクターズとして、エンジンメーカーとして1950年以来、224回を誇っています。勇気をもって立ち向かう姿はいずれも凜々しいです。
ほとんど丸腰で、欧羅巴からアジアへ15000浬を勇気をもって横断した伊海軍の潜水艦。不屈の闘志が見受けられます。しかも、潜水艦、通報艦ともに戦後まで生き抜くという意外ともいえる息の長さこそ、伊の魂ここにありということを感じてしまいました。
なお、イタリア海軍コマンダンテ・カッペリーニ号のカッペリーニとは、将軍の名前アルフレッド・カッペリーニ将軍alfred cappelliniからきており、夏の冷製パスタ カペッリーニcapelliniとは関係ありませんのであしからず。(苦笑)。
資料:『潜水艦戦争1939−1945 上巻・下巻』 レオンス・ペイヤール著長塚隆二訳 ハヤカワ文庫刊(1997年)『伊四〇〇型潜水艦最後の航跡 上巻・下巻』 ジョン・J・ヘーガン著 秋山勝訳 草思社刊(2015年)
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日独を結んだ潜水艦 深海の使者たちその③
2017 FEB 28 18:18:49 pm by 野村 和寿
私の母(昭和2・1927年生まれ・90歳)が、横浜に在住しておりましたので、いつだかはっきりしないのですが、ドイツの潜水艦で来日した水兵達が、神奈川県庁のある日本大通りで、ドイツ海軍による分列行進をしたのを女学生みんなで見たと申しておりました。水兵たちは、足を真っ直ぐにしてきびきびと歩くので、とても格好良くて、印象的だったそうです。さて、このあたりで、日独間の深海を結んだ、あるいは結ぼうとした潜水艦を比較してみました。日本とドイツの潜水艦の意外な違いをまとめてみました。なんとなく、ドイツ潜水艦は、日本の潜水艦に比べて巨大で速力も速くと思っていました。ところがずいぶんと違っていました。まとめてみたのが下図になります。日本の細かなからくりの工夫を施したのに対して、ドイツの合理的な工夫、両国の設計の違いが明らかにわかります。
大日本帝国海軍潜水艦乗務記録 インド洋♯1
下の動画は、実際に日本海軍が撮影した記録映画です。救いなのは潜水艦の乗員はみな明るく比較的自由にふるまっていること。これだけ厳しい規律の下だと、むしろ自由にふるまえるというところがあるのかもしれません。You Tubeには「その6」まで分かれて約50分間の映像がアップされています。ご興味のある方はどうぞ。
大日本帝国海軍潜水艦乗務記録 インド洋♯1
「消えたイ52号」(NHKスペシャル)97年3月2日初回放送。こちらは、沈没したイ第五十二潜水艦の引き上げの記録ドキュメントです。
伊号第五十二潜水艦は、第5次の遣独計画の潜水艦として、昭和19(1944)年3月10日呉軍港出港、2トンの金塊、錫、モリブデン、タングステン228トンを積載、3月21日シンガポール入港、3月23日シンガポール出港、6月8日レーダー逆探知装置をドイツ潜水艦をより受領し伊号に設置しました。6月21日スペイン海域で米海軍アベンジャー雷撃機より攻撃を受けて沈没しました。金塊を引き上げる計画がもちあがり、1995年引き上げが計画されたが、深海5000メートルなので、断念した経緯があります。これで「深海の使者」のブログ記事は終わりです。最後に著者の吉村昭氏の本文庫は非常に読み応えがあります。是非、ご一読をお薦めします。
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日独を結んだ潜水艦 深海の使者たちその②
2017 FEB 28 6:06:03 am by 野村 和寿
さらに日本とドイツの第2次世界大戦中の主に潜水艦による交流について調べてみました。日本からドイツまで、1万5千海里(3万キロ弱)を航行してさえも、日本が主に欲しがっていたのは、ドイツの工業技術でした。
魚雷艇用ダイムラーベンツ3000馬力内火発動機 電波探知機(レーダー)、小型潜水艦設計図 対戦車砲の特殊弾、噴射推進式飛行機(ターボジェット)の設計資料Me163 Me262、工業用ダイヤモンド
これに対して、ドイツが欲しかったのは南方の工業用材料 雲母 キニーネ、生ゴム、クローム、マニラ麻、コブラ、さらに、日本海軍からの贈呈品として、航空母艦設計図、酸素魚雷、ほかに日本海軍が考案した水中でも安定して潜行していられる自動懸吊装置、重油漏洩防止装置、真珠湾攻撃に使われた特殊潜航艇設計図、無航跡魚雷などを送る目的がありました。
またドイツに留学していた海軍の技術将校のレーダー技術や造船技術を習得した将校の帰着も目指していました、
これらのいくつかは、無事、日本に到着し活用されました。特に噴射推進式飛行機は、実際に特攻機櫻花のエンジンに使われました。(残念な使われ方でした)、電波探針機(レーダー)は早くも遣独潜水艦で活用されました。
ドイツに亡命中の印度独立運動の闘士チャンドラ・ボースを日本に連れてきて、印度独立運動を支援するために、印度独立運動の闘士、チャンドラ・ボースをドイツUボートと連携して、日本に連れてくるということも潜水艦はしました。(ボクは今まであの新宿・中村屋の娘と結婚したのが、その人と思っていました。これは誤りであり、中村屋のほうの日本に帰化した人物は、同じボースでもビハリ・ボースで、チャンドラ・ボースの下で働いた人物でした)
マレーにおいて、自由印度独立義勇軍を設立し、日本に帰化していたビハリ・ボース(新宿中村屋の娘と結婚し、日本に帰化)とともに独立義勇軍を組織しました。
イタリアも日本との軍事同盟をなんとかいかそうとして、飛行機による渡航を行いました。船と違ってプロペラが3基あるイタリアの輸送機をつかえば、船で約90日間かけているのにくらべると、わずかに、3日間で、ヨーロッパと日本との間を結ぶことが出来ました。
イタリアも同盟関係にあったので、日伊関係を改善する目的で、ローマから日本へ向けて1942年7月1日に伊ロードス島基地から日本を目指して飛行機を飛ばしました。サヴォイア・マルケッティSM75改がそれです。
ところが、ソ連領上空をわずかにかすめると、距離7000㎞なのに対して印度洋上空を飛ぶと12000㎞にもなるので、日本の印度洋を飛ぶことをいったん了承しながらも、実際には、ソ連領上空をわずかにかすめて飛行し、当時日本の占領下の内モンゴル包頭飛行場に飛来、給油後に東京福生飛行場に到着しました。ところが、ソ連領上空を飛行したことを、ソ連側に知れることをひたすら隠したかった日本は、この飛行の成功を大々的に宣伝することはなく、ひた隠しにし、このことがきっかけで、日伊の同盟関係は冷え切っていきます。いったん了承すればわからなけりゃいいじゃないかという伊的発想と、どこまでもがちがちな日本軍との発想の違いとが垣間見られ今となっては、興味深いところです。日本もドイツまでの無着陸飛行を目指しました。
無着陸欧州飛行ということでは、朝日新聞航空部が、昭和14(1939)年、東京・ロンドン間15357㎞を所要時間94時間17分56秒で結んだことは有名だと思います。これに使われたのは実は、日本陸軍司令部偵察機キー15制式名九十七式でした。また、東京日日新聞が、昭和14(1939)年ニッポン号が各国の飛行場を経由して世界一周飛行を試みました。航続距離52860㎞。これに使われたのは日本海軍九十六式陸上攻撃機でした。またその1年前の昭和13(1938)年5月には航空研究所長距離機(通商 航研機)には、東大航空研究所設計、東京瓦斯電気工業製造で、木更津、太田、平塚の三角点を結ぶ周回コースを3日間、11,651.011㎞を無着陸で飛行し、当時、無着陸飛行の世界記録を打ち立てました。この流れで作られたA-26(後に日本陸軍キ77と銘々)で日本ドイツ間を無着陸飛行を企図し、東大航空研設計、立川飛行機試作工場製造で製造されたキ77 2号機が投入されました。シンガポールからベルリン間12000㎞を所要時間55時間程度で飛行するという計画は、昭和18年6月30日東京・福生を飛び立ち、7月7日シンガポール・カラン飛行場からベルリンを目指しました。キ77 2号機はシンガポールからインド洋、紅海、伊ロードス島を飛行予定でした。ところが7月10日インド洋上で消息をたち、遣独飛行は失敗に終わりました。ここまでの残りの渡欧計画をまとめると次のようになります。
本ブログの記述は、吉村昭著『深海の使者』(文春文庫所収)をもとに、周辺の補強をして記述しました。写真はすべて、ウィキペディアによるパブリック・ドメインの写真を使用しています。
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日独を結んだ潜水艦・深海の使者たちその①
2017 FEB 28 5:05:02 am by 野村 和寿
ドイツ大使館・総領事館のホームページ「日独交流150年の歴史」(文:上智大学准教授スヴェン・サーラ氏 訳ドイツ大使館岩村偉史氏)に興味深いことが載っていました。「日独関係は軍事同盟へと進展していき、日独伊三国同盟(1940年)と1942年の軍事協定により頂点に達します。しかしながら、戦争中に日独が実際に協力しあうことはありませんでした。両国の政治指導部は互いに相手に対してむしろ懐疑的で、軍事同盟はまず第一に宣伝手段としての役目を果たしていたのです。ドイツと日本は別々に戦争を行い、そしてドイツ帝国は1945年5月8日に、日本は1945年9月2日にそれぞれ別々に降伏しました。ちょうど6年前にドイツがポーランドに侵攻したのとほぼ同じ日に、第二次世界大戦が終わりました。2800人にふくれあがった在留ドイツ人社会では(オランダ領東インドからの避難民約700人と海軍兵士500人を含む)その大部分がドイツに強制送還されましたが、ドイツにいた日本人たちも同様でした。」(太字・本ブログ)
ボクは、学校のときに、第2次世界大戦では、日本とドイツは日独伊三国同盟で連合国と戦ったと常に教えられてきました。ところが、上記の赤字は、日本とドイツは別々に戦争したのであって、特に協力しなかったとあります。確かに、最近の歴史学では、三国同盟はほとんど戦略的に機能することはなかったという説が有力なのです。
そこで、頭に浮かんだのが、吉村昭『深海の使者』(1973年)です。
吉村昭(1927−2006年)は、『戦艦武蔵』をはじめ、単なる戦記物とは内容を異にし、徹底した取材によって得られたデータを元に下ノンフィクションで著作する作家です。そこで、日本とドイツの間を、第2次大戦中に、主に潜水艦での交流を調べてみることにしました。
日本には、長距離の航行が可能な潜水艦がありました。イ号潜水艦です。海中深く潜行し、主に、現在のマレーシアにあった日本海軍基地ペナンを出港し速力12−16ノットで印度洋を南下、喜望峰からアフリカ大西洋に入り、一路ドイツを目指しました。訳66日かけて、ドイツ占領下のロリアン、ブレスト軍港に入港するという計画でした。夜間は水上航行、昼間は深海深く水中航行をするということを繰り返しました。乗員たちは10時間以上にもおよぶ潜行で酸素の欠乏と炭酸ガスの増大にもよく耐えました。
ここに『深海の使者』に登場する潜水艦の日本とドイツ1万5千浬を海中深く潜行した潜水艦を紹介します。始まったのは昭和17年4月11日に呉軍港を出港したイ号第三十潜水艦です。途中、現在のマレーシアの日本海軍基地であったペナンで燃料補給をし、それから一路欧州を目指しました。約4ヶ月かけて、ドイツが当時占領していた旧フランス領ロリアン軍港に到着。帰途は8月22日ロリアン軍港出港し、行きと全く反対の経路をたどりつつ、10月8日に無事ペナンに入港したのですが、指揮命令系統の混乱と多少の到達の気の緩みも正直あったのかもしれません。日本帰港をめざした矢先、10月13日にイギリス海軍の敷設した機雷に触れて、シンガポール沖で沈没しました。往復はしたのですが、まったく惜しいところで生還を逃してしまいました。
日本とドイツの間の往復に成功した潜水艦は、日本側では1隻だけありました。イ号第八潜水艦です。昭和18年6月1日に呉軍港を出港し、シンガポール、セレター軍港で、燃料補給を受け、60数日かけて、8月31日無事ドイツ軍の旧フランス了ブレスト軍港に到着、10月5日ブレスト軍港を出港し、12月5日シンガポール水道にあるセレター軍港に入港、12月21日午後無事呉軍港に帰港しました。
ドイツから日本へむけてUボートでの交流も行われました。
ドイツ潜水艦U511は1944年3月30日 ドイツ軍旧フランス領ブレスト出港、7月15日に現在のマレーシア 日本海軍ペナン基地に入港し、8月6日に無事呉軍港に到着しました。U511はその後、日本海軍に譲渡され「さつき1号」と呼称されました。
イタリアからも潜水艦が日本に向かいました。
4隻向かったのですが、そのうちの1隻は、日本に到着しています。ルイージ・トレッリ号がその潜水艦で、1943年6月16日に旧フランス領ボルドー海軍基地を出港し、8月26日スマトラ島の日本海軍基地サバンに無事入港、8月30日にシンガポール港を出港し、日本に回航されました。途中でイタリアが連合国側に降伏したために、9月にドイツ海軍が本船を拿捕し、名前をドイツ海軍UIT25と改称。日本到着日時は不明ですが、確かに日本に到着しています。昭和20年5月8日にドイツ軍が降伏すると、今度は、日本海軍に接収され、イ号第五百四潜水艦と改称されました。ちなみに本船は、昭和20年の終戦時、三菱神戸造船所で修繕中でした。イタリア・ドイツ・日本と3国を渡り歩いた戦後まで生き延びた数少ない潜水艦ということができます。昭和21年4月16日に、紀伊水道で、米国海軍によって処分されました。
最初のドイツ大使館の言説とは異なり、非常に微々たる交流ではありましたが、確かに、日本とドイツは物資、技術の上でも軍事的な交流があったことがわかります。この項目つづきます。
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