北方領土の私的検証(その2)榎本武揚の樺太千島交換条約
2018 DEC 22 11:11:56 am by 野村 和寿
北方領土の私的検証、その2は、「樺太千島交換条約」(1875年)です。
この条約交渉に当たったのは、榎本武揚という人物です。かなり巧妙な交渉術を駆使しています。
日本側 明治初期の新政府には、すでに、英国から船一隻を購入する外貨さえ残されていませんでした。前回紹介した、1855年締結の日露和親条約で、樺太(サハリン)は両国間の境界を決めず、日本人もロシア人も自由に活動できる”雑居の地”をとしました。
しかし榎本武揚は、樺太をもし獲得したとしても、開発と海岸警備に向ける資金はなく、「樺太を放棄すること」を当初から考えていました。
日本の国威発揚のため、すでに斜陽だった李氏朝鮮を攻めるために、兵員輸送に使う中古軍艦を、露から譲り受け(西郷隆盛の征韓論)、樺太を開発する資金は当面日本にはないので、北海道開発に注力すべきと考えていました。(西郷隆盛は征韓論に破れ、朝鮮に日本が兵を送ることは頓挫され、1876年日鮮修好条約が結ばれました)
露側 正直言えばたびたび火が吹いていたバルカン問題で、日本との交渉どころではありませんでした。露系の住民が多いバルカンで、オスマントルコとの対立が高まっていました。(最終的には、本条約締結直後1877年露土戦争になります。露土戦争1877−78年・結果は露が勝利)のほかにも、対英問題、対オーストリア問題とロマノフ王朝はすでにかげりが見えていました。
サハリン(樺太)は露の流刑地で一部住民が住んでいるだけでした。そこで、日本側住民と露の流刑民との間で争いが耐えませんでした。
しかも南サハリン(南樺太)には、大量の石炭が埋蔵されており、船の石炭の供給地として、英国はコルモラント号は、南サハリン(南樺太)湾内の下調査、湾内の深度調査を行い、米国も興味を示していました。露は太平洋側に基地となる港をぜひ確保しておきたかった、ということがありました。しかし、まだ露東部シベリアは深い森と幅広い川でおおわれていて、無人の大地でした。(シベリア鉄道が全通するのは1904年のことです。)
1874年8月に露交渉役ストレモーホフとの交渉が始まりました。
榎本武揚はあたかも、南樺太(南サハリン)は1855年締結した日露和親条約で日露が混住しているが、大きな問題を起こしている訳ではないと主張、露側の、日露住民が問題を起こしているという主張と争いました。 一方、露側の主張では、逆に函館から日本の大量の流刑民を英国船にのせて、サハリンに送り込んだという主張もしました。
しかし、榎本武揚の本音は、すでに述べたように、南樺太(南サハリン)を経営するよりも、むしろ、ここは北海道の経営に注力するべきだと思っていたため、ぎりぎりまで南樺太(南サハリン)について主張しつつも、露側の千島諸島のうち、4島(具体的にどの島かは不明)を日本に譲るという提案をしてきました。
榎本武揚は、さらに、千島諸島のうちの4島と広大な樺太(サハリン)を交換することは、いくらなんでも、釣り合わないという主張を展開し1875年3月千島諸島全島との交換を要求しました。
一方、露側は、千島全島を日本に譲り渡すと、太平洋の出口がなくなるので困ると主張してきました。ところが、露は日本との交渉時に、さらにバルカン問題でオスマントルコとの関係が悪化してきており、正直なところ日本との交渉どころではなくなりました。
露は、1875年3月18日、態度を軟化させ、サハリンを露、全千島を日本と交換するという提案をしてきました。
榎本武揚は、当初、日本が目指したまさに、全千島の日本領が達成され、さらに露の中古軍艦を入手することができ、樺太の久春小丹港は日本郵船に10年間港税、海関税を免除、日本領事の駐在を認める、近海での漁業は最恵国待遇を与えるとしました。榎本武揚は交渉を成功させるために、日本の譲歩ラインを露に悟られないようにしながら慎重に交渉を継続させた結果でした。
こうして1875年5月7日、千島樺太交換条約は、露サンクトペテルブルクで締結されました。
■樺太千島交換条約1875年(明治8年)
日本駐露特命全権公使 海軍中将 榎本武揚(1836−1908年)1874年3月日本を出発、8月交渉開始、11月14日本交渉開始、1875年5月7日条約調印
締結役 露外務大臣 アレクサンドル・ゴルチャコフ(1798−1883年)交渉役 露外務省アジア局長 ピョートル=ストレモウホフ(1823-85年)
樺太を露領とするかわりに北千島を日本領としました。この結果、すでに日本領となっていた択捉(えとろふ)までの島とあわせて、全千島諸島が日本領となりました。千島全島を日本領とすることで、豊富な漁獲高が期待できる海域を日本の漁民のために確保しました。
ここで注目すべきは、交渉言語が露語でも日本語でもなく、フランス語でおこなわれたことです。条約の正式条文は、フランス語のみ。(榎本武揚が6年間のヨーロッパ留学で、フランス語、ドイツ語、フラマン語が巧みだったことがあります)
千島樺太交換条約は、第2款(かん)で、フランス語からの翻訳と、従来、日本語の訳文とで、
微妙な食い違いがみられ、これがあとあと、問題となってきます。
フランス語からの訳では、「上述のクリル(千島)の諸島のグループは日本国に属する」とあります。これは、クリル諸島全部が千島諸島であり、国後・択捉(えとろふ)を含めてクリル(千島)諸島に属していて、本条約で、クリル(千島)諸島が日本領となったと読めます。
ところが、従来から日本の外務省が根拠としている日本語訳では微妙に異なります。同じ部分は、「現今所領クリル群島」となっていて、フランス語訳のグループに対して「群島」となっていることから、「現今所領」と「クリル」、「群島」の3つの言葉が「同じものを指す」と解釈することができ、日本語訳文ですと(1855年日露和親条約で決まった択捉(えとろふ)島より北の18島だけ」のように読めます。
つまりは、日本の主張は、択捉(えとろふ)以北の18島以外の島は、もともと日本の領土であって、露から本条約で新たに日本領土になったのは、「上記、択捉(えとろふ)島以北の18島」という考えが成り立ちます。
(そもそも、条約文が公文がフランス語ですので、条約としての効力を有しません)
もともと、江戸時代から日本での北方探検熱は高まりをみせていて、1798年近藤重蔵の蝦夷探検、1808年間宮林蔵の北樺太探検、1844年松浦武四郎の蝦夷探検、1869年岡本監輔の蝦夷探検と続いています。
2010年千島樺太交換条約は、戦争などの武力衝突なしに、平穏かつ公然と両国間で締結された条約であるから、現在でも有効。北方領土は、千島全島をロシアに返還要求すべきという主張もあります。なんとこの主張をしているのは日本共産党です。(ちょっと面白いですね。スターリンの拡張主義だそうです)
参考資料 『駐露全権大使 榎本武揚(上・下)』(ヴェチェスラフ・カリキンスキイ著藤田葵訳・群像社2017年刊)
『榎本武揚と明治維新』(黒渕秀久著 岩波ジュニア新書2017年刊)
資料:Wikipedia日本語版
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カズオ・イシグロの小説に見るヨーロッパのクラスファイ
2017 NOV 1 14:14:46 pm by 野村 和寿
入院中に、時間だけはたっぷりあったので、ちょっと難しそうな本をもっていって読んでみようと思い、カズオ・イシグロ『わたしたちが孤児だったころ』When We Were Orphans (2000年・早川書房)を読みました。2017年にノーベル文学賞を受賞した日本・長崎生まれ、イギリス国籍の小説家。ぼくと同じ1954年生まれなのに親近感がわいています。
なぜ、『わたしたちが孤児だったころ』をいまどき読んだかと言えば、自宅に購入してからずっと、読まずにおいてあったからに他なりません。仕事で忙しくて、読みたいと思う本を購入はしたのに、読まずに本棚に眠っている多数の本のうちのひとつだったのですが、入院に際し、持参してみようと思った次第です。
この話、正直、今まで読んだどの小説とも異なり、まことに読みにくく、自分には扱いにくいものでした。
普通、小説と言えば、物語があって、結局結末に向かって、主人公を始めとする登場人物がキャラクターとして、自分のなかでも、動くようになり、主人公は読み手である、自分に成り代わり、いろいろなことを体験しつつ、目標たる、最終物に向かって話を進めていく。読者は、自分になりかわって動きをみせる主人公に思い入れして、次は、次は・・・と要するには、血湧き肉躍るのを喜ぶという寸法に動いていくんだと思います。
ところが、このカズオ・イシグロの小説には、物語性というものが、あるにはあるものの、ほとんどストーリーに動きがなく、もっぱら、自分の心の変化のようなことが大事になってきて、外面的な動きには興味がないといった風を、物語全体に装うのです。
要するには、自分の範疇では、つまらぬ小説ということになってしまうのが、通常ではないかと思うのです。
ところが、入院という余った時間がたくさんあるのと、ほかに、読むものが払底しているものだから、この本に集中せざるを得ず、結果として、この本を読み進めていくにあたり、理解できない文章については、いちいち、どうしてこんなことになるのか?と自問自答し、それをクリアーしない限り、先に進まないということを基本方針として、もっぱら求道僧のように、それこそ、1行1行読み進めていきました。
普通の日本人社会のなかで、編集者という普通の職業よりはほんの少しだけ視野が広いつもりであっても、ご多分にもれず入院しているという境遇ですと、些細なことが、いっぱい見えてくるのに、大袈裟にいえば似ているかもしれないです。
舞台は1930年7月24日から1958年11月14日・ロンドンと、1937年11月20日上海・キャセイホテル
人間の内面では、常に揺れ動く心情というものがあり、事件ともいえないような些細な事件とは常に遭遇している。一方、自分の子どもの頃、自分の周囲に起こっていたこと、幼なじみとの冒険談は、大人にとっては、他愛のない、失笑ものの事件であったとしても、子どもの自分にとっては、「大事件」。
ところが、大人になって、自分の周囲に起こることは、「大事件」だと感じてしまう。ところが本当にそうなんだろうか? つまり、子どもの頃遭遇する子どもにとっての「大事件」と、大人になってから遭遇する「大事件」は、自分の内面において捕らえるならば、両方とも「大事件」だったのではないか?
これを逆に描くとすれば、大人の自分が周囲に起こっていることなど、本当は、大したことではないのではないのだろうか? だからこそ、カズオ・イシグロは、大人になってからの普通なら大事件に発展する「物語」を、読者の望むように、そう発展させずに、むしろ淡々と、しかも、主人公・自分の内面の事細かな変化だけを丹念に描く。
読者側に、カズオ・イシグロの求めるリテラシー(読み書き能力、たとえば1920年代の貴族制が残存する、ロンドンの社交界、上海の外国人租界イギリス地区の状況など)が備わっていないと、読み進めていくのは難しいという小説です。それは、大衆性の求められるわかりやすいのを是としている日本社会へのアンチ・テーゼのようです。
小説中に、1930年代の上海租界イギリス人地区が出てきます。もちろん、中国人はメイドでしかなく、中国の土地なのに、警察権もイギリス、司法権もイギリスがもっています。しかも、主人公の父親は、インドから上海へ阿片を合法的に輸入する商社の一員で、中国マーケットに阿片を売っているのです。阿片を売るということにイギリス人はなんの後ろめたさもなくて、ひとつのビジネスとして認めてもいます。そんな時代の雰囲気が小説には登場します。
「当時は中国は政治的にも文化的にも遅れているから、イギリスを始めとするヨーロッパ租界が、中国人たちをリードしている」という大前提があり、それがいいだな悪いだのではなくて、物語の前提ともなっています。読み進めるうちに、なんとなくですが読者も、1930年代のイギリス租界の支配層の気持ちにもなっていくのです。そこに現れる新興勢力が日本人たちでもあります。もちろん現在の中国は、中国人のための独立した国家を形成しているわけですが。
カズオ・イシグロの小説を読んで感じたのは、小説は決して「万人のために書かれた」ものでなく、あるリテラシー(読み書き能力)を持っているあるインテリのクラスファイされた読者のみに向けて享受されるように書かれているということでした。それがよいかどうかではなくて、ヨーロッパに根付いている伝統でもあるような気もします。
「わかりにくさ」ということでいえば、音楽の世界でも、リヒャルト・ワーグナーのわかりやすい、すでにあった北欧の歴史伝説を下敷きにした楽劇『ニーベルングの指環』に対して、リヒャルト・ワーグナー自身が作曲・物語の構成まで関与したことにより、まるで難解になってしまった舞台神聖祝祭劇『パルジファル』を完全に理解して、聴き進めていくのに似ているなと思います。
一方、短編集である『夜想曲集〜音楽と夕暮れをめぐる5つの物語』Nocturnes five Stories of Music and Nightfull土屋政雄訳(ハヤカワepi文庫)は「わかりやすさ」でいっぱいでした。正直、安堵いたしました。音楽のことが好きであればなおさらのこと、音楽を想起させながら興味深く読める小説です。
第1作目「老歌手」Croonerを少々紹介すると、主人公は、イタリア・ベネチアのサンマルコ広場の5つあるカフェで伴奏ギターを弾いている東欧ポーランド出身の音楽家ヤネク。カフェのアメリカ人観光客のなかに、自分の母が好きだったボーカリスト・リンディをみつけます。
共産圏時代・アメリカのレコード、1950年代アメリカで、ロス郊外道路沿いにある食堂に集まる歌手目当てで成り上がりたいウエイトレス・女子、ベネチアのゴンドリヨーロ(漕ぎ手)・ビットーリオはイタリア人としてもセコくそして少しはずるい・・・といった魅力的な数々の「キーワード」がいくつも登場するなかで、物語は、簡潔にしかし、とても面白く、そして、意外な結末まで用意してくれていて、なかなかに楽しませてくれます。
ベネチアでの話というのに、遠く離れた1950年代のアメリカのジャジーな雰囲気を適当にフレーバーしてあります。この小説で要求される読者の資格は、もっぱら、「音楽が好きなこと、そして、音楽の背景に流れているものを信じていること」だと思われます。
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ケストナーの『ふたりのロッテ』とメルヘン・オペラ『ヘンゼルとグレーテル』
2017 AUG 16 18:18:31 pm by 野村 和寿
ドイツの詩人で児童文学者のエーリッヒ・ケストナー(1899-1974)の子ども向け小説『ふたりのロッテ』を読了しました。翻訳は高橋健二の翻訳で『ケストナー少年文学全集6』に所収の1962年版(岩波書店)と、池田香代子の翻訳で『岩波少年文庫138)に所収の2006年版(岩波書店)とが出ていて、そのどちらもを読んでみました。ちなみに、少年文庫には、小学4・5年以上と書いてあります。ぼくもその意味では、小学4・5年以上に該当しているので大丈夫かと。
この作品は単なる子どもだましの作品かと思うと大いに違っていて、大人が身につまされる作品です。ネタバレを覚悟で、書いてみます。ビュール湖のほとりのセービュールにある夏の間だけの寄宿学校にやってきた二人の少女、ひとりはルイーゼ・パルフィー ウィーンからやってきた長い巻き毛の少女。南ドイツ・ミュンヘンからやってきたのはきっちり編んだおさげの、ロッテ・ケルナー。ふたりは、髪の毛の形以外、姿形がうり二つだったのです。ふたりのそっくりさんは、同じ部屋、ベッドも隣同士になります。
ルイーゼには父親しかおらず、ロッテには母親しかありません。
ウィーンからやってきた巻き毛のルイーゼのお父さんパルフィー氏は、オペラの楽長、ウィーンで作曲の傍ら、歌劇場で指揮をしているという設定。どうも、R.シュトラウスを思わせる設定なのが面白いです。
歌劇場では、まさにフンパーディンク(1854-1921)のメルヘン・オペラ『ヘンゼルとグレーテル』(1893年初演)が上演されようとしています。本のなかででてくる「ふたりのロッテ」とこのメルヘン・オペラは浅からぬ因縁です。フンパーディンクのほうは、グリム童話を翻案して3幕ものの子どもたちの為の『オペラにしたててあります。グリムが悲劇なのに対して、オペラではハッピーエンドになっています。対象が子どもたちといっても、作曲者フンパーディンク自身、ワーグナーの弟子だったので、その全体を流れるメルヘンといっても、かなりワーグナーの色が濃い作品になっています。
しかも、よくよく考えると、このメルヘン・オペラ『ヘンゼルとグレーテル』は、箒(ほうき)職人の兄ヘンゼとグレーテル(妹)が、両親に捨てられて、森の中に送り出されます。しかも両親は子どもたちを愛しているのです。両親はそうすることを悲しんでいます。森の中で迷ったところからストーリーが始まります。
この点も『ふたりのロッテ』は、しっかりと、関係させています。もちろん、少年時代にこの本を読んだときは、そんなこと知るよしもありませんでした。
メルヘン・オペラの『ヘンゼルとグレーテル』の話を少し。なかで、お菓子の家 実は魔法でおびきよせた子どもたちを食べてしまう悪い魔女の家に、日本では、「お菓子の家」と称しているのですが、「ふたりのロッテ」の中では、「ぽりぽりと取れるコショウ菓子の家」と書いてあります。少し調べてみると、香辛料お菓子レープクーエン(Lebkuchen)わけても、家の形をしたものを、プフェッファークーヘンハウス(Pfeffer kuchenhaus)と称するのだそうです。哱蜜、香辛料、オレンジ・レモンの皮、ナッツを用いて作ったケーキのことだそうです。
そのことを日本では、「お菓子の家」と呼んでいたのを、今回初めて知りました。
映像では、1981年にわざわざ凝ったバイエルン州立歌劇場を中心に活躍した演出家エファーディングの凝った演出のもと、ゲオルグ・ショルティ指揮ウィーンフィルハーモニー管弦楽団が、小さなオペラハウス、会場にいる観客は、子どもたちだけ、そして、ピットには、コンサート・マスター ゲルハルト・ヘッツェル率いるウィーンフィルハーモニーが、ちゃんと正装の燕尾服を着用して演奏にのぞむという映像です。
歌手陣も素晴らしく ヘンゼル=ブリギッテ・ファスベンダー(メゾ・ソプラノ) グレーテル:エディタ・グルベローバ(ソプラノ) ペーター:ヘルマン・プライ(バリトン)お母さん ヘルガ・デルネシュ(ソプラノ)。最初の3人は有名だと思いますが、デルネシュは、1967年のバイロイトでワルキューレを歌ったり、カラヤンの『トリスタンとイゾルデ』でトリスタンを歌っている往年の名歌手です。ワーグナーの弟子だった作曲者フンパーディンクはこのあたりにも、ワーグナーの影響の歌手をおいているところがなかなかにくい演出です。全部で1時間49分。ヨーロッパでは、よく子供連れで聞くことが出来るクリスマスの上演になっています。全曲 下記に動画がありました。
ほかにも、YouTubeでみつかりました。第2幕に「夕べの祈り」というヘンゼルとグレーテルの歌う二重唱がありますが、ここでは、エリーザベト・シュヴァルツコップとエリーザベト・グリュンマーが歌う音楽がありました。カラヤン指揮のフィルハーモニア管弦楽団です。
エリーザベト・シュヴァルツコップ エリーザベト・グリュンマー
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮フィルハーモニア管弦楽団
次に続くのが14人の天使たちによる、「夢のパントマイム」という曲です。この曲をオットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団が演奏している音声です。
夢のパントマイム 1960年 オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団
さて本題は「ふたりのロッテ」ケストナー作に戻ります。
二人のロッテのうちのウィーンのルイーゼは、父親ルートウィッヒ・パルフィー氏がオペラの作曲家で「真の芸術家かたぎ」の楽長、奥さん(母)がいないので、食事はインピリアルホテルの食堂で、オムレツ(ウィーン風)、父親は牛の足のいぶし肉(Tafel spitz ターフェル・シュピッツ)をいつも食べています。父の内面生活は独特なもので、複雑、音楽的な着想がわくと、それを書き付け、作曲するためにひとりにならなければならない。ウィーンのフィルハーモニーがバルフィー氏の最初のピアノ協奏曲を初演(のために作曲)したときは、彼は無造作にグランドピアノをとりにやらせ、ケルントナー環状通り(ウィーンのリンク)に借りた仕事部屋に運ばせたとあります、仕事部屋では楽譜を書いているばかりでなく、オペラの女の歌手たちと歌の約の研究に余念がありません。お父さんパルフィー氏のつきあっている女性はイレーネ・ゲルラハ嬢といいます。ワーグナーの『ニーベルンクの指環』のワルハラを想像してしまう名前です。もじりでしょう。
ウィーン国立歌劇場で、『ヘンゼルとグレーテル』をパルフィー楽長が指揮をします。ロッテは、よそいきの服を着て、ウィーン国立歌劇場の2階のロージェという小部屋のようになった上等の席で、天鵞絨針(びろうど)の手すりに体をおしつけて、目を輝かせながらオーケストラを見下ろしています。えんび服を着たおとうさんは、なんとすばらしいスタイルでしょう。楽手たちの中にはずいぶん歳をとった人もいるのに、なんとみんなが指揮に従っています。お父さんが棒で強くおどすと、みんなはできるだけ大きな音で演奏します。低くさせようと思えば、みんなは夕べの風のようにさらさらと鳴らします、みんなはおとうさんをこわがっているにちがいありません。お父さんはさっき満足そうに桟敷席のルイーゼにむかって、目くばせをしました。ウィーン国立歌劇場には顧問官(医者)もいます。医者の顧問官シュトローブル先生です。この先生さすがにウィーンらしく、フロイト(ジークムント 1856-1939年)の影響を受けている精神科医なのです。このあたりも面白いです。この人物もあとあと物語に効いてくる存在です。
一方、もうひとりのロッテ ミュンヘンのロッテは、母だけで父がいません。母はルイーゼロッテ・パルフィー婦人(旧姓ケルナー)は、6年前に夫と離婚、ミュンヘングラフ出版社でグラフ誌の編集長です。編集者なので、帰宅は夜遅くなり、ロッテが、「うちの小さい主婦さん」をしています。ミュンヘンのマックス・エマヌエル通りの小さな住まいに住んでいますが、ロッテは、母のために小さな主婦さんとして、晩のおかずの材料を買いに行きます。オイゲン王子通りのかどの肉やフーバー親方のところで牛肉を半ポンド、かのこまだらのヒレ肉で、腎臓と骨を少しずつ添えてもらいます。スープに入れる野菜とマカロニと塩をかうためワーゲンターラーおかみさんの食料品店に通います。マカロニスープをつくります。マカロニの水のなかに塩をどれくらいいれたらよいのか?ニクズク(ナツメグの和名です・ニクズク(肉荳蔲))をおろしたり、野菜を洗って、ニンジンを削ったりします。20分前に煮立っているお湯にマカロニを投げ込まなければなりません。
もう賢明なる読者のみなさんはおわかりだと思うのですが、夏の寄宿学校から、夏が終わるときに、ミュンヘンへ、ウィーンへ、ふたりのロッテが帰宅するときに、なにしろうり二つの姿形のふたりは、ふたりで、謀って、取り替えっこをしてしまうのです。つまり、ミュンヘンから来たロッテは、「ウィーンのルイーゼ」になりすまし、ウィーンへ。ウィーンから来たルイーゼは、「ミュンヘンのロッテ」になりすまし、ミュンヘンへ戻ります。
姿形はうり二つなのに、性格の違うこのふたりにふりかかる毎日の生活とは? ふたりのロッテは、ふたりだけの情報交換の手紙に、局留め郵便を利用しています番号は「ワスレナグサ ミュンヘン18番」です。そしてふたりのロッテの結末は?お父さんパルフィー氏の音楽家と、お母さん編集者ルイーゼロッテ・パルフィー女史の運命は?
あとは、みなさんお読みになってみてください。全部でわずか205ページほどの佳作です。原題は”DAS DOPPELTE LOTTCHEN” Erich Kästner 1949です。
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『飛行艇クリッパーの客』Ken Forettの乗客になる
2017 AUG 5 6:06:09 am by 野村 和寿
飛行艇を舞台にした海外小説『飛行艇クリッパーの客』(新潮文庫・上下巻1993年)を読了しました。前回『インペリアル航空第109便』(リチャード・ドイル著)の飛行艇は、英国のショート社製ショート・サザーランドと呼ばれる飛行艇でしたたが、今回の飛行艇は、アメリカ・ボーイング社が1938年に完成させたB-314飛行艇です。
B-314クリッパー機は全長109フィート(33.2メートル)、翼幅長さ152フィート(45.6メートル)通常、船だと大西洋横断に、4-5日かかってましたが、クリッパーだと、正味25-30時間で、イギリスとNYを結ぶことが出来ました。
1939年現在のポンドとドルの交換率は1対4.2 1ドルは3.5円でしたので、NYロンドン⇒NY運賃 片道90ポンド 2017年現在の円レートで概算すると、片道375万円です。ちなみに英国航空のファーストクラス現在のロンドン・NY片道運賃は、122万円ですので、当時の片道運賃は現在の運賃の約3.07倍ということになります。この価格がわずか19人の乗客になると思うと高いのか高くないのかさて・・・?
「空飛ぶ宮殿」と呼ばれ、いわく、美しくこわれやすいシャボン玉。世界一ロマンチックな飛行機、史上最大の大西洋横断旅客機といわれていた。19人の乗客をのせて、イギリスのサウンサンプトン河口域を離水のためにエンジンをパワー全開にして、風上に機首を向け、一路最初の着水地、アイルランドのフォインズ目指して、離水しました。B-314クリッパーは、4基の巨大星形1500馬力のエンジンを4基もち、航続距離は、ゆうに、アイルランドから一気にカナダ・ニューファンドランドまで3000㎞を飛行することができます。B-314クリッパーは1938年に完成し、全部で12機が製造されました。その中の1機が物語に登場する「クリッパー」とは、もともと快速の帆船の意味です。
前回取り上げた飛行艇の「インペリアル航空第109便」(リチャード・ドイル著)の物語が、飛行艇の乗員の話だったのに対して、今回とりあげるケン・フォレットの作品「クリッパーの乗客」は、飛行艇に乗り合わせた乗客を中心とする物語。「袖振り合うも多生の縁」ということで、ぼくもこのクリッパー機の乗客になったつもりで読み進んでみることにしました。
ロンドンから特別仕立ての車両に乗車し、列車内では、フルコースのランチ(シュリンプ・カクテル、フィレミニヨン・ステーキ、アスパラガス・オランデーズソース、マッシュポテト添え、ピーチメルバ、プチフール、コーヒーこれだけみても英国的という感じで感心はしませんね)をいただき、飛行艇の出発地である、サウサンプトンの港へと向かう。ときは1939年の9月 ヒトラーによるポーランド侵攻で幕が落とされた第2次世界大戦の幕が落とされたその3日後ということになってい。ちなみに、9月1日は日曜日、最初のロンドンに出た独空軍空襲に対しての空襲警報は、英国国教会の礼拝の最中、11時28分に出されたとあります。このようなエピソードがわかって面白いです。
その3日後の9月4日、戦争の難をのがれアメリカを目指す幾多の人々のなかで、このNY行きのB-314クリッパー機も登場します。著者のケン・フォレットは、入念な準備による細かい描写で知られた作家です。代表作『大聖堂(ドゥオーモ)』で、ぼくは、ヨーロッパ各地にある大聖堂がなぜ、同じ形をしているかを知ることが出来ました。つまり大聖堂ばかりを建築して回っている職人集団が存在し、彼らがあちこちの大聖堂を建築したので、形が同じだったのです。
話をクリッパーの乗客に戻しましょう。
ここに登場する乗客にも、ぼくが今まで知らなかった1939年当時の事情がわかってとても興味深いものがありました。アルジャーノン・オクスンフォード卿一家が登場します。父親であるオクスンフォード卿は、なんとイギリスのファシスト党の党首をしていた人物に描かれています。英国ファシスト党の考えというのは、戦後タブーでなかなか真意がわかりませんでしたが、今回、それを知ることが出来ました。
英国ファシスト党の考え方は、「資本主義、社会主義、がともに破綻し、民主主義は結局一般大衆にはなんの利益ももたらさない。善意独裁者が、産業を統制する強権国家主義をめざし、大衆に訴える。世界はこのままいくと混血児とユダヤ人のものになってしまう」と信じる。なぜ、ファシスト党なのか? これには、第一次世界大戦後のイギリス経済、特に農産物価格の世界的暴落をもろに受け、オクスンフォード家は破産寸前になった。そこで、アメリカ人銀行家の跡取り娘を嫁に迎えている。
イギリス貴族の経済的衰退とファシズムとが結びついたという例は、ほかでもみたことがあります。日系の作家カズオ・イシグロが書き、映画『日の名残』(1993年・英国)となって名優アンソニー・ホプキンスが、その執事役として演じていました。また、史実でも、英国にもあった黒シャツ党は、ロンドンにも存在しデモ行進をしていたとありました。ファシズムはイタリア・ドイツだけではなく、英国にも、独伊以外でもっとも浸透をみせていたのでした。父の影響を受けた長女エリザベスは、21歳。熱烈な王制主義者でナチ崇拝者。「このままだと世界は混血児とユダヤ人のものになってしまう」と思い込んでいます。しかし父への反発は強く、旅行中に「ドイツ・ナチズムを崇拝する外国人」になりたくて、リスボン行きの船でドイツへと向かいます。
一方で、ユダヤ人に救いの手を差し出す人物も登場します。フランス人の銀行家ガボン男爵。シオニズムのようなユダヤ民族主義運動に莫大な富を投じ、イギリスの不興をかている。ガボン男爵の考えは「我々ユダヤ人自身の国家を作らねばならない。アラブ人を排除することにつながる。軍国主義と人種差別が合体したものがファシズムだ」とし、ドイツの世界的に高名な原子物理学者カール・ハートマンをアメリカへの亡命に手を貸そうとしています。
終始、モーツァルトの歌劇『魔笛』でいえば、パパゲーノとパパゲーナのように道化で登場するのが二人の若者。ハリー・バンデンポスト・アルビー 実名はハリー・マークス 22-3歳とオクスンフォード卿の次女マーガレット19歳。
マーガレットは、侯爵家によくあったように家庭教師に勉強を教わり、学校には通ったことがない。その恋人で、オックスフォードの最終学年だったイアン・ロチデールをスペイン市民戦争義勇兵として国際旅団に参加し戦死。社会主義者で、ジャズが好き、キュビズムの絵が好き、自由詩が好き、英国軍の傷病者運搬車の運転手になりたい。
一方のハリー・マークスは、父親が第一次大戦で戦死し、ビルの清掃婦の母親の手ひとつで、貧しいバターシーのアパート、共同流し場とトイレで育ったが、高級宝石店のショウウインドウをのぞき、宝石をみる目を磨いているうちに、近代的なブリリアント・カットと19世紀の旧式マインカットのダイヤモンドのカットの違いを覚え、午後のテニスの合間にお茶を飲みに戻ってくるという生活や、遅くに起き陶器のカップでコーヒーを飲み、華美な服装をし、高いレストランでの食事に憧れていた。アスコット競馬場で、器量のよくない金持ちの令嬢に次から次へと声をかけ、夜会に呼ばれ、ドーセット伯爵邸では、ジョージ王朝風の銀のボンボン入れや、同漆塗りのかぎ煙草入れ、ミセス・ハリージャスパーズ邸では、ティファニーのルビーの留め金付きパールのブレスレットを、マルボリ伯爵夫人邸では、銀のチェーンつきアールデコのダイヤモンドペンダントを失敬、2年間の盗みの総決算として247ポンドを盗みます。この若い二人は一服の清涼剤として登場します。
ちなみに、本ブログを書くにあたり調べていくうちに面白いことに気がつきました。当時、実際に、飛行艇の途中経由地である。アイルランドのフォインズ(首都ダブリンから4-5㎞)に、現在、フォインズ博物館飛行艇&海軍博物館のホームページを見つけてしまいました。こういうことはやっていて、なにかとてもうれしいことでした。下記からURLでいきつくことができるので、是非のぞいてみてください。
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インペリアル航空第109便その2
2017 JUN 4 15:15:16 pm by 野村 和寿
本の題名 インペリアル航空第109便とは実際にあった飛行機会社なのでしょうか?これをつきとめるのが、今回です。
インペリアル航空は確かに実在していました。インペリアル航空とは1924年から1939年まで実際に存在した英国の航空会社です。その後第2次世界大戦に突入したため、ブリティッシュエアウェイズ(今のとは異なります)と合併して、英国海外航空(BOAC)となり、さらに、1974年にBA(英国航空)となりました。ショート社のエンパイア、戦後には改造型の諸ショート・サザーランドといった飛行艇を擁していました。
実際にインペリアル航空の運行表をみてみます。
実際の費用は、インペリアル航空の航空運賃をみてみますと、ダーバン(南アフリカ)ロンドン(ササンプトン)間が、往復で225ポンド。
ちなみにインペリアル航空の時代設定である1930年代の貨幣価値は1ポンドが、当時の日本円で17円くらいでした。日本円に換算すると3,842円
なんと510万7393円! すごいお値段です。
現在の英国航空のロンドン・南アフリカ ダーバン便を検索してみます
ヨハネスブルク(南アフリカ)19:20発 ロンドン・ヒースロー着05:30着(いずれも現地時間 所要時間21時間40分 ファーストクラス77万6,700円)
1930年代はやはり飛行艇は10数名しか乗客が登場できず随分と割高だったのがわかります。
■飛行艇は英語ですと、Flying boat になります。Air shipですと飛行船です。船から航空機へ。確かに現在でも航空機の機長はみずからの機をシップと呼び、また自らをキャプテンと呼ばせています。この呼称も船の名残なのだと思います。
■インペリアル航空の運航時刻表をみましょう。不思議なことに、エジプトにはルクソール、カイロ、アレクサンドリアとなんども着水します。最初、これは何だろうと思っていたのですが、どうも観光旅行の一助だと推察します。つまりルクソールのファラオやピラミッドの上空を旋回し、乗客に観光してもらおうという計らいらしいのです。
また、着水場所を調べていくと、湖沼や河、港湾の最奥部のことが多く、なるだけ波静かな海を着水地点に選んでいたこともわかってきました。
南アフリカのダーバンを10:00発
1日め*ダーバン(南アフリカ)発10:00
*ロレンソ・マルケス(旧ポルトガル領モザンビーク現モザンビーク共和国)
着13:00 現在の名称はマプト モザンビークの首都 マプト湾テンベ河口
*べイラ(同)その日の午後着 時間未定 ベイラ1泊
ベイラはモザンビーク湾をのぞむモザンビーク第2の港湾都市
2日め*ベイラ発 06:00
*モザンビーク着10:40
*タンガニーカ・リンディ(旧英国領 タンガニーカ共和国をへて現在タンザニア連合共和国)着14:26タンザニア南部にリンディ湾億に位置する。
*タンガニーカ・タルエスサラーム(同)その日の午後着 時間未定 タラエスラム1泊 インド洋に面した都市 タンザニアの元首都(現在の首都はドドマ)
*なおタンザニア人は、第2次世界大戦では、イギリス軍ニ87000人が出征し、インパール作戦で、イギリス軍の一員として日本軍と戦ったことはあまり知られていません。
3日め*タンガニーカ・タルエスサラーム発08:00
*モンバサ(旧英国領 ケニア)着10:00モンバサはケニア海岸州モンバサ島の都市
*キスム(ケニア)着 その日の午後着 時間未定 キスム1泊キスムはビクトリア湖カビロンド湾奥部
4日め*キスム(ケニア)発07:00
*カンパラ・ポートベル(旧英国領 現・ウガンダ)着7:45
カンバラ・ポートベルはビクトリア湖北岸
*マラカル(英埃=エジプト領スーダン 現・南スーダン)着13:25 マラカルは、スーダン上ナイル地方東部ナイル州
*ハルツーム(スーダン)その日の午後着 時間未定 ハルツーム1泊 ハルツームはウガンダから流れる白ナイル、エチオピアから流れる青ナイルの合流地点の南岸
5日め*ハルツーム(スーダン)発07:00
*ワディハルファ(スーダン)7:45
*ルクソール(エジプト)着14:05 ルクソールはナイル西岸古代エジプトの都テーベがあった所。
*カイロ(エジプト)着16:55 ナイル川下流河岸の交通の要衝
*アレクサンドリア着 夜着 アレクサンドリア1泊 ナイル川デルタの北西部
6日め*アレクサンドリア(エジプト)発05:45
*アテネ(ギリシャ)着11:05
*ブリンディジ(イタリア)13:30 イタリア半島の靴のかかとに位置するプーリア州 19世紀スエズ運河開通以降、アジア、アフリカとヨーロッパとを結ぶ欧亜航路などの発着地の一つ 森鴎外「舞姫」の冒頭に登場します。
*ローマ(ブラチアーノ湖・イタリア)その日の午後着 時間未定 ローマ1泊
7日め*ローマ(イタリア)発8:15
*マルセイユ(フランス)着10:50
*サン・ナゼール(フランス)その日の午後着 時間未定 サン・ナゼール1泊 仏大西洋岸ロワール川三角州の右岸に位置する。
8日め*サン・ナゼール(フランス)発09:00
*ササンプトン(イギリス)着11:00
*ロンドン・ウォータールー駅 午後着 8日めにしてやっとロンドンに到着しました。おつかれさまでした。
そしてとうとうYou tubeで飛行艇の内部、サービス風景、飛行風景の動画を発見しました。BBCのHig Fryers How Britain Took to the Airという映像です。全部で58:11ですが、なかでも42:57前後からインペリアル航空のサウサンプトン発南アフリカ行きの映像が登場します。お楽しみにごらんください。
これも、BBCが制作したThe Last African Flyinfboat full documentary という1980年ごろのドキュメンタリーです。全部で1時間13分の長編ですが、最後にのこったエジプト・アレクサンドリアに残った飛行艇で飛行してみるという内容ですが、冒頭の4分までは、1930年代のインペリアル航空の実際の機内サービスが動画で捉えられています。飛行艇の内部が観られるなんてまさに夢のような瞬間でした。
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インペリアル航空第109便
2017 MAY 31 12:12:26 pm by 野村 和寿
長いこと読もう読もうと思っていましたが、ようやく暇が出来て、1ヶ月かかって読破いたしました。飛行艇ものの冒険小説としては名高い「インペリアル航空第109便」。2段組で403ページという長大な小説です。「飛行艇もの」は、当然、乗客も十数名に限られており、人間関係とそれぞれの事情が色濃く描かれます。飛行艇の旅程も長く、しかも世界中を飛ぶということからミステリーものには大変適している題材です。ちょうど、アガサ・クリスティが「オリエント急行殺人事件」が密室の殺人事件ものというのとどこか似ています。原題はIMPERIAL 109(Arlington Books;1977)著者はリチャード・ドイル。コナンドイルの甥孫(甥の息子)なのです。
舞台は1939年 ナチス・ドイツと英仏のミュンヘン宥和会談直後、オーストリアがナチス・ドイツに併合された後で、ナチス・ドイツによるチェコスロヴァキアに進駐した頃という戦争の足音までもが色濃く反映されています。
インペリアル航空G-ADHO第109便カテリナ号 登場人物もお金もちの乗客も多く、恋の話もあり、途中、機長デズモンドは、エジプト・カイロで自動車レースにまで出場(カイロ→ファイユーム往復 車1924年製イスパノ・スイザ・ブローニュ、好敵手はデステ男爵1938年製ドライエ ル・マン24時間レース1938年優勝)
登場人物は、1930年代に、長距離飛行の乗客なので当然お金持ち、鉱山資本家夫妻、やお金にいとめをつけない男爵夫妻、さらには、お金持ちを付け狙う泥棒、そして時代ということで、ナチスドイツの陰謀まで見え隠れし、ウィーン在住ユダヤ人の国外脱出にまで話しが行きつきます。
登場人物 操縦士 ●デズモンド・オニール(カテリナ機長主人公アイルランド人 冷静沈着な操縦、大西洋横断はこれで6度目。ただいま妻と離婚協議中、新しい恋人とつきあっている。1924年製イスパノ・スイザ・ブローニュを駆り自動車レースに出場)
操縦士●ケン・フレーザー副操縦士(告げ口好き)●ラルフ・ケンドリックス(通信士 元ユンカース機で墜落のトラウマ) ●サンディ・エヴェレット(パーサー客室係)●スチュワート・アンディ・ドレーパー(元客船キュナードの客室係スチュアードだった。スチュアード)
乗客●スチュアート・カーティス(実業家 クラークスドーブ南アフリカ鉱山を経営。しかし自社株がことごとく値を下げており、NYで自社株の速やかな売却をもくろみ、そのために大層急いでいる。)
●シャーロット・カーティス(根っからの金持ち妻 派手好き)
●アルフレッド・デュクロワ(ミセスカーティスのメイド) ●ルカ・デステ(イタリアの男爵 シャーロットと仲がいい。大型のドライエで、シャーロットをのせて、カイロ・ファイユーム自動車レースに出場、デズモンドと競う。)●ジャケッタ・デステ(妻 サヌーシと仲がいい)ローラ・ハートマン(アメリカ人 カーティスの若き秘書
●キング夫妻(アメリカ・アリゾナ州フェニックス在雄の中年夫婦)●ジョンソン夫妻(子連れ)●ドクター ヴァン・シュミット(鉱山技術士 実は泥棒)●イアン・ソーン海軍大尉(アフリカ・シャンベで鰐に襲われて死亡)●パメラ(デズモンド・離婚係争中の妻)
■まきおこる諸問題 ●燃料タンク漏れでアフリカ・シャンベに緊急着陸●若き海軍ソーン大尉がアフリカ・シャンベで大鰐に襲われる●ラシッド・アル・サヌーシ(若きアラブ人で敵デステを狙う。トルコ人アーメッド・ヤルチン・ベイになりすます)が一族の敵をうつため、ルカ・デステ男爵を狙う。●ダーフィト・ヴィーツマン(ユダヤ人ウィーン大学医 学部長)●ジーグレット(ユダヤ人 ヴィーツマンの娘)父娘がナチスの要人(ヒットラー)の出自の秘密を知る為追われローマから本機に乗り込む。●元米陸軍航空隊所属の操縦士だったパット・ジャレットが、ウォーレン湖で積み荷の金塊をねらうべく本機に襲いかかる。
■敵●パウル・リントレン(ナチス・スイスのエルンスト・ペルレル名義のにせパスポート) ●パット・ジャレット(第1次世界大戦に参戦した元陸軍航空隊所属のパイロット 全長27フィートのスーパーマリン機をもつ。ニューハンプシャー・ウォーレン湖で搭載の金塊を狙う )
■旅程 1939年3月10日金曜日南アフリカ(ダーバン)、シャンベ緊急着陸(スーダン) ウガンダ(ポート・ベル)マラカル(スーダン)エジプト(ハルトゥーム・カイロ・アレクサンドリア)、クレタ(ミラベル)、アテネ、ローマ(ブラチアーノ湖)、マルセイユ(マリニョーヌ)、イギリス(サザンプトン)、南アイルランド(シャノン河口フォインズ上空で空中給油)カナダ(ニューファンドランド=ポトウッド・モントリオール)、NY(イーストリヴァー・ラガーディア・マリン・ターミナル)1939年3月16日アメリカ東部標準時16:00約6日間もかかる豪華な豪華な旅行なのです。このあたりは船旅の影響を色濃く残しています。
SPECIAL THANKS TO HP airline taimetable images
http://www.timetableimages.com
■話のおもしろさ
事件は早々に起きます。燃料タンク漏れで、シャンベ(スーダン)に緊急着陸。ミセス・キングの上陸の際に、上陸用の船を動かそうとした海軍ソーン大尉が河の大鰐に襲われ命を落とすという事件が起きてしまうのでした。飛行艇は空港設備がなくても、大きな海や大きな河、大きな湖など係留設備がありさえすれば、どこでも着水することができます。シャンベにもインペリアル航空の支所が設けられ、給油の手配あ連絡員が配置されています。さらに、1939年当時イギリス軍払い下げの爆撃機を改良して、空中給油も行われていました。なにしろ一時に長距離は飛ぶことが無理なので、大都市に着陸する度に当地の有名ホテルに宿泊し、豪華な食事をいただくこともできました。
■操縦風景 カイロ到着予定は12分後、2千フィートまで降下 速度140ノットまで落とす。回転数2千 風速南西より20ノット 視界良好 スロットル全開 砂埃でわずか数分のうちに弁や空気取り入れ口がつまりたちまちにして複合した出力低下をきたす。エアポケット、400フィート降下 3番エンジンオーバーヒート 700フィート、650、600。デズモンドの眼は高度計に釘付けになった。480,45機首があがりはじめる・・・。/機首 係累索を解く。エンジン始動の準備 4基のエンジンがたてつづけにすばやく息を吹き返す。轟音響き渡る。4分の1フラップ プラッチアーノ湖からイタリア領海をんけだす。マルセイユまでのルート、30分でコルシカ島ロトンド山が見えてくる。高度7千・・・。マルセイユ12時15分前m民間空港マリニョーヌ着水・・・。
■本の紹介文
「1939年3月10日 世界大戦の迫りくるころ、インペリアル航空第109便は、200万ドル相当の金塊を摘んで、やがて悪夢へと突入することになる6日間の旅に出発した。インペリアル109は大英帝国の果てから果てへと郵便物や貨物、12人の乗客を運ぶ壮大豪華な飛行艇として知られていた。白く輝く胴体、高く伸びた翼、1000馬力の過給されたブリストル・ペガサス12ラジアル・エンジンを4基搭載し、喫煙室、個室、散歩用デッキや劇場の設備もあり、後宮な乗客を運んでアフリカ全土をナイル河デルタ地帯やカイロを経て、ギリシャ、イタリア、フランス、そしてロンドンを通って目的地のニューヨークまで就航している空飛ぶ宮殿として評判であった。だが、その便には復習の念に萌えるアラブの貴公子、冷たく妖しい美貌で男達を乱す女、冷酷なゲシュタポの手先、偏屈な金銭欲にかたまった億万長者らが同乗し、機長のオニールと乗員ともどもスキャンダルと政治、陰謀と恐怖、破滅と誘惑に巻き込み、やがてニューヨークでクライマックスに達する旅を開始するのである。やがて消えゆく大戦前夜の悦楽と華美のノスタルジックな背景とスリリングで緊張感あふれる物語を対照させてサンデータイムズ紙に評されたエンターテインメント巨編!!(裏表紙の紹介文より)1981年初版刊行当時の勢いが文章に表れています。本書を読みたくなってきましたか?本書はもちろん現在は絶版になっています。しかし好都合なことにアマゾンの古書店で1円から購入することが可能です。
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1949年のロンドンから東京へ飛行艇の旅
2017 APR 18 16:16:12 pm by 野村 和寿
BOAC(英国海外航空)1949年3月の時刻表から、ロンドンから遠く、ファー・イースト東京までの飛行機の旅を再現してみます。
ロンドンのBOAC(英国海外航空)の乗客ターミナルから、送迎車でサウサンプトンまで。サウサンプトンといえば、悲劇の客船タイタニック号の出発港として名高い港湾都市です。
港には、ショート社製の飛行艇サンドリンガム5型号が駐機中。1946年6月22日にデビューした「サンドリンガム号」は2層デッキの飛行艇。艇内は、プロムナードデッキ・ダイニング・カクテル・バーなどを備え、座席で22名、寝台で16名、を搭乗させることができます。
1949年3月6日日曜日
●ロンドン・ターミナル発7:00(送迎車移動)
- サウサンプトン(ロンドン)発11:00
▇第1経由地は、イタリアのシチリア島
イタリア・シチリア島アウグスタ着19:00
アウグスタといえば、イオニア海に面した港湾都市で、英国第8軍モントゴメリー将軍によって1943年に連合軍が上陸した都市であります。
この日はアウグスタに宿をとります。
▇3月7日 2日目は、エジプト・アレクサンドリアへ向かいます。
アウグスタ発 午前9:00
第2経由地は、エジプトのアレクサンドリア 午後15:15着です。
古代エジプトプトレマイオス朝の首都で蟻、エジプト第2の都市です。
ここでまた1泊 飛行艇は、海上のすれすれを飛行するため、昼間の飛行が原則でしかも長時間の飛行は、難しかったのです。
▇3月8日 3日めは、バーレーンヘ向かいます。
第3経由地は当時英国領バーレーンのバーレーン(現在はマナーマ)
アレクサンドリア発 午前7時
バーレーン着17:00 ここで1時間の休憩をとります。
▇第4経由地パキスタンのカラチヘ向かいます。
バーレーン発 午後18:00
パキスタンの首都カラチ着 日が変わって(3月9日)の日の午前1:45
ここで6:15の休憩 この日はさらに飛行します。
▇第5経由地は、インドのカルカッタです。
カラチ発 午前8:00
インドのカルカッタ(現コルカタ)着 午後16:00
コルカタでやっと1泊できます。やれやれ。
▇3月10日 第6経由地は、ビルマのラングーン(現在のミャンマーのヤンゴン)です。コルカタ発 午前6:00
ビルマのラングーン着 午前11:00 ここで1時間休憩を取ります。
▇第7経由地は、タイのバンコクです。
3月10日 ラングーン発 午後12:00
第7経由地は、タイのバンコク着午後15:00
ここで1泊します。
▇3月11日 第8経由地は、香港です。
バンコク発 午前8:00
香港着 16:45ここで1泊します。
▇3月12日 第9経由地は、上海です。
香港発 午前10:00
上海着 午後15:00ここで1泊します。
▇3月13日 いよいよ東京(横浜)に向け出発します。
上海発 午前8:00
日本の岩国・到着時刻は午後17:00
ここでさらに1泊し
3月14日 岩国発午前7:30
横浜(東京)着10:30
時刻表にはどこにもないのですが、たぶん、到着時刻は現地時間のような気が致します。
やっと横浜港に到着しました。なにしろ飛行艇なので、羽田飛行場ではなくあくまでも、横浜港というところが面白いです。
旅程をみると、後年、南回りヨーロッパ行き航路東京=マニラ=バンコク=ラングーン=カルカッタ=ニューデリー=カラチ=バーレーン=カイロ=ローマ=ロンドン(1952年:英国海外航空、機材:デハビランド DH.106 コメットI、経由地:9箇所) とよく似ていたことがわかります。
▇まとめてみますと
3月6日日曜ロンドン・ササンプトン発
3月14日月曜東京(横浜)着
実質飛行時間 73時間45分
所要時間8泊9日 どうですか?素敵な旅をご堪能いただけましたでしょうか?
気になるお値段ですが、往復387ポンド、片道215ポンドとあり、1949年の円・ポンド換算が1ポンド1,080円でしたので、単純計算すると往復370,046円、片道216,720円となります。昭和24年と平成27年とで7.75倍になっているので、現在の貨幣価値ですと、おおよそ、往復2,86万7,856円 片道1,67万9,580円。 ちなみにBA(ブリティッシュ・エアウェイズ)の正規ファースト・クラス・ロンドン往復航空運賃が1,34万2,690円
所要時間12時間20分(ノンストップ)ですので、約2倍のファースト・クラス運賃と思ってよさそうです。
Courtesy of http://forum.keypublishing.com/showthread.php?79617-Need-a-Photo-of-Short-Sandringham-5-quot-Portland-quot
ちなみに、2015年 日本海上自衛隊の飛行艇US-2が、インドへ売却されることに決まりましたが、なぜ日本かといえば、現在飛行艇を生産している国は日本しかないからです。
Special thanks to:
The Collections of either Björn Larson or David zekria
“Airline Timetable Images”
http://www.timetableimages.com/ttimages/complete/complete.htm
資料 『時刻表世界史』曽我誉旨生著 社会評論社2008年刊
写真・ウィキペディア・パブリック・ドメインより
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イタリア潜水艦カッペリーニ号の奮闘!数奇な運命!
2017 APR 17 18:18:04 pm by 野村 和寿
1943年5月11日イタリア王立海軍コマンダンテ・カッペリーニ号は、大西洋を一路、アフリカの喜望峰を回り、インド洋をへて、15000浬(27780㎞)を、日本海軍の基地シンガポールに向かい昼夜水上航行、潜水航行を繰り返しながら向かっていました。つづいて5月16日同レジナルド・ジュリアーニ号が、さらに、6月16日には同ルイージ・トレッリ号が、相次いでシンガポールを目指し、途中、サバン(現在のインドネシア領)にて、イタリア通報(海防)艦エリトレア号による補給を受け、8月1日から8月30日にかけて相次いでシンガポールに無事到着しました。
欧羅巴発アジア到着の3隻の潜水艦を調べるうちに、これらの潜水艦、および上記通報艦は、ジュリアーニ号1隻を除いて、カッペリーニ号、トレッリ号そして、通報艦エリトレア号の3隻は、終戦1945年の終戦後まで生き延びた船舶だということがわかってきました。
しかも、3隻の潜水艦は単に潜水艦が、欧羅巴からアジアを目指したのではなく、輸送任務潜水艦と呼ばれ、一切の兵装をはずして、ほぼ丸腰での決死的な行動なのでした。
輸送任務潜水艦とは日本海軍伊号潜水艦のうち第四百一潜水艦をはじめ20隻を輸送任務に就いた。作戦用潜水艦を使って物資等を輸送する任務に当たらせることです。 任務の目的は補給 すき間というすき間に物資を積み込まなくてはならない 魚雷は取り除かれ、発射管さえ物資の保管場所として使われました。物資の積載量を増やすために甲板の砲も外され、潜水艦の攻撃能力をはぎとられました。
3隻の潜水艦と1隻の通報艦の詳細は下記の通りです。
下の写真は、カペリーニ号が、独海軍UIT-24として、日本近海・瀬戸内海で活動していたころの写真です。艦橋には日本士官らしき人々がうつっています。日本の伊号潜水艦のように黒塗装ではなく、独Uボート色の灰色塗装です。これは、大西洋の海の色にあわせた色を踏襲しているといえます。1944年撮影。
まとめてみますと、伊海軍潜水艦コマンダンテ・カッペリーニ号、ルイージ・トレッリ号は、ボルドーからシンガポールの日本海軍基地へ、物資を運んだ直後に、伊が降伏し、独海軍UIT-24,UIT-25に改名、さらに、1945年5月に独が降伏すると、日本海軍伊号第五百三、第五百四号として活動したこと。
一方、伊通報艦エリトレア号は、シンガポールやサバンで、補給活動に従事後、伊降伏を聞き、英領コロンボで英国海軍に武装解除を受けた後、伊に回送され、戦後、戦時賠償艦として、仏海軍通報艦フランシス・ガルニエ号として、なんと1966年まで運用されたのです。
日本と独の年長老人どうしの冗談で、「今度やらかすときは、イタリア抜きでやらかしましょうや」というのがありました。つまり、日独伊のうちで、いち早く枢軸国側を離脱した伊を「腰抜け」として笑いの対象にしてしまうという、あまり趣味のよくない冗談でした。ぼくは、以前から伊は、本当に腰抜けだったんだろうか?という疑問を持ち続けておりました。
たとえば、サッカーのドイツ代表対イタリア代表でも、イタリアが優勢であり、現在両国のイタリアの対戦成績でも全34試合で15勝8敗11分でイタリアが優勢です。の成績を残しています。自動車のF1でも、フェラーリはコンストラクターズとして、エンジンメーカーとして1950年以来、224回を誇っています。勇気をもって立ち向かう姿はいずれも凜々しいです。
ほとんど丸腰で、欧羅巴からアジアへ15000浬を勇気をもって横断した伊海軍の潜水艦。不屈の闘志が見受けられます。しかも、潜水艦、通報艦ともに戦後まで生き抜くという意外ともいえる息の長さこそ、伊の魂ここにありということを感じてしまいました。
なお、イタリア海軍コマンダンテ・カッペリーニ号のカッペリーニとは、将軍の名前アルフレッド・カッペリーニ将軍alfred cappelliniからきており、夏の冷製パスタ カペッリーニcapelliniとは関係ありませんのであしからず。(苦笑)。
資料:『潜水艦戦争1939−1945 上巻・下巻』 レオンス・ペイヤール著長塚隆二訳 ハヤカワ文庫刊(1997年)『伊四〇〇型潜水艦最後の航跡 上巻・下巻』 ジョン・J・ヘーガン著 秋山勝訳 草思社刊(2015年)
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『バトル・オブ・ロサンゼルス』を知っていますか?その②
2017 APR 4 21:21:01 pm by 野村 和寿
前回に引き続き、『バトル・オブ・ロサンゼルス』その②です。
米英戦争(1812−1814年)以来、2001年9.11の同時多発テロまで、アメリカ合衆国本土が、攻撃を受けたことは数えるほどしかありません。その唯一の例外が、日本海軍によるカリフォルニア攻撃でした。1942年2月23日に、伊号第十七潜水艦による、米国カリフォルニア州への砲撃が行われています。
さらに調べてみると、1942年9月9日、および9月29日、潜水艦に格納された零式小型戦闘機1機が、オレゴン州とカリフォルニア州を襲い、2発の焼夷弾を投下しました。この都合3度の攻撃こそ、ただ1度のアメリカ本土攻撃でした。ハワイ真珠湾の陰に隠れてあまり知られていない、アメリカ本土攻撃について興味をもちました。
この絵は、AMERICAN OIL&GAS HISTORICAL SOCIETYのホームページ
Japanese Sub attacks Oilfieldで読むことが出来ました。
1942年9月9日(水曜)午前4時 今度は日本海軍伊号第二十五潜水艦(第十七とは別の艦に搭載されていた、零式小型水上偵察機が、米国西海岸カリフォルニア州からオレゴン州にかけて93㎞の内陸部ブルッキングズ市街の森林地帯 ウィラーリッジ上空に焼夷弾(合計155㎏)攻撃をして、焼夷弾2発を投下し2発ともに爆発しました。これにより小規模の火災が起きましたが、当地は、珍しく前夜から振っていた雨のため森林が湿っていたためにすぐに鎮火されてしまいました。さらに、同潜水艦は、1942年9月29日 ケープ・ブランコ沖合93kmから オレゴン州に2回目の焼夷弾攻撃を行いました。ケープ・ブランコ沖合93㎞から発進した零式小型水上偵察機は、内陸部に30分飛行し、オーフォード近郊の森林地帯に向かって 焼夷弾を2発投下しましたが、残念ながら、幸か不幸か米陸軍に発見されることはありませんでした。
焼夷弾攻撃を行った戦闘機は、零式小型水上偵察機です。(写真ウィキペディアより引用)
まとめてみますと、
確かに、日本海軍による1942年の3度にわたる米本土攻撃は、今に成って思えば、限定的にとどまるといわなければなりません。しかし、米西海岸一帯を不安定な状態に陥れる。米海軍は貴重な戦力を西海岸の警備に割くことになりました。
ところで、『1941』(1979年アメリカ)という映画をご存じでしょうか?スティーブン・スピルバーグ総指揮・ロバート・ゼメキス監督、ジョン・ベルーシ、ダン・エイクロイド、クリトスファー・リー出演です。スピルバーグ唯一の大こけ作品ですが、今でもカルト的人気をもっている映画でもあります。なかで、ハリウッド攻撃のために派遣された日本海軍の潜水艦が、羅針盤を壊してしまうという喜劇ですが、艦長を堂々と演じているのが、日本が誇る三船敏郎でした。その三船は、このドタバタ作品の中で、一度も笑うことがなく、まじめに艦長を演じています。登場しているシーンも入っている一部の映像を貼り付けておきます。なぜ、この『1941』が失敗作に終わったかという一因に、ロサンゼルス攻撃つまり『バトル/オブ・ロサンゼルス』が、映画公開が、この事件から37年後に至るも、アメリカ人にとって、あまりにもなまなましい記憶であり続け、とても笑いの対象ではなりえなかったというのがありました。一度も笑っていない三船敏郎をご覧ください。
参考文献 伊四〇〇型潜水艦 最後の航跡 上巻・下巻 ジョン・J・ケーガン 秋山勝訳 草思社 2015年刊
参考ホームページ 「アメリカン オイル&ガス ヒストリカル・ソサエティ」アメリカ 史学協会 写真 ウィキペディアより引用
*なお米国西海岸への日本海軍の攻撃は、1942年から46年まで実施された日系人収容の口実ともなりました。1988年レーガン大統領は、日系アメリカ人保障法に署名し、1992年ジョージ・ブッシュ大統領は国を代表して謝罪、1999年までかかって賠償金が支払われました。
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『バトル・オブ・ロサンゼルス』を知っていますか?その①
2017 APR 4 20:20:26 pm by 野村 和寿
みなさんは「バトル・オブ・ロサンゼルス(ロサンゼルスの戦い)」という言葉をご存じでしょうか?1940〜41年に戦われた英国本土上陸作戦を前提として、戦われた「バトル・オブ・ブリテン」(英国空軍とドイツ空軍間による戦い)と呼ぶのは聞いたことがあるけれど、「バトル・オブ・ロサンゼルス」なんで聞いたことがないと思われるかもしれません。ロサンゼルス上空を日本軍の戦闘機が来襲したとすることを、「バトル・オブ・ロサンゼルス」と呼びます。
しかし実際のところ、「バトル・オブ・ロサンゼルス」は起こりませんでした。
結論的にいえば、単なる噂によるパニックでした。パニックを引き起こしたのは、ロサンゼルス・タイムスの新聞の号外記事でした。1942年2月25のことです。
左写真が、ロサンゼルスタイムズの1942年2月25日21時最終版の現物です。翻訳してみました。下記の通りになります。
抄訳ですが紙面から読み取れる文字を追ってみました。下記の通りになります。
「バトル・オブ・ロサンゼルス」をまとめると下記のようになります。
ところが、こんな記事も見つけることが出来ました。ロサンゼルスタイムズよりさらに、もっと地域の地方紙であるサンタ・バーバラ・ニュース・プレスの新聞記事です。1942年2月、詳細の発行日は不明です。
サンタ・バーバラ・ニュース・プレスを初めとする本記事は、AMERICAN OIL&GAS HISTORICAL SOCIETYのホームページ
Japanese Sub attacks Oilfieldで読むことが出来ました。
翻訳してみますと下記の通りになりました。この記事が本当だとすると、1942年2月23日(つまりロサンゼルスタイムズの記事に先立つこと2日前)に、日本海軍イ号第十七潜水艦が、石油貯蔵所を攻撃したとあります。
今回はここまでです。この話は、その2につづきます。
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