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第1次大戦を考える その3 ー将軍達は止まらないー

2015 FEB 2 12:12:57 pm by 中村 順一

大衆は戦争を望んだのだが、各国の軍隊はどうだったのだろうか。

どこの国でも将軍や参謀たちは極めて職業熱心で、まだ動員令など出ていないのに、その準備をし、それが実際に動員したのと同じ効果をもたらしてしまった。皇帝や政府首脳が動員への疑義を表明しても、彼らは、専門的、技術的理由を挙げて服従せず、ドイツとロシアの皇帝が戦争を止めようとして、平和的な電報を交換している最中にも、実質的な動員は続いていくという、訳のわからない状態だった。

まずひどいのは、オーストリアの外相ベルヒトルトである。彼は参謀総長のコンラートと示し合わせてオーストリア軍の動員令を出した。ベルヒトルトは開戦を渋る皇帝を欺くために、セルビア軍が既にオーストリア軍を攻撃中だという虚偽の報告までしている。その後オーストリアは7月25 日にセルビアに対して、国交断絶、28日には宣戦布告まで突っ走ってしまう。これがサラエボ事件に次ぐ、第1次大戦の第2の引き金である。ベルヒトルトは参謀総長のコンラートとは相談していた。しかし、オーストリア軍が戦争準備が出来ていた、とはとても思えず、この時点では単なる恐喝外交に過ぎない。実際に開戦してみると、お粗末にもオーストリア軍はセルビア軍に対してもロシア軍に対しても勝つことができなかった。

次のアクションはロシアである。7月後半にはフランス大統領ポアンカレがロシアを訪問したが、ポアンカレがロシアのクロンシュタット軍港を去ったとき、ニコライ2世は駐ロシア、フランス大使パレオログに対し、「大丈夫です。サラエボ事件は拡大しない。ヴィルヘルム2世はああ見えるが、実は慎重な男だし、フランツ・ヨゼフ皇帝は、もう静かに死にたいと思っているだけですよ。」と言っている。

しかし、友好国セルビアがオーストリアから宣戦布告を受けたのに、何もしない訳にはいかない。外相サゾノフは、オーストリアに対する部分動員(ドイツは対象とせず)という原案をまとめ、ニコライ2世に持ってきた。ニコライ2世は部分動員にも最初は反対だったが、この時ニコライ2世の頭を過ったのは1908年のいやな思い出だった。この年に、ロシアとオーストリア間には秘密協定があり、すなわちボスボラス海峡の自由航行権をロシアに認めるようにオーストリアがトルコに圧力をかける代わりに、ロシアはオーストリアのボスニア・ヘルツエゴビナ州の併合を認める、というものだったが、オーストリアはしゃあしゃあと約束を破り、勝手に両州の合併だけをやってしまった、という不愉快な思い出である。何もしない、というのはあまりにもオーストリアに弱気に過ぎる。ニコライ2世は部分動員に合意する。

ここで軍部が部分動員に大反対する。ヤヌシュケビッチ陸軍参謀総長は、部分動員すると、その後もし全面動員の判断になっても対応が著しく遅れ、取り返しのつかない不利を招くと主張したのである。確かに兵隊を運ぶ当時のロシアの鉄道は、柔軟に運用するほど整備されておらず、1回決めた作戦の根本的変更は不可能だった。ついに7月31日には総動員が下令された。これが第3の引き金になった。ニコライ2世は直ちにヴィルヘルム2世に電報を送り、”ロシアは軍を動員しても絶対にドイツをロシアからは攻撃しない”と通達した。すなわちロシアの総動員はまだ戦争開始を意図したものではなかった。筆者にはこの時のニコライ2世の対応が悔やまれる。ニコライ2世にはこの時、英、独、墺、露の4君主の中で最も権力が集中していたのである。彼が戦争を止めたければ止められた筈である。ニコライ2世は、唯一の公子アレクセイの血友病という難病で悩んでいた。唯でさえ弱い洞察力が益々弱くなっていた。先に軍部に相談していれば、総動員発令というドイツを極度に刺激する行動には至らなかったかも知れない。第1次大戦は結局ロシア革命に繋がり、彼及び彼の家族はボルシェビキにすべて殺された。

ドイツでは参謀総長小モルトケとファルケンハイン将軍が、ベートマン首相やヤコブ外相を無視して動員計画を進めていた。

当時の第1次大戦前のドイツ軍にはシュリーフェン・プランという基本作戦構想があった。これは1890年から1905年まで参謀総長を務めたシュリーフェン伯爵の構想である。シュリーフェンはドイツは結局は戦争、しかも2正面作戦を強いられるという強い観念に囚われていた。当時のドイツにはビスマルクのようなバランス感覚を持った政治家がすでに存在していなかった。ドイツの将来には極めて悲観的になっていたのである。ロシア・フランスとの戦争が避けられないのなら、まずはドイツから速攻し、全ドイツ陸軍の8分の7の大兵力をもって中立国ベルギーを通過して、防御の薄いフランス軍の左翼を突くことに全力を注ぐ。ロシア軍は動員に時間がかかるだろうから、東プロイセンに進撃してくるのには時間がかかるだろうし、進撃してきても当面は東部戦線は気にせず、ドイツ軍主力はひたすら北海沿岸地方まで進撃したのち、大迂回してパリとフランス中心部を攻撃する。これによって6週間以内にフランス軍を完璧に撃滅できるはずだから、その後、東部戦線に転じてロシア軍と対峙し、これを撃破するという構想である。

ヴィルヘルム2世はノルウェーの夏休みから帰ってきた。彼は事態の急展開に驚き、焦りだしていた。そして彼はシュリーフェン計画には懐疑的だった。この計画では、ベルギーの中立を犯すのが絶対条件になり、その結果、英国の参戦を招くのを恐れたのである(既述したように、実際にこれが英国参戦の原因になった)。彼は、まずロシアに全力を集中するように小モルトケ参謀総長に作戦計画の変更を迫った。しかし、小モルトケは、ドイツ軍の全計画はシュリーフェン・プランによって細部まで拘束されており、変更する時間的余裕はない、と断った。シュリーフェン・プランを前提とする限り、動員の1日の遅れは致命傷になり得たのである。ヴィルヘルム2世はヴィクトリア女王の孫であり、英国と戦争する気など最後までなかったのであるが、渋々それに従わざるを得なくなった。

7月31日にドイツはロシアに対し、12時間の期限付きの最後通牒を送った。これが最後の引き金である。8月1日にロシアが拒絶し、第1次大戦が開始された。8月2日にドイツ軍はルクセンブルク国境を越え、同時にベルギーに無害通行権を要求し、フランスにも宣戦布告した。これに対応して、英国は8月5日にドイツに対し、宣戦布告した。

第1次大戦の原因は外交交渉の失敗だが、誰も本気にしなかった全面戦争を現実にしたのは、結局最終的には、ロシア軍の動員に時間がかかる、という時間差にすべてを賭けた、無理な2正面作戦計画、シュリーフェン・プランに拘束されたドイツ参謀本部の硬直性である。ヴィルヘルム2世もこれを止められなかった。ニコライ2世とは戦争を望まない趣旨の電報を、最後の段階まで交信していたのであるが。彼は、軍人たちから自分の度胸のなさをバカにされるのを恐れていて、大戦の前途を展望して萎縮している様子は見せられない、と神経質になっていたという分析がある。ドイツは戦争目的がはっきりしないまま、戦争に突入してしまった。そして戦争期間中を通して、戦争目的に関して内部で論争が続いた。信じられない話である。

最も、戦勝国の間では、第2次大戦後の最近に至るまで、当時のドイツは国力や増加する人口に比して国土が狭く、特に東部ヨーロッパへの領土拡張を狙っていたのだとし、ドイツのその野望が第1次大戦を招いたのであり、それはその後のヒトラーの政策に通ずる、とする分析 (代表的な分析は”Germany’s Aims in the First World War”  By Frits Fischer) も多い。最近は時間も経過し、このドイツ悪玉論は主流ではなくなっている、と筆者には感じられるが。

実際の戦闘推移等、若干(詳しく述べるときりがない)次号で触れていく。

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