東北海道の物語、その3(道東を一気にドライブする)
2014 SEP 11 17:17:18 pm by 中村 順一
さて、根室を出発、帰りのJAL便は夜の8時20分、女満別発だ。ゆっくり時間があるので、レンタカーでドライブしつつ東北海道を満喫しようとするプランだ。まずは根室から厚床、別海を経由して中標津を目指す。
厚床の交差点を右折して北に向かう。根釧台地の大平原だ。いやー、広い広い。東京近郊、あるいは本州のどこでも、九州でも四国でも、これだけの直線道路が地平線までずーっと続く景観を味わえることは無いと思う。運が良く、雲は少し出ていたが、天気は申し分なく、道東名物の霧も出ていなかったので、見晴らしも素晴らしかった。
中標津は内陸部にあり、漁業の盛んな海岸部に比べ、開拓は大幅に遅れていた。1911年に入植者が団体で移住し、開拓が本格的にスタート、1924年には原野に人とモノを運ぶ殖民鉄道が開通した。1974年には国営の根釧パイロット事業が開始され、機械化による大規模酪農が推進された。このパイロット・ファーム事業は、小職世代は北海道の象徴的な事業として、学校で習ったものである。最近は中標津空港の開港もあり、釧路・根室地域では唯一人口が増加している町になっている。車で走っていても町の活気は十分に感じられた。
開陽台に着いた。開陽台は中標津を代表するビュー・スポット。高台にある為、根釧台地が300度方向ぐらい見渡せる。どこまでも続く牧草地、防風林、知床連山、国後島まで一望できる景観は圧巻の一言だ。東北海道の広さを大いに実感できる。
中標津の後は、知床の入り口の羅臼を目指した。根室海峡の海岸に沿って北に走る。海のすぐ向こうに国後島が良く見えた。大きい島だ。今回の週末旅行は国後島を眺めることが目的の一つだったので、これだけはっきり島を眺められたのには感激した。やっぱり、これだけ北海道から近い(ものすごく近い)島を、ロシアが占拠しているのは違和感がある。どうしても返してもらう必要があるが、プーチン先生はやっぱり信頼できないかも。安倍頑張れ。
羅臼でソフトクリームを食べ、ちょっと休憩。その後は知床峠を越えてオホーツク海側のウトロヘ抜けた。知床峠では、雲がかかり、羅臼岳の頂上は見えなかった。知床を観光している時間はちょっと無いので、通過するのみ。ウトロの後は、昨晩根室のショット・バーで、ちょっと美貌の謎の女性から、「是非行け」、と勧められた、「摩周湖(裏摩周展望台)」と、摩周湖のそばの「神の子池」を目指す。
摩周湖を見るのは約40年ぶり、神秘的で圧倒される湖だ。裏摩周展望台は初めてだったが、他の展望台に比べると、湖面により近く、観光客も少なく、摩周湖の雰囲気をじっくり味わえる。是非お勧めである。神の子池もいい。神の子池はまだあまり観光地化しておらず、車で行くにも、舗装されていない山道を走る必要がある。摩周湖の地下水が湧き出ている山の奥にある池だ。摩周湖は、湖に流れ込む川も流れ出す川も無いことで有名だが、それでも水位が変化しないのは、湖の周辺で、神の子池などの伏流水で調整しているからだという。池はコバルトブルーで本当に美しかった。不思議な色である。これは来たかいがあったと思った。謎の女性に感謝。
その後は、少しずつ日没であたりが暗くなってきたこともあり、女満別の空港を目指した。ずいぶんドライブしたものだ。女満別の空港で、レンタカーを返す時、トヨタレンタカーの係員が、「根室から来られたのですか。女満別はオホーツク海側で、釧路や根室とは天気が違います、根室は夏でもいつも霧がかかって寒いでしょう。僕らもオホーツク側が暑いと、向こうに避暑に行くんですよ。」と話しかけてきた。同じ道東でも北と南では少し、雰囲気が違うのだ。人々の感覚も微妙に違う。
さて、JALも定刻どおりに羽田に到着。筆者の「急に思い立った、東北海道への旅」という充実した週末は幕を閉じた。皆さん、道東への旅は是非お勧めです。
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東北海道の物語、その2(最果ての街、根室)
2014 SEP 10 15:15:37 pm by 中村 順一
タクシーで厚岸に近い茶内の無人駅まで送ってもらった。ここから再び根室本線に乗って、東に向かう。
根室は日本の最東端にある正に最果ての町である。この最果ての寂寥感が好きで筆者は数回根室を訪れている。根室本線がゴトゴトと終点根室駅に到着したのは夜7時前だった。予約していた駅から徒歩数分の”イースト・ハーバーホテル”にチェックイン。ホテルに聞いて、まずは地元の魚がおいしい居酒屋へ。根室の魚はうまい。採ってすぐに居酒屋へ持ってくるからだろう。さんま、ブツ等、期待通りの味に大いに満足。そのあとはショット・バーに行った。一人で地方都市に行くときはショット・バーがいい。できるだけ行くようにしている。地元のショットバーのマスターとじっくり話し込むのだ、その地方の風土を実感できる。一人旅の魅力だ。今回もPというショット・バーでマスターと盛り上がった。
マスター「安倍ノミクスと言うけれど、根室では全く実感できません。根室の人口は2万数千まで減ってきています。昭和40年代は5万弱まで行ったんですけどね。北方領土は早く解決してほしいです。戦前の根室は、それはそれは千島との交流でにぎわったそうです。千島が帰ってこない限り、根室はやっぱり最果ての街です。これ以上、先に行くところがないのですから。宗男さんが、もう少しで歯舞・色丹だけでも解決寸前まで持って行ったのに田中真紀子がこわしちゃった。俺も根室生まれでずっと根室にいるの、根室が好きでしょうがないです、今47歳ですけど、えー、お客さんは今年還暦!若く見えるねー、55歳くらいかと思った(客へのワンパターンお世辞)。」
筆者「僕は亡くなった中川昭一の友達だったんだけど、昭一の評判はどうなの?」
マスター「お父さんの一郎さんの人気はすごかったけど、昭一さんは選挙区が変わって関心は十勝に移ってしまいました。根室ではやはり宗男さんです。」
バーには筆者以外に、筆者よりはかなり年上の親父が一人いた。バイクで北海道を回っているらしい。バイク親父とも適当に会話する。そこで40歳くらいのまずまず美貌の女性が入ってきた。マスターの対応は筆者やバイク親父とは違う、うーん、これはマスターと特別の関係だな、とすぐに気付く。女性も会話に参加してきた。
女性 「地方はやっぱり、何かを持ってきてくれる政治家がいいのよ。宗男さんは良かった、捕まって可哀そう。根室は人口も減ってきて、2つある公立普通高校も、生徒不足で近々ひとつに統合されるのよ、私は中標津生まれだけど、もう根室に住んで20年、いいところです。でも悲しいことに、最近は根室は病院も駄目、病院の建物を新築しても、いい医者が来てくれないんです。」
マスター「そうなんです。最近の根室の医者の質はひどいもんです。診断が全く信頼できない。これではわざわざ釧路まで行かざるを得ない。釧路も結構遠い(根室本線で2時間強)ので不便です。」
筆者「僕は根室は好きだけどなあ、もう少し観光をアピールしたら、日本の最東端、最果てのの街、いろいろ売り込めそうだけど。」
マスター 「市が下手なんですよ。根室には”車石”という奇岩もあるんですよ、こんな光景は日本では根室にしかありません。」
その後、バイク親父は明日も飛ばすぞ、とか言いながら退散。いろいろな話題で3人でかなり盛り上がった。気づけば12時を回っていた。2人を残してホテルへ帰った。
次の日曜日も天気は良かった。ホテルの部屋からは国後島の”爺爺岳”が見えた。運がいい。レンタカーを借りて、まずは「歴史と自然の資料館」に向かった。根室の歴史を覗いて見たかったのだ。資料館では管理主査が親切に説明してくれた。
「根室は、明治政府が蝦夷地を北海道と改め、北海道を函館、札幌、根室の3つの県に分けた時(明治15年~18年)の県庁所在地だったのです。千島への中継基地として栄えました。明治の中頃には、札幌、函館、小樽に次ぐ、北海道第4の都会だったのです。しかし、昭和20年7月の空襲で旧市街は完全に破壊されてしまいました。昔の道東の本府としての面影が残っていないのは、その為です。歴史に興味がおありなら、この資料館には、戦前の樺太の日露国境(北緯50度)の碑のオリジナルがありますよ。見て言って下さい。」
親切な係員だった。根室の寂しい歴史が良くわかった。資料館を出ると、近くにある、昨晩のマスターお勧めの”車石”をせっかくなので、見に行った。確かに、日本ではあまりお目にかかれない奇岩である。20年程前に、北アイルランドで見た、”ジャイアント・コーズウェイ”に良く似ていた。
根室の観光はここまで。レンタカーで道東を南から北に縦断して、女満別を目指すことにした。(続く)
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東北海道の物語、その1(歴史の街、厚岸)
2014 SEP 10 15:15:41 pm by 中村 順一
急に思い立って、週末の土日で道東に行ってきた。北海道が好きなのだ。特に東北海道は特別だ。日本の他の地域にはない何かがある。
北海道は、札幌への集中が進んでいる。札幌は人口約190万人の日本第5位の大都会になった。でも北海道の他の地域の人口は減少している。道東も例外ではない。道東の最大の都市は釧路だが、かつて20万を越えていた人口は現在では18万人。今後も減少予想だ。でも道東には歴史もあるし、日本最大の大平原もある。北海道の中でも道東は歴史的に道央(札幌周辺)への対抗意識があり、人々は開拓に全力を尽くしてきたのだ。判官びいきの筆者は、そんな道東を応援してきた。
マイレージ活用の週末だけの短期旅行だ。飛行機のマイレージは直前にキャンセルしても、キャンセル料が3000円しかかからないのがいい。天気が悪くては意味がないので、金曜日まで、天気をチェックしていたが、まずまずそうなので、よし、行こうと決断。土曜の早朝のJALで釧路空港へ。その後、あこがれの根室本線(花咲線)に乗り、東へ。1両のローカル線で、超赤字路線だが、最果ての線路として、マニアには人気がある。1時間弱で厚岸に到着。
厚岸は道東では長い歴史のある街である。2回目の訪問であるが、前回は時間が足りず、十分に見れなかったので、再訪である。
厚岸は古来、東蝦夷地におけるアイヌ民族の居住地として栄え、松前藩は寛永年間(1624~44)にアッケシ場所を開設している。東北海道では最古だ。幕府はロシアの進出を警戒して、蝦夷地を幕府の直轄領に再編成し、人々の心の拠り所として3つの官立寺院を蝦夷地各所に建設した。東蝦夷地には、当時の中心地であった厚岸に”国泰寺”を開いた(設置の決定は1801年)。その後明治政府は近郊に屯田兵村を開設している。天然の良港に恵まれ、戦前は日本海軍も停泊地として使用していた。新鮮な牡蠣が一年中食べられることで有名。
さて、厚岸駅に着いた、早速タクシーをチャーター、費用はかかるが、効率よく観光するにはこれしか手はない。有名な”桜亭”という食堂で牡蠣にありつく。これが超美味。まずは大満足。昼食後、太田屯田兵村の記念館へ。記念館にいた女性は屯田兵村の歴史を語りだした。
「私の住んでいる家は、H家です。越後の古い武家で、本庄の地に城を持っていました。明治維新で没落した為に、当主の一大決心で、北海道の屯田兵に応募し、太田にやってきたのです。今でも、当時入植したところと同じ場所に住んでいます。私は、函館から嫁にきたのですが、H家とは血が繋がっていないので、未だに赤の他人です。今でも床の間に上がることは厳禁です。見合い結婚で主人とは結婚する前、ほとんど1~2回しか会っていませんでした。こんな昔の殿様の家に嫁に来るなんて、すごく大変なんです。この記念館での仕事も、私は歴史が好きなので、係員の募集があった時、是非やりたかったのですが、主人の親族から大反対がありました。私も頑張って、嫁の義務は必ず果たす、必ず両立させる、と約束して、やっと許してもらったんです。両立は結構大変で、今は毎日3時間くらいしか寝ていません。私の函館の実家は教育関係だったので、息子達の教育に関しては、私も必死でやりました。お陰様で、2人とも湖陵高校(釧路湖陵高校のこと、道東一の進学校、毎年東大に数人、北大に多数の合格者を出す)に入れました。学区域外からの受験だったので、すごく厳しかったんですけど。主人の親族からも評価してもらえました。」
いや、凄い女性だった。こちらが聞いてもいないのに、一方的に説明してくれた。どうも、H家には未だに明治の開拓時代の古い考え方が強く残っているようだ。H家以外にも、明治時代からの場所に住んでいる家はたくさんあるとのことだった。この女性の人生も大変そうだが、見るからに明るい性格、今後も何とか幸せに生きていくのだろう。ご主人の歳を聞いてみた。70歳とのことだった。歴史的には、太田屯田兵村は成功した事業とは言えない、との評価のようだが、ここには戦前の習慣がしっかり残っている。写真は撮らせてくれなかったが、女性の今後の人生の幸福を心より祈りたい。
女性と別れて、記念館の次は国泰寺に行った。徳川幕府が蝦夷地の教化を目的に作ったこの寺の所管は、十勝、釧路、厚岸、根室、国後、択捉の6場所に及んだ。ここの住職は定期的に所管地域を回っていたようだ。山門が当時のまま残っていて、扉には徳川家の表徴、”葵の紋”が彫り込まれていた。最上徳内、近藤重蔵、間宮林蔵等も訪れている。境内には近藤重蔵が色丹島から持ち帰った”色丹松”があった。
国泰寺の後は、見晴しのいい、”愛冠岬”へ。天気が良く、小島、大黒島もきれいに見えた。素晴らしい景色だった。(続く)
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ミャンマー滞在記 その2
2014 SEP 3 9:09:35 am by 中村 順一
ヤンゴンに2泊した後は、国内線飛行機で少し北にある、11世紀から14世紀に栄えたバガン王朝の都、バガンを訪れた。今回のミャンマーツアーは、そもそも、香港在住15年になる後輩が「中村さん、是非ミャンマーでゴルフしましょう。バガンという街では、仏教遺跡の中でゴルフプレーができるらしいですよ。」と誘ってきたのが、発端だった。本当かよ、と思ったが、今年の夏休みは他にやることもないので、後輩に旅行のアレンジを任せたのだ。
バガンはミャンマー最大の見どころといってもいいらしい。世界的にも極めて貴重な仏教建築群があり、1044年にビルマ族による最初の統一王朝が開かれた土地なのだ。高原にあるので、高温多湿のヤンゴンよりは過ごしやすい。ヤンゴンからは早朝の便でバガンに到着、タクシーでホテルへ、そしてホテルの隣にある、バガンゴルフリゾートで早速ゴルフを楽しんだ。ゴルフコースは7000ヤードを超える距離のある本格的コースでかなり難しいコースだった。筆者は一応日本ではハンディは13なのだが(今の実力は16程度)、軽く100をたたいてしまった。後半のハーフでは少しコースに慣れたが、600ヤードを超えるロングホールがあり,芝も粘っこくてやっかいだった。 しかし、コースの中に仏教遺跡があるのには感激した。写真は正にコースの中の仏教遺跡の前でリカバリーショットを打たんとする筆者である。ティーショットがやや右に行きラフへ、第二打が遺跡の壁を直撃、この写真は第3打である。遺跡が筆者のボールでダメージを受けないかと気にしたぐらいである。どうも後で聞くと、バガンはこんなゴルフコースを仏教遺跡のど真ん中に作ってしまったのが響き、世界遺産に登録されないらしい。他では味わえないプレーだった。
ゴルフの後は仏教遺跡をタクシーをチャーターして回った。エーヤワディー川の周辺に広がる乾燥した平原に数千ともいわれる仏教建築物が点在しているのだ。仏塔のてっぺんの近くまで登って眺めた仏塔が並ぶバガンの平原の風景は素晴らしかった。幻想的な雰囲気であった。
ミャンマーはまだ観光地としては洗練されておらず、素朴な感じがしたが、いいところだ。観光客も見かけるけれども、メチャメチャに多くはない。ちょっと滞在が短すぎて、十分にはこの国の良さを満喫できなかったが、印象は良く、みなさんにもお勧めである。食事も高級なレストランを選べば、十分に楽しめる。
帰りは香港経由でばたばたと帰ってきた。香港からヤンゴンまでは約3時間半くらいのフライトである。東京の方がヤンゴンより暑いぞ。(ミャンマー滞在8月17日~21日)
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ミャンマー滞在記 その1
2014 SEP 1 13:13:01 pm by 中村 順一
夏休みを取って、アセアンのミャンマーに行ってきた。香港に住んでいる前職の銀行の後輩に誘われ、香港経由での旅だった。 キャセイ航空で香港から、ミャンマーの首都ヤンゴンに到着。遅延により、ヤンゴンの国際空港に着いたときは、午前1時を回っていた。深夜であり、両替はできるだろうか、白タク(絶対にボラレル)でない、まともなタクシーは拾えるだろうか、などと心配したが、問題はなかった。タクシーでホテルへ。選んだホテルは、ヤンゴンでも最高級のひとつ、「ガバナーズ・レジデンス」、大使館街にある。深夜の到着でもホテルマンの対応は申し分なかった。
次の日はガイドを雇ってヤンゴン市内観光に出かけた。街に出てすぐわかったが、人々の表情はまともで、街も不潔ではなく、カルカッタやダッカみたいに人の群れで車が動けなくなることもなく、バンコクみたいに商業的に俗化しているわけでもなく、いい印象が伝わってきた。ヤンゴンではまずミャンマー最大の聖地であるシュエダゴオン・パヤーへ。まばゆいばかりの輝きをみせる仏塔は高さ、99.4M,強烈に人を引き付ける迫力をもっている。次はガイドはあまり乗り気ではなかったのだが、軍事政権への抵抗、度重なる自宅軟禁、ノーベル平和賞受賞等で有名なアウンサン・スー・チーの自宅にも行ってみた。もちろん門は固く閉められており、中をのぞくことはできなかったが非常に大きな邸宅だった。我々以外にも観光客がいて門の前でカメラを出しており、一種の観光地のようになっていた。ガイドと一緒に雇った運転手は最近米国のケリーが来たとき運転手としてスー・チーの邸宅敷地の中まで入ったそうで、入った時の写真を見せてくれた。なかなかの邸宅である。
ガイドは国内最高峰のヤンゴン大学を出たインテリで、流暢な英語を話す、少数民族のカイン族の出身だった。なかなかおもしろい奴で、ミャンマーの問題点を暴露してくれた。不満は軍事政権に向けられた。
「軍事政権は大問題です。2011年に軍政には終止符が打たれ、国民からの選挙に基づく新政府に権限が委譲された形になっていますが、インチキです。新政府は軍関係者が多数を占めていて、選挙は公平ではありません。軍事政権は長い間この国で権力を独占してきており、新政府にいる軍関係者は汚職により、ものすごい富を蓄積しています。その犯罪を暴くことは今の政府は決してやりません。自分たちの首を絞めるからです。2007年の反政府デモに対する軍事政権の武力弾圧で、日本人のジャーナリスト長井健司さんを含む多数の死傷者を出しましたが、現在の政府はその時の政府と本質的には変わっていません。スー・チーは国民に人気がありますが、もうすぐ70歳でミャンマー人の平均寿命を越えてしまっています。またミャンマーには外国人と結婚した国民は大統領にはなれない、という規定があり、英国人の夫(既に他界)を持っていたスー・チーは大統領になれないのです。」
またミャンマーは少数民族の問題を抱えている国である。人口は現在約6000万人で、そのうち約7割が主要民族のビルマ族、他にカチン族、カイン族、シャン族、ラカイン族など、数多くの少数民族が存在する。 「ミャンマーでは、仏教徒が約90%を占めていますが、私はカイン族でキリスト教徒です。カイン族にはキリスト教徒が多いのです。軍事政権はビルマ族で固められています。国軍にもビルマ族でなければ入れません。少数民族はそれぞれの地域で別途軍隊を組織しています。(筆者から、日本の国では、アイヌ族とか沖縄の独立論とか在日朝鮮人とか、若干の例外はあるが、基本的には、ほぼ全員が自分は日本人だと考えている、とコメントすると)、それは素晴らしい、それが日本の繁栄の理由の一つに違いない、ミャンマーでは全く違う。民族分布は7(少数民族)プラス1(主要民族のビルマ族)となっており、一体感はあまりありません。」
日本とは戦後、友好的な関係を築いてきている。ヤンゴンで走っている車の85%は日本製だそうだ。筆者の印象では、トヨタばっかり、に見えた。ランチを取った、アセアン・レストランには、びっくりするほど日本語のうまいサービス係の女性がいた。彼女は東京の高田馬場に約6年住んでいたそうで、高田馬場には日本国内最大の在日ビルマ人コミュニティが存在するそうだ。(以下、続く)
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世界の国々を放浪してきました
2014 AUG 25 15:15:06 pm by 中村 順一
放浪と言えるかどうかはわからないが、学生時代より世界各地に旅行し、欧州に約7年駐在し、その後も現在に至るまで、出張の多い仕事だったこともあり、既に行ったことのある国は約80になった。私の後輩や知人には100を超える人もいて、80ではまだダメだが、一応の数には違いない。
よく、ヨーロッパではどの国がいちばん良かったですか?、アセアンではどこが好きですか?と聞かれるが、その質問に答えることは難しい。どこの国もどの地域も、それぞれ歴史があり、素晴らしいのだ。
一応行ったことのある国を挙げてみる。国の定義も難しいのだが、一応、現時点で存在する国をベースにした。筆者は、英国に1985年から1992年迄、7年滞在し、結構いろいろな国を往訪し、当時の存在したヨーロッパの主権国家にはすべて行ったのだが、その後の歴史の激変で新しい国がたくさん誕生してしまった。今後も世界中で国の概念は変遷しつづけると考えている。
ヨーロッパ(37か国)
英国(イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド)、アイルランド、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランス、モナコ、アンドラ、スペイン、ポルトガル、ドイツ、スイス、オーストリア、リヒテンシュタイン、イタリア、サンマリノ、バチカン市国、マルタ、ポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリー、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツエゴビナ、セルビア、アルバニア、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャ、アイスランド、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、デンマーク、ラトビア、ロシア
英国人は合意しないだろうが、英国は1か国としてカウント。
アジア、中東(24か国、一応、台湾、香港、マカオは国としてカウント)
韓国、北朝鮮(板門店)、中国、台湾、(香港)、(マカオ)、フィリピン、インドネシア、マレーシア、シンガポール、タイ、ミャンマー、バングラデシュ、ネパール、インド、スリランカ、オマーン、アラブ首長国連邦(ドバイ、アブダビ)、カタール、バーレーン、クウェート、サウジアラビア、イスラエル、トルコ、
コーカサス(3か国) グルジア、アルメニア、アゼルバイジャン
アフリカ(6か国) エジプト、モロッコ、ザンビア、ジンバブエ、ボツワナ、南アフリカ
オセアニア(3か国) オーストラリア、ニュージーランド、フィジー
北アメリカ(2か国) アメリカ合衆国、カナダ
中米(2か国) メキシコ、パナマ
南アメリカ(4か国) コロンビア、ブラジル、ウルグアイ、アルゼンチン
植民地等
ジブラルタル、グアム
消滅した国
東ドイツ
できれば、生きているうちに100か国、と思っていたが、最近のきな臭い世界情勢ではちょっと難しいか。2010年に念願だったコーカサス3か国を往訪でき、次は長い間のターゲットだった西アフリカ諸国、と思ったのだが、イスラム過激派の活動、エボラ発熱病で、とっても無理、と相成っている。中央アジアのウズベキスタン、西アジアのイランあたりはすぐ行けるが、ちょっと筆者の興味の対象から外れてしまう。中米あたりで国数を稼ぐか。あるいはヨーロッパの新しい国(コソボ、モンテネグロ、ベラルーシ、ウクライナ等)を徹底的に回るか。 この80の中には、もちろん住んでいた国、何回も何回も行った国、一回しかいっていない国、とそれぞれだ。
不思議なことに、行った国は皆覚えている。今でも、行ったことのある都市や田舎の風景をよく思い出しては懐かしんでいる。筆者の人生のいい思い出だ。 筆者は歴史や地理が好きなので、行った国は結構研究してしまう。複雑な歴史や民族構成を持っている国には、特に資料を漁る熱意を持ってしまう。
今後もこの趣味は続けていくと思います。この80あまりの国の中で最も最近に行ったのはミャンマーである。実は先週行ってきたばかり。次はミャンマー紀行を寄稿します。
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佐世保の思い出
2014 JUL 31 14:14:49 pm by 中村 順一
10年前の2004年の夏になるが、前職の仕事で佐世保に出張したことがある。当地の地銀である、親和銀行を往訪したのだ。長崎県北部の中心都市、戦前には日本海軍の基地があり、現在でも海上自衛隊と米軍が駐在する基地の町だ。長崎県にあるが、県の南にある長崎市とはかなり離れており文化圏は異なる。むしろ佐賀県の方が近い印象だった。
佐世保に着くと、町はその年の6月に起こった小6女児の同級生殺害事件のショックがありありと残っていた。被害者の死因は首をカッターナイフで切られたことによる多量出血であり、小学校の女子児童による殺人事件でかつ学校が舞台だったことから、佐世保市内に大きな衝撃と波紋を広げていたのである。
筆者は、面談の合間の時間を使ってタクシーをチャーターした。目的は市内にある展望台から、「針生の電波塔」を眺めることだった。針生の電波塔は大正時代に海軍が作った巨大な施設であり、太平洋戦争勃発時に真珠湾攻撃の暗号「ニイタカヤマノボレ一二〇八」を発信したことで知られている。佐世保市内から少し離れており、現地に行くには時間がない、せめて遠くから眺めたかったのだ。
ところがタクシーの運転手は、筆者が乗車して少し時間が経つと、いかに佐世保市民がこの殺人事件にショックを受けているかを語りだした。「殺された女の子の首はほとんど首の皮一枚になるほど深く切られていたのです。父親は毎日新聞の佐世保駐在員で本当に女の子を可愛がっていました。当時父親には、娘さんが怪我をした、と連絡が入ったのですが、怪我どころではなく、即死だったのです。事件後の父親の姿を見ましたが、本当に気の毒でした。展望台に行かれるなら、途中で殺人を犯した女の子の実家の前を通りますよ。山の中に親戚連中だけで離れて住んでいる家族なんです。」
殺人を犯した女の子の実家の前に行ってみた。数軒の家が建っていたが、凄く寂しいところだったのを覚えている。また殺人現場の小学校にも行ってみた。市の中心にある普通の小学校だった。こんな町の中心の小学校で惨劇が起これば、それは市民にとってショックだろうなあ、と思った。
銀行の役員に面談すると、この話になり、「市民にとって大変なショックでした。こんなことを2度と起こしてはいけません。市では”命を大切にする教育”を徹底する方針のようです。」とのことだった。
ところが、今回また類似の事件が佐世保市で起こってしまった。市内の高校に通う女子生徒がクラスメイトを絞殺し、頭部と左手首を切断するという考えられない殺人事件が発生したのである。10年前の事件とあまりにも似ている。今、佐世保市内は再び暗澹たる雰囲気に包まれているだろう。命を大切にする教育は功を奏さなかったのか。佐世保市では2度と同様の事件が起きないように子供たちに対し、授業や集会を行ってきた筈なのに。
今回の被害者と殺人を犯した少女が通っていた高校は、県立の佐世保北高等学校である。市内一、長崎県北部一の名門進学校である。筆者の前職時代には、この高校の出身の女性が部下だったことがある。聡明なワーキングマザーで、高い専門性を持った前向きな女性だった。地方都市にとって、その町一の歴史のある名門高校は極めて重要な存在である。町のほとんどの重鎮がその高校の卒業生だからだ。今回の事件はその点からも、長く佐世保市民に重くのしかかる事件になるだろう。
この事件は恐ろしい。日本のどこでも二度と起こってほしくない。佐世保市民だけではない。筆者も含めて日本じゅうが大きなショックを受けている。
沖縄の西表島に行ってきました
2014 JUL 15 15:15:12 pm by 中村 順一
極めて忙しい旅行だったが、7月最初の週末に沖縄、八重山諸島の西表島に行ってきた。麻布高校の同期生6人とご夫人2人の総勢8人のツアーである。筆者は現在、ファンド関連の仕事がかなり忙しいこともあり、強行軍になった。金曜の夕方、羽田から飛び立ち、夜那覇にて宿泊。土曜の早朝に那覇から石垣島に飛び、石垣島から西表島には高速船で移動、午前10時過ぎに西表島、上原港に到着した。上原港では先に到着していた仲間の出迎えをうけ、着替えた後、さっそくカヤックツアーに出発した。両岸のマングローブが茂る川を、カヤックを漕いでさかのぼっていく。途中で森の中に上陸。森の中を少し歩いてサンガラの滝に到着。この滝壺で滝の水に浸かったが、これが最高に気持ち良かった。マングローブは水中に生えており、西表の豊かな自然を育む温床になっている。ジャングルと滝と川、西表でしか味わえない冒険である。
夜は麻布の同期生が設計した、ニライナリゾートにあるホテルで夕食。屋外のテラスで盛り上がった夕食になったが、ここからの景色は本当に素晴らしかった。人が全くいない風景で、神秘的な感じがした。夕日が強烈で今後も忘れられないであろう光景を味わうことができた。
日曜日はニライナリゾート所有の大型カタマランヨット(フランス製のlagoon380)で西表島の北西の海に出てシュノーケルを満喫。海は透明度が素晴らしく、サンゴがキラキラと輝き、サンゴの中を極彩色の熱帯魚をたくさん見ることができた。筆者は結構世界中旅行しているが、こんなにきれいな海にはお目にかかったことは無い。青いサンゴは本当に綺麗だった。
筆者は前の職場の仕事で沖縄には何十回の行っているし、本島以外の離島にもずいぶん行ったが、西表島は初めてだった。西表は石垣から船で40分の場所にあるが、石垣とは全く異なる風景に彩られている。島の90%がジャングルなのだ。沖縄県では本島に次ぐ面積を持つが、人口は2000人強しかいない。歴史的にマラリア発生地であったために、人が定住することが困難だったのだ。開発が遅れたことが、この素晴らしい自然を残すことになった。道路は島の東部と北部を結ぶ県道1本しかなく、筆者がシュノーケルを楽しんだ島の北西部には船でしか行けないのだ。
シュノーケルの後は、今回ガイドをしてくれたニナイナリゾートのタケさんにあわただしく島の西の白浜港から上原港まで車で送ってもらい、上原港から船で石垣に帰り、夜7時発のJALで羽田に帰ってきた。幸い天気は最高だったが、筆者が帰った次の日からは沖縄には台風8号が直撃。もし滞在が少し遅れていたら、沖縄に缶詰めになるところだった。極めて運がいい週末旅行だった。
沖縄には3年ぶりに行ったが、やはり素晴らしいところである。また行きたい。西表の自然は特筆できる。皆さんにも是非お勧めしたい。日本にもこんなに秘境があると、再認識できることだろう。こんなに楽しかったのは本当に久しぶりである。卒業して約40年経っても続いている麻布の仲間の友情に感謝したい。
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桜の京都に行ってきました
2014 APR 8 13:13:46 pm by 中村 順一
今回でSMCメンバーでの京都旅行は2回目になります。去年も素晴らしかったですが、今年はもっと感激しました。アレンジしてくれた梶浦大兄には感謝感謝です。筆者は東京生まれ東京育ちであり、京都は全くの素人、去年は単に喜んで観光していただけでしたが、今年はもう少し考えながら歩く余裕があったから、より感激できたのかも。
筆者は金曜日(4月4日)からは参加できず。土曜(5日)の昼過ぎからの参加となった。土曜日はまず泉涌寺と清水寺に特別参拝。梶浦の手配で、普通は入れない場所も含む特別コースだった。泉涌寺で梶浦、東、江崎と合流したのだが、まずはこの泉涌寺が大感激。泉涌寺は真言宗の寺院なのだが、寺の域内には歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺として「御寺」と呼ばれている。
凄かったのは、特別コースとして、天智天皇から昭和天皇に至る歴代天皇と皇后の位牌を安置している霊明殿と、京都御所にあったものを移築した、天皇が泉涌寺を訪れた時に使用する御座所に入れたことだった。
霊明殿でびっくりしたのは、全ての天皇が入っていないことだった。住職さんによれば、宮内庁の方針なのだそうだ。天武天皇と持統天皇が入っていない!壬申の乱で内乱を起し、大友皇子から帝位を剥奪した天武天皇など、天皇家としては自分のファミリーとして認めない、ということなのか。でもどうして持統は入っていないの?筆者は持統天皇のファンなので、ちょっと残念。持統は天武の皇后で、天武の死後、女性天皇として即位したが、それは自分の親である天智天皇の血を絶やさない為に、自分の孫に皇位を継承させるためのリリーフではなかったのか?この辺の歴史は東の専門なので、彼の投稿に期待します。それにしても、歴代天皇家の「気」を感じてしまい、大迫力の参拝でした。住職さんの解説が良かった。感謝です。一人で行っても、ここまで歴史に浸ることは到底できません。
その後、清水寺へ行って、阿曾女史と久留米レディーの寛乃さんと合流。清水寺を参拝した後、夕刻からは京都の五花街の一つである、宮川町へ行って、お茶屋「しげ森」で花見の宴。美味しい京都料理を頂きながら、美しい芸妓͡さん舞妓さんの踊りや、一同でのゲームを楽しんだ。京都の花街は何と言っても長い歴史を誇る京都の伝統であり、東京では絶対に味わえない趣きがある。現在でも15歳になると住み込みで修業し、舞妓さんになり、その後芸妓さんとして独り立ちするという、昔ながらの京都の伝統がしっかり守られていることに感激。阿曾先生(また教えてもらいました。阿曾女史は京都にゆかりの人で何でも知っている。)によると京都には上七軒、祇園、祇園東、先斗町、宮川町の五つの花街があるとのこと。筆者は昔の仕事の頃、祇園と先斗町に行ったことがあるが、宮川町が素人でも入っていける親しみやすさを、一番感じることができた気がします。気に入りました。
次の日(6日、日曜日)は、朝は町屋(梶浦の運営する、京都の民家をイメージできる一棟借りの旅館。外人にも大人気)でゆっくりくつろいだ後、タクシーで京都の幕末関連の名所を観光。これは去年に引き続いてのテーマ。去年は坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された近江屋跡や、新撰組が長州藩強硬派を討ち取った池田屋事件跡、などに行ったが、今年のメインは「禁門の変」の舞台である蛤御門であった。門には当時の銃弾の跡がそのまま残っており、臨場感抜群。ああここで長州藩が会津・薩摩連合軍に敗れたのか、と幕末に思いを馳せました。
しかし、京都で惜しいのは昔の街並みがほとんど残っていないことだ。寺は神社はしっかり保存されているのだが、街並みを保存する発想がなかったのだろう。池田屋事件の跡は居酒屋になっているし、近江屋跡は石碑のみ、パチンコ屋になってしまっていた。筆者は欧州駐在経験があるが、英国ならこれだけも素晴らしい歴史なら、街並みごとしっかり保存したろう。池田屋は1930年代まで、そのまま残っていたと言うし、京都は空襲にも遭わないで済んだのだから、余計に惜しいと思う。昔の街並みが保存されていたら、歴史観光地区としての価値は遥かに高いだろう。
昼は、宮川町花街のおどりである「京おどり」を鑑賞。美しい芸妓さん舞妓さんの踊りは良かったです。大迫力ですね。昨晩一緒に宴を楽しんだ、芸子さん舞妓さんが出演しているのも親しみがあって楽しかった。
京おどりの後は、一同で和食で昼食。ワインも入って盛り上がりました。名残惜しかったが、16時29分京都駅発の新幹線で帰京。
筆者はたったの一泊だったのですが、実に内容の濃い週末でした。桜は満開からはやや過ぎていましたが、まだまだ楽しめました。梶浦のアレンジのお蔭です。梶浦の町屋は京都に自分の家があるような、ゆったりした旅行が満喫できますね。皆さんにお勧めです。京都が長い長い歴史の宝庫であることを、今更ながら再認識しました。また近々行きたいです。