Sonar Members Club No.5

カテゴリー: 音楽

コンサートの拍手

2022 JUL 26 17:17:29 pm by 大武 和夫

あまり嬉しくない風景がすっかりコンサートホールに定着してしまいました。それは、オーケストラ・メンバーの最初の1人が舞台に現れると直ぐに拍手が始まり、延々と続き、やがてコンサート・マスターが登場すると拍手は高まり、彼/彼女のお辞儀でようやく鳴り止む、という風景です。

静寂の中で団員が出そろい、チューニングが終わって再び静まりかえったホールにやがて指揮者(と場合によってソリスト)が登場し万雷の拍手を浴びる、というのが私が理想とする風景です。そこではコンマスへの拍手もありません。

まずコンマスへの拍手から書いてしまいましょう。リーダー(コンマスの英語圏での呼び名)に拍手するのは恐らく英米の習慣で、欧州大陸では、その伝統はほとんど無いか、あるとしても歴史が浅いと思います。著名オケのコンマスと言えば欧州では大変な地位なのですから、拍手ぐらいしても良いように思えますが、コンサートの主役はやはり指揮者(とソリスト)だという考えなのだろうと推察します。その指揮者・ソリストの登場前に大きな拍手が与えられてしまうと、もうクライマックスが来てしまったように思え、指揮者・ソリストをわくわくしながら待つ楽しみが半減してしまいます。

日本でもコロナ以前のN響では、マロさんは拍手を受けていなかったように記憶していますが、現在では普通にお辞儀をして拍手を受けているように見えます。(あまりN響は聴きに行きませんので、記憶違いかもしれません。)

私にとって更に居心地が悪いのは、最初にステージに登場する団員から延々と拍手が続くことです。これが始まったのは、コロナで一切のコンサートが行われなかった数ヶ月の後、勇気を持ってコンサートを開催してくれたいくつかのオケのコンサートで、聴衆が溢れる感謝と喜びをオケに対する励ましとともに拍手の形で表現したときだろうと思います。2020年夏にそのようなコンサートのいくつかに足を運んだ私自身、同じように行動していました。それは感動的な瞬間でした。聴衆が文字通り一体となる、そういう一体感を味わえる瞬間は、実は滅多にあるものではありません。

しかし、それは非常時の感情表現であり、Life “with” Covid 19が常態となった今でも続けるべきこととは思えません。私には、今やすっかり惰性となっているように思えます。ブルーインパルスの編隊飛行に感動するのは、特別な機会に特別な思いを込めて飛んでくれるからです、あれを毎日やって欲しいと思う人はいないでしょう。拍手も、私に言わせれば同じで、現在のだらだら続く拍手は、むしろ指揮者・ソリストの登場をアンチ・クライマックス化してしまっているように思えてなりません。

もう一つ居心地がよくないのは、音楽会開始時ではなく、幕間がある音楽会における後半の演奏開始時です。前半開始時と同様のプロトコールで出迎える聴衆、それがもう習慣となっているオーケストラがあるかと思えば、後半は指揮・ソリストにしか拍手を送らない聴衆/オーケストラ/演奏会もあります。この不統一が、私には居心地が良くありません。

独奏会であれば奏者が登場するたびに拍手が起きます。皆それを当然と思って疑いません。オーケストラの演奏会における指揮者に対しても同様です。ところが、コンマスを含むオーケストラ団員に対し登場の都度拍手をするかどうかは、決まっていないように見えます。こういうことを無理に統一する必要はないと思いますし、各自の自由に任せれば良いという気もしますが、それでもなんだか割り切れない思いを持つのは、恐らく聴衆自身が新しい流儀にまだ馴染んでおらず、戸惑いを持っていて、とりあえず周囲の動きに同調しておこうという気配が見てとれ、それを私は非常に日本的で嫌だと感じるからです。

団員が登壇しても拍手を始めず、コンマスが登場しても拍手しない私は、今やホールの異端児です。最近では、なんだかそのこと自体に居心地の悪さを感じてしまいます。だからと言って宗旨替えをする積もりも無いのですけれど。

コロナ以前に戻らないものかと、音楽会に足を運ぶたびに思う今日この頃です。

素人音楽批評

2022 JUL 8 17:17:52 pm by 大武 和夫

またしても前回の投稿から随分月日が経ってしまいました。私としても想定外でした。

昨年、ある尊敬するアーティストとお話ししていて、当ブログに話が及び、ブログでは極力アーティストの悪口は書かないようにしています、と申しました。これに対し、そのアーティストは大略(=パラフレーズしています)、当然です、素人に根拠のない悪口を書かれるぐらいプロにとって迷惑なことはありません、そんなに批判するなら貴方演奏してみなさいよ、と言いたくなります、とおっしゃるのです。これは時折みかける演奏家側の反論ですが、そういって簡単に片づけられない重みがありました。当該アーティストの音楽の素晴らしさ、音楽に取り組む態度の真摯さ、そして音楽に関する限りご自分にも他人にも厳しく妥協を許さないその姿勢を熟知し、尊敬していたからです。

その会話に触発されて種々検索してみた私は、音楽の分野に限らず、匿名でなされるネガティブな批評に対する反感・憎悪の表明がいかに多いかを知りました。音楽関係者の投稿もありました。私の興味を引いたのはもちろん音楽関係者の投稿です。こっちは生活がかかっているんだ、匿名の批評なんてサイテーだぞ、ろくに音楽の分からない素人は黙っていろ、言いたいことがあるなら自分の日記に書け、公開するな!といった見解の表明です。

しかし、匿名と氏名公表の違いが問題である筈はありません。ネガティブな批評の内容や書きぶりが批評対象者から見て耐えがたいものであるが故の反論・批判なのですから、匿名かどうかは重要ではないでしょう。匿名批評はアマチュアの手になるものが多いという経験則に照らせば、匿名批評批判は、どうやら匿名性自体の批判ではなく、素人による批評に対する批判がその本質であるように見えます。つまり、匿名ネガティブ批評批判も、氏名を明らかにしたうえでのネガティブ批評の批判も、結局のところ、アマチュア批評批判に他ならないのではないか、ということです。

そのような匿名批評批判と尊敬する音楽家の批判に通底するのが、素人による批評に対する批判だとすると、これはなかなか根深い問題だぞと思われて、書きかけていた本ブログ投稿用原稿の筆がパタリと止まりました。

そして私は、いったい私のような素人にプロの音楽家の音楽作りをあれこれ言う資格などあるのだろうかと懊悩することになりました。もとより私の駄文は印象批評に過ぎず、誰の役にも立たない類のものです。それが、時としてプロの音楽家を傷付けることがあるのだとしたら、私にはそういう権利は無いな、と思ったのです。

しかし、時が経つにつれて、それは自分の投稿についての意識過剰のなせる業だと思うようになりました。世間の大多数の人々にとって私の印象批評のつぶやきなど、そもそも何の意味もありません。問題となるのは、批評の対象となった音楽家がたまたま私の文章を目にして不快な思いをしないかどうか、という点に限られるでしょう。(誰の目にも触れない媒体・・・例えば日記・・・に何を書こうが、それは基本的には言論の自由の行使として許されます。)しかし、明らかなアマチュアである私のネガティブ批評など、批評対象者であるプロの音楽家にとっては、著名評論家のネガティブな言辞に比べれば、おそらく取るに足りないものでしょう。もちろんこれは、公開に際して一定のエチケットを守り、過度に攻撃的な言辞を控え、素人である限界をわきまえた書きぶりに徹した場合の話です。実は、この最後の点こそ大切だというのが、私の結論の一部です。

それに、敢えて申せば、少なくとも日本には音楽専門教育を受けていないアマチュアの評論家は沢山います。文学部教授が文学から越境して音楽を論じる例、美術家が音楽とのコラボを通じて音楽の世界に足を踏み入れて音楽を論じるようになった例、更には一番多い例としては、マスコミ(新聞、雑誌、テレビ、ラジオ等々)で芸術関係担当部署に配属されたことから音楽批評に手を染めて評論家になった人達・・・。そういう人達に比べて、自分は一体何が劣っているのだ?という気持ちも、次第に湧いてきました。

ただただ本サイトの趣旨に則って、こういう人間がいてこういうことを感じ、表現していたという証を、未来へのタイムカプセルの内容として記録に残す、それだけを目指します。その過程で傷付かれる方がもしいらしたら、是非お知らせください。名誉にかけて誠実な対応をお約束します。

一つお約束します。知名度の高くない現役の方、特に若い方については、極力ネガティブなことは書かないようにします。これは、逆に、高名な方や物故者に対しては遠慮せずにネガティブなことも書かせて頂く、ということを意味します。また、自分に嘘は付きたくありませんから、若い方、知名度の低い方についてネガティブな感想を持った場合は、「君子危うきに近寄らず」で何も書かないことにします。

知名度が低い方、若い方について一言付言します。そういう方でも、プロの演奏家である以上ネガティブな評言に対する耐性は備えておくべきだし、ましてそれが私のような素人の手になるものであれば無視すれば良い、という考えもあり得ます。しかし、芸術家の感性は一般人には推し量りがたいものがあります。ネガティブな評言が対象者のアーティストとしてのその後の音楽人生に思わぬ負の影響を与えてしまう、という可能性は否定できません。他方で、名のある方であれば私ごときの印象批評に(もしそれが目に留まったとしても)いちいち反応されることなど無いでしょうし、プロとしての誇りや名声が私の文章によって傷付けられることなど無いでしょう。他のもっと遙かに有力な媒体に賛辞が溢れかえっているでしょうから(←そうでなければ高名になどなれません)。これが、高名な音楽家と知名度の低い音楽家を区別する理由です。合理性のある区別だと思っていただけるかどうか自信はありませんが、私自身はこの区別はなかなかのものではないかと気に入っています。ですから、もし将来、このブログで私がネガティブなことを書いたとしたら、その対象とされた音楽家の方は、地位を確立し名声を得ていることの証左だと思ってください。

寄り道が好きなのは私の悪癖ですが、ここで、ある演奏家にだけ罵詈雑言に近いネガティブ批評を浴びせ続けた批評家と、その対象とされた演奏家の組み合わせを、二組思い出しました。一つは、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンに寄稿した作曲家ヴァージル・トムソンとホロヴィッツ。もう一つはボストン・グローブに寄稿した評論家リチャード・ダイアーと小澤征爾。

トムソンについてはいろいろな本に引用されている批評を少し見ただけですが、要はホロヴィッツを歪曲の天才といい、自然なフレーズは一つも奏でられない、とこきおろすのが常だったようです。曲により、聴きようによって、ホロヴィッツの演奏がそのように聞こえることがあることは否定しません。この私ですら辟易する解釈も確かにあります。しかし、トムソンが批評家として公正でなかったのは、この評言をホロヴィッツのすべての演奏に当てはまるアプリオリな定義のようなものとして使用することで満足して、実際に鳴り響いている音を謙虚に耳を傾ける誠実さを欠いていたと思われる点です。トムソンが批評家として活躍していた40年代から50年代におけるホロヴィッツの実演に接した経験はもちろん私にはありませんが、その時期の録音を聴くだけでも、トムソンの頑ななネガティブ批評が全く当てはまらない例がいくつもあることは明らかです。つまり彼は、実際に鳴り響く音に誠実に向き合っていなかったということです。一種の知的怠惰、知的欺瞞ですね。日本にもかつて(今でも?)そういうステレオタイプのことしか言わない批評家は沢山いました。「さすがに本場の演奏」、「この指揮者らしくエネルギッシュな指揮ぶり」、「巨匠〇〇〇の薫陶を受けただけのことはある」等々、「本当にちゃんと聴いたの?」と思わせる例は枚挙に暇がありません。

ダイアーと小澤さんについても全く同じことが言えます。昔のことですが、ある時期にボストン響の定期会員だった私は、ダイアーによる批評の数々に辟易させられました。格別小澤さんのファンではない私も、小澤さんの演奏に感動したことは何度もあります。(当時が彼のピークだったかもしれません。小澤ファンの皆さん、ごめんなさい。)しかしダイアーは、どんな演奏であろうが悪口一辺倒。もはや個人攻撃レベルだとうんざりさせられたものです。日本にも、特定の演奏家が出てくると紋切型の攻撃を行う批評家が、かつては珍しくなかった(今でもいる?)ように思います。演奏家は、評論家が感性と知性を尽くして誠実に演奏に向き合い、ステレオタイプの言説に頼らず、その都度自分の言葉で批評を紡ぎ出してくれることを願っているに違いありません。そして、そのような知的誠実さに裏打ちされた批評であれば、仮にそれがネガティブであったとしても、演奏家には一つの反省材料として受け止めてもらえる可能性があると思います。

寄り道したのは、理由が無いわけではありません。プロの音楽家であろうがアマであろうが、職業評論家であろうが素人評論家であろうが、音楽について人に何かを伝えようとするときには、最低限、耳を開き、すべての先入観を棄て、虚心坦懐に音楽と接する、そしてそうして得られた感想や考えを、誠実さと謙虚さを以って表現しなければならないということを言いたかったのです。さらに、暴力的・攻撃的な言説を慎むことはもちろん、社会的規範の則(ノリ)を超えないよう努めることも重要でしょう。そのようなルールを自分に課したうえで、心覚えとしてこのブログという未来へのタイムカプセルに残すべく、自分にしか書けない駄文を自分の言葉で綴り続けよう、というのが私の結論です。

前置きが長くなりましたが、これからは以上に基づき、気持ちも新たに、頻繁に投稿しようと考えています。

さて、今回は、この一年余りの間に起きたことで、是非書きたかったことを、ごく簡単に箇条書きにします。次回以降展開する積もりはありません。

1. やはりオリンピックでの大迫選手は素晴らしかった。引退宣言が信じられませんでしたが、つい最近引退を撤回し、またレースに出始めたことは、嬉しい限りです。
2. 田中希美選手、三浦龍司選手、廣中りりか選手、橋岡優輝選手も、それぞれオリンピックでは見せましたね。先ごろの日本選手権でも皆大変良い成績で、今季の活躍が楽しみです。中でも私は三浦選手に心底惚れ込んでいます。あの伸びやかなストライドと圧倒的なラストスパートは、これまでの日本人選手には見られないものです。走りを見ていると心が伸びやかに解放される、そんな走りです。今後は是非10,000メートル経由でマラソンにまで挑戦して欲しいものです。また、故障中で日本選手権を辞退した不破聖衣来選手にも大いに期待しています。まだ若いのですから、まずはじっくり休んで故障を直してください。
3. やっぱり志ん朝は凄い! 久しぶりにDVDでいくつかの演目を鑑賞し、大笑いしつつ、あらためてその特別の才能に感銘を受けました。古い言葉で言えば、別格官幣社。なんというか、出てくるだけで寄席の空気ががらりと変わって、誰しもが期待に胸をときめかせて舞台に見入る、登場人物と一緒になって泣き笑う、そういう芸です。その空気がDVDでもよく分かります。今そんな落語家がいるでしょうか? その志ん朝を生で何度も聴けたのは、幸運だったという他ありません。大圓朝と志ん朝のどちらか一人が生き返っていま聴けるとしたら、どちらを選ぶか、なんて埒もないことを時折考えます。私なら断然志ん朝です。圓朝の偉大さ、その並外れた業績はよく知っていますが、何せ実演に触れたことがありません。私は談志が苦手で、談志命(いのち)という知人達(複数います。)と常に議論になるのですが、私にとって2人の差がどこから来るかは説明する必要すら感じないほどです。談志が理屈っぽいことを言うのも好きではありませんし、第一あのしわがれ声がいけません。何よりも品格を感じさせない。「業(ごう)」というような三文文士でも恥ずかしくて使えないような言葉で落語の本質を表現するのも、気恥ずかしくて嫌です。ああ上手いな、と思うこともあるのですけれどね。先日亡くなった小三治も無論良い噺家ではありましたが、志ん朝とは格が違います。自分の両親を除き、私がその死に最も大きな衝撃を受けたのは、ホロヴィッツ、リヒテル、志ん朝、クライバー、ヴァントの5人でした。5人とも逝去を知ったときには、宇宙が崩壊したような衝撃を受けたものです。圓朝忌(現名称は圓朝まつり)があるのなら、志ん朝忌があっても良いじゃないか、そう思えてなりません。尤も、落語協会での序列、比較的若年での他界、人間国宝にもならなかった、等々の諸事情がこれを許さないことはよく分かります。仕方ないので、私は10月1日になると、志ん朝を聴いては「一人志ん朝忌」としゃれこんでいます。
4. Rippleをご存じですか? このブログで以前にご紹介したピアニスト長尾洋史さんがお仲間と繰り広げる、小アンサンブルを中心とした音楽の饗宴です。午前中から夕方までの音楽三昧。昨年初めてお邪魔して、唖然としました。内容は一言ではとても言い表せません。長尾さんのなんでも弾けてしまう凄さと、抜群のアンサンブル能力、そして企画・運営能力の素晴らしさに圧倒されます。実は、今年のRipple(「Ripple14」 )がすぐそこに迫ってきています。日時は7月23日11時から。場所は代々木上原のムジカーザ。(詳細はどうぞググってお探しください。)御用とお急ぎでない向きは、是非お運びください。後悔されないことを保証します。
5. 昨年の草津国際音楽アカデミー&フェスティバルにおける岡田博美さんのアパッショナータの演奏は、本当に凄まじかった。冒頭のユニゾンから終結の破局まで、すべてが灼熱のアパッショナータ。端正な演奏が特徴とよく言われる岡田さんから、こんなに完全燃焼の超絶的大演奏を聴けたのは、久しぶりのように思います。以前のブログにも書きましたが、2年半前に初期のベートーヴェンを弾いて、あたかも後期のように「澄み切った」印象を与えて驚かせてくれた岡田さんが、今度は全く別の意味で私を驚かせました。草津といういささか地味なフェスティバルでの演奏である上に、聴衆の数も大したことはありませんでしたから、世間の注目度は低かったと思います。でも、この大演奏を聴けた聴衆は本当に幸せでした。これまでに聴いた数多の実演、録音を凌駕する至高の演奏だったと言って憚りません、リヒテルのいくつかの演奏にひけをとらない燃焼度の高さでありながら、ミスははるかに少なく(あったのかしら?)、あらゆる意味で超絶的な演奏でした。コーダではこちらの呼吸が止まりました。改めてピアニスト岡田博美に脱帽の一幕でした。
6. 能楽等の我が国伝統芸能について。一般社団法人日本芸術文化戦略機構という組織(英語名称の略称は「JACSO」)の顧問弁護士を務めるようになったことから、能楽、舞楽、雅楽、浄瑠璃等に親しむようになりました。JACSOは人間国宝をお二人、それに元文化庁長官お一人を加えたお三方を顧問にお願いしており、理事長は宝生流シテ方の重要無形文化財。これまで私にとって縁の無かった我が国伝統芸能・芸術を学ぶのに、願ってもない最高の環境を提供してくれています。そして、まだまだ初学者ですが、これらの芸能・芸術は相当面白い。演目によっては物凄く面白い。私にとっての重要性という点で、これらの諸芸能・芸術が西欧クラシック音楽にとって代わることはおそらくお今後も無いだろうと思いますが、それでも、つい2,3年前まで私にとってほぼ「ゼロ」であったジャンルが、みるみるうちにその存在意義を主張するようになり、私の意識の中で一定の、それもかなり大きな地位を占めるに至っているというのは、個人的には驚くべきことです。いや、素晴らしいことだと申しましょう。蒙を啓かれる心地良さと言ったらよいでしょうか。そして、その対象が啓蒙されるに値する価値を有するものだとの理解が徐々に進む、その嬉しさたるや。そうそう、望外の喜びは、つい最近熱海はMAO美術館の能楽堂で催されたアルゲリッチと能楽の共演。久々に彼女で聴くソロ(バッハのパルティータの2番)と、シテ方人間国宝による舞(創作)の共演。その舞の振り付け等を担当したのが我がJACSOの理事長で、彼が当日は解説も担当したことから、幸運にも鑑賞の機会を与えられました。アルゲリッチは実に神経の行き届いた共演ぶりで、改めて彼女を見直しました。ポリフォニーの彫の深さを求めなければ、ダンサブルという点を含めて、最高の演奏だったと思います。いや、舞との共演はダンサブルでなければなりませんから、彼女は敢えて峻厳なポリフォニー表現を控えたのかもしれません。彼女を聴いて時に不満に思う「上滑り」は微塵も見られず、年齢を考えると驚異的としか言えない鍵盤コントロール能力に賛嘆しつつ、豊かに流れる音楽と洗練の極みと言うべき舞のコンビネーションに身をゆだねる、至福の一時でした。驚いたことに、能楽堂を一杯にした聴衆は、終演後スタンディング・オーヴェイションを見せました。恐らく能楽ファンよりアルゲリッチ・ファンが多く詰めかけていたからだろうとは思いますが、それにしても能楽堂でスタンディング・オーヴェイションとは魂消ました。昔昔来日したジャン・コクトーが某能楽堂に連れて行かれて能楽を鑑賞し、あれ以上に退屈なものを知らないとこきおろしたという伝説(事実のようです。)があります。このエピソードに惑わされて能楽を敬遠してきたのは実に勿体なかったと、今にして思います。西洋音楽ファンの皆さんも、能楽堂を訪ねてごらんになってはいかがでしょうか。優れた能楽師の発声、優れた楽器演奏者(囃子方)の発する玄妙な音、そして所作の気韻の高さ。それらから学ぶものは少なくない筈です。(個人的には、JACSO理事長などは素晴らしいバリトン歌手になれただろうと思っているのですが、それはいかにも西洋音楽至上主義の発想だと反省する今日この頃です。)

まだまだあるのですが、このくらいにします。次回からは、気持ちも新たに、リアルタイムの話題をできるだけ頻繁に投稿していきたいと考えています。よろしくお付き合いください。

河村尚子讃

2021 JUL 21 17:17:15 pm by 大武 和夫

今春来日時の河村尚子さんは凄かった。
首都圏で行われた3つの公演に行き、英語で言うなら文字通りswept overされました。圧倒的の一言です。

昨年の来日時の公演についても投稿したかったのですが、あまりに時間が経ち過ぎました。(本稿もすっかり時間が経ってしまっていますが、数ヶ月の遅れであれば、情報の鮮度はすっかり落ちていますが何とかお許し頂けるのではないかと考えました。特に、末尾に述べますが、今年中の再来日はもう無いようですので、本稿をアップする意味は無くはないように思います。)

生命の躍動そのものを感じさせる豊かで大きな音楽は、いつも私に「元始、女性は太陽であった」(平塚らいてう)という有名な言葉を思い出させます。

河村さんの音楽は神経の行き届いた素晴らしい精妙さ・繊細さを持ちながら、なによりも豊かさとスケールの大きさを感じさせます。豊かでスケールが大きいというと、何となく茫洋として掴みどころの無い演奏を想起させるかもしれませんが、全くそうではありません。彼女の演奏は明晰な頭脳・・・大変頭の良い方であることはお話ししているとすぐに分かります・・・による徹底的な曲の分析の結果であり、全体であれ細部であれ、常にくっきりとした輪郭・フォルムを保っています。この音、このフレーズ、この和音がここに置かれているのはこういう背景と論理の結果であり、従って、こう弾かれなければならない、という強靱な意志の力を感じさせます。ですから、茫洋のまさしく正反対。そうであるのに、音楽は頭でっかちに干からびるどころか、不思議なほど人間存在の根源に迫る豊かさと大きさで鳴り響くのです。天才の天才たる所以です。そして、そのような豊かで大きな音楽を作る演奏家は、日本人に限らず現在どれほどいるでしょう。

彩の国埼玉芸術劇場で行われたリサイタルは、中でも白眉で、私にとって生涯でベストの音楽会の一つでした。モーツァルト(Kv. 397)の変幻自在な表現はどうでしょう。極めて独創的な曲の理想的な表現。シューベルトのG-durソナタ(D. 894)はもう、豊かに拡がる「幻想」そのもの。聴き手はその世界に浸り、河村さんとともに歩みを進めます。ドビュッシー(映像第1集全曲)がまた素晴らしい。常に生き生きと語りかけながら音楽が前へ前へと進む、その弾力溢れる生命力はどうでしょう。そして、ショパンがこんなにもシンフォニックに響いたことはありませんでした。幻想即興曲ですら後期作品のように響くことの驚異。(この曲は没後作曲者の遺志に反して出版されたため大きな作品番号を与えられていますが、4曲の即興曲の中では最も早く書かれた作品です。)我が偏愛の舟歌も、実演でこれほど感動させられたことはありません。この曲はリズムの取り方一つをとっても実に難しく、曲に統一感を与えることが至難です。しかし、河村さんは、小ぎれいにまとめるのではなく、破天荒な内容を封じ込めたこの曲のあらゆる要素を見事に描き出しつつ、そこに有機体としての統一感を与えるという奇跡を実現させていました。技術的な完成度の高さは言うまでもありませんが、私のようなすれっからしのピアノ・フリークにも技術に耳をそばだてるなどという卑しい聴き方を許さないような、何と言ったら良いか、凜としたものが彼女の演奏にはあるのです。

シューベルトの途中から涙が溢れてしまい、それが目からだけでなく鼻からも鼻水となって流れ出るので、マスクの中はもうグショグショ。口の中に入ってくる涙と鼻水と格闘しながらの鑑賞でした。

アンコールがまた凄い。まずはシューマンの幻想小曲集から「Warum」。深いところで、異なる次元に属する複数の声が歌い交わすポリフォニーに、心を揺さぶられました。次はお得意のシューマンの「献呈」。いつも彼女の献呈は見事なのですが、今回はとりわけ輝かしい喜びにあふれていて、ハッとさせられました。河村さん自身帰国時にドイツでのPCR検査の結果(勿論陰性)を認めて貰えず(日独の検査方法の違いによると言われたそうです。)、ホテルでの長期隔離生活を余儀なくされるという辛い経験をされましたから、その心情が反映されていたのかもしれません。このリスト編曲は、近年多くのピアニストが手がけていますし、上手な人も少なくありませんが、精妙でありながら豊かで喜びに満ちたスケール大きな表現は、全く河村さんの独壇場です。唯一無二と言いましょう。そしてアンコールの最後が、何とベートーヴェンの「告別」の終楽章。「告別ー不在ー再会」の、その「再会」。選曲自体に既に、久しぶりに聴衆を前にして演奏する喜び、聴衆との再会に心を震わせる河村さんの心情が吐露されていると見るのは、ごく自然でしょう。そして、その演奏も、そう確信させるだけの圧倒的な素晴らしさでした。同じ表現を何度も使用するのは気がひけますが、豊かで喜びに溢れた究極の「再会」でした。感動に涙しながら私は、心の中で「河村さん、お帰りなさい。ありがとう。そして、ルートヴィヒ君も素晴らしい曲をありがとう。」と感謝の言葉をつぶやいていました。

何度も「豊かなスケールの大きさ」という表現を用いてきましたが、日本人演奏家で、そのような表現が当てはまる演奏をする人は、男女を問わず楽器を問わず、一体どれだけ他にいるでしょう。そう思うにつけ私は、彼女の天賦の才は勿論のことながら、ドイツで音楽教育を受け、ロシア人名ピアニスト(クライネフ)に師事したという彼女の経歴の意味するところの大きさを思うのです。リヒテルがドイツ人として生まれながらロシアで音楽教育を受け、晩年はほとんど国外(日本にも家を持っていました。)で過ごしたこと(知人にピアノ・フリークで日本語研究者であるドイツ人がいますが、来日時に話したリヒテルのドイツ語は完璧で、全く何の訛りも無かったそうです。その知人は、柴田南雄さんがドイツ人でないリヒテルにはアウフタクトの感覚が欠けていると書いたのを読んで、そんなことありえないと笑っていましたっけ。)や、教育はロシアで受けたものの若い頃にロシア(ソビエト)を脱出してパリやベルリンで西欧文化にどっぷりと浸かり、その後にアメリカに移住し、更にはイタリア人巨匠指揮者の女婿となったホロヴィッツなどの例も、複数の文化的背景を持つことの特別の意味を物語って余りあると思います。

河村さんは今秋も来日が予定されていましたが、クララハスキル・コンクールの審査員を務められることとの関係で、うまく日程調整が付かなくなり(コロナの隔離期間のせいです。)、その結果、つい最近になって来日は取りやめになったようです。(少なくとも東京芸術劇場での芸劇ブランチコンサートは中止になりました。)残念ですが、コロナが明ければまた以前のように定期的に帰国して演奏してくださるでしょう。そのことを慰めとしつつ、次のご帰国を鶴首して待ちたいと思います。

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