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北方領土の私的検証(その3)終戦直前の廣田・マリク会談を中心に

2019 JAN 4 12:12:54 pm by 野村 和寿

日露間の国境線の歴史的変遷(原貴美恵著「サンフランシスコ平和条約の盲点」2005年・渓水社刊行)

北方領土の私的検証(その3)です。まず、その前に、1と2のおさらいからいたしましょう。ちょっと小さいのですが、「日露間の国境線の歴史的変遷」概略図をみてください。

右上①1855−1875年 日露和親条約締結から樺太千島交換条約の間 千島諸島択捉(えとろふ)島とウルップ島の間で日露国境

右下②1875−1905年 樺太千島交換条約からポーツマス条約の間 千島諸島 占守島までの千島全島が、日本領 樺太が露領

真ん中③1905ー1945年 ポーツマス条約から第2次世界大戦終戦まで 千島諸島・南樺太が日本領、北樺太が露(ソ連)領

左④1945年以降 第2次世界大戦終戦以降 日本は1951年のサンフランシスコ平和条約で南樺太と千島列島を放棄ということになります。

今回は、1945年のヤルタ会談が行われた時期の前後に、日本側・露(ソ連)側の動きを追ってみようと思います。なるだけいろいろな資料にあたり、予断のない記述を目指してみました。そこには、今まであまり知られていない事柄がたくさんありましたた。まず日本側の動きを調べてみました。

資料は国立国会図書館に天羽英二(あもうえいじ)が寄贈した資料(日本週報1955年7月5日発行No.322)を中心に参照してみました。

わかりやすいように、日にちごとに並べてみることにしました。会談のもようは、恐ろしく外交戦術的に「糠に釘」暖簾に腕押し」的で、読んでいるとじれったくて、なかなか本音をいわないものでしたが、逆にこうした交渉が、戦争末期にさえも、外交戦術として続けられていた手法として、興味深いので、長いのですがあえて記すことにいたします。。

1944年 9月4日

最高戦争指導会議(首相、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長)で重光の推す廣田弘毅元首相のソ連派遣が決定。

9月16日

佐藤尚武駐ソ大使・ソ連モロトフ外相会談が実現。「特使派遣を必要とするような新しい問題は存在せず、両国の懸案は従来の外交経路により充分解決可能であり、しかも「特使派遣は内外に特殊の意味を持って解釈せらるる懼(おそ)れ」があるとしてソ連拒否回答。(「終戦工作の記録 上 江藤淳監修 1977年講談社刊

1945年4月5日 日ソ中立条約が、1941年4月30日に調印されたが、1945年4月5日 ソ連モロトフ外相(ヴィヤチェスラフ・モロトフ1890-1986年外務人民委員1939-1946年)は、佐藤尚武(さとうなおたけ)駐ソ大使に日ソ中立条約不延長(事実上の破棄)を通告してきた。

駐ソ大使佐藤尚武

ソ連外相モロトフ

佐藤尚武 の「回顧80年」(時事通信社)によれば、モロトフは、「日本側さえ条約を守るならばソビエト側で今後1年間、これを遵守するであろう」と語った。

(後述するように対日戦はすでに、1945年のヤルタ密約によって決まっていたのだ。)

4月22日 鈴木貫太郎内閣の外相・東郷茂徳に、河辺虎四郎参謀次長、有末精三情報担当第二部長が訪ねた。(数日後に梅津美治郎参謀総長、小沢治三郎軍令部次長も同様の提案)ソ連側をして不参戦、中立の立場を保持、和平斡旋に乗り出すよう、ソ連側に有利な条件を提示するように申し入れた。日本側の譲歩提案:満州(現在の中国東北部)、樺太を手放すこともやむをえない。

5月14日 最高戦争指導会議対ソ方針決定:ソ連の戦争防止、好意的中立誘致、戦争終結に際して日本に有利な仲介。日本の代償は:日露戦争前の状況に復帰、朝鮮は自治問題は別としてこれを日本に保留、南満州は中立地帯(後に見合わせ)

元首相)在任 極東軍事裁判で非軍人で唯一の絞首刑

マリクソ連駐日大使

6月3日 廣田:今度戦争が始まったが日本とソ連が戦争していないことはまことに幸い。ソ連が甚大な損害を被ったにもかかわらず、対独戦に勝利したことは、ソ連のためにまことに慶賀にたえない。日本は変転する事態において、アジアの安全を希望し、アジアの大きな部分を領有するソ連に安全の基礎を見いだすものである。

強羅ホテル 1938−1998年

マリクソ連大使:今度の戦争中、平和の事態において任務を遂行し得たことは誠に喜ばしい。ただ日本には幾多外国筋の影響を受けた諸勢力があると認めるが現状はどうか?

廣田:日本国内にあってはすべて皇室中心に統一され、外に大しては、国民あげてソ連および中国との前輪関係を希望している。

マリク大使:日本軍人および政治家の中には、外国の影響を受けている者が有って、日ソ国交の上に悪い影響を与えているのではないか?

廣田:現代においては、自分の知っている多くの者は対露提携論者である。過去においても伊藤博文、後藤新平伯のごとき親善論者がある。私もその流れを汲む者である。

会談2日め 6月4日

廣田:ソ連は戦後復興に努力し、またヨーロッパにおいては失地回復するうえ、隣邦との関係改善に意を用いておるものと見られ、東方においても、同じ主旨の考えをもっているものと思う。日ソ間には中立条約が守られているので、なにも心配する必要はないが、この条約はあろ1年(1946年)で期限満了となるから、将来のことを考える必要がある。この期限内でも日ソ友好関係を増進したい意向で、その形式等についても目下研究中であるが、これに対するソ連政府の大体の意向なりとも承知いたしたい。

マリク大使:アジアの安全問題については、昨日日本側方針の大要は承知したと思っているが、日・ソ・中三国関係に対する具体的形式はどうか?

廣田:日本と中国との間には現に戦争が行われている関係もあり、中国のことについては、目下のところ明瞭なことは言い得ないが、日ソ間については従来存在せる友好関係をいっそう増進してゆき、中国に対しても同じ考えを有する国家として、漸次参加方に誘導したいと考えている。

マリク大使:ソ連は終始一貫平和制作を遂行してきたにもかかわらずドイツのごとき国家が存在するため、独ソ開戦となったのである。ソ連は東方ことに日本に対しても同様平和制作によって努力してきたにもかかわらず、反対勢力が強かったため、所期の成果をあげることができず、その結果一種の割り切れざる感情ないし後味を残し、自ら不信任または安全欠如の感を与えたことと鳴っているが、これを払拭するために具体的方法を考慮されているか?

廣田:日本においても漸次ソ連の態度を正解する者が多くなったので、この機会に日ソ関係の根本的改善に乗り出したい意向で、ソ連側の意向を聞き取った上、その方向に運び行くことができるである。

マリク大使:それは廣田氏個人の私見であるか、または日本政府の意見であるか?

廣田:右は帝国政府および意向と了解されたい。

マリク大使:昨日および今日の会談において日本側の具体的意向を承知したから、とくと研究の上、卑見を開陳したい。それで若干の猶予を願いたい。

廣田:根本の考えは両国間に長期にわたり、相互に不安のない国交を維持する基礎をたてたいととの意味に他ならない。この考えさえ決まれば他の枝葉末節の問題は自然に解決を見いだすことができよう。今こそ、根本問題解決上絶好の機会であると思う。外務省はもちろん政府全体としてもその気になっているので、ここに乗り出した次第である。ついては至急回答をお願いする。

マリク:十分に研究したいから回答は早くても来週はじめとなるだろう。

廣田は、東郷外相に経過報告 廣田とマリク大使との会談は有効裏に行われ、ソ連側の受け方良好で交渉の前途は有望と認められる。

しかしソ連側からはなんの音沙汰もない。

6月29日 廣田・マリク会談が東京のソ連大使館で行われ、不可侵条約締結の条件として、満州国の独立と日本軍の撤退、ソ連の石油と交換に日本のソ連領海での漁業権の放棄南方のゴム、錫、鉛、タングステン等南方物資を供給を列挙。大使に催促、東京のソ連大使館員は、外務省かかりかンに、日本側具体案は、電報ではなく、クーリエ便で送ったとした。それからも、廣田は再三再四、東京のソ連大使館に電話をかけ続けたが、マリクは病気と称して出てこなかった。

7月8日 東郷外相は、鈴木貫太郎首相と、戦争終結に対する処置としてソ連に特使を送ることをきめ、特使に近衛文麿元首相になってもらいモスクワ行きを依頼。

7月12日 昭和天皇は近衛元首相をお召しになり、近衛特使のモスクワ行きが本決まりになる。

7月13日 モスクワ駐在佐藤大使、モロトフ外相に会見を求めたが、モロトフはベルリン出発のため、モロトフからの回答は遅延するだろうと通告される。

(7月17日からベルリンでポツダム会談が開催)

7月25日 モスクワの佐藤大使、ロゾフスキー外相代理に近衛特使が、戦争終結に関する具体案をモスクワに持参することをソ連側に申し入れ。

(7月26日 ポツダム宣言が発表)

8月8日 モロトフ外相から佐藤大使に会見の通知がよこされたので、佐藤大使がモロトフを訪問したところ、意外にもソ連の対日参戦の通告を渡された。

8月9日 宣戦布告7時間後、午前0時すぎ 満ソ国境全面で攻撃を開始。

8月10日 11:1512:40東京・東郷外相 マリク大使宣戦布告分を手交。 ソ連政府の訓令によりソ連政府の日本政府に対する宣言を伝達。

日本政府は1945年7月10日段階で、軍隊の解体を含んだ降伏案をソ連を仲介として、連合国側に提示しようとしました。これを近衛文麿元首相により、ソ連・モスクワに手交させようとしたのです。これには興味深い内容が含まれています。

軍隊の解体を含んだ降伏案で、沖縄、小笠原、樺太を棄てても南千島は最後まで譲歩案には入っていなかったことだ。つまりは、南千島は日本政府にとっては、最後まで手放すつもりはなく、死守する構えでした。また、他国に奪取されることも予想していませんでした。(和田春樹 「北方領土問題 歴史と未来1997年朝日新聞刊・所収、長谷川毅「暗闘〜スターリン、トルーマンと日本の降伏」2011年中公文庫所収)

参考資料 「戦争末期のソ連への和平斡旋依頼」(日本週報 No.322 1955 7/5)「終戦工作の記録 上・下 江藤淳監修 栗原健・波多野澄雄編 1977年 講談社文庫刊)

天羽英二は、戦争末期のソ連への和平斡旋依頼について、「日本が中立条約を守ったのだから、ソ連もかならず守るだろう、という甘い観測が形勢いよいよ不利になった、大東亜戦争末期になってもわが為政者の頭を支配していたのであった。おめでたいというにはあまりにもいたましい悲劇であった」と語っている。

 

井上ひさしが、箱根強羅の戦争末期の廣田・マリク会談の舞台、箱根・強羅を、演劇作品「箱根強羅ホテル」を書いている。内容は、会談とは直接関係がないものの、緊迫した会談の舞台裏で、周囲のホテルの人々はどんなふうにみていたかコミカルに諷ししている。

 天羽英二(あまうえいじ・1887−1968年)

元イタリア大使 元情報局総裁

1921年ワシントン会議全権随員、1929年ソ連在勤、1937年スイス大使、1939年イタリア大使 1941年外務次官、1943年内閣情報局総裁19451948年 A級戦犯・巣鴨拘置所収監 1995年 膨大な蔵書・執筆ノート類・国立国会図書館へ遺族が寄贈。

 

 

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