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忘れられない出会い~音楽編(第1回)完結編

2022 AUG 26 18:18:05 pm by 大武 和夫

(承前)

コラールを聴き、キース・ジャレットに魂を奪われて乗り込んだのが、シアトルのオペラハウス。76年1月のことです。N君、N君弟と私が並ぶ3つの席は、はっきりとは覚えていませんが、天井桟敷というほどではないかもののピアノからは遠く隔たった上階の席でした。

最初に鳴り響くピアノの音に驚倒。なんという豊かさ! 響きも音楽の造形も豊穣の極。ffでも全く割れることのないまろやかな音は、RCAとコロンビアの録音でなじんでいたものとは大違いでした。無論広大なダイナミック・レンジは健在で、ppの繊細さも録音とは桁違いなのですが、とにかく圧倒的に豊かな音楽に最初はびっくり仰天し、それはすぐに感動に変わっていきました。そして、ピアニストは実演を聴かないと分からないと痛感したことでした。

件(くだん)のシューマンの3番が、なんと豊かに、そしてその場で生起する有機的な音楽として、美しく鳴り響いたことでしょう。この曲が出版社によってオーケストラ抜きの協奏曲と名付けられたのはこういうことなんだ!・・・そう思いました。その豊かな音楽に浸りながら、自分は今生まれてこのかた味わったことの無い感動に酔いしれている、とも思いました。

それまでにも私は、数々の名ピアニストを聴いています、リヒテル、ギレリス、シフラ、ペルルミュテール、アニー・フィッシャー、R. ゼルキン、ミケランジェーリ、アラウ、バレンボイム、アシュケナージ、アルゲリッチ、ゲルバー、ポリーニ等々。録音だけで知っているラフマニノフ、レヴィーン、ホフマン、ギーゼキング、バックハウス、コルトー、ケンプ、エトヴィン・フィッシャー、ルービンシュタイン等々を加えると大変な数になります。それらの実演・録音(ホロヴィッツ自身の録音も加えて)を聴くうちに、ピアノという楽器はこういう音がするものだという「物差し」が自分の中にできていました。ところが生で聴いたホロヴィッツの音の、そして音楽の豊かさは、その「物差し」には到底収まりきらない、文字通り桁外れのものでした。アンコールの1曲として弾かれたラフマニノフの2番のソナタの終楽章といったら、月並みな言い方ですが、まるでフル・オーケストラが舞台に載っているように聞こえました。

あまりの感動にフラフラしつつ、私はN君とN君弟にほとんど何も言わず(言えず)に、ひとりで楽屋に向かって駈けだしていました。楽屋入り口で誰何されとことは覚えていますが、何と言って切り抜けたかは忘れてしまいました。ともあれ、その時点ではまだ英語を自由に話せなかった私は、今から振り返ると奇跡的なことに、入り口の検問を突破して、グリーン・ルームに足を踏み入れていました。

そこに座ってくつろぎつつwell-wishersと歓談しているホロヴィッツその人を見たときには、頭がクラクラして倒れそうになりました。必死の思いで話した言葉は覚えていませんが、横にいた当時のマネージャー、ハロルド・ショーとワンダ・トスカニーニ・ホロヴィッツが、この若者はわざわざ友人と2人ではるばる東京から、あなたを聴きにやってきたのだと説明してくれたようです。するとホロヴィッツはすくっと立ち上がって、良く来てくれた、ありがとう、と握手を求めるのです。夢心地で握手を交わしたら、ホロヴィッツは、君はピアノに向いた良い手をしている、掌の肉が厚く柔らかいね、とお世辞を言うのです。ドギマギしていると、今度はワンダ夫人が東京のホールはいくつかあるようだが良いホールはどこか、と尋ねるではありませんか。音で言えば文化会館大ホールでしょうと即答すると、ホロヴィッツ自身は、聞いたことがあるぞ、良いホールらしいね、NHKホールの音響はどうかな?などと聴くのです。関係者には申し訳ありませんが、NHKホールの音響については否定的なことを話したと記憶しています。

誰しもこの会話の当事者であったなら、間もなくホロヴィッツは公演のために来日する積もりだな、と思うでしょう。実際にはあの破滅的な初来日にはまだ7年もかかるのですが。(そして初来日時には、今度は私が米国留学中でした。)

後に続くwell-wishersの時間を奪ってはいけないと、夢から覚めかけて考えた私は、最後にもう一度ホロヴィッツと握手して楽屋を出ました。

しかし、初めて訪れた街の初めてのオペラハウスですから、運転して連れてきてくれたN君弟の車がどこに停めてあるかなど、さっぱり分かりません。このまま野宿することになるかもしれないと暢気に考え始めたときに、N君とN君弟が、こっちを見つけてくれました。

無鉄砲というか、無思慮というか、向こう見ずというか、今から振り返ると信じられない思いです。私を長いこと探してくれていたに違いない2人は、さぞかし呆れたことでしょう。感謝の他ありません。

でも、楽屋を訪ねたお陰でハロルド・ショーとの文通が始まり(携帯やメールが誕生する遙か以前のことです。)、その後2回に亘ってホロヴィッツの米国での演奏会に招待されることになりました。(もっとも、当然のことながら旅費・宿泊費まで出してくれる訳ではありませんから、招待を受ける方も大変です!)

また、そのときは楽屋にいたことに気付きもしなかったホロヴィッツのtravel companionであったマダム・ホーウィッチという老女にはその後何度もお会いし、ホロヴィッツに関する興味深い逸話を教えてもらったり、つい先日惜しくも逝去された野島稔さん(当時NYに住んでおられました。)を紹介してもらったりしたのですから、出会いとは実に不思議なものだと思わざるを得ません。

後日譚をひとつ。

ハロルド・ショーは、RCA復帰後の録音のテスト・プレスLPを何枚か送ってくれました。シアトルでの演奏会の次の演奏会はパサデナで、そこでホロヴィッツはスクリアビンの5番を弾いています。実は、シアトルでの演奏会当日だったか前日だったかの現地の新聞に、日本からツアーを組んでホロヴィッツを聴きに来た人達(著名音楽評論家某氏に率いられていたという記憶です。)をホロヴィッツがホテルの客室に招いたという記事が写真入りで出ていました。表敬訪問自体は記事の前日か前々日だったと思われます。そんなツアーが組まれていたとは全く知らず、日本から聴きに来たのは我々2人だけだろうと思っていた私は、些か拍子抜けしましたが、本当に悔しかったのは、彼らは(全員ではないかもしれませんが)パサデナに移動して次の演奏会も聴く、そこではスクリアビンの5番がメインだと新聞に出ていたことです。

この辺まで来ると、ごひいきのスターに熱狂し、そのスターと常に行動を共にして他のファンを出し抜こうとする「追っかけ」ヅカ・ファンみたいだと我ながら苦笑してしまいますが、その時点ではリヒテル盤(DG)でしか聴いたことが無く、凄い曲だと思っていたスクリアビンの5番をホロヴィッツがどう弾くのか、あの豊かで繊細極まりない音でスクリアビンの狂気がどう表現されるのか、興味津々でした。ですから、パサデナまで行く日本人一行が、ことさら羨ましく思えたのです。(ちなみにN君と私は演奏会の翌日だったか翌々日にシアトルを発って、グレイハウンドでサン・フランシスコまで、26時間だか28時間だかのバス旅行を敢行しました。Those were the days. そして我々は若かった。)

司法修習生になり、任地であった京都で1年半弱に亘ることになる下宿生活を始めていた私のもとに、記念すべきRCA復帰第一弾のテスト・プレスがハロルドから送られてきました。NOT FOR SALEとレーベルに明記してあった盤を見て狂喜したことを鮮明に覚えています。

当時は狭い下宿で貧しい生活を送っており、東京から持参したのはオープンリール・テープレコーダーとFMチューナー、それにヘッドフォンだけでしたから、そのテスト・プレスを聴くためには、裁判所の近くにあったクラシック喫茶に持ち込むしかありません。そして、客の少ない時間帯に、マスターと一緒にスクリアビンの凄演に聞き惚れました。物凄い起伏とドラマ、千変万化の音色と感情の燃焼。リヒテル盤は技術的には恐らく上で、実演なのにほぼ完璧なのですが、最初から凄まじい爆発と沈潜の繰り返しで、曲の構造が分かりませんし、ややモノクロームで飽きそうになります。それに、聴いていて自分が曲のどこにいるのか分かりません。それに対してホロヴィッツの計算は実に緻密で、何段階にも亘るテンポと強弱の変化、それにペダリングを含めた音色の微妙な設定により、曲がどこに向かっているのかがよく分かり、クライマックスが間もなく訪れそうだということまで聴き手に切迫感とともに理解させます。それでいてクライマックスが予定調和的に響くことは全くなく、地球が爆発しそうな凄みは、リヒテルに勝るとも劣りません。シューマンの3番は実演を聴いていますから、その感動には勿論及びませんが、それでも、豊かで充実した実演の音が、コロンビア時代より的確に捉えられているように思えました。(その後遙かに良い装置で聴けるようになってからは、コロンビアの音の良さを改めて認識するようになり、現在では、どちらの音を好むとも言いがたくなっています。)とは言っても、他のお客さんとマスターに遠慮しながら持参LPを掛けてもらうのですから、遠慮が先に立ち、何度も聴くというわけにはいきません。もどかしくてなりませんでした。しかし、それが今となっては懐かしいのです。聴こうと思えば文字通りいつでも聴ける現在の聴環境より、不自由だった当時の方が真剣に鑑賞できていたのではないかと言う気もします。

時が経ってCD時代になり、LPの名盤が次々にCD化されます。そして、シューマンの3番とスクリアビンの5番をカップリングしたこのRCAの名盤も、比較的早い時期にCD化されました。発売されるやすぐに買い求めたことは、ご想像の通り。しかし、一聴して仰天しました。シューマンの1楽章冒頭がなんだか変なのです。そう、編集ミスで、始まってすぐの箇所に数拍分の脱落があったのです。レコード屋に指摘しても埒があかないので、編集担当の名プロデューサー、ジョン・プファイファーに手紙だったかファックスだったかを送りました。彼は誠実な人で、無名の日本人ファンの指摘に耳を傾けてくれました。そしてしばらくして寄こした返事には、ご指摘の通りの脱落がある、申し訳ない、しかし貴方は良い耳を持っている、とありました。楽譜を読める人が譜を見ながら聴けば一発で分かる編集ミスですし、そもそも拍節感のある人なら、たとえ曲をよく知らなくても、聴いてすぐにおかしいと分かる筈です。ですから、お世辞もたいがいになさい、自分のミスを小さいミスだと言いたいがための修辞ですね、と書きたかったのですが、過ちを認めて謝ってくれた誠実さに免じて、それは控えました。そして、編集し直して脱落を修復した盤ができあがると、親切なプファイファーはそれをプレゼントしてくれました。これにはちょっと驚きました。編集ミスのある初期盤を取っておけば歴史的価値があったかもしれませんが、LPを米国プレス、英国プレス、ドイツ・プレス、オランダ・プレス、。フランス・プレス等々の各国盤で揃えていましたから、正しく編集されたCDが届くや、ミスのあるCD盤は捨ててしまいました。当時の私は、まだLPの方を大事にしていたのですね。ちょっと惜しかったかなと思わないではありません。(LP時代のホロヴィッツの新譜は可能な限り各国盤を揃えていたのですが、今振り返るとなんとも勿体ないことに、スペースの関係でほぼ全て捨ててしまいました。これは、無慮数千枚の他のLPについても同様です。)

そういうわけで、ホロヴィッツが弾くシューマンの3番とスクリアビンの5番は、私にとって特別中の特別、またまた古い表現で恐縮ですが「別格官幣社」なのです。シューマンの3番を聴くと、グリーン・ルームでのホロヴィッツとの会話がまざまざと思い出されますし、スクリアビンを聴くと、今は亡きハロルド・ショーとの文通や京都のクラシック喫茶の光景がくっきりと蘇ります。そして蛇足を付けくわえるなら、京都に思い
を馳せると、決まってある日の河原町のジャズ喫茶での体験を思い出します。修習生生活を終えて帰京するその日に、何回となく通ったジャズ喫茶に別れを告げに行きました。私の好みを知っているマスターがかけてくれたの、出たばかりのキースの新譜「My Song」。タイトル曲におけるヤン・ガルバレクの繊細で透明感溢れるソプラノ・サックスに魅了され、ピアノが戻るあたりのアンサンブルの見事さと静かな盛り上がりに、息を飲みました。でも、コラールの真価を私が理解するには、まだ長い歳月を要します。

                            (この稿、完)

Categories:音楽

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