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北方領土の私的検証(その2)榎本武揚の樺太千島交換条約

2018 DEC 22 11:11:56 am by 野村 和寿

北方領土の私的検証、その2は、「樺太千島交換条約」(1875年)です。

樺太千島交換条約 外務省外交史料館蔵

この条約交渉に当たったのは、榎本武揚という人物です。かなり巧妙な交渉術を駆使しています。

日本側 明治初期の新政府には、すでに、英国から船一隻を購入する外貨さえ残されていませんでした。前回紹介した、1855年締結の日露和親条約で、樺太(サハリン)は両国間の境界を決めず、日本人もロシア人も自由に活動できる”雑居の地”をとしました。

しかし榎本武揚は、樺太をもし獲得したとしても、開発と海岸警備に向ける資金はなく、「樺太を放棄すること」を当初から考えていました。

日本の国威発揚のため、すでに斜陽だった李氏朝鮮を攻めるために、兵員輸送に使う中古軍艦を、露から譲り受け(西郷隆盛の征韓論)、樺太を開発する資金は当面日本にはないので、北海道開発に注力すべきと考えていました。(西郷隆盛は征韓論に破れ、朝鮮に日本が兵を送ることは頓挫され、1876年日鮮修好条約が結ばれました)

1875と赤線が引かれたところまでが本条約で確定した境界です。

露側 正直言えばたびたび火が吹いていたバルカン問題で、日本との交渉どころではありませんでした。露系の住民が多いバルカンで、オスマントルコとの対立が高まっていました。(最終的には、本条約締結直後1877年露土戦争になります。露土戦争1877−78年・結果は露が勝利)のほかにも、対英問題、対オーストリア問題とロマノフ王朝はすでにかげりが見えていました。

サハリン(樺太)は露の流刑地で一部住民が住んでいるだけでした。そこで、日本側住民と露の流刑民との間で争いが耐えませんでした。

しかも南サハリン(南樺太)には、大量の石炭が埋蔵されており、船の石炭の供給地として、英国はコルモラント号は、南サハリン(南樺太)湾内の下調査、湾内の深度調査を行い、米国も興味を示していました。露は太平洋側に基地となる港をぜひ確保しておきたかった、ということがありました。しかし、まだ露東部シベリアは深い森と幅広い川でおおわれていて、無人の大地でした。(シベリア鉄道が全通するのは1904年のことです。)

1874年8月に露交渉役ストレモーホフとの交渉が始まりました。

榎本武揚はあたかも、南樺太(南サハリン)は1855年締結した日露和親条約で日露が混住しているが、大きな問題を起こしている訳ではないと主張、露側の、日露住民が問題を起こしているという主張と争いました。 一方、露側の主張では、逆に函館から日本の大量の流刑民を英国船にのせて、サハリンに送り込んだという主張もしました。

しかし、榎本武揚の本音は、すでに述べたように、南樺太(南サハリン)を経営するよりも、むしろ、ここは北海道の経営に注力するべきだと思っていたため、ぎりぎりまで南樺太(南サハリン)について主張しつつも、露側の千島諸島のうち、4島(具体的にどの島かは不明)を日本に譲るという提案をしてきました。

榎本武揚は、さらに、千島諸島のうちの4島と広大な樺太(サハリン)を交換することは、いくらなんでも、釣り合わないという主張を展開し1875年3月千島諸島全島との交換を要求しました。

一方、露側は、千島全島を日本に譲り渡すと、太平洋の出口がなくなるので困ると主張してきました。ところが、露は日本との交渉時に、さらにバルカン問題でオスマントルコとの関係が悪化してきており、正直なところ日本との交渉どころではなくなりました。

露は、1875年3月18日、態度を軟化させ、サハリンを露、全千島を日本と交換するという提案をしてきました。

榎本武揚は、当初、日本が目指したまさに、全千島の日本領が達成され、さらに露の中古軍艦を入手することができ、樺太の久春小丹港は日本郵船に10年間港税、海関税を免除、日本領事の駐在を認める、近海での漁業は最恵国待遇を与えるとしました。榎本武揚は交渉を成功させるために、日本の譲歩ラインを露に悟られないようにしながら慎重に交渉を継続させた結果でした。

こうして1875年5月7日、千島樺太交換条約は、露サンクトペテルブルクで締結されました。

■樺太千島交換条約1875年(明治8年)

日本 榎本武揚駐露全権公使・海軍中将

日本駐露特命全権公使 海軍中将 榎本武揚(1836−1908年)1874年3月日本を出発、8月交渉開始、11月14日本交渉開始、1875年5月7日条約調印

 

 

 

 

 

 

 

 

 

露外務大臣ピョートル・ゴルチャコフ

  締結役 露外務大臣 アレクサンドル・ゴルチャコフ(1798−1883年)交渉役 露外務省アジア局長 ピョートル=ストレモウホフ(1823-85年)

樺太を露領とするかわりに北千島を日本領としました。この結果、すでに日本領となっていた択捉(えとろふ)までの島とあわせて、全千島諸島が日本領となりました。千島全島を日本領とすることで、豊富な漁獲高が期待できる海域を日本の漁民のために確保しました。

ここで注目すべきは、交渉言語が露語でも日本語でもなく、フランス語でおこなわれたことです。条約の正式条文は、フランス語のみ。(榎本武揚が6年間のヨーロッパ留学で、フランス語、ドイツ語、フラマン語が巧みだったことがあります)

千島樺太交換条約は、第2款(かん)で、フランス語からの翻訳と、従来、日本語の訳文とで、

微妙な食い違いがみられ、これがあとあと、問題となってきます。

フランス語からの訳では、「上述のクリル(千島)の諸島のグループは日本国に属する」とあります。これは、クリル諸島全部が千島諸島であり、国後・択捉(えとろふ)を含めてクリル(千島)諸島に属していて、本条約で、クリル(千島)諸島が日本領となったと読めます。

ところが、従来から日本の外務省が根拠としている日本語訳では微妙に異なります。同じ部分は、「現今所領クリル群島」となっていて、フランス語訳のグループに対して「群島」となっていることから、「現今所領」と「クリル」、「群島」の3つの言葉が「同じものを指す」と解釈することができ、日本語訳文ですと(1855年日露和親条約で決まった択捉(えとろふ)島より北の18島だけ」のように読めます。

つまりは、日本の主張は、択捉(えとろふ)以北の18島以外の島は、もともと日本の領土であって、露から本条約で新たに日本領土になったのは、「上記、択捉(えとろふ)島以北の18島」という考えが成り立ちます。

(そもそも、条約文が公文がフランス語ですので、条約としての効力を有しません)

もともと、江戸時代から日本での北方探検熱は高まりをみせていて、1798年近藤重蔵の蝦夷探検、1808年間宮林蔵の北樺太探検、1844年松浦武四郎の蝦夷探検、1869年岡本監輔の蝦夷探検と続いています。

2010年千島樺太交換条約は、戦争などの武力衝突なしに、平穏かつ公然と両国間で締結された条約であるから、現在でも有効。北方領土は、千島全島をロシアに返還要求すべきという主張もあります。なんとこの主張をしているのは日本共産党です。(ちょっと面白いですね。スターリンの拡張主義だそうです)

参考資料 『駐露全権大使 榎本武揚(上・下)』(ヴェチェスラフ・カリキンスキイ著藤田葵訳・群像社2017年刊)

 

 

 

 

 

 

 

 

『榎本武揚と明治維新』(黒渕秀久著 岩波ジュニア新書2017年刊)

 

 

 

 

 

 

 

 

資料:Wikipedia日本語版

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