旅する哲学 南イタリア・ナポリへその④考古学博物館
2017 JAN 27 4:04:46 am by 野村 和寿
過去の何が<人間>の観念を拡大し、さらに美しいものにすることができたのか。何度も何度も、過去の偉大さに思いをめぐらすことで力を得、人間の生とは素晴らしいものだという感覚に触発されて、目覚めた何人からの人間がいたのだ。 ニーチェ
ナポリにいったら行ってみようと思っていた国立考古学博物館に行ってきました。ナポリの考古学は、主にフランスのナポレオンがこの地をおさめていた頃に始まるようで、それでか、フランス人の団体が非常に多かったです。すごいのはお城のような建物に、ポンペイや、ファルネーゼから発掘したブロンズや大理石ぞうがまことにおびただしく、ちゃんと見ようと思ったら、たぶんまったく1日ではすまない量でした。ぼくがとりわけ面白かったのは、大理石の石像の顔が、現代のイタリア人とさほど変わらないことでした。どうも、昔の人の像をみて、見学者をみると、あまりにも似ている人が多くて、これがイタリア文化のプライドなんだろうなと思ったりしました。それはそれとして「どこみてんの?」
ナポリ国立考古学博物館のいちおし。紀元前33年に、マケドニアのアレキサンドロス大王(3世)が、ペルシャのダリウス3世をやぶったイッソスの戦いを描いたモザイク画です。なにしろ、はじめて、当時最強といわれたアケメネス朝ペルシャ(今のイラン)を破ったヨーロッパ方の王様として有名なわけで、これはまさに、今の世界情勢にも通じる根が深いお話です。もちろん、このモザイク画の周囲にはいつも人だかりができていました。ヨーロッパが強いという人々が確かめたいのでしょうか?この絵の中には、ペルシャの女性の姿や、大王のわかいときの戦いぶりも描かれています。もともとは、あのポンペイから出土されたものだそうです。きょうはこれから、そのポンペイにいってこようかと。
国立考古学博物館の「順当な」写真です。まるで生きているみたいなアグリッピーナの王女の像です。アグリッピーナは、ヘンデルが後年オペラにしています。その周囲を歩いているイタリア人でどこか似ていると思った人がたくさん、像になっています。なんか西欧の文化みたいなものを、しみじみ感じてしまいました。
ポンペイから出土した夫婦のモザイク画です。まさに鮮明そのもので、しかも、なんというか、夫婦の絆みたいなものまでわかるような。こうした文化が一瞬のうちに埋まったのですから、すごいです。ナポリ国立考古学博物館はトイレもちょっと面白くて、男女別々ですが、日本でいえば、女性のトイレのように、男性のトイレでさえも、個室しかないのです。なにか不思議でした。
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旅する哲学 南イタリア・ナポリへその③オペラ
2017 JAN 26 16:16:11 pm by 野村 和寿
われらの存在のなかには 至高の時がある。
その時はくっきりと際立ち 保つのだ。
われらを力づける美徳を・・・・・・ ワーズワース
念願がかなってナポリのサン・カルロ歌劇場でプッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」のチケットが入手でき、歌劇場に入ることができました。僕の席は、5階のまさに天井桟敷席でしたが、舞台装置が歌手の表情から、観客の様子までてにとるようにみることができました。なんといってもここは、赤を基調にした座席と、まばゆいばかりの金で縁取られたまことに見事な歌劇場です。案内嬢まで赤のワンピースを着ています。一番驚いたのはオーケストラの手慣れていることと、カンタービレになると、オケが歌手をあおり、歌手がまたオケをあおるというように、まことに理想的な、イタリアの節になります。オケがこれだけ積極的にアンサンブルをやっているのは日本ではなかなかおめにかかれないことです。上の写真は、休憩時間に1階席からロイヤルボックス、そして、上の階をみあげてみました。すごいでしょ。
世の中に行きたいところがどこかと聞かれたら、サンカルロ歌劇場といつも、思っていたくらい、ナポリで行ってみたかった所です。やはり、ナポリはすごかったです。なにしろ、1737年の開場というヨーロッパで(ということは世界で)最初の歌劇場です。何度かの火災にあったからかもしれないのですが、会場には、なんと消防士さんが、消防士のかっこうのまま待機していらっしゃるのにはびっくりしました。お客は、いまだにスノッブな貴族趣味の人たちが多くて、華やかな社交場の感もありました。今日の公演はいわゆる定期公演客向けだからなおさらなんでしょう。いいおじいさんが、歌い手によってどのくらい演目の印象が異なるかを知り合いに議論をふっかけたりして、奥さんもなんかうれしそうに見守るという感じです。
一方、オーケストラや歌い手はそれとは関係なくて、きわめて自由に音楽を語るといった風情で、音楽を動かしているのはまさに自分たちという感じでした。5階席のバルコナータと呼ばれる5階席からみた2階席から上のバルコンです。ひとつひとつは、部屋になっていて、鍵を閉めたりもでき、中でなにがおこなわれているかわからないという仕組み。サンカルロ歌劇場の音楽の次にもり立てるものといえば、まばゆいばかりの光にあるかもしれません。こんなご時世で、LEDが断然効率的なのでしょう。しかし、ここにある光あふれるまばゆい光は、白熱で、ろうそくのひかりの代用をしています。あたたかな光がシャンデリアからも、いろいろな照明からも降って参ります。
休憩時間に1階からみたオーケストラ・ピットです。けっこう深く広く作ってありました。休憩のときは楽団員は三々五々で十分に休憩を取る人や、マーラーの交響曲第1番”巨人”とリムスキー=コルサコフの”シエラザード”をさらっている人などもいました。それにしても、ナポリのオケの金管楽器は、昔のラッパそのものみたいな音がしています。なにか味のあるラッパの音がしています。
きょうの演奏はいつものプッチーニの「ラ・ボエーム」とも少し違っていました。ちょっとマニアックなのですがご紹介。
まず、幕が始まる前に、第2幕で出てくる子どもたちが演壇上に姿をみせ、そのなかの一人が、演出家のメッセージを代読します。第1幕は、主人公ミミとルドルフォの出会い、場所は貧しい屋根裏部屋、2幕は、打って変わってパリ シャンゼリゼでの楽しいクリスマスの時間となるのですが、「人生とはかくも不思議に、いろいろなことがおこります。それはときには衝撃的だったりしますが、必ずいいこともあるのです。ですから1幕と2幕は切れ目なく演奏します。」
第1幕の舞台装置が、ひいていき、2幕のシャンゼリゼがでてきても驚かないでください。こうした「幸せな時間」は、誰にでも訪れるといいのですが、不幸にして幸いなる時間を過ごせない人々もいます。そうした人々のために、まずは祈りましょう。」といって、観客全員が起立し、不幸な人々のために、黙祷を捧げました。不幸な人々とは誰かと特定していないのに、起立、黙祷いかにもカトリックの国の考えそうな話です。そして、1幕が終わると、しずかに、場面は転換していき、シャンゼリゼが現れる。このことに、演出家は美しい幸せ時間をかけているようです。まことに不思議な演出家のメッセージ、そして観客の不思議な「黙祷」でした。
第2幕のシャンゼリゼの通りの舞台を、こっそり5階から撮影したのでどうぞ。『ラ・ボエーム』は、1幕2幕続けて上演され、第3幕の間に幕間休憩です。広大なロビーです。中には記念写真をとる、グループも。とにかくシャンデリアがいくつも光を放つ中で、ほとんどの観客が、女性はカクテル・ドレス、男性はすくなくとも上着にネクタイ着用です。ぼくも蝶ネクタイとミッソーニのジャケットをもっていってよかったなと思いました。こうしてナポリの夜はえんえんとふけていきました。
ちょっとピンぼけなので恐縮なのですが、根性がないので、隠し撮りです。ナポリ サンカルロ歌劇場の案内係は、歌劇場のビロウドの赤で統一した場内で、赤のワンピースを着用しています。日本のクラシック会場のように、いかにもの案内係の制服ではなくて、どちらかといえば、夜会にも着て行けそうな、カクテルドレスにもなるようなそんな服装です。みなさんお若く、とてもきれいに会場に花を添えています。そして、与えられた任務はきちんとこなしています、客の誘導とか、客への気配りとかなかなかよろしいです。文化とは、それぞれの役割をお互いにきちんとこなすということなのかもしれません。
サンカルロ歌劇場の音楽の次にもり立てるものといえば、まばゆいばかりの光にあるかもしれません。こんなご時世で、LEDが断然効率的なのでしょう。しかし、ここにある光あふれるまばゆい光は、当然のように、昔からの白熱球で、ろうそくの光の代用をしています。あたたかな光がシャンデリアからも、いろいろな照明からも降って参ります。
指揮者にいわれてそうするのではなく、オケが自然発生的にするクレッシェンド、そして、曲の変わり目の決然とでる確固としたもの、オケが音楽を作るというプライドの上に、ときにはテンポさえも、自在に操り、それに音量が加わりまさに目指す音楽がありました。若いイタリア人の指揮者君はただただ、交通整理に夢中でしたが、オケはそんなことおかまいなく、自由にプッチーニをやっておりました。
以下友人(シカゴから)のコメントを残してくれました。
素晴らしい!野村さんのコメント、手に取るようにわかります。
プッチーニはソロのみならずアンサンブル・オペラなんだよね。それが手にとるようにわかった。明るい場面と悲劇的な場面で当然ながら音色を極端に変えている。それに忠実にオケが動くと、プッチーニというのは、道具としてのオケの扱い方が上手なんだなと思う。指揮者にいわれてそうするのではなく、オケが自然発生的にするクレッシェンド、そして、曲の変わり目の決然とでる確固としたもの、オケが音楽を作るというプライドの上に、ときにはテンポさえも、自在に操り、それに音量が加わりまさに目指す音楽がありました。和解イタリア人の指揮者君はただただ、交通整理に夢中でしたが、オケはそんなことおかまいなく、自由にプッチーニをやっておりました。
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旅する哲学 南イタリア・ナポリへその②ホテルとピッツァ
2017 JAN 25 2:02:31 am by 野村 和寿
旅行の現実は期待と違うという意見なら、わたしたちもしょっちゅう聞かされる。だからこそ主張する。現実はつねに失望させるものに違いない。だが期待と現実はもともと別物なのだと考えるほうが、より真実に近く、より役に立つのではあるまいか。(旅する哲学 大人のための旅行術 アラン・ド・ボトン著安引宏訳 集英社刊より)
ナポリ報告 ぼくの宿泊しているホテルは、GRAND HOTELPARKER’S NAPOLIという5つ星のホテルなんです。(でも僕の部屋は安い部屋なので海向きではなく)待望の朝食へ。おびただしいフロマージョ(チーズ)は、ブッファーロ系であっさりとしていて、いくらでも入るという風情。トマトは味が濃く、ミルクはそれだけで甘くといった感じで、最上階の食堂は朝の陽光がいっぱいにさしてきて、すばらしい朝食となりました。ハム類も、いろいろな珍しいハムばかりで、どれも癖が強くなくて美味しいです。また、自家製のミックス・ジュースの酸っぱく甘くなかなかのお味でした。
テラス席は、このホテルが高台にあるので、6階といってもかなり高いところにある風情です。テラスをなめるように海に向けてレンズを向けてみました。陽光がまぶしく、南国に来たという観があります。まだ朝7時の光景、もしかすると、太陽が昇る今頃がいいのかもしれません。
前メールのテラスからナポリ湾が一望できます。なにしろ、部屋がまっ暗だったので、最上階の6階テラスからみた、海の一望はとても印象的でした。左のヴェスヴィオ火山は常に、噴煙をあげておりまして、きょうは晴天なので、とても気持ちがよい朝です。ちょっとかなりの逆光なのですが、アップしてみます。
ナポリ本場のピッツァ ピッツア・マルガリータをいただいてきました。スパッカ・ナポリにある、「ミケーレ」という超有名店です。ここは、あまりにも有名なのですが、なにも飾らずにひたすらピッツァだけを、食べさせてくれ、あとは水とビールくらいです。日本ではさしずめ、「香川のさぬきうどん屋さん」に似ています。とにかく飾らず、この大きさで、400円です。トマトソースは、まだトマトそのものといったお味で、これに、モッツァレラの白と、バジルの緑で、有名なピッッアマルゲリータの完成です。注文してものの5分ででてきます。奥では、ピザを丸く作る係、ピザ釜で焼く係とに分かれていました。もちもちとした食感と、トマトの酸っぱさ、ときに周囲の焦げ目のかりかり感も香ばしく、今まで何を食べてきたんだろうという、ビッツァの中の王様みたいです。やたらにこんでいて、相席です。
ミケーレという地元の人一押しのピッツェリアの外側です。こんなに間口は小さく、ちょっとなかなか見つけられません。しかし、中はすごい込みようです。ここの店もほかのなん軒かのピッツェリアと同じく、マルガリータ発祥の店と号しております。つまりマルガリータは、とくに1軒で、生まれたのではなくて、自然発生的に生まれたんだなと思いました。ほんとはね。
ピッツァの話。これはきのうのピッツェリア ミケーレのピッツァ・マルゲリータですが、相席の前の食べ残し方をごらんください。真ん中だけ食べて、周囲を残しているでしょう。こういうことを、ナポリでは、言葉がありました。言葉自体は記録していないのですが、ようするに、こういう周りを残して中だけ食べる人のことを、なんとかいって、それは、ピッツァを残す人=もう年寄りの人 という意味で使っているそうです。なにしろ、ピッツァは大きいですので、とても一人では食べきれません。それに周囲のこげている部分が香ばしくて美味しいのですが。
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ウィーンに恋して 冷たくされて
2017 JAN 15 13:13:40 pm by 野村 和寿
1991年に起きたウィーン取材のことを、26年経た2017年、思い起こして書いてみることにしました。それは、とても大変な取材でした。憧れていた恋人に一気にふられたような、ぼくにとっては、珍しくとても,辛口のブログになります。
面白くないかも知れないです。
1991年はモーツァルトの没後200年記念の年で、いろいろなモーツァルト関係のイベントがおこなわれていました。そこでゴールデン・ウィークを利用して、ウィーン・フィル・メンバーに一週間密着するというぼくが編集者をしていた音楽雑誌の企画で、ウィーンに行ったことがありました。
それまで、ぼくにとって、ウィーンというのは憧れの、理想の音楽都市だと思っていました。当時はまだヨーロッパ直行便はなく、アンカレッジ経由で15時間もかかったヨーロッパでした。ロンドンを経由して、18時間かかってウィーンに到着した。ウィーンの取材は、ウィーンの公立図書館から始まりました。ウィーンの一般の図書館で、モーツァルトはどうやって受け容れられているんだろう。ところが、ぼくの抱いていたウィーン=モーツァルト=音楽の街というステレオタイプなイメージは、もろくも崩れ去った。
1990年代のウィーンは、とくに、日本でのように、モーツァルトについて、お祭り騒ぎではなく、一般の市民達が、特にモーツァルトやクラシックが好きということもありませんでした。もちろん、ウィーンの土産物屋には、モーツァルトの顔を冠したチョコレートやグッズがあるにはありました。また5000シリング札はモーツァルトのデザインでした。しかし、ウィーンはなにも騒いでいませんでした。
モーツァルトの愛好家を自認する図書館長は、ボクの質問に少しも満足な答えを聞くことはできませんでした。モーツァルトに関するコーナーは貧弱で、日本のほうがよっぽど充実していました。古い本が並べられているだけでした。
ウィーンの若い音楽愛好家の家にも取材をしました。「モーツァルトは嫌いです。音楽がこまごまとしていて冗談すぎるから」と、さらっといってのけました。
音楽学生にも取材しました。普通のアパートに住む人にとっては、防音というのが、大きな問題で、音楽家の玉子たちには、ウィーンは決して優しくなかった。というよりもきわめて冷淡な印象がありました。練習する場所にも恵まれていませんでした。
さらに1991年当時にもウィーン楽友協会を取材したおりに、わかったことは、あの黄金のホールをとりしきっている会長は、第2次世界大戦の頃、ウィーンがナチスドイツと併合されていたころからずっと、楽友協会を牛耳ってきた女史。ファシズムと親しかった女性の館長の下、取材にはきわめて非協力的で、保守的で、まったくとりつくしまもありませんでした。
ウィーンのシェーンブルン宮殿で一般の老人夫婦が写真を撮っていたので、記念写真をとってあげましょうか? と聞いたらにべもなく、拒絶された。まるで、自分のテリトリーにむやみに立ち入ることを拒んでいるようでした。
ぼくが、感じた1991年のウィーンは、オーストリア社会党のちの社会民主党のフランツ・ヴラニツキーが、国民党との連立を組み、政権を担っていたが、ウィーン人にしてみると、みるべき政策もなく、デモも頻発していていました。
ウィーンの国立歌劇場にも行きました。ウィーンの駐車事情は極度に悪く、国立歌劇場近くの駐車場は、ことごとく満車で、街のパーキングというパーキングに、車がこれはどうやったら、発車できるんだろうとばかり、無理矢理に駐車がめだった。1時間ほど駐車場を探した挙げ句、入場ができました。
オペラでは、ムソグルスキーの『ホヴァンスティナ』を観ました。当時、音楽監督だった指揮者クラウディオ・アバドによる発掘で、復活上演されていた。1階の平土間席に陣取りましたが、取材目的で、当然のように、大事な取材道具の入ったかばんを、クロークに預けることなく、もって席に着いていました。
隣の過度に太った30代と思われる夫婦は、ボクの席を通って通路に出るときに、わざと、ぼくのかばんを踏みつけて通った。つまり、ボクが、かばんをクロークに預けもしないで、観劇するなんて、田舎者のするものだといわんばかりで、非常に自分自身のことを考えてばかり居て、冷酷な仕打ち、それが現実だった。オペラ観劇後のレストラン事情も決して恵まれては居ませんでした。終演が23時で、まだ近くでオープンしているレストランは非常に寒々としていました。注文した豆のスープは塩辛くてとても美味しいものではありませんでした。
通訳に雇用した日本人女性は、ウィーンにバイオリン留学にきたものの、すでに音楽にはなんらかの理由で、挫折を味わい、今は通訳のような仕事をしていた様子でしたが、これが、ウィーン人よりさらに、保守的で、頑迷で保守的なところは、日本語で通訳しながらも、自分に言い聞かせているようなところがあって、しかもギャランティーはしっかりと高額でした。ウィーン在住の日本人音楽評論家にも会った。彼もまた日本語でもって、ウィーン人のようにコンサーヴァティブそのものだった、これは想像の域を出ないが、こうした留学生のなれの果てのような日本人が、ウィーンには多くいて、それぞれが苦しい生活をしているようだった。あまりよい印象はもっていない。
1989年のベルリンの壁崩壊直後で、社会主義諸国の社会主義の崩壊があったとはいえ、オーストリアは、大きな誇れる産業もなく、地理的には、社会主義国の隣国、黄昏の西ヨーロッパの果てであり、自分たちが保守的に生きていくために、静かに質素に、他人の目に注意を向けながら、日々を暮らして、何もしないようにしようと思うしかないといった、きわめて保守的な空気感でした。
4月の終わりだというのに、吐く息は白く、なにか寒々しい感じがしました。
とてもボクが考えてきた往年のウィーンではないというのが第一印象だった。
ボクの思っているウィーンに対する甘いイメージは大きくひっくり返されてしまった。正直なところ興ざめでした。
ボクは、一番の取材目的である、ウィーン室内合奏団の録音場所であるカジノツェーゲルニッツに向かいました。朽ち果てたような古いホテル。入り口に、何もすることのない男達がたむろしていました。「ここに録音場所があるのか?」と聞くと、「知らない、そういえば、裏の方にあったかも」と、きわめて非協力的だった。裏に回ると、同じく朽ち果てたような昔は豪奢だった面影が、天井からさがったシャンデリアの電灯光が、漏れてきました。
日本のようにモーツァルト・イヤーの本場だとお祭りを想像していた雑誌記者は、そのあまりにも安易な日本的な考えにすっかりと困ってしまいました。
ボクは、ベルナルト・ベルトルッチ監督(代表作「ラスト・エンペラー」)のイタリア映画『暗殺の森』(1970年イタリア・フランス・ドイツ合作)を思い出していました。舞台は、大戦中のイタリアとフランス、撮影は名匠ヴィットリオ・ストラーロの暗い青がかった空気感のもとで、主人公役のジャンルイ・トランティニアンが殺し屋の映画だ。ウィーンとは違うけれど、世紀末的な色合い漂う、冷酷なまでの頽廃感が似ていると、思っていました。
ウィーン室内合奏団の話は次回へ・・・・つづきます。
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トルコ音楽に魅せられて
2017 JAN 14 5:05:11 am by 野村 和寿
モーツァルト(1756—91年)やベートーヴェン(1770-1827年)の時代、オーストリア(ハプスブルク君主国)ウィーンでは、トルコへの関心が高まっていました。
ベートーヴェンの時代(1792−1827年・彼の人生の後半の35年間にあたります)はオスマントルコが、ウィーン(ハプスブルク君主国の首都)を包囲して100年程度しか経っていません。
オスマントルコとオーストリア(当時のハプスブルク君主国)の戦争は、墺土戦争(Austro-Turkish War, 1716ー1718年)と呼ばれる。18世紀にオーストリア(ハプスブルク君主国)とオスマン帝国が東ヨーロッパ・バルカン半島のセルビアを主戦場として衝突した戦争でした。
異民族への関心は、今の日本語でいえば、民衆のレベルでは、エスニックなものへの関心ということであり、あるいはエキゾチシズム、夢の王国としての異国への憧憬の表現でもあります。モーツァルトやベートーヴェンに、当時のウィーンで日常的であったはずの「ヤニチャール音楽」をあえて「トルコ風」というところに、フォルクローレとエスニシティ(エキゾチシズム)に対するウィーン古典派の音楽との差異を鋭敏に感じ取ったことを発見するのです。
ベートーヴェンの第九交響曲の第4楽章で、テナー・ソロがトルコマーチ(アラ・マルチャ)にのって、歌うのは、その歌詞がまさに異教的で、ギリシャ神話を連想させるからにほかなりません。
そこで、まずは、本家本元のオスマントルコの軍楽隊の音楽を御紹介します。これは、トルコ・イスタンブールにある軍事博物館で午後2時から毎日演奏されています。曲名は「オスマントルコ 軍楽隊 オスマンの響き 古い陸軍行進曲 ジェッディン・デデン 祖先も祖父も」です。
この曲が有名になったのは、NHKで放送された向田邦子の『阿修羅のごとく』(1979−80年 演出和田勉 出演加藤治子、八千草薫、いしだあゆみ 佐分利信)というテレビドラマで最初に流れた音楽になってからです。耳をつんざくチャルメラの一種ズルナ、太鼓ダウル、ラッパ=ボル、シンバル=ズィル、そして、日本の山伏が修行の際に用いる音の鳴る杖=チェブギャーン、この強烈な音楽は、さぞや敵国を圧倒したことでしょう。圧倒したついでに、ベートーヴェンやモーツァルトの心もわしづかみにしたはずです。
ベートーヴェンが、トルコの音楽に触発されて作曲したとされるトルコ行進曲は、もともと、劇音楽 アテネの廃墟の第5曲に登場します。
ピアノで演奏される版は、後にピアノ用に編曲されたものです。
まずは、 ベートーヴェン「トルコ行進曲」オーケストラ版
劇音楽 「アテネの廃墟」より第5曲
演奏はユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団の演奏です。
同 ピアノ版 アントン・ルービンシュタイン
(チャイコフスキーと同じ頃のロシアのピアニスト)編曲
エフゲニ・キーシン(ピアノ)BBCプロムスより
次はモーツァルトです。ベートーヴェンがまじめに、トルコ音楽を踏襲したのにくらべると、モーツァルトのは、機知に溢れてとてもかわいくて、いたずらっ子なところがあります。
モーツァルト 「ピアノソナタ第11番」から「トルコ行進曲」 ラン・ランのピアノ独奏です。
https://youtu.be/uWYmUZTYE78
さらにモーツァルトは、明らかに、歌劇「後宮からの誘拐」‘または「後宮への逃走」1782年作曲)というトルコを思わせる某国でのお話をオペラにしました。冒頭に演奏される序曲も、最初からトルコの香りがいっぱいに漂ってきます。恋人コンスタンツェを某国(トルコ)から救い出すという話です。
モーツァルト 歌劇『後宮からの誘拐』序曲K.384
ファビオ・ルイージ指揮ウィーン交響楽団 2006年日本ツアーのときの演奏です。
さらにモーツァルトには、トルコ風と題されたバイオリン協奏曲第5番があります。
第3楽章(ユーチューブの演奏では全部で29:05のうちの、20:13から)は、フランスの舞曲風に始まるのですが、22:17から、これがまったく肌合いの違うトルコ音楽になります。とくに24:10からは顕著で、まさに、トルコの軍楽隊のようなあらあらしい変奏があって、優雅から粗暴へと、モーツァルトはここでも遊んでいます。
モーツァルト バイオリン協奏曲第5番 ヒラリー・ハーン(バイオリン)
パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルハーモニー 2012年12月4-5日ドイツ・ブレーメン録音
最後は再びベートーヴェンです。ベートーヴェンは、あまり宗教的な人でなかったので、むしろ、ギリシャやトルコなどに興味をもっていたようです。第九のフィナーレで、テノールのソロが歌うところは、まさにトルコ行進曲の歓喜への行進です。楽譜にも、「アラ・マルチア(行進曲風)と記されています。
ベートーヴェン『第九交響曲』第4楽章から「アラ・マルチア」
ヨーゼフ・クリップス指揮ロンドン交響楽団 全体は1:05:38ですが、該当部分は、51:09からにあります。
ソリストは、ジェニファー・ヴィヴィアン(ソプラノ)シャーリー・ヴァーレット(メゾ・ソプラノ)ルドルフ・ペトラーク(テノール)ドナルド・ベル(バリトン)BBC合唱団レスリー・ウッドゲート(合唱指揮)
録音時期:1960年1月録音場所:ロンドン、ウォルサムストウ・アセンブリー・ホール 録音当時最新鋭を誇ったアメリカのエヴェレスト・レーベル35㎜磁気フィルムに記録・収録されています。
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「ホルン信号」と「ポストホルン」とは別?
2017 JAN 12 3:03:43 am by 野村 和寿
ボクは敬愛してやまない作曲家である、ハイドンと、モーツァルトに、この何十年ものあいだ、とんだ勘違いをしていました。とても些細なというかトリビアな話題なのですが、ハイドンの交響曲やモーツァルトのセレナーデのことです。 ハイドンの交響曲第31番は、副タイトルに、「ホルン信号(英語では、Horn signal)」というのが付いており、モーツァルトのセレナーデに「ポストホルン」というのがあるのです。ぼくは、白状してしまいますが、これをまったく逆に、あるいは混同して理解していました。 大学のオーケストラのホルンの名手 T先輩に指摘されて、もう何十年ぶりかで理解を改めることが出来ました。
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809年)は、少なくとも104曲以上の交響曲を作曲したことから「交響曲の父」と呼ばれますが、なかでも交響曲第31番は、副タイトルが、「ホルン信号」と呼ばれています。 なぜ、ホルン信号と呼ばれるのか? なぜ、ハイドンはこんな名前の交響曲を作曲したのか? 当時、伺候していたハプスブルク家(後にオーストリア=ハンガリー帝国)のアイゼンシュタットにあるエステルハージ宮(水晶の館と呼ばれます)で、1756年から1790年まで、1796年から1809年までと、なんと都合47年間も、お抱えの作曲家だったハイドンが、日々の宮廷生活からヒントを得て、交響曲に生かしていったといってもおかしくはありません。
ホルン信号を発するのは、「コルノ・ダ・カッチャ(直訳すると狩猟用の角笛)」と呼ばれる楽器でした。 この楽器は、通常、貴族たちの狩のときに、狩りをする人々の相互の連絡用として、鳴らされ、重宝されてきました。なにしろ、狩猟ですから、鉄砲を使うわけで。誤って別の貴族を撃ってはならないわけです。しかも、多くの狩猟犬をかかえているので、合図が聴こえるように、コルノ・ダ・カッチャは用いられました。 しかし、まだまだ音楽用に使える程度ではなかったので、これをもとにして、音楽用に改造されて完成したのが、ナチュラルホルンです。
ナチュラルホルンは、さらに進化して、現在の、フレンチホルンへと発展を遂げます。ナチュラルホルンは、今のフレンチホルンと外見は似ているものの、ピストンやロータリーがなく、音は基本的に倍音といって、音の系列が同じ音だけを出すのが基本的です。
ただ、技が6種類あって、音の吹き出し口を右手で、押さえ方を微妙に調整することで、なにもピストンなしでも、ドレミファの音階が出せるのでした。もちろん、演奏は難しいのですが、名手の手にかかれば、できないことでもない。 そして、ナチュラルホルンは、ごく弱いピアニシモから、強いフォルテシモに至るまで表現力が豊かなのです。それで、現代に甦った古楽器を使った演奏団体では、往々にして、昔のナチュラルホルンの柔らかな音色を生かして演奏するということまで行われています。
クリストファー・ホグウッド(1941-2014年)指揮エンシェント室内管弦楽団の演奏です。 https://youtu.be/H30PPIqVsSU
一方、モーツァルト(1756-1791年)のセレナーデ第9番「ポストホルン」に使われている、ポストホルンという楽器は、名前は似ているのですが、こちらはいわゆる喇叭(ラッパ族)の仲間です。郵便馬車に分乗して旅を続け、生涯のうちで、その3分の1を旅に費やしたといわれるモーツァルトが、いつもお世話になっている郵便馬車の警笛がわりのポストホルンに着目したとしても不思議はありません。モーツァルトは、貴族たちの前で宴会の世界で入場と退場の音楽を前と後につけたセレナードを作曲しました。この1779年モーツァルト22歳のときの、セレナーデ第9番K.320もそのうちの1曲で、特に第6楽章には、ポストホルンによるソロがあります。このユーチューブ映像ですと、曲のはじめからですと41:36から43:10の間になります。ポストホルンが、トランペット奏者によって、煌びやかに、高らかに鳴らされています。 宴会の音楽でも手を抜かないどころか、どこまでも典雅でしかも、清涼感あふれるところが、モーツァルトのモーツァルトゆえんたるところです。
ニコラウス・アーノンクール(1953-2016年)指揮ドレスデン国立歌劇場管弦楽団の演奏です。 https://youtu.be/tIVqr2xqzAk
なお、ベートーヴェン(1770-1827年)も交響曲第8番第3楽章で、ポストホルンを思わせる音楽を作曲しています。 1812年夏、ベートーヴェンも、「不滅の恋人」といわれるブレンターノ嬢(が有力とされる)と会ったとされる、チェコの温泉地カールズバードを訪れていますが、そんなときに郵便馬車を利用しているのです。モーツァルトと違ってこちらも、郵便馬車の和やかな馬車の揺れのような感じを音楽で表現しています。第3楽章は全体で、5:57ありますが、このうち、2:49から4:22までのところが、郵便馬車からベートーヴェンがヒントを得て作曲したといわれている部分になります。ただし、ベートーヴェンの場合は、それを、ポストホルンでなくて、ホルン(ナチュラルホルンや、現在のフレンチホルン)で演奏しています。このあたりが、混同を招くところの原因のような気もします。
オット-・クレンペラー(1885-1973年)指揮ニューフィルハーモニア管弦楽団の演奏です。
まとめです。ホルンという名前でも、ホルンの系統のナチュラルホルン(ハイドン交響曲31番) 現在のフレンチホルンがある。またトランペットの系統のポストホルン(モーツァルトセレナーデ第9番第6楽章)もあり、こちらは、通常ホルン奏者でなく、トランペット奏者が演奏することが多い。さらに、ポストホルンを模したベートーヴェン交響曲第8番第3楽章は、ナチュラルホルン、あるいは現在ではフレンチホルンで演奏される。
*本稿と直接関係ないのですが、ハイドンの交響曲第31番は、まだまだ、交響曲が定型になる前の作品であり、ホルン信号以外にも、オーケストラのほか、ソロ・バイオリン、ソロ・チェロ(ブログ上の楽譜の写真右)、そしてなんとソロ・コントラバスまでが登場してとてもユニークな音色が楽しめます。
*郵便馬車のことを、音楽書でみると、必ずといってよいほど「当時の未舗装の道路を郵便馬車でいくのは、現在の道路とは比べものにならないくらい大変だったろう」という文をみかけます。ところが、ウィーンで実際に当時の馬車をみかけ、乗車したときは、ウィーンの中心部が石畳であったこともありますが、実にクッションがきいていて、快適でした。18世紀に入るとドイツでは、市民階級をも巻き込んだ国際的な観光ブームがおこっていたそうで、1790年から1810年にかけて旅行手引き書がヨーロッパで300点も出版されています。たとえば、時代は若干さかのぼりますが、アドルフ・クニッゲ(Adolph Knigge 1752-96年)というドイツの作家による「ブラウンシュヴァイクへの旅」などという18世紀の旅行ブームの火付け役になった本も出版されています。音楽書だけでなく人間科学の分野の本も参考にすると、驚くほど違った光景が見られる一例です。(参考:東洋大学人間科学研究所紀要2008年8号)
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チェロという楽器をご存じでしょうか
2017 JAN 11 6:06:02 am by 野村 和寿
チェロという楽器をご存知でしょうか。
2010年と2016年の2回、ベートーヴェンの第九交響曲を、母校早稲田大学のOBのオーケストラで演奏する機会がありました。ちなみに、演奏団体は、早稲田でオーケストラを共にした50歳以上のメンバーのオーケストラです。
平均年齢はなんと67歳くらいで、ボクなど一番若いひよっこの部類に入っていました。
ベートーヴェンの第九交響曲は、この世の混沌を表すような、弓の先で聴こえるか聴こえないかわからないくらいに、極小さく第1楽章が始まります。常に冷静に音の出るコンマ何秒か前に指揮者からくる指示と、楽譜に書かれた旋律の速度やニュアンスの指示を読み取り、右手で弓に伝え、左手の音程で瞬時に音に変えていくという作業を続けます。
第4楽章! 冒頭は、低音を担当するチェロのまさに「世紀の見せ場」です。満場の聴衆が固唾をのむ中、歌舞伎役者が見得を切るように、対話が始まります。「ここまでの音楽では『歓喜』は来ない」と、今までの旋律をことごとく否定するのがチェロの役です。満場の聴衆がチェロの動きを注視しているのが分かります。到達する「歓喜の歌」の最初は、小さく弾く必要があり、過度に気持ちの高ぶりを抑え、音が上滑りにならぬよう必死で押さえながら、楽器が一番いい音で鳴るように制御します。チェロで弾かれる朗々と歌う旋律が、満場の観客の注視の中で静かに流れます。合唱が入ってきました。オーケストラの伴奏で、合唱が絶叫します。オケと合唱の約400名が1つになり、「歓喜の歌」を高らかに歌い全力で疾走します。第9を弾くときは人生で何度かしか味わえない満ち足りた時間が過ぎていき、不思議な高揚感で至福なときです。チェロとともに生きる実感を持てるのです。
今回の演奏で、気がついたことは、第1楽章で登場する、付点音符がついた音の形(ター ンタタタタン)が、第4楽章の最後の最後で、同じようなところにつながっていること。つまり、あの第九の緊迫感は、最初から最後まで一貫していたことにきがつかされました。やはり、ベートーヴェンは演奏のたびに、新たな発見があるものです。
早稲田大学2016フロイデメモリアル演奏会の演奏風景です。ほんの少しですがお裾分けです。
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赤とんぼとシューマン
2017 JAN 8 5:05:06 am by 野村 和寿
前回のボクのブログで、「夕焼け小焼け」を御紹介しましたが、もうひとつの
「夕焼け・・・」ではじまる童謡「ゆうやーけこやけーの あかとんぼ」。そうです。今回は「赤とんぼ」を中心として、シューマンとの関係を語りたいと思います。ボクは長い間、「夕焼け小焼け」と「赤とんぼ」とを混同して疑いませんでした。申し訳ないです。
「赤とんぼ」は、1921(大正10)年に雑誌「眞珠島」に掲載された三木露風の詞を元に、山田耕筰が1927年に作曲した童謡です。
赤とんぼ(作詞:三木露風、作曲:山田耕筰 1927年)
1, 夕焼け小焼けの 赤とんぼ 負われて見たのは いつのひか
2, 山の畑の 桑の実を 小籠(おかご)に摘んだは、まぼろしか。
3, 十五で姐(ねえ)やは嫁にいき お里のたよりも 絶えはてた
4, 夕焼け小焼けの 赤とんぼ とまっているよ 竿の先
赤とんぼ 由紀さおり 安田祥子(うた)
シューマンの「ピアノとオーケストラのための序奏とアレグロ・アパショナート ト長調 作品54」を聴いてみますと、少なくとも、ボクの聴いた限りでも、
全体の演奏時間13:48のなかでも、2:53、3:06,3:15、4:48、5:47、5:56,7:35,10:31、10:43に山田耕筰の「赤とんぼ」中の「ゆうやーけこやけーの」のメロディーと、瓜二つの部分が登場してきます。
まずは、お時間があれば、この映像で聴いてみてくださいませ。
シューマン ピアノと管弦楽のための序奏と協奏的アレグロ op134
アンジェラ・ヒューイット(ピアノ独奏)、アンドリュー・マンツェ指揮BBC交響楽団 2011年プロムス 8月14日Prom48 Brahms&Schumann ロイヤル・アルバートホールでの演奏です。
よりその部分だけの抜き出した映像もありました。
1981年(昭和56)年4月12日付けの夕刊フジ紙に、作家の吉行淳之介氏(1924大正13年−1994平成6年)が発表した見出し「赤とんぼ・・・シューマンから飛び出した!!ピアノと管弦楽作品聞いていた そっくり旋律18回も」とまるで、スクープ記事のような大見出しの記事を掲載しました。
この夕刊フジの記事の元ネタはの文藝春秋の昭和56年(1981年)9月号に吉行淳之介の寄稿したエッセイからきています。
ボクがシューマンの「ピアノとオーケストラのための序奏とアレグロ・アパショナート」のなかで、数えて「赤とんぼ」のメロディーだと思ったのは9回でしたが、上記記事では18回とありました。
この記事以前にも1963(昭和36)年に石原慎太郎氏がドイツの友人から聞いた話として、ある雑誌で「ドイツの古い民謡だ」と発表し、当時存命中だった山田耕筰の猛抗議をうけています。
▇ボクの推理
山田耕筰(1886明治19年〜1965昭和40年)は、1910(明治45)年から1914(大正3)年にかけて、ドイツ・ベルリン(当時のプロイセン王国)の王立アカデミーに留学して、作曲家マックス・ブルッフ(1838−1920年 チェロの名曲「コール・ニドライ」の作曲者で有名)に師事しています。留学中に日本初の交響曲「勝ちどきの平和」を作曲したりしています。
彼が帰朝後「赤とんぼ」をスケッチして作曲したのは1927(昭和2)年です。
いっぽう、ロベルト・シューマン(1810〜1856年)が、本曲を作曲したのは1849年のことです。
山田耕筰が、ベルリン留学中にシューマンの「ピアノとオーケストラのための序奏とアレグロ・アパショナート ト長調 作品54」を演奏会で聴いたことは、十分にありえるのです。
ボクは、シューマンはドイツの古い民謡からメロディーを採った→山田耕筰はそのシューマンからメロディーを採って「赤とんぼ」を作曲したのではないかと思います。ただ、クラシックの世界では、別の作曲家のメロディーを、ほかの作曲家が、本歌取りするという例はほかにもたくさんあり、それが、悪いといっているのではなくて、クラシック音楽というのは長い間、メロディーをそうやって伝えてきたともボクは、考えています。
*ちなみに、以前「赤とんぼの謎」というCDがキングレコードから2004年に発売されたことがありました。今でも購入可能です。世界40カ国以上で歌われている「赤とんぼ」の謎について集めたテノール・ヘフリガー、バイオリン・カンポーリ、フルート・ランパルまで24種類の音源を集めたCDでした。
*ちなみに本題から外れますが、シューマンの映像中、ピアニスト・アンジェラ・ヒューイットが弾いているピアノは、ベーゼンドルファー、スタインウェイ、ヤマハといった大メーカーのピアノではなくて、イタリアのFazioliファツィオリというブランドのピアノです。1981年に出来たばかりの新進ですが、最近人気になってきました。音が柔らかで優しい音が特長です。
ピアノ工房はイタリア・ベニスから北へ60キロメートルのサチーレにあります。ご興味ある向きには下記をご覧くださいませ。
社史の映像はこちらから
社史はこちらから
工場ツアー映像はこちらから
*シューマンは音楽評論家もしていたので『音楽と音楽家』(岩波文庫青502 Ⅰ)という興味深い評論集が出ています。ちなみにこの評論集は、音楽評論家の吉田秀和氏(1913大正2年〜2012平成24年)が翻訳し、吉田氏の最初の著作で1941(昭和16)年2月に創元社から出版されました。なんと戦争の始まる年です。今も絶版にはならず刊行中です。非常に面白いです。
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プッチーニと「夕焼け小焼け」の関係
2017 JAN 7 8:08:43 am by 野村 和寿
ぼくはオペラを聴くときに、どうしても音楽、メロディーから先に聴いてしまい、ストーリーが後になってしまう傾向があるのですが、メロディーからときどき面白いことに気づかせられることがあります。プッチーニと日本の童謡で誰でもご存じの「夕焼け小焼け」について今回は述べることにします。
ジャコモ・プッチーニ(1858−1924年イタリア)
といえば、『マノン・レスコー』1893年作、『ラ・ボエーム』1896年作、『トスカ』1900年作、『マダム・バタフライ(蝶々夫人)』1904年作と、立て続けにヒット・オペラ作品を作曲していったが、『トゥーランドット』は、1924年11月彼の死によって未完に終わりました。このオペラを契機に、ロッシーニ、ヴェルディ、ドニゼッティ、レオンカヴァッロ、そしてプッチーニと続いたイタリアのグランド・オペラは一気に衰退していくことになるのですが。
『蝶々夫人』の作曲時に、日本から日本の歌謡の楽譜を大量に取り寄せたことはよく知られていて、「お江戸日本橋」のメロディーが、『蝶々夫人』の中に出てきたりします。
そして歌劇『トゥーランドット』を観ていると、どこかで聞き覚えのあるメロディーが聴こえてきます。そうです。これは童謡『夕焼け小焼け』(草川信作曲中村雨紅作詞1923年)の『やーまのおてらのかねがなる』の音楽部分に非常によく似ています。というよりもそっくり同じです。
この音楽は、プッチーニが、きっとまた、東洋を舞台にした、オペラを作曲するにあたって、中国も、日本も、東洋である一緒に考えていて、中国を舞台にしているのに、日本の「夕焼け小焼け」からメロディーを拝借したと考えてもおかしくないのではないかと思われます。
夕焼け小焼け 草川信作曲 中村雨紅作詞 1923年
1 夕やけこやけで 日が暮れて
山のお寺の 鐘がなる
お手々つないで みなかえろ
からすといっしょに かえりましょ
2 子供がかえった あとからは
まあるい大きな お月さま
小鳥が夢を 見るころは
空にはきらきら 金の星
DATA:プッチーニ(1858-1924年) 歌劇『トゥーランドット』(初演1925年)
1919年作曲にとりかかり、途中1921年から22年作曲が中段されるが、1923年作曲再開1924年11月29日プッチーニの死により未完におわる。アルファーノが補作し1925年4月ミラノ・スカラ座でトスカニーニの指揮により初演。
映像DATA:ジャコモ・プッチーニ 歌劇『トゥーランドット』
トゥーランドット:ガブリエレ・シュナウト
カラフ:ヨハン・ボータ
リュー:クリスティーナ・ガイヤルド=ドマス
ティムール:パータ・ブルチュラーゼ
ウィーン国立歌劇場合唱団テルツ少年合唱団
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:ワレリー・ゲルギエフ
演出:デイヴィッド・パウントニー
収録:2002年8月、ザルツブルク祝祭大劇場
今回は、よりプッチーニの意図に沿った形で、第3幕の悲劇のヒロイン「リューの死」以降をイタリアの現代音楽の作曲家ルチアーノ・ベリオが補作した版をお聴きください。
ぼくが、数えた中でも第1幕13:45 17:30、20:50、34:08 58:12 1:13:04,1:15:50
第3幕 1:31:18と、なんどもなんども・・・
「やーまのおてらのかねがなる」のメロディーが聴こえました。もしお時間があったら、ぜひ、「夕焼け小焼け」を念頭に入れて、このオペラを聴いてみると面白いと思います。
ベリオ補作版でさえも、これだけの「夕焼け小焼け」が出てくるのです。通常のアルファーノ補作版であれば、さらにエンディングにこれでもかと「夕焼け小焼け」がでてくると思います。
さらに調査を続行していくと、思わぬ事が分かってきました。
中国の古謡に「茉莉花(ジャスミン)」という曲があり、これを聴いていくと
まさに「夕焼け小焼け」の「やーまのおてらの」にそっくりなのです。この曲は清末から伝わっている曲だそうです。つまり年代から推定すると、「夕焼け小焼け」のほうが、中国の古謡から採っているのかもしれなません。あるいは偶然?
いやいやプッチーニは、日本のメロディー「夕焼け小焼け」から採っているのだとすると、こういう状況証拠もあります。
1900年オペラ『蝶々夫人』作曲時に、当時の在イタリア大使夫人 大山久子から、日本の音楽のレクチャーを受けてとあり、大山久子(大山巌大将の親族で長州藩出身 夫は薩摩藩出身)の紹介で、1902年には、海外公演中の日本の女優川上貞奴にもパリ万国博のときに会って、日本の音楽について取材もしています。そのときの印象があって、日本から新曲1922年作の「夕焼け小焼け」の楽譜を取り寄せたのかも知れません。
また、元に戻って、プッチーニの『トゥーランドット』は、ぼくの頭の中では、いまだに「夕焼け小焼け」で鳴っているのです。
「トゥーランドット」というと、ついつい、「ネッスン・ドルマ[誰も寝てはならぬ]が有名でそこばかりが、クローズアップされがちですが、オペラの楽しみはそれだけではありません。すこしでもオペラを知って欲しいと思いまして書いてみました。
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成瀬巳喜男の『銀座化粧』を観る
2017 JAN 6 2:02:28 am by 野村 和寿
小津安二郎(1903-1963年)と並んで、昭和の名匠の一人に、成瀬巳喜男(1905-1969年)がいます。小津が、ノーブルな古くからの伝統的な肌合いを求めたのに対し、成瀬は、登場人物1人1人の個性に優しい眼差しで臨んだ監督であるとボクは思っています。ストーリーだけに終わる現代の映画とはずいぶん違います。まずは、全体の感じ、雰囲気こそ大事という姿勢なのです。
『銀座化粧』は、昭和26年に成瀬が新東宝で撮ったわずか87分の佳作です。ボクは、一度観たときは、いったいどこが面白いのか皆目見当が付きませんでした。その主たる理由は、公開当時の昭和26年頃の銀座の風俗があまりにも今とかけ離れていて、別世界の出来事のようでシンパシイが湧かずじまいだったこと、そしてなんのストーリーもないという、普段はどうしてもストーリーを追いかけている我が身にとっては、まことにつらい映画だったのですが、再見するにおよび、随分と感じ方が異なりました。この映画を好きになっていく自分がいました。
本作には、とにかくたくさんの子どもたちが登場します。チンドン屋や、紙芝居屋に群がる子どもたち、歌いながら登校する通学途上の子どもたち、バーにやってくる美空ひばりのような子役歌手、花売りの少女、その数は、ベビー・ブーマー正にそのもので、今よりも子どもの数がずっと多く、街のあちこちで子どもを見かけることができます。
銀座の近く、今の中央区新富町と思われる、湾岸沿いには、遠くに聖路加病院の教会堂の塔がみられ、子どもたちの遊び場である空き地がたくさんあり、台場への漁も行われていました。子どもたちはどのシーンでもみんな元気で、けなげで素直なのです。
主人公津路雪子(田中絹代)の息子春雄(子役・西久保好汎)も、明日、上野動物園に連れて行ってもらえる約束を反故にされたり、無断で、お台場へ漁師にくっついて、魚をもらってきて、親の雪子をはじめ周囲の大人たちを心配させたりします。しかし夜母親が不在でも自分で自分の布団を敷いて就寝するといういい子でもあります。
津路雪子は、今で言えばシングル・マザーの走りであり、小学生の男の子を細腕一本で養う為に、銀座のバー・ベラミで夜、女給をしています。
女給にとって、本来、子どもは足手まといな存在なのですが、その子どもの視点で、大人をみつめ、しまいには、人間というものは、大人も子どもも、たくさんの人々の一員として、大事な存在なんだと観客に気づかせてくれるのです。
銀座のバー・ベラミは、昭和17、8年からこの場所にあった場末のバーです。女給たちの間での客の飲み代の踏み倒し、女給たちの客への小さな嘘、バーの身売り話、借金の用立てをする話、客の下手な歌を延々と聴かせられる話など、その一つ一つは実に細々としたごくごく普通のエピソードに過ぎません。
年増の女給・雪子は、年の頃なら40歳くらいの設定です。つきあっていた情夫が、雪子に子どもができたことで、冷たくなり、今は、新富町の長唄の師匠宅の2階で母子二人で借家暮らしをしています。既に落ちぶれた元の情夫・藤村(三島雅夫)はときどき金の無心に、雪子の元へとやってきます。さらにまだ若い女給・京子(香川京子)も2階に同居しています。
大家の長唄の師匠の亭主は競輪に夢中ですってばかりいましたが、一度だけ大穴をあてます。そんな日もあるのです。
当時の銀座のバーの女給といっても、春を鬻(ひさ)ぐなどということは一切なく、自分の身を大切にし、身を売るなどということは良しとせず、囲われ女の口もくるにはくるのですが、決然として、自分の女としての矜持と誇りとをもって銀座に生きているのです。
地方の素封家の次男坊で、独身の測候所に勤務する青年・石川京助(堀雄二)が、上京してきて、わけあって、替わりに、田中絹代が東京案内をすることになります。青年の役は、後年、TBSテレビの「7人の刑事」の捜査一課長役だった役者の若き日の姿です。雪子は、学究肌の石川青年を上野動物園や、銀座通りを案内するのですが、通りかかった自分が女給をしているバー・ベラミが、フランスのモー・パッサンの同名小説の主人公の名前(美しい男友達といのが原意)だということを初めて聞かされます。純粋な石川青年に少し心ときめく雪子でしたが。子どもが行方不明になったおかげで、新橋演舞場に石川を連れて行けなくなり、さらに替わりに案内を、若い女給・京子(香川京子)に任せます。若い青年男女は、ギリシャ神話の星座の話など、星空の話で盛り上がります。若い石川と京子が意気投合するのに時間はかかりませんでした。
二人は意気投合し、恋仲となり、あえなく雪子は元の生活へ。
雪子の息子も台場への漁に行っていた船にのせてもらっていたとかで、無事雪子の元へ。そして、また普通の生活が始まります。
銀座に暮らす有象無象の人々、銀座には、多くの人間が生計をたてており、その生活そのものは、極く些細なことの積み重ねに過ぎません。それは、ちょうど、幾百万のごく弱い光しか放たない星たちが、夜空にはたくさんあるかのように。
情夫の藤村は自分の子である春雄に小遣いをあげようとして、三つ揃えの背広のポケットをあちこちまさぐりますが、手持ちは小銭さえもありません。あきらめて、去って行くのがラストです。
▇もしも、本作品をのぞいてみたくなりましたら、下記よりYou Tubeで、本編を観ることが可能です。
『銀座化粧』その1 本編映像その1はこちらから
『銀座化粧』その2 本編映像その2はこちらから
ストーリーを追うのではなく、一人一人の心情にスポットを当て、淡々と始まり淡々と終わる。そんな成瀬巳喜男の世界を垣間見ることが出来ます。小津映画のように上流社会の人間は一人も出てこないけれど、しっかりと身を寄せ合って雄々しく生きているのです。こんな映画があったのです。本作品は、2013年3月末に閉館した映画館・銀座シネパトスの最終上映作品でもありました。
▇『銀座化粧』監督 成瀬巳喜男 出演 田中絹代 香川京子 堀雄二 東野英治郎 三島雅夫 新東宝 1951年公開
▇成瀬巳喜男(1905−1969年)
プロフィール 1920年松竹大船撮影所入所、小道具係を皮切りに映画生活をスタートさせる。五所平之助監督に師事1930年監督デビュー、戦後東宝に移籍。東宝争議でフリーとなり、東宝、新東宝、大映、松竹で監督。代表作は『めし』(原節子1951年東宝)、浮き雲(高峰秀子 1955年東宝)、死後、スイスロカルノ映画祭での特別上映を機に一躍名声が世界的になる。
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