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映画『HIROSHIMA』で鈴木貫太郎を観る

2018 FEB 28 12:12:17 pm by 野村 和寿

先の太平洋戦争を終結させるのに貢献した鈴木貫太郎翁のとられた行いについて、ぼくはいつも敬意を払い見つめることにしてきた。

最近、『HIROSHIMA』1,運命の日、2,破滅への道というタイトルのテレビ映画(カナダ・日本・アメリカ合作1995年カナダ側・ロジャー・スポティスウッド監督、日本側・蔵原惟繕監督)があったことを思い出し、鈴木貫太郎の視点を理解する一助として興味深く見つめることが出来た。

1945年7月28日の内閣記者団との会見において鈴木首相(松村達雄扮する)は「ポツダム宣言は重視する要なきものと思う」と言明した。テレビ映画『HIROSHIMA』より

1945年7月26日ベルリン時間夜9時30分、対日戦に関する連合国側のいわゆる「ポツダム宣言」が発出された。この映画の中から該当部分を拾ってみると

・・・・

鈴木内閣閣議 1945年7月26日

1945年7月26日ポツダム宣言が発表された直後、鈴木内閣はただちに閣議を開きこの宣言を検討した。(写真右から鈴木首相(松村達雄扮する)、下村内閣情報局総裁、阿南陸相(高橋幸治扮する)、写真奥 東郷外相(井川比佐志扮する)、米内陸相(神山繁扮する)テレビ映画『HIROSHIMA』より

 

映画『HIROSHIMA』より                        アメリカのニュースフィルム「日本にポツダム宣言を発しました。ヒロヒトは敵対をやめ戦争を停止しなければ、恐ろしい結果になる」

1946年7月28日 鈴木貫太郎内閣が、記者会見で、ポツダム宣言について「黙殺」と言明。

鈴木首相(松村達雄扮する)・内閣記者会との会見で

「ポツダム宣言は、カイロ宣言の焼き直しであり、政府としては、重要視しておりません。黙殺するだけです」

1946年7月28日ドイツ・ハベルスベルク 日本の反応の「黙殺」という言葉の意味を、トルーマンは随行の米國・日本語教授に問いただすというシーン

米國・日本語教授「モクサツです。めったに使われません。文字通りの意味は「沈黙」を殺すです。誰が使うかで違います。かなり年配で高い地位の人物なら、違った意味で使います。たとえて言うなら、あなたの靴を買いたい。私は100マルクを提示、あなたは500で売りたい、しかし安すぎると言って私を侮辱したくないので、そのかわりに黙っている。聞かなかったフリを。それによって条件に不満だと分かるのです」

トルーマン大統領「交渉してもよいという意味か?」

米國・日本語教授「それもあり得ます。しかし、より近い意味は最後通告を無言の軽蔑で受け止めたと見られたいのです。言い換えれば交渉の余地はないということです」

・・・・

映画『HIROSHIMA』のなかで、「黙殺」ということばを鈴木首相が使ったことに東郷外相がカンカンになって詰め寄るシーン

鈴木首相「梅津(参謀総長)は正しいよ。誰かが告げなければならなかった。軍人でない君にはわからない。連合軍に発言したんじゃない。誰かが軍に告げなきゃならなかった」

東郷外相(井川比佐志扮する)「あなたは独断で最後通牒を拒否したんです」

鈴木首相「公に言ったんじゃない。わが陸海軍兵士に告げたのだ」

東郷「ラジオでね。連合国は聞きましたよ。夕べあなたの見解が放送されたんです」

鈴木 「連合軍に対して発言したわけじゃない。わが情報部に発言した」

東郷 「ラジオでね」(強くいい放つ)

・・・・

テレビ映画『HIROSHIMA』の中では、東京からのラジオ放送で、日本政府の言明のなかに、「黙殺」という言葉を使い、米側の翻訳係が、意味をはかりとかねたために、原文の「モクサツ」と英語訳の両方を提示するというシーンがあり、「モクサツ」は、の米国随行員の日本語学者に問いただすというシーンで使われていた。

そもそも「黙殺」という言葉を鈴木首相自ら使ったかどうかについて少し書いてみる。

ポツダム宣言についての、日本政府の反応について「黙殺」という言葉を鈴木首相が使ったか?それとも使わなかったか?については、現在に至るまでも、各種の推論がなされてきた。鈴木首相の動きの中でももっとも大事なくだりである。

 

私の蔵書の『鈴木貫太郎自伝』(鈴木一著・昭和43年時事通信社)には、この部分についての既述が、戦後すぐの月刊「労働文化」別冊鈴木貫太郎述「終戦の表情」(労働文化社社長河野来吉 対談8時間の筆録)書かれている。

「この宣言にたいしては、意思表示をしないことに決定し、新聞紙にも帝国政府該宣言を黙殺するという意味を報道したのであるが、国内の世論と、軍部の強硬派はむしろかかる宣言にたいしては、逆に徹底的反発を加え、戦意高揚に資すべきであることを余に迫り、なんらかの公式声明をなさずして事態を推移させることは、いたずらに国民の疑惑を招くものであると極論する者さえ出てくる有様であった、そこで余は心ならずも7月28日の内閣記者団との会見において「この宣言は重視する要なきものと思う」との意味を答弁したのである。この一言は後々に至るまで余の誠に遺憾と思う点であり、この一言を余に無理強いに答弁させたところに当時の軍部の極端なところの抗戦意識が、いかに冷静なる判断を書いていたかが判るのである。ところで余の談話はたちまち外国に報道され、我が方の宣言拒絶を外字紙は大々的に取り扱ったのである。そしてこのことはまた、ソ連をして参戦せしめる絶好の理由をも作ったのであった」(『鈴木貫太郎自伝』より)

自伝のなかで、鈴木(当時元首相)は、「黙殺」とは、自分では言っていないが、新聞記者が、見出しで、「黙殺」と表現してしまったということを示唆している。ポツダム宣言の反応についての、朝日・読売各紙を調べてみると、

1945年7月28日読売新聞は「笑止 トルーマン、チャーチル、蒋連名 ポツダムより放送す」とあり、さらに「戦争完遂に邁進 帝国政府問題とせず」「敵米英並に重慶は不逞にも世界に向かって日本抹殺の対日共同宣言を発表、我に向かって謀略的屈服案を宣明にしたが、帝国政府としてはかかる敵の謀略については問題外として笑殺、断固自存自衛たつ大東亜戦争に挙国邁進、以て敵の意図を粉砕する方針である」

これに対し、1945年7月28日朝日新聞は「米英重慶 日本の降伏の最後条件を声明 三国共同の謀略放送」「帝国政府としては米英重慶三国の共同声明に関しては何ら重大な価値あるものに非ずといてこれを黙殺すると共に、断固戦争完遂に邁進するとの決意を固めている」としている。(『宰相 鈴木貫太郎』小堀桂一郎 1987年文春文庫 高見順日記より引用)

つまり、鈴木首相は「黙殺」と直接言明したことはない という説もある。

*『HIROSHIMA』というテレビ映画について

『hiroshima』1995年カナダ・日本・アメリカ合作のテレビ映画。ジャケットは、トルーマン大統領(ケネス・ウェルシュ)、昭和天皇(梅若猶彦)日本側監督・蔵原惟繕 英語版のDVDジャケット

1995年に主にカナダ・スタッフと日本・オールスターキャストによって製作されたテレビ放送向け映画。カナダのほか、フランスでも放送された。映画は、1945年4月それまで蚊帳の外だったトルーマンが、ルーズベルトの突然の死によって、大統領に選任するところから、始まり、マンハッタン計画の新型爆弾である原爆の開発を知らされ、使用するかどうかで悩む。一方日本の鈴木首相をはじめとする鈴木内閣は、特に阿南陸将、梅津参謀長を向こうに回して、戦争終結反対あくまで本土決戦を主張する、阿南陸将、梅津参謀長とのやりとりを中心に、昭和天皇が、積極的に戦争終結に関与し、スターリンへの特使派遣を企図するというものになっている。

日本側部分は、ありがちだった、いわゆる「へんな日本人」のような外国の描く日本ではなく、日本側スタッフには蔵原惟繕(くらはら これよし)監督 脚本石堂淑朗(としろう)が並々ならぬ精力であたっている。

鈴木首相役に、松村達雄、阿南惟幾陸相役に、高橋幸治、米内光政海相役に神山繁、東郷外相役に、井川比佐志と当時の名優を揃えている。特に、昭和天皇裕仁役に、能役者の梅若猶彦を起用し、それまでの映画作品とは違い、昭和天皇が、直接、戦争遂行に積極的に関与したことを思わせる、近衛元首相(加藤和夫扮する)木戸内府(佐藤慶扮する)とのソ連仲介の労をとることを提案し、ある意味で、戦争終結に直接関与したと思われるシーンが登場する。それまで映画のなかでは、昭和天皇が、御前会議に臨席するシーンなどはあったが、なかなか直接の関与を思わせるシーンは、この映画が初めてだと思われる。

ソ連に和平の仲介を頼もうと、天皇の考えに伴って近衛元首相に特使を派遣しようとする。左から昭和天皇裕仁(梅若猶彦)、近衛首相(加藤和夫扮する)テレビ映画『HIROSHIMA』より

 

映画『HIROSHIMA』より

近衛:みんな戦争にうんざりしています。国民はこの戦争に疲れ切っています。これ以上戦争をつづけたならばまず大規模な反乱が起こり、それから共産主義者たちが、革命を起こすでしょう。もちろん、私はいつでもモスクワに参ります。今晩にでも参りましょうか?

天皇:今晩ではなくてもいいが、なるべく早急に。できればスターリンがポツダムに発つ前がいいだろう。

近衛:もちろんです。

天皇:国内には多くの狂信者がいるから、近衛の使命が何たるかを知れば飛行機がモスクワに着くのを妨げるかも知れない。

近衛:ひとつだけおたずねします。スターリンに頼みごとをする見返りに何を提供すればいいのですか?

天皇:いろいろ聞いているが、どんな情報を貰っても信用しないことにした。近衛自身が判断すべきだ。だがスターリンはあまり多くを求めないだろう。彼自身戦争に疲れているからな。

近衛:もちろんです陛下。そうに違いありません。

テロップ スターリンはポツダム会談前後近衛侯爵との会見を拒否した。

御前会議

御前会議 ポツダム宣言受諾の可否について、メンバーから意見が開陳された。最後に天皇の聖断(1945年8月10日午前0時3分)がくだされた。宣言を受諾することが決定された。テレビ映画『HIROSHIMA』より

最近、刊行中の『昭和天皇実録』のなかで、いわゆるポツダム宣言受諾の聖断がなされたのは、1945年8月10日午前0時3分とわかってきた。

鈴木貫太郎のことを書いてくると、鈴木首相の日本の舵取りに関与した時代が難しかったかについて、改めてついつい考えてしまう。

HIROSHIMA 運命の日

『HIROSHIMA』(1 ビデオ化のタイトルは『ジ・エンド・オブ・パールハーバー運命の日』2001年12月リリース)1945年4月ルーズヴェルト米大統領の急逝で、副大統領だったトルーマンが大統領にになったときからストーリーは始まる。パート1にあたる。

ちなみに、このテレビ映画は、1996年8月5日と6日、2回にわけて、NHK総合テレビで『ヒロシマ〜原爆投下までの4ヶ月』というタイトルで、深夜23時50分から一度だけ放送された。後に、発売元 大映映画、販売元徳間ジャパンコミュニケーションズビデオからVHSビデオで、『HIROSHIMA ジ・エンド・オブ・パールハーバー運命の日、破滅への道』というタイトルで、2本に亘りリリースされたことがある。しかし今はほとんど知られていない作品となってしまった。

HIROSHIMA2破滅への道

『HIROSHIMA』(ビデオ化のタイトルは『ジ・エンド・オブ・パールハーバー 破滅への道』2002年1月リリース)トルーマン大統領は、マンハッタン計画で原爆が完成したことを伝えられる。一方日本側は心ある戦争終結への努力と軍部との対立が激しくなる。パート2にあたる。

 

このVHSは、もちろん既に廃盤になっている。しかし、最近、私は偶然、北海道の中古ビデオ店でこの作品のVHSテープを見つけ出した。思えば、この作品を最初に観たのは、1995年東京・青山のカナダ大使館の試写室だった。当時、私の私淑していた映像作家の貝山知弘氏が、本作品のキャスティングに関わったことで試写に呼んでいただいたのだった。

 

映画『HIROSHIMA』で鈴木貫太郎を観る Ⅱ


 

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1945年伯林からの警鐘

2017 AUG 4 16:16:15 pm by 野村 和寿

終戦の二ヶ月前に、ドイツ・ベルリンからベルリン敗戦の記事が当時の朝日新聞に掲載されました。あまりよく知られていないのですが、当時、厳しい検閲がしかれている昭和20年になぜ、ベルリン敗戦の記事が、まだ戦争中だった新聞に掲載されたのでしょうか?

当時鈴木貫太郎内閣のもとで、情報局総裁は、下村宏という人でした。朝日新聞出身です。当時情報局は、新聞記事の掲載許可不許可を握る立場にありました。下村宏総裁局総裁によって、本記事は、昭和20年6月5日掲載許可されました。当時の日本国民は、本土決戦一色のなか、日本の敗戦への覚悟を、暗にというか直接間接に、ベルリンの敗戦という形で、知らせたのではないか?とぼくは思いました。

守山義雄記者は、1945年5月2日のナチスドイツの崩壊、ベルリン陥落までベルリンにとどまって情勢を見守っていました。筆致は具体的で、しかも、日本に対して、警鐘を鳴らすという意味を込めていたように思われてしまいます。見出しに「ベルリン前支局長」とあり、「現」でないのは、この記事を書いたのは、実は守山記者が、すでに、ソ連によりベルリンの邦人が日本に送還されるシベリア鉄道の送還列車の中で書いたことによります。

以下、昭和2065日 たった2ページの表裏のペラペラの新聞にあって、異例の長い署名記事です。あまり知られているとも思えなかったので、ここに読んでみました。よろしければどうぞごいっしょに。

19450605朝日新聞

1945(昭和20)年6月5日付け、朝日新聞より 当時のペラペラの2ページの新聞のなかで、5段もの段数をつかって守山義雄記者が渾身の記事を書いています。

 

『戦敗ドイツの実相』前ベルリン支局長 守山義雄記

余すなく徹底破壊 がれきのベルリン死一色 戦争の真理は結末にあり

ついに奇跡は起こらなかった。奇跡を期待した人たちは今呆然として廃墟の中にたたずんでいる。ヨーロッパの廃墟、惨憺(さんたん)たる破壊、累積せる悲劇、一体これは何事が起こったか。廃墟の痛手と深さは人々からものを考える力を奪ってしまった。呆然としてただ呆然として人々はおそろしくひもじいとのみ感じている。これはドイツ国民の現状だ。そのひもじさの底からしみじみとこみ上げてくる一つの涙がある。さらに次の涙がある。さらに新しい三の涙がある。悔しい涙であろう、しからず、悔しいと思うときには、これに反抗力の残滓(ざんし)を認めることができよう。しかしこのような反抗力は徹底的に失われた今のドイツ人からはどこを押しても出てこない。今度の戦争が独国民にあたえた破壊はそれほど完全であり、余すところなく徹底していた。

安っぽい言葉ではあるが、運命を嗤(わら)うというそういう表現が、この場合最も当てはまる。やっぱり駄目だったという率直な直観、これが限りなく冷酷な現実に通じているのだ。

彼らはただ泣く、生まれながらにかたくなな合理主義者が、一言の反駁(はんばく)も許されず、極端な宿命論者たることを強いられるほど世に悲惨なことはない。

 

中間的な解決なし

 

ドイツの指導者はかつて、「この戦争の結果には勝ち残る者と死に絶える者の2つがある。われわれは断じて後者であってはならない」と、それはあまりにも痛々しい予感となった。

近代総力戦にはこれが、総力戦なるが故に中間的な解決はないのだ。

そしてドイツは行くところまで行ってしまったのだ。あの苦しいベルリン生活の思い出は瞬間にして遠い遠い夢のかなたの世界に吹っ飛んでしまった。同僚から何か書けと鉛筆をつきつけられたが、まるで見当がつかない。そしてそれが日本の読者に何の参考になるだろうか。今実に重大な国運の分岐点に立っている日本にはもっと大切な事があるはずだと思う。独ソ開戦の興奮、スターリングラードの悲劇、ノルマンディの血戦、V1号の出現したときのあの戦慄的な熱狂など、大向こうを騒然とさせる材料は山ほど

あるはずだ。しかし今それが何の足しになるだろうか。芝居の途中の筋書きは複雑起伏を極めていればいるほど面白い。しかし戦争には最後の結末だけが大切である、最後の終止符だけが戦争のすべてである。したがってここに再びあの虚偽と宣伝の絡み合った戦争の道ゆきを思い出して反芻することはちょっと辛抱しきれない。

 

奇跡は遂に起こらず

 

戦争の持ついかなる真理はその結果に潜んでいる。同時に近代総力戦においては奇跡は容易に起こりえない。ソ連がぶり返したのも英国ががんばったのもあれは奇跡ではない。それぞれ力の裏打ちがあってはじめてなしえたのである。強い力は弱い力より強い、このきわめて常識的なことが戦争の結末には真理となって現れてくる。その意味でヨーロッパの戦争は徹頭徹尾きわめて物理的な推移をみせた。強いて奇跡を認めるならばあのような国民性と国体をもった独は、誰の目にも絶体絶命の境地にありつつとにかく最後までベルリンをとられるまでがんばり通したということはこれを奇跡といえばいうことができる。もちろんラインを突破された後の独のがんばりは、戦略的にも政治的にもすべて希望を失った、ただナチスの精神力だけの頑張りであった。しかし精神力がものの力を補い得るのは一定の限度までである、ことにこのことはヨーロッパ戦場において、躊躇なく断言しえたのである。この独国民は水ももらさぬ総力戦の(一字不明)型のなかでかろうじて自分の義務だけをかろうじて呼吸していたのである。さすがの独がついに恐ろしい真相を告白しはじめたのは去る4月16日ソ連の89個軍団の大軍が、オーデル河戦線で、直接ベルリンに対し最終的な総攻撃の火ぶたをきったときからであった。

 

ヒ総統布告の疑問

 

そこにひとつの奇妙なことが起こった。ソ連軍の行動開始を2日間見送っていよいよ本物のベルリン総攻撃であることを確認したヒットラー総統は16日付けで独軍将兵に告げる布告を出した。「東部戦線こそ独の運命を決する戦線だ、ベルリンは永久に独のものとして残るだろう。東部戦線の将兵よ断乎がんばってくれ」という内容だ、しかしこのときの戦況は西部戦線の米英軍は中部独の心臓部になだれこみすでにエルベ河東岸に橋頭堡を作ってまさに西からベルリン攻略に参加せんとしていた。緊張せる局面にあったなぜヒットラー総統は、東部戦線の危険のみを強調して、米英軍の防衛に関してはほとんどひとこともふれないのだろうか。それはわれわれの抱いた最初の疑問であった。ついでベルリン市は非武装都市として開放を宣言されぬではなかろうか、ということがわれわれの間で大きな問題となった。人口の3分の2は疎開したとはいえ、その後東部独からの避難民を収容したベルリンは当時人口300万の女子供をも含む大都市であったのだ。臨戦成功となれば食物はどうする、負傷者はどうする、ほとんど歴史に例のない惨憺たる考慮をめぐらせたのも、当然だ。われわれの観察したところでは、ベルリン市民のほとんど全部は、非武装都市の宣言を今日か明日かと待っていた。トランス。オツェアン通信なども、ベルリン非武装都市問題は、22日の日曜日中にいずれかに決定するだろうという通信を出したほどだった。

 

指導者間に縺(もつ)れ

 

すでにソ連軍の20センチの重砲弾が、朝日支局のあった市の中心部に雨のごとく落下してくるまっただなかにあって、全市民は地下室の中でかたずをのんでいる。文字通りベルリンは沸騰し、わきあがり大揺れに揺れかえる思いだった。ヒムラーが各市各村の徹底抗戦を命令した後だったので、さすがに世紀の悲劇を前にして指導当局の間にも紛争のもつれがあった。25日に至り、ベルリン防衛責任者たるゲッペルス宣伝相が、この問題に中間的な解決をあたえ、制服を着た軍人のみで、ベルリン防衛戦を遂行せよと布告が発せられた。女も防衛戦に参加する以上は、ユニフォームを着ろという指令である。だがベルリンの運命にとっては結局同じことであった。かくしてベルリンは傍観者の目には、まったく無謀にみえる形で世紀の悲劇の中にまきこまれていったのだ。

それからおよそ10日間言語に絶した市街戦が続いた。ソ連軍の砲撃のものすごさというのを、われわれもおかげで身をもって体験した。25日まで朝日支局のあったアンハルターの駅前でがんばっていた頃、地下室まで砲弾に打ち砕かれ、われわれの事務所に女や子供の屍体がもちこまれた。われわれの支局が一般大衆のための仮納骨所みたいになってからさすがにいたたまれず、同僚原君とふたりで、死にものぐるいの運転をやり、チャーガルテンの日本大使館に飛び込んだ。ここでも河原参事官以下11名の館員諸氏と、民間では正金(横浜正金銀行)の人たちはすでに悲壮な籠城生活を始めていた。大使館も幾度もの爆弾を浴びたことか、真っ暗な地下室で天長節の式をあげた。感激など今から顧みれば皆無。ことに助かったことが不思議なほどで、すべて筆紙につくしがたい体験であった。

 

呆気なく戦いの終幕

 

そしてある朝が明けた「これはロシアの兵隊らしい」と誰かがとびらの隙間からのぞいて叫んだ。なるほど見慣れた独兵の鉄兜とは形が違う。朝もやの中で、独軍兵士の残骸の間を自動小銃を構えたソ連兵が3人、5人ぞろぞろ歩いている。何かを探しているようでもあるが、散歩しているようでもある。みんな熊の子のように真っ黒になっている。それがベルリンでソ連兵をみた歴史的な瞬間であった。

そしてヒトラー総統戦死の放送をわれわれが、万感迫る思いで聞いたのはその前夜のことだった。ヨーロッパ戦争は、ベルリン戦争をもって淋しく呆気なくついにその幕を閉じたのである。今日ベルリン市街の徹底的な破壊の跡を見るものは何が独にここまで戦わせたかをいっそう不思議に考えるに違いない。政府、官庁街を中心として市の中心部8キロ四方は、がれきの原っぱと化した。

2年間の爆撃よりも10日間の市街戦のほうが、2倍も3倍も破壊力は大きいのだ。

ナチス・ドイツの敗戦の理由、そのような複雑な問題は、一言や二言では尽くせない。しかしドイツが最初から苦しんでいたのは、二正面戦争の悔恨だった。そして最後の瞬間までこの戦争を一正面に修正したいという希望を捨てなかった。ナチス・ドイツが戦略的にも全然見込みない最後の抵抗を試みたのも米英とソ連間の軋轢(あつれき)の結果を期待し、ここにドイツがつかみ得る政治的な機瞥(きべつ)を、待ちもうけていたのであった。ヒムラーの米英単独降伏提案は、その最後のはかない試みであった。今日ドイツは米英・ソ連三国のほかに、フランスまで加わり、全国土余すところなく、四国軍隊に占領されている。ベルリンには至るところ赤旗がひるがえり、うちひしがれた市民は生きるために食わんがためにすべての過去を忘れている。富めるものも中産階級もすべて消滅し、今ドイツの街頭にみるすべての人間の形は事実死の色に塗りつぶされてしまった。記者は南京をはじめ、ワルソー、ブラッセル、パリと4つの首都をそれぞれ占領第一日に勝利の軍隊に従軍して見聞したが、いまははじめて敗軍の首都の悲惨さを内部かた体験して戦争の結末こそ、戦争のすべてだという考えをいっそう強くしたのであった。

194565日 朝日新聞より(現代仮名遣い折りがな等変更しました。)

                    ●

歴史家・鳥居民が丸谷才一の語ったところとして、「守山義雄は、19455月、ソ連軍によってベルリンから日本へ送り返されたが、その旅の途中、シベリヤ鉄道のなかで、本記事を書いた」とあります。

守山義雄氏(1910-1964年)大阪外国語学校ドイツ語部を卒業して大阪朝日新聞社会部入社、1939年ベルリン特派員、1940年独軍に従軍してパリ入城記、19457月帰国。1951年サンフランシスコ講和会議を取材。

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鈴木貫太郎男に心ふるえる

2017 JAN 21 4:04:14 am by 野村 和寿

ここに2つの新聞の記事を紹介する。1つは1944年4月13日のアメリカ・ワシントン・ポスト紙、もう一つは、同じ日のアメリカ・ニューヨーク・タイムズ紙の記事である。

この記事に先だって第42代首相に、鈴木貫太郎が就任している。わずか6日前(4月7日)のことである。就任したばかりの鈴木貫太郎首相は、敵国であり、交戦中であったアメリカ合衆国大統領フランクリン・D・ルーズヴェルトの突然の死去に際し、なんと敵国にもかかわらず、哀悼の意を表している。しかも、特別に葬送の音楽までつけて。

1945年4月15日付け ワシントンポスト UP(合同) 記事は以下の通り

・・・・

日本首相鈴木貫太郎は、ルーズヴェルト大統領の死去に際して、昨日アメリカ国民に対する深い哀悼の意を表明した。

連邦通信委員会の聴取した放送によれば、新首相は述べている。「ルーズヴェルト大統領の施政が非常に成功を収めたこと、そしてアメリカが今日の有利な地位を占めるに至ったのは、彼のおかげであることを私は認めざるを得ません。その故に、彼の死去がアメリカ国民にとって意味する所の大きな損失を私にはよく同感できるのであります。私の深い哀悼の意をアメリカ国民に向けて送ります」

鈴木はこれに加えて、大統領の死によってアメリカの戦争継続努力に変化が生ずるとは思えない、とも述べた。(訳 小堀桂一郎氏『宰相 鈴木貫太郎』(文春文庫1987年刊)より引用)

ワシントンポスト

1945年4月15日付けのワシントンポスト紙の該当部分

 

1945年4月14日付け ニューヨークタイムズ記事は次のとおり

NY TIMES 19450414

ニューヨークタイムズ紙1945年4月14日の紙面の該当部分です。

・・・・

男爵鈴木貫太郎提督は、フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領の死去に際し、アメリカ国民に対する「深い哀悼の意」を表明した。と、昨日、日本の同盟通信社が述べている。

北米向けの英語による無線通信の伝えるところによれば、信任の日本の総理大臣は、同盟の記者に対して次のように語った。「ルーウヴェルトの指導力は実に効果的なものであって、これが今日におけるアメリカの優位な地位をもたらしたものであることを、私は認めないわけにはいかない

そして、付け加えた。「であるから、彼の死去がアメリカ国民に対して意味する大きな損失は私にはよく同感できるのであって、私の深い哀悼の意をアメリカ国民に向けて送るものである」

「転換は起こらぬ」と断言

しかし鈴木首相は「率直に述べた」と、連邦通信委員会で受信した通信は続けて報じている、「自分はルーズヴェルト氏の死去によってアメリカの日本に対する戦争努力に変化が生じようとは考えていない」首相はさらに続けて述べている。

「日本側としても同様、英米の武力政策と世界支配に対抗する全民族の共存共栄のタメの戦争を継続すべく、日本の決意にはいささかも動揺もないであろう」(訳 小堀桂一郎氏『宰相 鈴木貫太郎』(文春文庫1987年刊)より引用)

newyork times1

1945年4月14日付けニューヨークタイムズ紙の該当部分その1です。

 

さらに、ニューヨークタイムズ紙の、記事の後段(下線部分)である。日本の同盟通信によると、とわざわざ断った上で、新任の首相に、なぜ、鈴木貫太郎が選ばれたのか? そして鈴木貫太郎がどんな気持ちで、この難局に臨んでいるのか?」を語っている部分である。

new york times2

1945年4月14日ニューヨークタイムズ紙の該当部分その2です。

・・・・

 

同盟の通信が述べたところによれば、ルーズヴェルト氏の死去という「世界を震撼させた事件」に対する鈴木首相の「思いがけぬ反応」にふれて、その記者は、「ほとんど不意打ちにあったように驚いた」、「しかし記者は、この新首相のごとき度量の大きい人物の口から出た言葉とすればそれも不思議ではないことを、直ちに悟った」、通信はそのあと次のように続いている。

「アメリカ国民の大なる損失に向けての首相の深い哀悼の意の表明こそ、鈴木提督が何故、その高齢にかかわらず、現在の難局を乗り切って国家を導いていくために、国政の手綱をゆだねられたのか、という事情の説明となるものである。同盟の記者が直ちに幹事と田というのはこのことだった。」

「この弔意の表明は、なぜ、彼が、自分は政治に経験がないからと言明したにもかかわらず。結局退任を引き受けたのか、ということの説明にもなる。言い換えれば、彼がこの任務を引き受けたのは日本の戦争目的の達成と、全民族の安寧のために、自らのなし得る限りを貢献せんと志してのことである。」(訳 小堀桂一郎氏『宰相 鈴木貫太郎』(文春文庫1987年刊)より引用)

・・・・

ここで注目すべきは、ワシントンポスト紙、ニューヨークタイムズ紙ともに、東京の同盟通信が北米向けに流した英語放送からの記事であり、確かに、鈴木首相は、アメリカ大統領の訃報に接して、いち早く、弔意を述べたことは確かだということである。

しかし、なぜか、日本側のこうした、鈴木貫太郎が、アメリカに弔電を打ったという事実は、まったく記録がないのだ。これは不思議なことだ。繰り返しになるが、ニューヨークタイムズ紙、ワシントンポスト紙が、同じ日本の同盟通信の傍受からの記事として発表している以上、この放送は確かに存在したのである。

日本の首相が、敵国の大統領の死去に哀悼の意を表したという事実は、海を越えて、意外な広がりをみせる。

 

ひとつは、スイスのバーゼル報知の主筆で、元外相だったエリー氏が、社説で、この事実をヒトラー・ドイツのひどいいいがかりと比べて、なんと武士道の騎士精神が残っていることだろうとたたえていることだ。社説曰く

・・・・

「日本の首相のこの心ばえはまことに立派である。これこそ、日本武士道精神の発露であろう。ヒトラーがこの偉大な指導者の死に際してすら誹謗の言葉を浴びせて恥じなかったのとは、何という大きな相違であろうか。連日にわたってアメリカ空軍の爆撃にさらされながら敵国アメリカの元首の死に哀悼の意を表することを忘れなかった。日本の首相の礼儀正しさに深い敬意を表したい」(笹本俊二『第二次世界大戦かのヨーロッパ』岩波書店より引用)

・・・・

この新聞の記事の本物は、未発見であるが、当時スイス在住の日本人 笹本俊二氏が、このバーゼル報知のことを著書『第二次世界大戦下のヨーロッパ』(岩波書店)で、本に書き残していることからわかる。

 

もう一つ、ナチスから逃れた文豪トーマス・マンが、アメリカ・カリフォルニアからのドイツ向け放送のなかで、このことを取り上げていること。

・・・・

「あの東方の国は騎士道精神と人間の品位に対する感覚が死と偉大性に対する畏敬がまだ存在するのです」(伊藤利男訳 『トーマス・マン全集』第10巻より 新潮社刊より引用)

・・・・

さらに、アメリカのスポークスマンと自称するザカライアス大佐の、対日本向け宣伝放送のなかでも、この事実が取り上げられ、鈴木貫太郎とザカライアス大佐は、以前知己があったといっていること。

SUZUKI MATOME1

ルーズヴェルト大統領逝去に関するトピックのまとめ。

 

さらに、さらに、ニューヨークタイムズ紙は、駐日英国大使クレーギー氏の発言として、鈴木内閣を単純な軍国主義内閣とはみなかったこと。和平内閣で太平洋の両岸に平和をもたらしてくれる人物という観測をのせたこと、鈴木内閣は、日本国内よりもアメリカ国内に於いて期待が高まっていたと考えてもおかしくない。

これは、小堀氏の著書によると、同盟通信の記者に、鈴木貫太郎が直接命じ、話してきた聞かせたという談話に、同盟通信の記者がえらく驚き、感動して、英語に訳したとされている。4月13日に逝去したばかりの放送だから、時差があったとしても、わずかな時間で、アメリカに放送しているということから、もしかすると、同盟通信は情報局や憲兵隊の検閲をうまくくぐりぬけたか?あるいは、検閲されたとしても、まさか鈴木貫太郎首相自身の談話だからという理由であまり事細かに詮索されていなかったか?で、放送されているのではないか?

そして不思議なことに、鈴木貫太郎のこのアメリカ向け談話について、鈴木首相の内閣書記官長・現在の官房長官にあたる、内閣書記官長 迫水久常の記述のどこにもこの放送のことが触れられていない。そして、鈴木貫太郎の談話を取材して英語に翻訳した同盟通信の記者の名前も、ついぞ判明していない。もしかすると、後々のことを恐れて、同盟通信側でも記者を護る為に、あとあとまで秘匿したという可能性さえある。

これらの事実からみえてくるのは、

確かに鈴木首相のルーズヴェルト大統領の死去に対する弔意はあったこと。

さらに、弔意には、鈴木首相の戦争終結への思いが込められていることを、NYタイムズが報じていること。

アメリカの新聞の論調は、鈴木内閣の出現が、それ自体が平和への序曲と書いていること。鈴木内閣が、ナチス・ドイツがドイツ人に対してより、より多く日本と日本人に配慮する人々であること。

それを勇気をもって放送原稿に英訳した、同盟通信の日本人記者が確実にいたことである。

 

鈴木貫太郎

鈴木貫太郎は海軍大将でありながら常に背広姿だった。

鈴木貫太郎(1868(慶応3)年—1948(昭和23)年・プロフィール

鈴木貫太郎は首相就任当時79歳と高齢であり、耳が遠かったという。

経歴:1888(明治21)年 日清戦争水雷艇で従軍

1903(明治36)年 ドイツ留学

1904(明治37)年 日露戦争出駆逐艦指令でロシアスワロフを撃沈

1905(明治38)年から4年間 在アメリカ駐在武官

1918(大正7)年 練習艦隊を自ら率いて、アメリカサンフランシスコを親善訪問している。

1924(大正13)年 連合艦隊司令長官

1930(昭和5)年 ロンドン軍縮会議時の海軍軍令部長1936(昭和11)年の2.26事件の際には、天皇の側に仕える侍従長として、反乱軍の銃弾を2発受けたが、奇跡的に命を取り留めている。

1945(昭和20)年4月7日から8月15日 第42代内閣総理大臣

宰相 鈴木貫太郎 小堀桂一郎著

1987年文春文庫・絶版 本書を神保町ではなく北海道苫小牧の古書店で見つけた。いい本はこんな所に埋もれているものである。

参考資料 小堀桂一郎著『宰相 鈴木貫太郎』(1982年8月文藝春秋社刊1987年8月文春文庫)。著者の小堀桂一郎氏は、1933年生まれ。執筆当時、東京大学教養学部教授で2004年名誉教授。専攻は日本思想史 本書で1984年第14回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。近著に『鈴木貫太郎−用うるに玄黙より大なるはなし』(ミネルヴァ書房)2016年がある。

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映画『HIROSHIMA』で鈴木貫太郎を観る Ⅱ

映画『HIROSHIMA』で鈴木貫太郎を観る


 

 

 

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