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北方領土の私的検証(その5)ポツダム宣言・日本降伏文書調印前後の千島

2019 JAN 12 20:20:16 pm by 野村 和寿

第2次世界大戦前、日本では、千島諸島をどうみていたかを、まず見ておきたいと思います。左記と、下図は、1924(大正13)年日本地図帖(小川琢治編著 成象堂刊)国立国会図書館蔵です。左図は、「千島列島とは択捉(えとろふ)島以下30余の島々をいう」とあります。「その北東端は、占守(しゅむしゅ)島は、千島海峡を隔ててロシアのカムチャッカ半島と相対している。この列島は千島火山脈がとっていて、地勢が険しく、地味もやせ、冬の寒さもはげしいから、住民も少なく陸上の産物もきわめてすくない。けれども、さけます等の水産物が多いから夏の間は漁業のため各地からここに来るものが少なくない」と解説しています。

1924(大正15)年日本地図帖 小川琢治編 成象堂より 本稿第2回で書いた1875年の千島樺太交換条約では、千島諸島の北側 ウルップからシュムシュ島までの18島と新たに日本領とすることが明記されています。

赤く囲った部分に「千島諸島」という文字が見えます。

上記1924年の千島諸島の解説では、「千島は、30余の島々からなる」となっていて、島の数の違いからして、1924年時点では、樺太千島交換条約で日本が獲得した18島に加え、もともと千島諸島南部(南千島)も含めて、その全部を指し千島諸島を指していると考えられます。

私的検証その2まででお伝えしたように、樺太千島交換条約によって、1875(明治8)年に千島諸島全島を獲得した日本は、当然、千島諸島を地図上でも、日本領として、明記しています。

下図は、赤く囲った部分に、千島諸島という文字が見え、黒く囲った部分が、歯舞諸島と色丹島の地図になります。つまり1924年時点では、千島諸島は全部日本領、歯舞諸島と色丹島は、千島諸島とは別の表記で記載されていました。

話はポツダム会談に移ります。

ポツダム会談の様子。1945年7月

ポツダム会談は、ナチス・ドイツ降伏後の1945年7月17日から8月日にかけて、ドイツ・ベルリン郊外ソ連占領地域に米国、英国、ソ連の3カ国の首脳が集まって開催されました。米国は、ルーズベルト大統領死去にともない、副大統領だったトルーマンが大統領として参加、英国は、チャーチル保守党首相から7月26日から選挙で勝利した労働党のアトリーに変わっています。

1945年7月26日 連合国側からポツダム宣言(正式には日本に発された日本への降伏要求の最終宣言・米英支三国共同宣言)が通告されます。ポツダム宣言は、ソ連に相談がなかったのです。米英からすると、いまだ、日本との中立条約中のソ連は中立の立場であるから、宣言を起草する立場にないという理由からです。(ソ連は署名していません。遅れて追認しました)

ポツダム宣言第8条に「カイロ宣言の条項は履行されるべきであり、又日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに我々の決定する諸小島に限られなければならない」とされます。カイロ宣言(1943年)の内容が引き継がれ、その後のヤルタ秘密協定(1945年2月11日)の内容は踏襲されませんでした。

戦艦ミズーリ号上の重光外相・梅津参謀総長ほかの日本全権団

ここで問題となるのは、漠然と示されている「我々の決定する諸小島」の範囲です。1945年9月2日東京湾・米国戦艦ミズーリ号上で開かれた降伏文書とともに、連合国最高司令官SCAP一般命令第1号にも日本政府は署名しました。

1946年1月29日に発布されたSCAPIN(スキャッピン)677号 「若干の外かく地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚え書き」では、

日本の行政権の行使に関する範囲として「千島列島、色丹島、歯舞島」が除かれています。(SCAPの上部組織である1945年12月に設置された極東委員会には軍事作戦行動や領域の調整に関する権限が与えられていない。それを踏まえて、この文書の第6項には「この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない」と、これがあくまでも暫定的な指令である旨が明示されています。

また1946年2月13日になって、極東委員会は「SCAPINが領土決定に関する決定ではない。領土の決定は講和会議によって決定される」と回答しています。

しかし、このSCAPIN677号が、ヤルタ密約とともに、「千島諸島はロシア領で領土は決定済み」という現在なお、ロシアの主張の根拠の一つとなっているのです。

そこで、日本政府は、敗戦後正式な外交ルートを持たなかったのですが、米国に対して占領期間中に英文調書を占領軍に7冊送り続けました。このうち3冊が北方領土を扱っていました。

占領軍に送った英文調書①1946年11月「千島列島・歯舞・色丹」

②1949年1月「樺太」③1949年9月「南千島・歯舞・色丹」の3つです。後年1951年10月19日の衆議院外交委員会で、吉田首相が「千島列島の件につきましては、外務省としては終戦以来研究いたして、日本の見解は米国政府に早くすでに申し入れております」と答弁していますし、1956年3月10日衆議院外務委員会で、政府委員の下田武三委員が「占領中から歯舞・色丹はじめ領土問題につきましては、7冊の民族的にも歴史的にも地理的にも経済的にも、あらゆる角度から検討をいたしました資料を準備いたしまして、アメリカに出したのであります」と証言しています。

しかし、該当文書は、今に至るも、外務省は非公開とされており、今では、該当文書があったかなかったのかさえも、ノーコメントになっています。

(平成十八(2006)年2月24日受領 質問主意書・答弁第72号内閣衆質164第72号より  御指摘の調書の存否を含め、平和条約の締結に関する交渉(以下「交渉」という。)の内容にかかわる事柄について明らかにすることは、今後の交渉に支障を来すおそれがあることから、外務省としてお答えすることは差し控えたい。)

ところが、その該当文書のうちの1946年11月「千島列島、歯舞・色丹」文書が、1994年になって、オーストラリアの公文書館で、カナダ・ウォータールー大学・原貴美恵教授(専門アジア太平洋地域の国際関係)によって発見されました。

下記の図が、1946年11月に外務省が、米国(占領軍)に提出した「千島列島、歯舞、色丹」に付随する千島諸島の説明図です。詳細は次回に行わせてください。

1946年日本外務省調書 表紙と掲載地図

 

北方領土の私的検証(その4改)ヤルタ秘密協定

2019 JAN 5 12:12:50 pm by 野村 和寿

今度は、ヤルタ会談を時間軸の中心に、ソ連側から動きをみていくことにします。

その前に1941年に締結された日ソ中立条約について言及します。

日ソ中立条約 写真:中野文庫所収

ソ連側モロトフ外務人民委員(外務大臣)、日本側建川美次駐ソ大使、松岡洋右外務大臣によって、1941年4月13日にモスクワで締結された日ソ中立条約は、当初、日ソ不可侵条約締結をめざしていたところ、ソ連側は、条約締結の代償に、「千島諸島の引き渡しを要求」したが、日本の拒否によって、日ソ中立条約締結になったいきさつがありました。(それだけ千島諸島は当初からソ連には是非とも我が領土にしたいと思っていた場所だったことがわかります)

 

有効期間は1941年4月25日から5年(つまり1946年まで)であり、その満了1年前までに両国のいずれかが廃棄を通告しない場合は、さらに次の5年間、自動的に延長されるものとされていました。

日ソ中立条約締結後も、ソ連は日本軍の動きを警戒していましたが、日本はドイツとソ連の戦争の成り行きを見守りつつ、ソ満国境に軍隊を集結させ、こととしだいによっては、ソ連をドイツと日本で挟み撃ちにするという機会をうかがっていました。しかし一方では、ソ連に米国から援助物資、武器弾薬を運ぶ米国の輸送船を、監視してはいたのですが、攻撃することはありませんでした。それでも日本は、宗谷海峡からソ連軍をしめだしていて、1941年から1944年までに日本軍に沈没または抑留されたソ連船は178隻におよびました。。

ヤルタ会談にもどります。

ヤルタ会談は、1945年2月4日から11日にかけて、ソ連のクリミアの避暑地ヤルタ郊外のリヴァディア宮殿で、アメリカ・ルーズベルト大統領、イギリス・チャーチル首相、ソ連・スターリン書記長の間で行われました。主に、ドイツの戦争後の処理について、利害を調整するのが目的でした。しかし、2月8日 極東密約と後世呼ばれるソ連による対日戦争参戦が確認されました。

1945年2月8日というのは、きわめて微妙な日にちであります。

対日戦は終末に向かって突き進んでいたをとはいえ、B29爆撃機による大規模な東京大空襲は、1944年11月24日以降に激しくなってきましたが、3月10日をはじめとする、大規模空襲はまだ行われていませんでした。

沖縄戦は、1945年3月26日から6月23日に戦われたが、2月8日にはまだ戦われていません。

原爆製造計画 マンハッタン計画は、初の原爆実験が行われたのは1945年7月16日でした。

つまり、1945年2月8日には、上記のいずれもまだ実施されていませんでした。そこで、日本上陸作戦で予想される連合軍の死者は、25万人と推定されていました。

そこで、アメリカ・イギリスはどうしても、ソ連の日本への参戦を切望し、これまでにもモスクワ3国外相会談1943年10月でも、ソ連参戦を申し入れています。

ソ連は、ドイツ降伏後2〜3ヶ月後に参戦することを確認。たしかに、ドイツ降伏が1945年5月、3ヶ月後の1945年8月8日に、ソ連は日本に宣戦布告しています。

ヤルタ密約では、ソ連の日本への参戦と引き換えに、樺太南部、千島諸島をソ連に引き渡すことが取り決められています。(2019年の現在でも、ロシアのラブロフ外相が、北方4島について、ロシア領を主張の根拠にもなっているのです)

ヤルタ密約は、アメリカ・ルーズベルト、英国チャーチル、ソ連スターリンの署名がある文書が存在します。しかし、このヤルタ密約は、日本には知らされておらず、公表されたのは第二次世界大戦後の1946年のことなのです。

しかも、トルーマンの国務長官だったジェームズ・F・バーンズ(1945−1947年)さえも、ヤルタ密約のことを国務長官になるまで聞かされていませんでした。

最近の新聞記事『米英の弱みにつけ込んだソ連 お墨付き得て北方4島占拠』(産経新聞2017年2月23日付け)が、大変興味深いことを報道しました。

産経新聞2017年2月23日付け記事より

それによると、1946年2月9日付け、英国全在外公館へ送られた電報のなかで、

ヤルタ密約が1941年ルーズベルトとチャーチルの間でかわされた領土不拡大をうたう「大西洋憲章」に抵触するというのです。ルーズベルト米大統領は、大統領権限を超えて米議会の承認なく、ヤルタ密約に署名したために、3人の合意の有効性に論議がおこるかもしれないとされているのです。

▇第二次世界大戦中に連合軍首脳が会談した主なものは、

カサブランカ会談 1943年 1月(当時フランス領)

カイロ会談 1943年 11月(エジプト王国)

テヘラン会談 1943年11月(当時パフラヴィー朝)

ヤルタ会談 1945年 2月(ソ連)

ポツダム会談 1945年7月(ドイツ・ソ連占領地域)

ヤルタ会談 1945年2月

 

ここで改めて注目するのは、当事国または占領地域で行われた会談は、ヤルタとポツダムだけということ。どちらも、ソ連領、あるいはソ連占領地域であります。

これはやはりソ連になにか有利なのではないか?ということです。

 

さらに調べを進めると

アメリカのルーズベルトの随行員で、ヤルタ会談のまとめ役の人物が米国務省のアルジャー・ヒス(1904-1996年)という人物でした。ヒスは、後に、ソ連のスパイだったことがわかっています。ルーズベルト大統領をあざむくことに成功し、千島諸島はソ連の領有となることが、ヤルタ密約で戦後秩序を決める首脳会談を取り仕切ったことになります。

ヤルタ密約は、1951年米議会で破棄され、これにより、ソ連の千島諸島に対する主張は根拠を失ったことになります。

米国国務省ヤルタ会議の準備を担当 ソ連スパイ(1904−1996年)

アルジャー・ヒス:米国国務省ヤルタ会議の準備を担当 どうしてわかったかといえば、アメリカ陸軍情報部と英国情報機関が、ソ連と米国内のソ連スパイとの間の交信、ペノナ文書の解読で、ヒスのスパイ活動は米国政府のモイニハン委員会によって証明されている。戦後、1948年 米下院非米活動委員会(赤狩り)に喚問され、実際にソ連のスパイ活動を行っていたことが、元アメリカ共産党員によって暴露された。(スパイ行為については、出訴期限がつきたため1992年になって無罪)(参考資料 有馬哲夫早稲田大学社会科学部・社会科学総合学術院教授。小学館・SAPIO2016年3月号より)

千島諸島地図

▇ソ連対日参戦後の動きをまとめておきます。

8月8日ソ連モロトフ外相 佐藤尚武大使に、宣戦布告書を伝達

8月9日午前7時30分 ソ連による最初の日本攻撃は、樺太・敷香(しすか)町・武意加(むいか)の国境警察に加えられた。北部方面軍 積極先頭を禁ず 専守防衛的。

8月10日午前11時52分 東京・外務省をマリクソ連大使が訪ね、宣戦布告書を手交

8月11日 樺太中央部 半田集落、および、西海岸・西柵丹村(にしさくたんむら)安別(あんべつ)にソ連軍侵入。陣地防御を実施。

8月14日 日本ポツダム宣言受諾

8月15日 終戦証書発布。日本・第5方面軍戦闘停止 自衛戦闘に移る。

8月16日 塔路(とうろ)町・恵須取(えすとる)郡へソ連軍上陸作戦。

8月18日 千島諸島北部占守(しゅむしゅ)島に、ソ連軍揚陸艇・航空機で上陸作戦開始、日本軍はソ連軍に対し水際防御を行い、ソ連軍の艦艇13隻を沈没させる。

8月20日 真岡へソ連軍上陸 真岡郵便電信局電話交換女子が集団自決事件発生。自衛戦闘続行。

8月21日 樺太・停戦実現 日本軍武装解除

8月22日 知取(しるとる)町で、停戦協定結ばれた後、豊原駅前の赤十字テントにソ連軍機空爆、多数の死者が出た。樺太からの引き揚げ船 小笠原丸、第二興丸、泰東丸が、留萌沖でソ連軍潜水艦から攻撃をうけ1708名の犠牲者。

8月25日 千島諸島・松輪(まつわ)島へ上陸開始

8月29日 千島諸島・択捉(えとろふ)島へ上陸開始

8月31日 千島諸島・得撫(うるっぷ)島へ上陸。日本軍守備隊降伏。

9月1日から4日 国後島・色丹島 占領完了

9月2日 東京湾戦艦ミズーリ上で、降伏文書調印

9月5日 歯舞群島占領

ここまでで、ソ連軍は、南樺太、北千島、択捉(えとろふ)、国後(くなしり)、色丹、歯舞全域を完全に支配下においた。

まとめますと、前回登場した、元外交官天羽英二氏の言のよれば、「ソ連に終戦の仲介を依頼するために行われた1945年6月3・4日の廣田・マリク会談のうらをかかれ、ポツダム宣言をつきつけられて目が覚めた我が指導階級の迂闊(うかつ)さは、すでに批判の余地もあるまい」日本側のソ連側への中立・連合国側への調停依頼の際にだした条件は、連合国米英がソ連側に出した条件にくらべて、あまりにも少なく、廣田・マリク会談は、ヤルタ密約の後に行われたのであって、結果として、廣田の頑張りと努力にもかかわらず、まったく意味をなさなかったといわざるをえません。

 

かねてより疑問に思っていたことですが、1945年5月9日の対ドイツ戦争終戦から、わずか3ヶ月で、ソ連は、兵力40万人、迫撃砲7137門、戦車・自走砲2119両、飛行機1400機を、極東に移動させました。大規模な移動は、満州を制して、南サハリンを解放し、さらに千島列島を占拠することでした。ソ連は、いったい、海をわたって、千島列島にどうやって兵員や火器を移動させることができたのでしょうか?

米国からソ連に貸与された哨戒艇 ルーズベルト米大統領の死去にともない、半旗を掲げているのが見て取れる。”PROJECT HULASecret Soviet-American Cooperation in the War Against Japan”より

元となったのは、2003年にアメリカ・ワシントンにある”Naval Historical Center Department of the Navy(海軍歴史広報センター)”が発行した”Project Hula Secret Soviet-American Cooperation in the War Against Japan(プロジェクト・フラ 対日米ソ共同秘密作戦”で、筆者は、Richard A Russel 氏(元米海軍)でした。

これまでの「米ソのヤルタ密約後の動きでは、米国が3年半に渡る対日戦を戦ってきたのに、大した犠牲も払わずに終戦直前に参戦して、ソ連がヤルタで約束した利益をごっそりともっていくのは、あまりに理不尽と考える米国は、ソ連をなるだけ参戦させないうちに、日本との戦争を終わらせてしまおう」という考えが定説だったのです。ところが、ソ連軍による千島占領作戦に米国が掃海艇55隻、上陸用船艇30隻、護衛艦28隻をソ連に貸与、しかも米国アラスカ州コールドベイでソ連兵1万2千人の訓練も行っていたという事実でした。

この驚くべき事実は、北海道新聞2017年12月30日に掲載されました。「ソ連の北方四島占領、米が援助 極秘に艦船貸与し訓練も」という記事です。根室市内の道立北四島交流センター(北海道根室振興局)で2018年1月19日から2月2日にかけて公開されました。

つまり、終戦間際のソ連に対日参戦に、米国は了解していただけで亡く、ソ連に援助もしていたということである。千島に対する占領も、ソ連が勝手に行ったわけでなく、米ソをリーダーとする「連合国の作戦」として行われたことになります。2018年12月日付け「週刊金曜日」にも「ソ連軍の千島占領と米ソ極秘共同作戦 〜多くの日本人の記憶から抜け落ちた」と題する記事が掲載されました。この記事によりますと、「ソ連に貸与された米国の艦船の多くは1955年に米国に返却されたが、その後、

米海軍から貸与された海上自衛隊くす型PF
護衛艦 写真は同型の護衛艦「もみ」

創設されたばかりの、日本の海上自衛隊に18隻が「くす型PF護衛艦」としてさらに貸与された」そうです。

米国・ソ連・日本、歴史の皮肉とかんじさせます。いずれにしても、このヤルタ秘密協定はここにきて、新たなる解釈の見直しが必要になってきているようです。

 

 

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『バトル・オブ・ロサンゼルス』を知っていますか?その②

2017 APR 4 21:21:01 pm by 野村 和寿

前回に引き続き、『バトル・オブ・ロサンゼルス』その②です。

米英戦争(1812−1814年)以来、2001年9.11の同時多発テロまで、アメリカ合衆国本土が、攻撃を受けたことは数えるほどしかありません。その唯一の例外が、日本海軍によるカリフォルニア攻撃でした。1942年2月23日に、伊号第十七潜水艦による、米国カリフォルニア州への砲撃が行われています。

さらに調べてみると、1942年9月9日、および9月29日、潜水艦に格納された零式小型戦闘機1機が、オレゴン州とカリフォルニア州を襲い、2発の焼夷弾を投下しました。この都合3度の攻撃こそ、ただ1度のアメリカ本土攻撃でした。ハワイ真珠湾の陰に隠れてあまり知られていない、アメリカ本土攻撃について興味をもちました。

伊十七潜水艦による米本土砲撃を図示してみました。

エルウッド製油所を砲撃した伊号第十七潜水艦

 

エルウッド製油所の攻撃前、1928年撮影された資料写真です。

この絵は、AMERICAN OIL&GAS HISTORICAL SOCIETYのホームページ

Japanese Sub attacks Oilfieldで読むことが出来ました。

1942年9月9日(水曜)午前4時 今度は日本海軍伊号第二十五潜水艦(第十七とは別の艦に搭載されていた、零式小型水上偵察機が、米国西海岸カリフォルニア州からオレゴン州にかけて93㎞の内陸部ブルッキングズ市街の森林地帯 ウィラーリッジ上空に焼夷弾(合計155㎏)攻撃をして、焼夷弾2発を投下し2発ともに爆発しました。これにより小規模の火災が起きましたが、当地は、珍しく前夜から振っていた雨のため森林が湿っていたためにすぐに鎮火されてしまいました。さらに、同潜水艦は、1942年9月29日 ケープ・ブランコ沖合93kmから オレゴン州に2回目の焼夷弾攻撃を行いました。ケープ・ブランコ沖合93㎞から発進した零式小型水上偵察機は、内陸部に30分飛行し、オーフォード近郊の森林地帯に向かって 焼夷弾を2発投下しましたが、残念ながら、幸か不幸か米陸軍に発見されることはありませんでした。

 

焼夷弾攻撃を行った戦闘機は、零式小型水上偵察機です。(写真ウィキペディアより引用)

 

伊第二十五潜水艦から発艦した零式小型水蒸気による米本土攻撃を図示してみました。

 

米本土攻撃2

1942年9月29日日本海軍航空機による米本土攻撃2回目

 

 

まとめてみますと、

日本海軍による本土攻撃2

日本海軍による米本土攻撃をまとめてみました。攻撃は、日本の1942年9月17日付けの朝日新聞にも紹介されています。

 

 

朝日新聞1942年9月17日付け記事(クリックすると拡大して読むことが出来ます)

朝日新聞1942年記事2

朝日新聞1942年9月17日付け記事その2(クリックすると拡大して読むことが出来ます)

確かに、日本海軍による1942年の3度にわたる米本土攻撃は、今に成って思えば、限定的にとどまるといわなければなりません。しかし、米西海岸一帯を不安定な状態に陥れる。米海軍は貴重な戦力を西海岸の警備に割くことになりました。

ところで、『1941』(1979年アメリカ)という映画をご存じでしょうか?スティーブン・スピルバーグ総指揮・ロバート・ゼメキス監督、ジョン・ベルーシ、ダン・エイクロイド、クリトスファー・リー出演です。スピルバーグ唯一の大こけ作品ですが、今でもカルト的人気をもっている映画でもあります。なかで、ハリウッド攻撃のために派遣された日本海軍の潜水艦が、羅針盤を壊してしまうという喜劇ですが、艦長を堂々と演じているのが、日本が誇る三船敏郎でした。その三船は、このドタバタ作品の中で、一度も笑うことがなく、まじめに艦長を演じています。登場しているシーンも入っている一部の映像を貼り付けておきます。なぜ、この『1941』が失敗作に終わったかという一因に、ロサンゼルス攻撃つまり『バトル/オブ・ロサンゼルス』が、映画公開が、この事件から37年後に至るも、アメリカ人にとって、あまりにもなまなましい記憶であり続け、とても笑いの対象ではなりえなかったというのがありました。一度も笑っていない三船敏郎をご覧ください。

参考文献 伊四〇〇型潜水艦 最後の航跡 上巻・下巻 ジョン・J・ケーガン 秋山勝訳 草思社 2015年刊

参考ホームページ 「アメリカン オイル&ガス ヒストリカル・ソサエティ」アメリカ 史学協会 写真 ウィキペディアより引用

*なお米国西海岸への日本海軍の攻撃は、1942年から46年まで実施された日系人収容の口実ともなりました。1988年レーガン大統領は、日系アメリカ人保障法に署名し、1992年ジョージ・ブッシュ大統領は国を代表して謝罪、1999年までかかって賠償金が支払われました。

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『バトル・オブ・ロサンゼルス』を知っていますか?その①

2017 APR 4 20:20:26 pm by 野村 和寿

みなさんは「バトル・オブ・ロサンゼルス(ロサンゼルスの戦い)」という言葉をご存じでしょうか?1940〜41年に戦われた英国本土上陸作戦を前提として、戦われた「バトル・オブ・ブリテン」(英国空軍とドイツ空軍間による戦い)と呼ぶのは聞いたことがあるけれど、「バトル・オブ・ロサンゼルス」なんで聞いたことがないと思われるかもしれません。ロサンゼルス上空を日本軍の戦闘機が来襲したとすることを、「バトル・オブ・ロサンゼルス」と呼びます。

しかし実際のところ、「バトル・オブ・ロサンゼルス」は起こりませんでした。

結論的にいえば、単なる噂によるパニックでした。パニックを引き起こしたのは、ロサンゼルス・タイムスの新聞の号外記事でした。1942年2月25のことです。

ロサンゼルスタイムス号外1942年2月25日21時最終版

 

 

 

 

 

左写真が、ロサンゼルスタイムズの1942年2月25日21時最終版の現物です。翻訳してみました。下記の通りになります。

 

 

 

 

 

抄訳ですが紙面から読み取れる文字を追ってみました。下記の通りになります。

ロサンゼルスタイムズ1942年記事

 

 

 

「バトル・オブ・ロサンゼルス」をまとめると下記のようになります。

バトル・オブ・ロサンゼルス

バトル・オブ・ロサンゼルス(虚情報)をまとめてみました。

ところが、こんな記事も見つけることが出来ました。ロサンゼルスタイムズよりさらに、もっと地域の地方紙であるサンタ・バーバラ・ニュース・プレスの新聞記事です。1942年2月、詳細の発行日は不明です。

サンタ・バーバラ・ニュース・プレスを初めとする本記事は、AMERICAN OIL&GAS HISTORICAL SOCIETYのホームページ

Japanese Sub attacks Oilfieldで読むことが出来ました。

サンタ・バーバラ・ニュース・プレス1942年2月 発行日詳細不明

 

翻訳してみますと下記の通りになりました。この記事が本当だとすると、1942年2月23日(つまりロサンゼルスタイムズの記事に先立つこと2日前)に、日本海軍イ号第十七潜水艦が、石油貯蔵所を攻撃したとあります。

サンタ・バーバラ・ニュースプレスの新聞記事(本ブログで翻訳)

今回はここまでです。この話は、その2につづきます。

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