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『妖星ゴラス』(1962年)を今日的に観る その2

2018 MAR 3 9:09:39 am by 野村 和寿

その1はこちらです

妖星ゴラスが太陽系に侵入すれば、45日目の1982年2月中旬には地球に到達し衝突してしまう。そのときまでに地球は少なくとも40万㎞以上も軌道を大移動させなければならない。地球を動かすのに要する推力は660億メガトン、加速度1.10×10のマイナス6乗G。

国連科学委員会

NYで緊急開催された国連科学委員会。その席上で田沢博士は妖星ゴラスはこのままでいくと、1982年2月中旬に地球に最接近することを解く。背景の絵画は、アンリ・ルソーの絵画「戦争」のオマージュだと思われる。

これまで互いに争っていた米ソ両大国でさえ、地球それ自体の危機に際し、一致協力して、南極へのブースター群基地建設を急ぐのだった。

ロケット噴射口の高さは地上50m、面積は600平方㎞推力660億メガトンのジェットパイプで、これで100日間に40万㎞以上地球を動かす。世界各国から資材が続々と集結し建設された。

 

 

ブースター群基地は、ジェット噴射で、地球の軌道自体を動かしてしまおうという気宇壮大な計画。国連科学委員会の席上で、田沢博士(池部良)は、推力に水爆と同じ重水素と三重水素(無尽蔵の海水)を使い、巨大ブースター推進装置の基地からジェット噴射させれば、地球自身の軌道を変えることが可能であると諸外国の科学者たちに力説する。

 

さらに、妖星ゴラスの爆破計画も提案され、日本政府に、国連からなけなしのJX-2鳳号の派遣を要請される。妖星ゴラス爆破し、軌道を変えるべく出動。

JX-2「鳳」号

国連からの要請を受けてJX-2「鳳」号(写真左)が、妖精ゴラス爆破に向かう。母船「鳳」号のカプセル(写真右)が発射され金井隊員が妖星ゴラスに接近を試みるもあえなく失敗。母船はカpセルの回収には成功するが、乗組員の金井隊員は記憶喪失に。

世界が注目する中、JX-2鳳号は妖星ゴラスに接近、爆破を試みるが、重力が大きすぎて爆破は不可能。逆に、鳳号のカプセルで、妖星ゴラスへの接近を試みたが失敗。妖精ゴラスは、パロマ天文台発見当時は質量が6000G、JX-1隼号から送られてきたデータでは6100G、そして鳳号の観測データでは、6200Gと、惑星を吸収すながら肥大化を遂げていた。いまや地球の6200倍あることが観測で判明する。

JX-2鳳号乗組員で、偵察任務に出た、金井達磨隊員が、妖星ゴラスの輻射熱で、記憶喪失になってしまう。この「記憶喪失」というのも、なんだか、当時のネタという気もする。金井隊員は、幸運にもJX-2鳳号に回収され、無事地球に帰還するも、記憶は喪失されたまま。

金井隊員は、宇宙相の秘書でタイピストの野村滝子(水野久美)と幼稚園から高校までの幼なじみで、恋心もいだいていた。金井はすべての記憶を喪失しまっていた。なんとか記憶を呼び戻そうと奔走する滝子。

妖星ゴラスの重力により地球は既に膨大な被害をこうむっている。東京はほぼ水没。この映画のなかでの1982年2月に計算上妖星ゴラスと地球はぶつかる計算になる。

このままいくと妖星ゴラスは1982年2月中旬、地球に最接近するか最悪の場合衝突する可能性がある。日本宇宙物理学会の河野博士(上原謙)の新聞記事。

悲観した滝子(水野久美)は「いっそのこと妖星ゴラスと地球がぶつかっちゃえばいいのに」と嘆息する。妖星ゴラスと地球とが、衝突しないためには、あと36時間分の地球移動距離が必要と判明。足りない。さてどうなったのであろうか?

妖星ゴラスとの衝突を回避しようと試みる、南極のブースター群ジェット・パイプ基地は、100日間、総エネルギー660メガトンのジェット噴射で燃え上がることになった。

南極基地のジェットパイプ

南極計画 地球の軌道を変えるために、100日間噴射口の合計600平方㎞の噴射口から、推力660億トンのジェットパイプが勢いよく火を噴いた。

宇宙ステーションに設けられた「妖星ゴラス重力圏外観測本部」では、妖星ゴラスの地球接近を観測した。

妖星後ラス重力圏外観測本部

宇宙ステーションに設けられた「妖星ゴラス重力圏外観測本部」では、妖星ゴラスの地球接近を観測した。

重力圏外に設けられた観測本部では、地球が南極基地のジェットバルブ噴射により1.10×10の−6乗Gで地球の軌道が動き出したことが判明した。地球と妖星ゴラスの衝突はひとまず回避された。地球の軌道を元に戻すこれからが大変だというところで映画は終わっている。国連科学委員会からのメッセージ「皆さん、我々は勝ちました。妖星ゴラスは既に地球から離れようとしています。我らは全人類の平和への願いと協力によって勝ち得たこの勝利を永遠のものにしようではありませんか!」

1962年公開・東宝映画 監督・本多猪四郎 特撮監督・円谷英二 製作・田中友幸

 

*この映画の面白さ 時代背景が面白い

1979年のクリスマスでごった返す人混みのなかの、園田智子(JX-1「隼」号園田艇長の娘・白川由美)と野村滝子(宇宙省大臣秘書・水野久美)

ここで挙げられるのは1962(昭和37)年という『妖星ゴラス』が公開された年時代背景である。

確かにぼくの子どもの頃、昭和30年台には”Merry Xmas”などと飾って、頭に紙の帽子をかぶって、盛り場に繰り出すということがあった。今、考えればとても奇妙な日本のクリスマス的な風物だった。

映画公開当時の1962年から17年後の設定である1979年のクリスマスは、クリスマスの帽子をかぶった浮かれムードで銀座に繰り出す若者でいっぱい。宇宙パイロットは、アルバイトで、かぶりものの、ロボットのかぶりものに身を包み、サンドイッチマンをやっているという趣向。あくまでも未来はばかばかしいほどに明るい。

1956年に日本が南極観測を再開し、昭和基地を作ったことは、日本の国際社会への復帰を日本国民はこぞって喜んだ。

映画では、当時日本では最高の国際機関だと思われてもいた国際連合本部が登場する。1962年当時、日本は国際社会への復帰が国民大衆の大きな希望であったことが窺える。「国際連合」という戦後登場したインターナショナルな国際機関が、「希望の星」とみていた機運は確かに日本にあった。

国連科学委員会にはなぜか黒板が

国連科学委員会で妖星ゴラスの軌道を発表する**博士。黒板で発表するのが当時らしくほほえましい。熱心に働きすぎており、上司から「君ももう少し自分を大事に為なくちゃ」といわれている。この言葉は当時の映画によく出てきた台詞だった。

日本の英知では世界に貢献できる。ということも、湯川秀樹博士のノーベル物理学賞受賞以来日本が抱いていた希望だった。日本の学者が国際会議の席で、各国の代表のなかでも、指導力を発揮し、平和利用で地球的な規模の難題に立ち向かうという話も、当時的にはうれしかったのだろう。日本は戦争には負けたけれども、捨てたものではない知的な国家なのだと思いたかったのだろう。

パロマ天文台というのも、私たち男児には魅力的な名前だった。アメリカのカリフォルニア州サンディエゴにあり、当時世界最大の1.22mの反射式望遠鏡が完成したのは1958年のことだった。子どもの図鑑には必ずといってよいくらいパロマ天文台の写真が載っていたのものだった。

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写真上・国連という名前は1962年当時の理想の国際機関 映画内の「南極基地」にも国連のマークが見える。写真下・富士山麓宇宙港の建物。ロケは山手線内で一番高い建造物だった早稲田大学理工学部校舎が使用された。夢と現実をうまく組み合わせた例

妖星ゴラスの衝突を地球の軌道を変更することで、回避するというアイデアは、当時スタッフが東京大学理学部天文学研究室『妖星ゴラス』の軌道計算の黒板への板書は、当時最先端の権威、東大の理学部天文学科 畑中武夫教授門下・堀源一郎先生(のちに東大名誉教授)に、軌道計算を依頼した。大まじめにSF映画のスタッフが、ときの権威の門をたたいたこと。そして、ときの権威もそれ大まじめで応えたこと。これはかなり画期的といってよい。しかし、堀先生は、映画のために、計算に入ったが、なんど計算しても、妖星ゴラスが、地球と衝突してしまう計算になったために、軌道計算の修正になんとまる1日もかかってしまったとのことである。国際会議場で、田沢博士(池辺良)の背景に出てくる黒板への長い長い数値計算式は、実際の堀先生の板書とのこと。

ちなみに宇宙省富士山麓宇宙港の建物は、当時、東京の山手線内でもっとも高かった出来たばかりの早稲田大学理工学部の建物が使われた。この建物は、世界遺産ル・コルヴィジェの愛弟子でった建築学科の吉阪隆正教授の設計による建物群だった。

一方で、宇宙船に隼(はやぶさ)号とか、鳳(おおとり)号とか名前が付けられている。宇宙船内は、なんだか戦前の伊号潜水艦を思わせる作りで、蚕棚の乗組員居室、艦長の潜望鏡による宇宙視察など、さらには、通信や艦長の部下への命令下達の口調はなんだか、旧日本軍の命令口調と似ている。つまりまだまだ日本のなかに、戦前の日本軍のイメージがずいぶん色濃く残っていた。

地球は危機から脱した。すでに水没した東京を東京タワーから眺める野村滝子(水野久美)と、園田智子(白川由美)

1962年当時大人達がおおまじめで製作した『妖星ゴラス』は、1962年当時の大人と子どもの、日本の将来への夢がいっぱいつまった作品であったことは間違いない。

 

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『妖星ゴラス』1962年を今日的に観るその1

2018 MAR 3 9:09:40 am by 野村 和寿

『妖精ゴラス』(1962年公開 東宝映画)物語は1979年9月から始まる。もちろん1962年公開時点での1979年つまり17年後の近未来の話。すでに日本には宇宙省があり、宇宙開発への積極アプローチが発展途上にあった。宇宙省は、土星探索のためのロケットJX-1隼号を、11兆8千億円をかけて開発した。園田艇長をはじめ乗組員は総勢39名。秒速は11.2㎞、

JX−1「隼」号 当初の航程

1976年9月29日20:00富士山麓宇宙港より打ち上げた。

火星軌道通過は同年10月3日11:40、木星通過は同年10月8日01:00、

土星到着予定は同年10月15日14:00であった。土星まで17日間で到達する予定となっていた。

『妖星ゴラス』

『妖星ゴラス』公開時のポスター(1962年東宝)出演 池部良 上原謙 志村喬 白川由美 水野久美 久保聡 ジョージ・ファーネス

 

 

折から富士山麓宇宙港を飛び立った日本の宇宙船、JX-1隼号は一路、土星探検に地球を離れ、主エンジンを停止し慣性飛行に入る。

JX-1「隼」号

日本の科学技術の粋を集めて11兆8千億円の予算をかけて建造された土星探査船「隼」号。秒速は11.2㎞。内部は超アナログで、艇長は潜望鏡を上げて操作、三次元の方向指示装置がみえる。

ちょうどその頃、パロマ天文台がゴラス地球の4分の3の大きさだが、質量地球の6000倍もある黒色矮星ゴラスを、太陽系でいちばん遠い惑星冥王星(現在は準惑星扱いとなっているが)36分の方向で発見。

最寄りの宇宙船JX-1が、ゴラスの探査へと舵を切る。JX-1隼号はゴラスの引力圏へ接近。JX-1は最後に、驚くべき観測データを地球へ送信し消息を絶つ。

妖星ゴラス

ゴラスはいわば老年期に入った太陽。なお表面は千数百度の熱を発している。質量は6200G。ゴラスの重力に、JX−1隼号は乗組員もろとも引き寄せられていく。

ゴラスの影響で地球に壊滅的な被害が出ることが判明したのだ。JX-1隼号のあえなく、覚悟をした乗組員39名から万歳を叫ぶうち、隼号の園田艇長とともに妖星ゴラスへと飲み込まれ乗組員は全員ゴラスの犠牲となる。園田艇長の娘・園田智子(白川由美)は、父の突然の訃報を知る。

 

その2につづく

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成瀬巳喜男の『銀座化粧』を観る

2017 JAN 6 2:02:28 am by 野村 和寿

『銀座化粧』成瀬巳喜男監督

1951年公開当時、田中絹代(41歳)、香川京子(19歳)、成瀬巳喜男監督(45歳)だった。

小津安二郎(1903-1963年)と並んで、昭和の名匠の一人に、成瀬巳喜男(1905-1969年)がいます。小津が、ノーブルな古くからの伝統的な肌合いを求めたのに対し、成瀬は、登場人物1人1人の個性に優しい眼差しで臨んだ監督であるとボクは思っています。ストーリーだけに終わる現代の映画とはずいぶん違います。まずは、全体の感じ、雰囲気こそ大事という姿勢なのです。

『銀座化粧』は、昭和26年に成瀬が新東宝で撮ったわずか87分の佳作です。ボクは、一度観たときは、いったいどこが面白いのか皆目見当が付きませんでした。その主たる理由は、公開当時の昭和26年頃の銀座の風俗があまりにも今とかけ離れていて、別世界の出来事のようでシンパシイが湧かずじまいだったこと、そしてなんのストーリーもないという、普段はどうしてもストーリーを追いかけている我が身にとっては、まことにつらい映画だったのですが、再見するにおよび、随分と感じ方が異なりました。この映画を好きになっていく自分がいました。

本作には、とにかくたくさんの子どもたちが登場します。チンドン屋や、紙芝居屋に群がる子どもたち、歌いながら登校する通学途上の子どもたち、バーにやってくる美空ひばりのような子役歌手、花売りの少女、その数は、ベビー・ブーマー正にそのもので、今よりも子どもの数がずっと多く、街のあちこちで子どもを見かけることができます。

新東宝『銀座化粧』(1951年公開)

新東宝『銀座化粧』(1951年公開)写真左上の青年・石川京助役は、堀雄二は。後年、TBSテレビの「7人の刑事」の捜査一課長役だった役者の若き日の姿です。

 

銀座の近く、今の中央区新富町と思われる、湾岸沿いには、遠くに聖路加病院の教会堂の塔がみられ、子どもたちの遊び場である空き地がたくさんあり、台場への漁も行われていました。子どもたちはどのシーンでもみんな元気で、けなげで素直なのです。

主人公津路雪子(田中絹代)の息子春雄(子役・西久保好汎)も、明日、上野動物園に連れて行ってもらえる約束を反故にされたり、無断で、お台場へ漁師にくっついて、魚をもらってきて、親の雪子をはじめ周囲の大人たちを心配させたりします。しかし夜母親が不在でも自分で自分の布団を敷いて就寝するといういい子でもあります。

津路雪子は、今で言えばシングル・マザーの走りであり、小学生の男の子を細腕一本で養う為に、銀座のバー・ベラミで夜、女給をしています。

女給にとって、本来、子どもは足手まといな存在なのですが、その子どもの視点で、大人をみつめ、しまいには、人間というものは、大人も子どもも、たくさんの人々の一員として、大事な存在なんだと観客に気づかせてくれるのです。

銀座のバー・ベラミは、昭和17、8年からこの場所にあった場末のバーです。女給たちの間での客の飲み代の踏み倒し、女給たちの客への小さな嘘、バーの身売り話、借金の用立てをする話、客の下手な歌を延々と聴かせられる話など、その一つ一つは実に細々としたごくごく普通のエピソードに過ぎません。

年増の女給・雪子は、年の頃なら40歳くらいの設定です。つきあっていた情夫が、雪子に子どもができたことで、冷たくなり、今は、新富町の長唄の師匠宅の2階で母子二人で借家暮らしをしています。既に落ちぶれた元の情夫・藤村(三島雅夫)はときどき金の無心に、雪子の元へとやってきます。さらにまだ若い女給・京子(香川京子)も2階に同居しています。

大家の長唄の師匠の亭主は競輪に夢中ですってばかりいましたが、一度だけ大穴をあてます。そんな日もあるのです。

当時の銀座のバーの女給といっても、春を鬻(ひさ)ぐなどということは一切なく、自分の身を大切にし、身を売るなどということは良しとせず、囲われ女の口もくるにはくるのですが、決然として、自分の女としての矜持と誇りとをもって銀座に生きているのです。

地方の素封家の次男坊で、独身の測候所に勤務する青年・石川京助(堀雄二)が、上京してきて、わけあって、替わりに、田中絹代が東京案内をすることになります。青年の役は、後年、TBSテレビの「7人の刑事」の捜査一課長役だった役者の若き日の姿です。雪子は、学究肌の石川青年を上野動物園や、銀座通りを案内するのですが、通りかかった自分が女給をしているバー・ベラミが、フランスのモー・パッサンの同名小説の主人公の名前(美しい男友達といのが原意)だということを初めて聞かされます。純粋な石川青年に少し心ときめく雪子でしたが。子どもが行方不明になったおかげで、新橋演舞場に石川を連れて行けなくなり、さらに替わりに案内を、若い女給・京子(香川京子)に任せます。若い青年男女は、ギリシャ神話の星座の話など、星空の話で盛り上がります。若い石川と京子が意気投合するのに時間はかかりませんでした。

二人は意気投合し、恋仲となり、あえなく雪子は元の生活へ。

雪子の息子も台場への漁に行っていた船にのせてもらっていたとかで、無事雪子の元へ。そして、また普通の生活が始まります。

銀座に暮らす有象無象の人々、銀座には、多くの人間が生計をたてており、その生活そのものは、極く些細なことの積み重ねに過ぎません。それは、ちょうど、幾百万のごく弱い光しか放たない星たちが、夜空にはたくさんあるかのように。

情夫の藤村は自分の子である春雄に小遣いをあげようとして、三つ揃えの背広のポケットをあちこちまさぐりますが、手持ちは小銭さえもありません。あきらめて、去って行くのがラストです。

▇もしも、本作品をのぞいてみたくなりましたら、下記よりYou Tubeで、本編を観ることが可能です。


『銀座化粧』その1 本編映像その1はこちらから


『銀座化粧』その2 本編映像その2はこちらから

ストーリーを追うのではなく、一人一人の心情にスポットを当て、淡々と始まり淡々と終わる。そんな成瀬巳喜男の世界を垣間見ることが出来ます。小津映画のように上流社会の人間は一人も出てこないけれど、しっかりと身を寄せ合って雄々しく生きているのです。こんな映画があったのです。本作品は、2013年3月末に閉館した映画館・銀座シネパトスの最終上映作品でもありました。

 

▇『銀座化粧』監督 成瀬巳喜男 出演 田中絹代 香川京子 堀雄二 東野英治郎 三島雅夫 新東宝 1951年公開

 

成瀬巳喜男

成瀬巳喜男監督(1905−1969年)

▇成瀬巳喜男(1905−1969年)

プロフィール 1920年松竹大船撮影所入所、小道具係を皮切りに映画生活をスタートさせる。五所平之助監督に師事1930年監督デビュー、戦後東宝に移籍。東宝争議でフリーとなり、東宝、新東宝、大映、松竹で監督。代表作は『めし』(原節子1951年東宝)、浮き雲(高峰秀子 1955年東宝)、死後、スイスロカルノ映画祭での特別上映を機に一躍名声が世界的になる。

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小津安二郎の『小早川家の秋』は大人の映画です。

2017 JAN 1 5:05:55 am by 野村 和寿

小早川家の秋

1961(昭和36)年、東宝(宝塚)映画作品

念頭にあたり、新春を飾るにふさわしい、ボクが好きな映画の中でもとびきりの作品を紹介しようと思います。1961(昭和36)年の東宝(宝塚)作品、『小早川家の秋』です。監督は小津安二郎です。タイトルは、これで、「こはやがわけのあき」と読ませます。古くからの伏見の蔵元、小早川家の人々を舞台にした小津安二郎監督の映画は、当主である小早川万兵衛が、焼けぼっくいに火がついた京都・祇園通いがメイン・ストーリーになっています。
小早川家の秋 予告編はこちらからどうぞ

小早川家の秋その2

左から小早川家の長男の嫁・秋子(原節子)、長女・文子(新珠三千代)、次女・紀子(司葉子)

人情を俳優になるだけ、小気味よいほどさばさばと一見なにも情のこもっていないように喋らせる小津流の演出は、最初、観る側に、疑問符をもって迎えられるかも知れません。しかし、よくよく味わうとこの淡泊なせりふの言い回しは、観客を、ストーリーへの没入を喚起させ、「より詳しく登場人物をみていかないとだめだぞ」と思わせてしまいます。

つまり、惚れた、腫れたということを、盛大に人物が語りすぎるとかえって、観客はストーリーに没入することができなくなると考えていると、ボクには思うのです。

音楽は、タイトル曲からして、バッハの「2声のためのインベンション」のさわりの部分や、ヨハン・シュトラウス2世の、喜歌劇『こうもり』序曲、はては、ストラヴィンスキーの舞踊音楽「春の祭典」、ケテルビーの『ペルシャの市場にて』などを、軽妙洒脱に翻案したフランスのプーランク風の、皮肉交じりのウィットに富む映画音楽になっていて、その軽妙さは、ストーリーを何気に補足しながら面白くしています。音楽は、黛敏郎が担当しています。よくよく練られたストーリーに呼応するよくよく練られた映画音楽です。
ストーリーは、19年前、祇園の芸者だった佐々木つね(浪花千栄子)には、21歳になる娘(団令子)がいて、彼女は神戸の外国商社のタイピスト。女性として生きていく術を親子で引き継ぐかのように、パトロンに、いかにおねだりするかと言うことに長けている母と娘。小早川家当主・万兵衛は、競輪の帰り道に、ばったりと佐々木つねと駅で出会います。その万兵衛は、佐々木つなの娘が、自分の子だと思っていますが、どうも、そう思っているのは万兵衛ひとりで、本当のところは、どうだかわかりません。

一方、小早川家では、伏見の造り酒屋の当主・万兵衛は、娘婿(小林桂樹)に家業をまかせて、半ば隠居状態。最近、当主の京都通い(伏見からみると、京都というのは別の地なのです)に気づき始めます。しっかりとした長女(新珠三千代)、そして、阪大の学者だった長男は既に他界、長男の嫁(原節子)の後妻の口の話、次女(司葉子)の見合いと自由恋愛の相手(宝田明)、当主の妹(杉村春子)と、きわめてしっかりした女性たちに対して、男性陣は、しごく駄目男ばかりです。

当主の義弟(大阪 亡くなった嫁の実家の弟・加藤大介)は、大阪の文化のわからぬ御仁ですが、小早川家にいまだに口をはさみたくなる。後妻(原節子)の見合い相手で下世話な鉄工所の社長(森繁久弥)を紹介したりします。小早川家をめぐる、当主・万兵衛も実は、養子なのです。駄目男たちと、賢い女たち實にさまざまな境遇の人々が、万兵衛を中心にさまざまな出来事を繰り広げる、それが小早川家の初秋に近い夏に起きる出来事なのです。

万兵衛を演じるのは2代目中村鴈治郎(今の中村玉緒の父)です。歌舞伎役者らしい、軽妙な足の運び、粋を知るものでなければ出せないような、元芸者とのやりとり、みていて、思わず嬉しくなるキャラクターを演じます。孫とのかくれんぼうごっこを利用して、家を抜け出して、いそいそ京都に通ったりします。あわてていたので、駅前のたばこ屋で千円借りて、電車賃を都合したりする、家ではなにもしないのに、昔の妾宅では、裾をまくり上げて、嬉しそうに廊下の雑巾がけを頑張る。そんな、おばかさん。昔はこうした旦那が京都にはあちこちに存在して、飲み屋をちょっと1杯で、また次の飲み屋へ、といった粋な遊び方を心得る人々が存在していました。

この映画がさらに興味深いところは、小津安二郎がメガホンをとった数少ない松竹大船撮影所以外の作品だということです。この映画は東宝映画配給ですが、実は、東宝の元会社でもある宝塚映画の作品です。小津監督は、ドイツのアグファー社製のカラーフィルムを使って、京都の古さを、渋い赤の色調は印象的に描き出しています。

小早川家の秋 3

封切り当時のポスター

公開された1961年当時は、映画全盛の頃で、五社協定といって東宝・松竹それぞれ俳優たちも専属でした。登場する、長女役の新珠三千代も、その夫役の小林桂樹も義弟の加藤大介に加えて、森繁久弥や若大将映画のヒロインだった団令子も登場します。情念を過剰に描く傾向にあった東宝映画の俳優たちが、いつもとは大いに異なる小津の演出方法で、感情を過度に吐露せずに、演じる姿は、かえって、いつもと違う雰囲気をよく出しています。

小津映画の常連の笠智衆もほんの少しだめ押しのように、いい場面で登場してきます。そして淡々としたいつもの小津調で語る締めの役を演じています。

日本では本作は、当時から現在まで小津映画の失敗作といわれてきましたが、フランスでは絶賛されて今でも上映されています。フランスのタイトルは”Dernier Caprice”。日本語に訳すと『最後のきまぐれ』)になります。いいタイトルです。ぼくは、小津映画のなかでも、突出していい映画だと思っています。今回、これを書くにあたり、1日じゅう本作品を何度も見返しましたが、見返すほどに発見があり、改めて面白いと思った次第です。

仏公開時のポスター

仏ではDernier Caprice(最後の気まぐれ)という題で公開されました。

 

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小津『晩春』に出てきた巌本真理

2016 DEC 28 9:09:31 am by 野村 和寿

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昭和24年(1949年)完成の映画『晩春』(小津安二郎監督・松竹)をデジタルリマスター版で見ました。

書斎で書き物をしている笠智衆扮する父・曾宮周吉。大学で経済学を教えている学者。執筆の清書を手伝っている助手・服部昌一。服部が、文献のところで、フリードリッヒ・リスト(1789−1846 ドイツの経済学者)のつづりをLisztと。誤記する。曾宮は、本当は、Listが正しく、Lisztは音楽家のリストだとたしなめます。助手の服部に主人公曾宮紀子(原節子)が、音楽会に誘われます。

ポスターには、巌本真理提琴演奏会 4月26日土曜日 午後3時開演。音楽芸術家協会主催 入場料350円450円 演奏会場は、東京・築地にあった東京劇場(後に映画館・東劇)。

潔癖症の紀子は、誘われ演奏会には姿をみせず、服部の隣の席が1つ空いたままにになっています。観ている側に、空き席をみせるだけで、紀子が、誘いを断った。ちょっといえば、ファザーコンプレックスで実に男性に関して奥手だということを示します。

画面に巌本真理の演奏場面は出てこず、ヴァイオリンが聴こえてくるだけです。

ただそれだけなのです。小津の映画らしく、音楽があくまでもとても品の良い添え物として使われています。でもヴァイオリンの調べがあまりにもきれいなので、弾いていた曲を調べてみました。

ヨアヒム・ラフ(1822−1882年・スイス)の作品で、ヴァイオリンとピアノのための6つの小品 Op.85 (1859)の中のカヴァティーナ Op.85-3でした。

小津を観るときに音楽は実は相当に暗示的でしかも、なかなかよいのです。音楽がしゃべりすぎることがないのです。それでいて品がいいのです。

映画『晩春』監督 小津安二郎 脚本 野田高悟、小津安二郎 原作 広津和郎 出演 原節子、笠智衆、月丘夢路 音楽 伊藤宣二 製作 松竹大船撮影所 フォーマット 白黒スタンダードサイズ(1.37:1) 1949年9月公開

巌本真理(1926−79年)は、弦楽四重奏団を自ら組織していて、上野の東京文化会館小ホールでベートーヴェンのカルテットの全曲演奏会を定期的に開催していました。ぼくも一度、聴きにいったことがあります。たしか1970年頃だったと思います。ぼくには正直、なにしろ高校生だったので、ベートーヴェンのカルテットは、あまりわからなくて難しい曲だなと思ったくらいで、今考えるともったいないことをしました。ぼくも未熟でした。%e3%81%84%e3%82%8f%e3%82%82%e3%81%a8%e3%81%be%e3%82%8a

写真は、1948年頃の巌本真理 映画内に登場する巌本真理提琴演奏会の案内板今は建て替えられてありませんが東京・築地にあった東京劇場(東劇)は、ヨーロッパ風の劇場で、ぼくも1971年頃に高校の放課後に、ここでマルチェロマ・ストロヤンニとソフィア・ローレンの共演した『結婚宣言』という洋画を観た記憶があります。

下の写真は、1949年映画公開時のポスターです。原節子と笠智衆、月丘夢路のほかに、三宅邦子や杉村春子の名前も連ねています。モノクロ作品でも、ポスターは天然色だったんですね。

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