北方領土の私的検証(その8)サンフランシスコ講和会議後の動き
2019 JAN 28 11:11:41 am by 野村 和寿
前回は、1951年9月4-8日のサンフランシスコ講和会議における吉田全権の受諾演説のところまででした。今回はその続きです。
その前に日本では、1950年3月8日 衆議院外務委員会で、「千島列島の範囲」についての質疑が行われています。
浦口鉄男議員(野党・立憲義正會)の、千島列島の範囲について政府への質問に答えて政府委員の島津久大(ひさなが 生年1906-没年1990年)政務局長は、
「1875年締結された樺太千島交換条約(サンクトペテルブルク条約)で列挙
されている18島とは北千島である」と答弁しています。北千島とは千島列島全部ではなく、千島列島の北千島・中千島・南千島のなかで、一部という意味です。
また前回までにも登場した登場した西村熊雄条約局長は、
「政府側は一貫して、千島列島は北千島と南千島を含むが、歯舞諸島と色丹島は千島列島に含まない」と答弁しています。ここでは、千島列島には北千島と南千島があって、その千島列島は、サンフランシスコ条約で日本は放棄した、ということになります。
また1951年3月31日衆議院では、「歯舞列島返還懇請に関する決議」を行い歯舞諸島はわが国に返還されるよう懇請決議を行っています。
ここで1951年9月4-8日のサンフランシスコ講和条約に話をもう少し詳しく触れてみましょう。
前回、本稿で問題にしたのは吉田全権演説のなかで、日本は千島諸島についてサンフランシスコ講和条約で千島諸島についての放棄を宣言しました。
ところが、一方で、「千島には北千島と南千島があり、南千島は、古来から日本の領土であること」を吉田全権が強調したくだりでした。これですと、北千島も南千島も千島列島に含まれると全権が宣言してしまったに等しく、ゆえに、
サンフランシスコ講和条約で、千島列島を放棄した日本にとっては、「南千島に属する、国後択捉島もまた放棄した」と、直に読めば解釈できてしまうのです。
後年吉田茂はよほど、この演説に後悔の念があったらしく、講和条約5周年の1956年9月8日付けの産経新聞・時事通信に小文を寄せ「私はダレス氏の示唆にもとづき、会議の演説において択捉・国後両島はいわゆる千島には含まれず外人未住の日本固有の領土なるゆえんを強調した」とあります。しかし、のちに著された「吉田茂回想10年」(1957年中公文庫)では、この部分がそっくり削除されています。
サンフランシスコ講和条約における吉田全権の演説をさらに続けましょう。吉田全権は、この演説の冒頭で、別に、つぎのことを強調しています。
「千島列島および南樺太の地域は日本が侵略によって奪取したものだとのソ連(グロムイコ)全権の主張は承服いたしかねます。
色丹・歯舞諸島は、日本の本土たる日本の北海道の一部を構成し、択捉、国後両島が日本領であることについては、
帝政ロシアもなんら異議をはさまなかったのであります」と吉田全権は述べました。これは、「千島列島から択捉、国後の2島を除外する法的効果をもつ」とみなすことができる。という解釈が成り立つという主張です。
実際にロシア帝国は1875年(千島樺太交換条約締結)まで国後・択捉島を、ロシア領土と主張していた形跡はありませんでした。
しかし、この吉田全権の演説だけでは、前者の「南千島も千島列島に含まれる」としてしまったので、根拠がいまいち弱いのは否めません。
1951年10月19日 衆議院平和条約におけるサンフランシスコ講和条約(第2条c項(c)「日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する)に関する質疑が行われています。
ここでも、クリルアイランド(千島列島)とは一体どこをさすのか、ということを、高倉定助(北海道5区 日本農民党)議員が政府に質問しています。
このなかでも、西村熊雄外務省条約局長・政府委員は、「千島がいずれの地域を指すかという判定は、北千島及び南千島を含む意味と解釈しています」と答弁しています。つまりは、政府は、サンフランシスコ平和条約で日本が放棄した千島列島に、国後・択捉島は、含まれるといっているのです。
ここで注目すべきは、1875年と(樺太・千島交換条約)ではなく、
「1951年9月に調印されたサンフランシスコ平和条約にたって解釈すべきであり、千島列島は北千島と南千島を含むが、歯舞群島と色丹島は含まない」との政府答弁をしています。
また1953年7月7日および11月7日の衆議院「領土に関する決議」
でも、歯舞諸島、色丹島の領土返還要求をしており、少なくとも1953年まで、
日本は「国後・択捉島の返還要求」ではなく、「歯舞諸島・色丹島の2島を返還要求」をしていたことがわかります。
話は少しそれますが、1950年3月8日 衆議院外務委員会で、千島列島の範囲について質問した浦口鉄男(生年1906-没年2005年)議員は
北海道1区選出で、立憲義正會という右翼政党でした。この政党の創始者は、田中 智學です。
1951年10月19日 衆議院平和条約におけるサンフランシスコ講和条約の関する質問した高倉定助(生年1893-没年1965年)議員は
北海道5区 日本農民党から改進党)。ともに北海道選出の野党議員の質問は、現在に至るも必ずと言ってよいほど引用される意味深い質問でした。
ところが、ここで大事件がおきました。しかも、1954年11月17日
「北海道の納沙布岬と歯舞諸島の間の海上で地形観測を行っていたB-29爆撃機がソ連のミグ15戦闘機2機から攻撃を受け別海村(現・別海町)にある農家に墜落し農家は全壊した。この飛行機の乗員は12名で、そのうち10名は無事にパラシュートで降下、1名死亡、1名行方不明となった。」
実は、1952年 歯舞諸島の勇留島付近で初めてソ連軍機に撃墜されるという事件も起こっています。
米軍機以外の国籍不明機(ソ連機)は根室国監視所上空飛行回数は、1951年171機、1952年165機と記録されています。(1953年北海道議会記録による)
ここで驚異深いことがわかりました。北海道野付郡別海村(現別海町)にはなんと、墜落したB29のプロペラブレードが現在も展示されていたのです。
なんと撃墜された在日米軍偵察機RB-29(B29爆撃機を写真偵察用に改良)したプロペラブレードが、現在でも、北海道別海町に野外に展示されていました。下記が別海町教育委員会生涯学習課のHPにありました。
話を元に戻しますと時代は少しあとになりますが、
1957年5月23日 ダレス米国務長官は、1954年11月7日北海道沖におけるソ連軍戦闘機による米軍機撃墜事件の賠償を要求する書簡をソ連に送付しています。
そのなかで、北方4島(国後・択捉、歯舞諸島、色丹島)の日本帰属を明確に認めることで、「北方4島を千島列島に含まれない」ことを、米国は公式に表明したのです。
「米国政府はヤルタ協定、サンフランシスコ講和条約におけるクリール(千島)列島という字句は、従来常に日本本土の一部であり、正義のうえからも日本の主権下にあるべきものと認められる歯舞群島、色丹島または、国後島択捉島を含んでいないし、含むように意図されもしなかったということを繰り返し言明する」
つまり、米ソ対立の激化によって、米国は、国後・択捉島を、日本固有の領土と認めると言明し始めたのです。
そんな折、1955年1月25日 日本と国交のなかったソ連の駐日代表部アンドレイ・ドムニツキーは「ソ連はいつでも日ソ交渉を始める用意がある」
と述べました。
1955年当時、日本とソ連は国交が結ばれていなかっただけでなく、ソ連に抑留されている日本人がまだ1500人もいましたし、
日本の国際連合加入は、ソ連の拒否権行使によって実現せず、法的には、日本とソ連の戦争状態は継続していたのです。日ソ平和条約交渉については、次回に始めることにいたします。
参考資料 「ロシア・ユーラシア地域研究入門①」上智大学ロシア語学科 上野信彦教授の講義録、「日露国境交渉史 領土問題にいかに取り組むか」(木村汎著 中公新書 1993年刊)
衆議院外務委員会 議事録- 7号 昭和25年03月08日
平和条約及び日米安全保障条約特別委員会 議事録第4号昭和26年10月19日
Yahoo、Googleからお入りの皆様。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
北方領土の私的検証(その6)1946〜51年の日本側
2019 JAN 14 9:09:11 am by 野村 和寿
1946年 当時の外務省が終戦連絡中央事務局を通じて、連合軍代表部総司令部、対日理事会連合国代表部に、1945年から1950年まで提出した英文冊子は全部で36冊ありました。日本には外交権がないために、来たるべき講和条約のために、外務省は資料をこまめに作成していて、連合軍代表部側にわたしていたのです。上記の資料の表紙には㊙の印が押され、”Minor Islands Adjacent To Japan Proper Part1 The Kurile Islande The Habomai and Shikotan Foreign 〜Office Japanese Goverment November 1946 Department of External Affairs(対外部門)とオーストラリア側の添え書きがあります。(この文書は、オーストラリア公文書館で1994年発見されました)
(日本に隣接した小離島 第1部 クリル諸島 歯舞・色丹島〜日本政府外務省・原文は全て大文字)”と読むことが出来ます。
図をみてみましょう。
当方で示した①はクリル(千島)諸島 真ん中の択捉(えとろふ)水道に線が引かれています。北部は北クリル(千島)諸島(1875年に締結されたサンクトペテルブルク条約(千島樺太交換条約)で、サハリン(樺太)と交換により日本に割譲さ
②は南クリル(千島)諸島 初期から日本が領有していた。1855年下田(日露和親)条約により確定された。
③は歯舞諸島と色丹島地図です。
ここで、外務省は、千島諸島を北千島と南千島に択捉(えとろふ)水道を境に分けて説明しています。北千島は、1875年に日本の領有となった。南千島は、日本固有の領土。
この文書は、現在に至るも、外務省では公開を拒み、その存在さえ、認否をノーコメントとしています。いったいなぜなのでしょうか?
この文書を作成したのは、当時、外務省条約局で、特に1947年から1952年まで条約局長だった、西村熊雄氏(にしむら くまお・1899−1980年)でした。西村局長は1951年9月8日に開催されたサンフランシスコ講和会議まで、日本外交の最前線にいた人物です。
西村氏の著書「サンフランシスコ平和条約 日米安保条約1999年 中公文庫刊・絶版)に、交渉のいきさつは詳しく載っています。また西村条約局長は、著書のなかで、「1945年11月外務省内に平和問題研究幹事会をつくり、講和対策研究講和資料作成に早くも着手した」とあり、「1950年2月までの5年間に36冊の英文冊子を作成した」とあります。
それも、連合軍代表部総司令部に正面玄関からもっていくわけにはいかないために、日本政府と連合軍代表部総司令部との交渉窓口だった終戦連絡中央事務局を通じて、対日理事会連合国代表部の交渉ある人々に機会をとらえて、資料をてわたしたり、担当者の机の上にそっとおいてきたりすることで、連合軍代表部総司令部に、外務省の意向を伝える努力を続けました。
1947年8月26日 当時の芦田外相(在任1947−48年)はアチソン駐日米大使に、日本の講和に対する要望書を手渡しました。これでようやく米国に正式に日本の意向を伝えるルートができました。この要望書の(7)領土=ポツダム宣言にいう諸小島を決定されるに際して、本土とこれらの諸小島の間に存在する歴史的・人種的・経済的・文化的その他の関係を充分に考慮してほしいと、要望しました。
1947年岡崎外務次官(在任1947−48年)は、占領軍民政局のホイットニー准将(ダグラス・マッカーサー司令官の分身と呼ばれました)に、講和資料を提示して、総司令部外交局を通じてワシントンに伝達されました。
1951年1月26日
ダレス国務長官顧問は、シーボルト大使、アリソン公使とともに、目黒にあった吉田茂総理公邸を来訪した際に、吉田首相は講和会議に対する日本側の要望を伝えました。日本側意見(C)台湾・澎湖諸島、南樺太・千島列島の地位は英ソ中米、四国による将来の決定を受諾する、条約発効後1年以内に決定がなかった場合は国連総会が決定する旨を伝えました。つまり、日本は占領中であり、まだ外交権がなかったので、アメリカを通じて、日本の講和に対する意向を伝え、「最終的に、決定されたことに従います」と日本の吉田首相がいったわけです。
今回取り上げた外務省条約局長だった西村熊雄氏(1899〜1980年)は、1923年外務省入省(フランス・スクール)、1951年9月8日に開催されたサンフランシスコ講和会議の政府側随員としてまで、外務省で、対日講和のために奔走しました。その後は、駐フランス大使(1952−1956年)として着任しています。退官後はハーグ常設仲裁裁判所判事、フランスの劇作家『ジロドゥ戯曲全集 第2巻』白水社、1957年、新装版2001年。の翻訳などを手がけた文化人でもありました。
外務省とは、連合国代表部総司令部に、北方領土について、より詳細に説明するために、千島諸島を、北千島・南千島にわけて、なるだけ丁寧に説明しようとしたのです。それはそれで、間違っているとは思えません。日本の官僚らしい、きわめて誠実な姿勢です。しかし、その誠実な姿勢は、いまに至るも思わぬ影響を及ぼしてしまいました。詳細については、次回にご説明します。
Yahoo、Googleからお入りの皆様。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
北方領土の私的検証(その5)ポツダム宣言・日本降伏文書調印前後の千島
2019 JAN 12 20:20:16 pm by 野村 和寿
第2次世界大戦前、日本では、千島諸島をどうみていたかを、まず見ておきたいと思います。左記と、下図は、1924(大正13)年日本地図帖(小川琢治編著 成象堂刊)国立国会図書館蔵です。左図は、「千島列島とは択捉(えとろふ)島以下30余の島々をいう」とあります。「その北東端は、占守(しゅむしゅ)島は、千島海峡を隔ててロシアのカムチャッカ半島と相対している。この列島は千島火山脈がとっていて、地勢が険しく、地味もやせ、冬の寒さもはげしいから、住民も少なく陸上の産物もきわめてすくない。けれども、さけます等の水産物が多いから夏の間は漁業のため各地からここに来るものが少なくない」と解説しています。
1924(大正15)年日本地図帖 小川琢治編 成象堂より 本稿第2回で書いた1875年の千島樺太交換条約では、千島諸島の北側 ウルップからシュムシュ島までの18島と新たに日本領とすることが明記されています。
上記1924年の千島諸島の解説では、「千島は、30余の島々からなる」となっていて、島の数の違いからして、1924年時点では、樺太千島交換条約で日本が獲得した18島に加え、もともと千島諸島南部(南千島)も含めて、その全部を指し千島諸島を指していると考えられます。
私的検証その2まででお伝えしたように、樺太千島交換条約によって、1875(明治8)年に千島諸島全島を獲得した日本は、当然、千島諸島を地図上でも、日本領として、明記しています。
下図は、赤く囲った部分に、千島諸島という文字が見え、黒く囲った部分が、歯舞諸島と色丹島の地図になります。つまり1924年時点では、千島諸島は全部日本領、歯舞諸島と色丹島は、千島諸島とは別の表記で記載されていました。
話はポツダム会談に移ります。
ポツダム会談は、ナチス・ドイツ降伏後の1945年7月17日から8月日にかけて、ドイツ・ベルリン郊外ソ連占領地域に米国、英国、ソ連の3カ国の首脳が集まって開催されました。米国は、ルーズベルト大統領死去にともない、副大統領だったトルーマンが大統領として参加、英国は、チャーチル保守党首相から7月26日から選挙で勝利した労働党のアトリーに変わっています。
1945年7月26日 連合国側からポツダム宣言(正式には日本に発された日本への降伏要求の最終宣言・米英支三国共同宣言)が通告されます。ポツダム宣言は、ソ連に相談がなかったのです。米英からすると、いまだ、日本との中立条約中のソ連は中立の立場であるから、宣言を起草する立場にないという理由からです。(ソ連は署名していません。遅れて追認しました)
ポツダム宣言第8条に「カイロ宣言の条項は履行されるべきであり、又日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに我々の決定する諸小島に限られなければならない」とされます。カイロ宣言(1943年)の内容が引き継がれ、その後のヤルタ秘密協定(1945年2月11日)の内容は踏襲されませんでした。
ここで問題となるのは、漠然と示されている「我々の決定する諸小島」の範囲です。1945年9月2日東京湾・米国戦艦ミズーリ号上で開かれた降伏文書とともに、連合国最高司令官SCAP一般命令第1号にも日本政府は署名しました。
1946年1月29日に発布されたSCAPIN(スキャッピン)677号 「若干の外かく地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚え書き」では、
日本の行政権の行使に関する範囲として「千島列島、色丹島、歯舞島」が除かれています。(SCAPの上部組織である1945年12月に設置された極東委員会には軍事作戦行動や領域の調整に関する権限が与えられていない。それを踏まえて、この文書の第6項には「この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない」と、これがあくまでも暫定的な指令である旨が明示されています。
また1946年2月13日になって、極東委員会は「SCAPINが領土決定に関する決定ではない。領土の決定は講和会議によって決定される」と回答しています。
しかし、このSCAPIN677号が、ヤルタ密約とともに、「千島諸島はロシア領で領土は決定済み」という現在なお、ロシアの主張の根拠の一つとなっているのです。
そこで、日本政府は、敗戦後正式な外交ルートを持たなかったのですが、米国に対して占領期間中に英文調書を占領軍に7冊送り続けました。このうち3冊が北方領土を扱っていました。
占領軍に送った英文調書①1946年11月「千島列島・歯舞・色丹」
②1949年1月「樺太」③1949年9月「南千島・歯舞・色丹」の3つです。後年1951年10月19日の衆議院外交委員会で、吉田首相が「千島列島の件につきましては、外務省としては終戦以来研究いたして、日本の見解は米国政府に早くすでに申し入れております」と答弁していますし、1956年3月10日衆議院外務委員会で、政府委員の下田武三委員が「占領中から歯舞・色丹はじめ領土問題につきましては、7冊の民族的にも歴史的にも地理的にも経済的にも、あらゆる角度から検討をいたしました資料を準備いたしまして、アメリカに出したのであります」と証言しています。
しかし、該当文書は、今に至るも、外務省は非公開とされており、今では、該当文書があったかなかったのかさえも、ノーコメントになっています。
(平成十八(2006)年2月24日受領 質問主意書・答弁第72号内閣衆質164第72号より 御指摘の調書の存否を含め、平和条約の締結に関する交渉(以下「交渉」という。)の内容にかかわる事柄について明らかにすることは、今後の交渉に支障を来すおそれがあることから、外務省としてお答えすることは差し控えたい。)
ところが、その該当文書のうちの1946年11月「千島列島、歯舞・色丹」文書が、1994年になって、オーストラリアの公文書館で、カナダ・ウォータールー大学・原貴美恵教授(専門アジア太平洋地域の国際関係)によって発見されました。
下記の図が、1946年11月に外務省が、米国(占領軍)に提出した「千島列島、歯舞、色丹」に付随する千島諸島の説明図です。詳細は次回に行わせてください。
北方領土の私的検証(その4改)ヤルタ秘密協定
2019 JAN 5 12:12:50 pm by 野村 和寿
今度は、ヤルタ会談を時間軸の中心に、ソ連側から動きをみていくことにします。
その前に1941年に締結された日ソ中立条約について言及します。
ソ連側モロトフ外務人民委員(外務大臣)、日本側建川美次駐ソ大使、松岡洋右外務大臣によって、1941年4月13日にモスクワで締結された日ソ中立条約は、当初、日ソ不可侵条約締結をめざしていたところ、ソ連側は、条約締結の代償に、「千島諸島の引き渡しを要求」したが、日本の拒否によって、日ソ中立条約締結になったいきさつがありました。(それだけ千島諸島は当初からソ連には是非とも我が領土にしたいと思っていた場所だったことがわかります)
有効期間は1941年4月25日から5年(つまり1946年まで)であり、その満了1年前までに両国のいずれかが廃棄を通告しない場合は、さらに次の5年間、自動的に延長されるものとされていました。
日ソ中立条約締結後も、ソ連は日本軍の動きを警戒していましたが、日本はドイツとソ連の戦争の成り行きを見守りつつ、ソ満国境に軍隊を集結させ、こととしだいによっては、ソ連をドイツと日本で挟み撃ちにするという機会をうかがっていました。しかし一方では、ソ連に米国から援助物資、武器弾薬を運ぶ米国の輸送船を、監視してはいたのですが、攻撃することはありませんでした。それでも日本は、宗谷海峡からソ連軍をしめだしていて、1941年から1944年までに日本軍に沈没または抑留されたソ連船は178隻におよびました。。
ヤルタ会談にもどります。
ヤルタ会談は、1945年2月4日から11日にかけて、ソ連のクリミアの避暑地ヤルタ郊外のリヴァディア宮殿で、アメリカ・ルーズベルト大統領、イギリス・チャーチル首相、ソ連・スターリン書記長の間で行われました。主に、ドイツの戦争後の処理について、利害を調整するのが目的でした。しかし、2月8日 極東密約と後世呼ばれるソ連による対日戦争参戦が確認されました。
1945年2月8日というのは、きわめて微妙な日にちであります。
対日戦は終末に向かって突き進んでいたをとはいえ、B29爆撃機による大規模な東京大空襲は、1944年11月24日以降に激しくなってきましたが、3月10日をはじめとする、大規模空襲はまだ行われていませんでした。
沖縄戦は、1945年3月26日から6月23日に戦われたが、2月8日にはまだ戦われていません。
原爆製造計画 マンハッタン計画は、初の原爆実験が行われたのは1945年7月16日でした。
つまり、1945年2月8日には、上記のいずれもまだ実施されていませんでした。そこで、日本上陸作戦で予想される連合軍の死者は、25万人と推定されていました。
そこで、アメリカ・イギリスはどうしても、ソ連の日本への参戦を切望し、これまでにもモスクワ3国外相会談1943年10月でも、ソ連参戦を申し入れています。
ソ連は、ドイツ降伏後2〜3ヶ月後に参戦することを確認。たしかに、ドイツ降伏が1945年5月、3ヶ月後の1945年8月8日に、ソ連は日本に宣戦布告しています。
ヤルタ密約では、ソ連の日本への参戦と引き換えに、樺太南部、千島諸島をソ連に引き渡すことが取り決められています。(2019年の現在でも、ロシアのラブロフ外相が、北方4島について、ロシア領を主張の根拠にもなっているのです)
ヤルタ密約は、アメリカ・ルーズベルト、英国チャーチル、ソ連スターリンの署名がある文書が存在します。しかし、このヤルタ密約は、日本には知らされておらず、公表されたのは第二次世界大戦後の1946年のことなのです。
しかも、トルーマンの国務長官だったジェームズ・F・バーンズ(1945−1947年)さえも、ヤルタ密約のことを国務長官になるまで聞かされていませんでした。
最近の新聞記事『米英の弱みにつけ込んだソ連 お墨付き得て北方4島占拠』(産経新聞2017年2月23日付け)が、大変興味深いことを報道しました。
それによると、1946年2月9日付け、英国全在外公館へ送られた電報のなかで、
ヤルタ密約が1941年ルーズベルトとチャーチルの間でかわされた領土不拡大をうたう「大西洋憲章」に抵触するというのです。ルーズベルト米大統領は、大統領権限を超えて米議会の承認なく、ヤルタ密約に署名したために、3人の合意の有効性に論議がおこるかもしれないとされているのです。
▇第二次世界大戦中に連合軍首脳が会談した主なものは、
カサブランカ会談 1943年 1月(当時フランス領)
カイロ会談 1943年 11月(エジプト王国)
テヘラン会談 1943年11月(当時パフラヴィー朝)
ヤルタ会談 1945年 2月(ソ連)
ポツダム会談 1945年7月(ドイツ・ソ連占領地域)
ここで改めて注目するのは、当事国または占領地域で行われた会談は、ヤルタとポツダムだけということ。どちらも、ソ連領、あるいはソ連占領地域であります。
これはやはりソ連になにか有利なのではないか?ということです。
さらに調べを進めると
アメリカのルーズベルトの随行員で、ヤルタ会談のまとめ役の人物が米国務省のアルジャー・ヒス(1904-1996年)という人物でした。ヒスは、後に、ソ連のスパイだったことがわかっています。ルーズベルト大統領をあざむくことに成功し、千島諸島はソ連の領有となることが、ヤルタ密約で戦後秩序を決める首脳会談を取り仕切ったことになります。
ヤルタ密約は、1951年米議会で破棄され、これにより、ソ連の千島諸島に対する主張は根拠を失ったことになります。
アルジャー・ヒス:米国国務省ヤルタ会議の準備を担当 どうしてわかったかといえば、アメリカ陸軍情報部と英国情報機関が、ソ連と米国内のソ連スパイとの間の交信、ペノナ文書の解読で、ヒスのスパイ活動は米国政府のモイニハン委員会によって証明されている。戦後、1948年 米下院非米活動委員会(赤狩り)に喚問され、実際にソ連のスパイ活動を行っていたことが、元アメリカ共産党員によって暴露された。(スパイ行為については、出訴期限がつきたため1992年になって無罪)(参考資料 有馬哲夫早稲田大学社会科学部・社会科学総合学術院教授。小学館・SAPIO2016年3月号より)
▇ソ連対日参戦後の動きをまとめておきます。
8月8日ソ連モロトフ外相 佐藤尚武大使に、宣戦布告書を伝達
8月9日午前7時30分 ソ連による最初の日本攻撃は、樺太・敷香(しすか)町・武意加(むいか)の国境警察に加えられた。北部方面軍 積極先頭を禁ず 専守防衛的。
8月10日午前11時52分 東京・外務省をマリクソ連大使が訪ね、宣戦布告書を手交
8月11日 樺太中央部 半田集落、および、西海岸・西柵丹村(にしさくたんむら)安別(あんべつ)にソ連軍侵入。陣地防御を実施。
8月14日 日本ポツダム宣言受諾
8月15日 終戦証書発布。日本・第5方面軍戦闘停止 自衛戦闘に移る。
8月16日 塔路(とうろ)町・恵須取(えすとる)郡へソ連軍上陸作戦。
8月18日 千島諸島北部占守(しゅむしゅ)島に、ソ連軍揚陸艇・航空機で上陸作戦開始、日本軍はソ連軍に対し水際防御を行い、ソ連軍の艦艇13隻を沈没させる。
8月20日 真岡へソ連軍上陸 真岡郵便電信局電話交換女子が集団自決事件発生。自衛戦闘続行。
8月21日 樺太・停戦実現 日本軍武装解除
8月22日 知取(しるとる)町で、停戦協定結ばれた後、豊原駅前の赤十字テントにソ連軍機空爆、多数の死者が出た。樺太からの引き揚げ船 小笠原丸、第二興丸、泰東丸が、留萌沖でソ連軍潜水艦から攻撃をうけ1708名の犠牲者。
8月25日 千島諸島・松輪(まつわ)島へ上陸開始
8月29日 千島諸島・択捉(えとろふ)島へ上陸開始
8月31日 千島諸島・得撫(うるっぷ)島へ上陸。日本軍守備隊降伏。
9月1日から4日 国後島・色丹島 占領完了
9月2日 東京湾戦艦ミズーリ上で、降伏文書調印
9月5日 歯舞群島占領
ここまでで、ソ連軍は、南樺太、北千島、択捉(えとろふ)、国後(くなしり)、色丹、歯舞全域を完全に支配下においた。
まとめますと、前回登場した、元外交官天羽英二氏の言のよれば、「ソ連に終戦の仲介を依頼するために行われた1945年6月3・4日の廣田・マリク会談のうらをかかれ、ポツダム宣言をつきつけられて目が覚めた我が指導階級の迂闊(うかつ)さは、すでに批判の余地もあるまい」日本側のソ連側への中立・連合国側への調停依頼の際にだした条件は、連合国米英がソ連側に出した条件にくらべて、あまりにも少なく、廣田・マリク会談は、ヤルタ密約の後に行われたのであって、結果として、廣田の頑張りと努力にもかかわらず、まったく意味をなさなかったといわざるをえません。
かねてより疑問に思っていたことですが、1945年5月9日の対ドイツ戦争終戦から、わずか3ヶ月で、ソ連は、兵力40万人、迫撃砲7137門、戦車・自走砲2119両、飛行機1400機を、極東に移動させました。大規模な移動は、満州を制して、南サハリンを解放し、さらに千島列島を占拠することでした。ソ連は、いったい、海をわたって、千島列島にどうやって兵員や火器を移動させることができたのでしょうか?
元となったのは、2003年にアメリカ・ワシントンにある”Naval Historical Center Department of the Navy(海軍歴史広報センター)”が発行した”Project Hula Secret Soviet-American Cooperation in the War Against Japan(プロジェクト・フラ 対日米ソ共同秘密作戦”で、筆者は、Richard A Russel 氏(元米海軍)でした。
これまでの「米ソのヤルタ密約後の動きでは、米国が3年半に渡る対日戦を戦ってきたのに、大した犠牲も払わずに終戦直前に参戦して、ソ連がヤルタで約束した利益をごっそりともっていくのは、あまりに理不尽と考える米国は、ソ連をなるだけ参戦させないうちに、日本との戦争を終わらせてしまおう」という考えが定説だったのです。ところが、ソ連軍による千島占領作戦に米国が掃海艇55隻、上陸用船艇30隻、護衛艦28隻をソ連に貸与、しかも米国アラスカ州コールドベイでソ連兵1万2千人の訓練も行っていたという事実でした。
この驚くべき事実は、北海道新聞2017年12月30日に掲載されました。「ソ連の北方四島占領、米が援助 極秘に艦船貸与し訓練も」という記事です。根室市内の道立北四島交流センター(北海道根室振興局)で2018年1月19日から2月2日にかけて公開されました。
つまり、終戦間際のソ連に対日参戦に、米国は了解していただけで亡く、ソ連に援助もしていたということである。千島に対する占領も、ソ連が勝手に行ったわけでなく、米ソをリーダーとする「連合国の作戦」として行われたことになります。2018年12月日付け「週刊金曜日」にも「ソ連軍の千島占領と米ソ極秘共同作戦 〜多くの日本人の記憶から抜け落ちた」と題する記事が掲載されました。この記事によりますと、「ソ連に貸与された米国の艦船の多くは1955年に米国に返却されたが、その後、
創設されたばかりの、日本の海上自衛隊に18隻が「くす型PF護衛艦」としてさらに貸与された」そうです。
米国・ソ連・日本、歴史の皮肉とかんじさせます。いずれにしても、このヤルタ秘密協定はここにきて、新たなる解釈の見直しが必要になってきているようです。
Yahoo、Googleからお入りの皆様。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
北方領土の私的検証(その3)終戦直前の廣田・マリク会談を中心に
2019 JAN 4 12:12:54 pm by 野村 和寿
北方領土の私的検証(その3)です。まず、その前に、1と2のおさらいからいたしましょう。ちょっと小さいのですが、「日露間の国境線の歴史的変遷」概略図をみてください。
右上①1855−1875年 日露和親条約締結から樺太千島交換条約の間 千島諸島択捉(えとろふ)島とウルップ島の間で日露国境
右下②1875−1905年 樺太千島交換条約からポーツマス条約の間 千島諸島 占守島までの千島全島が、日本領 樺太が露領
真ん中③1905ー1945年 ポーツマス条約から第2次世界大戦終戦まで 千島諸島・南樺太が日本領、北樺太が露(ソ連)領
左④1945年以降 第2次世界大戦終戦以降 日本は1951年のサンフランシスコ平和条約で南樺太と千島列島を放棄ということになります。
今回は、1945年のヤルタ会談が行われた時期の前後に、日本側・露(ソ連)側の動きを追ってみようと思います。なるだけいろいろな資料にあたり、予断のない記述を目指してみました。そこには、今まであまり知られていない事柄がたくさんありましたた。まず日本側の動きを調べてみました。
資料は国立国会図書館に天羽英二(あもうえいじ)が寄贈した資料(日本週報1955年7月5日発行No.322)を中心に参照してみました。
わかりやすいように、日にちごとに並べてみることにしました。会談のもようは、恐ろしく外交戦術的に「糠に釘」暖簾に腕押し」的で、読んでいるとじれったくて、なかなか本音をいわないものでしたが、逆にこうした交渉が、戦争末期にさえも、外交戦術として続けられていた手法として、興味深いので、長いのですがあえて記すことにいたします。。
1944年 9月4日
最高戦争指導会議(首相、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長)で重光の推す廣田弘毅元首相のソ連派遣が決定。
9月16日
佐藤尚武駐ソ大使・ソ連モロトフ外相会談が実現。「特使派遣を必要とするような新しい問題は存在せず、両国の懸案は従来の外交経路により充分解決可能であり、しかも「特使派遣は内外に特殊の意味を持って解釈せらるる懼(おそ)れ」があるとしてソ連拒否回答。(「終戦工作の記録 上 江藤淳監修 1977年講談社刊)
1945年4月5日 日ソ中立条約が、1941年4月30日に調印されたが、1945年4月5日 ソ連モロトフ外相(ヴィヤチェスラフ・モロトフ1890-1986年外務人民委員1939-1946年)は、佐藤尚武(さとうなおたけ)駐ソ大使に日ソ中立条約不延長(事実上の破棄)を通告してきた。
佐藤尚武 の「回顧80年」(時事通信社)によれば、モロトフは、「日本側さえ条約を守るならばソビエト側で今後1年間、これを遵守するであろう」と語った。
(後述するように対日戦はすでに、1945年のヤルタ密約によって決まっていたのだ。)
4月22日 鈴木貫太郎内閣の外相・東郷茂徳に、河辺虎四郎参謀次長、有末精三情報担当第二部長が訪ねた。(数日後に梅津美治郎参謀総長、小沢治三郎軍令部次長も同様の提案)ソ連側をして不参戦、中立の立場を保持、和平斡旋に乗り出すよう、ソ連側に有利な条件を提示するように申し入れた。日本側の譲歩提案:満州(現在の中国東北部)、樺太を手放すこともやむをえない。
5月14日 最高戦争指導会議対ソ方針決定:ソ連の戦争防止、好意的中立誘致、戦争終結に際して日本に有利な仲介。日本の代償は:日露戦争前の状況に復帰、朝鮮は自治問題は別としてこれを日本に保留、南満州は中立地帯(後に見合わせ)
6月3日 廣田:今度戦争が始まったが日本とソ連が戦争していないことはまことに幸い。ソ連が甚大な損害を被ったにもかかわらず、対独戦に勝利したことは、ソ連のためにまことに慶賀にたえない。日本は変転する事態において、アジアの安全を希望し、アジアの大きな部分を領有するソ連に安全の基礎を見いだすものである。
マリクソ連大使:今度の戦争中、平和の事態において任務を遂行し得たことは誠に喜ばしい。ただ日本には幾多外国筋の影響を受けた諸勢力があると認めるが現状はどうか?
廣田:日本国内にあってはすべて皇室中心に統一され、外に大しては、国民あげてソ連および中国との前輪関係を希望している。
マリク大使:日本軍人および政治家の中には、外国の影響を受けている者が有って、日ソ国交の上に悪い影響を与えているのではないか?
廣田:現代においては、自分の知っている多くの者は対露提携論者である。過去においても伊藤博文、後藤新平伯のごとき親善論者がある。私もその流れを汲む者である。
会談2日め 6月4日
廣田:ソ連は戦後復興に努力し、またヨーロッパにおいては失地回復するうえ、隣邦との関係改善に意を用いておるものと見られ、東方においても、同じ主旨の考えをもっているものと思う。日ソ間には中立条約が守られているので、なにも心配する必要はないが、この条約はあろ1年(1946年)で期限満了となるから、将来のことを考える必要がある。この期限内でも日ソ友好関係を増進したい意向で、その形式等についても目下研究中であるが、これに対するソ連政府の大体の意向なりとも承知いたしたい。
マリク大使:アジアの安全問題については、昨日日本側方針の大要は承知したと思っているが、日・ソ・中三国関係に対する具体的形式はどうか?
廣田:日本と中国との間には現に戦争が行われている関係もあり、中国のことについては、目下のところ明瞭なことは言い得ないが、日ソ間については従来存在せる友好関係をいっそう増進してゆき、中国に対しても同じ考えを有する国家として、漸次参加方に誘導したいと考えている。
マリク大使:ソ連は終始一貫平和制作を遂行してきたにもかかわらずドイツのごとき国家が存在するため、独ソ開戦となったのである。ソ連は東方ことに日本に対しても同様平和制作によって努力してきたにもかかわらず、反対勢力が強かったため、所期の成果をあげることができず、その結果一種の割り切れざる感情ないし後味を残し、自ら不信任または安全欠如の感を与えたことと鳴っているが、これを払拭するために具体的方法を考慮されているか?
廣田:日本においても漸次ソ連の態度を正解する者が多くなったので、この機会に日ソ関係の根本的改善に乗り出したい意向で、ソ連側の意向を聞き取った上、その方向に運び行くことができるである。
マリク大使:それは廣田氏個人の私見であるか、または日本政府の意見であるか?
廣田:右は帝国政府および意向と了解されたい。
マリク大使:昨日および今日の会談において日本側の具体的意向を承知したから、とくと研究の上、卑見を開陳したい。それで若干の猶予を願いたい。
廣田:根本の考えは両国間に長期にわたり、相互に不安のない国交を維持する基礎をたてたいととの意味に他ならない。この考えさえ決まれば他の枝葉末節の問題は自然に解決を見いだすことができよう。今こそ、根本問題解決上絶好の機会であると思う。外務省はもちろん政府全体としてもその気になっているので、ここに乗り出した次第である。ついては至急回答をお願いする。
マリク:十分に研究したいから回答は早くても来週はじめとなるだろう。
廣田は、東郷外相に経過報告 廣田とマリク大使との会談は有効裏に行われ、ソ連側の受け方良好で交渉の前途は有望と認められる。
しかしソ連側からはなんの音沙汰もない。
6月29日 廣田・マリク会談が東京のソ連大使館で行われ、不可侵条約締結の条件として、満州国の独立と日本軍の撤退、ソ連の石油と交換に日本のソ連領海での漁業権の放棄南方のゴム、錫、鉛、タングステン等南方物資を供給を列挙。大使に催促、東京のソ連大使館員は、外務省かかりかンに、日本側具体案は、電報ではなく、クーリエ便で送ったとした。それからも、廣田は再三再四、東京のソ連大使館に電話をかけ続けたが、マリクは病気と称して出てこなかった。
7月8日 東郷外相は、鈴木貫太郎首相と、戦争終結に対する処置としてソ連に特使を送ることをきめ、特使に近衛文麿元首相になってもらいモスクワ行きを依頼。
7月12日 昭和天皇は近衛元首相をお召しになり、近衛特使のモスクワ行きが本決まりになる。
7月13日 モスクワ駐在佐藤大使、モロトフ外相に会見を求めたが、モロトフはベルリン出発のため、モロトフからの回答は遅延するだろうと通告される。
(7月17日からベルリンでポツダム会談が開催)
7月25日 モスクワの佐藤大使、ロゾフスキー外相代理に近衛特使が、戦争終結に関する具体案をモスクワに持参することをソ連側に申し入れ。
(7月26日 ポツダム宣言が発表)
8月8日 モロトフ外相から佐藤大使に会見の通知がよこされたので、佐藤大使がモロトフを訪問したところ、意外にもソ連の対日参戦の通告を渡された。
8月9日 宣戦布告7時間後、午前0時すぎ 満ソ国境全面で攻撃を開始。
8月10日 11:15−12:40東京・東郷外相 マリク大使宣戦布告分を手交。 ソ連政府の訓令によりソ連政府の日本政府に対する宣言を伝達。
日本政府は1945年7月10日段階で、軍隊の解体を含んだ降伏案をソ連を仲介として、連合国側に提示しようとしました。これを近衛文麿元首相により、ソ連・モスクワに手交させようとしたのです。これには興味深い内容が含まれています。
軍隊の解体を含んだ降伏案で、沖縄、小笠原、樺太を棄てても南千島は最後まで譲歩案には入っていなかったことだ。つまりは、南千島は日本政府にとっては、最後まで手放すつもりはなく、死守する構えでした。また、他国に奪取されることも予想していませんでした。(和田春樹 「北方領土問題 歴史と未来1997年朝日新聞刊・所収、長谷川毅「暗闘〜スターリン、トルーマンと日本の降伏」2011年中公文庫所収)
参考資料 「戦争末期のソ連への和平斡旋依頼」(日本週報 No.322 1955 7/5)「終戦工作の記録 上・下 江藤淳監修 栗原健・波多野澄雄編 1977年 講談社文庫刊)
天羽英二は、戦争末期のソ連への和平斡旋依頼について、「日本が中立条約を守ったのだから、ソ連もかならず守るだろう、という甘い観測が形勢いよいよ不利になった、大東亜戦争末期になってもわが為政者の頭を支配していたのであった。おめでたいというにはあまりにもいたましい悲劇であった」と語っている。
井上ひさしが、箱根強羅の戦争末期の廣田・マリク会談の舞台、箱根・強羅を、演劇作品「箱根強羅ホテル」を書いている。内容は、会談とは直接関係がないものの、緊迫した会談の舞台裏で、周囲のホテルの人々はどんなふうにみていたかコミカルに諷ししている。
天羽英二(あまうえいじ・1887−1968年)
1921年ワシントン会議全権随員、1929年ソ連在勤、1937年スイス大使、1939年イタリア大使 1941年外務次官、1943年内閣情報局総裁1945−1948年 A級戦犯・巣鴨拘置所収監 1995年 膨大な蔵書・執筆ノート類・国立国会図書館へ遺族が寄贈。
Yahoo、Googleからお入りの皆様。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
北方領土の私的検証(その2)榎本武揚の樺太千島交換条約
2018 DEC 22 11:11:56 am by 野村 和寿
北方領土の私的検証、その2は、「樺太千島交換条約」(1875年)です。
この条約交渉に当たったのは、榎本武揚という人物です。かなり巧妙な交渉術を駆使しています。
日本側 明治初期の新政府には、すでに、英国から船一隻を購入する外貨さえ残されていませんでした。前回紹介した、1855年締結の日露和親条約で、樺太(サハリン)は両国間の境界を決めず、日本人もロシア人も自由に活動できる”雑居の地”をとしました。
しかし榎本武揚は、樺太をもし獲得したとしても、開発と海岸警備に向ける資金はなく、「樺太を放棄すること」を当初から考えていました。
日本の国威発揚のため、すでに斜陽だった李氏朝鮮を攻めるために、兵員輸送に使う中古軍艦を、露から譲り受け(西郷隆盛の征韓論)、樺太を開発する資金は当面日本にはないので、北海道開発に注力すべきと考えていました。(西郷隆盛は征韓論に破れ、朝鮮に日本が兵を送ることは頓挫され、1876年日鮮修好条約が結ばれました)
露側 正直言えばたびたび火が吹いていたバルカン問題で、日本との交渉どころではありませんでした。露系の住民が多いバルカンで、オスマントルコとの対立が高まっていました。(最終的には、本条約締結直後1877年露土戦争になります。露土戦争1877−78年・結果は露が勝利)のほかにも、対英問題、対オーストリア問題とロマノフ王朝はすでにかげりが見えていました。
サハリン(樺太)は露の流刑地で一部住民が住んでいるだけでした。そこで、日本側住民と露の流刑民との間で争いが耐えませんでした。
しかも南サハリン(南樺太)には、大量の石炭が埋蔵されており、船の石炭の供給地として、英国はコルモラント号は、南サハリン(南樺太)湾内の下調査、湾内の深度調査を行い、米国も興味を示していました。露は太平洋側に基地となる港をぜひ確保しておきたかった、ということがありました。しかし、まだ露東部シベリアは深い森と幅広い川でおおわれていて、無人の大地でした。(シベリア鉄道が全通するのは1904年のことです。)
1874年8月に露交渉役ストレモーホフとの交渉が始まりました。
榎本武揚はあたかも、南樺太(南サハリン)は1855年締結した日露和親条約で日露が混住しているが、大きな問題を起こしている訳ではないと主張、露側の、日露住民が問題を起こしているという主張と争いました。 一方、露側の主張では、逆に函館から日本の大量の流刑民を英国船にのせて、サハリンに送り込んだという主張もしました。
しかし、榎本武揚の本音は、すでに述べたように、南樺太(南サハリン)を経営するよりも、むしろ、ここは北海道の経営に注力するべきだと思っていたため、ぎりぎりまで南樺太(南サハリン)について主張しつつも、露側の千島諸島のうち、4島(具体的にどの島かは不明)を日本に譲るという提案をしてきました。
榎本武揚は、さらに、千島諸島のうちの4島と広大な樺太(サハリン)を交換することは、いくらなんでも、釣り合わないという主張を展開し1875年3月千島諸島全島との交換を要求しました。
一方、露側は、千島全島を日本に譲り渡すと、太平洋の出口がなくなるので困ると主張してきました。ところが、露は日本との交渉時に、さらにバルカン問題でオスマントルコとの関係が悪化してきており、正直なところ日本との交渉どころではなくなりました。
露は、1875年3月18日、態度を軟化させ、サハリンを露、全千島を日本と交換するという提案をしてきました。
榎本武揚は、当初、日本が目指したまさに、全千島の日本領が達成され、さらに露の中古軍艦を入手することができ、樺太の久春小丹港は日本郵船に10年間港税、海関税を免除、日本領事の駐在を認める、近海での漁業は最恵国待遇を与えるとしました。榎本武揚は交渉を成功させるために、日本の譲歩ラインを露に悟られないようにしながら慎重に交渉を継続させた結果でした。
こうして1875年5月7日、千島樺太交換条約は、露サンクトペテルブルクで締結されました。
■樺太千島交換条約1875年(明治8年)
日本駐露特命全権公使 海軍中将 榎本武揚(1836−1908年)1874年3月日本を出発、8月交渉開始、11月14日本交渉開始、1875年5月7日条約調印
締結役 露外務大臣 アレクサンドル・ゴルチャコフ(1798−1883年)交渉役 露外務省アジア局長 ピョートル=ストレモウホフ(1823-85年)
樺太を露領とするかわりに北千島を日本領としました。この結果、すでに日本領となっていた択捉(えとろふ)までの島とあわせて、全千島諸島が日本領となりました。千島全島を日本領とすることで、豊富な漁獲高が期待できる海域を日本の漁民のために確保しました。
ここで注目すべきは、交渉言語が露語でも日本語でもなく、フランス語でおこなわれたことです。条約の正式条文は、フランス語のみ。(榎本武揚が6年間のヨーロッパ留学で、フランス語、ドイツ語、フラマン語が巧みだったことがあります)
千島樺太交換条約は、第2款(かん)で、フランス語からの翻訳と、従来、日本語の訳文とで、
微妙な食い違いがみられ、これがあとあと、問題となってきます。
フランス語からの訳では、「上述のクリル(千島)の諸島のグループは日本国に属する」とあります。これは、クリル諸島全部が千島諸島であり、国後・択捉(えとろふ)を含めてクリル(千島)諸島に属していて、本条約で、クリル(千島)諸島が日本領となったと読めます。
ところが、従来から日本の外務省が根拠としている日本語訳では微妙に異なります。同じ部分は、「現今所領クリル群島」となっていて、フランス語訳のグループに対して「群島」となっていることから、「現今所領」と「クリル」、「群島」の3つの言葉が「同じものを指す」と解釈することができ、日本語訳文ですと(1855年日露和親条約で決まった択捉(えとろふ)島より北の18島だけ」のように読めます。
つまりは、日本の主張は、択捉(えとろふ)以北の18島以外の島は、もともと日本の領土であって、露から本条約で新たに日本領土になったのは、「上記、択捉(えとろふ)島以北の18島」という考えが成り立ちます。
(そもそも、条約文が公文がフランス語ですので、条約としての効力を有しません)
もともと、江戸時代から日本での北方探検熱は高まりをみせていて、1798年近藤重蔵の蝦夷探検、1808年間宮林蔵の北樺太探検、1844年松浦武四郎の蝦夷探検、1869年岡本監輔の蝦夷探検と続いています。
2010年千島樺太交換条約は、戦争などの武力衝突なしに、平穏かつ公然と両国間で締結された条約であるから、現在でも有効。北方領土は、千島全島をロシアに返還要求すべきという主張もあります。なんとこの主張をしているのは日本共産党です。(ちょっと面白いですね。スターリンの拡張主義だそうです)
参考資料 『駐露全権大使 榎本武揚(上・下)』(ヴェチェスラフ・カリキンスキイ著藤田葵訳・群像社2017年刊)
『榎本武揚と明治維新』(黒渕秀久著 岩波ジュニア新書2017年刊)
資料:Wikipedia日本語版
Yahoo、Googleからお入りの皆様。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
北方領土の私的検証(その1)川路 聖謨・プチャーチンの日露和親条約
2018 DEC 18 15:15:54 pm by 野村 和寿
北方四島か二島返還か? ロシアを相手に、平和条約締結に向けて、駆け引きが再び盛んになってきました。この問題のルーツを調べているうちに、興味深いことをいくつもみつけたので、ブログに書いてみます。
本問題に関しては、興味をもてば持つほどに、興味深い点がたくさん出てきます。
興味深い点その1,千島列島をどこからどこまでとするかは、日・露で1855年以来ずっと解釈の違いがありました。
まず日露和親条約(1855年 安政2年)です。
露側代表・エフィム・プチャーチン(1803-1883年)、
日本側代表・川路 聖謨(としあきら)(1801-1868年)
■川路 聖謨 海防掛・勘定奉行による交渉
1853年、長崎に来航したロシア使節プチャーチンとの交渉を露使応接掛となり
12月20日から国境、和親通商について第1回交渉を開始。
1854年 10月7日下田に出張、
12月23日、安政東海地震(マグニチュード8.4)・津波が起きて交渉中断。
露全権プチャーチンの乗船していたディアナ号は、津波に攫われた日本人を救助、船医が治療。ディアナ号津波で破損。応急修理をして戸田港へ向かうも1855年1月15日風と波により浸水航行不能に陥りました。江戸幕府は、ディアナ号にあったほかの船の設計図をもとに、日本の船大工を動員して、新しい代船ヘタ(日本名・戸田)号の建造に尽力しました。
1855年1月1日(嘉永7年11月13日)中断されていた交渉再開5回の会談の結果、2月7日(安政元年12月21日)、日露和親条約締結調印に成功します。(ディアナ号の日本人救助が、日本側に好印象、また代替船の建造が露側に好印象だったことが、早期条約締結になったと思われます。
■条約交渉の言語はオランダ語で行われました。交渉はオランダ語により、オランダ語条文ロシア語条文があり、さらに、ロシア語条文から日本語訳が作られました。(なぜか、オランダ語から日本語訳は作られませんでした)
日露和親条約では、択捉(えとろふ・英語名Itrup)島・得撫島(うるっぷ・Urup)間に日露の国境を画定。択捉(えとろふ)島は、日本の領土で確定しました。下の図中央の1855年の線が、それです。
日露和親条約(1855年)第二条「両国の国境を択捉島とウルップ島の間とし、樺太については国境を定めず、雑居地とする」となりました。
■条文内で注目すべき論点
条文では、クリル(千島列島)諸島部分で日・露で異なります。後々、クリル(千島列島)諸島がどこからか?という問題がここで始まっていました。
■露語による第二条
日露和親条約条文・露語 「残りの北のほうのクリル」
(解説:クリル諸島の地理的呼称は「得撫(うるっぷ)島以北」に限定することはできない。つまり択捉(えとろふ)島もクリル諸島の一部であるようにも読める)
■日本語(オランダ語訳→露語訳→日本語訳)による第二条
日露和親条約条文・日本語「それより北のほうのクリル」
(解説:残りが抜けている。クリル(千島列島)諸島の地理的呼称が、得撫(うるっぷ)島よりも北であるかのように読める。つまり択捉(えとろふ)島はもともとクリル(千島列島)諸島に含まれないと読める)
■ここまでのまとめ 日露和親条約(1855年)で、日露の国境を画定。
択捉(えとろふ)島は、日本の領土で確定しましたが、後々に問題となる、どこまでが千島列島(クリル諸島)なのか?ということについて、日露ですでに見解が分かれていたことがうかがえます。
■日本側 千島列島(クリル諸島)に、択捉(えとろふ)島は含まれない日本固有の領土。
■露側 クリル諸島(千島列島)に、択捉(えとろふ)島は含まれる。
この際の川路聖謨の交渉は見事で、硬軟使い分けて日本の主張を認めさせました。日本側代表・川路 聖謨(としあきら)(1801-1868年)は、プチャーチンをして「日本の川路という官僚は、ヨーロッパでも珍しいほどのウィットと知性を備えた人物であった」と書かしめています。「川路を、私たちは皆、気に入っていた。川路は非常に聡明であった。彼はロシアに反発する巧妙な弁論を以って、知性をほのめかすものの、なおもこの人物を尊敬しない訳には行かなかった。彼の一言一句、一瞥、そして物腰までが、全て良識と機智と慧眼と練達を現わしていた」副官だったゴンチャロフ「日本渡航記」(1941年井上満訳・岩波文庫)より
後、1887年(明治20年)、プチャーチンの孫娘のオルガ・プチャーチナ伯爵は所縁の地、静岡県戸田村を訪ね、そこに100ルーブルの寄付をしています。その後の歴史の激動の中にも両家の交流は続き、2008年にも日露修好150年を祝っています。1868年(慶應4年)江戸城開城の報を聞き割腹のうえピストル自殺。享年68歳。なお、冒頭の写真が、不鮮明なように見えるのは、若い頃に煩った、病気・疱瘡(ほうそう)の痕だそうです。川路聖謨は、自らのことを酷い顔をしているといっていたそうです。
これを裏付けるように2018年12月3日の毎日新聞紙上で、国境警備にあたった松前藩士の墓が、択捉(えとろふ)島で見つかったというニュースが飛び込んできました。「北方領土・択捉(えとろふ)島中部の振別(ふるべつ)付近で、在島ロシア人が日本人の墓所を発見し。」墓には、文政11年(1829年)3月8日 (松前藩士 藤原正蔵隆則の墓と読める)
Yahoo、Googleからお入りの皆様。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
映画『HIROSHIMA』で鈴木貫太郎を観る
2018 FEB 28 12:12:17 pm by 野村 和寿
先の太平洋戦争を終結させるのに貢献した鈴木貫太郎翁のとられた行いについて、ぼくはいつも敬意を払い見つめることにしてきた。
最近、『HIROSHIMA』1,運命の日、2,破滅への道というタイトルのテレビ映画(カナダ・日本・アメリカ合作1995年カナダ側・ロジャー・スポティスウッド監督、日本側・蔵原惟繕監督)があったことを思い出し、鈴木貫太郎の視点を理解する一助として興味深く見つめることが出来た。
1945年7月26日ベルリン時間夜9時30分、対日戦に関する連合国側のいわゆる「ポツダム宣言」が発出された。この映画の中から該当部分を拾ってみると
・・・・
映画『HIROSHIMA』より アメリカのニュースフィルム「日本にポツダム宣言を発しました。ヒロヒトは敵対をやめ戦争を停止しなければ、恐ろしい結果になる」
1946年7月28日 鈴木貫太郎内閣が、記者会見で、ポツダム宣言について「黙殺」と言明。
鈴木首相(松村達雄扮する)・内閣記者会との会見で
「ポツダム宣言は、カイロ宣言の焼き直しであり、政府としては、重要視しておりません。黙殺するだけです」
1946年7月28日ドイツ・ハベルスベルク 日本の反応の「黙殺」という言葉の意味を、トルーマンは随行の米國・日本語教授に問いただすというシーン
米國・日本語教授「モクサツです。めったに使われません。文字通りの意味は「沈黙」を殺すです。誰が使うかで違います。かなり年配で高い地位の人物なら、違った意味で使います。たとえて言うなら、あなたの靴を買いたい。私は100マルクを提示、あなたは500で売りたい、しかし安すぎると言って私を侮辱したくないので、そのかわりに黙っている。聞かなかったフリを。それによって条件に不満だと分かるのです」
トルーマン大統領「交渉してもよいという意味か?」
米國・日本語教授「それもあり得ます。しかし、より近い意味は最後通告を無言の軽蔑で受け止めたと見られたいのです。言い換えれば交渉の余地はないということです」
・・・・
映画『HIROSHIMA』のなかで、「黙殺」ということばを鈴木首相が使ったことに東郷外相がカンカンになって詰め寄るシーン
鈴木首相「梅津(参謀総長)は正しいよ。誰かが告げなければならなかった。軍人でない君にはわからない。連合軍に発言したんじゃない。誰かが軍に告げなきゃならなかった」
東郷外相(井川比佐志扮する)「あなたは独断で最後通牒を拒否したんです」
鈴木首相「公に言ったんじゃない。わが陸海軍兵士に告げたのだ」
東郷「ラジオでね。連合国は聞きましたよ。夕べあなたの見解が放送されたんです」
鈴木 「連合軍に対して発言したわけじゃない。わが情報部に発言した」
東郷 「ラジオでね」(強くいい放つ)
・・・・
テレビ映画『HIROSHIMA』の中では、東京からのラジオ放送で、日本政府の言明のなかに、「黙殺」という言葉を使い、米側の翻訳係が、意味をはかりとかねたために、原文の「モクサツ」と英語訳の両方を提示するというシーンがあり、「モクサツ」は、の米国随行員の日本語学者に問いただすというシーンで使われていた。
そもそも「黙殺」という言葉を鈴木首相自ら使ったかどうかについて少し書いてみる。
ポツダム宣言についての、日本政府の反応について「黙殺」という言葉を鈴木首相が使ったか?それとも使わなかったか?については、現在に至るまでも、各種の推論がなされてきた。鈴木首相の動きの中でももっとも大事なくだりである。
私の蔵書の『鈴木貫太郎自伝』(鈴木一著・昭和43年時事通信社)には、この部分についての既述が、戦後すぐの月刊「労働文化」別冊鈴木貫太郎述「終戦の表情」(労働文化社社長河野来吉 対談8時間の筆録)書かれている。
「この宣言にたいしては、意思表示をしないことに決定し、新聞紙にも帝国政府該宣言を黙殺するという意味を報道したのであるが、国内の世論と、軍部の強硬派はむしろかかる宣言にたいしては、逆に徹底的反発を加え、戦意高揚に資すべきであることを余に迫り、なんらかの公式声明をなさずして事態を推移させることは、いたずらに国民の疑惑を招くものであると極論する者さえ出てくる有様であった、そこで余は心ならずも7月28日の内閣記者団との会見において「この宣言は重視する要なきものと思う」との意味を答弁したのである。この一言は後々に至るまで余の誠に遺憾と思う点であり、この一言を余に無理強いに答弁させたところに当時の軍部の極端なところの抗戦意識が、いかに冷静なる判断を書いていたかが判るのである。ところで余の談話はたちまち外国に報道され、我が方の宣言拒絶を外字紙は大々的に取り扱ったのである。そしてこのことはまた、ソ連をして参戦せしめる絶好の理由をも作ったのであった」(『鈴木貫太郎自伝』より)
自伝のなかで、鈴木(当時元首相)は、「黙殺」とは、自分では言っていないが、新聞記者が、見出しで、「黙殺」と表現してしまったということを示唆している。ポツダム宣言の反応についての、朝日・読売各紙を調べてみると、
1945年7月28日読売新聞は「笑止 トルーマン、チャーチル、蒋連名 ポツダムより放送す」とあり、さらに「戦争完遂に邁進 帝国政府問題とせず」「敵米英並に重慶は不逞にも世界に向かって日本抹殺の対日共同宣言を発表、我に向かって謀略的屈服案を宣明にしたが、帝国政府としてはかかる敵の謀略については問題外として笑殺、断固自存自衛たつ大東亜戦争に挙国邁進、以て敵の意図を粉砕する方針である」
これに対し、1945年7月28日朝日新聞は「米英重慶 日本の降伏の最後条件を声明 三国共同の謀略放送」「帝国政府としては米英重慶三国の共同声明に関しては何ら重大な価値あるものに非ずといてこれを黙殺すると共に、断固戦争完遂に邁進するとの決意を固めている」としている。(『宰相 鈴木貫太郎』小堀桂一郎 1987年文春文庫 高見順日記より引用)
つまり、鈴木首相は「黙殺」と直接言明したことはない という説もある。
*『HIROSHIMA』というテレビ映画について
1995年に主にカナダ・スタッフと日本・オールスターキャストによって製作されたテレビ放送向け映画。カナダのほか、フランスでも放送された。映画は、1945年4月それまで蚊帳の外だったトルーマンが、ルーズベルトの突然の死によって、大統領に選任するところから、始まり、マンハッタン計画の新型爆弾である原爆の開発を知らされ、使用するかどうかで悩む。一方日本の鈴木首相をはじめとする鈴木内閣は、特に阿南陸将、梅津参謀長を向こうに回して、戦争終結反対あくまで本土決戦を主張する、阿南陸将、梅津参謀長とのやりとりを中心に、昭和天皇が、積極的に戦争終結に関与し、スターリンへの特使派遣を企図するというものになっている。
日本側部分は、ありがちだった、いわゆる「へんな日本人」のような外国の描く日本ではなく、日本側スタッフには蔵原惟繕(くらはら これよし)監督 脚本石堂淑朗(としろう)が並々ならぬ精力であたっている。
鈴木首相役に、松村達雄、阿南惟幾陸相役に、高橋幸治、米内光政海相役に神山繁、東郷外相役に、井川比佐志と当時の名優を揃えている。特に、昭和天皇裕仁役に、能役者の梅若猶彦を起用し、それまでの映画作品とは違い、昭和天皇が、直接、戦争遂行に積極的に関与したことを思わせる、近衛元首相(加藤和夫扮する)木戸内府(佐藤慶扮する)とのソ連仲介の労をとることを提案し、ある意味で、戦争終結に直接関与したと思われるシーンが登場する。それまで映画のなかでは、昭和天皇が、御前会議に臨席するシーンなどはあったが、なかなか直接の関与を思わせるシーンは、この映画が初めてだと思われる。
映画『HIROSHIMA』より
近衛:みんな戦争にうんざりしています。国民はこの戦争に疲れ切っています。これ以上戦争をつづけたならばまず大規模な反乱が起こり、それから共産主義者たちが、革命を起こすでしょう。もちろん、私はいつでもモスクワに参ります。今晩にでも参りましょうか?
天皇:今晩ではなくてもいいが、なるべく早急に。できればスターリンがポツダムに発つ前がいいだろう。
近衛:もちろんです。
天皇:国内には多くの狂信者がいるから、近衛の使命が何たるかを知れば飛行機がモスクワに着くのを妨げるかも知れない。
近衛:ひとつだけおたずねします。スターリンに頼みごとをする見返りに何を提供すればいいのですか?
天皇:いろいろ聞いているが、どんな情報を貰っても信用しないことにした。近衛自身が判断すべきだ。だがスターリンはあまり多くを求めないだろう。彼自身戦争に疲れているからな。
近衛:もちろんです陛下。そうに違いありません。
テロップ スターリンはポツダム会談前後近衛侯爵との会見を拒否した。
最近、刊行中の『昭和天皇実録』のなかで、いわゆるポツダム宣言受諾の聖断がなされたのは、1945年8月10日午前0時3分とわかってきた。
鈴木貫太郎のことを書いてくると、鈴木首相の日本の舵取りに関与した時代が難しかったかについて、改めてついつい考えてしまう。
ちなみに、このテレビ映画は、1996年8月5日と6日、2回にわけて、NHK総合テレビで『ヒロシマ〜原爆投下までの4ヶ月』というタイトルで、深夜23時50分から一度だけ放送された。後に、発売元 大映映画、販売元徳間ジャパンコミュニケーションズビデオからVHSビデオで、『HIROSHIMA ジ・エンド・オブ・パールハーバー運命の日、破滅への道』というタイトルで、2本に亘りリリースされたことがある。しかし今はほとんど知られていない作品となってしまった。
このVHSは、もちろん既に廃盤になっている。しかし、最近、私は偶然、北海道の中古ビデオ店でこの作品のVHSテープを見つけ出した。思えば、この作品を最初に観たのは、1995年東京・青山のカナダ大使館の試写室だった。当時、私の私淑していた映像作家の貝山知弘氏が、本作品のキャスティングに関わったことで試写に呼んでいただいたのだった。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPはソナー・メンバーズ・クラブをクリックしてください。
1949年のロンドンから東京へ飛行艇の旅
2017 APR 18 16:16:12 pm by 野村 和寿
BOAC(英国海外航空)1949年3月の時刻表から、ロンドンから遠く、ファー・イースト東京までの飛行機の旅を再現してみます。
ロンドンのBOAC(英国海外航空)の乗客ターミナルから、送迎車でサウサンプトンまで。サウサンプトンといえば、悲劇の客船タイタニック号の出発港として名高い港湾都市です。
港には、ショート社製の飛行艇サンドリンガム5型号が駐機中。1946年6月22日にデビューした「サンドリンガム号」は2層デッキの飛行艇。艇内は、プロムナードデッキ・ダイニング・カクテル・バーなどを備え、座席で22名、寝台で16名、を搭乗させることができます。
1949年3月6日日曜日
●ロンドン・ターミナル発7:00(送迎車移動)
- サウサンプトン(ロンドン)発11:00
▇第1経由地は、イタリアのシチリア島
イタリア・シチリア島アウグスタ着19:00
アウグスタといえば、イオニア海に面した港湾都市で、英国第8軍モントゴメリー将軍によって1943年に連合軍が上陸した都市であります。
この日はアウグスタに宿をとります。
▇3月7日 2日目は、エジプト・アレクサンドリアへ向かいます。
アウグスタ発 午前9:00
第2経由地は、エジプトのアレクサンドリア 午後15:15着です。
古代エジプトプトレマイオス朝の首都で蟻、エジプト第2の都市です。
ここでまた1泊 飛行艇は、海上のすれすれを飛行するため、昼間の飛行が原則でしかも長時間の飛行は、難しかったのです。
▇3月8日 3日めは、バーレーンヘ向かいます。
第3経由地は当時英国領バーレーンのバーレーン(現在はマナーマ)
アレクサンドリア発 午前7時
バーレーン着17:00 ここで1時間の休憩をとります。
▇第4経由地パキスタンのカラチヘ向かいます。
バーレーン発 午後18:00
パキスタンの首都カラチ着 日が変わって(3月9日)の日の午前1:45
ここで6:15の休憩 この日はさらに飛行します。
▇第5経由地は、インドのカルカッタです。
カラチ発 午前8:00
インドのカルカッタ(現コルカタ)着 午後16:00
コルカタでやっと1泊できます。やれやれ。
▇3月10日 第6経由地は、ビルマのラングーン(現在のミャンマーのヤンゴン)です。コルカタ発 午前6:00
ビルマのラングーン着 午前11:00 ここで1時間休憩を取ります。
▇第7経由地は、タイのバンコクです。
3月10日 ラングーン発 午後12:00
第7経由地は、タイのバンコク着午後15:00
ここで1泊します。
▇3月11日 第8経由地は、香港です。
バンコク発 午前8:00
香港着 16:45ここで1泊します。
▇3月12日 第9経由地は、上海です。
香港発 午前10:00
上海着 午後15:00ここで1泊します。
▇3月13日 いよいよ東京(横浜)に向け出発します。
上海発 午前8:00
日本の岩国・到着時刻は午後17:00
ここでさらに1泊し
3月14日 岩国発午前7:30
横浜(東京)着10:30
時刻表にはどこにもないのですが、たぶん、到着時刻は現地時間のような気が致します。
やっと横浜港に到着しました。なにしろ飛行艇なので、羽田飛行場ではなくあくまでも、横浜港というところが面白いです。
旅程をみると、後年、南回りヨーロッパ行き航路東京=マニラ=バンコク=ラングーン=カルカッタ=ニューデリー=カラチ=バーレーン=カイロ=ローマ=ロンドン(1952年:英国海外航空、機材:デハビランド DH.106 コメットI、経由地:9箇所) とよく似ていたことがわかります。
▇まとめてみますと
3月6日日曜ロンドン・ササンプトン発
3月14日月曜東京(横浜)着
実質飛行時間 73時間45分
所要時間8泊9日 どうですか?素敵な旅をご堪能いただけましたでしょうか?
気になるお値段ですが、往復387ポンド、片道215ポンドとあり、1949年の円・ポンド換算が1ポンド1,080円でしたので、単純計算すると往復370,046円、片道216,720円となります。昭和24年と平成27年とで7.75倍になっているので、現在の貨幣価値ですと、おおよそ、往復2,86万7,856円 片道1,67万9,580円。 ちなみにBA(ブリティッシュ・エアウェイズ)の正規ファースト・クラス・ロンドン往復航空運賃が1,34万2,690円
所要時間12時間20分(ノンストップ)ですので、約2倍のファースト・クラス運賃と思ってよさそうです。
Courtesy of http://forum.keypublishing.com/showthread.php?79617-Need-a-Photo-of-Short-Sandringham-5-quot-Portland-quot
ちなみに、2015年 日本海上自衛隊の飛行艇US-2が、インドへ売却されることに決まりましたが、なぜ日本かといえば、現在飛行艇を生産している国は日本しかないからです。
Special thanks to:
The Collections of either Björn Larson or David zekria
“Airline Timetable Images”
http://www.timetableimages.com/ttimages/complete/complete.htm
資料 『時刻表世界史』曽我誉旨生著 社会評論社2008年刊
写真・ウィキペディア・パブリック・ドメインより
ソナー・メンバーズ・クラブのホームページは、ソナー・メンバーズ・クラブをクリックしてください。
イタリア潜水艦カッペリーニ号の奮闘!数奇な運命!
2017 APR 17 18:18:04 pm by 野村 和寿
1943年5月11日イタリア王立海軍コマンダンテ・カッペリーニ号は、大西洋を一路、アフリカの喜望峰を回り、インド洋をへて、15000浬(27780㎞)を、日本海軍の基地シンガポールに向かい昼夜水上航行、潜水航行を繰り返しながら向かっていました。つづいて5月16日同レジナルド・ジュリアーニ号が、さらに、6月16日には同ルイージ・トレッリ号が、相次いでシンガポールを目指し、途中、サバン(現在のインドネシア領)にて、イタリア通報(海防)艦エリトレア号による補給を受け、8月1日から8月30日にかけて相次いでシンガポールに無事到着しました。
欧羅巴発アジア到着の3隻の潜水艦を調べるうちに、これらの潜水艦、および上記通報艦は、ジュリアーニ号1隻を除いて、カッペリーニ号、トレッリ号そして、通報艦エリトレア号の3隻は、終戦1945年の終戦後まで生き延びた船舶だということがわかってきました。
しかも、3隻の潜水艦は単に潜水艦が、欧羅巴からアジアを目指したのではなく、輸送任務潜水艦と呼ばれ、一切の兵装をはずして、ほぼ丸腰での決死的な行動なのでした。
輸送任務潜水艦とは日本海軍伊号潜水艦のうち第四百一潜水艦をはじめ20隻を輸送任務に就いた。作戦用潜水艦を使って物資等を輸送する任務に当たらせることです。 任務の目的は補給 すき間というすき間に物資を積み込まなくてはならない 魚雷は取り除かれ、発射管さえ物資の保管場所として使われました。物資の積載量を増やすために甲板の砲も外され、潜水艦の攻撃能力をはぎとられました。
3隻の潜水艦と1隻の通報艦の詳細は下記の通りです。
下の写真は、カペリーニ号が、独海軍UIT-24として、日本近海・瀬戸内海で活動していたころの写真です。艦橋には日本士官らしき人々がうつっています。日本の伊号潜水艦のように黒塗装ではなく、独Uボート色の灰色塗装です。これは、大西洋の海の色にあわせた色を踏襲しているといえます。1944年撮影。
まとめてみますと、伊海軍潜水艦コマンダンテ・カッペリーニ号、ルイージ・トレッリ号は、ボルドーからシンガポールの日本海軍基地へ、物資を運んだ直後に、伊が降伏し、独海軍UIT-24,UIT-25に改名、さらに、1945年5月に独が降伏すると、日本海軍伊号第五百三、第五百四号として活動したこと。
一方、伊通報艦エリトレア号は、シンガポールやサバンで、補給活動に従事後、伊降伏を聞き、英領コロンボで英国海軍に武装解除を受けた後、伊に回送され、戦後、戦時賠償艦として、仏海軍通報艦フランシス・ガルニエ号として、なんと1966年まで運用されたのです。
日本と独の年長老人どうしの冗談で、「今度やらかすときは、イタリア抜きでやらかしましょうや」というのがありました。つまり、日独伊のうちで、いち早く枢軸国側を離脱した伊を「腰抜け」として笑いの対象にしてしまうという、あまり趣味のよくない冗談でした。ぼくは、以前から伊は、本当に腰抜けだったんだろうか?という疑問を持ち続けておりました。
たとえば、サッカーのドイツ代表対イタリア代表でも、イタリアが優勢であり、現在両国のイタリアの対戦成績でも全34試合で15勝8敗11分でイタリアが優勢です。の成績を残しています。自動車のF1でも、フェラーリはコンストラクターズとして、エンジンメーカーとして1950年以来、224回を誇っています。勇気をもって立ち向かう姿はいずれも凜々しいです。
ほとんど丸腰で、欧羅巴からアジアへ15000浬を勇気をもって横断した伊海軍の潜水艦。不屈の闘志が見受けられます。しかも、潜水艦、通報艦ともに戦後まで生き抜くという意外ともいえる息の長さこそ、伊の魂ここにありということを感じてしまいました。
なお、イタリア海軍コマンダンテ・カッペリーニ号のカッペリーニとは、将軍の名前アルフレッド・カッペリーニ将軍alfred cappelliniからきており、夏の冷製パスタ カペッリーニcapelliniとは関係ありませんのであしからず。(苦笑)。
資料:『潜水艦戦争1939−1945 上巻・下巻』 レオンス・ペイヤール著長塚隆二訳 ハヤカワ文庫刊(1997年)『伊四〇〇型潜水艦最後の航跡 上巻・下巻』 ジョン・J・ヘーガン著 秋山勝訳 草思社刊(2015年)
ウィキペディア イタリア版 日本版
写真 ウィキペディア イタリア版 日本版
ソナー・メンバーズ・クラブのホームページは、ソナー・メンバーズ・クラブをクリックしてください。