Sonar Members Club No.22

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日本の国境ー最北端、最東端、最南端、最西端ー

2015 MAR 3 16:16:14 pm by 中村 順一

日本は島国として、その領土は、小さい島々で意外に広がっている。皆さん、日本の領土の最北端、最南端、最東端、最西端がどこにあるか、ご存じであろうか。なぜか筆者の世代では学校であまり教えてくれなかったので、正確に言える人が少ない。集団的自衛権が問題になっているが、まずは守るべき日本の領土がどこまでか、を理解しなければならない。”守るところがどこなのか”、をわからなくては話にならない。

日本は島国であるとともに、周辺海域の大きな海洋国家でもある。日本は人口規模では世界10位、国土面積では世界61位である。それでは支配権の及ぶ海洋面積ではどうだろう。領海を含めた排他的経済水域の面積では日本は447万平方KMと広く、世界6位である(北方領土、竹島等は日本領として計算)。日本は海洋国家としては大国であり、日本領としての島々がそれだけ広がっていることが、ご理解いただけると思う。

 

最北端は択捉島のカモイワッカ岬である。もちろん北方領土の一部であり、現在の実効支配はロシア、日本人が簡単に行けるところではない。できれば是非いってみたい岬だ。安倍・プーチンの今年から来年への北方領土交渉に、大いに期待したい。オバマがレームダック化した今が絶好のチャンスだ。もしかすると最後のチャンスかも知れない。筆者は東京に住むロシア人と交流があるが、プーチンを支持する或るロシア人曰く、「中村さん、確かに今がチャンスだ。中村さんがいつも言っている”面積等分論(択捉島南部に日露国境)”だって、もし安倍が率先してクリミアをロシア領と認めればあり得るぞ。東ウクライナは触らないでおこう。」だそうである。何とかならないものか。

 

最東端は南鳥島である。この島は小笠原諸島に属するが、本州からは1800キロも離れており、日本海溝の東側にあり、日本で唯一太平洋プレート上にある、かなり遠い島である。マーカス島とも呼ばれている。現在では一般市民の定住者は無く、海上自衛隊と気象庁の職員が交代で常駐している。面積は1.51平方KMあり、最高標高は9M, しっかりとした十分に人が住める島である。

第2次大戦時に戦闘を想定して島を要塞化していたため、現在でもその時代の戦車や大砲の残骸が残っている。実際にはアメリカ軍による空襲はあったものの、上陸・地上戦は起きなかった。

行ってみたいが、なかなか行けない島である。作家の池澤夏樹が南鳥島に行きたいと要望し、島への補給船に便乗して、一日だけ上陸したことがある。この時の体験は彼の著作「南鳥島特別航路」に書かれている。最近はこの島の付近の海底に大量のレアアースが発見されて話題になっている。

 

最南端は沖ノ鳥島である。東京から1740キロ、硫黄島から720キロ、フィリピン海プレートのほぼ中央に位置する。台湾より南にあり、北回帰線より南、これもかなり遠い島である。干潮時には環礁の大部分が海面上に姿を現しているが、満潮時には環礁内の東小島と北小島を除いて海面下となる。北小島は2008年時点で海抜約1M, 満潮時は海抜約16CM, 東小島は2008年時点で、海抜約0.9M, 満潮時は海抜約6CMである。正に消失寸前だったのだが、政府は1988年から北小島及び東小島に鉄製の消波ブロックの設置とコンクリート護岸工事を実施した。第2次大戦前の調査記録では海抜最大2.8Mの北露岩、1.4Mの東露岩、さらに2.25Mの南露岩が存在したと記されているから、1987年までに風化と海蝕がどんどん進んでいたことになる。正に危ないところだった。

沖ノ鳥島は貴重である。2つの小島が浸食され満潮時に海面下に隠れてしまうと、定義上の島ではなくなることから、日本は日本の国土面積を上回る排他的経済水域を失う(約38万平方KM)ことになるのだ。2011年から国土交通省は港湾設備の建設に着手、将来的には輸送や補給が可能な活動拠点を作っていくことを決定した。ところが2014年3月に建設中の桟橋が崩壊、7人が死亡するという冴えない事件が起こってしまった。工事の着実な進展と完成が待たれる。ただこの島も、とても行ける所ではない。

 

最西端は八重山諸島の西端、台湾の北東に位置する与那国島の西崎(いりざき)である。ここは日本の東西南北端の中で唯一、一般の交通機関で誰でも自由に訪れることができる場所である。筆者は10年ほど前に行ってきた。西崎からは1年に数回、台湾の山々がくっきりと見渡せるそうだが、筆者が行ったときは残念ながら曇っていて見えなかった。

与那国島は面積28.9平方KM, 人口1745人の国境の島である。島は東西に細長くサツマイモのような形をしている。中央北部に祖納(そない)、西部に久部良(くぶら)、南部に比川(ひかわ)の3つの集落がある。観光にはすばらしい島で、皆さんにも是非訪れることをお勧めしたい。一人で行ったが、カジキ、ヤシガニがたまらなく美味で、特産の花酒(60度の泡盛)を楽しみながらの夕食は最高だった。夜一人で外に出て歩き出すと、月明かりの中でぼんやりと自然景観が映し出され、本当に感激した。タクシーで島を一回りした。与那国馬がたくさんいる東崎、最西端の西崎、謎の海底遺跡、テレビドラマ「Dr.コトー診療所」のロケに使われた診療所の建物、等々、是非もう一回行ってみたい。

最近2月22日に全国で注目された、与那国島の住民投票があった。「自衛隊配備に賛成か否か」の投票である。住民投票で問われたのは、陸上自衛隊の沿岸監視部隊約150人と沿岸監視レーダーの配備の是非である。有権者は永住外国人も含む中学生以上(?)の1276人、投票率は85.74%だった。開票結果は筆者にとって嬉しい結果になり、賛成632票、反対445票、無効17票だった。これは沖縄の離島の投票結果としてはかなりの”大差”である。(離島の選挙は島を挙げての大騒動になり、それぞれの陣営が必死の選挙工作を行うため、だいたい僅差になることが多い。)これで、あの過疎に悩む与那国島は大きく変わるだろう。我が国の国境防衛にとっても画期的である。実に喜ばしいと思う。

以上、4つの我が国の領土の先端を見てきた。与那国島以外に行くのはほとんど不可能だが、元気なうちに択捉島は是非行ってみたい。

 

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元祖、山の神、今井頑張った(改訂版)

2015 FEB 22 20:20:21 pm by 中村 順一

なぜか、文章の一部が消えたまま投稿してしまったので、改訂版として再度投稿します。

 

昨日の東京マラソンは少し面白かった。順天堂大時代、箱根駅伝で2年生から3年間山登りの5区で3年連続の区間賞を取った”元祖、山の神”の今井正人が頑張って日本人トップの2時間7分39秒で7位に入ったからだ。7位というのも情けないが、7分台を日本人が記録したのは3年ぶりだという。30キロあたりでトップからは離されたが、そのあとも結構粘って走っていた。東京マラソンは直線のコースが多いので、優勝したネゲセ(エチオピア)、2位のキプロティク(ウガンダ、ロンドン五輪の優勝者)の競り合いから、少し離れて今井の走りも良く見えた。まるで駅伝を見ているような臨場感だった。笑顔でのゴールが印象的だった。

これで、8月の北京での世界選手権代表の座はつかめるだろう。今井は夏の暑さに強いらしく、暑い夏の北京なら、少し期待が持てる。来年のリオでの五輪にも繋がるかも知れない。ちょっと楽しみになってきた。

 

最近の日本マラソン勢は男子も女子も全然ダメである。どうしちゃったのか、というレベルである。男子の不調に関し、大学時代に駅伝、特に箱根を重視しすぎることが原因ではないか、大学時代、英雄だった、山の神、今井も、そのあとの柏原も、全然ダメではないか、山登りを重視してしまう、日本長距離陣では世界で戦えるマラソン選手は決して出てこない、などと訳の分からない批判が出てきてすらいた。今井もそんな馬鹿な批判にもめげず、ニューヨークのシティマラソンに参加したりして、今に見ていろ、とすごい努力をしてきたのだ。ダメになるとすぐ極論に走る日本のマスコミの論調を打ち破る意味でも今日の今井のタイムは良かった。7位では彼も決して満足できないだろう。北京での活躍を期待したい。

 

最近、スポーツ雑誌の”NUMBERS”を読んでいたら、美女アスリートの対談コーナーで、女性アスリートの恋愛体験という興味あるトピックでの対談があった。出席者はマラソンの高橋尚子、スピードスケートの岡崎朋美、競泳の寺川綾である。確かに3人ともなかなかの美人である。そこで高橋尚子は「昔、コーチ陣の一人と付き合いだしたんですが、すぐにバレテしまいました。でもコーチと付き合うことは、自分が練習を頑張っていくためにいい影響をもたらすんです。」と言っている。また寺川綾は「競泳の選手は結構選手同士で付き合うんです。」とコメントしていた。そういえば最近結婚した彼女の旦那は競泳選手で、できちゃった婚であった。3人ともマスコミを気にしない、風格が感じられ好感が持てた。

金メダリストの高橋尚子は別格としても、是非、今井には周囲の雑音は気にせず、頑張ってほしい。今井がリオでメダルでも取れれば(ついつい期待してしまう)、今後の箱根駅伝も大いに盛り上がるだろう。まずは8月の世界選手権です。

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第一次大戦を考える(その6)-オスマン帝国と第一次大戦

2015 FEB 18 16:16:09 pm by 中村 順一

① オスマン帝国参戦への経緯

多民族、多宗教の人々を抱え、比較的緩やかな統治体制を敷いてきたオスマン帝国は建国から600年を越えて存続を続けた長寿国家であり、16世紀にはその勢力は世界最強と言っても過言ではなかった。しかし、20世紀を迎え、西欧社会から「ヨーロッパの瀕死の病人」などと揶揄される内憂外患の程度は、極限状態を迎えていた。外患とは英国、フランス、ロシア、ドイツ、イタリアなど、ヨーロッパ列強の軍事、経済あらゆる面における台頭と、オスマン帝国自体の半植民地化への過程である。そして、16世紀、17世紀に2回に亘ってウィーンを包囲し、ヨーロッパ社会の脅威として君臨し続けた強大イスラム帝国は、第1次大戦に参戦し、滅亡への決定的な一歩を踏み出すという皮肉な末路を辿ることになる。

1914年当時にオスマン帝国政権を実質的に掌握していたのは、「統一と進歩委員会(統一派)」の、陸軍大臣エンヴェル・パシャ、宰相メフメット・タラート、海軍大臣アフメト・ジェマルの3人であった。3人は1910年から継続して勃発したトリポリ、2回に亘るバルカン戦争の結果、オスマン帝国の外交的孤立が深刻であることを、重く受け止めざるを得なかった。3人は焦りを伴う愛国心から、真の友人を確保すべく、外交でも積極的に動くべき、という結論に至る。”真に信頼できる同盟国”を確保すべく、欧州列強との交渉が積極的に開始されたのである

外交上、オスマン帝国は19世紀以降、英仏、特に英国と緊密な関係を保ってきた。両国の支援を受け(受けることを望み)、ボスポラス海峡に南下するロシア帝国に対抗せんとする図式こそが、クリミア戦争以来の伝統的な共通認識だったのである。しかし、英仏への同盟の打診は順調には進まなかった。チャーチルには1911年に同盟を拒否されていた。海軍大臣ジェマルは1914年7月にフランス海軍訓練視察に招待され、パリに渡航したが、フランス側からは事実上の同盟拒否を受けてしまった。ここで動いたのがドイツだった。陸相エンヴェルは親独派であり、7月22日に自らドイツ大使ワンゲルハイムに同盟の予備交渉を打診したが、拒否にあった。ドイツ陸軍参謀総長モルトケはオスマン帝国軍が全く大戦争に耐えうる状況にないことを正確に理解していたのである。ところが、ヴィルヘルム2世が7月24日になり、オスマン帝国との同盟締結に支持を打ち出した。おそらくは7月後半になると世界大戦の危機が突如として高まっており、ドイツも動き出したのであろう。皇帝の発言を受けて軍も政府も方針を転換し、予備交渉が開始された。オスマン帝国は既に述べたように、外交上の孤立だけは避けたい、とする希望が強かったため、8月1日から締結交渉が行われ、2日の早朝にはイスタンブールの宰相タラートの自宅にてトルコ・ドイツ軍事同盟が締結された。

ドイツは8月1日に対露宣戦布告に踏み切っており、この同盟は、オスマン帝国がロシア、引いては英仏と戦争を開始する危険が高まったことを意味した。その後統一派、特にタラートとジェマルは参戦回避に尽力したが、9月以降、ベルリンからの参戦圧力は激烈の度を増し、ロシアとは9月末から国境で小競り合いが始まり、オスマン艦隊はロシア領を砲撃すらしてしまった。また破産状態のオスマン軍はドイツの援助なしには、武装動員すら不可能な状態になり、最高幹部の間では参戦やむなしの意識が高まっていった。

結局、11月2日にロシア、5日に英仏が宣戦布告、11日にはオスマン帝国も連合国に対して宣戦布告した(メフメット5世がジハードを布告)。

オスマン帝国のドイツ接近は各国の態度の変遷の中で、偶然の末辿り着いた結果に思える。国の存続すら危ういという認識になってきたトルコ政府首脳にとって、各国が冷淡な姿勢を見せる一方で、以外にも一転して好意的姿勢を見せたドイツに縋り付くのは、やむを得ない、当然の行為とも言えたのである。

 

②オスマン軍と第1次大戦

親独派のエンヴェルは、一貫してドイツとの同盟をし推進していた。結果的にはトルコ政府の中では彼が参戦を主導した。エンヴェルは、従来からの敵国ロシア帝国を解体してカフカス地方を奪還し、オスマン帝国の自然国境を回復するとして参戦を正当化した。その意図に中にはロシアの支配を受けている中央アジアのトルコ系民族を解放し、中央アジアからバルカンに至るテュルク系諸民族を、オスマン帝国の旗のもとに大統一するというパン=トルコ主義があった。エンヴェルは巧妙にもパン=トルコ主義を突出させることなくパン=イスラム主義に結び付け、大戦にあたってジハードを宣言し、ロシア領内だけでなく、アフガニスタンやインドなどのイスラム教徒には反英闘争を呼びかけた。

オスマン帝国の参戦後、ドイツ軍艦はダーダネルス、ボスポラス海峡を通過して黒海のロシア基地を攻撃した。英国は、ドイツの黒海進出は中東進出に繋がると考え、これを阻止するために、1915年4月、海峡地帯のガリポリに出兵した。この英仏、豪州、ニュージーランド混成軍のガリポリ半島上陸を阻止したのが、ムスタファ・ケマルである。

エンヴェルの掲げたパン=トルコ主義とパン=イスラム主義は矛盾をはらんでいた。パン=イスラム主義なら、全イスラムは団結すべきであるが、パン=トルコ主義ならオスマン帝国領内のアラブ人、アルメニア人、ギリシャ人、クルド人、ユダヤ教徒などの自治独立の要求は当然抑えなければならなくなる。事実、東部戦線での対ロシア戦争の中で、アルメニア人の強制移住と大虐殺が行われた。この「アルメリア人虐殺」は今でも大問題となっており、解決されていない(トルコ政府は公式に認めていない)。英国はオスマン帝国の背後を攪乱するために、この民族対立を利用し、アラビアの反オスマン勢力である、ハーシム家のフセインと結び、その反乱を支援した。この時アラブ軍を指導したのが、「アラビアのロレンス」である。

オスマン帝国はガリポリの勝利以外は各地で敗北を重ね、1918年9月にはブルガリアが降伏したため首都イスタンブールに連合軍が迫った。10月、スルタンのメフメット6世は連合軍と秘密裏に交渉して、自らの戦後の地位の保証を条件に連合軍に降伏。セーヴル条約を締結した。裏切られたエンヴェルは国外に脱出した。中東で戦っていたムスタファ・ケマルはいったんイスタンブールに戻った後、連合国への投降を拒否して反乱軍を組織した。

 

③スルタン・カリフ制の廃止

オスマン帝国の君主は、14世紀末のバヤジット1世(雷帝、稲妻)の時からイスラム世界の世俗権力(政治的・軍事的権力)であるスルタンを称していた。スルタンはカリフ(預言者の代理人、イスラム国家の指導者、最高権威者の称号)から与えられるとされるのが、イスラム世界、スンニ派の建前である。

カリフの地位はアッバース朝で世襲されていたが、アッバース朝滅亡の後、エジプトのマムルーク朝のもとで保護され、マムルーク朝がカリフ継承権を持ち続けていた。1517年にオスマン帝国のセリム1世がカイロを占領し、マムルーク朝を滅ぼした時に、カリフ継承権を譲り受け、以降、オスマン帝国のスルタンはカリフを称するようになった(スルタン=カリフ制)。

第1次大戦でスルタンの権威が地に落ちると、苦難にあるオスマン帝国のカリフを擁護すべきという運動が特にインドのムスリムの間で起こった(ヒラーファット運動)。インドの反英民族闘争を指導していたガンディーは、彼自身はヒンズー教徒であったが、このカリフ擁護運動と連帯することを主張した。

オスマン帝国は正に存亡の危機だったが、トルコ国内では、自ら議会を解散させたメフメット6世に代わって、国家を代表する資格を持つ、アンカラ政府が結成され、ムスタファ・ケマルが首班となった。この時、西方からアナトリア西部の奪還を狙うギリシャ軍がアンカラに迫っていたが、ムスタファ・ケマルは自ら軍を率いてギリシャ軍をサカリヤ川の戦いで撃退した。その後、トルコ軍は反転攻勢に転じ、1922年9月には、地中海沿岸の大都市イズミールを奪還した(イズミールは今でもトルコ第3の大都市)。この時のムスタファ・ケマルの「全軍に告ぐ、諸君の最初の目標は地中海だ、前進せよ」という言葉はトルコ国民に深い感動を与えたことで有名である。

反転攻勢の成功により、連合国もアンカラ政府の実力を認めたため、ムスタファ・ケマルはセーヴル条約よりも有利な条件のローザンヌ講和条約を連合国との間で締結することに成功した(1923年7月)。

既に1922年にはアンカラ政府はオスマン帝国のスルタンとカリフを分離させて、スルタン=カリフ制を廃止していた。これで、オスマン帝国は正式に終わりを告げており、最後のスルタン、メフメット6世はマルタに亡命していた。

 

④カリフ制の廃止は残念

スルタン制は廃止されたが、この1922年の時点ではオスマン家は政治的権力は無くしたが、宗教的権威は維持し、カリフとして残っていた。この権威はパン=トルコではなく、パン=イスラムの動きであった。1922年11月にオスマン家のアブデュルメジト2世が皇帝に選出された。この時点で世俗的支配者としてのスルタンは廃止されていたので、アブデュルメジトが継承したのは、カリフの地位のみであった。当時、トルコ国内にも国外にも、7世紀からの伝統のあるカリフの地位を重視し、オスマン家の血統のある人物を象徴的な皇帝として残そうという考え方は存在した。筆者の考えでは敗戦後の日本の象徴としての天皇のように、どうして象徴皇帝=カリフを残せなかったのか、残念である。カリフには長い歴史があり、存続していれば、少なくともスンニ派の世界では権威を絶対だし、忌まわしき「イスラム国」の出現も無かったろう。

しかし、ムスタファ・ケマルは近代化を進めるトルコ共和国で極めて厳密な政教分離を採用したため、1924年にいとも簡単に、カリフ制を廃止した。こうして、イスラム世界で承認された最後のカリフであるアブデュルメジト2世は、オスマン家の一族と共にトルコ国外に追放された。彼は1944年に死んだが、遺体はサウジアラビアのメディナに埋葬されている。ムスタファ・ケマルはイスラム教の持つ後進性を忌み嫌ったといわれているが、あまりにももったいなくなかったか?もしトルコにカリフ制が残っていれば(十分に可能だった)、現代のトルコの国際的地位も全く違うものになっていたろう。

ムスタファ・ケマルは20世紀でもおそらく5本の指に入る英雄だが、彼の出生には謎が多い。ユダヤ教デンメ派(シャブタイ・ツヴィを救世主として信奉し、イスラム教徒のふりをしながらユダヤ教の戒律を守り続けた隠れユダヤ人)の子孫という説がある。トルコでは”絶対に禁句”だが、彼の行動を見ていくと、ありうる話かも知れないと思えてくる。

 

⑤サイクス・ピコ協定

サイクス・ピコ協定は第1次大戦中の1916年5月に、英国、フランス、ロシアの間で結ばれたオスマン帝国領の分割を約した秘密協定である。既に述べたように、ローザンヌ講和会議で新生トルコ共和国はほぼ現在のトルコの領土を確保できたが、中東地域の分割は、ロシアが離脱した後、英仏の取り分に関して、ほぼこの協定の取り決めが生かされた。(モスル地区は英国領へ)

内容としては以下のとおりである。

・シリア、アナトリア南部、イラクのモスル地区をフランスの勢力範囲とする。・シリア南部と南メソポタミア(現在のイラクの大半)を英国の勢力範囲とする。・黒海東南沿岸、ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡地域をロシアの勢力範囲とする。

この協定は周知のように、英国が中東のアラブ国家独立を約束したフサイン・マクマホン協定(1915年)や、英国がパレスチナに於けるユダヤ人居住地を明記したバルフォア宣言(1917年11月)と相矛盾しており、英国の三枚舌外交として批判されている。

また、1917年にロシア革命が起こると、同年11月に革命政府によって旧ロシア帝国のサイクス・ピコ協定の秘密外交が明らかにされ、アラブの大反発を強めることとなった。

サイクス・ピコ協定の分割交渉による線引きは後のこの地域の国境線にも影響している。長いこの地域の歴史や民族、部族分布を、言わば無視して人工的に引かれた不自然な国境線が、この地域にもたらした悪影響は大きい。「イスラム国」もサイクス・ピコ協定に怒りを抱いており、彼らが武装闘争を続ける動機の一つになっている。

 

少し長くなったが、以上で「オスマン帝国と第1次大戦」の投稿、および6回に亘った「第1次大戦を考える」のシリーズを終わりとしたい。筆者としては、興味の尽きない歴史として、今後も様々なトピックを選びつつ、投稿を続けていく所存である。

皆様よろしくお願いします。

 

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第一次大戦を考える(その5)-最悪の戦後処理

2015 FEB 11 18:18:44 pm by 中村 順一

経済学者のケインズの名著に「講和の経済的帰結(The Economic Consequences of the Peace)」がある。これはパリ平和会議に英国代表として出席していたケインズが、そのあまりにも同盟国に過酷な賠償に抗議して、途中退席し、帰国した後に書いたもので、ヴェルサイユ条約批判の古典になっている。ケインズはこの過酷な賠償で中欧を破壊することは、決して英国とフランスの為にならない、と強く警告した。

この「講和の経済的帰結」でケインズは条約後の状態を「カルタゴ式平和」と表現している。

第3次ポエニ戦役でローマ軍はカルタゴを包囲したが、カルタゴ市民20万人は必死に抵抗し、ローマ軍目がけて、女性、子供に至るまで投石を試みた。ローマ軍は全ての人々を虐殺し、最終的にカルタゴの象徴、ピュルサの人口が5万人まで激減した時にカルタゴはついに降伏した。その後の戦後処理では、ほとんどの人々が奴隷として売られた。ローマの戦略は、「カルタゴは絶対に二度と復活させない」、という断固としたものだった。ケインズは第1次大戦の戦後処理をこのカルタゴに例えたのである。

パリ講和会議はフランス代表ジョルジュ・クレマンソー、英国代表ロイド・ジョージ、アメリカ代表ウッドロー・ウィルソンの3巨頭が仕切った会議であるが、ケインズは「講和の経済的帰結」でこのクレマンソーを”妖怪”の如く描写し厳しく批判した。(この原文は極めて激しい描写である。) クレマンソーの方針は、「ドイツを脅威ある存在としては、2度と復活させない、1870年以降、ドイツが得たものは全て放棄させる」、という断固たるものだった。ウィルソンは理想主義的な「14箇条の平和原則」を1918年1月に発表し、公正な講和を目指す、とアピールしていたが、クレマンソーに反対されると、ほとんど抵抗できなかった。当時ランシングをはじめとするアメリカ代表団内部でも条約が「14原則」とかけ離れている、と批判する声は高かったのであるが、ウィルソンは逆に意地になって、自分の立場が弱いのを認めようとしなかった。ロイド・ジョージがこの2人を調停すべき立場にあり、事実そのように行動した形跡もあるのだが、彼も、当時の反ドイツの強硬な英国の世論を納得させなければならず、1918年12月の総選挙で、大戦でかかった戦費はドイツに賠償金として払わせる、と公約した手前、ウィルソンにすべて同調するわけにもいかなかった。その意味では、この戦争は既に述べたように大衆が欲して開始され、大衆の好むように終結したとも言えるのである。

ドイツに課せられた賠償金は1320億マルクという天文学的数字になり、ドイツは全植民地を奪われ、アルザス・ロレーヌにあったドイツ人の私有財産を含む、在外資産の諸権利と諸名義のすべてを連合国に譲渡させられた。ケインズはこの私有財産の処理は「国際法の概念がこの講和条約によって、壊滅的な打撃を受ける」と批判している。

この3巨頭を100年前のウィーン会議におけるメッテルニヒ、カスルリー、タレーラン、アレクサンドル1世らに比べるとあまりの違いに驚かざるを得ない。ウィーン会議は”会議は踊る”と揶揄され、肝心の戦後処理の討議がさっぱり進まない、と言われたが、実は各国の利害が錯綜して処理が難しいのを見越しつつ、ゆっくりダンスを楽しみながら機が熟するのを待つ、という落ち着きと18世紀の貴族的精神が生きていた。敗戦国フランスの代表タレーランが、「最も重要」と言って、フランスきっての美人と料理人を連れて行ったのも、その貴族的精神に基づいていて、そういう雰囲気だったからこそ、ウィーン会議は成功し、その後長い間ヨーロッパは平和を謳歌できたのである。

それに比べると、パリ会議を仕切った3人の組み合わせは最悪だったと言わざるを得ず、ウィルソンは、14箇条を基礎にして”公正な講和”を結ぶためにパリにやってきたことを冒頭で宣言し、アメリカの戦争への多大な貢献を認めて連合国が休戦条約を承認したのであるから、もっと強く出ても良かった。しかし、ウィルソンはクレマンソーに振り回され、その結果、近代史上最悪の戦後をドイツに強制することになった。ウィルソンはこの時、病魔に侵されており、1919年10月には脳梗塞で倒れ、4年後に死んでいる。ウィルソンの戦後処理に対する、不可思議なほどの、弱い対応はどうしてなのだろうか。筆者には謎であり、残念でもある。

ドイツでは、講和条約に対する反発が根強かった。ドイツは、敵兵を全くドイツ国内に侵入させておらず、ドイツ一般市民には敗北感が薄かった。さらにヒンデンブルクが議会証言で、革命派による”背後の一突き”によって、ドイツが休戦に追い込まれたと主張したことで、”不当な休戦”によってもたらされた”過酷な講和条約”に対する怒りはドイツ国民の間に広く浸透した。

この不満の高まりが、やがて世界恐慌を経て、ヒトラーへと繋がっていくことになる。

このシリーズは、あと一稿で終了する予定である。最終稿は、「オスマン帝国と第1次大戦」 につき書いてみることとしたい。

 

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第1次大戦を考える その4-ドイツ軍の戦術的失敗

2015 FEB 4 15:15:14 pm by 中村 順一

さて、既に見たように、ドイツはオーストリアに引きずられて大戦に突入してしまった。ドイツが総動員令を出したのは、8月1日の午後4時で欧州大陸のどの国よりも遅かった。ところがシュリーフェンプランしかないドイツ軍はベルギーへの進路を開かざるを得ない立場にあり、結局宣戦布告者にならざるを得なかった。

ドイツはこの戦争を通して、よく戦った。お粗末な、オーストリア軍とトルコ軍くらいしか、味方がおらず、ほとんど全世界を敵に回して、4年以上も戦ったのである。そして1914年の東部戦線を除けば、敵兵を一歩もドイツ国内には踏み入れさせなかった。第2次大戦とは全く違う。しかし、ついに敗れた。

筆者も、長い間いろいろな資料で研究してきたが、ドイツ軍は下記に述べる、3つの致命的な戦術ミスを犯していると思う。

 

ドイツ軍失敗、その1、 1914年の西部戦線攻勢失敗 ー 不徹底だったシュリーフェンプラン

小モルトケはシュリーフェンプランの本質を理解できていなかった。このプランの本質はリデル・ハートが詳細に分析しているが、フランス軍がアルザス・ロレーヌに侵入してドイツ軍の左翼を攻撃し、手薄なドイツ軍左翼が後退すれば、そのフランスの攻勢自体がドイツ軍にとっての利点となり、あたかも”回転ドア”のように、フランス軍の左翼への重圧が、ベルギーから大迂回して背後をつく、ドイツ軍主力にとって益々有利になる、という点にあった。

しかし、彼にもそれに代わる代替案があった訳ではなく、結局実行したのはシュリーフェンプランの改悪版だった。シュリーフェンプランは東部戦線は当面犠牲にし(ロシア軍の動員が遅いことが前提)、左翼(アルザス・ロレーヌ)は一切攻勢に出ず、ひたすら強力な右翼をもって一気にパリを占領した後、フランスを殲滅するという徹底したものだったが、小モルトケは確信が持てず、アルザス・ロレーヌの防御にかなりの兵力を割いた。それでも右翼のドイツ軍は当初好調に進撃し、第一線の司令官は8月末にはパリ陥落も間違いない、と確信を持ちつつあった。

ところが、その時ロシア軍が予想より早く、東プロイセンに侵入してきた。2個軍40万人以上の兵力である。ロシアも鉄道網が整備されてきており、シュリーフェン伯爵がシュリーフェンプランを作った10年前のロシアではなく、動員は比較的短期間で実行できたのである。東プロイセンを守る第8軍は15万の兵力しかない。東プロイセンを失う訳にはいかない。小モルトケはあわてて右翼から2個軍を引き抜き東部戦線へ配置転換した。皮肉にも、この時、ヒンデンブルクとルーデンドルフが指揮した、タンネンベルクの戦いでは、ドイツ軍は2倍以上の兵力のロシア軍に圧勝し、西部戦線から駆け付けた2個軍が到着した時には、タンネンベルクの戦いは終わっていた。

右翼の兵力が足りなくなった。9月のマルヌの会戦ではフランス軍が反撃、ドイツ軍の進撃は阻止された。シュリーフェンが狙った西部戦線での短期決戦は不可能になり、泥沼の消耗戦へともつれこんでいくことになる。

果たして、もしシュリーフェンプランが当初の意図通りに実行されていたら、どうだったか?という論点は世界の軍事専門家の間で、その後長く議論されている。「ドイツ参謀本部(中公新書)」で渡部昇一は、「成功した、何故なら改悪版の小モルトケの作戦でも、ドイツ軍はパリ郊外50キロ迄到達したではないか」と述べている。

いずれにしても開戦当初の1914年がドイツ軍にとって最大のチャンスだったことは間違いない。タンネンベルクでは圧勝したが、ドイツは東部ではなく、西部戦線での戦略的勝利が必要だったのである。

ドイツ陸軍参謀本部の参謀総長は、1883年以降、皇帝に直接意見を上奏する上奏権を認められており、直接皇帝に統率されていた。ドイツ陸軍は、当時国家の中の国家であり、参謀総長小モルトケの権力は絶大だった。しかし、小モルトケは病身で神経質であり、大ドイツ陸軍を統率する任務に耐えなかった。彼はマルヌの会戦の失敗で、辞任を余儀なくされた。代わってファルケンハインが参謀総長に就任したが、彼も指導力は十分でなく、1916年6月のヴェルダン要塞攻撃に失敗して解任された。

この難局になって起用されたのが、タンネンベルク戦の勝利により、国民的英雄になっていた、ヒンデンブルクとルーデンドルフのコンビであった。ヒンデンブルクが参謀総長、ルーデンドルフが参謀次長(第一幕僚長)になった。ヒンデンブルクはルーデンドルフに絶対の信任を寄せていたので、この新設ポストはルーデンドルフに思う存分腕を振るわせるためのものであった。ルーデンドルフは知力も実力も傑出した人物であり、大戦後半のドイツはルーデンドルフの独裁と言ってもいい状況になっていく。ルーデンドルフが「戦争遂行上自信が持てない」と言うだけで、大臣の首などたちまち飛ぶほどの事態となり、ヴィルヘルム2世とベートマン・ホルベーク首相の影は全く薄くなった。以降の戦争は、ドイツにとって”ルーデンドルフの戦争”となった。

ルーデンドルフは傑出した戦争指導者であった。独裁者になっても、ヒトラーのように狂ったわけでは全くない。当時のドイツには、彼ほどの有能で断固たる命令を下せる人間がいなかった、ということが彼に権力が集中していった理由だろう。

しかし、ルーデンドルフは2つの致命的なミスを犯してしまう。

 

ドイツ軍失敗、その2,   無制限潜水艦作戦の遂行 ー アメリカの参戦

ルーデンドルフの最大の失敗は、アメリカを参戦させる原因となった、無制限潜水艦作戦の遂行である。 無制限潜水艦作戦とは、戦争状態において、潜水艦が敵国に関係すると考えられる船舶に対し、無警告で攻撃する作戦である。

第1次大戦でのドイツ海軍の最初の実施は1915年2月で、英国海軍の北海機雷封鎖によるドイツに対する事実上の無差別攻撃への不満から、英国の海上封鎖と周辺海域での無警告攻撃を宣言していた。1915 年5月には英国船籍ルシタニアが南アイルランド沖でドイツ潜水艦の雷撃を受け、乗客1198名が犠牲となった。アメリカは当時孤立主義で中立国の立場だったが、犠牲者の中に128名ものアメリカ人が含まれていたことから、アメリカ国内ではドイツに対する世論が急速に悪化した。そこで一旦はドイツもこの作戦を中止した。

しかし、その後、戦争が長期化するとドイツは再び無制限潜水艦戦を決意した。ヴィルヘルム2世とベートマン・ホルベーク首相はアメリカの参戦を招く、として反対だったが、海軍の要請もあり、ルーデンドルフが強力に賛成し、1917年2月に再び実施の宣言をした。当時のアメリカはヨーロッパの戦争に介入することに極めて消極的で、ドイツの無制限潜水艦作戦さえなければ、参戦の可能性は少なかった。ルーデンドルフがアメリカは戦争準備ができていない、として過小評価したのである。これがアメリカの潜在能力の過小評価だったのは、その後明らかになった。西部戦線最後の攻防戦でアメリカ軍は決定的な役割を果たした。

 

ドイツ軍失敗、 その3  ー  1918 年に100万の軍隊を東部で浪費

1917年にロシア軍は崩壊、1918年3月にはドイツ軍に極めて有利なブレスト・リトフスク条約によってドイツとソビエト連邦は単独講和した。ルーデンドルフにとっての最大の失敗は、これをドイツに有利な講和に結びつけられなかったことである。東部戦線で不要になった100万のドイツ兵を外交の武器にして連合軍に講和を迫れば、ドイツにとって、有利な和平を達成できた筈、とチャーチルもロイド・ジョージも言っている。

1918年3月21日には、ドイツ軍は東部戦線にいた兵士を西部戦線に合流させ、乾坤一擲の攻勢に出た「作戦名、皇帝の戦い(カイザー・シュラハト)」。実際ドイツ軍は快進撃を続け、パリの120キロ圏内へ進撃し、パリ砲(ドイツの有名な列車砲。射程100キロ以上の長距離砲撃が可能。)がパリに向けて200発弱の砲弾を撃ち込み、パリは完全にパニックになったという。実際、ヴィルヘルム2世は3月24日を国民の祝日にすることを宣言。多くのドイツ国民が勝利を確信した程だった。本当にもう一息だったのである。

だが、この時のドイツに既に余裕は無く、ルーデンドルフにとって、勝利とはパリ郊外への接近ではなく、パリを陥落させ、英国軍とアメリカ軍をドーバー海峡まで押し返すほどのものである必要があった。 後の調査のドイツ議会の「調査委員会報告」では、ルーデンドルフはこの時、ドイツの東方勢力圏をフィンランドとコーカサスを結ぶ線まで拡大するため、ウクライナとバルト海沿岸の占領という、結果的には全く無駄な作戦のため、大量のドイツ軍を東部に留めていた。貴重な兵力を東部で浪費したのである。ドイツにとっては痛恨であろう。

7月以降は連合軍が反撃に転じ、8月8日にはドイツ軍の敗走が始まって、「ドイツ陸軍最悪の日」になった。

その後、同盟軍は総崩れになり、9月30日にブルガリア、11月11日にオーストリアが降伏し、11月11日にはドイツも降伏した。

第1次大戦は終わった。以下、次号では、その最悪の戦後処理について述べる。

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第1次大戦を考える その3 ー将軍達は止まらないー

2015 FEB 2 12:12:57 pm by 中村 順一

大衆は戦争を望んだのだが、各国の軍隊はどうだったのだろうか。

どこの国でも将軍や参謀たちは極めて職業熱心で、まだ動員令など出ていないのに、その準備をし、それが実際に動員したのと同じ効果をもたらしてしまった。皇帝や政府首脳が動員への疑義を表明しても、彼らは、専門的、技術的理由を挙げて服従せず、ドイツとロシアの皇帝が戦争を止めようとして、平和的な電報を交換している最中にも、実質的な動員は続いていくという、訳のわからない状態だった。

まずひどいのは、オーストリアの外相ベルヒトルトである。彼は参謀総長のコンラートと示し合わせてオーストリア軍の動員令を出した。ベルヒトルトは開戦を渋る皇帝を欺くために、セルビア軍が既にオーストリア軍を攻撃中だという虚偽の報告までしている。その後オーストリアは7月25 日にセルビアに対して、国交断絶、28日には宣戦布告まで突っ走ってしまう。これがサラエボ事件に次ぐ、第1次大戦の第2の引き金である。ベルヒトルトは参謀総長のコンラートとは相談していた。しかし、オーストリア軍が戦争準備が出来ていた、とはとても思えず、この時点では単なる恐喝外交に過ぎない。実際に開戦してみると、お粗末にもオーストリア軍はセルビア軍に対してもロシア軍に対しても勝つことができなかった。

次のアクションはロシアである。7月後半にはフランス大統領ポアンカレがロシアを訪問したが、ポアンカレがロシアのクロンシュタット軍港を去ったとき、ニコライ2世は駐ロシア、フランス大使パレオログに対し、「大丈夫です。サラエボ事件は拡大しない。ヴィルヘルム2世はああ見えるが、実は慎重な男だし、フランツ・ヨゼフ皇帝は、もう静かに死にたいと思っているだけですよ。」と言っている。

しかし、友好国セルビアがオーストリアから宣戦布告を受けたのに、何もしない訳にはいかない。外相サゾノフは、オーストリアに対する部分動員(ドイツは対象とせず)という原案をまとめ、ニコライ2世に持ってきた。ニコライ2世は部分動員にも最初は反対だったが、この時ニコライ2世の頭を過ったのは1908年のいやな思い出だった。この年に、ロシアとオーストリア間には秘密協定があり、すなわちボスボラス海峡の自由航行権をロシアに認めるようにオーストリアがトルコに圧力をかける代わりに、ロシアはオーストリアのボスニア・ヘルツエゴビナ州の併合を認める、というものだったが、オーストリアはしゃあしゃあと約束を破り、勝手に両州の合併だけをやってしまった、という不愉快な思い出である。何もしない、というのはあまりにもオーストリアに弱気に過ぎる。ニコライ2世は部分動員に合意する。

ここで軍部が部分動員に大反対する。ヤヌシュケビッチ陸軍参謀総長は、部分動員すると、その後もし全面動員の判断になっても対応が著しく遅れ、取り返しのつかない不利を招くと主張したのである。確かに兵隊を運ぶ当時のロシアの鉄道は、柔軟に運用するほど整備されておらず、1回決めた作戦の根本的変更は不可能だった。ついに7月31日には総動員が下令された。これが第3の引き金になった。ニコライ2世は直ちにヴィルヘルム2世に電報を送り、”ロシアは軍を動員しても絶対にドイツをロシアからは攻撃しない”と通達した。すなわちロシアの総動員はまだ戦争開始を意図したものではなかった。筆者にはこの時のニコライ2世の対応が悔やまれる。ニコライ2世にはこの時、英、独、墺、露の4君主の中で最も権力が集中していたのである。彼が戦争を止めたければ止められた筈である。ニコライ2世は、唯一の公子アレクセイの血友病という難病で悩んでいた。唯でさえ弱い洞察力が益々弱くなっていた。先に軍部に相談していれば、総動員発令というドイツを極度に刺激する行動には至らなかったかも知れない。第1次大戦は結局ロシア革命に繋がり、彼及び彼の家族はボルシェビキにすべて殺された。

ドイツでは参謀総長小モルトケとファルケンハイン将軍が、ベートマン首相やヤコブ外相を無視して動員計画を進めていた。

当時の第1次大戦前のドイツ軍にはシュリーフェン・プランという基本作戦構想があった。これは1890年から1905年まで参謀総長を務めたシュリーフェン伯爵の構想である。シュリーフェンはドイツは結局は戦争、しかも2正面作戦を強いられるという強い観念に囚われていた。当時のドイツにはビスマルクのようなバランス感覚を持った政治家がすでに存在していなかった。ドイツの将来には極めて悲観的になっていたのである。ロシア・フランスとの戦争が避けられないのなら、まずはドイツから速攻し、全ドイツ陸軍の8分の7の大兵力をもって中立国ベルギーを通過して、防御の薄いフランス軍の左翼を突くことに全力を注ぐ。ロシア軍は動員に時間がかかるだろうから、東プロイセンに進撃してくるのには時間がかかるだろうし、進撃してきても当面は東部戦線は気にせず、ドイツ軍主力はひたすら北海沿岸地方まで進撃したのち、大迂回してパリとフランス中心部を攻撃する。これによって6週間以内にフランス軍を完璧に撃滅できるはずだから、その後、東部戦線に転じてロシア軍と対峙し、これを撃破するという構想である。

ヴィルヘルム2世はノルウェーの夏休みから帰ってきた。彼は事態の急展開に驚き、焦りだしていた。そして彼はシュリーフェン計画には懐疑的だった。この計画では、ベルギーの中立を犯すのが絶対条件になり、その結果、英国の参戦を招くのを恐れたのである(既述したように、実際にこれが英国参戦の原因になった)。彼は、まずロシアに全力を集中するように小モルトケ参謀総長に作戦計画の変更を迫った。しかし、小モルトケは、ドイツ軍の全計画はシュリーフェン・プランによって細部まで拘束されており、変更する時間的余裕はない、と断った。シュリーフェン・プランを前提とする限り、動員の1日の遅れは致命傷になり得たのである。ヴィルヘルム2世はヴィクトリア女王の孫であり、英国と戦争する気など最後までなかったのであるが、渋々それに従わざるを得なくなった。

7月31日にドイツはロシアに対し、12時間の期限付きの最後通牒を送った。これが最後の引き金である。8月1日にロシアが拒絶し、第1次大戦が開始された。8月2日にドイツ軍はルクセンブルク国境を越え、同時にベルギーに無害通行権を要求し、フランスにも宣戦布告した。これに対応して、英国は8月5日にドイツに対し、宣戦布告した。

第1次大戦の原因は外交交渉の失敗だが、誰も本気にしなかった全面戦争を現実にしたのは、結局最終的には、ロシア軍の動員に時間がかかる、という時間差にすべてを賭けた、無理な2正面作戦計画、シュリーフェン・プランに拘束されたドイツ参謀本部の硬直性である。ヴィルヘルム2世もこれを止められなかった。ニコライ2世とは戦争を望まない趣旨の電報を、最後の段階まで交信していたのであるが。彼は、軍人たちから自分の度胸のなさをバカにされるのを恐れていて、大戦の前途を展望して萎縮している様子は見せられない、と神経質になっていたという分析がある。ドイツは戦争目的がはっきりしないまま、戦争に突入してしまった。そして戦争期間中を通して、戦争目的に関して内部で論争が続いた。信じられない話である。

最も、戦勝国の間では、第2次大戦後の最近に至るまで、当時のドイツは国力や増加する人口に比して国土が狭く、特に東部ヨーロッパへの領土拡張を狙っていたのだとし、ドイツのその野望が第1次大戦を招いたのであり、それはその後のヒトラーの政策に通ずる、とする分析 (代表的な分析は”Germany’s Aims in the First World War”  By Frits Fischer) も多い。最近は時間も経過し、このドイツ悪玉論は主流ではなくなっている、と筆者には感じられるが。

実際の戦闘推移等、若干(詳しく述べるときりがない)次号で触れていく。

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第一次大戦を考える その2-大衆が欲した戦争ー

2015 JAN 22 17:17:57 pm by 中村 順一

 

ヨーロッパの君主制が、100年前のウィーン会議の頃のようなしっかりした君主制であったら、各国の指導者が望まなかった戦争など起こるはずがなかったろう。だが、1914年当時になると、オーストリアのハプスブルク家もロシアのロマノフ家もドイツのホーエンツオレルン家も、実質的にはかつての強大な権力は失われており、それぞれの国の官僚と大衆に迎合しなければ、生きながらえない存在になっていた。

そしてこの当時どこの国でも大衆は熱狂的に戦争を支持していた。この点も第2次大戦前とは大きく異なっている。各国の君主や外交官らが戦争を避ける努力を続けていた1914年6月から実際に戦争が始まった8月にかけて、各国の大衆はどの国でも同じように戦争を求め続けたのである。老若男女、宗派、政治的傾向の相違を超えて、民衆の間に「愛国熱狂と好戦熱狂」が湧き上がり、戦争に協力し、軍隊に志願するぞ、と考えざるを得ない方向に人々を誘導した。

6月28日の暗殺事件の数時間後には、早くもサラエボで、セルビアを撃て、というデモが組織された。人々はオーストリアの愛国的な歌を歌いながら、セルビア人の店を略奪した。オーストリアの新聞は一斉に、反セルビアの論説を掲載し、2日以内に、この反セルビアデモはオーストリア・ハンガリー二重帝国の全域に広がった。一方セルビアの民衆は大公暗殺のニュースを喜び合い、新聞は犯人の写真を掲げて、”英雄”と呼び、オーストリアのボスニア支配を攻撃する材料にした。そしてこの熱狂は、不可思議なことに、オーストリアとセルビアのみに限定されず、瞬く間に全ヨーロッパに広がっていった。

8月初めの開戦時の体験は多くの人々の記憶にしっかりと刻まれている。ドイツ皇帝の動員命令を士官が読み上げたベルリンの街頭、ミュンヘンのオデオン広場、ぺテルスブルクの冬の宮殿前に群がる膨大な数の人々、行進する兵士たちを熱狂的に送り出すパリの女性たち、を捉えた当時の写真も,映像も大量に残されている。

それはドーバー海峡を隔てた英国でも例外ではなかった。外相のグレイ(自由党)は、8月3日に議会でドイツの中立国であるベルギーへの侵攻を許せない罪として、ドイツに宣戦すべき、と演説したが、それは当時の民衆の戦争熱に押されてしまったものだった。野党労働党の党首マクドナルドはこれに反対し、ベルギーの中立を守るだけのために、英国が参戦する理由にはならないと反論した。これは実に正論である。当時の英国は戦争を開始するほど反ドイツとは言いにくく、陸軍大臣のホルデインは根っからのドイツびいきであったし、1914年5月の帝国防衛委員会でも、対独関係に関し、楽観的な見通しを示したばかりであった。

ところが、すでに議会は沸点に達しており、マクドナルドの慧眼に賛同したものはほとんど皆無、即座に労働党は参戦支持を表明し、マクドナルドは辞任した。開戦の報道に人々は熱狂し、トラファルガー広場からダウニング街までを埋め尽くした。参戦後、陸軍省では何十万という義勇兵が殺到してくるのに、彼らに与えなければならない予備の小銃は英国中の倉庫をかき集めても3万挺しかなく、他の人々にはやむを得ず、棍棒を渡したと記録している。戦争を避けようとして必死に奔走した外相グレイら政治家の実らなかった努力と、新聞に扇動された大衆の戦争熱との隔たりをどう解釈すべきなのだろうか。

オーストリアのユダヤ系作家、ツヴァイクはこう書いている。

「ほとんど半世紀の平和のあとで、1914年における民衆の大多数はいったい戦争について何を知っていたのだろうか。彼らは戦争を知らず、ほとんど戦争のことを考えたこともなかった。戦争は一つの伝説であり、まさしくそれが遠くにあることが、戦争を英雄的でロマンティックなものとしたのであった。彼らは戦争を、学校の教科書や画廊の絵から眺めていた。金ぴかの軍服を着た騎兵のまばゆいばかりの突撃。いつも壮烈に心臓の真ん中を射抜く弾丸、出征兵士が参加する軍楽隊の音楽が高らかに鳴り響く勝利の行進であった。”クリスマスまでにはまた家に帰ってきますよ”、と1914年8月に新兵たちは笑いながら、母親に叫んだ。村や町で誰が現実の戦争のことをまだ覚えていたであろうか。せいぜい2~3人の老人が、今回の同盟国であるプロイセンと1866年に戦ったことがあった(普墺戦争)。しかしそれは何と速やかな、血なまぐさくない、遠い戦争であったことか。たった3週間の出征、そしてそれは間もなくたいした犠牲者も出さずに終わっていた。ロマンティックなものへの足早な遠足であり、荒々しい男らしい冒険、このように1914年の時点で戦争は、人々から思い描かれていた。」(ツヴァイク「昨日の世界」)

アメリカのジョセフ・ナイは、第一次大戦の開戦原因に関して、「ナショナリズムは、国境を越えて労働者階級を束ねると称していた社会主義よりも、銀行家を結束させていた資本主義よりも、そして君主間の親戚関係よりも、結局、強力だったのである」と述べている。また英国のポール.M.ケネディは、「第一次大戦に至る数十年間、各国は左翼運動(社会主義運動、労働運動、女性解放運動など)ばかりを研究し、右翼運動(ナショナリズム、帝国主義、人種主義)に関する研究は極めて貧弱だった。」と嘆いている。この時右翼運動の勢いが結局破局に繋がったのだが、当時は、右翼は左翼ほどの危険性をもって見られず、各国の歴史家もその研究を怠ってしまっていて、大戦に繋がる”戦争熱”を認知できなかった、と言わざるを得ない。

大衆心理は検証が難しい対象と言えよう。民衆の側にあった、開戦原因に繋がる要因は実証的には確定できない。名著「第一次世界大戦の起源」の著者、英国のジェームス・ジョルは、これを1914年の”雰囲気”と書いている。

大衆心理(戦争熱)と政治の相互作用がついに戦争、破局に至ったという経緯は、我々としては、まさに現代の東アジアの状況に当てはめて考える必要がある。経済的な関係が緊密なら友好的な国際関係が築かれ、戦争にはならない、との考え方は、第一次大戦の経験からは成り立たない。変わりやすい民衆心理のチェックは、常に怠れない。時によってそれは危険になる。新聞に煽られた、日露戦争直後の民衆の暴動、太平洋戦争直前の大衆の熱狂、日本にも同じ歴史があるではないか。日本も1945年から70年間戦争を経験していない。第一次大戦前の欧州と、その意味では似た環境にある。

 

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第一次大戦を考える その1ー誰も望まなかった戦争ー

2015 JAN 19 13:13:38 pm by 中村 順一

英国に長く駐在した。英国には100年経った今でも第一次大戦の傷跡はいたるところに残っている。あらゆる町には、第一次大戦で犠牲となったその町の住民を弔う記念碑があるし、古いゴルフクラブに行くと、第一次大戦で英雄的に戦い、無念にも亡くなった、このゴルフコースのメンバーを讃える、といった記念の額があることが多い。また、ローカルな町の書店に行くと、その地方から大戦に出征した夫、そして工場に出勤して国を支えた婦人達、といった本が並んでいる。英国にとって第一次大戦のインパクトは第二次大戦を遥かに上回っている。総力戦になり、英国も700万人強の兵力を動員し、うち300万人弱が死傷したのである。

第一次大戦は、歴史好きの筆者は長い間研究対象にしてきた。しかし、この戦争はどう考えても第二次大戦とは異なっている。それは、「誰もやりたくなかった戦争」だった、という点である。今後、万が一日本が巻き込まれるとすれば、それは少なくとも日本からすれば「やりたくなかった戦争」ということになろうから、第一次大戦が起こってしまった経緯を調べていくことは、今後の日本の針路を誤らないためにも、極めて重要である。

 

大戦の後半、英国の首相だったロイド・ジョージは、後年彼が出版した「世界大戦回顧録」の中で、「誰も戦争を欲しなかった」と述べている。あり得ない話とも思えるが、どうも歴史を読むとそう結論せざるを得ない、と筆者も考えるようになった。4年以上もヨーロッパを震撼せしめ、900万人もの兵士を殺した、当時では史上最大の大戦争は、言ってみれば”もののはずみ”によって起こったのであると。

 

第一次大戦はサラエボの一発から起こったと言われている。しかし、この事件も偶然の積み重なりから起こっている。オーストリアの皇太子、フランツ・フェルディナント公は1914年6月28日にボスニアの首都サラエボでセルビア人の過激派(秘密結社”黒手団”のメンバー)に射殺された。この暗殺もスムースに進んだわけではなく、爆弾を投げつけた最初の試みは失敗し、犯人は即座に逮捕された。大公夫妻は無傷、ただその随員が負傷してしまった。そこで、大公は午後の予定を変更して、怪我人の見舞いに病院に行くことにした。この予定変更が彼に死をもたらしたのである。病院は郊外にあったため、運転手は方向変換が必要になり、交差点で車を止めてしまった(車が偶然エンコした)。この交差点に、偶然にも最初の暗殺に失敗し、意気消沈し軽食店に潜んでいた暗殺グループの一人、プリンチップがいたのである。彼はここでチャンスとばかりに銃を二発発砲し、大公夫妻を即死させた。サラエボはユーゴスラビアの内戦の時にすっかり破壊されてしまったが、この暗殺の現場は今でも残っている。プリンチップが暗殺実行した時に立っていた場所には、彼のフット・プリントが記念碑として保存されている。筆者はユーゴの内戦勃発の直前の1991年に現場を往訪したが、その後サラエボは再び戦争の舞台となった。

 

この暗殺事件が引き金となり、ヨーロッパは歴史上例のない、未曾有の大戦争に引き込まれて行く事になる。1ヶ月後の7月23日にオーストリアはセルビアに最後通牒を送ったが、これは極めて厳しい条件が含まれていた。反オーストリア的官吏の罷免逮捕、反オーストリア的団体の解散のみならず、裁判へのオーストリアからの参加が含まれていた。これは独立国セルビアの主権の侵害を意味した。イギリスのロイド・ジョージは各国政府では誰一人として戦争を欲する者はいなかったが、唯一の例外はオーストリアの外相のベルヒトルトだったと後に書いている。ベルヒトルトは生意気なバルカンの小国であるセルビアを馬鹿にしており、この機会にセルビアとの限定的戦争を起こし、懲らしめてやろうと考えていたのである。オーストリア皇帝は既に84歳で戦争反対、むしろ帝国内の諸民族の独立運動に疲れきっていた。またオーストリア・ハンガリー二重帝国の一つ、ハンガリーの首相のティサもベルヒトルトの主戦論に反対していた。セルビアは裁判権の問題だけは拒否したが、譲歩してそれ以外の条件は全て受け入れた。しかし、ベルヒトルトはその一点の拒否を理由にセルビアと断交したのである。ベルヒトルトは、現在でも観光名所になっているウイーンの騎兵隊の佐官出身で、ウイーン一の伊達男と言われていたらしい。

オーストリアをここまで強気にさせたのは、6月28日の暗殺事件の日にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が、オーストリアの駐ドイツ大使マリッヒに対し、「ドイツはどんなことがあってもオーストリアを支持する」という言わば白紙小切手を与えていたからであった。ヴィルヘルム2世は、その日やや興奮しており、それまでのオーストリアの外交処置があまりにも歯がゆく、ドイツの威光を利用して少し、強硬外交に転ぜよという激励の気持ちを述べたと言われている。ところがその直後、ヴィルヘルム2世はドイツの臣下に対しては一転して慎重姿勢を強調している。ヴィルヘルム2世は戦争を望まなかった、と言うのが現在の研究では定説になっている。ところが呆れることに7月6日から彼は自分が熱くなって、不用意に与えた白紙小切手のことなどすっかり忘れて、恒例の夏期休暇に入ってしまった。ノルウェーのフィヨルドにヨット遊びに行ってしまったのである。これからの3週間が最も重要で、ヨーロッパは対セルビア戦争の議論で伯仲したが、最も重要な見解を示すべき、ドイツ皇帝はコンタクトが極めて難しい海上に行ってしまった。現代とは違う、海上のヨットにコンタクトを取るのは難しい。後日、彼の回顧録によれば、オーストリアが強硬な最後通牒を出したのを、ドイツ外務省ないし参謀本部からの電報ではなく、ヨットで遊んでいる最中にたまたま読んだノルウェーの新聞によって知った、というのだから呆れざるを得ない。

ロシア皇帝ニコライ2世も戦争を望んでおらず、当時ロシア宮廷に君臨していた怪僧ラスプーチンでさえ、日露戦争に敗れ、血の日曜日もあったロシアが直面している内政的困難を指摘し、大戦争が起これば、ロマノフ朝が危機に瀕すると警告していた。また英国も国内にアイルランド問題を抱えており、大戦争どころではなく、外務大臣のグレイはロンドンで国際会議を開催して、セルビアとオーストリアの一触即発の状態を打開しようとした。またフランスは普仏戦争の敗北以降、対ドイツへの復讐心に燃えてはいたが、1914当時、対ドイツで陸軍、海軍、粗鋼生産量、石炭生産量共にはるかに劣っており、3国同盟の同盟国、英露が動かなければ、自分で動ける立場では無かった。

ドイツとイギリスの海軍の建艦競争が戦争の原因になったとよく言われる。確かにドイツの海軍拡張政策は、20世紀の初めから顕著になってはいた。しかし、実はドイツと英国の海軍の関係は極めて友好的だった。サラエボ事件が起こった6月28日には英国海軍の幹部スタッフが、ドイツのキール軍港を訪問して大歓迎を受けていた最中で、ヴィルヘルム2世も臨席して士官も水兵も艦上やキール市内で交換し合い、晩餐会、対抗競技等で大いに盛り上がっていた時だった。ヴィルヘルム2世はオーストリア皇太子の暗殺の報道を歓迎会の艦上で受け取ったが、それはドイツ国内の事件でもなく、英国にも関係ない、オーストリアの辺境でセルビア人が起こした事件に過ぎず、誰ひとりとして、そこで歓談している英独の水兵達が砲火を交えることになるとは夢にも思っていなかった。

英国のチャーチルは後に書いている。「私は時々この1914年の7月の頃の印象を思い起こす。大破滅の淵に臨んでいるのも知らずに、世界は非常に輝かしかった。英国とドイツというヨーロッパの2大勢力は慎重に真面目な外交を行っており、この2大勢力に結束せしめられたヨーロッパは、急速に発展してきた自然科学の恩恵を享受しうる輝かしい組織になってきている。その古き世界の姿は実に美しかった。(チャーチルが1937年に書いた”世界大戦”より)」

また、最近NHKで放映された「第一次大戦」というドキュメンタリーでは、サラエボ事件が起こった直後の、ドイツの首都ベルリンの繁華街ポツダム広場での人びとの雰囲気を映している。人びとは笑いながらメリーゴーランドを心から楽しんでおり、もうすぐ破局が来るなんて夢にも思っていない情景が写っている。

 

では、何故、大戦争に進んでしまったのか。以下、次号。

 

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ある中国人曰く「韓国人が大嫌いです」

2014 DEC 24 14:14:00 pm by 中村 順一

12月に北京に出張してきた。北京にはめずらしく、晴天で見晴しも極めて良かった。悪名高いスモッグも無かった。ものすごく寒く、最高温度が氷点下1度で最低が氷点下10度だったのには参ったが。ホテルはニューオータニ長富宮、日本人の資本なので何かと安心だ。北京への出張時はここに泊まることにしている。APECで北京を訪れた安倍首相もここに泊まっている。ホテルの部屋からは、遠くに山々が見渡せた。これは北京ではめったに無いことである。

昼間は、関係先往訪で多忙だったが、夜は、筆者の前職時代の同僚の中国人2人と久しぶりの再会を祝って、ゆっくりと中華料理を楽しんだ。この2人は日本語堪能の親日派で、日本と中国の両国の関係改善を真剣に願っている。筆者との付き合いも長く、筆者が高く信頼している良識のある人たちだ。

2人は男性と女性なのだが、男性の日本語能力は半端ではなく、最近読んだ日本語の本が。中公新書の「昭和陸軍の軌跡」だそうで、非常に面白かったとのこと。陸軍の統制派と皇道派の対立、永田鉄山の陸軍省での刺殺、等に話題が盛り上がったのにはびっくりした。筆者も海軍は詳しいのだが、陸軍はそれほどでもなく、ちょっとタジタジだった。

この男性が突然切り出した。「中村さん、私は韓国人が大嫌いなんです。何というエキセントリックな国民でしょう。たいていの中国人は、本当は韓国人のことは好きではありません、嫌いなんです。」

「えーそうなの、どうして嫌いなの」と聞いてみた。

「教育がおかしいんです。見てくださいよ。」といって見せてくれたのが、最近中国の中で問題になっている、韓国の歴史教育に関する記事だった。韓国の中学校では、歴史的に百済、新羅、高麗は中国のほとんどの領域を支配し、日本はその時代、完全に韓国の領土であった、ということになっているのだそうだ。「これが正しい歴史なのに、中国は国内で嘘の歴史教育をしている、許せん。」といって韓国内部ではソウルの中国大使館前でデモが頻発しており、中国の国旗も焼かれたりしているとのこと。「全く話になりません。国家と国民のレベルと品位の問題です。」。彼はかなり怒っていた。(記事の冒頭に彼が見せてくれた記事の一部を掲載)

確かに韓国は人の国の教科書の記述にギャーギャー言ってくるが、自分はどうなの、ふざけないで、ということなのかも知れない。習近平と某大統領は首脳会談で抱き合ったりしているが、韓国と中国の関係は極めて微妙なのだ、ということを再認識できた夕食だった。某大統領も調子に乗りすぎか。

やれやれ、疲れさせる国民性です。

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○母神氏の講演を聞く

2014 DEC 18 16:16:34 pm by 中村 順一

今週、都内某所で、元航空幕僚長の〇母神氏の講演を聞いた。少人数の聴講者の中のスピーチで、臨場感があり、貴重な機会だった。以下にその講演を要約してみる。

 

1:自分の国は自分で守るべき

世界、その中でも日本はアメリカの陰謀にやられている。その成果は約45年ごとに発揮されている。まずは1945年の日本の敗戦。日露戦争に勝ったアジアの新興国日本を警戒し、戦争に引きずり込んで壊滅させた。次は1991年のソ連崩壊。冷戦の末やっつけた。1990年代初頭から再びターゲットは日本及びドイツに。経済面で脅威になった日本をあらゆる手を使ってしめつけている。お蔭で日本の経済はこの20年まったく成長できていない。

日本の自衛隊の装備は優秀、米軍との共同作戦であれば極めて強い。しかし、米軍から離れた独自行動になると途端に弱くなる。GPS等の精密機器はアメリカ製ばかり、アメリカにそのコードを意図的に変換されただけで自衛隊は機能不全に陥る。日米安保条約は、対等な国同士の条約ではもちろん無い。

世界の軍隊を規定する法律は国際法である。これはネガティブリスト、すなわち、こういう行為はやってはいけません、という考え方が基本にある。ところが日本の自衛隊だけは国際法でなく、自衛隊法に縛られている。これはポジティブリスト、すなわち、こういう行為だけはやってもOKです、という考え方なのだ。このために、たとえば海上自衛隊がインド洋に派遣され、同盟国への給油活動に限りOKとなると、仮に自衛艦の目の前で、民間の船が海賊に襲われ人が殺されても、自衛艦は民間の船を助けることはNGというバカなことになる。自衛隊は国防軍と名前を替えて、他の国の軍隊と同じように、国際法で規定されるべきである。

 

2:中国とは戦争にならない

中国は尖閣問題で日本と戦争する気があるわけがない。米軍と中国軍の戦力差は10対1程度ぐらいが正当な評価。自衛隊も中国軍には決して負けない。中国軍の戦闘機は航続距離が短く、尖閣に攻めてきても中国内の基地には戻れず東シナ海に墜落してしまう。潜水艦の性能も劣り、スクリュー音がうるさい為、日米軍にとって中国の潜水艦がどこにいるか、ということを把握することはたやすい。それに比較すると日本の潜水艦のスターリングエンジンは高性能で世界一音が小さい。

中国が尖閣水域に出没するのは、繰り返して日本を威圧すれば、やがて日本の左翼が出てきて、「中国とは戦争はいやだ、戦争になるくらいなら、あんな小さい島くらいくれてやれ」と言い出すのを待っているのだ。

 

3:〇明党は話にならない、I破もダメ

〇明党は日本を滅ぼしてしまう。彼らは日本のことはまったくどうでも良く、自分達のことしか考えていない。創価学会と〇明党は一心同体だが、不思議なことに選挙ではそれが全く語られない。自分は今回東京12区で次世代の党から立候補したが、これはともかく〇明党の〇田明宏を叩きたかったからだ。次世代の党からは、北海道の比例区なら通るかも、どうですかとか、東京18区に出てぜひ菅をやっつけてくれ、などと頼まれたが、断った。ともかく自分の真の敵は〇明党なのだから。落ちてはしまったが、思う存分〇明党の悪口を言えたのは良かった。〇明党は常に安倍政権の足ばかり引っ張っている。けしからん。

自民党のI破も評価できない。彼は靖国神社に一回も参拝したことが無い。自虐史観のアメリカ迎合主義者だ。彼が首相になってはいけない。一般的には自衛隊を愛する保守派と考えられているようだが、間違いだ。かれは異常な軍事マニアで、同型艦の大和と武蔵が正確にはここと、ここが違うとか言って知識を自慢している。まったくあほらしくて話す気にもなれない。集団的自衛権の議論でも彼は国民の皆様にわかりやすく説明することが大事、とか言って、10以上の具体例を挙げたが、全くナンセンス。中国に作戦を事前に全部教えているようなものだ。

今の政治家はアメリカ派と中国派はたくさんいるが、真に日本を愛する日本派は極めて少ない。

 

4:原発、TPP,  消費税

原発は再稼働すべき。化石燃料の輸入で国富が失われてしまう。3:11の時、菅がやった住民の避難を自分は「平成の強制連行」だと思っている。日本の放射能の基準は欧米の約1000倍も厳しい。福島の事故で放射能で死んだ人はゼロである、政府は放射能の恐怖をあおっているのだ。

TPPも反対、アメリカのいいようにやられてしまう。消費税の改定も反対。そもそも8%がゴールではなく10%まで決まってたわけだが、8%に上げて、案の定、景気は落ち込んでしまった。そもそも緊縮財政にして景気が良くなるわけがないのだ。これも日本を滅ぼそうとする〇明党の陰謀である。20年間緊縮財政を志向して、日本は全くおかしくなってしまったではないか。日本の政府の借金は大きいが、日本にはそれを上回る資産がある。問題はない、積極財政にして景気回復すべし。

 

5:核装備、憲法改正

現代の世界は核保有国でなければ、大国になれない。世界政治での発言力が違う。もちろん、核を持つには核拡散防止条約を脱退する必要があり、簡単ではない。しかし、道のりは長くても政府が核武装への意思を固めるだけでも全然違う。またドイツ、イタリア、トルコがやっているように核を持たなくても、核を持った場合に備えて、核使用を訓練するのもひとつの方法だ。アメリカに対しても正面から言うべき、「日本の周りは中国、ロシア、北朝鮮、みんな核を持っている。どの国もアメリカの同盟国ではないでしょう。どうして同盟国である日本だけに、核を持たせたくないのか、おかしいではないか」と。

憲法改正はやってもらいたい。現行憲法は、世界で悪いのは日本だけ、という精神から書かれている。とんでもない話だ。5~10年かかるだろうが是非実現したい。

 

6:戦前の日本に戻れ

戦前の日本は暗黒だとか、日教組は言うがとんでもない。戦前の日本は、国家として一種の”最適化構造”を達成していたのだ。大家族制度の方が日本に適している。おじいちゃん、おばあちゃんが傍にいて皆で暮らせば、母親が子供を殺す、なんとことはあり得ないのだ。核家族化、女性の自立、いかんですよ。子供の数が減ってしまう。そもそも子供の数で、払う税金とか、もらう年金を調整すべきだ。

 

講義の最後に、 「おいおい、それでは全部が敵になってしまう、日本にとって日米同盟は重要であり、アメリカとの関係は維持・発展させるべきでは、」 という聴講者からの質問に対しては、

「アメリカと手を切れ、と言っている訳ではない。日本が、より主体的に自分の国を自分で守ることが、引いては日米同盟の強化に繋がる、と申し上げているのだ。」

との回答あり。

全体的に、さすがに、これは危ない考え方だ、という印象。日本は友人の国を作り、それを維持・発展させなければ存立すら危なくなる。日本単独では、スマート・パワー(ジョセフ・ナイ)は維持できない。戦前の二の舞は避けなければならない。

 

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