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北方領土の私的検証(その4改)ヤルタ秘密協定

2019 JAN 5 12:12:50 pm by 野村 和寿

今度は、ヤルタ会談を時間軸の中心に、ソ連側から動きをみていくことにします。

その前に1941年に締結された日ソ中立条約について言及します。

日ソ中立条約 写真:中野文庫所収

ソ連側モロトフ外務人民委員(外務大臣)、日本側建川美次駐ソ大使、松岡洋右外務大臣によって、1941年4月13日にモスクワで締結された日ソ中立条約は、当初、日ソ不可侵条約締結をめざしていたところ、ソ連側は、条約締結の代償に、「千島諸島の引き渡しを要求」したが、日本の拒否によって、日ソ中立条約締結になったいきさつがありました。(それだけ千島諸島は当初からソ連には是非とも我が領土にしたいと思っていた場所だったことがわかります)

 

有効期間は1941年4月25日から5年(つまり1946年まで)であり、その満了1年前までに両国のいずれかが廃棄を通告しない場合は、さらに次の5年間、自動的に延長されるものとされていました。

日ソ中立条約締結後も、ソ連は日本軍の動きを警戒していましたが、日本はドイツとソ連の戦争の成り行きを見守りつつ、ソ満国境に軍隊を集結させ、こととしだいによっては、ソ連をドイツと日本で挟み撃ちにするという機会をうかがっていました。しかし一方では、ソ連に米国から援助物資、武器弾薬を運ぶ米国の輸送船を、監視してはいたのですが、攻撃することはありませんでした。それでも日本は、宗谷海峡からソ連軍をしめだしていて、1941年から1944年までに日本軍に沈没または抑留されたソ連船は178隻におよびました。。

ヤルタ会談にもどります。

ヤルタ会談は、1945年2月4日から11日にかけて、ソ連のクリミアの避暑地ヤルタ郊外のリヴァディア宮殿で、アメリカ・ルーズベルト大統領、イギリス・チャーチル首相、ソ連・スターリン書記長の間で行われました。主に、ドイツの戦争後の処理について、利害を調整するのが目的でした。しかし、2月8日 極東密約と後世呼ばれるソ連による対日戦争参戦が確認されました。

1945年2月8日というのは、きわめて微妙な日にちであります。

対日戦は終末に向かって突き進んでいたをとはいえ、B29爆撃機による大規模な東京大空襲は、1944年11月24日以降に激しくなってきましたが、3月10日をはじめとする、大規模空襲はまだ行われていませんでした。

沖縄戦は、1945年3月26日から6月23日に戦われたが、2月8日にはまだ戦われていません。

原爆製造計画 マンハッタン計画は、初の原爆実験が行われたのは1945年7月16日でした。

つまり、1945年2月8日には、上記のいずれもまだ実施されていませんでした。そこで、日本上陸作戦で予想される連合軍の死者は、25万人と推定されていました。

そこで、アメリカ・イギリスはどうしても、ソ連の日本への参戦を切望し、これまでにもモスクワ3国外相会談1943年10月でも、ソ連参戦を申し入れています。

ソ連は、ドイツ降伏後2〜3ヶ月後に参戦することを確認。たしかに、ドイツ降伏が1945年5月、3ヶ月後の1945年8月8日に、ソ連は日本に宣戦布告しています。

ヤルタ密約では、ソ連の日本への参戦と引き換えに、樺太南部、千島諸島をソ連に引き渡すことが取り決められています。(2019年の現在でも、ロシアのラブロフ外相が、北方4島について、ロシア領を主張の根拠にもなっているのです)

ヤルタ密約は、アメリカ・ルーズベルト、英国チャーチル、ソ連スターリンの署名がある文書が存在します。しかし、このヤルタ密約は、日本には知らされておらず、公表されたのは第二次世界大戦後の1946年のことなのです。

しかも、トルーマンの国務長官だったジェームズ・F・バーンズ(1945−1947年)さえも、ヤルタ密約のことを国務長官になるまで聞かされていませんでした。

最近の新聞記事『米英の弱みにつけ込んだソ連 お墨付き得て北方4島占拠』(産経新聞2017年2月23日付け)が、大変興味深いことを報道しました。

産経新聞2017年2月23日付け記事より

それによると、1946年2月9日付け、英国全在外公館へ送られた電報のなかで、

ヤルタ密約が1941年ルーズベルトとチャーチルの間でかわされた領土不拡大をうたう「大西洋憲章」に抵触するというのです。ルーズベルト米大統領は、大統領権限を超えて米議会の承認なく、ヤルタ密約に署名したために、3人の合意の有効性に論議がおこるかもしれないとされているのです。

▇第二次世界大戦中に連合軍首脳が会談した主なものは、

カサブランカ会談 1943年 1月(当時フランス領)

カイロ会談 1943年 11月(エジプト王国)

テヘラン会談 1943年11月(当時パフラヴィー朝)

ヤルタ会談 1945年 2月(ソ連)

ポツダム会談 1945年7月(ドイツ・ソ連占領地域)

ヤルタ会談 1945年2月

 

ここで改めて注目するのは、当事国または占領地域で行われた会談は、ヤルタとポツダムだけということ。どちらも、ソ連領、あるいはソ連占領地域であります。

これはやはりソ連になにか有利なのではないか?ということです。

 

さらに調べを進めると

アメリカのルーズベルトの随行員で、ヤルタ会談のまとめ役の人物が米国務省のアルジャー・ヒス(1904-1996年)という人物でした。ヒスは、後に、ソ連のスパイだったことがわかっています。ルーズベルト大統領をあざむくことに成功し、千島諸島はソ連の領有となることが、ヤルタ密約で戦後秩序を決める首脳会談を取り仕切ったことになります。

ヤルタ密約は、1951年米議会で破棄され、これにより、ソ連の千島諸島に対する主張は根拠を失ったことになります。

米国国務省ヤルタ会議の準備を担当 ソ連スパイ(1904−1996年)

アルジャー・ヒス:米国国務省ヤルタ会議の準備を担当 どうしてわかったかといえば、アメリカ陸軍情報部と英国情報機関が、ソ連と米国内のソ連スパイとの間の交信、ペノナ文書の解読で、ヒスのスパイ活動は米国政府のモイニハン委員会によって証明されている。戦後、1948年 米下院非米活動委員会(赤狩り)に喚問され、実際にソ連のスパイ活動を行っていたことが、元アメリカ共産党員によって暴露された。(スパイ行為については、出訴期限がつきたため1992年になって無罪)(参考資料 有馬哲夫早稲田大学社会科学部・社会科学総合学術院教授。小学館・SAPIO2016年3月号より)

千島諸島地図

▇ソ連対日参戦後の動きをまとめておきます。

8月8日ソ連モロトフ外相 佐藤尚武大使に、宣戦布告書を伝達

8月9日午前7時30分 ソ連による最初の日本攻撃は、樺太・敷香(しすか)町・武意加(むいか)の国境警察に加えられた。北部方面軍 積極先頭を禁ず 専守防衛的。

8月10日午前11時52分 東京・外務省をマリクソ連大使が訪ね、宣戦布告書を手交

8月11日 樺太中央部 半田集落、および、西海岸・西柵丹村(にしさくたんむら)安別(あんべつ)にソ連軍侵入。陣地防御を実施。

8月14日 日本ポツダム宣言受諾

8月15日 終戦証書発布。日本・第5方面軍戦闘停止 自衛戦闘に移る。

8月16日 塔路(とうろ)町・恵須取(えすとる)郡へソ連軍上陸作戦。

8月18日 千島諸島北部占守(しゅむしゅ)島に、ソ連軍揚陸艇・航空機で上陸作戦開始、日本軍はソ連軍に対し水際防御を行い、ソ連軍の艦艇13隻を沈没させる。

8月20日 真岡へソ連軍上陸 真岡郵便電信局電話交換女子が集団自決事件発生。自衛戦闘続行。

8月21日 樺太・停戦実現 日本軍武装解除

8月22日 知取(しるとる)町で、停戦協定結ばれた後、豊原駅前の赤十字テントにソ連軍機空爆、多数の死者が出た。樺太からの引き揚げ船 小笠原丸、第二興丸、泰東丸が、留萌沖でソ連軍潜水艦から攻撃をうけ1708名の犠牲者。

8月25日 千島諸島・松輪(まつわ)島へ上陸開始

8月29日 千島諸島・択捉(えとろふ)島へ上陸開始

8月31日 千島諸島・得撫(うるっぷ)島へ上陸。日本軍守備隊降伏。

9月1日から4日 国後島・色丹島 占領完了

9月2日 東京湾戦艦ミズーリ上で、降伏文書調印

9月5日 歯舞群島占領

ここまでで、ソ連軍は、南樺太、北千島、択捉(えとろふ)、国後(くなしり)、色丹、歯舞全域を完全に支配下においた。

まとめますと、前回登場した、元外交官天羽英二氏の言のよれば、「ソ連に終戦の仲介を依頼するために行われた1945年6月3・4日の廣田・マリク会談のうらをかかれ、ポツダム宣言をつきつけられて目が覚めた我が指導階級の迂闊(うかつ)さは、すでに批判の余地もあるまい」日本側のソ連側への中立・連合国側への調停依頼の際にだした条件は、連合国米英がソ連側に出した条件にくらべて、あまりにも少なく、廣田・マリク会談は、ヤルタ密約の後に行われたのであって、結果として、廣田の頑張りと努力にもかかわらず、まったく意味をなさなかったといわざるをえません。

 

かねてより疑問に思っていたことですが、1945年5月9日の対ドイツ戦争終戦から、わずか3ヶ月で、ソ連は、兵力40万人、迫撃砲7137門、戦車・自走砲2119両、飛行機1400機を、極東に移動させました。大規模な移動は、満州を制して、南サハリンを解放し、さらに千島列島を占拠することでした。ソ連は、いったい、海をわたって、千島列島にどうやって兵員や火器を移動させることができたのでしょうか?

米国からソ連に貸与された哨戒艇 ルーズベルト米大統領の死去にともない、半旗を掲げているのが見て取れる。”PROJECT HULASecret Soviet-American Cooperation in the War Against Japan”より

元となったのは、2003年にアメリカ・ワシントンにある”Naval Historical Center Department of the Navy(海軍歴史広報センター)”が発行した”Project Hula Secret Soviet-American Cooperation in the War Against Japan(プロジェクト・フラ 対日米ソ共同秘密作戦”で、筆者は、Richard A Russel 氏(元米海軍)でした。

これまでの「米ソのヤルタ密約後の動きでは、米国が3年半に渡る対日戦を戦ってきたのに、大した犠牲も払わずに終戦直前に参戦して、ソ連がヤルタで約束した利益をごっそりともっていくのは、あまりに理不尽と考える米国は、ソ連をなるだけ参戦させないうちに、日本との戦争を終わらせてしまおう」という考えが定説だったのです。ところが、ソ連軍による千島占領作戦に米国が掃海艇55隻、上陸用船艇30隻、護衛艦28隻をソ連に貸与、しかも米国アラスカ州コールドベイでソ連兵1万2千人の訓練も行っていたという事実でした。

この驚くべき事実は、北海道新聞2017年12月30日に掲載されました。「ソ連の北方四島占領、米が援助 極秘に艦船貸与し訓練も」という記事です。根室市内の道立北四島交流センター(北海道根室振興局)で2018年1月19日から2月2日にかけて公開されました。

つまり、終戦間際のソ連に対日参戦に、米国は了解していただけで亡く、ソ連に援助もしていたということである。千島に対する占領も、ソ連が勝手に行ったわけでなく、米ソをリーダーとする「連合国の作戦」として行われたことになります。2018年12月日付け「週刊金曜日」にも「ソ連軍の千島占領と米ソ極秘共同作戦 〜多くの日本人の記憶から抜け落ちた」と題する記事が掲載されました。この記事によりますと、「ソ連に貸与された米国の艦船の多くは1955年に米国に返却されたが、その後、

米海軍から貸与された海上自衛隊くす型PF
護衛艦 写真は同型の護衛艦「もみ」

創設されたばかりの、日本の海上自衛隊に18隻が「くす型PF護衛艦」としてさらに貸与された」そうです。

米国・ソ連・日本、歴史の皮肉とかんじさせます。いずれにしても、このヤルタ秘密協定はここにきて、新たなる解釈の見直しが必要になってきているようです。

 

 

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