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北方領土の私的検証(その8)サンフランシスコ講和会議後の動き

2019 JAN 28 11:11:41 am by 野村 和寿

前回は、1951年9月4-8日のサンフランシスコ講和会議における吉田全権の受諾演説のところまででした。今回はその続きです。

その前に日本では、1950年3月8日 衆議院外務委員会で、「千島列島の範囲」についての質疑が行われています。
浦口鉄男議員(野党・立憲義正會)の、千島列島の範囲について政府への質問に答えて政府委員の島津久大(ひさなが 生年1906-没年1990年)政務局長は、
「1875年締結された樺太千島交換条約(サンクトペテルブルク条約)で列挙
されている18島とは北千島である」と答弁しています。北千島とは千島列島全部ではなく、千島列島の北千島・中千島・南千島のなかで、一部という意味です。

また前回までにも登場した登場した西村熊雄条約局長は、
「政府側は一貫して、千島列島は北千島と南千島を含むが、歯舞諸島と色丹島は千島列島に含まない」と答弁しています。ここでは、千島列島には北千島と南千島があって、その千島列島は、サンフランシスコ条約で日本は放棄した、ということになります。

また1951年3月31日衆議院では、「歯舞列島返還懇請に関する決議」を行い歯舞諸島はわが国に返還されるよう懇請決議を行っています。

サンフランシスコ講和会議後に締結された平和条約への日本政府の署名

ここで1951年9月4-8日のサンフランシスコ講和条約に話をもう少し詳しく触れてみましょう。
前回、本稿で問題にしたのは吉田全権演説のなかで、日本は千島諸島についてサンフランシスコ講和条約で千島諸島についての放棄を宣言しました。

ところが、一方で、「千島には北千島と南千島があり、南千島は、古来から日本の領土であること」を吉田全権が強調したくだりでした。これですと、北千島も南千島も千島列島に含まれると全権が宣言してしまったに等しく、ゆえに、
サンフランシスコ講和条約で、千島列島を放棄した日本にとっては、「南千島に属する、国後択捉島もまた放棄した」と、直に読めば解釈できてしまうのです。

後年吉田茂はよほど、この演説に後悔の念があったらしく、講和条約5周年の1956年9月8日付けの産経新聞・時事通信に小文を寄せ「私はダレス氏の示唆にもとづき、会議の演説において択捉・国後両島はいわゆる千島には含まれず外人未住の日本固有の領土なるゆえんを強調した」とあります。しかし、のちに著された「吉田茂回想10年」(1957年中公文庫)では、この部分がそっくり削除されています。

サンフランシスコ講和条約における吉田全権の演説をさらに続けましょう。吉田全権は、この演説の冒頭で、別に、つぎのことを強調しています。
「千島列島および南樺太の地域は日本が侵略によって奪取したものだとのソ連(グロムイコ)全権の主張は承服いたしかねます。
色丹・歯舞諸島は、日本の本土たる日本の北海道の一部を構成し、択捉、国後両島が日本領であることについては、
帝政ロシアもなんら異議をはさまなかったのであります」と吉田全権は述べました。これは、「千島列島から択捉、国後の2島を除外する法的効果をもつ」とみなすことができる。という解釈が成り立つという主張です。
実際にロシア帝国は1875年(千島樺太交換条約締結)まで国後・択捉島を、ロシア領土と主張していた形跡はありませんでした。

しかし、この吉田全権の演説だけでは、前者の「南千島も千島列島に含まれる」としてしまったので、根拠がいまいち弱いのは否めません。

1951年10月19日 衆議院平和条約におけるサンフランシスコ講和条約(第2条c項(c)「日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する)に関する質疑が行われています。
ここでも、クリルアイランド(千島列島)とは一体どこをさすのか、ということを、高倉定助(北海道5区 日本農民党)議員が政府に質問しています。
このなかでも、西村熊雄外務省条約局長・政府委員は、「千島がいずれの地域を指すかという判定は、北千島及び南千島を含む意味と解釈しています」と答弁しています。つまりは、政府は、サンフランシスコ平和条約で日本が放棄した千島列島に、国後・択捉島は、含まれるといっているのです。

ここで注目すべきは、1875年と(樺太・千島交換条約)ではなく、
「1951年9月に調印されたサンフランシスコ平和条約にたって解釈すべきであり、千島列島は北千島と南千島を含むが、歯舞群島と色丹島は含まない」との政府答弁をしています。

また1953年7月7日および11月7日の衆議院「領土に関する決議」
でも、歯舞諸島、色丹島の領土返還要求をしており、少なくとも1953年まで、
日本は「国後・択捉島の返還要求」ではなく、「歯舞諸島・色丹島の2島を返還要求」をしていたことがわかります。

話は少しそれますが、1950年3月8日 衆議院外務委員会で、千島列島の範囲について質問した浦口鉄男(生年1906-没年2005年)議員は
北海道1区選出で、立憲義正會という右翼政党でした。この政党の創始者は、田中 智學です。

晩年喜寿のころの  浦口鉄男氏 2004年 札幌彫刻美術館友の会会報より

1951年10月19日 衆議院平和条約におけるサンフランシスコ講和条約の関する質問した高倉定助(生年1893-没年1965年)議員は
北海道5区 日本農民党から改進党)。ともに北海道選出の野党議員の質問は、現在に至るも必ずと言ってよいほど引用される意味深い質問でした。

ところが、ここで大事件がおきました。しかも、1954年11月17日
「北海道の納沙布岬と歯舞諸島の間の海上で地形観測を行っていたB-29爆撃機がソ連のミグ15戦闘機2機から攻撃を受け別海村(現・別海町)にある農家に墜落し農家は全壊した。この飛行機の乗員は12名で、そのうち10名は無事にパラシュートで降下、1名死亡、1名行方不明となった。」
実は、1952年 歯舞諸島の勇留島付近で初めてソ連軍機に撃墜されるという事件も起こっています。

RB29とMiG15

米軍機以外の国籍不明機(ソ連機)は根室国監視所上空飛行回数は、1951年171機、1952年165機と記録されています。(1953年北海道議会記録による)
ここで驚異深いことがわかりました。北海道野付郡別海村(現別海町)にはなんと、墜落したB29のプロペラブレードが現在も展示されていたのです。
なんと撃墜された在日米軍偵察機RB-29(B29爆撃機を写真偵察用に改良)したプロペラブレードが、現在でも、北海道別海町に野外に展示されていました。下記が別海町教育委員会生涯学習課のHPにありました。

RB29のプロペラがなんと北海道別海町歴史文化遺産になって野外に展示されています。

 

話を元に戻しますと時代は少しあとになりますが、

1957年5月23日 ダレス米国務長官は、1954年11月7日北海道沖におけるソ連軍戦闘機による米軍機撃墜事件の賠償を要求する書簡をソ連に送付しています。
そのなかで、北方4島(国後・択捉、歯舞諸島、色丹島)の日本帰属を明確に認めることで、「北方4島を千島列島に含まれない」ことを、米国は公式に表明したのです。

「米国政府はヤルタ協定、サンフランシスコ講和条約におけるクリール(千島)列島という字句は、従来常に日本本土の一部であり、正義のうえからも日本の主権下にあるべきものと認められる歯舞群島、色丹島または、国後島択捉島を含んでいないし、含むように意図されもしなかったということを繰り返し言明する」
つまり、米ソ対立の激化によって、米国は、国後・択捉島を、日本固有の領土と認めると言明し始めたのです。

そんな折、1955年1月25日 日本と国交のなかったソ連の駐日代表部アンドレイ・ドムニツキーは「ソ連はいつでも日ソ交渉を始める用意がある」
と述べました。
1955年当時、日本とソ連は国交が結ばれていなかっただけでなく、ソ連に抑留されている日本人がまだ1500人もいましたし、
日本の国際連合加入は、ソ連の拒否権行使によって実現せず、法的には、日本とソ連の戦争状態は継続していたのです。日ソ平和条約交渉については、次回に始めることにいたします。

参考資料 「ロシア・ユーラシア地域研究入門①」上智大学ロシア語学科 上野信彦教授の講義録、「日露国境交渉史 領土問題にいかに取り組むか」(木村汎著 中公新書 1993年刊)

衆議院外務委員会 議事録- 7号   昭和25年03月08日
平和条約及び日米安全保障条約特別委員会 議事録第4号昭和26年10月19日

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