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カテゴリー: 本

日独を結んだ潜水艦 深海の使者たちその③

2017 FEB 28 18:18:49 pm by 野村 和寿

私の母(昭和2・1927年生まれ・90歳)が、横浜に在住しておりましたので、いつだかはっきりしないのですが、ドイツの潜水艦で来日した水兵達が、神奈川県庁のある日本大通りで、ドイツ海軍による分列行進をしたのを女学生みんなで見たと申しておりました。水兵たちは、足を真っ直ぐにしてきびきびと歩くので、とても格好良くて、印象的だったそうです。さて、このあたりで、日独間の深海を結んだ、あるいは結ぼうとした潜水艦を比較してみました。日本とドイツの潜水艦の意外な違いをまとめてみました。なんとなく、ドイツ潜水艦は、日本の潜水艦に比べて巨大で速力も速くと思っていました。ところがずいぶんと違っていました。まとめてみたのが下図になります。日本の細かなからくりの工夫を施したのに対して、ドイツの合理的な工夫、両国の設計の違いが明らかにわかります。

ドイツUボート

ドイツUボートの特徴をまとめてみました。

日本の潜水艦

日本の潜水艦の特徴についてまとめてみました。

イ号第八潜水艦

昭和18年6月1日呉軍港出港、8月31日旧フランス領ブレスト軍港到着、10月5日ブレスト出港、12月21日呉軍港入港 日独往復した唯一の日本海軍潜水艦

U505

米シカゴ科学博物館に展示されているドイツUボートU505(9C型)です。塗装は大西洋のため灰色に塗装されています。

U161

米海軍偵察機がとらえたドイツUボートU161(9C型)

大日本帝国海軍潜水艦乗務記録 インド洋♯1

下の動画は、実際に日本海軍が撮影した記録映画です。救いなのは潜水艦の乗員はみな明るく比較的自由にふるまっていること。これだけ厳しい規律の下だと、むしろ自由にふるまえるというところがあるのかもしれません。You Tubeには「その6」まで分かれて約50分間の映像がアップされています。ご興味のある方はどうぞ。

大日本帝国海軍潜水艦乗務記録 インド洋♯1

「消えたイ52号」(NHKスペシャル)97年3月2日初回放送。こちらは、沈没したイ第五十二潜水艦の引き上げの記録ドキュメントです。

伊号第五十二潜水艦は、第5次の遣独計画の潜水艦として、昭和19(1944)年3月10日呉軍港出港、2トンの金塊、錫、モリブデン、タングステン228トンを積載、3月21日シンガポール入港、3月23日シンガポール出港、6月8日レーダー逆探知装置をドイツ潜水艦をより受領し伊号に設置しました。6月21日スペイン海域で米海軍アベンジャー雷撃機より攻撃を受けて沈没しました。金塊を引き上げる計画がもちあがり、1995年引き上げが計画されたが、深海5000メートルなので、断念した経緯があります。これで「深海の使者」のブログ記事は終わりです。最後に著者の吉村昭氏の本文庫は非常に読み応えがあります。是非、ご一読をお薦めします。

ブログに使用した写真はウィキペディアのパブリック・ドメインのものを使用しています。

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日独を結んだ潜水艦 深海の使者たちその②

2017 FEB 28 6:06:03 am by 野村 和寿

さらに日本とドイツの第2次世界大戦中の主に潜水艦による交流について調べてみました。日本からドイツまで、1万5千海里(3万キロ弱)を航行してさえも、日本が主に欲しがっていたのは、ドイツの工業技術でした。

魚雷艇用ダイムラーベンツ3000馬力内火発動機 電波探知機(レーダー)、小型潜水艦設計図 対戦車砲の特殊弾、噴射推進式飛行機(ターボジェット)の設計資料Me163 Me262、工業用ダイヤモンド

これに対して、ドイツが欲しかったのは南方の工業用材料 雲母 キニーネ、生ゴム、クローム、マニラ麻、コブラ、さらに、日本海軍からの贈呈品として、航空母艦設計図、酸素魚雷、ほかに日本海軍が考案した水中でも安定して潜行していられる自動懸吊装置、重油漏洩防止装置、真珠湾攻撃に使われた特殊潜航艇設計図、無航跡魚雷などを送る目的がありました。

またドイツに留学していた海軍の技術将校のレーダー技術や造船技術を習得した将校の帰着も目指していました、

これらのいくつかは、無事、日本に到着し活用されました。特に噴射推進式飛行機は、実際に特攻機櫻花のエンジンに使われました。(残念な使われ方でした)、電波探針機(レーダー)は早くも遣独潜水艦で活用されました。

イ号第二十九潜水艦は、昭和18年4月26日アフリカ・マダガスカル島沖で、印度独立運動の闘士チャンドラ・ボースをドイツ潜水艦から引き継いで、日本へ運搬した。東京着

ドイツに亡命中の印度独立運動の闘士チャンドラ・ボースを日本に連れてきて、印度独立運動を支援するために、印度独立運動の闘士、チャンドラ・ボースをドイツUボートと連携して、日本に連れてくるということも潜水艦はしました。(ボクは今まであの新宿・中村屋の娘と結婚したのが、その人と思っていました。これは誤りであり、中村屋のほうの日本に帰化した人物は、同じボースでもビハリ・ボースで、チャンドラ・ボースの下で働いた人物でした)

マレーにおいて、自由印度独立義勇軍を設立し、日本に帰化していたビハリ・ボース(新宿中村屋の娘と結婚し、日本に帰化)とともに独立義勇軍を組織しました。

イタリアも日本との軍事同盟をなんとかいかそうとして、飛行機による渡航を行いました。船と違ってプロペラが3基あるイタリアの輸送機をつかえば、船で約90日間かけているのにくらべると、わずかに、3日間で、ヨーロッパと日本との間を結ぶことが出来ました。

サヴォイア・マルケッティSM75改

イタリア・サヴォイア・マルケッティSM75改 搭乗員5名1942年7月1日伊ロードス島7月2日内モンゴル包頭到着、7月3日東京・福生飛行場到着 7月16日福生発、包頭7月17日包頭、7月19日ウクライナ・オデッサ、ローマ・グイドーニア飛行場到着

イタリアも同盟関係にあったので、日伊関係を改善する目的で、ローマから日本へ向けて1942年7月1日に伊ロードス島基地から日本を目指して飛行機を飛ばしました。サヴォイア・マルケッティSM75改がそれです。

ところが、ソ連領上空をわずかにかすめると、距離7000㎞なのに対して印度洋上空を飛ぶと12000㎞にもなるので、日本の印度洋を飛ぶことをいったん了承しながらも、実際には、ソ連領上空をわずかにかすめて飛行し、当時日本の占領下の内モンゴル包頭飛行場に飛来、給油後に東京福生飛行場に到着しました。ところが、ソ連領上空を飛行したことを、ソ連側に知れることをひたすら隠したかった日本は、この飛行の成功を大々的に宣伝することはなく、ひた隠しにし、このことがきっかけで、日伊の同盟関係は冷え切っていきます。いったん了承すればわからなけりゃいいじゃないかという伊的発想と、どこまでもがちがちな日本軍との発想の違いとが垣間見られ今となっては、興味深いところです。日本もドイツまでの無着陸飛行を目指しました。

キ77 2号機

東大宇宙航空研究所、立川飛行機製作所製造キ77号2号機が、セ号飛行計画で独を目指したが、失敗した。写真は、キ77 1号機を終戦後米軍が撮影したもの

無着陸欧州飛行ということでは、朝日新聞航空部が、昭和14(1939)年、東京・ロンドン間15357㎞を所要時間94時間17分56秒で結んだことは有名だと思います。これに使われたのは実は、日本陸軍司令部偵察機キー15制式名九十七式でした。また、東京日日新聞が、昭和14(1939)年ニッポン号が各国の飛行場を経由して世界一周飛行を試みました。航続距離52860㎞。これに使われたのは日本海軍九十六式陸上攻撃機でした。またその1年前の昭和13(1938)年5月には航空研究所長距離機(通商 航研機)には、東大航空研究所設計、東京瓦斯電気工業製造で、木更津、太田、平塚の三角点を結ぶ周回コースを3日間、11,651.011㎞を無着陸で飛行し、当時、無着陸飛行の世界記録を打ち立てました。この流れで作られたA-26(後に日本陸軍キ77と銘々)で日本ドイツ間を無着陸飛行を企図し、東大航空研設計、立川飛行機試作工場製造で製造されたキ77 2号機が投入されました。シンガポールからベルリン間12000㎞を所要時間55時間程度で飛行するという計画は、昭和18年6月30日東京・福生を飛び立ち、7月7日シンガポール・カラン飛行場からベルリンを目指しました。キ77 2号機はシンガポールからインド洋、紅海、伊ロードス島を飛行予定でした。ところが7月10日インド洋上で消息をたち、遣独飛行は失敗に終わりました。ここまでの残りの渡欧計画をまとめると次のようになります。

日独3

第2次世界大戦中の日独交流その3です。

 

本ブログの記述は、吉村昭著『深海の使者』(文春文庫所収)をもとに、周辺の補強をして記述しました。写真はすべて、ウィキペディアによるパブリック・ドメインの写真を使用しています。

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日独を結んだ潜水艦・深海の使者たちその①

2017 FEB 28 5:05:02 am by 野村 和寿

ドイツ大使館・総領事館のホームページ「日独交流150年の歴史」(文:上智大学准教授スヴェン・サーラ氏 訳ドイツ大使館岩村偉史氏)に興味深いことが載っていました。「日独関係は軍事同盟へと進展していき、日独伊三国同盟(1940年)と1942年の軍事協定により頂点に達します。しかしながら、戦争中に日独が実際に協力しあうことはありませんでした。両国の政治指導部は互いに相手に対してむしろ懐疑的で、軍事同盟はまず第一に宣伝手段としての役目を果たしていたのです。ドイツと日本は別々に戦争を行い、そしてドイツ帝国は1945年5月8日に、日本は1945年9月2日にそれぞれ別々に降伏しました。ちょうど6年前にドイツがポーランドに侵攻したのとほぼ同じ日に、第二次世界大戦が終わりました。2800人にふくれあがった在留ドイツ人社会では(オランダ領東インドからの避難民約700人と海軍兵士500人を含む)その大部分がドイツに強制送還されましたが、ドイツにいた日本人たちも同様でした。」(太字・本ブログ)

ボクは、学校のときに、第2次世界大戦では、日本とドイツは日独伊三国同盟で連合国と戦ったと常に教えられてきました。ところが、上記の赤字は、日本とドイツは別々に戦争したのであって、特に協力しなかったとあります。確かに、最近の歴史学では、三国同盟はほとんど戦略的に機能することはなかったという説が有力なのです。

そこで、頭に浮かんだのが、吉村昭『深海の使者』(1973年)です。

吉村昭(1927−2006年)は、『戦艦武蔵』をはじめ、単なる戦記物とは内容を異にし、徹底した取材によって得られたデータを元に下ノンフィクションで著作する作家です。そこで、日本とドイツの間を、第2次大戦中に、主に潜水艦での交流を調べてみることにしました。

日本には、長距離の航行が可能な潜水艦がありました。イ号潜水艦です。海中深く潜行し、主に、現在のマレーシアにあった日本海軍基地ペナンを出港し速力12−16ノットで印度洋を南下、喜望峰からアフリカ大西洋に入り、一路ドイツを目指しました。訳66日かけて、ドイツ占領下のロリアン、ブレスト軍港に入港するという計画でした。夜間は水上航行、昼間は深海深く水中航行をするということを繰り返しました。乗員たちは10時間以上にもおよぶ潜行で酸素の欠乏と炭酸ガスの増大にもよく耐えました。

ここに『深海の使者』に登場する潜水艦の日本とドイツ1万5千浬を海中深く潜行した潜水艦を紹介します。始まったのは昭和17年4月11日に呉軍港を出港したイ号第三十潜水艦です。途中、現在のマレーシアの日本海軍基地であったペナンで燃料補給をし、それから一路欧州を目指しました。約4ヶ月かけて、ドイツが当時占領していた旧フランス領ロリアン軍港に到着。帰途は8月22日ロリアン軍港出港し、行きと全く反対の経路をたどりつつ、10月8日に無事ペナンに入港したのですが、指揮命令系統の混乱と多少の到達の気の緩みも正直あったのかもしれません。日本帰港をめざした矢先、10月13日にイギリス海軍の敷設した機雷に触れて、シンガポール沖で沈没しました。往復はしたのですが、まったく惜しいところで生還を逃してしまいました。

0227日独1

第2次世界大戦時の日本とドイツの交流 その1です。

日独2

第2次世界大戦時の日本とドイツの交流その2です。

イ号第八潜水艦

昭和18年6月1日呉軍港出港、8月31日旧フランス領ブレスト軍港到着、10月5日ブレスト出港、12月21日呉軍港入港 日独往復した唯一の日本海軍潜水艦

日本とドイツの間の往復に成功した潜水艦は、日本側では1隻だけありました。イ号第八潜水艦です。昭和18年6月1日に呉軍港を出港し、シンガポール、セレター軍港で、燃料補給を受け、60数日かけて、8月31日無事ドイツ軍の旧フランス了ブレスト軍港に到着、10月5日ブレスト軍港を出港し、12月5日シンガポール水道にあるセレター軍港に入港、12月21日午後無事呉軍港に帰港しました。

イ号第八潜水艦は、昭和6月1日呉軍港を出港し、約3ヶ月後8月31日旧フランス領ブレスト軍港に入港した。

ドイツから日本へむけてUボートでの交流も行われました。

ドイツ潜水艦U511は1944年3月30日 ドイツ軍旧フランス領ブレスト出港、7月15日に現在のマレーシア 日本海軍ペナン基地に入港し、8月6日に無事呉軍港に到着しました。U511はその後、日本海軍に譲渡され「さつき1号」と呼称されました。

ドイツ海軍UボートU511は1943年5月6日ブレストを出港、8月6日呉軍港入港し、日本海軍さつき1号呂号第五百潜水艦と改称された。

イタリアからも潜水艦が日本に向かいました。

ルイージ・トレッリ号

イタリア潜水艦ルイージ・トレッリ号は1943年6月16日フランス・ボルドー出港、8月26日スマトラ島サバン入港 イタリア降伏後、ドイツUIT25そしてイ号五百四潜水艦となり終戦まで生き残った。

4隻向かったのですが、そのうちの1隻は、日本に到着しています。ルイージ・トレッリ号がその潜水艦で、1943年6月16日に旧フランス領ボルドー海軍基地を出港し、8月26日スマトラ島の日本海軍基地サバンに無事入港、8月30日にシンガポール港を出港し、日本に回航されました。途中でイタリアが連合国側に降伏したために、9月にドイツ海軍が本船を拿捕し、名前をドイツ海軍UIT25と改称。日本到着日時は不明ですが、確かに日本に到着しています。昭和20年5月8日にドイツ軍が降伏すると、今度は、日本海軍に接収され、イ号第五百四潜水艦と改称されました。ちなみに本船は、昭和20年の終戦時、三菱神戸造船所で修繕中でした。イタリア・ドイツ・日本と3国を渡り歩いた戦後まで生き延びた数少ない潜水艦ということができます。昭和21年4月16日に、紀伊水道で、米国海軍によって処分されました。

最初のドイツ大使館の言説とは異なり、非常に微々たる交流ではありましたが、確かに、日本とドイツは物資、技術の上でも軍事的な交流があったことがわかります。この項目つづきます。

 

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60年代のポルトガルは・・・

2017 FEB 12 21:21:38 pm by 野村 和寿

堀田善衛の『スフィンクス』

スフィンクスオリジナル

毎日新聞社 初版1965年

読了。作者は、画家ゴヤを描いたスペインもので有名ですが、1963年に不思議な小説を書いていました。同年4月2日号から毎日新聞の『エコノミスト』誌で1年間連載された小説で、1965年に毎日新聞から単行本化され、1977年に集英社文庫に収録されました。なんと610ページにもなんなんとする大長編で、いまどきは、1冊で、こんなに分厚い文庫はなかなかありません。

集英社文庫1977年

集英社文庫1977年 カバー・イラストは朝倉摂(1922-2014舞台美術家・画家)が担当している。

ボクは、昔の小説を古書店で探してきて読むのが好きです。といいますのは特に、執筆当時の世相がかいまみられて、なかなか今では知ることが出来ないことに遭遇して一喜一憂しています。
『スフィンクス』というタイトルは、エジプトのアブ・シンベル神殿が、アウワンハイダムの建設によって、水中に沈むのを移設する寄付金を募る主人公・国連ユニセフの日本人職員菊池節子というのと、スフィンクスが、神殿をまもる守護神というところからきていて、ストーリー自体はヨーロッパ・ドイツ、スペイン、ポルトガル、スイスが舞台になっています。
小説のなかで、こんな一節をみつけました。「デザートはスイス・ドイツ風な料理とは違って美味なワッフルとそれにイタリー風な、エスプレッソと呼ばれるコォフィであった。」つまり、日本の読者にとって、エスプレッソはなんだか解説しないと分からない飲み物でした。そんな時代だったのです。

『スフィンクス』の書かれた1963年の少し前の時代背景はこんな感じです。1962年 スイスのローザンヌの対岸にあるフランスの街エヴィアンでフランスとアルジェリアの間で交渉が妥結し、同年7月、アルジェリアが正式に独立を果たしています。
また、小説に出てくるポルトガルについての記述に目が行きました。
「ポルトガルはいまなお1275万の植民地人口をもち、その植民地の面積は2090万平方キロにのぼっている。そうしてサラザール政権には、これを解放し独立させる気などはまったくなかった。しゃぶれるだけしゃぶり、反抗するものは徹底的に武力弾圧する。カイロでは、誰もがアルジェリアと今後の次はアンフォラだといっていたことも思い出されてくる」つまり1960年代は、まだ、ポルトガルは大航海時代から連綿と続いてきた大帝国だったのです。というより大帝国の名残といったほうが正確かもしれません。

ポルトガル 植民地

1410年から1999年までのポルトガルの海上帝国 赤はポルトガルが領有したことのある地域、ピンクは領有権を主張したことのある領域、水色は大公開時代に探索、交易、影響が及んだ地域  ウィキペディアより

ポルトガルのサラザール政権を、別途、調べてみると面白いことがわかりました。スペインの市民戦争にナチスの後押しを受けて、フランコ政権は、第2次世界大戦中も中立を宣言したために、戦後もなんと1975年まで独裁を続けたのは有名ですが、ポルトガルもこれとまったく同じ歩調をとっていました。サラザールの独裁体制はエスタド・ノヴォ(新国家体制)と言われ、1933年にドイツとイタリアから顧問を呼ビ国家防衛秘密警察(PIDE・ナチスのゲシュタポを模しています)を創設。サラザールの政敵を弾圧したほか、共産主義者、社会主義者、自由主義者、フリーメーソンも弾圧したのでした。

1936年1月にサラザールは首相、財相、外相、陸軍相、海軍相のポストを兼任し1939年にスペインのフランコ将軍率いる反乱軍に義勇軍を送ったりしています。フランコが勝利すると、スペインと友好不可侵条約を締結し、1940年ローマ教皇庁と政教協定(コンコルダート)を締結しました。ボクはポルトガルにおける全体主義とカトリックに裏打ちされていたと言うことを、恥ずかしながら初めてしりました。

サラザールの政治哲学はカトリックの教義に基づいており、経済政策もカトリックに影響を受けています。高等教育は重視されなかったために、現在でもポルトガルの識字率はヨーロッパ一低いといわれています。

 

サラザール

アントニオ・サラザール(1889−1970 1932−1968ポルトガル首相)写真:ウィキペディアより

そして、この小説の生まれた1960年は、「アフリカの年」と呼ばれたように、アフリカの国々が民族解放の名のもとに、いっせいに誕生しています。1961年にはアンゴラ独立戦争が、はじまり、同年、インドが、ポルトガル領、ゴア、ダマン、ディーウを武力侵攻、1962年にギニアピサウ独立戦争、1964年にモザンビーク独立戦争が起きていました。
サラザールは1968年まで首相でした。その後も、ポルトガル植民地帝国は続いたのですが、1974年のカーネーション革命で打倒されたのです。
ちなみにマカオが、中国に返還されたのは、1999年12月20日のこと。
それまでは、ロシャ・ヴィエラRocha Viera総督が統治していました。司法管轄区分も、リスボン地方裁判所管区支部だったとありました。

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旅する哲学 イタリア最終話

2017 FEB 2 5:05:40 am by 野村 和寿

ローマ行きインターシティです。

ローマ行きインターシティです。

南イタリアピショッタ発13:22ローマ直行 インタシティでローマ着17:25 (走行距離363.7kmを所要時間約4時間です)インターシティーはおんぼろで、しかも、ずいぶんと遅いのですが、格好がとてもかわいくて、1950年代のデザインを彷彿とさせます。下はやっと無事ローマ・テルミニ駅についたところの写真です。

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ローマ・テルミニ駅に着いたインターシティ

フィアット(現在はフランス・アルストム社に統合されています)がデザインした「ペンドリーノ」ETR450 1988年に投入された車両です。ペンドリーノとはイタリア語で、振り子という意味です。イタリアの鉄道は、海岸沿いに線路が走っているところも多く、急カーブが多いために、カーブをスピードを落とさずにクリアーできるというのが振り子電車のメリットです。それにしても、ものもちがいいですね。

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セルフポートレート 南イタリア サレルノのアグリツーリズモの部屋にて

南イタリア アグリツーリズモの部屋にてセルフポートレイト 2012年5月22日から30日の南イタリア単独行にて、ピショッタ アグリツーリズモ プリスコ・ファミリーの部屋にて撮影しました。今写真を振り返ってもとても元気そうな姿ですね。

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バルベリーニ広場

 

朝早いローマのバルベリーニ広場です。。午前中のアリタリア便にて帰国予定。ホテルベルニーニ ブリストルは、近代的で広場に面した角部屋ですが、こういういい部屋に一人はむしろ旅の孤独がせまってきます。

 

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アリタリアの機内で購入したリモコンの飛行機のおもちゃです。

昨日イタリア単独行より無事帰還いたしました。写真はアリタリアの帰り便で、売っていたAlitalia COCKPIT REMOTE CONTROL PLANEです。格納されたところえ2分充電すると、5分遊べます、でも実際には、2分でなくて遅れていて、10分以上かかります。このへんがアリタリアのアリタリアたるゆえんかも。

コックピット仕様のコントローラーにて、2段階のスピード切り替え、左右ターンができます。ぼくはラジコンで飛ぶとばかり思っていたのですが、滑走するだけでした。さすがにアリタリアだけ有りました。

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旅する哲学 南イタリア・サレルノへ②世界遺産パレストゥム 吉田秀和氏の訃報

2017 FEB 1 3:03:16 am by 野村 和寿

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世界文化遺産パエストゥム遺跡です。ギリシャ風の神殿が建っていました。

この世界遺産 正式名称は、「パエストゥムとヴェリアの古代遺跡群を含むチレントとティアノ渓谷国立公園とバドゥーラのカルトジオ修道院」といいます。この柱の太いこと!そして、外壁は、えんえんと海まで続いており、ギリシャの植民都市だったころから、この建築はあると思うと、一気に古代に思いをはせてしまいます。

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世界文化遺産パエストゥム遺跡は屋根の破風まで現存していました。

このギリシャ神殿は、南イタリアの世界遺産「パエストゥム」です。ここの正式名称は、「パエストゥムとヴェリアの古代遺跡群を含むチレントと、ディアノ渓谷国立公園とパドゥーラのカルトジオ修道院」といいます。整備された公園のなかに、こつ然と太い柱の神殿です。周囲の外壁は、なんと、海までずっと続いているのがすごいです。あまり知られていないのですが、ギリシャ時代に南イタリアにまで都市国家がたくさんあって、しかも、これだけ大規模な神殿が建てられていたとは! 南イタリア風の気候で、雲は一転かき曇り、スコールのような雨が。雨にそぼぬれつつ、神殿をながめるのもよしでした!さきほどの神殿にさらに近づいてみますと、この写真の柱が太く、そして、屋根の部分にかかる破風が見えます。ものすごく状態が良くて、なかなか幻想的です。なんか映画のシーンになりそうな。壮大なロマンとでもいいましょうか。

 

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パエストゥム神殿

吉田秀和氏の訃報を知りました。吉田氏は、1972年頃、NHK FMで、芸術時評という番組に出演し、日曜の朝10時ごろに、私はよくこの番組に耳を傾けていました。この番組には当時の音楽評論家が集合していました。野村光一、大木正興、遠山一行、中島健蔵などそうそうたるメンバーで、代わる代わる、その月に行われた主な演奏家を、ライブで批評していったのです。その中でも異彩を放っていたのが吉田氏でした。いつも大方の意見とは大いに異なり、厳しく批評していました。カール・ベームのモーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」のあまりのテンポの遅さに、吉田氏はとても厳しく反応しており、大方の「とてもいい」という手放しの意見に真っ向から反旗を翻していました。だんだんと大方の意見もそれに引きずられていくかのとき、最後に、吉田氏は「これだけのテンポでも、ウィーンフィルが演奏でき、そして、「フィガロ」をやるんだから、やはりこれはいいんだ」と、大方が吉田氏に傾きかけた後で、また批評を鋭くついたりして、とても過激な存在でした。よく、この演奏は認めないということもいっていました。ユージン・オーマンディのフィラデルフィア管弦楽団のときも、一人、音楽は美しいだけでいいのかと、鋭く迫っていましたが、最後に、でも「音楽はやはり美しいだけということにとても魅力があるんです」とも茶目っ気たっぷりといっていました。ぼくは、当時高校生で、そんなに多くの演奏会に行けなかったので、この番組の時間を楽しみに、まるで演奏会にいったことのように聞いていました。こういう気骨がある批評家に憧れていました。

個人主義のイタリアを旅するには、こちらも半端でない意思をもって、個人主義にならねばならないと思います。イタリア語の表現でも、必ず、自分がなにかしたいということをいわないと、当然のことながら誰もなにもやってくれない。この考え方は大切だと思います。お仕着せではないんです。まずは自分の意思なんです。ボーリオvuolioという言葉を何度も使いました。この原形ボレーレvolere、「欲する」という意味がようやくわかったような気持ちでした。

 個人の旅は、なかなか厳しく、常に緊張感を伴い、半端じゃなく気を巡らして、疲れます。しかし、この疲れを乗り切るのは、なにか「巡礼」にも似ているような、そんなきもします。旅先で読む本を吟味に吟味を重ねて持ってきたのですが、あらかたの本はがさばるので、出会った日本人にあげてしまいました。残る本は恥ずかしいのですが沢木耕太郎の「旅する力~深夜特急ノート」でした。まるで、沢木氏が旅で経験したようなことが日々おこっていて、全く予断を許さないのです。

 アグリツーリズモのオーナー、プリスコ氏の運転する車は、日本車よりもクッションがかたく、しかも道の曲がりくねり方は相当なもので、極端にいえば、山を越え越え道がついているので、10メートルでカーブ、といったところが右に左に延々と続き、真っ青になり顔面蒼白、ついには、止めてもらって、頭ががんがん、胃液のでるのを必死でおさえます。

 行きも帰りも、もう大変で宿に帰るとそれだけで寝込んでしまうほどです。こうした受難のようなことが一方では起き、そのために、常に水分はとっておこうとか、あまり食べると胃によくないので、控えておこうとか、自分で考えて行動しないと行けないのです。  酒も飲んだ後にどうなるかをきちんと予測してから、ちょっと口にするといった感じで、野方図にビールをくらうなどということはしません。こうしたまったく予期せぬことが多々起きる「受難」にも似た状況が「旅」なんです。

遠くの方で稲光、さっきまでスコールのような大雨でした。今は朝の5時すぎなのであたりは静かです。なんの音もしていない。ようやく雨がやんだので、少しずつ小鳥のさえずりがもどってきた感じです。正しいことを正しくしているという自信のようなものが、自分がというところから、みなぎっているような気がします。自分のように迷っていてはたぶん駄目なんだろうなと。もっとはっきりしないといけないんです。 0527朝 アグリトゥーリズモ・プリスコにて

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ヴェスパの公道レース

先日の日曜の朝、南イタリアの世界遺産パエストゥムの近く、サレルノを走っていたら対向車線(といっても対向の概念はないです)に、なんとバイクの群れが。それも小型バイクのヴェスパ愛好者だけが、ななんと、200台以上のレースをやっているのでした。

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アグリツーリズモ プリスコの食堂です。

この写真だとあんまりわからないかもしれないのですが。アグリツーリズモ・プリスコ内の食堂です。お客はぼく一人というのが寂しいのですが。これで、1泊日本で代理店経由で、1万円くらいです。直接ここに申し込めばなんと1泊2食付きで、5000円です。ちょっと間にいろいろ入っているので、倍なのですが、ぼくは3泊して約3万円でした。宿に古いフィアットが置かれてありました。ルパン3世にでてくる車と同じ。ユーモラスなのでパチリ。

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フィアット500です。

広大な庭には野草の花が咲き乱れており、遠くからモッツァレラ・チーズのための牛乳を出してくれる水牛の鳴き声がします。あと数時間で残念ながら出発です。

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旅する哲学 南イタリア・サレルノへその①アグリツーリズモの朝

2017 JAN 31 5:05:21 am by 野村 和寿

僕の泊まっているアグリツーリズモ・プリスコの門のまえです。客はオフシーズンらしく僕一人です!

アグリツーリズモ

サレルノのアグリツーリズモ・プリスコです。

旅は後半へ。ナポリからさらに南へ、列車で、約16:55 到着18:55 2時間。ピショッタ駅からさらに、迎えの車で、ものすごく曲がりくねった道をまるで、ラリーのように突っ走って、約30分。高台の山の上に、目指すアグリツーリズモ プリスコさんのアグリツーリズモはありました。もぎたてのトマトで作ったトマトソースに、これまたここでとれた黒オリーブをいっぱいつかったパスタ。手打ちの平打ち麺も自家製です。酸っぱくてどこか甘いトマトソース。こんなのいままで食べたことありませんでした。シンプル素朴そのものの、ピカンテのソテー小さな唐辛子をとってきて、やいたものです。それに、ここでとれた卵で作ったオムレツ。ワインはここで作った赤で濃厚かつさわやかな酸味。これで400円です。ここは1泊2食つきで、5000円です。

南イタリアの朝です。お菓子の朝食をいただいたところ。今日から旅は後半に。南イタリアのピショッタの農家プリスコさんのアグリツーリズモに宿泊第一日めの朝5時です。高台から眺めが最高の感。ここは、WiFIはつながらず、なぜか、ボーダフォンは、かろうじてつながります。そこで、ときどきはこれでアップしてみようかとおもいます。 ただいま朝の6時です。さきほどから1時間が経過し太陽が昇ってきました。小鳥のさえずりがどこからか、朝がきたことをおしえてくれます。静かです。きょうも南イタリアの農家の一日が始まろうとしています。オリーブの小さな花が咲いています。したにネットがあって秋収穫のときに揺すって落とすんだそうです。

チェリー

プリスコ一家総出でさくらんぼの収穫です。

さくらんぼの収穫を手伝いに、一家総出で、トラックに分乗していってきました。さくらんぼは、アメリカン・チェリーでしたが、ジャム用とそのまま食べる用に分けられていて、一家は、無心になってさくらんぼ採りに熱中しました。

チーズ工場

水牛のモッツァレッラ・チーズ工場を見学しました。製品には燻したスカモルツァもあります。ステーキでいただくと美味しいです。

ラッティチーニという、サレルノ県内にある水牛の乳で作る「モッツァレッラ」の工場を訪問しました。チーズとモッツァレッラは、完全に区別しています。水牛のお乳から、あたためてはこし、という作業を続け、かたまりを、手で小さくピックアップしています。工場で、ぼくと握手するときは、手ではなく、二の腕でした。衛生上のことなんだなと思いました。モッツァレッラは、水牛でないとだめ、新鮮でないとだめ、しかも、つくるときに塩をク加えているので、塩の味がついていて、美味しいです。

vino

ワイナリーを訪問しました。

南イタリア・チレントのワイナリー「ボッティ」を訪問しました。ここのお嬢さんが、テイスティング用に、赤ワインをあけて、なみなみと、すてて、空気を通して試飲させてくれます。それにしても美人で、ちょっとわくわくしました。ここは広大で、赤、白、スプマンテからグラッパまですべてを製造しています。今はオフシーズンなので、ワイン蔵をみせてもらいました。なにしろ、若いワインですが、あけたばかりなのに、オレンジのような香りが若々しく、イタリアワインらしいストレートさがありました。イタリアのぶどうの種類は、1000種類以上もあるんだそうです。ここボッティさん親子でやっているワイナリーでは、赤と白、そして、スプマンテ、グラッパまで作っていて、赤ワインは、14.5%のアルコール度数を誇ります。テイスティングしたら、2010年のワインがとてもいい頃合いで、フルーティー オレンジの果実味の香り、花の香りがしました。ところで、お嬢さん美人ですよね。

BOTTI ワイナリーのご主人 ボッティ親子。ワイン蔵の前で。バックには広大なぶどう畑が広がっています。グラッパがこんなに新鮮だと美味しいです。グラッパで、茶色いのは、あれは、ワインの蔵の中で熟成しているんだそうです。有機栽培のワイナリー・ボッティです。赤と白2本をいただきました。このボトルを日本に運ぶのがとても大変でした。

サレルノ 食事

アグリツーリズモ プリスコの食事をまとめるとこのようになります。

アグリツーリズモ初日の夕食1 平打ち麺タリアテッレは、もちろん、自家製。これをトマトソースと、黒オリーブのソースでいただきます。なんといいますか、平打ちめンにトマトソースがからまります。まるでジュースのようなトマトソース、それに黒オリーブのしっかりとした食感とてもいいです。アルデンテで麺はとてもしこしこしています。こんなにかたくてもいいんだと感じさせるほどに、アルデンテです。アグリツーリズモ1日めの夕食2 リコッタパスタの次は、モッツァレッラと、トマトです。ただそれだけの料理です。オレガノ、オリーブオイル、それに、ほんの少しのにんにくで作ったドレッシングとともに、小さなここで獲れたトマト、それに近所のモッツァレッラ工場でつくったばかりの、水牛のモッツァレッラ、日本では、これをきれいにはさんで、「カプレーゼ」ですが、これは、自分で作る、カプレーゼです。少しだけ塩が利いており、またトマトの酸っぱさととともに、いただきます。ここの夕飯は本当にシンプルそのものだった。リコッタチーズに、ここで採れたトマトのマカロニと、次はモッツァレッラと、トマト、要するにはこれは、カプレーゼなのですが、オリーブオイル、オレガノの干したもの、それに、少量のアーリオ つまりにんにくを小さいトマトにまぶしただけ。これがモッツァレッラのシンプルさによくあっていました。 レモンもすごくて、採りたてで香りがします。あまりのいい香りに、ガス入りのミネラルウォーターと一緒にして、レモンスカッシュみたいにしてのみました。

アグリツーリズモ1日めの夕食1 初日の夕食は、リコッタチーズと、トマトソースのリガトーニとう、パスタです。なんといっても、ここでとれたトマトを使った、トマトソースは、なんというか、ジュースのような新鮮さと、きめ細やかな涼しさとでもいえそうなすばらしいソースでした。リガトーニは、分厚い、マカロニの一種で、これはかなりなアルデンテでしこしこしていました。美味しい!ブォーノ!ご要望に沿うかどうかわからないのですが、さきほどアップしたパスタ リガトーニをアップにトリミングしてみました。上にかかっているのは、ここで獲れたペペローニ(唐辛子)で作った粉です。とても辛いです。パルメジャーノ・レジャーノも好みでかけます。

アグリツーリズモ3日めの昼食1,きょうのアグリツーリズモのお昼は、スパゲッティ カルボナーラでした。これがとても忘れられないものと生りました。ばりばりにかたいのではなく、しこしこした感じのアルデンテでちょっと柔らかめといえばそうなんですが、カルボのまとわりつき感もとても良かったです。ナポリの自然食のパスタだそうで、1つおみやげにくれました。本当はお昼はついていないのです。でも、造ってくれて、しかもただでした。本当にありがたかったです。

アグリツーリズモ3日めの昼食2 これは、肉のポルペッタと呼ばれる料理です。簡単にいえば、豚のひき肉をパルメジャーノレジャーノ(パルメザンチーズ)の多く含んだ、衣にして、オリーブオイルで揚げたものです。そのままでも美味しいし、日持ちもするので、冷たくなってからでも美味しかったです。これに、ほんの少しバルサミコ酢をかけていただいてみました。南イタリアの簡単にいえば、肉団子と行ったところでしょうか。

アグリツーリズモの食卓その2です。

アグリツーリズモの食卓その2です。

アグリツーリズモ3日めの夕食2 リゾットの次にでてきたのは、自家製のソーセージと、一緒の野菜は、なんとブロッコリーをニンニクと一緒にソテーしたものでした。ソーセージはなにしろ、つくったばかりで、味が濃く、セージの香りがしました。本当は3本もソーセージあったのですが、とても食べられず、1本だけにしました。

アグリツーリズモ3日めの夕食1 山の畑の中腹に自生しているフンギポルチーニ茸で作った、ポルチーニのリゾットです。ぼくのポルチーニ感は、とても、香りが強すぎてというのでしたが、このポルチーニは、優しくて、いくらでも食べられるという感じでした。パルメジャーノ・レッジャーノとともに、塩辛すぎず、いくらでも入るというお味でした。これはよかったです!しかもです。別にすごいシェフというわけでもなく、日本でいうなら、民宿のおじさんが、自分でつくってくれているのです。本当に美味しい!

アグリツーリズモ3日めの夕食3 これは自家製のドーナツです。しかも中身は、畑で採れたじゃがいもをすりつぶして、全部じゃがいも。でもでも、リゾット、ソーセージときて、デザートがこれ?ということで、とても全部はいただけなかったです。優しいとはなにかというお味で、きつくなく、本当はいくらでもたべられそうな、素直なお味だったのですが。アグリツーリズモ1日めの夕食3 さくらんぼの畑には、姫りんごのようなとても小さなリンゴがありました。しかし熟成するのは、秋になってからだそうです。これを収穫して、貯蔵していったのがこのリンゴです。とても小さいのですが、味がしっかりとあって、酸っぱくて甘くてなかなかの自然のお味です。

アグリツーリズモの朝飯です。基本的にイタリアでは、朝は甘いものをいただきそれでおしまいです。ここでとれたレモーネをいれた紅茶、そして、マーマレード、さらに、ここでとれた蜂蜜、大量のさくらんぼ、これは、まさに理想的みたいな朝飯みたいでした。宿でもらった取れたてのりんごと、レモンとみずで一人ピクニック状態です。

オリーブ

プリスコの部屋からオリーブの木が見えました。

山々

アグリツーリズモからみえるアペニン山脈です。イタリア半島の真ん中を縦に通っています。

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旅する哲学 その⑦ナポリ中央駅にて出会う

2017 JAN 30 7:07:36 am by 野村 和寿

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2012年4月開業のイタリア版新幹線イタロです。発着駅は同じナポリ駅です。

2012年4月28日に開業した「イタロ」というイタリアの新幹線です。正式名をヌオーボ・トラスポルト・ヴィアジャトーリというイタリアの高速鉄道TAVは、ミラノからナポリまでを高速300kmで結んでいます。と、ここまでは公式なのですが、新しい線路ができているわけでもなく、つまりは、fという旧イタリア国鉄と全く同じ線路を走るのです。小田急線の特急がJR東海の沼津駅まで乗り入れているのに、ちょっと似ていなくもないです。係員は、ちょっと昔風で、サーベルをさげ、おもちゃの軍隊みたいですし(写真最下段参照)、開業したばかりなので、車体もすごくきれい。ここナポリ駅構内に、つまりは2つの鉄道があり、案内所も別々にあります。車体はフィアットを買収してしまったフランス・アルストム社が製造し、内装はイタロ・デザイン(ジウジアーロ)が作っているようです。

ナポリ中央駅で出会った列車たちです。

ナポリ中央駅で出会った旧イタリア国鉄(トレニタリア)列車たちです。かわいいですね。

写真上は、ナポリ駅を中心に出会った旧イタリア国鉄(トレニタリア)の列車たちです。まるでメルクリンのモデル模型のように、1両でとことこと近郊を走っている電車もありました。

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ナポリ中央駅の旅行者用案内所のボランティアスタッフたちと記念撮影です。

ナポリ中央駅にある「旅行者案内所」の若きボランティア・スタッフたちとともに記念写真をとりました。みんなすごく、かわいいです。写真撮影に気軽に応じてくれたのですが、女子が随分とぼくと距離が近くて、おじさんはとてもドキドキしてしまいました。でもこういうのが旅行の醍醐味です。5月25日、ナポリ駅の旅行者向け総合案内所にて。スタッフみんなの写真をお願いしたら快く応じてくれました。ここにはうら若き女性スタッフが元気に働いています。みんな明るく、ここの情報はみんな無料です。気持ちがいいくらいにさわやかでした。なんと記念写真も撮影してしまいました。美人といっしょで、顔がにやけております。すみません。イタリア女性の前向きな気持ちは、若さ故か。こういう人たちがたくさんいてほしいなと思いました。

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旅行案内所は広くてスッキリと広くてなかなかきれいです。といいつつもう1枚記念写真をアップしてすみません。

ナポリ中央駅前です。

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ナポリ駅前の昔風の制服のみなさんは、開業したばかりのイタロの乗務員さんたちです。

ナポリ中央駅は、新装なっていて、とてもきれいです。中には、いわゆる、危ない人々は入れないように、常に警察がみはっています。周囲は危ない人たちも多いのですが、エキ中は安全でした。荷物の一時預かり所は、とても安心なところです。セキュリティーも厳しくて、パスポートのコピーをとり、チェック。チェックカードを差し出し、荷物を受け取る。5ユーロでした。ナポリ駅周辺は、見るからに危なそうな人たちばかりで昼日中にカードの博打を開いたりして緊張します。一方、駅は極めて新しく人種のるつぼであり、ヨーロッパ独特のカオスに満ちています。ちょっと沢木耕太郎になった気分です。一人旅はいろいろと困難を伴うことが多い。いつ列車がくるのか?それは何号車にのるのか?いったい途中の駅におりるのは何時頃なのか?ねすごしてはいけない。とにかくどこか緊張してきます。おなかが痛くなることを避けけて、極力食べないようにします。そして、適度な水分が必要なために、極力水をすこしずつ補給します。トイレがどこにあるのか? 安全なのか?お金をはらって入るトイレのほうが、結局安全でいいと思えてきます。

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ナポリ駅の地下行きのエレベーターです。地下にはトイレや教会のチャペルなどなどあり。

地下行きのエレベーターですがトイレ、地下鉄、などと共にカペラつまりチャペルがあるとあります。いかにもカトリックのお国柄といったところです。

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旅する哲学 南イタリア・ナポリへその⑥スパッカ・ナポリ

2017 JAN 29 8:08:28 am by 野村 和寿

タクシー運転手のマリオさんに案内してもらって、ポンペイからナポリに戻ってきました。人生最良の日の午後は、スパッカ・ナポリです。

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スパッカ・ナポリは庶民の街。日常を垣間見ることが出来ます。

スパッカ・ナポリとは、ナポリの下町。通常はちょっと治安が悪いとも言われることがあります。タクシー運転手のマリオさんは、ここの出身で、案内してもらいました。

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ナポリの個人タクシー マリオさん

この人がマリオさんです。このあたりの顔で、このピッツェリア「ヴェスビアーナ」にもちょくちょく顔をみせるんだそうです。なんでも、若いときは歌手を目指し勉強していたが、サッカー応援で声を出しすぎたのか、大きな声が出せなくなり、やむなく断念したそうです。それで、タクシー内では、「オーソレ・ミオ」やロッシーニの「セビリアの理髪師の私は街のなんでも屋さん」など、つぎつぎと歌ってくれました。ぼくは、とてもいい人だと思いました。いくらなんでも、実家近くを案内して、ピッツァまでご一緒してくれるとは、こういうときに、イタリア語が少ししゃべれるということがよかったなあと思っています。

ナポリ ピッツァその2は、ナポリの下町「ピッツェリア・ヴェズビアーナ」にて。ピッツァ・フリットです。このお化けのようにでかいしろものは、中に、オリーブやトマト、ベーコン、それになんといってもモッツァレッラ、それにほかのチーズを入れ、そのまま揚げたものです。日本でいえば、イタリアンで、ピッツァのカルツォーネのお化けみたいにおおきいやつです。生ビールのグラスとひかくするといかにでかいかがわかると思います。これで、400円くらいです。もちもちとしたパスタ生地となかでとろとろになったモッツァレッラが融合して、甘く、酸っぱく、柔らかがいっぺんに味わえます。なんで2皿かといいますと、教えてくれたタクシーの運転手と一緒にお昼をしたんです。そのことはまた。前メールのピッツェリア「ヴェズビアーナ」は、漁師からの新鮮な魚介類を売る地区の、中にあり、これはなかなか見つかるものではありません。タクシー運転手のマリオさんとは、年齢が近くなぜかきがあい、この2日ほどご一緒し、あちこち案内してもらいました。この店は築地場外の「すし清」みたいな関係かもしれないです。

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ピッツアを作る調理場も取材させてもらいました。

でも、生地をこねるところはもちろん大理石でなにしろ家族的、協力して取材させてもらった感あり。

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スパッカ・ナポリの魚屋さん

こちらは魚屋さん。旬の魚は、アリーチかたくちイワシのことです。またイワシはほかにも大きさや産地で厳格に呼び名が違っており、もうひとつは、「サルディーナ」といういわゆる、オイルサーディンに使われるような、小さなイワシ。日本でいえば、新子に似ています。こちらは貝専門店です。ちゃんと砂だしはしているそうで、さすがにこのままボンゴレとして、パスタに使えますね。いつもお水はたやさずに、新鮮さを保っているんだそうです。

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マリオさんのお母さんが2階から顔をのぞかせています。

2階から顔を出しているのが、タクシーのマリオさんのお母さんアンナさん。とても気さくな方で手を振ってくれました。マリオさんは、ここで生まれ大人になるまで育ったんだそうです。活気あふれる下町の洗濯物がいっぱいの素顔のナポリです。

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サラミ屋さんはマリオさんのおばあさんがやっている屋台のお店でした。

このサラミ屋さん。お店番をしているのは、タクシーのマリオさんのおばあさんです。もう80をとっくにすぎているんですが、ひがな1日こうして店番をしているんだそうです。サラミとチーズを一緒にうっているところが、下町的ですね。

漁師のお店がずらりと並んでいる下町近く。タクシーのマリオさんはこの町で生まれて育ったそうで、歩いていると知り合いばかりで声をかけあっています。この混沌そのもので活気あふれるお店は魚屋、貝屋、八百屋と多種のお店です。

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街角にあるマリア像です。日本のお地蔵さんと同じような感じです。

こんな複雑に入り組んだ、魚や野菜の市民の台所にも、角角に、キリスト像がおかれて、みんなを見守っています。なんか日本でいえば、道祖神かお地蔵さんに似ていますね。とにかくみなさんカトリックで信心深いです。八百屋さんです。トマトの赤がまぶしいばかりです。普通こういった光景を取材させてもらうときは、(個人だから取材とはいわないかも?)気を使うのですが、なにしろ、マリオさんをみんながよく知っていて、これも撮れ、あれも撮れといわれて好意的そのものです。しかもたとえば、いんげんは、今の時期旬なので、フリットにするとうまいよ。とか説明もしてくれます。

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マリオさんとの記念写真です。

タクシーのマリオさんと記念写真です。マリオさんは、52歳だそうで、ぼくと妙にうまがあいました。もちろん観光客に合わせてくれたんだと思いますが、イタリア語の教師であり、ぼくのイタリア語にもいやな顔ひとつせずにつきあってくれました。レモンチェッロをすすめられて飲んだ後で少し酔っています。

ここでワイシャツと、スーツを買ったんですよ。いや買ってしまったんですよ。こういうのが旅の醍醐味だと思います。シャツのお店です。マリオさんの親戚がやっているんだそうです。表通りの洋服屋よりも格安だよと紹介してもらいました。なにしろ、ぼくは、おなかがでっぷり体型でなかなかそろわないんですが、さすがにイタリアの下町にはぼくのサイズがありました。黒のジャケットとズボンともにフィット。さらに、生地のいいワイシャツを買って全部で、1万円ほどでした。おみやげにとてもすごい色のナポリらしいネクタイももらいました。もちろん少し調子に乗ってだまされたのかもしれないのですが、まあそんなこと考えないでいようと思います。スーツとワイシャツで1万円。今部屋にもってきているんです。こんなおみせ、自分だけじゃぜったい買わないですよね。

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旅する哲学 南イタリア・ナポリへその④考古学博物館

2017 JAN 27 4:04:46 am by 野村 和寿

ナポリ国立考古学博物館

ナポリ国立考古学博物館 ローマ時代の彫像と見学しているイタリア人が同じ顔かたちなのに驚きました。

過去の何が<人間>の観念を拡大し、さらに美しいものにすることができたのか。何度も何度も、過去の偉大さに思いをめぐらすことで力を得、人間の生とは素晴らしいものだという感覚に触発されて、目覚めた何人からの人間がいたのだ。 ニーチェ

ナポリにいったら行ってみようと思っていた国立考古学博物館に行ってきました。ナポリの考古学は、主にフランスのナポレオンがこの地をおさめていた頃に始まるようで、それでか、フランス人の団体が非常に多かったです。すごいのはお城のような建物に、ポンペイや、ファルネーゼから発掘したブロンズや大理石ぞうがまことにおびただしく、ちゃんと見ようと思ったら、たぶんまったく1日ではすまない量でした。ぼくがとりわけ面白かったのは、大理石の石像の顔が、現代のイタリア人とさほど変わらないことでした。どうも、昔の人の像をみて、見学者をみると、あまりにも似ている人が多くて、これがイタリア文化のプライドなんだろうなと思ったりしました。それはそれとして「どこみてんの?」

ナポリ国立考古学博物館②

世界史の教科書でみかけたことのあるペルシャの王ダリウス3世とのイッソスの戦いを描いたモザイク画です。

 

ナポリ国立考古学博物館のいちおし。紀元前33年に、マケドニアのアレキサンドロス大王(3世)が、ペルシャのダリウス3世をやぶったイッソスの戦いを描いたモザイク画です。なにしろ、はじめて、当時最強といわれたアケメネス朝ペルシャ(今のイラン)を破ったヨーロッパ方の王様として有名なわけで、これはまさに、今の世界情勢にも通じる根が深いお話です。もちろん、このモザイク画の周囲にはいつも人だかりができていました。ヨーロッパが強いという人々が確かめたいのでしょうか?この絵の中には、ペルシャの女性の姿や、大王のわかいときの戦いぶりも描かれています。もともとは、あのポンペイから出土されたものだそうです。きょうはこれから、そのポンペイにいってこようかと。

ナポリ国立考古学博物館③

アグリッピーナ王女の像です。ヘンデルがオペラにしています。

国立考古学博物館の「順当な」写真です。まるで生きているみたいなアグリッピーナの王女の像です。アグリッピーナは、ヘンデルが後年オペラにしています。その周囲を歩いているイタリア人でどこか似ていると思った人がたくさん、像になっています。なんか西欧の文化みたいなものを、しみじみ感じてしまいました。

ナポリ国立考古学博物館④

ポンペイから出土した夫婦のモザイク画です。

ポンペイから出土した夫婦のモザイク画です。まさに鮮明そのもので、しかも、なんというか、夫婦の絆みたいなものまでわかるような。こうした文化が一瞬のうちに埋まったのですから、すごいです。ナポリ国立考古学博物館はトイレもちょっと面白くて、男女別々ですが、日本でいえば、女性のトイレのように、男性のトイレでさえも、個室しかないのです。なにか不思議でした。

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