『妖星ゴラス』(1962年)を今日的に観る その2
2018 MAR 3 9:09:39 am by 野村 和寿
妖星ゴラスが太陽系に侵入すれば、45日目の1982年2月中旬には地球に到達し衝突してしまう。そのときまでに地球は少なくとも40万㎞以上も軌道を大移動させなければならない。地球を動かすのに要する推力は660億メガトン、加速度1.10×10のマイナス6乗G。
これまで互いに争っていた米ソ両大国でさえ、地球それ自体の危機に際し、一致協力して、南極へのブースター群基地建設を急ぐのだった。
ブースター群基地は、ジェット噴射で、地球の軌道自体を動かしてしまおうという気宇壮大な計画。国連科学委員会の席上で、田沢博士(池部良)は、推力に水爆と同じ重水素と三重水素(無尽蔵の海水)を使い、巨大ブースター推進装置の基地からジェット噴射させれば、地球自身の軌道を変えることが可能であると諸外国の科学者たちに力説する。
さらに、妖星ゴラスの爆破計画も提案され、日本政府に、国連からなけなしのJX-2鳳号の派遣を要請される。妖星ゴラス爆破し、軌道を変えるべく出動。
世界が注目する中、JX-2鳳号は妖星ゴラスに接近、爆破を試みるが、重力が大きすぎて爆破は不可能。逆に、鳳号のカプセルで、妖星ゴラスへの接近を試みたが失敗。妖精ゴラスは、パロマ天文台発見当時は質量が6000G、JX-1隼号から送られてきたデータでは6100G、そして鳳号の観測データでは、6200Gと、惑星を吸収すながら肥大化を遂げていた。いまや地球の6200倍あることが観測で判明する。
JX-2鳳号乗組員で、偵察任務に出た、金井達磨隊員が、妖星ゴラスの輻射熱で、記憶喪失になってしまう。この「記憶喪失」というのも、なんだか、当時のネタという気もする。金井隊員は、幸運にもJX-2鳳号に回収され、無事地球に帰還するも、記憶は喪失されたまま。
金井隊員は、宇宙相の秘書でタイピストの野村滝子(水野久美)と幼稚園から高校までの幼なじみで、恋心もいだいていた。金井はすべての記憶を喪失しまっていた。なんとか記憶を呼び戻そうと奔走する滝子。
妖星ゴラスの重力により地球は既に膨大な被害をこうむっている。東京はほぼ水没。この映画のなかでの1982年2月に計算上妖星ゴラスと地球はぶつかる計算になる。
悲観した滝子(水野久美)は「いっそのこと妖星ゴラスと地球がぶつかっちゃえばいいのに」と嘆息する。妖星ゴラスと地球とが、衝突しないためには、あと36時間分の地球移動距離が必要と判明。足りない。さてどうなったのであろうか?
妖星ゴラスとの衝突を回避しようと試みる、南極のブースター群ジェット・パイプ基地は、100日間、総エネルギー660メガトンのジェット噴射で燃え上がることになった。
宇宙ステーションに設けられた「妖星ゴラス重力圏外観測本部」では、妖星ゴラスの地球接近を観測した。
重力圏外に設けられた観測本部では、地球が南極基地のジェットバルブ噴射により1.10×10の−6乗Gで地球の軌道が動き出したことが判明した。地球と妖星ゴラスの衝突はひとまず回避された。地球の軌道を元に戻すこれからが大変だというところで映画は終わっている。国連科学委員会からのメッセージ「皆さん、我々は勝ちました。妖星ゴラスは既に地球から離れようとしています。我らは全人類の平和への願いと協力によって勝ち得たこの勝利を永遠のものにしようではありませんか!」
*この映画の面白さ 時代背景が面白い
ここで挙げられるのは1962(昭和37)年という『妖星ゴラス』が公開された年時代背景である。
確かにぼくの子どもの頃、昭和30年台には”Merry Xmas”などと飾って、頭に紙の帽子をかぶって、盛り場に繰り出すということがあった。今、考えればとても奇妙な日本のクリスマス的な風物だった。
映画公開当時の1962年から17年後の設定である1979年のクリスマスは、クリスマスの帽子をかぶった浮かれムードで銀座に繰り出す若者でいっぱい。宇宙パイロットは、アルバイトで、かぶりものの、ロボットのかぶりものに身を包み、サンドイッチマンをやっているという趣向。あくまでも未来はばかばかしいほどに明るい。
1956年に日本が南極観測を再開し、昭和基地を作ったことは、日本の国際社会への復帰を日本国民はこぞって喜んだ。
映画では、当時日本では最高の国際機関だと思われてもいた国際連合本部が登場する。1962年当時、日本は国際社会への復帰が国民大衆の大きな希望であったことが窺える。「国際連合」という戦後登場したインターナショナルな国際機関が、「希望の星」とみていた機運は確かに日本にあった。
日本の英知では世界に貢献できる。ということも、湯川秀樹博士のノーベル物理学賞受賞以来日本が抱いていた希望だった。日本の学者が国際会議の席で、各国の代表のなかでも、指導力を発揮し、平和利用で地球的な規模の難題に立ち向かうという話も、当時的にはうれしかったのだろう。日本は戦争には負けたけれども、捨てたものではない知的な国家なのだと思いたかったのだろう。
パロマ天文台というのも、私たち男児には魅力的な名前だった。アメリカのカリフォルニア州サンディエゴにあり、当時世界最大の1.22mの反射式望遠鏡が完成したのは1958年のことだった。子どもの図鑑には必ずといってよいくらいパロマ天文台の写真が載っていたのものだった。
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妖星ゴラスの衝突を地球の軌道を変更することで、回避するというアイデアは、当時スタッフが東京大学理学部天文学研究室『妖星ゴラス』の軌道計算の黒板への板書は、当時最先端の権威、東大の理学部天文学科 畑中武夫教授門下・堀源一郎先生(のちに東大名誉教授)に、軌道計算を依頼した。大まじめにSF映画のスタッフが、ときの権威の門をたたいたこと。そして、ときの権威もそれ大まじめで応えたこと。これはかなり画期的といってよい。しかし、堀先生は、映画のために、計算に入ったが、なんど計算しても、妖星ゴラスが、地球と衝突してしまう計算になったために、軌道計算の修正になんとまる1日もかかってしまったとのことである。国際会議場で、田沢博士(池辺良)の背景に出てくる黒板への長い長い数値計算式は、実際の堀先生の板書とのこと。
ちなみに宇宙省富士山麓宇宙港の建物は、当時、東京の山手線内でもっとも高かった出来たばかりの早稲田大学理工学部の建物が使われた。この建物は、世界遺産ル・コルヴィジェの愛弟子でった建築学科の吉阪隆正教授の設計による建物群だった。
一方で、宇宙船に隼(はやぶさ)号とか、鳳(おおとり)号とか名前が付けられている。宇宙船内は、なんだか戦前の伊号潜水艦を思わせる作りで、蚕棚の乗組員居室、艦長の潜望鏡による宇宙視察など、さらには、通信や艦長の部下への命令下達の口調はなんだか、旧日本軍の命令口調と似ている。つまりまだまだ日本のなかに、戦前の日本軍のイメージがずいぶん色濃く残っていた。
1962年当時大人達がおおまじめで製作した『妖星ゴラス』は、1962年当時の大人と子どもの、日本の将来への夢がいっぱいつまった作品であったことは間違いない。
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『妖星ゴラス』1962年を今日的に観るその1
2018 MAR 3 9:09:40 am by 野村 和寿
『妖精ゴラス』(1962年公開 東宝映画)物語は1979年9月から始まる。もちろん1962年公開時点での1979年つまり17年後の近未来の話。すでに日本には宇宙省があり、宇宙開発への積極アプローチが発展途上にあった。宇宙省は、土星探索のためのロケットJX-1隼号を、11兆8千億円をかけて開発した。園田艇長をはじめ乗組員は総勢39名。秒速は11.2㎞、
JX−1「隼」号 当初の航程
1976年9月29日20:00富士山麓宇宙港より打ち上げた。
火星軌道通過は同年10月3日11:40、木星通過は同年10月8日01:00、
土星到着予定は同年10月15日14:00であった。土星まで17日間で到達する予定となっていた。
折から富士山麓宇宙港を飛び立った日本の宇宙船、JX-1隼号は一路、土星探検に地球を離れ、主エンジンを停止し慣性飛行に入る。
ちょうどその頃、パロマ天文台がゴラス地球の4分の3の大きさだが、質量地球の6000倍もある黒色矮星ゴラスを、太陽系でいちばん遠い惑星冥王星(現在は準惑星扱いとなっているが)36分の方向で発見。
最寄りの宇宙船JX-1が、ゴラスの探査へと舵を切る。JX-1隼号はゴラスの引力圏へ接近。JX-1は最後に、驚くべき観測データを地球へ送信し消息を絶つ。
ゴラスの影響で地球に壊滅的な被害が出ることが判明したのだ。JX-1隼号のあえなく、覚悟をした乗組員39名から万歳を叫ぶうち、隼号の園田艇長とともに妖星ゴラスへと飲み込まれ乗組員は全員ゴラスの犠牲となる。園田艇長の娘・園田智子(白川由美)は、父の突然の訃報を知る。
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