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素人音楽批評

2022 JUL 8 17:17:52 pm by 大武 和夫

またしても前回の投稿から随分月日が経ってしまいました。私としても想定外でした。

昨年、ある尊敬するアーティストとお話ししていて、当ブログに話が及び、ブログでは極力アーティストの悪口は書かないようにしています、と申しました。これに対し、そのアーティストは大略(=パラフレーズしています)、当然です、素人に根拠のない悪口を書かれるぐらいプロにとって迷惑なことはありません、そんなに批判するなら貴方演奏してみなさいよ、と言いたくなります、とおっしゃるのです。これは時折みかける演奏家側の反論ですが、そういって簡単に片づけられない重みがありました。当該アーティストの音楽の素晴らしさ、音楽に取り組む態度の真摯さ、そして音楽に関する限りご自分にも他人にも厳しく妥協を許さないその姿勢を熟知し、尊敬していたからです。

その会話に触発されて種々検索してみた私は、音楽の分野に限らず、匿名でなされるネガティブな批評に対する反感・憎悪の表明がいかに多いかを知りました。音楽関係者の投稿もありました。私の興味を引いたのはもちろん音楽関係者の投稿です。こっちは生活がかかっているんだ、匿名の批評なんてサイテーだぞ、ろくに音楽の分からない素人は黙っていろ、言いたいことがあるなら自分の日記に書け、公開するな!といった見解の表明です。

しかし、匿名と氏名公表の違いが問題である筈はありません。ネガティブな批評の内容や書きぶりが批評対象者から見て耐えがたいものであるが故の反論・批判なのですから、匿名かどうかは重要ではないでしょう。匿名批評はアマチュアの手になるものが多いという経験則に照らせば、匿名批評批判は、どうやら匿名性自体の批判ではなく、素人による批評に対する批判がその本質であるように見えます。つまり、匿名ネガティブ批評批判も、氏名を明らかにしたうえでのネガティブ批評の批判も、結局のところ、アマチュア批評批判に他ならないのではないか、ということです。

そのような匿名批評批判と尊敬する音楽家の批判に通底するのが、素人による批評に対する批判だとすると、これはなかなか根深い問題だぞと思われて、書きかけていた本ブログ投稿用原稿の筆がパタリと止まりました。

そして私は、いったい私のような素人にプロの音楽家の音楽作りをあれこれ言う資格などあるのだろうかと懊悩することになりました。もとより私の駄文は印象批評に過ぎず、誰の役にも立たない類のものです。それが、時としてプロの音楽家を傷付けることがあるのだとしたら、私にはそういう権利は無いな、と思ったのです。

しかし、時が経つにつれて、それは自分の投稿についての意識過剰のなせる業だと思うようになりました。世間の大多数の人々にとって私の印象批評のつぶやきなど、そもそも何の意味もありません。問題となるのは、批評の対象となった音楽家がたまたま私の文章を目にして不快な思いをしないかどうか、という点に限られるでしょう。(誰の目にも触れない媒体・・・例えば日記・・・に何を書こうが、それは基本的には言論の自由の行使として許されます。)しかし、明らかなアマチュアである私のネガティブ批評など、批評対象者であるプロの音楽家にとっては、著名評論家のネガティブな言辞に比べれば、おそらく取るに足りないものでしょう。もちろんこれは、公開に際して一定のエチケットを守り、過度に攻撃的な言辞を控え、素人である限界をわきまえた書きぶりに徹した場合の話です。実は、この最後の点こそ大切だというのが、私の結論の一部です。

それに、敢えて申せば、少なくとも日本には音楽専門教育を受けていないアマチュアの評論家は沢山います。文学部教授が文学から越境して音楽を論じる例、美術家が音楽とのコラボを通じて音楽の世界に足を踏み入れて音楽を論じるようになった例、更には一番多い例としては、マスコミ(新聞、雑誌、テレビ、ラジオ等々)で芸術関係担当部署に配属されたことから音楽批評に手を染めて評論家になった人達・・・。そういう人達に比べて、自分は一体何が劣っているのだ?という気持ちも、次第に湧いてきました。

ただただ本サイトの趣旨に則って、こういう人間がいてこういうことを感じ、表現していたという証を、未来へのタイムカプセルの内容として記録に残す、それだけを目指します。その過程で傷付かれる方がもしいらしたら、是非お知らせください。名誉にかけて誠実な対応をお約束します。

一つお約束します。知名度の高くない現役の方、特に若い方については、極力ネガティブなことは書かないようにします。これは、逆に、高名な方や物故者に対しては遠慮せずにネガティブなことも書かせて頂く、ということを意味します。また、自分に嘘は付きたくありませんから、若い方、知名度の低い方についてネガティブな感想を持った場合は、「君子危うきに近寄らず」で何も書かないことにします。

知名度が低い方、若い方について一言付言します。そういう方でも、プロの演奏家である以上ネガティブな評言に対する耐性は備えておくべきだし、ましてそれが私のような素人の手になるものであれば無視すれば良い、という考えもあり得ます。しかし、芸術家の感性は一般人には推し量りがたいものがあります。ネガティブな評言が対象者のアーティストとしてのその後の音楽人生に思わぬ負の影響を与えてしまう、という可能性は否定できません。他方で、名のある方であれば私ごときの印象批評に(もしそれが目に留まったとしても)いちいち反応されることなど無いでしょうし、プロとしての誇りや名声が私の文章によって傷付けられることなど無いでしょう。他のもっと遙かに有力な媒体に賛辞が溢れかえっているでしょうから(←そうでなければ高名になどなれません)。これが、高名な音楽家と知名度の低い音楽家を区別する理由です。合理性のある区別だと思っていただけるかどうか自信はありませんが、私自身はこの区別はなかなかのものではないかと気に入っています。ですから、もし将来、このブログで私がネガティブなことを書いたとしたら、その対象とされた音楽家の方は、地位を確立し名声を得ていることの証左だと思ってください。

寄り道が好きなのは私の悪癖ですが、ここで、ある演奏家にだけ罵詈雑言に近いネガティブ批評を浴びせ続けた批評家と、その対象とされた演奏家の組み合わせを、二組思い出しました。一つは、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンに寄稿した作曲家ヴァージル・トムソンとホロヴィッツ。もう一つはボストン・グローブに寄稿した評論家リチャード・ダイアーと小澤征爾。

トムソンについてはいろいろな本に引用されている批評を少し見ただけですが、要はホロヴィッツを歪曲の天才といい、自然なフレーズは一つも奏でられない、とこきおろすのが常だったようです。曲により、聴きようによって、ホロヴィッツの演奏がそのように聞こえることがあることは否定しません。この私ですら辟易する解釈も確かにあります。しかし、トムソンが批評家として公正でなかったのは、この評言をホロヴィッツのすべての演奏に当てはまるアプリオリな定義のようなものとして使用することで満足して、実際に鳴り響いている音を謙虚に耳を傾ける誠実さを欠いていたと思われる点です。トムソンが批評家として活躍していた40年代から50年代におけるホロヴィッツの実演に接した経験はもちろん私にはありませんが、その時期の録音を聴くだけでも、トムソンの頑ななネガティブ批評が全く当てはまらない例がいくつもあることは明らかです。つまり彼は、実際に鳴り響く音に誠実に向き合っていなかったということです。一種の知的怠惰、知的欺瞞ですね。日本にもかつて(今でも?)そういうステレオタイプのことしか言わない批評家は沢山いました。「さすがに本場の演奏」、「この指揮者らしくエネルギッシュな指揮ぶり」、「巨匠〇〇〇の薫陶を受けただけのことはある」等々、「本当にちゃんと聴いたの?」と思わせる例は枚挙に暇がありません。

ダイアーと小澤さんについても全く同じことが言えます。昔のことですが、ある時期にボストン響の定期会員だった私は、ダイアーによる批評の数々に辟易させられました。格別小澤さんのファンではない私も、小澤さんの演奏に感動したことは何度もあります。(当時が彼のピークだったかもしれません。小澤ファンの皆さん、ごめんなさい。)しかしダイアーは、どんな演奏であろうが悪口一辺倒。もはや個人攻撃レベルだとうんざりさせられたものです。日本にも、特定の演奏家が出てくると紋切型の攻撃を行う批評家が、かつては珍しくなかった(今でもいる?)ように思います。演奏家は、評論家が感性と知性を尽くして誠実に演奏に向き合い、ステレオタイプの言説に頼らず、その都度自分の言葉で批評を紡ぎ出してくれることを願っているに違いありません。そして、そのような知的誠実さに裏打ちされた批評であれば、仮にそれがネガティブであったとしても、演奏家には一つの反省材料として受け止めてもらえる可能性があると思います。

寄り道したのは、理由が無いわけではありません。プロの音楽家であろうがアマであろうが、職業評論家であろうが素人評論家であろうが、音楽について人に何かを伝えようとするときには、最低限、耳を開き、すべての先入観を棄て、虚心坦懐に音楽と接する、そしてそうして得られた感想や考えを、誠実さと謙虚さを以って表現しなければならないということを言いたかったのです。さらに、暴力的・攻撃的な言説を慎むことはもちろん、社会的規範の則(ノリ)を超えないよう努めることも重要でしょう。そのようなルールを自分に課したうえで、心覚えとしてこのブログという未来へのタイムカプセルに残すべく、自分にしか書けない駄文を自分の言葉で綴り続けよう、というのが私の結論です。

前置きが長くなりましたが、これからは以上に基づき、気持ちも新たに、頻繁に投稿しようと考えています。

さて、今回は、この一年余りの間に起きたことで、是非書きたかったことを、ごく簡単に箇条書きにします。次回以降展開する積もりはありません。

1. やはりオリンピックでの大迫選手は素晴らしかった。引退宣言が信じられませんでしたが、つい最近引退を撤回し、またレースに出始めたことは、嬉しい限りです。
2. 田中希美選手、三浦龍司選手、廣中りりか選手、橋岡優輝選手も、それぞれオリンピックでは見せましたね。先ごろの日本選手権でも皆大変良い成績で、今季の活躍が楽しみです。中でも私は三浦選手に心底惚れ込んでいます。あの伸びやかなストライドと圧倒的なラストスパートは、これまでの日本人選手には見られないものです。走りを見ていると心が伸びやかに解放される、そんな走りです。今後は是非10,000メートル経由でマラソンにまで挑戦して欲しいものです。また、故障中で日本選手権を辞退した不破聖衣来選手にも大いに期待しています。まだ若いのですから、まずはじっくり休んで故障を直してください。
3. やっぱり志ん朝は凄い! 久しぶりにDVDでいくつかの演目を鑑賞し、大笑いしつつ、あらためてその特別の才能に感銘を受けました。古い言葉で言えば、別格官幣社。なんというか、出てくるだけで寄席の空気ががらりと変わって、誰しもが期待に胸をときめかせて舞台に見入る、登場人物と一緒になって泣き笑う、そういう芸です。その空気がDVDでもよく分かります。今そんな落語家がいるでしょうか? その志ん朝を生で何度も聴けたのは、幸運だったという他ありません。大圓朝と志ん朝のどちらか一人が生き返っていま聴けるとしたら、どちらを選ぶか、なんて埒もないことを時折考えます。私なら断然志ん朝です。圓朝の偉大さ、その並外れた業績はよく知っていますが、何せ実演に触れたことがありません。私は談志が苦手で、談志命(いのち)という知人達(複数います。)と常に議論になるのですが、私にとって2人の差がどこから来るかは説明する必要すら感じないほどです。談志が理屈っぽいことを言うのも好きではありませんし、第一あのしわがれ声がいけません。何よりも品格を感じさせない。「業(ごう)」というような三文文士でも恥ずかしくて使えないような言葉で落語の本質を表現するのも、気恥ずかしくて嫌です。ああ上手いな、と思うこともあるのですけれどね。先日亡くなった小三治も無論良い噺家ではありましたが、志ん朝とは格が違います。自分の両親を除き、私がその死に最も大きな衝撃を受けたのは、ホロヴィッツ、リヒテル、志ん朝、クライバー、ヴァントの5人でした。5人とも逝去を知ったときには、宇宙が崩壊したような衝撃を受けたものです。圓朝忌(現名称は圓朝まつり)があるのなら、志ん朝忌があっても良いじゃないか、そう思えてなりません。尤も、落語協会での序列、比較的若年での他界、人間国宝にもならなかった、等々の諸事情がこれを許さないことはよく分かります。仕方ないので、私は10月1日になると、志ん朝を聴いては「一人志ん朝忌」としゃれこんでいます。
4. Rippleをご存じですか? このブログで以前にご紹介したピアニスト長尾洋史さんがお仲間と繰り広げる、小アンサンブルを中心とした音楽の饗宴です。午前中から夕方までの音楽三昧。昨年初めてお邪魔して、唖然としました。内容は一言ではとても言い表せません。長尾さんのなんでも弾けてしまう凄さと、抜群のアンサンブル能力、そして企画・運営能力の素晴らしさに圧倒されます。実は、今年のRipple(「Ripple14」 )がすぐそこに迫ってきています。日時は7月23日11時から。場所は代々木上原のムジカーザ。(詳細はどうぞググってお探しください。)御用とお急ぎでない向きは、是非お運びください。後悔されないことを保証します。
5. 昨年の草津国際音楽アカデミー&フェスティバルにおける岡田博美さんのアパッショナータの演奏は、本当に凄まじかった。冒頭のユニゾンから終結の破局まで、すべてが灼熱のアパッショナータ。端正な演奏が特徴とよく言われる岡田さんから、こんなに完全燃焼の超絶的大演奏を聴けたのは、久しぶりのように思います。以前のブログにも書きましたが、2年半前に初期のベートーヴェンを弾いて、あたかも後期のように「澄み切った」印象を与えて驚かせてくれた岡田さんが、今度は全く別の意味で私を驚かせました。草津といういささか地味なフェスティバルでの演奏である上に、聴衆の数も大したことはありませんでしたから、世間の注目度は低かったと思います。でも、この大演奏を聴けた聴衆は本当に幸せでした。これまでに聴いた数多の実演、録音を凌駕する至高の演奏だったと言って憚りません、リヒテルのいくつかの演奏にひけをとらない燃焼度の高さでありながら、ミスははるかに少なく(あったのかしら?)、あらゆる意味で超絶的な演奏でした。コーダではこちらの呼吸が止まりました。改めてピアニスト岡田博美に脱帽の一幕でした。
6. 能楽等の我が国伝統芸能について。一般社団法人日本芸術文化戦略機構という組織(英語名称の略称は「JACSO」)の顧問弁護士を務めるようになったことから、能楽、舞楽、雅楽、浄瑠璃等に親しむようになりました。JACSOは人間国宝をお二人、それに元文化庁長官お一人を加えたお三方を顧問にお願いしており、理事長は宝生流シテ方の重要無形文化財。これまで私にとって縁の無かった我が国伝統芸能・芸術を学ぶのに、願ってもない最高の環境を提供してくれています。そして、まだまだ初学者ですが、これらの芸能・芸術は相当面白い。演目によっては物凄く面白い。私にとっての重要性という点で、これらの諸芸能・芸術が西欧クラシック音楽にとって代わることはおそらくお今後も無いだろうと思いますが、それでも、つい2,3年前まで私にとってほぼ「ゼロ」であったジャンルが、みるみるうちにその存在意義を主張するようになり、私の意識の中で一定の、それもかなり大きな地位を占めるに至っているというのは、個人的には驚くべきことです。いや、素晴らしいことだと申しましょう。蒙を啓かれる心地良さと言ったらよいでしょうか。そして、その対象が啓蒙されるに値する価値を有するものだとの理解が徐々に進む、その嬉しさたるや。そうそう、望外の喜びは、つい最近熱海はMAO美術館の能楽堂で催されたアルゲリッチと能楽の共演。久々に彼女で聴くソロ(バッハのパルティータの2番)と、シテ方人間国宝による舞(創作)の共演。その舞の振り付け等を担当したのが我がJACSOの理事長で、彼が当日は解説も担当したことから、幸運にも鑑賞の機会を与えられました。アルゲリッチは実に神経の行き届いた共演ぶりで、改めて彼女を見直しました。ポリフォニーの彫の深さを求めなければ、ダンサブルという点を含めて、最高の演奏だったと思います。いや、舞との共演はダンサブルでなければなりませんから、彼女は敢えて峻厳なポリフォニー表現を控えたのかもしれません。彼女を聴いて時に不満に思う「上滑り」は微塵も見られず、年齢を考えると驚異的としか言えない鍵盤コントロール能力に賛嘆しつつ、豊かに流れる音楽と洗練の極みと言うべき舞のコンビネーションに身をゆだねる、至福の一時でした。驚いたことに、能楽堂を一杯にした聴衆は、終演後スタンディング・オーヴェイションを見せました。恐らく能楽ファンよりアルゲリッチ・ファンが多く詰めかけていたからだろうとは思いますが、それにしても能楽堂でスタンディング・オーヴェイションとは魂消ました。昔昔来日したジャン・コクトーが某能楽堂に連れて行かれて能楽を鑑賞し、あれ以上に退屈なものを知らないとこきおろしたという伝説(事実のようです。)があります。このエピソードに惑わされて能楽を敬遠してきたのは実に勿体なかったと、今にして思います。西洋音楽ファンの皆さんも、能楽堂を訪ねてごらんになってはいかがでしょうか。優れた能楽師の発声、優れた楽器演奏者(囃子方)の発する玄妙な音、そして所作の気韻の高さ。それらから学ぶものは少なくない筈です。(個人的には、JACSO理事長などは素晴らしいバリトン歌手になれただろうと思っているのですが、それはいかにも西洋音楽至上主義の発想だと反省する今日この頃です。)

まだまだあるのですが、このくらいにします。次回からは、気持ちも新たに、リアルタイムの話題をできるだけ頻繁に投稿していきたいと考えています。よろしくお付き合いください。

Categories:音楽

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