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ケストナーの『ふたりのロッテ』とメルヘン・オペラ『ヘンゼルとグレーテル』

2017 AUG 16 18:18:31 pm by 野村 和寿

ドイツの詩人で児童文学者のエーリッヒ・ケストナー(1899-1974)の子ども向け小説『ふたりのロッテ』を読了しました。翻訳は高橋健二の翻訳で『ケストナー少年文学全集6』に所収の1962年版(岩波書店)と、池田香代子の翻訳で『岩波少年文庫138)に所収の2006年版(岩波書店)とが出ていて、そのどちらもを読んでみました。ちなみに、少年文庫には、小学4・5年以上と書いてあります。ぼくもその意味では、小学4・5年以上に該当しているので大丈夫かと。

ケストナーのロッテ”Das Doppelte Lottchenドイツ語の原本

この作品は単なる子どもだましの作品かと思うと大いに違っていて、大人が身につまされる作品です。ネタバレを覚悟で、書いてみます。ビュール湖のほとりのセービュールにある夏の間だけの寄宿学校にやってきた二人の少女、ひとりはルイーゼ・パルフィー ウィーンからやってきた長い巻き毛の少女。南ドイツ・ミュンヘンからやってきたのはきっちり編んだおさげの、ロッテ・ケルナー。ふたりは、髪の毛の形以外、姿形がうり二つだったのです。ふたりのそっくりさんは、同じ部屋、ベッドも隣同士になります。

ルイーゼには父親しかおらず、ロッテには母親しかありません。

ウィーンからやってきた巻き毛のルイーゼのお父さんパルフィー氏は、オペラの楽長、ウィーンで作曲の傍ら、歌劇場で指揮をしているという設定。どうも、R.シュトラウスを思わせる設定なのが面白いです。

ふたりのロッテ

『ふたりのロッテ』エーリッヒ・ケストナー作 高橋健二訳 ケストナー少年文学全集6 岩波書店 1560円

歌劇場では、まさにフンパーディンク(1854-1921)のメルヘン・オペラ『ヘンゼルとグレーテル』(1893年初演)が上演されようとしています。本のなかででてくる「ふたりのロッテ」とこのメルヘン・オペラは浅からぬ因縁です。フンパーディンクのほうは、グリム童話を翻案して3幕ものの子どもたちの為の『オペラにしたててあります。グリムが悲劇なのに対して、オペラではハッピーエンドになっています。対象が子どもたちといっても、作曲者フンパーディンク自身、ワーグナーの弟子だったので、その全体を流れるメルヘンといっても、かなりワーグナーの色が濃い作品になっています。

しかも、よくよく考えると、このメルヘン・オペラ『ヘンゼルとグレーテル』は、箒(ほうき)職人の兄ヘンゼとグレーテル(妹)が、両親に捨てられて、森の中に送り出されます。しかも両親は子どもたちを愛しているのです。両親はそうすることを悲しんでいます。森の中で迷ったところからストーリーが始まります。

この点も『ふたりのロッテ』は、しっかりと、関係させています。もちろん、少年時代にこの本を読んだときは、そんなこと知るよしもありませんでした。

メルヘン・オペラの『ヘンゼルとグレーテル』の話を少し。なかで、お菓子の家 実は魔法でおびきよせた子どもたちを食べてしまう悪い魔女の家に、日本では、「お菓子の家」と称しているのですが、「ふたりのロッテ」の中では、「ぽりぽりと取れるコショウ菓子の家」と書いてあります。少し調べてみると、香辛料お菓子レープクーエン(Lebkuchen)わけても、家の形をしたものを、プフェッファークーヘンハウス(Pfeffer kuchenhaus)と称するのだそうです。哱蜜、香辛料、オレンジ・レモンの皮、ナッツを用いて作ったケーキのことだそうです。

そのことを日本では、「お菓子の家」と呼んでいたのを、今回初めて知りました。

映像では、1981年にわざわざ凝ったバイエルン州立歌劇場を中心に活躍した演出家エファーディングの凝った演出のもと、ゲオルグ・ショルティ指揮ウィーンフィルハーモニー管弦楽団が、小さなオペラハウス、会場にいる観客は、子どもたちだけ、そして、ピットには、コンサート・マスター ゲルハルト・ヘッツェル率いるウィーンフィルハーモニーが、ちゃんと正装の燕尾服を着用して演奏にのぞむという映像です。

歌手陣も素晴らしく ヘンゼル=ブリギッテ・ファスベンダー(メゾ・ソプラノ) グレーテル:エディタ・グルベローバ(ソプラノ) ペーター:ヘルマン・プライ(バリトン)お母さん ヘルガ・デルネシュ(ソプラノ)。最初の3人は有名だと思いますが、デルネシュは、1967年のバイロイトでワルキューレを歌ったり、カラヤンの『トリスタンとイゾルデ』でトリスタンを歌っている往年の名歌手です。ワーグナーの弟子だった作曲者フンパーディンクはこのあたりにも、ワーグナーの影響の歌手をおいているところがなかなかにくい演出です。全部で1時間49分。ヨーロッパでは、よく子供連れで聞くことが出来るクリスマスの上演になっています。全曲 下記に動画がありました。

 

ほかにも、YouTubeでみつかりました。第2幕に「夕べの祈り」というヘンゼルとグレーテルの歌う二重唱がありますが、ここでは、エリーザベト・シュヴァルツコップとエリーザベト・グリュンマーが歌う音楽がありました。カラヤン指揮のフィルハーモニア管弦楽団です。

 

 

エリーザベト・シュヴァルツコップ エリーザベト・グリュンマー

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮フィルハーモニア管弦楽団

次に続くのが14人の天使たちによる、「夢のパントマイム」という曲です。この曲をオットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団が演奏している音声です。

夢のパントマイム 1960年 オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団

さて本題は「ふたりのロッテ」ケストナー作に戻ります。

二人のロッテのうちのウィーンのルイーゼは、父親ルートウィッヒ・パルフィー氏がオペラの作曲家で「真の芸術家かたぎ」の楽長、奥さん(母)がいないので、食事はインピリアルホテルの食堂で、オムレツ(ウィーン風)、父親は牛の足のいぶし肉(Tafel spitz ターフェル・シュピッツ)をいつも食べています。父の内面生活は独特なもので、複雑、音楽的な着想がわくと、それを書き付け、作曲するためにひとりにならなければならない。ウィーンのフィルハーモニーがバルフィー氏の最初のピアノ協奏曲を初演(のために作曲)したときは、彼は無造作にグランドピアノをとりにやらせ、ケルントナー環状通り(ウィーンのリンク)に借りた仕事部屋に運ばせたとあります、仕事部屋では楽譜を書いているばかりでなく、オペラの女の歌手たちと歌の約の研究に余念がありません。お父さんパルフィー氏のつきあっている女性はイレーネ・ゲルラハ嬢といいます。ワーグナーの『ニーベルンクの指環』のワルハラを想像してしまう名前です。もじりでしょう。

ウィーン国立歌劇場で、『ヘンゼルとグレーテル』をパルフィー楽長が指揮をします。ロッテは、よそいきの服を着て、ウィーン国立歌劇場の2階のロージェという小部屋のようになった上等の席で、天鵞絨針(びろうど)の手すりに体をおしつけて、目を輝かせながらオーケストラを見下ろしています。えんび服を着たおとうさんは、なんとすばらしいスタイルでしょう。楽手たちの中にはずいぶん歳をとった人もいるのに、なんとみんなが指揮に従っています。お父さんが棒で強くおどすと、みんなはできるだけ大きな音で演奏します。低くさせようと思えば、みんなは夕べの風のようにさらさらと鳴らします、みんなはおとうさんをこわがっているにちがいありません。お父さんはさっき満足そうに桟敷席のルイーゼにむかって、目くばせをしました。ウィーン国立歌劇場には顧問官(医者)もいます。医者の顧問官シュトローブル先生です。この先生さすがにウィーンらしく、フロイト(ジークムント 1856-1939年)の影響を受けている精神科医なのです。このあたりも面白いです。この人物もあとあと物語に効いてくる存在です。

一方、もうひとりのロッテ ミュンヘンのロッテは、母だけで父がいません。母はルイーゼロッテ・パルフィー婦人(旧姓ケルナー)は、6年前に夫と離婚、ミュンヘングラフ出版社でグラフ誌の編集長です。編集者なので、帰宅は夜遅くなり、ロッテが、「うちの小さい主婦さん」をしています。ミュンヘンのマックス・エマヌエル通りの小さな住まいに住んでいますが、ロッテは、母のために小さな主婦さんとして、晩のおかずの材料を買いに行きます。オイゲン王子通りのかどの肉やフーバー親方のところで牛肉を半ポンド、かのこまだらのヒレ肉で、腎臓と骨を少しずつ添えてもらいます。スープに入れる野菜とマカロニと塩をかうためワーゲンターラーおかみさんの食料品店に通います。マカロニスープをつくります。マカロニの水のなかに塩をどれくらいいれたらよいのか?ニクズク(ナツメグの和名です・ニクズク(肉荳蔲))をおろしたり、野菜を洗って、ニンジンを削ったりします。20分前に煮立っているお湯にマカロニを投げ込まなければなりません。

もう賢明なる読者のみなさんはおわかりだと思うのですが、夏の寄宿学校から、夏が終わるときに、ミュンヘンへ、ウィーンへ、ふたりのロッテが帰宅するときに、なにしろうり二つの姿形のふたりは、ふたりで、謀って、取り替えっこをしてしまうのです。つまり、ミュンヘンから来たロッテは、「ウィーンのルイーゼ」になりすまし、ウィーンへ。ウィーンから来たルイーゼは、「ミュンヘンのロッテ」になりすまし、ミュンヘンへ戻ります。

姿形はうり二つなのに、性格の違うこのふたりにふりかかる毎日の生活とは? ふたりのロッテは、ふたりだけの情報交換の手紙に、局留め郵便を利用しています番号は「ワスレナグサ ミュンヘン18番」です。そしてふたりのロッテの結末は?お父さんパルフィー氏の音楽家と、お母さん編集者ルイーゼロッテ・パルフィー女史の運命は?

あとは、みなさんお読みになってみてください。全部でわずか205ページほどの佳作です。原題は”DAS DOPPELTE LOTTCHEN” Erich Kästner 1949です。

ケストナー

エーリッッヒ・ケストナー(1899-1974年)ドイツ・ドレスデン生まれ、小説家・詩人 第2次世界大戦時も、ナチス・ファシズムを非難し、自由・民主主義を擁護、戦後初代西ドイツペンクラブ会長。「エーミールと探偵たち」「点子ちゃんとアントン」「飛ぶ教室」などがある。

ふたりのロッテ 岩波少年文庫

『ふたりのロッテ』岩波少年文庫138 池田理香子訳 岩波少年文庫640円

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『飛行艇クリッパーの客』Ken Forettの乗客になる

2017 AUG 5 6:06:09 am by 野村 和寿

飛行艇を舞台にした海外小説『飛行艇クリッパーの客』(新潮文庫・上下巻1993年)を読了しました。前回『インペリアル航空第109便』(リチャード・ドイル著)の飛行艇は、英国のショート社製ショート・サザーランドと呼ばれる飛行艇でしたたが、今回の飛行艇は、アメリカ・ボーイング社が1938年に完成させたB-314飛行艇です。

B-314クリッパー機は全長109フィート(33.2メートル)、翼幅長さ152フィート(45.6メートル)通常、船だと大西洋横断に、4-5日かかってましたが、クリッパーだと、正味25-30時間で、イギリスとNYを結ぶことが出来ました。

1939年現在のポンドとドルの交換率は1対4.2 1ドルは3.5円でしたので、NYロンドン⇒NY運賃 片道90ポンド 2017年現在の円レートで概算すると、片道375万円です。ちなみに英国航空のファーストクラス現在のロンドン・NY片道運賃は、122万円ですので、当時の片道運賃は現在の運賃の約3.07倍ということになります。この価格がわずか19人の乗客になると思うと高いのか高くないのかさて・・・?

KEN FOLLETTのオリジナル版です。

「空飛ぶ宮殿」と呼ばれ、いわく、美しくこわれやすいシャボン玉。世界一ロマンチックな飛行機、史上最大の大西洋横断旅客機といわれていた。19人の乗客をのせて、イギリスのサウンサンプトン河口域を離水のためにエンジンをパワー全開にして、風上に機首を向け、一路最初の着水地、アイルランドのフォインズ目指して、離水しました。B-314クリッパーは、4基の巨大星形1500馬力のエンジンを4基もち、航続距離は、ゆうに、アイルランドから一気にカナダ・ニューファンドランドまで3000㎞を飛行することができます。B-314クリッパーは1938年に完成し、全部で12機が製造されました。その中の1機が物語に登場する「クリッパー」とは、もともと快速の帆船の意味です。

ボーイング社が米パンアメリカン航空と英インペリアル航空のために製造したB-314クリッパーです。写真はウィキより引用しました。クリックすると拡大できます。

 

前回取り上げた飛行艇の「インペリアル航空第109便」(リチャード・ドイル著)の物語が、飛行艇の乗員の話だったのに対して、今回とりあげるケン・フォレットの作品「クリッパーの乗客」は、飛行艇に乗り合わせた乗客を中心とする物語。「袖振り合うも多生の縁」ということで、ぼくもこのクリッパー機の乗客になったつもりで読み進んでみることにしました。

飛行艇クリッパーの乗客上下

飛行艇クリッパーの乗客は平成5年(1993)年新潮文庫から刊行されましたが、現在絶版。古書ではアマゾンで1円から入手可能です。ちなみに1円でも怪しいものではありません。ほかに郵送料が257円(関東への送料)かかるため古書店はペイするのです。

 

ロンドンから特別仕立ての車両に乗車し、列車内では、フルコースのランチ(シュリンプ・カクテル、フィレミニヨン・ステーキ、アスパラガス・オランデーズソース、マッシュポテト添え、ピーチメルバ、プチフール、コーヒーこれだけみても英国的という感じで感心はしませんね)をいただき、飛行艇の出発地である、サウサンプトンの港へと向かう。ときは1939年の9月 ヒトラーによるポーランド侵攻で幕が落とされた第2次世界大戦の幕が落とされたその3日後ということになってい。ちなみに、9月1日は日曜日、最初のロンドンに出た独空軍空襲に対しての空襲警報は、英国国教会の礼拝の最中、11時28分に出されたとあります。このようなエピソードがわかって面白いです。

その3日後の9月4日、戦争の難をのがれアメリカを目指す幾多の人々のなかで、このNY行きのB-314クリッパー機も登場します。著者のケン・フォレットは、入念な準備による細かい描写で知られた作家です。代表作『大聖堂(ドゥオーモ)』で、ぼくは、ヨーロッパ各地にある大聖堂がなぜ、同じ形をしているかを知ることが出来ました。つまり大聖堂ばかりを建築して回っている職人集団が存在し、彼らがあちこちの大聖堂を建築したので、形が同じだったのです。

話をクリッパーの乗客に戻しましょう。

ここに登場する乗客にも、ぼくが今まで知らなかった1939年当時の事情がわかってとても興味深いものがありました。アルジャーノン・オクスンフォード卿一家が登場します。父親であるオクスンフォード卿は、なんとイギリスのファシスト党の党首をしていた人物に描かれています。英国ファシスト党の考えというのは、戦後タブーでなかなか真意がわかりませんでしたが、今回、それを知ることが出来ました。

英国ファシスト党の考え方は、「資本主義、社会主義、がともに破綻し、民主主義は結局一般大衆にはなんの利益ももたらさない。善意独裁者が、産業を統制する強権国家主義をめざし、大衆に訴える。世界はこのままいくと混血児とユダヤ人のものになってしまう」と信じる。なぜ、ファシスト党なのか? これには、第一次世界大戦後のイギリス経済、特に農産物価格の世界的暴落をもろに受け、オクスンフォード家は破産寸前になった。そこで、アメリカ人銀行家の跡取り娘を嫁に迎えている。

イギリス貴族の経済的衰退とファシズムとが結びついたという例は、ほかでもみたことがあります。日系の作家カズオ・イシグロが書き、映画『日の名残』(1993年・英国)となって名優アンソニー・ホプキンスが、その執事役として演じていました。また、史実でも、英国にもあった黒シャツ党は、ロンドンにも存在しデモ行進をしていたとありました。ファシズムはイタリア・ドイツだけではなく、英国にも、独伊以外でもっとも浸透をみせていたのでした。父の影響を受けた長女エリザベスは、21歳。熱烈な王制主義者でナチ崇拝者。「このままだと世界は混血児とユダヤ人のものになってしまう」と思い込んでいます。しかし父への反発は強く、旅行中に「ドイツ・ナチズムを崇拝する外国人」になりたくて、リスボン行きの船でドイツへと向かいます。

一方で、ユダヤ人に救いの手を差し出す人物も登場します。フランス人の銀行家ガボン男爵。シオニズムのようなユダヤ民族主義運動に莫大な富を投じ、イギリスの不興をかている。ガボン男爵の考えは「我々ユダヤ人自身の国家を作らねばならない。アラブ人を排除することにつながる。軍国主義と人種差別が合体したものがファシズムだ」とし、ドイツの世界的に高名な原子物理学者カール・ハートマンをアメリカへの亡命に手を貸そうとしています。

終始、モーツァルトの歌劇『魔笛』でいえば、パパゲーノとパパゲーナのように道化で登場するのが二人の若者。ハリー・バンデンポスト・アルビー 実名はハリー・マークス 22-3歳とオクスンフォード卿の次女マーガレット19歳。

マーガレットは、侯爵家によくあったように家庭教師に勉強を教わり、学校には通ったことがない。その恋人で、オックスフォードの最終学年だったイアン・ロチデールをスペイン市民戦争義勇兵として国際旅団に参加し戦死。社会主義者で、ジャズが好き、キュビズムの絵が好き、自由詩が好き、英国軍の傷病者運搬車の運転手になりたい。

一方のハリー・マークスは、父親が第一次大戦で戦死し、ビルの清掃婦の母親の手ひとつで、貧しいバターシーのアパート、共同流し場とトイレで育ったが、高級宝石店のショウウインドウをのぞき、宝石をみる目を磨いているうちに、近代的なブリリアント・カットと19世紀の旧式マインカットのダイヤモンドのカットの違いを覚え、午後のテニスの合間にお茶を飲みに戻ってくるという生活や、遅くに起き陶器のカップでコーヒーを飲み、華美な服装をし、高いレストランでの食事に憧れていた。アスコット競馬場で、器量のよくない金持ちの令嬢に次から次へと声をかけ、夜会に呼ばれ、ドーセット伯爵邸では、ジョージ王朝風の銀のボンボン入れや、同漆塗りのかぎ煙草入れ、ミセス・ハリージャスパーズ邸では、ティファニーのルビーの留め金付きパールのブレスレットを、マルボリ伯爵夫人邸では、銀のチェーンつきアールデコのダイヤモンドペンダントを失敬、2年間の盗みの総決算として247ポンドを盗みます。この若い二人は一服の清涼剤として登場します。

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飛行艇ボーイングB-314クリッパーです。写真はウィキより引用しました。クリックすると拡大できます。

飛行艇クリッパーの航路

飛行艇クリッパーの航路です。クリックすると拡大してみることができます。

ちなみに、本ブログを書くにあたり調べていくうちに面白いことに気がつきました。当時、実際に、飛行艇の途中経由地である。アイルランドのフォインズ(首都ダブリンから4-5㎞)に、現在、フォインズ博物館飛行艇&海軍博物館のホームページを見つけてしまいました。こういうことはやっていて、なにかとてもうれしいことでした。下記からURLでいきつくことができるので、是非のぞいてみてください。

アイルランド・フォインズに、「フォインズ博物館飛行艇&海軍博物館」のホームページをみつけました。実際のB-314飛行艇のレプリカが展示されています。手作りのかわいい博物館です。

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1945年伯林からの警鐘

2017 AUG 4 16:16:15 pm by 野村 和寿

終戦の二ヶ月前に、ドイツ・ベルリンからベルリン敗戦の記事が当時の朝日新聞に掲載されました。あまりよく知られていないのですが、当時、厳しい検閲がしかれている昭和20年になぜ、ベルリン敗戦の記事が、まだ戦争中だった新聞に掲載されたのでしょうか?

当時鈴木貫太郎内閣のもとで、情報局総裁は、下村宏という人でした。朝日新聞出身です。当時情報局は、新聞記事の掲載許可不許可を握る立場にありました。下村宏総裁局総裁によって、本記事は、昭和20年6月5日掲載許可されました。当時の日本国民は、本土決戦一色のなか、日本の敗戦への覚悟を、暗にというか直接間接に、ベルリンの敗戦という形で、知らせたのではないか?とぼくは思いました。

守山義雄記者は、1945年5月2日のナチスドイツの崩壊、ベルリン陥落までベルリンにとどまって情勢を見守っていました。筆致は具体的で、しかも、日本に対して、警鐘を鳴らすという意味を込めていたように思われてしまいます。見出しに「ベルリン前支局長」とあり、「現」でないのは、この記事を書いたのは、実は守山記者が、すでに、ソ連によりベルリンの邦人が日本に送還されるシベリア鉄道の送還列車の中で書いたことによります。

以下、昭和2065日 たった2ページの表裏のペラペラの新聞にあって、異例の長い署名記事です。あまり知られているとも思えなかったので、ここに読んでみました。よろしければどうぞごいっしょに。

19450605朝日新聞

1945(昭和20)年6月5日付け、朝日新聞より 当時のペラペラの2ページの新聞のなかで、5段もの段数をつかって守山義雄記者が渾身の記事を書いています。

 

『戦敗ドイツの実相』前ベルリン支局長 守山義雄記

余すなく徹底破壊 がれきのベルリン死一色 戦争の真理は結末にあり

ついに奇跡は起こらなかった。奇跡を期待した人たちは今呆然として廃墟の中にたたずんでいる。ヨーロッパの廃墟、惨憺(さんたん)たる破壊、累積せる悲劇、一体これは何事が起こったか。廃墟の痛手と深さは人々からものを考える力を奪ってしまった。呆然としてただ呆然として人々はおそろしくひもじいとのみ感じている。これはドイツ国民の現状だ。そのひもじさの底からしみじみとこみ上げてくる一つの涙がある。さらに次の涙がある。さらに新しい三の涙がある。悔しい涙であろう、しからず、悔しいと思うときには、これに反抗力の残滓(ざんし)を認めることができよう。しかしこのような反抗力は徹底的に失われた今のドイツ人からはどこを押しても出てこない。今度の戦争が独国民にあたえた破壊はそれほど完全であり、余すところなく徹底していた。

安っぽい言葉ではあるが、運命を嗤(わら)うというそういう表現が、この場合最も当てはまる。やっぱり駄目だったという率直な直観、これが限りなく冷酷な現実に通じているのだ。

彼らはただ泣く、生まれながらにかたくなな合理主義者が、一言の反駁(はんばく)も許されず、極端な宿命論者たることを強いられるほど世に悲惨なことはない。

 

中間的な解決なし

 

ドイツの指導者はかつて、「この戦争の結果には勝ち残る者と死に絶える者の2つがある。われわれは断じて後者であってはならない」と、それはあまりにも痛々しい予感となった。

近代総力戦にはこれが、総力戦なるが故に中間的な解決はないのだ。

そしてドイツは行くところまで行ってしまったのだ。あの苦しいベルリン生活の思い出は瞬間にして遠い遠い夢のかなたの世界に吹っ飛んでしまった。同僚から何か書けと鉛筆をつきつけられたが、まるで見当がつかない。そしてそれが日本の読者に何の参考になるだろうか。今実に重大な国運の分岐点に立っている日本にはもっと大切な事があるはずだと思う。独ソ開戦の興奮、スターリングラードの悲劇、ノルマンディの血戦、V1号の出現したときのあの戦慄的な熱狂など、大向こうを騒然とさせる材料は山ほど

あるはずだ。しかし今それが何の足しになるだろうか。芝居の途中の筋書きは複雑起伏を極めていればいるほど面白い。しかし戦争には最後の結末だけが大切である、最後の終止符だけが戦争のすべてである。したがってここに再びあの虚偽と宣伝の絡み合った戦争の道ゆきを思い出して反芻することはちょっと辛抱しきれない。

 

奇跡は遂に起こらず

 

戦争の持ついかなる真理はその結果に潜んでいる。同時に近代総力戦においては奇跡は容易に起こりえない。ソ連がぶり返したのも英国ががんばったのもあれは奇跡ではない。それぞれ力の裏打ちがあってはじめてなしえたのである。強い力は弱い力より強い、このきわめて常識的なことが戦争の結末には真理となって現れてくる。その意味でヨーロッパの戦争は徹頭徹尾きわめて物理的な推移をみせた。強いて奇跡を認めるならばあのような国民性と国体をもった独は、誰の目にも絶体絶命の境地にありつつとにかく最後までベルリンをとられるまでがんばり通したということはこれを奇跡といえばいうことができる。もちろんラインを突破された後の独のがんばりは、戦略的にも政治的にもすべて希望を失った、ただナチスの精神力だけの頑張りであった。しかし精神力がものの力を補い得るのは一定の限度までである、ことにこのことはヨーロッパ戦場において、躊躇なく断言しえたのである。この独国民は水ももらさぬ総力戦の(一字不明)型のなかでかろうじて自分の義務だけをかろうじて呼吸していたのである。さすがの独がついに恐ろしい真相を告白しはじめたのは去る4月16日ソ連の89個軍団の大軍が、オーデル河戦線で、直接ベルリンに対し最終的な総攻撃の火ぶたをきったときからであった。

 

ヒ総統布告の疑問

 

そこにひとつの奇妙なことが起こった。ソ連軍の行動開始を2日間見送っていよいよ本物のベルリン総攻撃であることを確認したヒットラー総統は16日付けで独軍将兵に告げる布告を出した。「東部戦線こそ独の運命を決する戦線だ、ベルリンは永久に独のものとして残るだろう。東部戦線の将兵よ断乎がんばってくれ」という内容だ、しかしこのときの戦況は西部戦線の米英軍は中部独の心臓部になだれこみすでにエルベ河東岸に橋頭堡を作ってまさに西からベルリン攻略に参加せんとしていた。緊張せる局面にあったなぜヒットラー総統は、東部戦線の危険のみを強調して、米英軍の防衛に関してはほとんどひとこともふれないのだろうか。それはわれわれの抱いた最初の疑問であった。ついでベルリン市は非武装都市として開放を宣言されぬではなかろうか、ということがわれわれの間で大きな問題となった。人口の3分の2は疎開したとはいえ、その後東部独からの避難民を収容したベルリンは当時人口300万の女子供をも含む大都市であったのだ。臨戦成功となれば食物はどうする、負傷者はどうする、ほとんど歴史に例のない惨憺たる考慮をめぐらせたのも、当然だ。われわれの観察したところでは、ベルリン市民のほとんど全部は、非武装都市の宣言を今日か明日かと待っていた。トランス。オツェアン通信なども、ベルリン非武装都市問題は、22日の日曜日中にいずれかに決定するだろうという通信を出したほどだった。

 

指導者間に縺(もつ)れ

 

すでにソ連軍の20センチの重砲弾が、朝日支局のあった市の中心部に雨のごとく落下してくるまっただなかにあって、全市民は地下室の中でかたずをのんでいる。文字通りベルリンは沸騰し、わきあがり大揺れに揺れかえる思いだった。ヒムラーが各市各村の徹底抗戦を命令した後だったので、さすがに世紀の悲劇を前にして指導当局の間にも紛争のもつれがあった。25日に至り、ベルリン防衛責任者たるゲッペルス宣伝相が、この問題に中間的な解決をあたえ、制服を着た軍人のみで、ベルリン防衛戦を遂行せよと布告が発せられた。女も防衛戦に参加する以上は、ユニフォームを着ろという指令である。だがベルリンの運命にとっては結局同じことであった。かくしてベルリンは傍観者の目には、まったく無謀にみえる形で世紀の悲劇の中にまきこまれていったのだ。

それからおよそ10日間言語に絶した市街戦が続いた。ソ連軍の砲撃のものすごさというのを、われわれもおかげで身をもって体験した。25日まで朝日支局のあったアンハルターの駅前でがんばっていた頃、地下室まで砲弾に打ち砕かれ、われわれの事務所に女や子供の屍体がもちこまれた。われわれの支局が一般大衆のための仮納骨所みたいになってからさすがにいたたまれず、同僚原君とふたりで、死にものぐるいの運転をやり、チャーガルテンの日本大使館に飛び込んだ。ここでも河原参事官以下11名の館員諸氏と、民間では正金(横浜正金銀行)の人たちはすでに悲壮な籠城生活を始めていた。大使館も幾度もの爆弾を浴びたことか、真っ暗な地下室で天長節の式をあげた。感激など今から顧みれば皆無。ことに助かったことが不思議なほどで、すべて筆紙につくしがたい体験であった。

 

呆気なく戦いの終幕

 

そしてある朝が明けた「これはロシアの兵隊らしい」と誰かがとびらの隙間からのぞいて叫んだ。なるほど見慣れた独兵の鉄兜とは形が違う。朝もやの中で、独軍兵士の残骸の間を自動小銃を構えたソ連兵が3人、5人ぞろぞろ歩いている。何かを探しているようでもあるが、散歩しているようでもある。みんな熊の子のように真っ黒になっている。それがベルリンでソ連兵をみた歴史的な瞬間であった。

そしてヒトラー総統戦死の放送をわれわれが、万感迫る思いで聞いたのはその前夜のことだった。ヨーロッパ戦争は、ベルリン戦争をもって淋しく呆気なくついにその幕を閉じたのである。今日ベルリン市街の徹底的な破壊の跡を見るものは何が独にここまで戦わせたかをいっそう不思議に考えるに違いない。政府、官庁街を中心として市の中心部8キロ四方は、がれきの原っぱと化した。

2年間の爆撃よりも10日間の市街戦のほうが、2倍も3倍も破壊力は大きいのだ。

ナチス・ドイツの敗戦の理由、そのような複雑な問題は、一言や二言では尽くせない。しかしドイツが最初から苦しんでいたのは、二正面戦争の悔恨だった。そして最後の瞬間までこの戦争を一正面に修正したいという希望を捨てなかった。ナチス・ドイツが戦略的にも全然見込みない最後の抵抗を試みたのも米英とソ連間の軋轢(あつれき)の結果を期待し、ここにドイツがつかみ得る政治的な機瞥(きべつ)を、待ちもうけていたのであった。ヒムラーの米英単独降伏提案は、その最後のはかない試みであった。今日ドイツは米英・ソ連三国のほかに、フランスまで加わり、全国土余すところなく、四国軍隊に占領されている。ベルリンには至るところ赤旗がひるがえり、うちひしがれた市民は生きるために食わんがためにすべての過去を忘れている。富めるものも中産階級もすべて消滅し、今ドイツの街頭にみるすべての人間の形は事実死の色に塗りつぶされてしまった。記者は南京をはじめ、ワルソー、ブラッセル、パリと4つの首都をそれぞれ占領第一日に勝利の軍隊に従軍して見聞したが、いまははじめて敗軍の首都の悲惨さを内部かた体験して戦争の結末こそ、戦争のすべてだという考えをいっそう強くしたのであった。

194565日 朝日新聞より(現代仮名遣い折りがな等変更しました。)

                    ●

歴史家・鳥居民が丸谷才一の語ったところとして、「守山義雄は、19455月、ソ連軍によってベルリンから日本へ送り返されたが、その旅の途中、シベリヤ鉄道のなかで、本記事を書いた」とあります。

守山義雄氏(1910-1964年)大阪外国語学校ドイツ語部を卒業して大阪朝日新聞社会部入社、1939年ベルリン特派員、1940年独軍に従軍してパリ入城記、19457月帰国。1951年サンフランシスコ講和会議を取材。

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カメラのおけいこその⑩復刻版ズマロン28㎜

2017 JUL 14 16:16:15 pm by 野村 和寿

このSummron(ズマロン)28㎜f5.6は、なんと2016年に復刻された最新レンズなのです。全長もわずか18㎜、重量も約165グラムしかありません。ぼくにとっては、ものすごくかわいい小型のレンズです。このレンズはもともと1955年から1963年にかけて全部で6200本製造されたとされるSummron(ズマロン)28㎜f5.6をライカ自社で復刻したレンズになります。

ズマロン28mmf5.6

ズマロン28㎜f5.6のフォーカスレバーと無限遠のロックです。

レンズフードは、とても価値のある伝統的なフードSLOOBKと呼ぶフードの復刻版が附属されていました。

ズマロン28㎜f5.6をライカの最新カメラ ライカSLに装着したところです。

しかし62年も前のレンズをライカは何故復刻したのでしょうか?そしてぼくは何故このレンズを入手してしまったのでしょうか? それはライカのもつ、普遍性に触れることにもなりとても大事な点なのです。たんに、オールドファッションが懐かしくて素敵ということではなく、現代のレンズ研磨技術をもってすると、シンプルな62年前には果たせなかったような、特に赤に顕著なあかかぶりなどを払拭しているようにも思えました。

ズマロン28㎜f5.6

ズマロン28㎜f5.6を上からみたところです。絞りは5.6から22まで絞り込みが出来ます。メートル表示のピント距離計、ライカSLとはマウントアダプターM-Tで装着可能です。

横浜港船勢揃い

横浜港大桟橋で豪華クルーズ船勢揃いの風景です。写真をクリックすると拡大できます。

 

28㎜の広角レンズというのは日本では人気のある広角レンズだそうです。日本では35㎜、28㎜、20㎜というラインナップに対して、欧米では24㎜が主流だと聞いたことがあります.日本ではなかなか24㎜をみかけたことがありませんが、アメリカのライカ好きに出会ったときに、やはり24㎜をつけていました。ぼくは前々から28㎜が好きであらゆるといってよいほどの28㎜を集めに集めてきました。そして2016年11月に発表されたこのズマロン28㎜復刻版を入手するかどうか悩みに悩んだ末に、入手することにし、4ヶ月待ちで2017年3月ようやく入手できました。それは期待を裏切らない素晴らしいレンズでした。たしかにf5.6という現代のレンズではちょっとありえないくらい暗いレンズではあるのですが、現代のデジタルカメラのISO感度をもってすると、十分に実用に耐えられます。

にっぽん丸の入港風景

にっぽん丸の入港風景です。横浜港大桟橋乗客ターミナルにて 写真をクリックすると拡大できます。

エントランスを取り付ける

にっぽん丸に乗降用のエントランスを取り付けているところです。写真をクリックすると拡大できます。

横浜港大桟橋に、豪華クルーズ船にっぽん丸は、驚くほどすーっと着岸してきました。岸壁に幅寄せしていくように、だんだんと岸壁に近づき、エントランス用の乗降口とのドッキングを果たしました。このような、にっぽん丸の横腹とエントランスの状況などなど、情報量の多い写真を撮影するのには、広角レンズは活躍すると思います。

ダイヤモンドプリンセス

こちらは英国船籍のダイヤモンド・プリンセス号です。なんと総トン数は115875トンもある世界最大級のクルーズ船です。こうした巨大な船の全貌を撮影するのは、大変に難しいですが、広角レンズの活躍のしどころです。写真をクリックすると拡大できます。

ズマロン28㎜f5.6

最新のカメラ・ライカSLに最新の復刻版!ズマロン28㎜f5.6を装着したところです。

正面からみたところLEICAとSUMMARON-M-1:5.6/28mmと表示されています。

 

カメラのおけいこその⑨マウンテン・エルマー105㎜

2017 JUL 14 9:09:47 am by 野村 和寿

マウンテンエルマー105㎜

全長わずか90㎜のライツ(ライカ)一かわいらしい望遠レンズ。Elmar105mmf6.3はなんと1932年製と、今から85年も前に製造された望遠レンズです。現行のカメラLeica SLにもきちんと装着出来、撮影できるところがライカらしいところで嬉しいです。

ポケットに1本望遠レンズをしのばせて、ハイキングに行く。こんなときの望遠レンズは、大きいと邪魔なので極力小さくてしかも望遠というなかなか矛盾したレンズが必要です。1932年生まれのELMAR(エルマー)105㎜f6.3は、製造本数わずか3975本しか作られませんでした。

マウンテン・エルマー105㎜

横浜港内のパイロット船。水先案内人を運ぶ小型船です。今からなんと85年も前に作られた1932年製のマウンテン・エルマー105㎜f6.3で撮影しました。

今の望遠レンズのようにシャープさ一方の感じではなくて、味わいのある柔らかな写真になります。

マウンテンエルマー105㎜

マウンテンエルマー105㎜f6.3 レンズは3群4枚 全長90㎜の小さなレンズです。L39マウントから、M、T(L)と2つの変換アダプターを介すると、最新のライカSL1に装着することができました。

 

このレンズはさすがに絞りf値がf6.3とだいぶ暗いので、1932年当時のフィルム感度では、とても使い物にならいとされたせいか、3975本しか製造されませんでした。現在では、デジタルのおかげでISO感度はf値が多少低くても十分使用に値できます。

マウンテンエルマー105㎜

マウンテンエルマー105㎜を真正面から見たところです。Ernst Leitzの表示があります。高品質のクロームメッキ仕上げのボディです。

小型コンパクトの強みは、さっと、レンズを変更して、装着し、撮影できるところにあります。おりから、大桟橋を静かに出航していった豪華クルーズ船飛鳥Ⅱを捉えてみました。ここでも、古い写真のように淡い印象の飛鳥Ⅱになっています。

横浜港大桟橋を離岸したばかりの飛鳥Ⅱ(総トン数50142トン)。タグボートにひかれて、横浜ベイブリッジにゆっくりと向かっているところです。マウンテン・エルマー105㎜ f6.3 1932年ライツ(ライカ)の望遠レンズです。

ライツ エルマー105㎜は、マウンテン・エルマー別名をアルペン・エルまーと呼ばれています。いかにもドイツのアルプス好きなドイツの作ったとても面白い望遠レンズです。

横浜税関の建造物

マウンテンエルマー105㎜で撮影しました。1934年建造の5階建ての横浜税関(通称クイーンの頭)5階建てで高さ36㍍。本レンズが作られた2年後に建てられています。

いまに至るも、こんなアルプスの名前のついたレンズなんて聞いたことがありません。

カメラのおけいこ⑧ライカのVisoflex

2017 JUN 13 7:07:14 am by 野村 和寿

こちらはデジタルカメラLeica M9に Visoflex ELMAR65mm(正式にはビゾフレックスⅢ型ペンタ部分のコードネームは16499+16479=16498、レンズはエルマーM65㎜f3.5+ヘリコイド(ピント合わせ部分)ユニバーサルフォーカシング・マウント16464と呼ばれ、ドイツらしくきちんと名前がついています)を装着したところです。ファインダーはペンタ部分からのぞき、シャッターは釘のように突き出ているメカニカルな部分を押します。長いアームを押し下げていきますと、ミラー部分が上昇し、さらに織り込むと、カメラのシャッターボタンを押して撮影することができるという仕組みです。なかなかにローテクです。写真をクリックすると拡大することができます。

今回ご紹介するレンズは、ライカのなかでも、異色中の異色、Visoflex(ヴィゾフレックス 通称ヴィゾ)という一種のミラーボックス・システムです。今から50年前1960年代を中心に1950年から1970年まで、Leicaを出していたLeitz社は、日本の一眼レフ攻勢で、正直なところ、苦境に立たされていました。ライカの製造するM3を中心とするレンジファインダーカメラは、ファインダー部とレンズ部分が、別々にあるために、大きな難点をもっていたのです。

シャクヤク

Leitz Viso Elmar65mmを使って、自宅でシャクヤクの花を接写してみました。ずいぶんと接近して撮影することができます。暗部でISO2400で撮影してみました。写真をクリックすると拡大することができます。

まず近接撮影、接写ができないということです。一番近くに寄れても70㎝まで。また望遠が難しいこと。望遠にすると、ファインダー内の望遠表示がとても小さくなってしまって、とても使い物にならなくなりました。一方、ニコンやキヤノンを中心とする日本勢の一眼レフカメラは、「スルー・ザ・レンズ」という考え方で、レンズを覗くファインダーで実際に撮影しようとするものの大きさを見ることが出来ました。また接写にも強く、望遠にも撮影しようとする対象物に、大きく寄ることが出来ましたから、報道関係、スポーツ関係ともにプロカメラマンは、こぞって日本製カメラに移行するのが早かったのです。このライカが苦境に立たされていた時期に、ライカが考えたシステムが、Visoflexという名前のシステムです。おおまかにいえば、ファインダーの前に大がかりな一眼レフのペンタプリズムを装着して、無理矢理にレンジ・ファインダーのLeicaを一眼レフ仕様へと変えてしまおうという考え方でした。

Leicaのすごいところは、Leicaはあくまでも、レンジファインダー・カメラ。付属物のVisoflexはあくまでも補足製品であり、別シリーズではないということです。この一環したところがすごいです。

TELYT200mm

LEITZではVISO用望遠レンズも発売されました。これは、LEITZ TERYT(テリート) 200mmをLEICA M9にVisoflexを介して装着したところです。LEITZでは1960年代、VISO用望遠レンズも発売されていました。これは、LEITZ TERYT200mmをLEICAのデジタルカメラ M9にVisoflexを介して装着したところです。写真をクリックすると拡大することができます。

そこで、登場させたレンズが、エルマー65㎜、90㎜、125㎜、200㎜でした。65㎜は50㎜標準レンズ50㎜からしますと、すこし焦点距離が長いのですが、これはあくまでも接写用に考えられたものでした。90㎜と125㎜は、M型マウントでライカのM型のカメラにも装着でき、Visoflexとの共用、200㎜は、Viso専用というように色分けがされていました。90㎜と125㎜をM型にもVisoにもどちらにも使用できるという考えもいかにもLeicaらしいと思います。

氷川丸を200㎜で撮影

横浜・山下埠頭にて氷川丸を撮影。LEITZ CANADA TERYT200mmf4写真をクリックすると拡大することができます。

VISO FLEXのペンタ部分

Visoflexのレンズを取り去ると、奥にミラーがあり、ミラーに反射した画像を上部のスクリーンに投影します。このミラーがはねてレンズが撮像素子に光を通すことになります。写真をクリックすると拡大することができます。

Visoflexが思わぬ復活をみせるときがきました。Visoを使わなくても、マウンド・アダプターをレンズとカメラとの間にかませることで、Visoレンズを使用できることになったのです。下は、ソニーのミラーレスカメラα7Ⅱですが、Viso→ライカR→ライカM→ソニーEと変換アダプターを駆使することで、ソニーに装着できました。

sony elmar65mm

SONY α7Ⅱに変換アダプターを駆使。M→R、R→M M→ソニーでLEITZ Visoflex ELMAR65mmを装着したところです。ライカとは似ても似つかぬ姿になってしまいました。写真をクリックすると拡大することができます。

さらに、面白いのは、VisoflexIは、レンズとカメラのフィルム(今ですとデジタル素子部分)面までの距離のことを、フランジバックと呼ぶのですが、これがVisoの場合、ずいぶんと深い(長い)ために、現在の一眼レフ たとえば、ニコンの現行機種であるD-810にも、変換アダプターを介して装着できるのでした。この場合はとてもシンプルで、VISO→変換アダプター→ニコンと1つのアダプターで取り付け可能です。

Visoflexにはさらに面白いことに、Leitzの望遠レンズエルマー135mmと90㎜が、ある筒のようなものを介して、Visoとしてつなげるのでした。つまり、Visoflex側のピントを合わせる部分(ヘリコイド)は、エルマー65㎜のものを流用しつつ、90㎜レンズの頭部をねじ式にまわして、とりつけ、また、135㎜の場合は、筒を介して取り付けられるのでした。まわりくどいのですが、このまわりくどさが、なかなかマニア心を惹きつけるのです。

nikon D-810 LEITZ LENS

Nikonの現行一眼レフである D-810に変換アダプターを介してLEITZのVisoヘリコイド(ピント合わせ)手前は右からLEITZ CANADA ELMAR65mmf3.5,Hector135mmf4.5(レンズ部分を使って延長チューブ16471OTRPOを取り付けたところ)。Visoの特徴である、ヘリコイド(ピント合わせ)の兼用という考え方(これをユニバーサル・フォーカシングマウントと呼びます)は、質実剛健なドイツ人(つまりは、なかなかけち)にあって合理的だったのでしょう。このような倹約精神を発揮したLeicaはその後は現れていません。写真をクリックすると拡大することができます。

 

まとめますとこうなります。

1,1960年代日本製の一眼レフ攻勢に後れを取ったLeica(Leitz)は、自社のM型レンジファインダーに、ペンタ部分を取り付けて一眼仕様とした。わけても近接接写と望遠というデメリットを、このVisoflexを装着することで、補うような試みだった。

2,ビゾフレックスと呼ばれた本システムには、それぞれにコードネームファインダー部には16499+16479=16498などと)がふられていた。またユニバーサル・フォーカシングマウント(コードネーム16464)を使用し、ときには延長チューブ(コードネーム16471 OTRPO)を使用することにより、レンズをVISO上で共通使用するという、ドイツ人らしい、質実剛健と合理精神の考え方を取り入れた画期的なシステムだった。

3,50年の年月を経た今日、再びVisoに活躍の場が現れた。ミラーレスカメラにマウントアダプターを介してVisoを取り付けることが出来るようになり、

5,また構造上、なかなかオールドレンズを装着しにくい一眼レフカメラにさえも、Visoは装着可能となった。

しかし、こうしたLeica(Leitz)の努力も、Viso3代に亘り続いた物の、一眼レフの攻勢にはとうとう勝てず、Leicaも一眼レフ(R LEICA REFLEX SYSTEMS)シリーズを誕生させることとなりました。

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インペリアル航空第109便その2

2017 JUN 4 15:15:16 pm by 野村 和寿

本の題名 インペリアル航空第109便とは実際にあった飛行機会社なのでしょうか?これをつきとめるのが、今回です。

インペリアル航空パンフレット

これが1937年版インペリアル航空イギリス南アフリカ便のパンフレットです。Special thanks to HP  airline timetable

エンパイア

インペリアル航空が実際に運航に使用していたショート・エンパイア飛行艇です。

インペリアル航空は確かに実在していました。インペリアル航空とは1924年から1939年まで実際に存在した英国の航空会社です。その後第2次世界大戦に突入したため、ブリティッシュエアウェイズ(今のとは異なります)と合併して、英国海外航空(BOAC)となり、さらに、1974年にBA(英国航空)となりました。ショート社のエンパイア、戦後には改造型の諸ショート・サザーランドといった飛行艇を擁していました。

インペリアル航空の運航図です。クリックすると拡大できます。この世界図では、イギリス・ササンプトンから南アフリカ・ヨハネスブルクに地図が伸びています。またアジアは、シンガポール、オセアニア・オーストラリアにまで便がのびていることがわかりますが、日本は当時まったくの蚊帳の外なのがわかります。

実際にインペリアル航空の運行表をみてみます。

インペリアル航空運航図

インペリアル航空イギリス・サウサンプトン・南アフリカダーバン間の経由図です。Special thanks to HP  airline timetable

インペリアル航空料金表

インペリアル航空の運賃表です。ロンドンから11番目のDurbanをごらんください。225ポンドとあります。これは往復の運賃です。Special thanks to HP  airline timetable

実際の費用は、インペリアル航空の航空運賃をみてみますと、ダーバン(南アフリカ)ロンドン(ササンプトン)間が、往復で225ポンド。

ちなみにインペリアル航空の時代設定である1930年代の貨幣価値は1ポンドが、当時の日本円で17円くらいでした。日本円に換算すると3,842円

なんと510万7393円! すごいお値段です。

現在の英国航空のロンドン・南アフリカ ダーバン便を検索してみます

ヨハネスブルク(南アフリカ)19:20発 ロンドン・ヒースロー着05:30着(いずれも現地時間 所要時間21時間40分 ファーストクラス77万6,700円)

1930年代はやはり飛行艇は10数名しか乗客が登場できず随分と割高だったのがわかります。

■飛行艇は英語ですと、Flying boat になります。Air shipですと飛行船です。船から航空機へ。確かに現在でも航空機の機長はみずからの機をシップと呼び、また自らをキャプテンと呼ばせています。この呼称も船の名残なのだと思います。

■インペリアル航空の運航時刻表をみましょう。不思議なことに、エジプトにはルクソール、カイロ、アレクサンドリアとなんども着水します。最初、これは何だろうと思っていたのですが、どうも観光旅行の一助だと推察します。つまりルクソールのファラオやピラミッドの上空を旋回し、乗客に観光してもらおうという計らいらしいのです。

また、着水場所を調べていくと、湖沼や河、港湾の最奥部のことが多く、なるだけ波静かな海を着水地点に選んでいたこともわかってきました。

インペリアル航空運行表

実際のインペリアル航空南アフリカダーバンからイギリス・サウサンプトン間の運航旅程表です。Special thanks to HP  airline timetable

南アフリカのダーバンを10:00発

1日め*ダーバン(南アフリカ)発10:00

*ロレンソ・マルケス(旧ポルトガル領モザンビーク現モザンビーク共和国)

着13:00 現在の名称はマプト モザンビークの首都 マプト湾テンベ河口

マプト

ロレンソ・マルケス(マプト)写真をクリックすると拡大できます。

*べイラ(同)その日の午後着 時間未定 ベイラ1泊

ベイラはモザンビーク湾をのぞむモザンビーク第2の港湾都市

ベイラ

1905年頃のベイラです。写真をクリックすると拡大できます。

2日め*ベイラ発 06:00

*モザンビーク着10:40

*タンガニーカ・リンディ(旧英国領 タンガニーカ共和国をへて現在タンザニア連合共和国)着14:26タンザニア南部にリンディ湾億に位置する。

タンガニーカ・リンディ

タンガニーカ・リンディ 写真をクリックすると拡大できます。

*タンガニーカ・タルエスサラーム(同)その日の午後着 時間未定 タラエスラム1泊 インド洋に面した都市 タンザニアの元首都(現在の首都はドドマ)

*なおタンザニア人は、第2次世界大戦では、イギリス軍ニ87000人が出征し、インパール作戦で、イギリス軍の一員として日本軍と戦ったことはあまり知られていません。

3日め*タンガニーカ・タルエスサラーム発08:00

ダルエスサラーム

現在のダルエスサラーム

*モンバサ(旧英国領 ケニア)着10:00モンバサはケニア海岸州モンバサ島の都市

モンバサ

現在のモンバサ 写真をクリックすると拡大できます。

*キスム(ケニア)着 その日の午後着 時間未定 キスム1泊キスムはビクトリア湖カビロンド湾奥部

4日め*キスム(ケニア)発07:00

*カンパラ・ポートベル(旧英国領 現・ウガンダ)着7:45

カンバラ・ポートベルはビクトリア湖北岸

カンパラ

ブルーの部分はアフリカ最大の湖、ビクトリア湖。その北部のわずかに黄色い部分がカンパラ市街です。写真をクリックすると拡大できます。

*マラカル(英埃=エジプト領スーダン 現・南スーダン)着13:25   マラカルは、スーダン上ナイル地方東部ナイル州

*ハルツーム(スーダン)その日の午後着 時間未定 ハルツーム1泊    ハルツームはウガンダから流れる白ナイル、エチオピアから流れる青ナイルの合流地点の南岸

ハルツーム

現在のハルツーム 写真をクリックすると拡大できます。

5日め*ハルツーム(スーダン)発07:00

*ワディハルファ(スーダン)7:45

*ルクソール(エジプト)着14:05 ルクソールはナイル西岸古代エジプトの都テーベがあった所。

ルクソール

古代エジプトの都テーベがあったルクソールです。ナイル川のほとりにあります。写真をクリックすると拡大できます。

*カイロ(エジプト)着16:55 ナイル川下流河岸の交通の要衝

*アレクサンドリア着 夜着 アレクサンドリア1泊 ナイル川デルタの北西部

アレクサンドリア

現在のアレクサンドリアの港湾風景です。アジアとアフリカ、ヨーロッパとを結ぶ要衝に位置していたために、当時飛行艇の基地として有名でした。写真をクリックすると拡大できます。

6日め*アレクサンドリア(エジプト)発05:45

*アテネ(ギリシャ)着11:05

*ブリンディジ(イタリア)13:30 イタリア半島の靴のかかとに位置するプーリア州 19世紀スエズ運河開通以降、アジア、アフリカとヨーロッパとを結ぶ欧亜航路などの発着地の一つ 森鴎外「舞姫」の冒頭に登場します。

ブリンディジ

ブリンディジの港です。写真をクリックすると拡大できます。

*ローマ(ブラチアーノ湖・イタリア)その日の午後着 時間未定 ローマ1泊

ブラチアーノ

ローマ近郊のブラチアーノ湖に飛行艇は着水しました。写真をクリックすると拡大できます。

7日め*ローマ(イタリア)発8:15

*マルセイユ(フランス)着10:50

*サン・ナゼール(フランス)その日の午後着 時間未定 サン・ナゼール1泊 仏大西洋岸ロワール川三角州の右岸に位置する。

8日め*サン・ナゼール(フランス)発09:00

サンナゼール

フランス・大西洋岸のサン・ナゼール 写真をクリックすると拡大できます。

*ササンプトン(イギリス)着11:00

サウサンプトン港はタイタニック号も1912年4月10日にサウサンプトンからニューヨークへ向け出航しました。写真をクリックすると拡大できます。

*ロンドン・ウォータールー駅 午後着 8日めにしてやっとロンドンに到着しました。おつかれさまでした。

ロンドン・ウォータールー

ロンドン・ウォータールー駅

そしてとうとうYou tubeで飛行艇の内部、サービス風景、飛行風景の動画を発見しました。BBCのHig Fryers How Britain Took to the Airという映像です。全部で58:11ですが、なかでも42:57前後からインペリアル航空のサウサンプトン発南アフリカ行きの映像が登場します。お楽しみにごらんください。

これも、BBCが制作したThe Last African Flyinfboat full documentary という1980年ごろのドキュメンタリーです。全部で1時間13分の長編ですが、最後にのこったエジプト・アレクサンドリアに残った飛行艇で飛行してみるという内容ですが、冒頭の4分までは、1930年代のインペリアル航空の実際の機内サービスが動画で捉えられています。飛行艇の内部が観られるなんてまさに夢のような瞬間でした。

 

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インペリアル航空第109便

2017 MAY 31 12:12:26 pm by 野村 和寿

長いこと読もう読もうと思っていましたが、ようやく暇が出来て、1ヶ月かかって読破いたしました。飛行艇ものの冒険小説としては名高い「インペリアル航空第109便」。2段組で403ページという長大な小説です。「飛行艇もの」は、当然、乗客も十数名に限られており、人間関係とそれぞれの事情が色濃く描かれます。飛行艇の旅程も長く、しかも世界中を飛ぶということからミステリーものには大変適している題材です。ちょうど、アガサ・クリスティが「オリエント急行殺人事件」が密室の殺人事件ものというのとどこか似ています。原題はIMPERIAL 109(Arlington Books;1977)著者はリチャード・ドイル。コナンドイルの甥孫(甥の息子)なのです。

インペリアル航空第109便表紙

『インペリアル航空第109便』表紙リチャードドイル 小菅正夫訳 サンリオ刊1981年初版

インペリアル第109便オリジナル版IMPERIAL109 Arlington Books1977(写真左)、IMPERIAL109 Kindle VERSION

IMPERIAL航空で実際に使用された飛行艇 ウィキペディア パブリックドメイン

『インペリアル航空第109便』日本語版より

『インペリアル航空第109便』中表紙より「飛行艇カテリナ号構造図」

舞台は1939年 ナチス・ドイツと英仏のミュンヘン宥和会談直後、オーストリアがナチス・ドイツに併合された後で、ナチス・ドイツによるチェコスロヴァキアに進駐した頃という戦争の足音までもが色濃く反映されています。

インペリアル航空G-ADHO第109便カテリナ号 登場人物もお金もちの乗客も多く、恋の話もあり、途中、機長デズモンドは、エジプト・カイロで自動車レースにまで出場(カイロ→ファイユーム往復 車1924年製イスパノ・スイザ・ブローニュ、好敵手はデステ男爵1938年製ドライエ ル・マン24時間レース1938年優勝)

登場人物は、1930年代に、長距離飛行の乗客なので当然お金持ち、鉱山資本家夫妻、やお金にいとめをつけない男爵夫妻、さらには、お金持ちを付け狙う泥棒、そして時代ということで、ナチスドイツの陰謀まで見え隠れし、ウィーン在住ユダヤ人の国外脱出にまで話しが行きつきます。

登場人物 操縦士 ●デズモンド・オニール(カテリナ機長主人公アイルランド人 冷静沈着な操縦、大西洋横断はこれで6度目。ただいま妻と離婚協議中、新しい恋人とつきあっている。1924年製イスパノ・スイザ・ブローニュを駆り自動車レースに出場)

イスパノ・スイザ・ブローニュ

主人公デズモンドがエジプト王から譲り受けたスポーツカー イスパノ・スイザ・ブローニュ

操縦士●ケン・フレーザー副操縦士(告げ口好き)●ラルフ・ケンドリックス(通信士 元ユンカース機で墜落のトラウマ) ●サンディ・エヴェレット(パーサー客室係)●スチュワート・アンディ・ドレーパー(元客船キュナードの客室係スチュアードだった。スチュアード)

乗客●スチュアート・カーティス(実業家 クラークスドーブ南アフリカ鉱山を経営。しかし自社株がことごとく値を下げており、NYで自社株の速やかな売却をもくろみ、そのために大層急いでいる。)

●シャーロット・カーティス(根っからの金持ち妻 派手好き)

●アルフレッド・デュクロワ(ミセスカーティスのメイド) ●ルカ・デステ(イタリアの男爵 シャーロットと仲がいい。大型のドライエで、シャーロットをのせて、カイロ・ファイユーム自動車レースに出場、デズモンドと競う。)●ジャケッタ・デステ(妻 サヌーシと仲がいい)ローラ・ハートマン(アメリカ人 カーティスの若き秘書

ドライエ

乗客のイタリア貴族ルカ・デステ男爵がレースで使用した車ドライエです。Cabriolet Delahaye 135 MS carrossé par Pourtout

●キング夫妻(アメリカ・アリゾナ州フェニックス在雄の中年夫婦)●ジョンソン夫妻(子連れ)●ドクター ヴァン・シュミット(鉱山技術士 実は泥棒)●イアン・ソーン海軍大尉(アフリカ・シャンベで鰐に襲われて死亡)●パメラ(デズモンド・離婚係争中の妻)

■まきおこる諸問題 ●燃料タンク漏れでアフリカ・シャンベに緊急着陸●若き海軍ソーン大尉がアフリカ・シャンベで大鰐に襲われる●ラシッド・アル・サヌーシ(若きアラブ人で敵デステを狙う。トルコ人アーメッド・ヤルチン・ベイになりすます)が一族の敵をうつため、ルカ・デステ男爵を狙う。●ダーフィト・ヴィーツマン(ユダヤ人ウィーン大学医 学部長)●ジーグレット(ユダヤ人 ヴィーツマンの娘)父娘がナチスの要人(ヒットラー)の出自の秘密を知る為追われローマから本機に乗り込む。●元米陸軍航空隊所属の操縦士だったパット・ジャレットが、ウォーレン湖で積み荷の金塊をねらうべく本機に襲いかかる。

■敵●パウル・リントレン(ナチス・スイスのエルンスト・ペルレル名義のにせパスポート) ●パット・ジャレット(第1次世界大戦に参戦した元陸軍航空隊所属のパイロット 全長27フィートのスーパーマリン機をもつ。ニューハンプシャー・ウォーレン湖で搭載の金塊を狙う )インペリアル航空第109便飛行経路

■旅程 1939年3月10日金曜日南アフリカ(ダーバン)、シャンベ緊急着陸(スーダン) ウガンダ(ポート・ベル)マラカル(スーダン)エジプト(ハルトゥーム・カイロ・アレクサンドリア)、クレタ(ミラベル)、アテネ、ローマ(ブラチアーノ湖)、マルセイユ(マリニョーヌ)、イギリス(サザンプトン)、南アイルランド(シャノン河口フォインズ上空で空中給油)カナダ(ニューファンドランド=ポトウッド・モントリオール)、NY(イーストリヴァー・ラガーディア・マリン・ターミナル)1939年3月16日アメリカ東部標準時16:00約6日間もかかる豪華な豪華な旅行なのです。このあたりは船旅の影響を色濃く残しています。

IMPERIAL航空 ロンドン南アフリカダーバン線時刻表1937年の実際の運行時刻表

SPECIAL THANKS TO HP airline taimetable images
http://www.timetableimages.com

■話のおもしろさ

事件は早々に起きます。燃料タンク漏れで、シャンベ(スーダン)に緊急着陸。ミセス・キングの上陸の際に、上陸用の船を動かそうとした海軍ソーン大尉が河の大鰐に襲われ命を落とすという事件が起きてしまうのでした。飛行艇は空港設備がなくても、大きな海や大きな河、大きな湖など係留設備がありさえすれば、どこでも着水することができます。シャンベにもインペリアル航空の支所が設けられ、給油の手配あ連絡員が配置されています。さらに、1939年当時イギリス軍払い下げの爆撃機を改良して、空中給油も行われていました。なにしろ一時に長距離は飛ぶことが無理なので、大都市に着陸する度に当地の有名ホテルに宿泊し、豪華な食事をいただくこともできました。

カイロ・シェパーズホテル日文研データベース

エジプト・カイロ・シェーパーズホテル「太陽の通路で:地球早まわり日記読本1893年
」日文研データベースより

HOTELリスト

インペリアル航空が実際に提携した停泊地のホテルリスト

■操縦風景 カイロ到着予定は12分後、2千フィートまで降下 速度140ノットまで落とす。回転数2千 風速南西より20ノット 視界良好 スロットル全開 砂埃でわずか数分のうちに弁や空気取り入れ口がつまりたちまちにして複合した出力低下をきたす。エアポケット、400フィート降下 3番エンジンオーバーヒート 700フィート、650、600。デズモンドの眼は高度計に釘付けになった。480,45機首があがりはじめる・・・。/機首 係累索を解く。エンジン始動の準備 4基のエンジンがたてつづけにすばやく息を吹き返す。轟音響き渡る。4分の1フラップ プラッチアーノ湖からイタリア領海をんけだす。マルセイユまでのルート、30分でコルシカ島ロトンド山が見えてくる。高度7千・・・。マルセイユ12時15分前m民間空港マリニョーヌ着水・・・。

■本の紹介文

「1939年3月10日 世界大戦の迫りくるころ、インペリアル航空第109便は、200万ドル相当の金塊を摘んで、やがて悪夢へと突入することになる6日間の旅に出発した。インペリアル109は大英帝国の果てから果てへと郵便物や貨物、12人の乗客を運ぶ壮大豪華な飛行艇として知られていた。白く輝く胴体、高く伸びた翼、1000馬力の過給されたブリストル・ペガサス12ラジアル・エンジンを4基搭載し、喫煙室、個室、散歩用デッキや劇場の設備もあり、後宮な乗客を運んでアフリカ全土をナイル河デルタ地帯やカイロを経て、ギリシャ、イタリア、フランス、そしてロンドンを通って目的地のニューヨークまで就航している空飛ぶ宮殿として評判であった。だが、その便には復習の念に萌えるアラブの貴公子、冷たく妖しい美貌で男達を乱す女、冷酷なゲシュタポの手先、偏屈な金銭欲にかたまった億万長者らが同乗し、機長のオニールと乗員ともどもスキャンダルと政治、陰謀と恐怖、破滅と誘惑に巻き込み、やがてニューヨークでクライマックスに達する旅を開始するのである。やがて消えゆく大戦前夜の悦楽と華美のノスタルジックな背景とスリリングで緊張感あふれる物語を対照させてサンデータイムズ紙に評されたエンターテインメント巨編!!(裏表紙の紹介文より)1981年初版刊行当時の勢いが文章に表れています。本書を読みたくなってきましたか?本書はもちろん現在は絶版になっています。しかし好都合なことにアマゾンの古書店で1円から購入することが可能です。

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カメラのおけいこ⑦OLYMPUS PEN今から8年前のデジタルカメラをチェックしてみました!

2017 MAY 1 13:13:29 pm by 野村 和寿

今から8年も前にオリンパスから発売された往年のベストセラーカメラ オリンパス・ペンのデジタル版です。名機の誉れ高いオリンパス・ペンを設計したのは、米谷美久氏(1933-2009年)で、1959年のこと。オリンパス・ペンは、カメラのデジタル化が1988年に始まってもなかなかデジタル版オリンパス・ペンが再登場することがなく、2009年満を持して登場したのが、本カメラ オリンパス・ペンE-P1でした。奇しくも設計者米谷氏が天寿を全うされたその年に発表されたのでした。

2009年登場のオリンパスE-P1 14-42㎜(35㎜カメラ相当28-84㎜)

このカメラを、8年後の今、もう一度、出してきて使ってみることにしました。はたしてどの程度のパフォーマンスを発揮しくれるでしょうか?

 

なんといっても、子どもの頃から欲しかったオリンパス・ペンその最初のデジタル版のオリンパス・ペンでありまして、ぼくはこのところがとても大事に思っている次第なのです。

それでは今使ってみるとはたしてどうなんでしょうか?まだまだ使えるのでしょうか?ぼくは半信半疑だったのでsが、使った後の感じは実に心地よいものでした。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

横浜港大桟橋に停泊中の豪華客船飛鳥Ⅱ。OLYMPUS DIGITAL CAMERA E-P1 14㎜(35㎜相当28㎜)絞りf10 1/400秒 ISO200で撮影しました。

発売当時、店頭展示用ともとることのできる、デジタルならではのいろいろな補正をかけることができますよというのを売り物にしていました。

ボディ左側にあるポジション切り替えここでiAUTOからSCNポジションに変更。

ポジションSCN

SCNポジション1−9です。

SCNポジションその2

SCNポジションその2 10−19です。

ぼくはSCNというポジションには、ボディ左側に、切り替えポジションがありました。iAUTOからSCNにポジションを切り替えて使うのです。

 

 

 

 

 

 

 

このうち、SCN12に、マクロというポジションがあります。SCN13にはネイチャーマクロというポジションを見つけました。(写真下 上から1段目)いわゆる花を撮影するときの接写のモードです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このポジションを使って花を撮影してみました。撮影した写真が、これです。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

京王井の頭線・駒場東大前付近の線路端に咲くポピーです。OLYMPUS DIGITAL CAMERA E-P1 42mm(35mm相当84㎜)絞りf8 1/200秒 ISO200

35㎜相当でいえば、84㎜とほぼマクロレンズに相当します。なかなかいい感じで撮れています。ARTというポジションもあります。

ART

ARTポジション

6つのARTポジションおうちで、ART2はファンタジックフォーカスです。このポジションを使って撮影してみましょう。このポジションで撮影すると、シャッターを押してから後に、フィルターがかかって処理中にいったんなりました。これが撮った写真になります。特に後処

横浜の旧英国領事館(現在は開港資料館)。OLYMPUS DIGITAL CAMERA 14mm(35mm相当28㎜)ファンタジック・フォーカス・モード絞りf5 1/160秒 ISO200

 

理はしていないのですが、ソフトフォーカス気味にふんわりと少しですが、ボケ味が出ています。それがファンタジックな所以でしょうか?

横浜港を行き来する遊覧船と、遠くに横浜税関の塔が見えます。OLYMPUS E-P1 SCN3 風景ポジションで撮影 絞りf8,1/320秒、ISO200、OLYMPUS DIGITAL CAMERA

SCNには「3」に風景モードもありましたので、試してみましょう。上がその写真です。遠くに見える横浜税関の古い塔と、手前の休んでいる横浜港の遊覧船の遠近感をすこしですが、強調してみせています。ちなみにSCNやARTはよく使うポジションを1つづつですが、登録することが可能でした。

撮影モードは、JPEGのほかにJPEG+RAWモードも装備していました。(しかしなぜか、このRAWデータ・モードはあくまで簡易モードらしく、MACには対応しておらず、WINDOWSのみに対応していました)結論として、確かにOLYMPUS E-P1は、液晶モニターも今に比べると相当にまだまだでしたし、撮影モードのメモリーも1つづつしかなく、正直まだまだ即座に対応できません。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

横浜・日本大通り沿いにあった花の植え込みです。カメラ OLYMPUS E-P1 レンズ ZUIKO14mm(35mm相当28㎜)f8 1/320秒 ISO200

しかし、店頭モードであったはずの、SCNやARTモードは十分に使うことができました。これはぼくが思うに、OLYMPUSのレンズであるZUIKOのレンズ性能が素晴らしいので、デジタル処理のポジションでも使うことが出来るのではないかと思いました。

主な仕様は次の通りです。2009年7月3日発売のオリンパスのミラーレスの当時世界最小・最軽量のデジタルカメラ オリンパス・ペンE-P1 M-ZUIKO DIGITAL ズームレンズED14-42mm(35㎜相当38−84㎜) f3.5から5.6 当時の価格は、レンズキット付きで10万円前後。デジタルイメージセンサーは、オリンパスはルーミックスとともにフォーサーズ(4/3型の大きさ=インチ 17.3㎜×13㎜)センサーを採用しています。約1230万画素、液晶モニターは3.0型TFTカラー液晶(約23万ドット)、リチウムイオン電池 充電時間約3時間30分。

ZUIKO レンズ

カメラとともにレンズキットとして提供されたZUIKO レンズ14−42㎜(35㎜相当28−84㎜)です。

ちなみに、現行のオリンパス・ペンは同じくマイクロフォーサーズ型レンズ交換式で、4/3型イメージセンサー 約2177万画素、液晶モニターは3.0型2軸可動式液晶(約104万ドット)とスペックだけをながめるとまさにこの8年の間に隔世の感があります。

OLYMPUS

OLYMPUS E-P1 2009年デジタル初のオリンパス・ペンでした。寸法・幅120.5×高さ70×奥行き35㎜・335㌘

 

 

 

 

 

しかしながら、スペックだけでは収まらないカメラへの愛着という点でこのOLYMPUS E-P1はなかなかチャーミングなカメラでした。発売の2009年当時、カメラ・レンズ込みで約10万円でしたが、中古価格市場で8,873円でした。やはりデジタル価格は随分と変わるもので残念です。ぼくはこのカメラ好きです。

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1949年のロンドンから東京へ飛行艇の旅

2017 APR 18 16:16:12 pm by 野村 和寿

BOAC(英国海外航空)1949年3月の時刻表から、ロンドンから遠く、ファー・イースト東京までの飛行機の旅を再現してみます。

boac timetable

BOAC(英国海外航空)1949年3月のタイムテーブル(時刻表)です。

ロンドンのBOAC(英国海外航空)の乗客ターミナルから、送迎車でサウサンプトンまで。サウサンプトンといえば、悲劇の客船タイタニック号の出発港として名高い港湾都市です。

就航時刻表

サザンプトン(ロンドン)・横浜(東京)間の就航時刻表です。タイムテーブルの23番目に見つけました。写真をクリックすると拡大できます。

港には、ショート社製の飛行艇サンドリンガム5型号が駐機中。1946年6月22日にデビューした「サンドリンガム号」は2層デッキの飛行艇。艇内は、プロムナードデッキ・ダイニング・カクテル・バーなどを備え、座席で22名、寝台で16名、を搭乗させることができます。

飛行艇

これが搭乗する飛行艇英国ショート社製サンドリンガム5型です。

boac map

BOACの海外ネットワーク図です。右隅にかろうじてTOKYOと記載があります。写真をクリックすると拡大できます。

1949年3月6日日曜日

●ロンドン・ターミナル発7:00(送迎車移動)

  • サウサンプトン(ロンドン)発11:00

    サウサンプトン

    出発港はサウサンプトン

 

 

 

 

 

 

 

 

▇第1経由地は、イタリアのシチリア島

イタリア・シチリア島アウグスタ着19:00

アウグスタ

イタリア・シチリア島の都市アウグスタ(現在)

アウグスタといえば、イオニア海に面した港湾都市で、英国第8軍モントゴメリー将軍によって1943年に連合軍が上陸した都市であります。

この日はアウグスタに宿をとります。

 

 

 

▇3月7日 2日目は、エジプト・アレクサンドリアへ向かいます。

アウグスタ発 午前9:00

アレクサンドリア

アレクサンドリアエジプト第2の都市(現在)

第2経由地は、エジプトのアレクサンドリア 午後15:15着です。

古代エジプトプトレマイオス朝の首都で蟻、エジプト第2の都市です。

ここでまた1泊 飛行艇は、海上のすれすれを飛行するため、昼間の飛行が原則でしかも長時間の飛行は、難しかったのです。

▇3月8日 3日めは、バーレーンヘ向かいます。

バーレーン

バーレーン(現在)

第3経由地は当時英国領バーレーンのバーレーン(現在はマナーマ)

アレクサンドリア発 午前7時

バーレーン着17:00 ここで1時間の休憩をとります。

 

 

 

▇第4経由地パキスタンのカラチヘ向かいます。

バーレーン発 午後18:00

カラチ

カラチ パキスタンの首都

パキスタンの首都カラチ着 日が変わって(3月9日)の日の午前1:45

ここで6:15の休憩 この日はさらに飛行します。

 

 

 

 

▇第5経由地は、インドのカルカッタです。

カラチ発 午前8:00

コルカタ

インドのカルカッタ(現在のコルカタ)(写真は現在)

インドのカルカッタ(現コルカタ)着 午後16:00

コルカタでやっと1泊できます。やれやれ。

 

 

 

▇3月10日 第6経由地は、ビルマのラングーン(現在のミャンマーのヤンゴン)です。コルカタ発 午前6:00

ヤンゴン

ビルマのラングーン(現在のミャンマーのヤンゴン)写真は現在

ビルマのラングーン着 午前11:00 ここで1時間休憩を取ります。

 

 

 

 

BOAC900便の航路図

BOAC900便の航路図を描いてみました。

▇第7経由地は、タイのバンコクです。

3月10日 ラングーン発 午後12:00

バンコク

タイのバンコク

 

第7経由地は、タイのバンコク着午後15:00

ここで1泊します。

 

 

 

 

 

▇3月11日 第8経由地は、香港です。

バンコク発 午前8:00

香港

英国領香港(現在の中国・香港)写真は現在

 

香港着 16:45ここで1泊します。

 

 

 

 

 

 

 

▇3月12日 第9経由地は、上海です。

香港発 午前10:00

上海

中国・上海(写真は現在)

上海着 午後15:00ここで1泊します。

 

 

 

 

 

 

▇3月13日 いよいよ東京(横浜)に向け出発します。

上海発 午前8:00

日本の岩国・到着時刻は午後17:00

横浜

横浜 写真は現在

ここでさらに1泊し

3月14日 岩国発午前7:30

横浜(東京)着10:30

 

時刻表にはどこにもないのですが、たぶん、到着時刻は現地時間のような気が致します。

やっと横浜港に到着しました。なにしろ飛行艇なので、羽田飛行場ではなくあくまでも、横浜港というところが面白いです。

旅程をみると、後年、南回りヨーロッパ行き航路東京=マニラ=バンコク=ラングーン=カルカッタ=ニューデリー=カラチ=バーレーン=カイロ=ローマ=ロンドン(1952年:英国海外航空、機材:デハビランド DH.106 コメットI、経由地:9箇所) とよく似ていたことがわかります。

▇まとめてみますと

3月6日日曜ロンドン・ササンプトン発

3月14日月曜東京(横浜)着

実質飛行時間 73時間45分

所要時間8泊9日 どうですか?素敵な旅をご堪能いただけましたでしょうか?

tokyo料金表1

東京発の運賃表左が片道、2番目が往復運賃、次がエクセス・バゲージ料金です。    写真をクリックすると拡大できます。

 

london料金表

こちらはロンドン発の運賃表 機内持ち込み荷物は24㌔までキロあたり5ポンドです。 写真をクリックすると拡大できます。

気になるお値段ですが、往復387ポンド、片道215ポンドとあり、1949年の円・ポンド換算が1ポンド1,080円でしたので、単純計算すると往復370,046円、片道216,720円となります。昭和24年と平成27年とで7.75倍になっているので、現在の貨幣価値ですと、おおよそ、往復2,86万7,856円 片道1,67万9,580円。 ちなみにBA(ブリティッシュ・エアウェイズ)の正規ファースト・クラス・ロンドン往復航空運賃が1,34万2,690円

所要時間12時間20分(ノンストップ)ですので、約2倍のファースト・クラス運賃と思ってよさそうです。

boac 22

これは当時のBOACのパンフレット(別の路線バーミューダ島路線)から乗り心地を想像できます。BOACは27年の実績からお客様に素晴らしいサービスをお約束いたします。 写真をクリックすると拡大できます。

内部レイアウト

英国ショート社製サンドリンガム5型機内の内部レイアウトです。艇内は、プロムナードデッキ・ダイニング・カクテル・バーなどを備え、座席で22名、寝台で16名を搭乗させることができます。写真をクリックすると拡大できます。

 

Courtesy of http://forum.keypublishing.com/showthread.php?79617-Need-a-Photo-of-Short-Sandringham-5-quot-Portland-quot

エアバスA380

飛行艇サンドリンガム5型は、内部キャビンの豪華さなど、エアバスA380型機と相通じるところがあると思います。

ちなみに、2015年 日本海上自衛隊の飛行艇US-2が、インドへ売却されることに決まりましたが、なぜ日本かといえば、現在飛行艇を生産している国は日本しかないからです。

Special thanks to:

The Collections of either Björn Larson or David zekria

“Airline Timetable Images”

http://www.timetableimages.com/ttimages/complete/complete.htm

 資料 『時刻表世界史』曽我誉旨生著 社会評論社2008年刊

写真・ウィキペディア・パブリック・ドメインより

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