Sonar Members Club No45

タグ: 外国

60年代のポルトガルは・・・

2017 FEB 12 21:21:38 pm by 野村 和寿

堀田善衛の『スフィンクス』

スフィンクスオリジナル

毎日新聞社 初版1965年

読了。作者は、画家ゴヤを描いたスペインもので有名ですが、1963年に不思議な小説を書いていました。同年4月2日号から毎日新聞の『エコノミスト』誌で1年間連載された小説で、1965年に毎日新聞から単行本化され、1977年に集英社文庫に収録されました。なんと610ページにもなんなんとする大長編で、いまどきは、1冊で、こんなに分厚い文庫はなかなかありません。

集英社文庫1977年

集英社文庫1977年 カバー・イラストは朝倉摂(1922-2014舞台美術家・画家)が担当している。

ボクは、昔の小説を古書店で探してきて読むのが好きです。といいますのは特に、執筆当時の世相がかいまみられて、なかなか今では知ることが出来ないことに遭遇して一喜一憂しています。
『スフィンクス』というタイトルは、エジプトのアブ・シンベル神殿が、アウワンハイダムの建設によって、水中に沈むのを移設する寄付金を募る主人公・国連ユニセフの日本人職員菊池節子というのと、スフィンクスが、神殿をまもる守護神というところからきていて、ストーリー自体はヨーロッパ・ドイツ、スペイン、ポルトガル、スイスが舞台になっています。
小説のなかで、こんな一節をみつけました。「デザートはスイス・ドイツ風な料理とは違って美味なワッフルとそれにイタリー風な、エスプレッソと呼ばれるコォフィであった。」つまり、日本の読者にとって、エスプレッソはなんだか解説しないと分からない飲み物でした。そんな時代だったのです。

『スフィンクス』の書かれた1963年の少し前の時代背景はこんな感じです。1962年 スイスのローザンヌの対岸にあるフランスの街エヴィアンでフランスとアルジェリアの間で交渉が妥結し、同年7月、アルジェリアが正式に独立を果たしています。
また、小説に出てくるポルトガルについての記述に目が行きました。
「ポルトガルはいまなお1275万の植民地人口をもち、その植民地の面積は2090万平方キロにのぼっている。そうしてサラザール政権には、これを解放し独立させる気などはまったくなかった。しゃぶれるだけしゃぶり、反抗するものは徹底的に武力弾圧する。カイロでは、誰もがアルジェリアと今後の次はアンフォラだといっていたことも思い出されてくる」つまり1960年代は、まだ、ポルトガルは大航海時代から連綿と続いてきた大帝国だったのです。というより大帝国の名残といったほうが正確かもしれません。

ポルトガル 植民地

1410年から1999年までのポルトガルの海上帝国 赤はポルトガルが領有したことのある地域、ピンクは領有権を主張したことのある領域、水色は大公開時代に探索、交易、影響が及んだ地域  ウィキペディアより

ポルトガルのサラザール政権を、別途、調べてみると面白いことがわかりました。スペインの市民戦争にナチスの後押しを受けて、フランコ政権は、第2次世界大戦中も中立を宣言したために、戦後もなんと1975年まで独裁を続けたのは有名ですが、ポルトガルもこれとまったく同じ歩調をとっていました。サラザールの独裁体制はエスタド・ノヴォ(新国家体制)と言われ、1933年にドイツとイタリアから顧問を呼ビ国家防衛秘密警察(PIDE・ナチスのゲシュタポを模しています)を創設。サラザールの政敵を弾圧したほか、共産主義者、社会主義者、自由主義者、フリーメーソンも弾圧したのでした。

1936年1月にサラザールは首相、財相、外相、陸軍相、海軍相のポストを兼任し1939年にスペインのフランコ将軍率いる反乱軍に義勇軍を送ったりしています。フランコが勝利すると、スペインと友好不可侵条約を締結し、1940年ローマ教皇庁と政教協定(コンコルダート)を締結しました。ボクはポルトガルにおける全体主義とカトリックに裏打ちされていたと言うことを、恥ずかしながら初めてしりました。

サラザールの政治哲学はカトリックの教義に基づいており、経済政策もカトリックに影響を受けています。高等教育は重視されなかったために、現在でもポルトガルの識字率はヨーロッパ一低いといわれています。

 

サラザール

アントニオ・サラザール(1889−1970 1932−1968ポルトガル首相)写真:ウィキペディアより

そして、この小説の生まれた1960年は、「アフリカの年」と呼ばれたように、アフリカの国々が民族解放の名のもとに、いっせいに誕生しています。1961年にはアンゴラ独立戦争が、はじまり、同年、インドが、ポルトガル領、ゴア、ダマン、ディーウを武力侵攻、1962年にギニアピサウ独立戦争、1964年にモザンビーク独立戦争が起きていました。
サラザールは1968年まで首相でした。その後も、ポルトガル植民地帝国は続いたのですが、1974年のカーネーション革命で打倒されたのです。
ちなみにマカオが、中国に返還されたのは、1999年12月20日のこと。
それまでは、ロシャ・ヴィエラRocha Viera総督が統治していました。司法管轄区分も、リスボン地方裁判所管区支部だったとありました。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPはソナー・メンバーズ・クラブをクリックして下さい。

 

ウィーンに恋して 冷たくされて

2017 JAN 15 13:13:40 pm by 野村 和寿

1991年に起きたウィーン取材のことを、26年経た2017年、思い起こして書いてみることにしました。それは、とても大変な取材でした。憧れていた恋人に一気にふられたような、ぼくにとっては、珍しくとても,辛口のブログになります。

面白くないかも知れないです。

ウィーンのモーツァルトの家フィガロハウスで購入したモーツァルト・メダルです。

ウィーンのモーツァルトの家フィガロハウスで購入したモーツァルト・メダルです。

1991年はモーツァルトの没後200年記念の年で、いろいろなモーツァルト関係のイベントがおこなわれていました。そこでゴールデン・ウィークを利用して、ウィーン・フィル・メンバーに一週間密着するというぼくが編集者をしていた音楽雑誌の企画で、ウィーンに行ったことがありました。

それまで、ぼくにとって、ウィーンというのは憧れの、理想の音楽都市だと思っていました。当時はまだヨーロッパ直行便はなく、アンカレッジ経由で15時間もかかったヨーロッパでした。ロンドンを経由して、18時間かかってウィーンに到着した。ウィーンの取材は、ウィーンの公立図書館から始まりました。ウィーンの一般の図書館で、モーツァルトはどうやって受け容れられているんだろう。ところが、ぼくの抱いていたウィーン=モーツァルト=音楽の街というステレオタイプなイメージは、もろくも崩れ去った。

1990年代のウィーンは、とくに、日本でのように、モーツァルトについて、お祭り騒ぎではなく、一般の市民達が、特にモーツァルトやクラシックが好きということもありませんでした。もちろん、ウィーンの土産物屋には、モーツァルトの顔を冠したチョコレートやグッズがあるにはありました。また5000シリング札はモーツァルトのデザインでした。しかし、ウィーンはなにも騒いでいませんでした。

モーツァルトの愛好家を自認する図書館長は、ボクの質問に少しも満足な答えを聞くことはできませんでした。モーツァルトに関するコーナーは貧弱で、日本のほうがよっぽど充実していました。古い本が並べられているだけでした。

ウィーンの若い音楽愛好家の家にも取材をしました。「モーツァルトは嫌いです。音楽がこまごまとしていて冗談すぎるから」と、さらっといってのけました。

音楽学生にも取材しました。普通のアパートに住む人にとっては、防音というのが、大きな問題で、音楽家の玉子たちには、ウィーンは決して優しくなかった。というよりもきわめて冷淡な印象がありました。練習する場所にも恵まれていませんでした。

さらに1991年当時にもウィーン楽友協会を取材したおりに、わかったことは、あの黄金のホールをとりしきっている会長は、第2次世界大戦の頃、ウィーンがナチスドイツと併合されていたころからずっと、楽友協会を牛耳ってきた女史。ファシズムと親しかった女性の館長の下、取材にはきわめて非協力的で、保守的で、まったくとりつくしまもありませんでした。

ウィーンのシェーンブルン宮殿で一般の老人夫婦が写真を撮っていたので、記念写真をとってあげましょうか? と聞いたらにべもなく、拒絶された。まるで、自分のテリトリーにむやみに立ち入ることを拒んでいるようでした。

ぼくが、感じた1991年のウィーンは、オーストリア社会党のちの社会民主党のフランツ・ヴラニツキーが、国民党との連立を組み、政権を担っていたが、ウィーン人にしてみると、みるべき政策もなく、デモも頻発していていました。

ウィーン国立歌劇場

1955年再建されたウィーン国立歌劇場の外観です。

ウィーンの国立歌劇場にも行きました。ウィーンの駐車事情は極度に悪く、国立歌劇場近くの駐車場は、ことごとく満車で、街のパーキングというパーキングに、車がこれはどうやったら、発車できるんだろうとばかり、無理矢理に駐車がめだった。1時間ほど駐車場を探した挙げ句、入場ができました。

VIENNA OPER

ウィーン国立歌劇場の舞台側からみた客席内部 ボクは1階の平土間に席をとりました。

オペラでは、ムソグルスキーの『ホヴァンスティナ』を観ました。当時、音楽監督だった指揮者クラウディオ・アバドによる発掘で、復活上演されていた。1階の平土間席に陣取りましたが、取材目的で、当然のように、大事な取材道具の入ったかばんを、クロークに預けることなく、もって席に着いていました。

隣の過度に太った30代と思われる夫婦は、ボクの席を通って通路に出るときに、わざと、ぼくのかばんを踏みつけて通った。つまり、ボクが、かばんをクロークに預けもしないで、観劇するなんて、田舎者のするものだといわんばかりで、非常に自分自身のことを考えてばかり居て、冷酷な仕打ち、それが現実だった。オペラ観劇後のレストラン事情も決して恵まれては居ませんでした。終演が23時で、まだ近くでオープンしているレストランは非常に寒々としていました。注文した豆のスープは塩辛くてとても美味しいものではありませんでした。

通訳に雇用した日本人女性は、ウィーンにバイオリン留学にきたものの、すでに音楽にはなんらかの理由で、挫折を味わい、今は通訳のような仕事をしていた様子でしたが、これが、ウィーン人よりさらに、保守的で、頑迷で保守的なところは、日本語で通訳しながらも、自分に言い聞かせているようなところがあって、しかもギャランティーはしっかりと高額でした。ウィーン在住の日本人音楽評論家にも会った。彼もまた日本語でもって、ウィーン人のようにコンサーヴァティブそのものだった、これは想像の域を出ないが、こうした留学生のなれの果てのような日本人が、ウィーンには多くいて、それぞれが苦しい生活をしているようだった。あまりよい印象はもっていない。

1989年のベルリンの壁崩壊直後で、社会主義諸国の社会主義の崩壊があったとはいえ、オーストリアは、大きな誇れる産業もなく、地理的には、社会主義国の隣国、黄昏の西ヨーロッパの果てであり、自分たちが保守的に生きていくために、静かに質素に、他人の目に注意を向けながら、日々を暮らして、何もしないようにしようと思うしかないといった、きわめて保守的な空気感でした。

4月の終わりだというのに、吐く息は白く、なにか寒々しい感じがしました。

とてもボクが考えてきた往年のウィーンではないというのが第一印象だった。

ボクの思っているウィーンに対する甘いイメージは大きくひっくり返されてしまった。正直なところ興ざめでした。

 

ボクは、一番の取材目的である、ウィーン室内合奏団の録音場所であるカジノツェーゲルニッツに向かいました。朽ち果てたような古いホテル。入り口に、何もすることのない男達がたむろしていました。「ここに録音場所があるのか?」と聞くと、「知らない、そういえば、裏の方にあったかも」と、きわめて非協力的だった。裏に回ると、同じく朽ち果てたような昔は豪奢だった面影が、天井からさがったシャンデリアの電灯光が、漏れてきました。

 

日本のようにモーツァルト・イヤーの本場だとお祭りを想像していた雑誌記者は、そのあまりにも安易な日本的な考えにすっかりと困ってしまいました。

ボクは、ベルナルト・ベルトルッチ監督(代表作「ラスト・エンペラー」)のイタリア映画『暗殺の森』(1970年イタリア・フランス・ドイツ合作)を思い出していました。舞台は、大戦中のイタリアとフランス、撮影は名匠ヴィットリオ・ストラーロの暗い青がかった空気感のもとで、主人公役のジャンルイ・トランティニアンが殺し屋の映画だ。ウィーンとは違うけれど、世紀末的な色合い漂う、冷酷なまでの頽廃感が似ていると、思っていました。

ウィーン室内合奏団の話は次回へ・・・・つづきます。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPはソナー・メンバーズ・クラブをクリックして下さい。

 

英国の美味しい「食」BELGOとCHOP HOUSE

2016 DEC 30 5:05:06 am by 野村 和寿

BELGOのムール貝
 1998年7月今から18年も前に、ロンドンに音楽の取材にいったときに、面白いレストランに行きました。日記から拾ってアップしてみます。
「英国生活 ム−ル貝を食す/料理学校のレストラン 」
▇英国生活 ム−ル貝を食す

BELGOのムール貝

バケツ一杯のムール貝の蒸し物です。これを言葉もなくただただ食べ続けます。

ベルギー料理のチェーン店 BELGOは 、日本で言うならピザハットみたいな気軽な店なのですが、造作がかわっていて、近未来映画に出てくるような金属の廊下、地階に料理場がみえ、客は長蛇の列、刑務所の監視のようなごっつい案内係に地下に誘導され、30分後にブリキの大きなエレベーターにのります。そして、案内されたところは、地下1階でしたが、地下2階にもあるようすです。日本の居酒屋のようなすし詰め状態。ここの売りはなんといっても修道服をきたウェイターとマッスルつまりは、蒸したバケツ一杯のムール貝でした。単に、バターとアーリオ(にんにく)でもって、ムール貝を蒸しただけに過ぎませんが、これが、またバケツに入って登場します。
  同じくベルギー・ビールの「シメイ」を飲み、トマトスープと、ムール貝を、とにかく、ひたすらに、バケツいっぱい分、一人で食べ続けました。バターの香りはちょうどよくて、ムール貝は新鮮そのものです。

BELGOの表看板

BELGOはコベントガーデンのど真ん中に今でもあります。

▇ 英国生活2 料理学校のレストラン

chophouse-restaurant

調理師見習いのレストランチョップハウスです。低価格で味もなかなかです。

  ロンドンの北テームズ河を上がったところにある THE BUTLERS WHARF BUILDINGは、日本で言えば大阪阿倍野の辻調理師学校のような所で、コンラン卿というデザイナーが経営しています。 コンランショップはデザイナーズ・ブランドで、西新宿にもあるみたいです。ただし レストランはまだ 日本にはないみたいですが、簡単に言うとここの生徒たちが料理を作って出すのが CHOP HOUSEです。
 ここが、一番ランク下のなんと料理学校の生徒たちの店。生徒たちが真剣につくり、ギャルソンからなにからみんな生徒、隣にはもう少しランク上のレストラン、そこには、当時のアメリカ大統領だったビル・クリントンも来訪したそうで、主人はハバナ・タバコの大きなトランクケースを彼に全部渡して、選んでくれと いっ た とのこと。もしかすると、キューバ問題へのいやみだったのかも。
 イギリスの料理というと、まずいので有名だったのですが、ずいぶん最近は様変わりを見せています。市場に近いので、新鮮な魚介類を入手し、シーフードは、カキ やハドックなど、相当なおいしさで、もしも日本でもこれだったら、充分、流行すると思いました。
  面白かったのはここのまかない飯に並んでいる、料理人達。日本のご飯に、デミグラソースみたいのをかけて、チキンがあったのですが、これがまた、うまそうでした。 ぼくらは、ものすごくいっぱいの海老のむしたのと、カキ、それにフィッシュ&チッ プス、それにロゼのワイン、そして、たっぷりのチーズと、たっぷりのデザート(当地では、 デザートのこ とをプディングといいます。)   昔ここでも話題になったプディングですが、ものすごく濃いグランベリーで似たものすごく甘いプディングが人気でした。つまりは、あまり煮すぎるということがなくなった。極端な味付けがなくなった。という感じ。

コンランの調理師学校レストラントラン

調理師学校のレストランなので、過度な装飾はありますが、とてもさっぱりと綺麗です。

  料理の現場 をのぞいたら、本日のディナーを1つ1つさして、ギャルソンたちへのレクチャーが 始まったところでした。もしも生徒達が個々でいい成績を得られれば、コンラン卿の経営するお店で働 けるので真剣です。

コンラン本家レストラン

こちらはコンランの本家のレストランです。現代デザインの調度です。値段もそれなりにお高いです。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPはソナー・メンバーズ・クラブをクリックして下さい。

 

 

 

 

▲TOPへ戻る

厳選動画のご紹介

SMCはこれからの人達を応援します。
様々な才能を動画にアップするNEXTYLEと提携して紹介しています。

ライフLife Documentary_banner
加地卓
金巻芳俊