Sonar Members Club No.22

日: 2014年9月10日

東北海道の物語、その2(最果ての街、根室)

2014 SEP 10 15:15:37 pm by 中村 順一

樺太北緯50度、日露国境の碑

樺太北緯50度、日露国境の碑

根室、花咲の車石

根室、花咲の車石

タクシーで厚岸に近い茶内の無人駅まで送ってもらった。ここから再び根室本線に乗って、東に向かう。

根室は日本の最東端にある正に最果ての町である。この最果ての寂寥感が好きで筆者は数回根室を訪れている。根室本線がゴトゴトと終点根室駅に到着したのは夜7時前だった。予約していた駅から徒歩数分の”イースト・ハーバーホテル”にチェックイン。ホテルに聞いて、まずは地元の魚がおいしい居酒屋へ。根室の魚はうまい。採ってすぐに居酒屋へ持ってくるからだろう。さんま、ブツ等、期待通りの味に大いに満足。そのあとはショット・バーに行った。一人で地方都市に行くときはショット・バーがいい。できるだけ行くようにしている。地元のショットバーのマスターとじっくり話し込むのだ、その地方の風土を実感できる。一人旅の魅力だ。今回もPというショット・バーでマスターと盛り上がった。

マスター「安倍ノミクスと言うけれど、根室では全く実感できません。根室の人口は2万数千まで減ってきています。昭和40年代は5万弱まで行ったんですけどね。北方領土は早く解決してほしいです。戦前の根室は、それはそれは千島との交流でにぎわったそうです。千島が帰ってこない限り、根室はやっぱり最果ての街です。これ以上、先に行くところがないのですから。宗男さんが、もう少しで歯舞・色丹だけでも解決寸前まで持って行ったのに田中真紀子がこわしちゃった。俺も根室生まれでずっと根室にいるの、根室が好きでしょうがないです、今47歳ですけど、えー、お客さんは今年還暦!若く見えるねー、55歳くらいかと思った(客へのワンパターンお世辞)。」

筆者「僕は亡くなった中川昭一の友達だったんだけど、昭一の評判はどうなの?」

マスター「お父さんの一郎さんの人気はすごかったけど、昭一さんは選挙区が変わって関心は十勝に移ってしまいました。根室ではやはり宗男さんです。」

バーには筆者以外に、筆者よりはかなり年上の親父が一人いた。バイクで北海道を回っているらしい。バイク親父とも適当に会話する。そこで40歳くらいのまずまず美貌の女性が入ってきた。マスターの対応は筆者やバイク親父とは違う、うーん、これはマスターと特別の関係だな、とすぐに気付く。女性も会話に参加してきた。

女性 「地方はやっぱり、何かを持ってきてくれる政治家がいいのよ。宗男さんは良かった、捕まって可哀そう。根室は人口も減ってきて、2つある公立普通高校も、生徒不足で近々ひとつに統合されるのよ、私は中標津生まれだけど、もう根室に住んで20年、いいところです。でも悲しいことに、最近は根室は病院も駄目、病院の建物を新築しても、いい医者が来てくれないんです。」

マスター「そうなんです。最近の根室の医者の質はひどいもんです。診断が全く信頼できない。これではわざわざ釧路まで行かざるを得ない。釧路も結構遠い(根室本線で2時間強)ので不便です。」

筆者「僕は根室は好きだけどなあ、もう少し観光をアピールしたら、日本の最東端、最果てのの街、いろいろ売り込めそうだけど。」

マスター 「市が下手なんですよ。根室には”車石”という奇岩もあるんですよ、こんな光景は日本では根室にしかありません。」

その後、バイク親父は明日も飛ばすぞ、とか言いながら退散。いろいろな話題で3人でかなり盛り上がった。気づけば12時を回っていた。2人を残してホテルへ帰った。

次の日曜日も天気は良かった。ホテルの部屋からは国後島の”爺爺岳”が見えた。運がいい。レンタカーを借りて、まずは「歴史と自然の資料館」に向かった。根室の歴史を覗いて見たかったのだ。資料館では管理主査が親切に説明してくれた。

「根室は、明治政府が蝦夷地を北海道と改め、北海道を函館、札幌、根室の3つの県に分けた時(明治15年~18年)の県庁所在地だったのです。千島への中継基地として栄えました。明治の中頃には、札幌、函館、小樽に次ぐ、北海道第4の都会だったのです。しかし、昭和20年7月の空襲で旧市街は完全に破壊されてしまいました。昔の道東の本府としての面影が残っていないのは、その為です。歴史に興味がおありなら、この資料館には、戦前の樺太の日露国境(北緯50度)の碑のオリジナルがありますよ。見て言って下さい。」

親切な係員だった。根室の寂しい歴史が良くわかった。資料館を出ると、近くにある、昨晩のマスターお勧めの”車石”をせっかくなので、見に行った。確かに、日本ではあまりお目にかかれない奇岩である。20年程前に、北アイルランドで見た、”ジャイアント・コーズウェイ”に良く似ていた。

根室の観光はここまで。レンタカーで道東を南から北に縦断して、女満別を目指すことにした。(続く)

 
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東北海道の物語、その1(歴史の街、厚岸)

2014 SEP 10 15:15:41 pm by 中村 順一

急に思い立って、週末の土日で道東に行ってきた。北海道が好きなのだ。特に東北海道は特別だ。日本の他の地域にはない何かがある。

北海道は、札幌への集中が進んでいる。札幌は人口約190万人の日本第5位の大都会になった。でも北海道の他の地域の人口は減少している。道東も例外ではない。道東の最大の都市は釧路だが、かつて20万を越えていた人口は現在では18万人。今後も減少予想だ。でも道東には歴史もあるし、日本最大の大平原もある。北海道の中でも道東は歴史的に道央(札幌周辺)への対抗意識があり、人々は開拓に全力を尽くしてきたのだ。判官びいきの筆者は、そんな道東を応援してきた。

マイレージ活用の週末だけの短期旅行だ。飛行機のマイレージは直前にキャンセルしても、キャンセル料が3000円しかかからないのがいい。天気が悪くては意味がないので、金曜日まで、天気をチェックしていたが、まずまずそうなので、よし、行こうと決断。土曜の早朝のJALで釧路空港へ。その後、あこがれの根室本線(花咲線)に乗り、東へ。1両のローカル線で、超赤字路線だが、最果ての線路として、マニアには人気がある。1時間弱で厚岸に到着。

厚岸は道東では長い歴史のある街である。2回目の訪問であるが、前回は時間が足りず、十分に見れなかったので、再訪である。

厚岸は古来、東蝦夷地におけるアイヌ民族の居住地として栄え、松前藩は寛永年間(1624~44)にアッケシ場所を開設している。東北海道では最古だ。幕府はロシアの進出を警戒して、蝦夷地を幕府の直轄領に再編成し、人々の心の拠り所として3つの官立寺院を蝦夷地各所に建設した。東蝦夷地には、当時の中心地であった厚岸に”国泰寺”を開いた(設置の決定は1801年)。その後明治政府は近郊に屯田兵村を開設している。天然の良港に恵まれ、戦前は日本海軍も停泊地として使用していた。新鮮な牡蠣が一年中食べられることで有名。

さて、厚岸駅に着いた、早速タクシーをチャーター、費用はかかるが、効率よく観光するにはこれしか手はない。有名な”桜亭”という食堂で牡蠣にありつく。これが超美味。まずは大満足。昼食後、太田屯田兵村の記念館へ。記念館にいた女性は屯田兵村の歴史を語りだした。

「私の住んでいる家は、H家です。越後の古い武家で、本庄の地に城を持っていました。明治維新で没落した為に、当主の一大決心で、北海道の屯田兵に応募し、太田にやってきたのです。今でも、当時入植したところと同じ場所に住んでいます。私は、函館から嫁にきたのですが、H家とは血が繋がっていないので、未だに赤の他人です。今でも床の間に上がることは厳禁です。見合い結婚で主人とは結婚する前、ほとんど1~2回しか会っていませんでした。こんな昔の殿様の家に嫁に来るなんて、すごく大変なんです。この記念館での仕事も、私は歴史が好きなので、係員の募集があった時、是非やりたかったのですが、主人の親族から大反対がありました。私も頑張って、嫁の義務は必ず果たす、必ず両立させる、と約束して、やっと許してもらったんです。両立は結構大変で、今は毎日3時間くらいしか寝ていません。私の函館の実家は教育関係だったので、息子達の教育に関しては、私も必死でやりました。お陰様で、2人とも湖陵高校(釧路湖陵高校のこと、道東一の進学校、毎年東大に数人、北大に多数の合格者を出す)に入れました。学区域外からの受験だったので、すごく厳しかったんですけど。主人の親族からも評価してもらえました。」

いや、凄い女性だった。こちらが聞いてもいないのに、一方的に説明してくれた。どうも、H家には未だに明治の開拓時代の古い考え方が強く残っているようだ。H家以外にも、明治時代からの場所に住んでいる家はたくさんあるとのことだった。この女性の人生も大変そうだが、見るからに明るい性格、今後も何とか幸せに生きていくのだろう。ご主人の歳を聞いてみた。70歳とのことだった。歴史的には、太田屯田兵村は成功した事業とは言えない、との評価のようだが、ここには戦前の習慣がしっかり残っている。写真は撮らせてくれなかったが、女性の今後の人生の幸福を心より祈りたい。

女性と別れて、記念館の次は国泰寺に行った。徳川幕府が蝦夷地の教化を目的に作ったこの寺の所管は、十勝、釧路、厚岸、根室、国後、択捉の6場所に及んだ。ここの住職は定期的に所管地域を回っていたようだ。山門が当時のまま残っていて、扉には徳川家の表徴、”葵の紋”が彫り込まれていた。最上徳内、近藤重蔵、間宮林蔵等も訪れている。境内には近藤重蔵が色丹島から持ち帰った”色丹松”があった。

国泰寺の後は、見晴しのいい、”愛冠岬”へ。天気が良く、小島、大黒島もきれいに見えた。素晴らしい景色だった。(続く)

 

 
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