インペリアル航空第109便
2017 MAY 31 12:12:26 pm by 野村 和寿
長いこと読もう読もうと思っていましたが、ようやく暇が出来て、1ヶ月かかって読破いたしました。飛行艇ものの冒険小説としては名高い「インペリアル航空第109便」。2段組で403ページという長大な小説です。「飛行艇もの」は、当然、乗客も十数名に限られており、人間関係とそれぞれの事情が色濃く描かれます。飛行艇の旅程も長く、しかも世界中を飛ぶということからミステリーものには大変適している題材です。ちょうど、アガサ・クリスティが「オリエント急行殺人事件」が密室の殺人事件ものというのとどこか似ています。原題はIMPERIAL 109(Arlington Books;1977)著者はリチャード・ドイル。コナンドイルの甥孫(甥の息子)なのです。
舞台は1939年 ナチス・ドイツと英仏のミュンヘン宥和会談直後、オーストリアがナチス・ドイツに併合された後で、ナチス・ドイツによるチェコスロヴァキアに進駐した頃という戦争の足音までもが色濃く反映されています。
インペリアル航空G-ADHO第109便カテリナ号 登場人物もお金もちの乗客も多く、恋の話もあり、途中、機長デズモンドは、エジプト・カイロで自動車レースにまで出場(カイロ→ファイユーム往復 車1924年製イスパノ・スイザ・ブローニュ、好敵手はデステ男爵1938年製ドライエ ル・マン24時間レース1938年優勝)
登場人物は、1930年代に、長距離飛行の乗客なので当然お金持ち、鉱山資本家夫妻、やお金にいとめをつけない男爵夫妻、さらには、お金持ちを付け狙う泥棒、そして時代ということで、ナチスドイツの陰謀まで見え隠れし、ウィーン在住ユダヤ人の国外脱出にまで話しが行きつきます。
登場人物 操縦士 ●デズモンド・オニール(カテリナ機長主人公アイルランド人 冷静沈着な操縦、大西洋横断はこれで6度目。ただいま妻と離婚協議中、新しい恋人とつきあっている。1924年製イスパノ・スイザ・ブローニュを駆り自動車レースに出場)
操縦士●ケン・フレーザー副操縦士(告げ口好き)●ラルフ・ケンドリックス(通信士 元ユンカース機で墜落のトラウマ) ●サンディ・エヴェレット(パーサー客室係)●スチュワート・アンディ・ドレーパー(元客船キュナードの客室係スチュアードだった。スチュアード)
乗客●スチュアート・カーティス(実業家 クラークスドーブ南アフリカ鉱山を経営。しかし自社株がことごとく値を下げており、NYで自社株の速やかな売却をもくろみ、そのために大層急いでいる。)
●シャーロット・カーティス(根っからの金持ち妻 派手好き)
●アルフレッド・デュクロワ(ミセスカーティスのメイド) ●ルカ・デステ(イタリアの男爵 シャーロットと仲がいい。大型のドライエで、シャーロットをのせて、カイロ・ファイユーム自動車レースに出場、デズモンドと競う。)●ジャケッタ・デステ(妻 サヌーシと仲がいい)ローラ・ハートマン(アメリカ人 カーティスの若き秘書
●キング夫妻(アメリカ・アリゾナ州フェニックス在雄の中年夫婦)●ジョンソン夫妻(子連れ)●ドクター ヴァン・シュミット(鉱山技術士 実は泥棒)●イアン・ソーン海軍大尉(アフリカ・シャンベで鰐に襲われて死亡)●パメラ(デズモンド・離婚係争中の妻)
■まきおこる諸問題 ●燃料タンク漏れでアフリカ・シャンベに緊急着陸●若き海軍ソーン大尉がアフリカ・シャンベで大鰐に襲われる●ラシッド・アル・サヌーシ(若きアラブ人で敵デステを狙う。トルコ人アーメッド・ヤルチン・ベイになりすます)が一族の敵をうつため、ルカ・デステ男爵を狙う。●ダーフィト・ヴィーツマン(ユダヤ人ウィーン大学医 学部長)●ジーグレット(ユダヤ人 ヴィーツマンの娘)父娘がナチスの要人(ヒットラー)の出自の秘密を知る為追われローマから本機に乗り込む。●元米陸軍航空隊所属の操縦士だったパット・ジャレットが、ウォーレン湖で積み荷の金塊をねらうべく本機に襲いかかる。
■敵●パウル・リントレン(ナチス・スイスのエルンスト・ペルレル名義のにせパスポート) ●パット・ジャレット(第1次世界大戦に参戦した元陸軍航空隊所属のパイロット 全長27フィートのスーパーマリン機をもつ。ニューハンプシャー・ウォーレン湖で搭載の金塊を狙う )
■旅程 1939年3月10日金曜日南アフリカ(ダーバン)、シャンベ緊急着陸(スーダン) ウガンダ(ポート・ベル)マラカル(スーダン)エジプト(ハルトゥーム・カイロ・アレクサンドリア)、クレタ(ミラベル)、アテネ、ローマ(ブラチアーノ湖)、マルセイユ(マリニョーヌ)、イギリス(サザンプトン)、南アイルランド(シャノン河口フォインズ上空で空中給油)カナダ(ニューファンドランド=ポトウッド・モントリオール)、NY(イーストリヴァー・ラガーディア・マリン・ターミナル)1939年3月16日アメリカ東部標準時16:00約6日間もかかる豪華な豪華な旅行なのです。このあたりは船旅の影響を色濃く残しています。
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■話のおもしろさ
事件は早々に起きます。燃料タンク漏れで、シャンベ(スーダン)に緊急着陸。ミセス・キングの上陸の際に、上陸用の船を動かそうとした海軍ソーン大尉が河の大鰐に襲われ命を落とすという事件が起きてしまうのでした。飛行艇は空港設備がなくても、大きな海や大きな河、大きな湖など係留設備がありさえすれば、どこでも着水することができます。シャンベにもインペリアル航空の支所が設けられ、給油の手配あ連絡員が配置されています。さらに、1939年当時イギリス軍払い下げの爆撃機を改良して、空中給油も行われていました。なにしろ一時に長距離は飛ぶことが無理なので、大都市に着陸する度に当地の有名ホテルに宿泊し、豪華な食事をいただくこともできました。
■操縦風景 カイロ到着予定は12分後、2千フィートまで降下 速度140ノットまで落とす。回転数2千 風速南西より20ノット 視界良好 スロットル全開 砂埃でわずか数分のうちに弁や空気取り入れ口がつまりたちまちにして複合した出力低下をきたす。エアポケット、400フィート降下 3番エンジンオーバーヒート 700フィート、650、600。デズモンドの眼は高度計に釘付けになった。480,45機首があがりはじめる・・・。/機首 係累索を解く。エンジン始動の準備 4基のエンジンがたてつづけにすばやく息を吹き返す。轟音響き渡る。4分の1フラップ プラッチアーノ湖からイタリア領海をんけだす。マルセイユまでのルート、30分でコルシカ島ロトンド山が見えてくる。高度7千・・・。マルセイユ12時15分前m民間空港マリニョーヌ着水・・・。
■本の紹介文
「1939年3月10日 世界大戦の迫りくるころ、インペリアル航空第109便は、200万ドル相当の金塊を摘んで、やがて悪夢へと突入することになる6日間の旅に出発した。インペリアル109は大英帝国の果てから果てへと郵便物や貨物、12人の乗客を運ぶ壮大豪華な飛行艇として知られていた。白く輝く胴体、高く伸びた翼、1000馬力の過給されたブリストル・ペガサス12ラジアル・エンジンを4基搭載し、喫煙室、個室、散歩用デッキや劇場の設備もあり、後宮な乗客を運んでアフリカ全土をナイル河デルタ地帯やカイロを経て、ギリシャ、イタリア、フランス、そしてロンドンを通って目的地のニューヨークまで就航している空飛ぶ宮殿として評判であった。だが、その便には復習の念に萌えるアラブの貴公子、冷たく妖しい美貌で男達を乱す女、冷酷なゲシュタポの手先、偏屈な金銭欲にかたまった億万長者らが同乗し、機長のオニールと乗員ともどもスキャンダルと政治、陰謀と恐怖、破滅と誘惑に巻き込み、やがてニューヨークでクライマックスに達する旅を開始するのである。やがて消えゆく大戦前夜の悦楽と華美のノスタルジックな背景とスリリングで緊張感あふれる物語を対照させてサンデータイムズ紙に評されたエンターテインメント巨編!!(裏表紙の紹介文より)1981年初版刊行当時の勢いが文章に表れています。本書を読みたくなってきましたか?本書はもちろん現在は絶版になっています。しかし好都合なことにアマゾンの古書店で1円から購入することが可能です。
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カメラのおけいこ⑦OLYMPUS PEN今から8年前のデジタルカメラをチェックしてみました!
2017 MAY 1 13:13:29 pm by 野村 和寿
今から8年も前にオリンパスから発売された往年のベストセラーカメラ オリンパス・ペンのデジタル版です。名機の誉れ高いオリンパス・ペンを設計したのは、米谷美久氏(1933-2009年)で、1959年のこと。オリンパス・ペンは、カメラのデジタル化が1988年に始まってもなかなかデジタル版オリンパス・ペンが再登場することがなく、2009年満を持して登場したのが、本カメラ オリンパス・ペンE-P1でした。奇しくも設計者米谷氏が天寿を全うされたその年に発表されたのでした。
このカメラを、8年後の今、もう一度、出してきて使ってみることにしました。はたしてどの程度のパフォーマンスを発揮しくれるでしょうか?
なんといっても、子どもの頃から欲しかったオリンパス・ペンその最初のデジタル版のオリンパス・ペンでありまして、ぼくはこのところがとても大事に思っている次第なのです。
それでは今使ってみるとはたしてどうなんでしょうか?まだまだ使えるのでしょうか?ぼくは半信半疑だったのでsが、使った後の感じは実に心地よいものでした。
発売当時、店頭展示用ともとることのできる、デジタルならではのいろいろな補正をかけることができますよというのを売り物にしていました。
ぼくはSCNというポジションには、ボディ左側に、切り替えポジションがありました。iAUTOからSCNにポジションを切り替えて使うのです。
このうち、SCN12に、マクロというポジションがあります。SCN13にはネイチャーマクロというポジションを見つけました。(写真下 上から1段目)いわゆる花を撮影するときの接写のモードです。
このポジションを使って花を撮影してみました。撮影した写真が、これです。
35㎜相当でいえば、84㎜とほぼマクロレンズに相当します。なかなかいい感じで撮れています。ARTというポジションもあります。
6つのARTポジションおうちで、ART2はファンタジックフォーカスです。このポジションを使って撮影してみましょう。このポジションで撮影すると、シャッターを押してから後に、フィルターがかかって処理中にいったんなりました。これが撮った写真になります。特に後処
理はしていないのですが、ソフトフォーカス気味にふんわりと少しですが、ボケ味が出ています。それがファンタジックな所以でしょうか?
SCNには「3」に風景モードもありましたので、試してみましょう。上がその写真です。遠くに見える横浜税関の古い塔と、手前の休んでいる横浜港の遊覧船の遠近感をすこしですが、強調してみせています。ちなみにSCNやARTはよく使うポジションを1つづつですが、登録することが可能でした。
撮影モードは、JPEGのほかにJPEG+RAWモードも装備していました。(しかしなぜか、このRAWデータ・モードはあくまで簡易モードらしく、MACには対応しておらず、WINDOWSのみに対応していました)結論として、確かにOLYMPUS E-P1は、液晶モニターも今に比べると相当にまだまだでしたし、撮影モードのメモリーも1つづつしかなく、正直まだまだ即座に対応できません。
しかし、店頭モードであったはずの、SCNやARTモードは十分に使うことができました。これはぼくが思うに、OLYMPUSのレンズであるZUIKOのレンズ性能が素晴らしいので、デジタル処理のポジションでも使うことが出来るのではないかと思いました。
主な仕様は次の通りです。2009年7月3日発売のオリンパスのミラーレスの当時世界最小・最軽量のデジタルカメラ オリンパス・ペンE-P1 M-ZUIKO DIGITAL ズームレンズED14-42mm(35㎜相当38−84㎜) f3.5から5.6 当時の価格は、レンズキット付きで10万円前後。デジタルイメージセンサーは、オリンパスはルーミックスとともにフォーサーズ(4/3型の大きさ=インチ 17.3㎜×13㎜)センサーを採用しています。約1230万画素、液晶モニターは3.0型TFTカラー液晶(約23万ドット)、リチウムイオン電池 充電時間約3時間30分。
ちなみに、現行のオリンパス・ペンは同じくマイクロフォーサーズ型レンズ交換式で、4/3型イメージセンサー 約2177万画素、液晶モニターは3.0型2軸可動式液晶(約104万ドット)とスペックだけをながめるとまさにこの8年の間に隔世の感があります。
しかしながら、スペックだけでは収まらないカメラへの愛着という点でこのOLYMPUS E-P1はなかなかチャーミングなカメラでした。発売の2009年当時、カメラ・レンズ込みで約10万円でしたが、中古価格市場で8,873円でした。やはりデジタル価格は随分と変わるもので残念です。ぼくはこのカメラ好きです。
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1949年のロンドンから東京へ飛行艇の旅
2017 APR 18 16:16:12 pm by 野村 和寿
BOAC(英国海外航空)1949年3月の時刻表から、ロンドンから遠く、ファー・イースト東京までの飛行機の旅を再現してみます。
ロンドンのBOAC(英国海外航空)の乗客ターミナルから、送迎車でサウサンプトンまで。サウサンプトンといえば、悲劇の客船タイタニック号の出発港として名高い港湾都市です。
港には、ショート社製の飛行艇サンドリンガム5型号が駐機中。1946年6月22日にデビューした「サンドリンガム号」は2層デッキの飛行艇。艇内は、プロムナードデッキ・ダイニング・カクテル・バーなどを備え、座席で22名、寝台で16名、を搭乗させることができます。
1949年3月6日日曜日
●ロンドン・ターミナル発7:00(送迎車移動)
- サウサンプトン(ロンドン)発11:00
▇第1経由地は、イタリアのシチリア島
イタリア・シチリア島アウグスタ着19:00
アウグスタといえば、イオニア海に面した港湾都市で、英国第8軍モントゴメリー将軍によって1943年に連合軍が上陸した都市であります。
この日はアウグスタに宿をとります。
▇3月7日 2日目は、エジプト・アレクサンドリアへ向かいます。
アウグスタ発 午前9:00
第2経由地は、エジプトのアレクサンドリア 午後15:15着です。
古代エジプトプトレマイオス朝の首都で蟻、エジプト第2の都市です。
ここでまた1泊 飛行艇は、海上のすれすれを飛行するため、昼間の飛行が原則でしかも長時間の飛行は、難しかったのです。
▇3月8日 3日めは、バーレーンヘ向かいます。
第3経由地は当時英国領バーレーンのバーレーン(現在はマナーマ)
アレクサンドリア発 午前7時
バーレーン着17:00 ここで1時間の休憩をとります。
▇第4経由地パキスタンのカラチヘ向かいます。
バーレーン発 午後18:00
パキスタンの首都カラチ着 日が変わって(3月9日)の日の午前1:45
ここで6:15の休憩 この日はさらに飛行します。
▇第5経由地は、インドのカルカッタです。
カラチ発 午前8:00
インドのカルカッタ(現コルカタ)着 午後16:00
コルカタでやっと1泊できます。やれやれ。
▇3月10日 第6経由地は、ビルマのラングーン(現在のミャンマーのヤンゴン)です。コルカタ発 午前6:00
ビルマのラングーン着 午前11:00 ここで1時間休憩を取ります。
▇第7経由地は、タイのバンコクです。
3月10日 ラングーン発 午後12:00
第7経由地は、タイのバンコク着午後15:00
ここで1泊します。
▇3月11日 第8経由地は、香港です。
バンコク発 午前8:00
香港着 16:45ここで1泊します。
▇3月12日 第9経由地は、上海です。
香港発 午前10:00
上海着 午後15:00ここで1泊します。
▇3月13日 いよいよ東京(横浜)に向け出発します。
上海発 午前8:00
日本の岩国・到着時刻は午後17:00
ここでさらに1泊し
3月14日 岩国発午前7:30
横浜(東京)着10:30
時刻表にはどこにもないのですが、たぶん、到着時刻は現地時間のような気が致します。
やっと横浜港に到着しました。なにしろ飛行艇なので、羽田飛行場ではなくあくまでも、横浜港というところが面白いです。
旅程をみると、後年、南回りヨーロッパ行き航路東京=マニラ=バンコク=ラングーン=カルカッタ=ニューデリー=カラチ=バーレーン=カイロ=ローマ=ロンドン(1952年:英国海外航空、機材:デハビランド DH.106 コメットI、経由地:9箇所) とよく似ていたことがわかります。
▇まとめてみますと
3月6日日曜ロンドン・ササンプトン発
3月14日月曜東京(横浜)着
実質飛行時間 73時間45分
所要時間8泊9日 どうですか?素敵な旅をご堪能いただけましたでしょうか?
気になるお値段ですが、往復387ポンド、片道215ポンドとあり、1949年の円・ポンド換算が1ポンド1,080円でしたので、単純計算すると往復370,046円、片道216,720円となります。昭和24年と平成27年とで7.75倍になっているので、現在の貨幣価値ですと、おおよそ、往復2,86万7,856円 片道1,67万9,580円。 ちなみにBA(ブリティッシュ・エアウェイズ)の正規ファースト・クラス・ロンドン往復航空運賃が1,34万2,690円
所要時間12時間20分(ノンストップ)ですので、約2倍のファースト・クラス運賃と思ってよさそうです。
Courtesy of http://forum.keypublishing.com/showthread.php?79617-Need-a-Photo-of-Short-Sandringham-5-quot-Portland-quot
ちなみに、2015年 日本海上自衛隊の飛行艇US-2が、インドへ売却されることに決まりましたが、なぜ日本かといえば、現在飛行艇を生産している国は日本しかないからです。
Special thanks to:
The Collections of either Björn Larson or David zekria
“Airline Timetable Images”
http://www.timetableimages.com/ttimages/complete/complete.htm
資料 『時刻表世界史』曽我誉旨生著 社会評論社2008年刊
写真・ウィキペディア・パブリック・ドメインより
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イタリア潜水艦カッペリーニ号の奮闘!数奇な運命!
2017 APR 17 18:18:04 pm by 野村 和寿
1943年5月11日イタリア王立海軍コマンダンテ・カッペリーニ号は、大西洋を一路、アフリカの喜望峰を回り、インド洋をへて、15000浬(27780㎞)を、日本海軍の基地シンガポールに向かい昼夜水上航行、潜水航行を繰り返しながら向かっていました。つづいて5月16日同レジナルド・ジュリアーニ号が、さらに、6月16日には同ルイージ・トレッリ号が、相次いでシンガポールを目指し、途中、サバン(現在のインドネシア領)にて、イタリア通報(海防)艦エリトレア号による補給を受け、8月1日から8月30日にかけて相次いでシンガポールに無事到着しました。
欧羅巴発アジア到着の3隻の潜水艦を調べるうちに、これらの潜水艦、および上記通報艦は、ジュリアーニ号1隻を除いて、カッペリーニ号、トレッリ号そして、通報艦エリトレア号の3隻は、終戦1945年の終戦後まで生き延びた船舶だということがわかってきました。
しかも、3隻の潜水艦は単に潜水艦が、欧羅巴からアジアを目指したのではなく、輸送任務潜水艦と呼ばれ、一切の兵装をはずして、ほぼ丸腰での決死的な行動なのでした。
輸送任務潜水艦とは日本海軍伊号潜水艦のうち第四百一潜水艦をはじめ20隻を輸送任務に就いた。作戦用潜水艦を使って物資等を輸送する任務に当たらせることです。 任務の目的は補給 すき間というすき間に物資を積み込まなくてはならない 魚雷は取り除かれ、発射管さえ物資の保管場所として使われました。物資の積載量を増やすために甲板の砲も外され、潜水艦の攻撃能力をはぎとられました。
3隻の潜水艦と1隻の通報艦の詳細は下記の通りです。
下の写真は、カペリーニ号が、独海軍UIT-24として、日本近海・瀬戸内海で活動していたころの写真です。艦橋には日本士官らしき人々がうつっています。日本の伊号潜水艦のように黒塗装ではなく、独Uボート色の灰色塗装です。これは、大西洋の海の色にあわせた色を踏襲しているといえます。1944年撮影。
まとめてみますと、伊海軍潜水艦コマンダンテ・カッペリーニ号、ルイージ・トレッリ号は、ボルドーからシンガポールの日本海軍基地へ、物資を運んだ直後に、伊が降伏し、独海軍UIT-24,UIT-25に改名、さらに、1945年5月に独が降伏すると、日本海軍伊号第五百三、第五百四号として活動したこと。
一方、伊通報艦エリトレア号は、シンガポールやサバンで、補給活動に従事後、伊降伏を聞き、英領コロンボで英国海軍に武装解除を受けた後、伊に回送され、戦後、戦時賠償艦として、仏海軍通報艦フランシス・ガルニエ号として、なんと1966年まで運用されたのです。
日本と独の年長老人どうしの冗談で、「今度やらかすときは、イタリア抜きでやらかしましょうや」というのがありました。つまり、日独伊のうちで、いち早く枢軸国側を離脱した伊を「腰抜け」として笑いの対象にしてしまうという、あまり趣味のよくない冗談でした。ぼくは、以前から伊は、本当に腰抜けだったんだろうか?という疑問を持ち続けておりました。
たとえば、サッカーのドイツ代表対イタリア代表でも、イタリアが優勢であり、現在両国のイタリアの対戦成績でも全34試合で15勝8敗11分でイタリアが優勢です。の成績を残しています。自動車のF1でも、フェラーリはコンストラクターズとして、エンジンメーカーとして1950年以来、224回を誇っています。勇気をもって立ち向かう姿はいずれも凜々しいです。
ほとんど丸腰で、欧羅巴からアジアへ15000浬を勇気をもって横断した伊海軍の潜水艦。不屈の闘志が見受けられます。しかも、潜水艦、通報艦ともに戦後まで生き抜くという意外ともいえる息の長さこそ、伊の魂ここにありということを感じてしまいました。
なお、イタリア海軍コマンダンテ・カッペリーニ号のカッペリーニとは、将軍の名前アルフレッド・カッペリーニ将軍alfred cappelliniからきており、夏の冷製パスタ カペッリーニcapelliniとは関係ありませんのであしからず。(苦笑)。
資料:『潜水艦戦争1939−1945 上巻・下巻』 レオンス・ペイヤール著長塚隆二訳 ハヤカワ文庫刊(1997年)『伊四〇〇型潜水艦最後の航跡 上巻・下巻』 ジョン・J・ヘーガン著 秋山勝訳 草思社刊(2015年)
ウィキペディア イタリア版 日本版
写真 ウィキペディア イタリア版 日本版
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『バトル・オブ・ロサンゼルス』を知っていますか?その②
2017 APR 4 21:21:01 pm by 野村 和寿
前回に引き続き、『バトル・オブ・ロサンゼルス』その②です。
米英戦争(1812−1814年)以来、2001年9.11の同時多発テロまで、アメリカ合衆国本土が、攻撃を受けたことは数えるほどしかありません。その唯一の例外が、日本海軍によるカリフォルニア攻撃でした。1942年2月23日に、伊号第十七潜水艦による、米国カリフォルニア州への砲撃が行われています。
さらに調べてみると、1942年9月9日、および9月29日、潜水艦に格納された零式小型戦闘機1機が、オレゴン州とカリフォルニア州を襲い、2発の焼夷弾を投下しました。この都合3度の攻撃こそ、ただ1度のアメリカ本土攻撃でした。ハワイ真珠湾の陰に隠れてあまり知られていない、アメリカ本土攻撃について興味をもちました。
この絵は、AMERICAN OIL&GAS HISTORICAL SOCIETYのホームページ
Japanese Sub attacks Oilfieldで読むことが出来ました。
1942年9月9日(水曜)午前4時 今度は日本海軍伊号第二十五潜水艦(第十七とは別の艦に搭載されていた、零式小型水上偵察機が、米国西海岸カリフォルニア州からオレゴン州にかけて93㎞の内陸部ブルッキングズ市街の森林地帯 ウィラーリッジ上空に焼夷弾(合計155㎏)攻撃をして、焼夷弾2発を投下し2発ともに爆発しました。これにより小規模の火災が起きましたが、当地は、珍しく前夜から振っていた雨のため森林が湿っていたためにすぐに鎮火されてしまいました。さらに、同潜水艦は、1942年9月29日 ケープ・ブランコ沖合93kmから オレゴン州に2回目の焼夷弾攻撃を行いました。ケープ・ブランコ沖合93㎞から発進した零式小型水上偵察機は、内陸部に30分飛行し、オーフォード近郊の森林地帯に向かって 焼夷弾を2発投下しましたが、残念ながら、幸か不幸か米陸軍に発見されることはありませんでした。
焼夷弾攻撃を行った戦闘機は、零式小型水上偵察機です。(写真ウィキペディアより引用)
まとめてみますと、
確かに、日本海軍による1942年の3度にわたる米本土攻撃は、今に成って思えば、限定的にとどまるといわなければなりません。しかし、米西海岸一帯を不安定な状態に陥れる。米海軍は貴重な戦力を西海岸の警備に割くことになりました。
ところで、『1941』(1979年アメリカ)という映画をご存じでしょうか?スティーブン・スピルバーグ総指揮・ロバート・ゼメキス監督、ジョン・ベルーシ、ダン・エイクロイド、クリトスファー・リー出演です。スピルバーグ唯一の大こけ作品ですが、今でもカルト的人気をもっている映画でもあります。なかで、ハリウッド攻撃のために派遣された日本海軍の潜水艦が、羅針盤を壊してしまうという喜劇ですが、艦長を堂々と演じているのが、日本が誇る三船敏郎でした。その三船は、このドタバタ作品の中で、一度も笑うことがなく、まじめに艦長を演じています。登場しているシーンも入っている一部の映像を貼り付けておきます。なぜ、この『1941』が失敗作に終わったかという一因に、ロサンゼルス攻撃つまり『バトル/オブ・ロサンゼルス』が、映画公開が、この事件から37年後に至るも、アメリカ人にとって、あまりにもなまなましい記憶であり続け、とても笑いの対象ではなりえなかったというのがありました。一度も笑っていない三船敏郎をご覧ください。
参考文献 伊四〇〇型潜水艦 最後の航跡 上巻・下巻 ジョン・J・ケーガン 秋山勝訳 草思社 2015年刊
参考ホームページ 「アメリカン オイル&ガス ヒストリカル・ソサエティ」アメリカ 史学協会 写真 ウィキペディアより引用
*なお米国西海岸への日本海軍の攻撃は、1942年から46年まで実施された日系人収容の口実ともなりました。1988年レーガン大統領は、日系アメリカ人保障法に署名し、1992年ジョージ・ブッシュ大統領は国を代表して謝罪、1999年までかかって賠償金が支払われました。
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『バトル・オブ・ロサンゼルス』を知っていますか?その①
2017 APR 4 20:20:26 pm by 野村 和寿
みなさんは「バトル・オブ・ロサンゼルス(ロサンゼルスの戦い)」という言葉をご存じでしょうか?1940〜41年に戦われた英国本土上陸作戦を前提として、戦われた「バトル・オブ・ブリテン」(英国空軍とドイツ空軍間による戦い)と呼ぶのは聞いたことがあるけれど、「バトル・オブ・ロサンゼルス」なんで聞いたことがないと思われるかもしれません。ロサンゼルス上空を日本軍の戦闘機が来襲したとすることを、「バトル・オブ・ロサンゼルス」と呼びます。
しかし実際のところ、「バトル・オブ・ロサンゼルス」は起こりませんでした。
結論的にいえば、単なる噂によるパニックでした。パニックを引き起こしたのは、ロサンゼルス・タイムスの新聞の号外記事でした。1942年2月25のことです。
左写真が、ロサンゼルスタイムズの1942年2月25日21時最終版の現物です。翻訳してみました。下記の通りになります。
抄訳ですが紙面から読み取れる文字を追ってみました。下記の通りになります。
「バトル・オブ・ロサンゼルス」をまとめると下記のようになります。
ところが、こんな記事も見つけることが出来ました。ロサンゼルスタイムズよりさらに、もっと地域の地方紙であるサンタ・バーバラ・ニュース・プレスの新聞記事です。1942年2月、詳細の発行日は不明です。
サンタ・バーバラ・ニュース・プレスを初めとする本記事は、AMERICAN OIL&GAS HISTORICAL SOCIETYのホームページ
Japanese Sub attacks Oilfieldで読むことが出来ました。
翻訳してみますと下記の通りになりました。この記事が本当だとすると、1942年2月23日(つまりロサンゼルスタイムズの記事に先立つこと2日前)に、日本海軍イ号第十七潜水艦が、石油貯蔵所を攻撃したとあります。
今回はここまでです。この話は、その2につづきます。
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カメラのおけいこ⑥Nikon、CanonのオールドレンズをLeicaに取り付ける
2017 MAR 1 6:06:32 am by 野村 和寿
今でも、世界のシェアをほとんど席捲しているのが日本のカメラメーカーということができます。レンズ交換式カメラの世界シェア 週刊東洋経済2014年版によると、世界の98.5%が、日本製であり、1位はCanon44.6%、2位はNikonの34,33%3位、以下はソニー、パナソニック、オリンパス、リコーと続いています。
戦後日本でいち早く輸出に貢献したのが、カメラの部門です。とりわけレンズ部門は、LEICAやCONTAXが同じく世界大戦で大きな打撃を被っていたのを背景に、ドイツのレンズの10分の1の価格で、アメリカに輸出され、日本の外貨の貢献に一翼を担いました。
当然ながら、当時最も貴重だったLEICAの35ミリカメラのために、LEICA Lマウントで、レンズが作られていました。
■60年前の日本のCanonの広角レンズ 28mmf3.5Ⅱ
まず最初は、今から60年前の1957(昭和32)年1月に発売されたCanonの広角レンズ28㎜f3.5Ⅱです。Canonは1933(昭和8)年、精機光学研究所が、Kwanon(カンノン)を出したところから始まっています。当時レンズは、日本光学(ニコン)の50㎜f3.5をOEMで供給してもらっていました。
さてCanonの古い広角レンズ28㎜f3.5Ⅱで撮影した午後、JR神田駅の商店街にある「油そば専門店」です。なにか、どくどくとしたアジアン・テイストの色合いです。
「はた!」と気がついたことがあります。この写真はなにか懐かしささえ感じられ、いわゆる「昭和の味わい」を醸し出しているのかもしれません。
ボクが、昔の写真をみたときに、懐かしさを感じるのは、実は「古ぼけた写真」を見たからではなくて、実は、「レンズの描写力だったからかもしれないな」と思いました。今のレンズとは随分と描写力の、重み付けが違うような気がします。まずは、こくのある力強さというような、もっとも大事な部分を骨太にとらえているような。
もう1枚は、神田一ツ橋・學士會館の1928年竣工の古いビルディングです。ビアパブ「SEVEN’S HOUSE」の外観です。この古い建造物をまことに、古そうに描写しているので、すごいなと思いました。
Canon 28mmf3.5Ⅱ単体です。今のレンズと比べると、幾分、癖をもっているレンズで、万能レンズではないのですが、非常にコクのあるレンズだと思います。
製造番号は20325 これを、デジタルカメラLEICA M9に装着してみました。Canonは、当時、Sマウントと称していましたが、LEICA Lマウントと同じマウントです。
CANON MUSEUMによると、1957年1月に発売とあります。価格は、当時25,300円(現在の価格で換算するとなんと141,781円 日銀の物価換算表による)でした。このレンズは京都方面で入手しました。
■69年前のNikon広角レンズ
もうひとつのオールドレンズは、Nikonです。意外にも、Nikonがカメラを作り始めたのは第2次世界大戦後のことです。1917(大正6)年に、三菱財閥の岩崎小彌太の個人出資で設立された日本光学工業は戦前は、主に海軍の光学兵器を製造していました。写真のレンズ名をNIKKORと定めたのは1932(昭和7)年、最初の小型カメラは戦後1946(昭和21)年に製造を開始しています。このNikonの広角レンズは、先ほどのCanonに比べると、さらに古くて1948年発表のW-NIKKOR・C 1:3.5 35mm(3.5cmと表示にあります) No.440587です。
ボクの所有のレンズは、 1948年発表 おそらく1954年5月の87番目の製造ではないかと推測されます。
1951年 19,500円で発売(現在の価格換算で178,605円日銀消費者物価指数による)されました。ボクは、このレンズを、大阪方面で入手しました。
ボクは、Nikonは敬して遠ざけてきた存在であり、このレンズで初めて、Nikonの威力を改めて知りました。レンズは、Nippon Kogaku W-NIKKOR 35mm 絞りf=3.5 No.440587です。
夜の帳が降りる少し前、店を開けたばかりのまだお客さん待ちの九段下のお鮨屋さんです。しっとりとした雰囲気の店内から漏れてくる電灯光。Nikonが戦後すぐ1948(昭和23)年に、出した広角レンズ、広角レンズなので、型番の冒頭に「W」末尾に当時まだ珍しかった「C」がついています。
このレンズは、もともと1939(昭和14)年に逓信省の電話通信回数測定装置のために設計された広角レンズが元になっています。Nikonといえば、戦艦大和や武蔵の測距儀を製作した光学メーカーですが、上にも記したように、戦前は、今ではライバルであるCanonに自社のレンズを供給したりもしていて、興味深いです。戦後になると、これが民生用に転用され技術が実を結んでいきます。
黒澤明の戦時中の『一番美しく』(1944年東宝映画)は、日本光学工業(現・ニコン)の戸塚工場が出てきて、レンズを磨く女子挺身隊の様子が半ドキュメントで撮影されていました。ちなみに3:40からのレンズを磨くシーンで使われている音楽は、なんと敵国アメリカのスーザ作曲のマーチです。このあたりが、黒澤の皮肉でしょうか?
黒澤映画の中でも、戦中に製作された本作品は、戦後上映の機会に恵まれなかったのですが、丁寧にレンズを磨く女子たちの動きを捉えています。ちなみに、顕微鏡をのぞいている女優は矢口陽子で、昭和20年に黒澤明と結婚しています。戦時中に作られたのを忘れてしまうくらいに丁寧な映画です。上のYouTubeは、映画の中にでてくる日本光学の工場のレンズ研磨シーンを、わざわざ抜き出したビデオクリップと思われます。本作に登場するレンズは、日本光学が双眼鏡や砲弾の弾着確認用の双眼鏡、砲弾の弾道計算用の測距器(戦艦武蔵の15メートル測距儀)、ゼロ戦の射撃照準器などの光学機器のためのレンズでした。
Nippon Kogaku W-NIKKOR 35mm 絞りf=3.5 No.440587に話を戻しましょう。とても69年も前のレンズとは思えないしっとり感があります。撮影の日は、午後、突然の驟雨が何度も降る天候でしたが、雲の動きもとても早く、大きな雲が出ていました。強いて言うならコントラスト感が、今のレンズに比べると強すぎで、写真手前のビルの影の部分はかなりアンダーになっています。画面の中で露出が同じような光には、Nikonはくっきりとした写真を結ぶような気がしています。
望むらくは、くっきりとはしているのですが、微妙なディテールの表現となるとまだまだライカの純正レンズには及ばないというのも正直な感想です。
装着したレンズフードは、純正ではなく、最近の作品で「YAMA」という個人ブランドが作っています。フィルター径34.5㎜ねじに装着でき、2分割の構造で、アダプターとフードからできていて、間にフィルター径40.5㎜が挟み込みできます。
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カメラのおけいこ⑤ライカのオールド・レンズをソニーに取り付けてみる
2017 FEB 15 16:16:37 pm by 野村 和寿
ライカのレンズを、最新のカメラ・ソニーに取り付けてみました。このカメラ詳しくいうと、一眼レフのような姿をしていますが、実はそうではなくて、ミラーレス一眼カメラというカテゴリーに属し、オールドレンズとの相性がいいのです。ソニーは、前回紹介したFUJIFILMのイメージセンサー(撮像素子)がCMOSと呼ばれる素子で、35㎜相当に換算すると、1/1.5の大きさ、つまり、焦点距離50㎜のライカレンズだと、その1.5倍の75㎜になってしまいます。これに対し、ソニーα7Ⅱ(2014年12月発売)はイメージセンサーが、35㎜相当に換算すると1倍、フルサイズなので、レンズの焦点距離が、たとえば、50㎜であれば、そのまま50㎜で使えるというメリットがあります。われわれ、オールドレンズファンにとっては、このフルサイズといところが、実はこのカメラが受けている一番のポイントです。
ソニーのα7Ⅱのカタログでうたっている「35㎜フルサイズセンサー搭載」とあるのは、実は、そういうことをいっております。
ソニーは、マウントがソニーEマウントを採用しているため、ライカのレンズはそのままでは、取り付けることが出来ません。長野県にあるフォクトレンダー・ブランド(株式会社コシナ)の「フルサイズ・Eマウント・アダプター」という製品が出ていて、これでもって、ライカのレンズをマウントアダプターを介して、ソニーα7Ⅱに取り付けることが出来ます。このマウントアダプターは、なにしろ日本製なので、正確に製造されているのでとても重宝できます。しかもヘリコイドといって、ピントの微調整ができるつまみがついているので、レンズのピント合わせをさらに正確にできるがいいところです。
前回、御紹介した1958年生まれのライカのレンズ LEITZ WETZLER生まれのELMAR50mm f2.8 沈胴式のレンズを、ソニーα7Ⅱに取り付けて撮影しでみました。
オールドレンズは、いまの市販されているレンズにはない独特の甘さと柔らかさをもっているのが特徴でして、どことなく、昔の味わいのある写真を撮ることができます。
ただし、デメリットもあります。「逆光にはめっぽう弱い」というレンズなのです。確かに以前、子どもの頃、よく「逆光だとカメラは写らないだよ」ということは、父親に教授され、多くの子どもでさえも、逆光というのは常識でした。
左の写真のように、なんとなくもやがかかったようになってしまいます。
逆にいえば、ライカのオールドレンズは、逆光にさえ、いつもより注意すればよいともいえなくもありません。一方、カメラボディのほうのソニーα7Ⅱは、価格も、ライカに比べると、1/7くらいで、ずいぶんとお安く、しかも、イメージセンサー(撮像素子)がライカと同じフルサイズですから、かなりなお得感はあります。
ぼくは、シャッター音が、ちょっとカメラっぽくないなと思うのと、あまりにも、電気メーカーっぽい電子音なのが少々不満です。
しかしながら、なんといっても、不満の一番は、デジタルカメラの場合、光からの情報をイメージセンサーで取り込んだ後で、「画像処理エンジン」と呼ばれる、一種の画像処理のためのデジタル回路を通るのですが、ソニーの場合、その画像処理エンジンがあまりに、よく出来すぎていて、なんでも、綺麗に写ってしまう点です。
写真は手前味噌ですが、ちょっと今撮影したとは、思えない、何となくふるくて懐かしいところのあるものになっていたらよいのですが。しかし、ぼくにとってみると、上記写真の出来もなかなか満足はしていないのです。それは・・・
ライカのレンズをライカ本体のカメラで撮影した場合と比べると、なんでも綺麗。贅沢な悩みかもしれません。もっとライカの場合、色のコントラストがくっきりと色濃くついて、出るところと引っ込むところがもっとはっきり出てきます。ところが、ソニーの場合、どうも、「平均的な美人」のような、おしなべて普通のようにも思えてしまう。そこが、唯一というか、もっといえば、最大の難点だと思っています。でも、ソニーα7Ⅱはよくできたカメラであることは確かだと思います。ソニーは、1933年から2006年まで続いたミノルタのカメラ部門が、写ってきたメーカーです。どことなく、昔のミノルタのペンタ部分(でっぱった所)が似ていなくもないと思っています。かつて一世を風靡したロッコールレンズ、ライカと提携も果たしていたミノルタのαではじまる、一眼レフが、デジタル時代に、ソニーに移り、α7Ⅱとなっていると、ボクは思っています。
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カメラのおけいこ④ Fujifilmのカメラに昔のLeica・レンズを装着してみる・・・
2017 FEB 14 5:05:59 am by 野村 和寿
夕景の井の頭線・池ノ上駅にてFUJIFILM X-Pro1 LEITZ50mm(35mm相当75㎜)で撮影してみました。 オールド・レンズは最新のデジタルカメラには使えないのでしょうか?確かに、ライカのカメラに、日本のブランドのレンズを取り付けるというのは、ずっと以前から行われてきたことなのですが、ボクの知りうる限り、日本のカメラに、ライカのレンズを装着することはたぶん初めてなんじゃないでしょうか?今やそれだけ、日本のカメラは自他共に認めるくらい優秀で最先端をいっている証だと思います。
FUJIFILのX-Pro1は、概観が昔のLEICAのようなレンジ・ファインダー仕様だったので、LEICAが昔みたいに元気だったら、こんなデジカメを出しただろうな?と思って、2012年につい入手してしまいました。後で気がついたのですが、FUJIFILMはレンジ・ファインダーではなくて、レンジ・ファインダーのような外観に、電子ビュー・ファインダー仕様です。 さらに魅力をそそったのは、その後になって、LEICA Mマウント、FUJI Xマウントのマウント・アダプターが発売され、うれしくなって2012年6月に入手しました。なぜうれしいかとすれば、切削技術の優れた大手メーカーである、FUJIFILMが、他社であるライカのアダプターを出してくれるなどと言うことは、今までにありませんでしたから、うれしくなったわけです。 これで、LEICAの手持ちのレンズを、FUJIFILM X-Pro1に装着することができます。最初に購入したLEITZ(LEICAは以前はLEITZ社の製品ブランド名)のレンズは、レンズを引っ張り出す沈胴式と呼ばれる方式でした。エルマー50㎜ f2.8は、1978年にLEICAのM3と込みで入手した、ぼくの記念すべきLEITZ初ものレンズです。 LEITZ WETZLAR ELMAR 1:2.8/50 製造番号1932748(1962年製造)の沈胴式のレンズ(LEICA カタログ本・英国HOBE COLLECTION BOOK Leica Camera and Lens Pocket Book 1994による) 早速撮影してみました。FUJIFILMのX-Pro1は、イメージ・センサー(撮像素子)は、23.6×15.6mmのAPS-Cと呼ばれるサイズです。そこで、ライカの35mm用レンズを装着し使うと、焦点距離50mmは、1.5倍の75㎜になります。75㎜といえば、いわゆる標準レンズというよりも、ポートレートなどに使う、中望遠レンズになってしまいます。うまくLEITZを使いこなせるか不安でした。
カメラ本体の右側に、オート・フォーカスの切り替えつまみがあります。マニュアル・フォーカスに切り替えます。ファインダー内に表れるマウント・アダプターのレンズ設定を変更します。 右はマウント・アダプター設定>レンズ6>焦点距離設定>焦点距離入力で、75㎜から85㎜に変更。
X-Pro1のボディ前面にあるフォーカス・モードは、マニュアルにし、メニュー画面から、マウント・アダプター設定は、75㎜、レンズなしレリーズをONにしていざ撮影です。ところが、どうもピントが甘いのです。 はじめ、オールド・レンズ独特のものかと思ったのですが、よくよくファインダーをみてみると、ピントが、後ろにくる(あとぴん というそうです)。そこで、試行錯誤の末、「マウント・アダプター設定」を、75㎜から85㎜に変更してみました。 この設定はこういう時にあるようでした。X-Pro1は、レンジ・ファインダーのようですが、実は、ファイダーは、液晶画面による電子ビュー・ファインダーなのです。かなり精度はいいのですが、純粋な光学ファインダーではなく、ましてやレンジファインダーではないのです。 ピントはどうしても甘くなる。そこで、マウント・アダプター設定がついていたのだと思いました。 X-Pro1 Leitz Elmar 50mmは、どうだったかというと、相性は、ピント合わせがかなりセンシブルであること。しかし、それを考慮すれば、写真は、ぼくのイメージするオールド・レンズのしっとり感や、コントラストのはっきりとしたいわゆる絵画的な描写が少しですが、実現できたように思います。
大井町居酒屋の夕景電灯の色がでています。 ▇ここまでの結論 FUJIFILM X-Pro1にLeitz Elmar50mm(35mm相当75mm)を装着して撮影すると、いままで、FUJIFILM純正では味わえなかったような、まろやかな写真になった。なんとなくピントがあまく写ること。これこそがオールドレンズのよさかもしれないのです。まだまだ、オールドレンズの深みにはまります。 つづきます。 ソナー・メンバーズ・クラブのHPはソナー・メンバーズ・クラブをクリックして下さい。
60年代のポルトガルは・・・
2017 FEB 12 21:21:38 pm by 野村 和寿
堀田善衛の『スフィンクス』
読了。作者は、画家ゴヤを描いたスペインもので有名ですが、1963年に不思議な小説を書いていました。同年4月2日号から毎日新聞の『エコノミスト』誌で1年間連載された小説で、1965年に毎日新聞から単行本化され、1977年に集英社文庫に収録されました。なんと610ページにもなんなんとする大長編で、いまどきは、1冊で、こんなに分厚い文庫はなかなかありません。
ボクは、昔の小説を古書店で探してきて読むのが好きです。といいますのは特に、執筆当時の世相がかいまみられて、なかなか今では知ることが出来ないことに遭遇して一喜一憂しています。
『スフィンクス』というタイトルは、エジプトのアブ・シンベル神殿が、アウワンハイダムの建設によって、水中に沈むのを移設する寄付金を募る主人公・国連ユニセフの日本人職員菊池節子というのと、スフィンクスが、神殿をまもる守護神というところからきていて、ストーリー自体はヨーロッパ・ドイツ、スペイン、ポルトガル、スイスが舞台になっています。
小説のなかで、こんな一節をみつけました。「デザートはスイス・ドイツ風な料理とは違って美味なワッフルとそれにイタリー風な、エスプレッソと呼ばれるコォフィであった。」つまり、日本の読者にとって、エスプレッソはなんだか解説しないと分からない飲み物でした。そんな時代だったのです。
『スフィンクス』の書かれた1963年の少し前の時代背景はこんな感じです。1962年 スイスのローザンヌの対岸にあるフランスの街エヴィアンでフランスとアルジェリアの間で交渉が妥結し、同年7月、アルジェリアが正式に独立を果たしています。
また、小説に出てくるポルトガルについての記述に目が行きました。
「ポルトガルはいまなお1275万の植民地人口をもち、その植民地の面積は2090万平方キロにのぼっている。そうしてサラザール政権には、これを解放し独立させる気などはまったくなかった。しゃぶれるだけしゃぶり、反抗するものは徹底的に武力弾圧する。カイロでは、誰もがアルジェリアと今後の次はアンフォラだといっていたことも思い出されてくる」つまり1960年代は、まだ、ポルトガルは大航海時代から連綿と続いてきた大帝国だったのです。というより大帝国の名残といったほうが正確かもしれません。
ポルトガルのサラザール政権を、別途、調べてみると面白いことがわかりました。スペインの市民戦争にナチスの後押しを受けて、フランコ政権は、第2次世界大戦中も中立を宣言したために、戦後もなんと1975年まで独裁を続けたのは有名ですが、ポルトガルもこれとまったく同じ歩調をとっていました。サラザールの独裁体制はエスタド・ノヴォ(新国家体制)と言われ、1933年にドイツとイタリアから顧問を呼ビ国家防衛秘密警察(PIDE・ナチスのゲシュタポを模しています)を創設。サラザールの政敵を弾圧したほか、共産主義者、社会主義者、自由主義者、フリーメーソンも弾圧したのでした。
1936年1月にサラザールは首相、財相、外相、陸軍相、海軍相のポストを兼任し1939年にスペインのフランコ将軍率いる反乱軍に義勇軍を送ったりしています。フランコが勝利すると、スペインと友好不可侵条約を締結し、1940年ローマ教皇庁と政教協定(コンコルダート)を締結しました。ボクはポルトガルにおける全体主義とカトリックに裏打ちされていたと言うことを、恥ずかしながら初めてしりました。
サラザールの政治哲学はカトリックの教義に基づいており、経済政策もカトリックに影響を受けています。高等教育は重視されなかったために、現在でもポルトガルの識字率はヨーロッパ一低いといわれています。
そして、この小説の生まれた1960年は、「アフリカの年」と呼ばれたように、アフリカの国々が民族解放の名のもとに、いっせいに誕生しています。1961年にはアンゴラ独立戦争が、はじまり、同年、インドが、ポルトガル領、ゴア、ダマン、ディーウを武力侵攻、1962年にギニアピサウ独立戦争、1964年にモザンビーク独立戦争が起きていました。
サラザールは1968年まで首相でした。その後も、ポルトガル植民地帝国は続いたのですが、1974年のカーネーション革命で打倒されたのです。
ちなみにマカオが、中国に返還されたのは、1999年12月20日のこと。
それまでは、ロシャ・ヴィエラRocha Viera総督が統治していました。司法管轄区分も、リスボン地方裁判所管区支部だったとありました。
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