Sonar Members Club No.22

カテゴリー: オリンピック

スポーツを科学の目で見る(ソチ五輪閉幕)

2014 FEB 24 16:16:20 pm by 中村 順一

早いもので、アッという間にソチ五輪も閉幕してしまった。日本選手団もメダルは8個で長野に続く好成績とマスコミは騒ぐが、筆者には不満である。金メダルが羽生の1個だけだからである。

今回、個々の選手は凄く頑張ったと思う。羽生は天才ぶりを十分に発揮、チャンを寄せ付けずの金だった。真央ちゃんのショートプログラムは残念だったが、日本じゅうが息をのんで見守ったフリーは感激的だった。もしフリーで失敗したら、真央ちゃんのこれからの人生が、後悔の思い出で暗くなる、それではあまりに可哀そう、と思い、怖くて見ていられないくらいだったが、演技は素晴らしかった。鬼気迫るものがあった。この演技の成功は、今後の彼女の人生に大きな支えとなるだろう。本当に良かった。真央は8年前のトリノ五輪に出させてやりたかった。年齢制限で出れなかったのだが、あの時出ていればもっと無邪気に、はつらつと滑れたのでは。ちょっと長い間国民の期待を背負いすぎた。疲れて当然である。葛西も執念の銀だった。もう少しで金だったので残念だが、ひざを痛めている中でジャンプは完璧だった。沙羅ちゃんと上村愛子は4位。惜しかった。特に沙羅は大本命だっただけに悔やまれる。これからも彼女の競技人生は続くのだろうが、ここでメダルを取れなかったことが、トラウマにならなければ良いが。

結構多彩な顔ぶれが活躍した。スノーボード男子ハーフパイプの平野、女子パラレル大回転の竹内、は金も取れるか、という勢いだった。ノルディックスキー複合の渡部も、もう少しだった。フリースタイルスキー女子ハーフパイプの小野塚も立派だった。日本選手にとって新しい分野でのメダル獲得は、今後の競技の普及に大きな力となるだろう。

でも金は一個だけだったのである。特にスピードスケートは惨敗だった。2大会ぶりのメダルゼロである。週末は、筆者が期待した女子団体パシュートをじっくりと観戦し応援したが、まったく歯が立たず4位。前回のバンクーバーではあわや金と思わせ、タッチの僅差で銀だったのだが。準決勝を実質捨てて3位決定戦に賭けたのにロシアに大差の敗戦。日本チームは3人の連携プレーもバラバラで、筆者の目にも準備不足が感じられた。

もっとオリンピックに勝つための、国家を挙げての準備が必要なのである。オリンピックでの日本選手の活躍は、日本全体が盛り上がる非常にいい機会になるのだから。今のままではいくら個人の選手が頑張っても、外国の選手と張り合うのはなかなか難しくなるだろう。スピードスケートで、まるで精密機械のようなオランダ選手の滑りを見ていて、危機感を覚えたのは筆者だけではないだろう。

週末に、東京五輪へ向けての選手強化策として、スポーツ競技団体の負担を実質ゼロにして、全額国の負担にする方針が伝えられた。当然の策である。海外の国に比べて日本のスポーツ予算は極端に少ないのだから。東京五輪競技大会準備委員会の竹田恒和によれば、2020年の東京五輪では日本は25~30個の金メダルを目指すそうだ。このソチ五輪の日本選手の活躍と、にもかかわらずの、惜しい敗北、惨敗を教訓にして対策をたてていく必要がある。

ソチ五輪で日本選手、本当にご苦労様でした。感動をありがとうございました。

 

スポーツを科学の目で見る(ソチで日本選手活躍)

2014 FEB 16 18:18:58 pm by 中村 順一

羽生選手は素晴らしかった。フィギュア男子初の金メダルである。ショートプログラムが完璧で、安心してフリーも見てられると思ったのだが、フリーは結構ミスしてしまった。羽生の次に滑るチャンに完璧に滑られたら逆転されてしまう、やばい、とちょっとビビったが、チャンもミスの連続で羽生の勝利だった。羽生は金メダルを取ったのに、インタビューでは、まず「すみません」とはにかみ、同時に「オリンピックの魔物、すごい緊張を経験できたのは今後に繋がる」、と大物感たっぷりのコメント、基本的にはプレッシャーに強いタイプだと思うし、カナダに住んで、海外への対応もできている、次回の平昌でも連勝できるのでは。たいしたものだ、日本人の誇りです。

葛西もすごかった。やっと7回目の五輪挑戦で、調子をピークに持ってくることに成功した。でも飛距離では一番なのに、どうして銀なの、と思ってしまう。ストッホより着地が美しくない、とは素人目には思えなかった。41歳男に金を取らせてやりたかったねえ。いや41歳ならまだまだ大丈夫。最近のスポーツ界は体のケア技術の進歩により、従来よりオジサン、オバサンが活躍できるのだ。陸上、水泳、野球どの競技にも当てはまる。次の平昌でもいける、韓国という日本から近い場所なのも有利かも。是非家族も会場に呼んで晴れの舞台を見せてやってほしい。執念の個人種目金を。いや、その前にソチでのジャンプ団体(17日)がある。日本は4選手とも好調そう、もしかすると長野に続く団体金がありうるかも。盛り上がりますねえ。行け葛西。

ノルディック複合男子ラージヒル(18日)、女子フィギュア(19日、20日)、スピードスケート女子団体パシュート(22日)でも金を是非期待したい。真央ちゃんが緊張してしまうのが心配だが、羽生が金を取ってくれたんだ、別に負けても、日本フィギュア界は大丈夫、伸び伸びと滑ってほしい。複合の渡部暁斗は前半のジャンプでフレンチェル(独)とシャプイ(仏)を引き離せればチャンスはある。本人は絶好調、期待できる。

今回のソチ五輪では競技の解説にかつてのメダリストが活躍している。スケートの清水、岡崎、ジャンプの原田、複合の萩原、等である。いずれも自分の経験を踏まえながら解説してくれるので、実に聴き甲斐がある。実績のある人たちの存在感を再認識しました。努力した人の昔を見つめる表情はいいですねえ。

日本選手頑張れ!

 

スポーツを科学の目で見る(ソチ五輪開幕、日本選手イマイチ)

2014 FEB 10 14:14:55 pm by 中村 順一

ソチ五輪が開幕しました。

まず最初のびっくりは、開会式で、日本選手の入場が最後から2番目で、開催国のロシアの前だったことでした。ロシア語のアルファベット順での入場で、「日本」はロシア語ではそんなに最後の方なのか、と再認識。1964年の東京オリンピックでは、USAの米国とUSSRのソ連が開催国の日本の前で入場していた。それ以来何となく、大選手団の国は後ろの方で入場というイメージがある。まあ開催国の前で入場するのも目立っていいかも。しかし、日本選手の入場は日本時間午前2時を超えてしまい、ちょっと寝不足になってしまった。

早くも期待の日本選手登場だが、現時点ではちょっとイマイチの結果です。

まずは、スノーボードの男子スロープスタイルの角野友基(17)、スノーボードの採点基準など筆者には全くわからないが、日本時間土曜日の午後の競技で、外は凄い雪で自宅に閉じ込められたこともあり、じっくりとテレビ観戦して応援した。W杯の優勝経験もあり、ちょっと期待したが、予選は失敗。実質敗者復活戦の準決勝でギリギリの4位で決勝進出。決勝では、バックサイド・トリプルコークとかいう技を決めたとのことだったが、8位入賞がやっとだった。でも今後のこの競技の国内での盛り上がりを考えると、ビリで決勝進出でも大いに意義はあったと思う。

次はおなじみモーグルの上村愛子(34)。決勝は3回の勝ち抜き戦。2回目をギリギリの6位で突破、最終3回目はばっちり決まったガッツポーズの滑りだったが、残念ながらバンクーバーに続き4位。タイムは早かったのに、エッジを使いつつ雪を切り裂いていく上村のターンは現在主流ではないそうで、高評価は受けられなかった。これも筆者には全く採点基準がわからず、納得感は無かった。上村はとうとう五輪でメダルが取れなかった。応援していたけど。残念です。

フィギュア団体は、男子の羽生結弦(19)は本当に素晴らしかったが、浅田真央(23)は予想外に全然ダメ。ソチに入って絶好調と伝えられていたが、突如緊張に襲われ、トリプルアクセルが全く決まらなかった。結局団体5位。おいおい真央ちゃん、個人戦大丈夫?

ジャンプの葛西紀明(41)もノーマルヒルは期待外れの8位。今後のラージヒルと団体に期待だが、自身のブログによると着地時に腰を痛めたとのこと、過度の期待は禁物か。せめてメダルは取ってくれ。

ところで競技を見ていて気付いたことがある。冬季五輪の種目はスノーボード、モーグル、ジャンプ、フィギュア、すべてに言えることなのだが、こちらとしては日本選手を応援しているので、ついついライバルの失敗を期待してしまう。「頼む失敗してくれ」と祈る感じだ。味方の成功より、敵の大失敗の方が望ましいのだ。これはあまりフェアではない感じがします。夏の五輪では相手の失敗を祈るケースはあまり多くはないのでは?体操競技なんかは同じかも知れないが。

またモーグルとかジャンプとか、すぐルールが改正される。ヒガミ根性かも知れないが、どうも日本選手にはいつも不利になる感じがする。ジャンプ陣が長野五輪の後、絶不調から立ち直れないのも明らかにルール改正のせいなのだ。やはり冬季五輪は、一部のヨーロッパ諸国と北米の為の競技なのだろうか。

いやいやまだ五輪は始まったばかり。これからに期待しましょう。

 

 

 

 

スポーツを科学の目で見る  (ソチ五輪で日本選手頑張れ)

2014 JAN 30 11:11:34 am by 中村 順一

いよいよ2月7日に開幕するロシア、ソチ五輪が迫ってきました。日本選手への期待が高まるが、果たして日本選手は活躍できるのだろうか。選手団長の橋本聖子参院議員は、1月20日の東京都内での日本選手団結団式で、何と、「活躍間違いなし、長野越えも可能」と宣言した。これは凄い宣言である。ちょっと嬉しかった。

もともと冬季五輪での日本選手は、出場した五輪では必ず金メダルをとっている夏の五輪とは異なり、あまり活躍できていない。最初のメダルは、1956年のイタリアのコルティナ・ダンペッツオ五輪での猪谷千春のスキー回転での銀メダルである。その後は札幌五輪(1972年)の日の丸ジャンプ飛行編隊の金銀銅メダル独占、アルベールビル五輪(1992年)とリレハンメル五輪(1994年)でのノルディックスキー複合団体の金、などはあったが、基本的に冬の五輪は北欧、ヨーロッパアルプス近隣諸国、ロシア、北米が圧倒的に強く、それ以外の地域は参加するのみで、時々活躍、といった歴史だったのである。ところが1998年の長野五輪は日本選手が大活躍、金5、銀1、銅4の合計10個のメダルを獲得した。長野五輪は、日本中が大いに盛り上がっていた五輪だった。その長野を超えると言うのだから、これはなかなか凄いのである。

本当ですか?と聞きたいところ。

じゃあ、どの選手が金メダルを取るの?と皆が期待する。まずは女子ジャンプの高梨沙羅(17)ですね。沙羅はW杯で圧倒的な強さを見せている。文武両道の凄い女性で筆者も大ファン、是非是非勝たせたいが盤石だろうか、ライバルは怪我から復帰のヘンドリクソン(米)と急成長のアバクモア(ロシア)あたりだろう。沙羅が飛ぶ瞬間は怖くてテレビを見ていられないかも。

フィギュアは女子も男子も期待。女子はもちろん浅田真央(23)、男子は羽生結弦(19)と高橋大輔(27)。浅田のライバルは金妍児だが、公平な審判をお願いしたい。金妍児の国の審判もいるんだよな。どうもサッカーW杯のスペイン戦、前回バンクーバー五輪のフィギィア等、この国はいろいろ噂があるのだ、まったく面倒くさいお国柄である。男子のライバルはチャン(カナダ)で、冷静に見ればやや劣勢。

次は男子ジャンプの葛西紀明(41)、今季W杯で史上最年長で優勝した。もともと絶対的なエースなのだが、どうも従来は五輪直前になると調子が落ちる傾向があった。今季は、規定の改定による新型のスーツが葛西に合っているようで絶好調、メダルは十分期待できそう。

ノルディックスキー複合の渡部暁斗(25)はメダル有望。モーグルの上村愛子(34)も頑張ってほしい、長野五輪の時は地元大町高校の高校生だった、その後どうしてもメダルが取れないが、今度こそ。運も必要かも。応援したいです。

筆者には馴染がない種目なのだが、スノーボードハーフパイプも有望。平野歩夢(15)と平岡卓(18)。特に平野は、五輪3連覇を狙う絶対的な王者のホワイト(米)が「凄い才能、回転のスピードが自分より早い」と最も警戒する存在らしい。

スピードスケートも頑張ってほしい。男子短距離陣は加藤条治(28)と長島圭一郎(31)に期待、2人ともバンクーバー五輪のメダリストで経験があり、本番で強そう。女子はバンクーバーで惜しくも銀だった団体追い抜き(パシュート)が狙える。田畑真紀(39)と菊池彩花(26)が好調。

この選手が全員メダルを取ったら(是非、金を期待したいのだが)、確かに「長野越え」になる。いやあ2月7日の開幕が楽しみですねえ。寝不足になりそう。

 

オリンピックへの道、死闘10番勝負、その6から10

2013 NOV 25 16:16:48 pm by 中村 順一

西室氏の投稿を引き継ぎ、6から10までの勝負を僕が書いてみます。水泳と冬季五輪から選んでみました。

 

6:男子競泳自由形、山中毅とマレー・ローズ

山中毅は競泳自由形、中長距離のエースで1956年のメルボルン五輪と1960年のローマ五輪で銀メダル4個。金メダルに届かなかった悲運の男である。宿敵の豪州のマレー・ローズには五輪ではただの一度も勝てなかった。通算では5勝5敗で、実力での差は無かったとも言えるし、世界記録も20回以上記録している。しかし大舞台ではいつもローズの勝利だった。メルボルンでは米国のブリーンも交えた3選手の大接戦、山中は17歳だった。次のローマでは下馬評では山中有利で、日本国民も金を期待したがダメだった。

山中は能登半島の出身、母親は当地では有名な海女で潜水が得意だった。山中は驚異的な肺活量を母親から受け継いだのである。山中は東京五輪にも出場、ショランダーが圧勝した400Mで6位だった。この時ローズは第一線から退いており、テレビ解説者をしていた。

 

7:東京五輪女子100M背泳

1964年東京五輪の女子100M背泳はすごく印象に残るレースだった。金はアメリカのキャシー・ファーガソン、銀はフランスのクリスチーヌ・キャロン、そして日本の田中聡子が4位に入った。ファーガソンとキャロンは共に当時16歳、そして2人ともびっくりするくらいの美貌だった。キャロンはその後女優になっている。

でもやっぱり思い出すのは田中である。田中はローマ五輪にも出場し銅メダル、日本女子としては1936年ベルリン五輪の前畑秀子以来24年ぶりのメダルを取っている。惜しかったのは田中が得意だったのは100Mではなく200Mだったことだ。田中は200Mで10回も世界記録を更新している。200Mは田中が引退した直後の1968年のメキシコ五輪から正式種目になった。”もし”の議論は禁物だが、仮に200Mが田中の時代に正式種目だったなら、田中の取ったメダルがローマの銅メダル1個ということは無かっただろう。田中は長崎県佐世保市の出身、八幡製鉄に入社した。

 

8:中学2年生、最年少金メダル、岩崎恭子、本命ノールを破る

1992年バルセロナ五輪の華は何といっても女子200M平泳ぎの岩崎恭子である。沼津第五中学校2年生、14歳になったばかりの岩崎恭子は大変な偉業を成し遂げた。予選で日本新記録を出した岩崎に一躍注目が集まったが、本命はアメリカの世界記録保持者アニタ・ノールだった。後半勝負を得意とする岩崎は徐々にノールとの差を詰めていく。ノール、岩崎に中国の林莉も加えた最後の50メートルのデッドヒートは正に凄かった。タッチの差で岩崎は勝った。レース直後のインタビューで彼女は「今まで生きてきた中で、一番幸せです」と語り、一躍時の人となった。本命のノールは当時16歳、凄い調子でオリンピック開始後に記録を伸ばしてきた岩崎のプレッシャーに焦り、前半から飛ばし過ぎたレースだった。岩崎はその後2009年にラグビー選手と結婚、2011年春に女の子を出産している。幸せがあのバルセロナの一瞬だけで無かったのは喜ばしい。

 

9:伊藤みどり、とクリスティー・ヤマグチ

伊藤みどりは女子フィギュア・スケートで女子で初めてトリプル・アクセルに成功し、これを武器に1989年の世界選手権で優勝、一躍世界のトップスターの座を獲得した選手である。今では日本のフィギュア・スケートは国民的スポーツとして、オリンピックでの金メダルも期待される種目になっているが、伊藤の時代はまだ違った。戦前・戦後を通じ、日本選手がメダルを取ることは長い間の夢だった。しかし世界の壁は厚かったのである。

クリスティー・ヤマグチは米国カルフォルニア州出身の日系3世、1989年と90年の全米選手権で連勝し、伊藤のライバルとして頭角を現した。1991年のプレ五輪の大会では伊藤はフリーの演技でヤマグチを逆転、1992年のアルベールビル五輪では本命として金が期待された。しかし伊藤はオリジナルプログラムで失敗、大きく出遅れた。得意のフリーに期待が寄せられたが、最初のトリプル・アクセルに失敗、関係者の間に嘆息が漏れた。トリプル・アクセルは難しく、高いジャンプ力がいるので、競技の前半部分のみ演技が可能で、後半部分では不可能、とするのが当時の常識だったからだ。しかし伊藤の精神力は凄かった、後半部分でトリプル・アクセルに再挑戦、見事五輪史上初の演技成功を達成、日本フィギュア界初の銀メダルを獲得したのである。ヤマグチは堅実な演技だった。フリーではトリプル・ルッツを中心にまとめ、伊藤の追撃を抑え金メダルを獲得している。

伊藤は名古屋の出身、その後のフィギュア界の中心が名古屋になっていく先駆者になった。あの高いジャンプとそれを支える下半身のバネ、瞬間の驚異の精神力等は正に天才だった。ヤマグチはその後プロのスケーターとして活躍、2011年10月には東日本大震災の民間支援プロジェクトの訪問団の団長として来日、元関脇の高見山と共に福島を訪問している。

 

10:スキー・ジャンプの原田

原田雅彦は北海道上川町出身のスキージャンプ選手、長い間日本ジャンプ陣の中心選手として活躍し、ライバルも当然ながら多数存在しているのだが、僕にはどうしても原田のライバルは自分自身という気がしてしまう。

原田はまず1994年のリレハンメル五輪ジャンプ団体で、よほどの大失敗ジャンプでもない限り、金メダル確実という場面で最後の一本を飛んだ。しかし失敗、銀メダルに終わった。1998年の長野五輪でもジャンプ団体で日本の3番手となった原田に一回目は運悪くほとんど前が見えないような大雪の中で行われた。降りしきる雪でアプローチの速度が落ち、80Mにも届かない大失敗ジャンプになってしまった。この時は僕を含めた多くの国民が4年前の悪夢を思い出した。しかし原田は2本目「両足を骨折してもいい」との覚悟で137Mの大ジャンプを決め、金メダルへの立役者となった。

原田のジャンプ・スタイルは独特で、踏切りの際に上に高くジャンプし、飛行曲線が他の選手に比べ高い軌道から落下するスタイルであった。それがリレハンメル五輪のような失敗ジャンプに繋がり、「本番に弱い原田」、とか「失速男」との論調になったこともあった。でも原田は内面はいたって真面目で、言い訳や不平不満は一切言わず、愛妻家の素晴らしい男であり、国際的知名度も極めて高い。長年日本ジャンプ界を支え、多くの失敗と、多くの大感動を生んだ大ジャンプから、「ミスター・ジャンプ」との呼び声もあるが、僕には原田なら当然の呼び声、と思える。

原田のジャンプはドラマチックで数々の名実況場面を生んでいるが、有名なのは長野五輪のラージヒル個人の2本目で137Mを飛んで銅メダルを獲得した時の、NHKの工藤アナによる、「因縁の2回目」「立て、立て、立て、立ってくれ、立ったー!!」であろう。数多くの日本国民を熱狂させた瞬間だった。また長野五輪団体で、次のジャンパーである船木和善への声援「ふなき~ふなき~」を覚えている人も多いだろう。

原田は、常に「失敗ジャンプの可能性」という自分自身と正面から対決し、五輪で金、銀、銅のメダルを獲得した正に国民的英雄である。

 

オリンピックへの道 (死闘10番勝負 その1から5)


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オリンピックへの道、日本のお家芸、三段跳三連勝

2013 NOV 10 18:18:22 pm by 中村 順一

織田、アムステルダム五輪優勝

織田、アムステルダム五輪優勝

田島、ベルリン五輪優勝

田島、ベルリン五輪優勝

南部、ロサンゼルス五輪優勝

南部、ロサンゼルス五輪優勝

かつて陸上競技の三段跳が、「日本のお家芸」と言われていたことさえ知っている人は少なくなった。だが三段跳は、陸上競技で日本人が唯一オリンピックで三連勝し、圧倒的な強さを誇っていた種目なのである。織田幹雄の1928年アムステルダム五輪、15M21での金、南部忠平の1932年ロサンゼルス五輪、15M72,世界記録での金、田島直人の1936年ベルリン五輪、16M00,世界記録での金である。

 

織田は広島県出身、広島一中時代に全国中等学校陸上競技大会の走高跳と走幅跳で優勝。その後も順調に記録を伸ばし、広島の天才として有名になり、1924年のパリ五輪で6位に入り、日本陸上初の入賞を果たす。アムステルダム五輪の金は日本人初の偉業であった。織田はアムステルダムに出かける前、歌舞伎座に6代目菊五郎の踊りを見に行っている。「あの踊りにはすばらしい動きがある。これを跳躍に生かせないか、と考えたのです」と後に言っている。あの時代にすごい余裕、と感心させる。

 

南部は北海道、北海中学出身、雪が多く、走る環境としては適していない。しかし南部は雪かきされて雪が少ない市電の線路を、トラックのコースに見立てて練習した。後にジャンプの金メダリストで同じく北海道出身の笠谷幸生が、「冬はハンディでしたね」と尋ねると、「問題ないよ。冬はね、札幌市が最高の練習走路を用意してくれたのさ」と語ったという。南部は走幅跳で1931年に7M98という当時としては驚異的な世界記録を樹立した。この記録は相当にレベルが高く、その後も長く日本記録として残った。破られたのは東京五輪後の1970年に山田宏臣が8M01を跳んだ時である。この時山田は「南部さんの記録を超えることができた」と泣いて喜んだ。この記録なら現在でも日本選手権優勝も可能だろう。

 

田島は山口県岩国中学、山口旧制高校から京都大学に進学した秀才。ロサンゼルス五輪代表の陸上選手、十倉麻と結婚、日本初のオリンピック代表選手同士の結婚として話題になった。田島が三段跳をはじめたのは織田の影響である。田島の兄も跳躍の選手で、織田は広島から岩国に時々遊びに来ていたのである。当時、”裸足で大学生選手に勝つ天才麒麟児” が田島直人少年の体に火をつけたのである。ベルリン五輪の田島の16M00は当時の圧倒的な世界記録で、2位の日本人の原田に30センチ以上の差をつける圧勝だった。田島はベルリンでの三段跳決勝の開始前に、競技開始を待っていた際、ポカポカ陽気のグラウンドでウトウトと居眠りをしてしまった。そして競技開始のアナウンスにびっくりして目をさまし、その直後の跳躍で世界記録を樹立した。その日の調子は最高だったそうだが、正に余裕を感じさせるエピソードである。

 

この3人の友情はその後も長く続いた。織田と南部は同学年で、早稲田に進学している。早稲田を出ると織田は朝日新聞、南部は毎日新聞に進んで新聞記者になった。2人は同じ取材で時には互いにそれぞれの記事を融通しあったりした。東京五輪の時は、織田が日本陸上チームの総監督、南部が監督、田島がヘッドコーチを務めた。金メダルトリオの豪華な揃い踏みである。3人共、もちろん日本陸上界の英雄であるが、3人の特徴は異なる。南部は3人の跳躍を評して「織田は数学的、南部は直感的、田島は哲学的」と述懐している。戦前の良き時代の日本を代表する、世界に誇れる日本人、と言えよう。

 

ところが、その後の日本跳躍陣は振るわない。世界記録の樹立は、戦後の1956年のメルボルン五輪前に小掛照二が三段跳で16M48の当時の世界記録をマークしたのが最後である。残念ながら小掛は本番前に足首を痛め、メルボルンでは8位に終わっている。しかし、その後はいくつかの五輪の陸上監督、日本陸連の強化委員長等に就任し、陸上競技の発展や底辺拡大に大いに貢献した。

 

現在の三段跳の日本記録は、山下訓史が1986年に記録した17M15で、世界記録である英国のジョナサン・エドワーズの18M29からは1メートル以上の差をつけられている。現在では日本人が三段跳や走幅跳で世界記録を樹立するシーンを想像するのはちょっと難しい。時代が変わったということだろうか。

 

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オリンピックへの道、マラソンの円谷と君原

2013 NOV 1 17:17:33 pm by 中村 順一

ヒートリーに抜かれる円谷

ヒートリーに抜かれる円谷

君原メキシコ五輪銀メダル

君原メキシコ五輪銀メダル

今でもはっきりと覚えている。1964年、東京オリンピックのマラソン。僕は小学校の4年生だった。国立競技場に帰ってきた円谷幸吉はひどく疲れて見えた。精も根も使い果たしたという走り方だった。既に、レースの終盤は悠々と、ぶっちぎりで独走したエチオピアのアベベは、4分も前にゴールインしていた。円谷の後ろから英国のヒートリーが迫ってきた。オリンピック前までの世界最高記録保持者だ。ラストの200メートル、アッという間にヒートリーは円谷を抜き去り、あとは差を広げる一方だった。円谷は銅メダルに終わってしまった。それでもオリンピックの陸上競技のメインスタジアムに日の丸が揚がったのは、ベルリン五輪以来、実に28年ぶりだったのである。快挙だった。しかし円谷にとって3位では満足できなかった。とくにゴール直前でヒートリーに抜かれたことが大きな屈辱として心に重く残った。

 

君原健二もこのレースに出て8位だった。君原は東京オリンピックの代表選考レースでも優勝しており、最も期待されていたのだが、実力を出し切れなかった。その君原が1967年の一年後に迫ったメキシコ五輪を目指した強化合宿で円谷に会っている。円谷は競技場の中で追い抜かれたことをとても気にしていた。そして「もう一度、メキシコで日の丸を揚げることが、日本国民に対する私の約束です。」と語ったそうだ。追い込まれていたのである。この年円谷はオーバーワークが祟り、持病の腰痛が悪化、手術までしている。メキシコは近づいているのに思うように走れない日々が続いた。人には言えない苦しみに悩んだのだろう。メキシコ五輪の年の1968年1月に円谷は自衛隊体育学校宿舎の自室で剃刀で頸動脈を切って自殺した。どうしてそこまで自分を追いつめていったのか。あの当時は今とは時代の空気が違う。1984年のロサンゼルス五輪で、柔道の無差別級で金メダルの山下泰裕は勝った時「自分の為に頑張りました。」と泣きながら言った。また1992年のバルセロナ五輪で銀、1996年のアトランタ五輪で銅のマラソンの有森裕子はゴール後のインタビューで「初めて自分で自分をほめたいと思います。」と同じく泣きながら言っている。時代は変わりつつあったのだ。国の為に戦うのではない、自分の為だ、時代はオリンピックを”自己愛のスポーツの舞台”に変えていったのである。でもあの時代は違った。円谷は、自分が走るのは国の為である、と固く信じていた最後のスポーツ選手かもしれない。

 

円谷は遺書を遺している。

「父上様母上様、三日とろろ美味しうございました。干し柿、もちも美味しうございました。敏雄兄姉上様、おすし美味しうございました。勝美兄姉上様、ぶどう酒リンゴ美味しうございました。 (中略)  幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、立派な人になってください。父上様母上様、幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。気が休まる事なく、御苦労、御心配をおかけ致し申し訳ありません。幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」

 

川端康成はこの遺書を「美しくてかなしい響き、千万言も尽くせぬ哀切」と評した。また三島由紀夫は、当時ノイローゼによる発作的自殺と語られた憶測に対し、「傷つきやすい、雄々しい、美しい自尊心による自殺、この崇高な死をノイローゼという言葉で片づけたり、敗北と規定したがる、生きている人間の醜さは許しがたい」と書いている。なんという遺書だろう。ここには肉親親族への深い愛情と礼儀がある。今の核家族の時代には、これだけ並べあげるだけの肉親親族はいないだろう。しかし戦前から戦後の一時期までの農村共同体の日本社会では、ごく当たり前のことだったのである。

 

その後君原はメキシコ五輪で堂々の銀メダル、次の1972年のミュンヘン五輪でも5位に入賞している。君原はメキシコ五輪のレースで最終盤まで2位だったが、後続の選手も迫ってきていた。振り返って後続を確認すると不思議と活力が出た、そして2位を死守したのである。君原は言っている、「なぜあの時に普段はやらない振り返り確認をしたのか、きっと円谷さんが天国からメッセージを送ってくれたんです」。思えば円谷も「男は後ろを振り向いてはいけない」との父親の戒めを愚直に守って失敗した。共に苦労してきた盟友の君原に「おい、後ろが迫っているぞ」と、天国から伝えたかったのだろう。

 

円谷と君原は高校時代同学年のライバルだった。円谷は福島県須賀川市の出身、高校卒業後自衛隊に入った。君原は北九州市の出身、高校卒業後、地元の八幡製鉄に入社した。

 

君原は、円谷の自殺の後、「どうしてもっと声を掛けなかったのだろう、自分なら救えた命だったかもしれない」と、ひどく悩んだ。須賀川市では毎年「円谷幸吉メモリアルマラソン」が開催されている。この市民マラソンに君原はたびたび出場している。そしてマラソンの後、円谷の墓をお参りするそうだ。

 

円谷と君原は、あの時代の日本人を熱狂させた思い出深いランナーである。

 

 

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オリンピックへの道、ベルリン五輪、「前畑頑張れ」

2013 OCT 29 16:16:18 pm by 中村 順一

Hideko_Maehata[1]オリンピックへの道、というタイトルへの投稿として、過去のオリンピックで活躍した選手のエピソード等を描いていきます。一回目は前畑秀子(結婚後の名前は兵頭秀子)です。

 

前畑秀子を知っている人はもう少なくなった。しかし、「前畑ガンバレ」の実況放送の話を聞いたことがある人は多いだろう。世界が戦争に向かいつつあった1936年のベルリン五輪、前畑秀子は二百メートル平泳ぎで金メダルを獲得した。当時NHKラジオアナウンサーの河西三省の、前畑ガンバレ、前畑ガンバレ、の絶叫に日本中が熱狂した。日本の女子選手初の金メダル。最近のオリンピックでは日本は女子選手の活躍が目立つが、当時は事情が異なっていた。その後の女子の個人種目金メダルは、1972年ミュンヘン五輪百メートルバタフライの青木まゆみ、まで無かったのである。レースはドイツのゲネンゲルとのデッドヒートだった。結果的には前畑は3分3秒6で3分4秒2のゲネンゲルを振り切った。地元選手だけに会場の応援は当然ゲネンゲルだった。観衆だけではない、ヒトラーも会場に姿を見せてドイツ選手を応援したのである。現在のように「楽しんでオリンピックに参加できれば良い」などという考えは当時はありえなかった。ナチが国威発揚のために利用したベルリン大会、ドイツ選手には勝つことが求められており、それは日本でも同じだった。「死んでも勝ってこい」との言葉に送り出されて、前畑は日本を出発したのである。

 

前畑は1932年のロサンゼルス五輪にも出場している。同じ二百メートル平泳ぎで前畑はオーストラリアのデニスにタッチの差で敗れて銀メダルだった。しかし帰国すると「なぜ、金メダルを取れなかったんだ」という声ばかり。「よく頑張った」と当時18歳の少女を讃える声はほとんど無かった。前畑は前年の1931年に両親を相次いで亡くしており、寂しい中で頑張って全力を尽くして帰ってきたにもかかわらず、である。当時の国民の対応は少女の前畑には辛かった。前畑はその後1日2万メートルも泳ぐ猛練習を重ね、ベルリンに臨んだのだった。

 

シベリア鉄道でベルリンへ。開会式で日本選手団はなんと戦闘帽を被って行進した。今回はどうしても金メダルを取らなければならない。「負けたら、死んで(日本国民に)お詫びしようと思っていた」と前畑は後に言っている。まさに大変な死闘だった。やることはやった。しかし勝つには運も必要だ。スタート直前に「日本の神様、なんとか勝たせてください」と何度も心の中で祈ったという。

 

前畑は1983年に脳溢血で倒れている。両親の命を奪った同じ病気だ。だがその後五輪を目指して練習していたころよりも苦しい、毎日のリハビリにより、奇跡の回復を遂げている。前畑は、水泳で鍛えた強い精神力がこの時自分を支えてくれた、水泳に感謝したい、と述懐している。1990年には日本女子スポーツ界より初めて文化功労者に選ばれた。1995年に80歳で死去している。今でも日本選手権の女子二百メートル平泳ぎ優勝者には前畑秀子杯が授与されている。

 

前畑は和歌山県の現・橋本市の出身。紀ノ川で水泳を覚えた。尋常小学校5年で学童新記録、高等小学校2年で汎太平洋大会の平泳ぎで早くも優勝。紀ノ川の天才と謳われた。しかし貧しく、コーチもなく、両親も早く失った。ないないづくしの少女だった。しかし、少しでも、0.1秒でも早くなりたい、とそればかりを考え、猛練習でついに勝ち取った栄光。「前畑ガンバレ」は当時の日本国民全員に勇気と感動を与えた。前畑は正に日本スポーツ界の英雄である。

 

 

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オリンピックへの道 (死闘10番勝負 その1から5)

オリンピックへの道、死闘10番勝負、その6から10

こんな嬉しいことがあるだろうか

2013 SEP 8 17:17:28 pm by 中村 順一

2020年東京オリンピック開催決定。大袈裟ではなく、僕にとってこの十年間で一番嬉しいニュースだった。生きている間に2回の夏季オリンピック、札幌と長野の冬季オリンピックも入れれば、4回ものオリンピックを日本で見れるなんて、僕はなんという幸せ者なのだろう。

この前の東京オリンピックは1964年、僕が小学校4年の時だった。僕は生まれも育ちも東京の都心なので、あの時東京の風景が力強く変わっていったのを鮮明に覚えているし、10月10日開会式の晴れた青空、入場行進等、忘れられない。あのオリンピックは、僕みたいな子供にとっても、自分の国である日本への「自信」を持てるようになる大変なイベントだったのである。思えば日本が飛躍し、世界の先進国になっていくスタートだったのだ。アベベ、ヘイズ、ショランダー、女子バレー、体操の遠藤、ヘーシンクと神永、ヒートリーに抜かれた円谷、思い出は挙げればきりがない。

嬉しいのは、僕たちが味わった感激を今の若い世代や子供たちに味わってもらえることである。東京はどんどん変わっていくだろうし、経済効果も大いに期待できるだろう。そしてこの”失われた20年”から脱却していく道が見えてくるならば、こんなに素晴らしいことはない。

オリンピックに関しては、これからもどんどん寄稿したい。今日はまず嬉しくてしょうがない、自分の今の気持ちを表したくて、まず寄稿します。

ここに至るまでの関係者の努力に心から敬意を表したいが、特にブエノスアイレスでの安倍首相(僕と同い年です。頑張って)の最後のスピーチ、高円宮様、滝川クリステル、には感激しました。
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