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カテゴリー: 本

旅する哲学 南イタリア・ナポリへその②ホテルとピッツァ

2017 JAN 25 2:02:31 am by 野村 和寿

ナポリのホテルの朝食

GRAND HOTEL PARKER’S NAPOLIという5つ星のホテルなんです。

旅行の現実は期待と違うという意見なら、わたしたちもしょっちゅう聞かされる。だからこそ主張する。現実はつねに失望させるものに違いない。だが期待と現実はもともと別物なのだと考えるほうが、より真実に近く、より役に立つのではあるまいか。(旅する哲学 大人のための旅行術 アラン・ド・ボトン著安引宏訳 集英社刊より)

ナポリ報告 ぼくの宿泊しているホテルは、GRAND HOTELPARKER’S NAPOLIという5つ星のホテルなんです。(でも僕の部屋は安い部屋なので海向きではなく)待望の朝食へ。おびただしいフロマージョ(チーズ)は、ブッファーロ系であっさりとしていて、いくらでも入るという風情。トマトは味が濃く、ミルクはそれだけで甘くといった感じで、最上階の食堂は朝の陽光がいっぱいにさしてきて、すばらしい朝食となりました。ハム類も、いろいろな珍しいハムばかりで、どれも癖が強くなくて美味しいです。また、自家製のミックス・ジュースの酸っぱく甘くなかなかのお味でした。

ホテル テラスの朝食

ホテル テラスでの朝食です。

 

テラス席は、このホテルが高台にあるので、6階といってもかなり高いところにある風情です。テラスをなめるように海に向けてレンズを向けてみました。陽光がまぶしく、南国に来たという観があります。まだ朝7時の光景、もしかすると、太陽が昇る今頃がいいのかもしれません。

ホテルのテラスから

ホテルのテラスからベズビオ火山をのぞみます

 

前メールのテラスからナポリ湾が一望できます。なにしろ、部屋がまっ暗だったので、最上階の6階テラスからみた、海の一望はとても印象的でした。左のヴェスヴィオ火山は常に、噴煙をあげておりまして、きょうは晴天なので、とても気持ちがよい朝です。ちょっとかなりの逆光なのですが、アップしてみます。

有名ピッツェリア ミケーレ

ナポリ・ピッツァの発祥の店といわれるミケーレの正真正銘本家のピッツァ・マルゲリータ。

ナポリ本場のピッツァ ピッツア・マルガリータをいただいてきました。スパッカ・ナポリにある、「ミケーレ」という超有名店です。ここは、あまりにも有名なのですが、なにも飾らずにひたすらピッツァだけを、食べさせてくれ、あとは水とビールくらいです。日本ではさしずめ、「香川のさぬきうどん屋さん」に似ています。とにかく飾らず、この大きさで、400円です。トマトソースは、まだトマトそのものといったお味で、これに、モッツァレラの白と、バジルの緑で、有名なピッッアマルゲリータの完成です。注文してものの5分ででてきます。奥では、ピザを丸く作る係、ピザ釜で焼く係とに分かれていました。もちもちとした食感と、トマトの酸っぱさ、ときに周囲の焦げ目のかりかり感も香ばしく、今まで何を食べてきたんだろうという、ビッツァの中の王様みたいです。やたらにこんでいて、相席です。

ピッツェリア・ミケーレ

ナポリ・ピッツァ発祥の店ピッツェリア・ミケーレの外観は味も素っ気もないくらいでした。

 

ミケーレという地元の人一押しのピッツェリアの外側です。こんなに間口は小さく、ちょっとなかなか見つけられません。しかし、中はすごい込みようです。ここの店もほかのなん軒かのピッツェリアと同じく、マルガリータ発祥の店と号しております。つまりマルガリータは、とくに1軒で、生まれたのではなくて、自然発生的に生まれたんだなと思いました。ほんとはね。

イタリア人のピッツァの食べ方

手前と先のピッツァの比較。先は老夫婦が残したマルゲリータです。真ん中だけきれいに食べています。面白い。

ピッツァの話。これはきのうのピッツェリア ミケーレのピッツァ・マルゲリータですが、相席の前の食べ残し方をごらんください。真ん中だけ食べて、周囲を残しているでしょう。こういうことを、ナポリでは、言葉がありました。言葉自体は記録していないのですが、ようするに、こういう周りを残して中だけ食べる人のことを、なんとかいって、それは、ピッツァを残す人=もう年寄りの人 という意味で使っているそうです。なにしろ、ピッツァは大きいですので、とても一人では食べきれません。それに周囲のこげている部分が香ばしくて美味しいのですが。

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旅する哲学 南イタリア・ナポリへその①

2017 JAN 24 9:09:37 am by 野村 和寿

『旅する哲学 〜大人のための旅行術 アラン・ボドン 安引宏訳 2004年集英社刊』という本があります。この本はなぜ人は旅するかを哲学から考察した本でとても面白いのですが、の後書きにジャーナリストのジャン・モリス(英国)の旅行術について要約すると下記のようになります。

旅する哲学

アラン・ド・ボトン著(1969〜)安引宏訳 著者はロンドン生まれ ロンドン大学大学院哲学指導教官 2004年集英社刊

1,      何処に行こうと、初めての土地だと自分に言い聞かせること

2,      どんな経験でも、旅人を豊かにする素材であることを忘れるな

3,      都市を見る最良の方法は、「目的もなくさまようこと」(E・Wフォースター)にある。

4,      他の人が見に行くからといって、見に行ったりしない。

5,      カメラではなく、スケッチブックを持って行こう。

6,      バスツアーに参加することを羞ずかしがるな。

7,      一人で旅をしよう。

まさに、そんな旅を経験したことがあります。2012年の5月にイタリアのナポリを1週間ほど旅をしました。当時のボクは、大きな仕事が一段落し、そのときの自身の結果の失望落胆のもとに、すっかりと自信を失っていました。そこで、休みをとってたった一人で、旅行に行くことを思い立ちました。おりからイタリア語をやっていましたので、それを試すのにもよいと思ったからです。それでは2012年の5月に、時計の針を戻すことにします。

成田空港出発ゲートにて

成田空港出発ゲートにてアリタリア9:00発

成田空港は雨。アリタリアの朝便でローマ経由ナポリへ一人旅。もちろん休暇です。旅の始まりです。

 

 

 

 

 

アリタリア航空キャビン

アリタリア航空成田発ローマ行き航空機内の後部キャビンに集うキャビンアテンダント達

 

成田発ローマ行き、アリタリア航空ボウイング777の最後部のキャビンです。客室乗務員のおねえさんたちは、井戸端会議に余念がありません。なにしろ、お客様は満席で、やることないわけでもないんですが、ここに飲み物とかをとりにいく方式なので、別に待機しているだけなんですが。ボウイング777は、1つ前の新鋭機で、座席もけっこう幅が広くよかったです。やはり、やりたいことを最初にやるというイタリアの気質でしょうか?

ローマの空港にて

乗り継ぎ便の小さな飛行機に乗る。

アリタリアの国内線は、世界中で使い古された1980年代ものの、MD80(その昔はDC9-80ともいわれた)が使われています。もう席はあちこちで、がたがきていて、ぼろぼろです。乗り降りは、最後部から階段でおりるという懐かしい形です。まあ、ローマナポリ間は、ほんの25分くらいなので、安全を祈りつつ。懐かしいです。TDAがまだあった頃に乗った記憶が,,,,,

 

ローマ発ナポリ便の飛行機

ローマ発ナポリ便の飛行機内で、救命胴衣を説明するいかついキャビンアテンダントのおじさん

アリタリア・ナポリ便の白眉は、海外ドラマ「24」のキーファー_サザーランドみたいないかついおじさんが、救命器具の実演をやってくれることです。あのもしたりないときは口から空気をいれて、なんかもなかなかによい演技でした。席はBがないAとCを含む、2席、3席の5席で、たてがうんと長いのです。席はすごくて、リクライニングにしないのに、リクライニングになってしまい、離陸のときに乗務員のおじさんが、もとにもどそうとしてももとにもどらないような席があちこちで見受けられたことです。なれもあってか誰も驚かない。おんぼろ飛行機でした。ボクは20年以上前、コリアン・エアでヨーロッパに行った際に意図しないリクラインシートを初めてみました。機内の窓などにやたら日本語表示があるので、よく見たら、JALのお古の機材だったようです。 この章つづきます。

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鈴木貫太郎男に心ふるえる

2017 JAN 21 4:04:14 am by 野村 和寿

ここに2つの新聞の記事を紹介する。1つは1944年4月13日のアメリカ・ワシントン・ポスト紙、もう一つは、同じ日のアメリカ・ニューヨーク・タイムズ紙の記事である。

この記事に先だって第42代首相に、鈴木貫太郎が就任している。わずか6日前(4月7日)のことである。就任したばかりの鈴木貫太郎首相は、敵国であり、交戦中であったアメリカ合衆国大統領フランクリン・D・ルーズヴェルトの突然の死去に際し、なんと敵国にもかかわらず、哀悼の意を表している。しかも、特別に葬送の音楽までつけて。

1945年4月15日付け ワシントンポスト UP(合同) 記事は以下の通り

・・・・

日本首相鈴木貫太郎は、ルーズヴェルト大統領の死去に際して、昨日アメリカ国民に対する深い哀悼の意を表明した。

連邦通信委員会の聴取した放送によれば、新首相は述べている。「ルーズヴェルト大統領の施政が非常に成功を収めたこと、そしてアメリカが今日の有利な地位を占めるに至ったのは、彼のおかげであることを私は認めざるを得ません。その故に、彼の死去がアメリカ国民にとって意味する所の大きな損失を私にはよく同感できるのであります。私の深い哀悼の意をアメリカ国民に向けて送ります」

鈴木はこれに加えて、大統領の死によってアメリカの戦争継続努力に変化が生ずるとは思えない、とも述べた。(訳 小堀桂一郎氏『宰相 鈴木貫太郎』(文春文庫1987年刊)より引用)

ワシントンポスト

1945年4月15日付けのワシントンポスト紙の該当部分

 

1945年4月14日付け ニューヨークタイムズ記事は次のとおり

NY TIMES 19450414

ニューヨークタイムズ紙1945年4月14日の紙面の該当部分です。

・・・・

男爵鈴木貫太郎提督は、フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領の死去に際し、アメリカ国民に対する「深い哀悼の意」を表明した。と、昨日、日本の同盟通信社が述べている。

北米向けの英語による無線通信の伝えるところによれば、信任の日本の総理大臣は、同盟の記者に対して次のように語った。「ルーウヴェルトの指導力は実に効果的なものであって、これが今日におけるアメリカの優位な地位をもたらしたものであることを、私は認めないわけにはいかない

そして、付け加えた。「であるから、彼の死去がアメリカ国民に対して意味する大きな損失は私にはよく同感できるのであって、私の深い哀悼の意をアメリカ国民に向けて送るものである」

「転換は起こらぬ」と断言

しかし鈴木首相は「率直に述べた」と、連邦通信委員会で受信した通信は続けて報じている、「自分はルーズヴェルト氏の死去によってアメリカの日本に対する戦争努力に変化が生じようとは考えていない」首相はさらに続けて述べている。

「日本側としても同様、英米の武力政策と世界支配に対抗する全民族の共存共栄のタメの戦争を継続すべく、日本の決意にはいささかも動揺もないであろう」(訳 小堀桂一郎氏『宰相 鈴木貫太郎』(文春文庫1987年刊)より引用)

newyork times1

1945年4月14日付けニューヨークタイムズ紙の該当部分その1です。

 

さらに、ニューヨークタイムズ紙の、記事の後段(下線部分)である。日本の同盟通信によると、とわざわざ断った上で、新任の首相に、なぜ、鈴木貫太郎が選ばれたのか? そして鈴木貫太郎がどんな気持ちで、この難局に臨んでいるのか?」を語っている部分である。

new york times2

1945年4月14日ニューヨークタイムズ紙の該当部分その2です。

・・・・

 

同盟の通信が述べたところによれば、ルーズヴェルト氏の死去という「世界を震撼させた事件」に対する鈴木首相の「思いがけぬ反応」にふれて、その記者は、「ほとんど不意打ちにあったように驚いた」、「しかし記者は、この新首相のごとき度量の大きい人物の口から出た言葉とすればそれも不思議ではないことを、直ちに悟った」、通信はそのあと次のように続いている。

「アメリカ国民の大なる損失に向けての首相の深い哀悼の意の表明こそ、鈴木提督が何故、その高齢にかかわらず、現在の難局を乗り切って国家を導いていくために、国政の手綱をゆだねられたのか、という事情の説明となるものである。同盟の記者が直ちに幹事と田というのはこのことだった。」

「この弔意の表明は、なぜ、彼が、自分は政治に経験がないからと言明したにもかかわらず。結局退任を引き受けたのか、ということの説明にもなる。言い換えれば、彼がこの任務を引き受けたのは日本の戦争目的の達成と、全民族の安寧のために、自らのなし得る限りを貢献せんと志してのことである。」(訳 小堀桂一郎氏『宰相 鈴木貫太郎』(文春文庫1987年刊)より引用)

・・・・

ここで注目すべきは、ワシントンポスト紙、ニューヨークタイムズ紙ともに、東京の同盟通信が北米向けに流した英語放送からの記事であり、確かに、鈴木首相は、アメリカ大統領の訃報に接して、いち早く、弔意を述べたことは確かだということである。

しかし、なぜか、日本側のこうした、鈴木貫太郎が、アメリカに弔電を打ったという事実は、まったく記録がないのだ。これは不思議なことだ。繰り返しになるが、ニューヨークタイムズ紙、ワシントンポスト紙が、同じ日本の同盟通信の傍受からの記事として発表している以上、この放送は確かに存在したのである。

日本の首相が、敵国の大統領の死去に哀悼の意を表したという事実は、海を越えて、意外な広がりをみせる。

 

ひとつは、スイスのバーゼル報知の主筆で、元外相だったエリー氏が、社説で、この事実をヒトラー・ドイツのひどいいいがかりと比べて、なんと武士道の騎士精神が残っていることだろうとたたえていることだ。社説曰く

・・・・

「日本の首相のこの心ばえはまことに立派である。これこそ、日本武士道精神の発露であろう。ヒトラーがこの偉大な指導者の死に際してすら誹謗の言葉を浴びせて恥じなかったのとは、何という大きな相違であろうか。連日にわたってアメリカ空軍の爆撃にさらされながら敵国アメリカの元首の死に哀悼の意を表することを忘れなかった。日本の首相の礼儀正しさに深い敬意を表したい」(笹本俊二『第二次世界大戦かのヨーロッパ』岩波書店より引用)

・・・・

この新聞の記事の本物は、未発見であるが、当時スイス在住の日本人 笹本俊二氏が、このバーゼル報知のことを著書『第二次世界大戦下のヨーロッパ』(岩波書店)で、本に書き残していることからわかる。

 

もう一つ、ナチスから逃れた文豪トーマス・マンが、アメリカ・カリフォルニアからのドイツ向け放送のなかで、このことを取り上げていること。

・・・・

「あの東方の国は騎士道精神と人間の品位に対する感覚が死と偉大性に対する畏敬がまだ存在するのです」(伊藤利男訳 『トーマス・マン全集』第10巻より 新潮社刊より引用)

・・・・

さらに、アメリカのスポークスマンと自称するザカライアス大佐の、対日本向け宣伝放送のなかでも、この事実が取り上げられ、鈴木貫太郎とザカライアス大佐は、以前知己があったといっていること。

SUZUKI MATOME1

ルーズヴェルト大統領逝去に関するトピックのまとめ。

 

さらに、さらに、ニューヨークタイムズ紙は、駐日英国大使クレーギー氏の発言として、鈴木内閣を単純な軍国主義内閣とはみなかったこと。和平内閣で太平洋の両岸に平和をもたらしてくれる人物という観測をのせたこと、鈴木内閣は、日本国内よりもアメリカ国内に於いて期待が高まっていたと考えてもおかしくない。

これは、小堀氏の著書によると、同盟通信の記者に、鈴木貫太郎が直接命じ、話してきた聞かせたという談話に、同盟通信の記者がえらく驚き、感動して、英語に訳したとされている。4月13日に逝去したばかりの放送だから、時差があったとしても、わずかな時間で、アメリカに放送しているということから、もしかすると、同盟通信は情報局や憲兵隊の検閲をうまくくぐりぬけたか?あるいは、検閲されたとしても、まさか鈴木貫太郎首相自身の談話だからという理由であまり事細かに詮索されていなかったか?で、放送されているのではないか?

そして不思議なことに、鈴木貫太郎のこのアメリカ向け談話について、鈴木首相の内閣書記官長・現在の官房長官にあたる、内閣書記官長 迫水久常の記述のどこにもこの放送のことが触れられていない。そして、鈴木貫太郎の談話を取材して英語に翻訳した同盟通信の記者の名前も、ついぞ判明していない。もしかすると、後々のことを恐れて、同盟通信側でも記者を護る為に、あとあとまで秘匿したという可能性さえある。

これらの事実からみえてくるのは、

確かに鈴木首相のルーズヴェルト大統領の死去に対する弔意はあったこと。

さらに、弔意には、鈴木首相の戦争終結への思いが込められていることを、NYタイムズが報じていること。

アメリカの新聞の論調は、鈴木内閣の出現が、それ自体が平和への序曲と書いていること。鈴木内閣が、ナチス・ドイツがドイツ人に対してより、より多く日本と日本人に配慮する人々であること。

それを勇気をもって放送原稿に英訳した、同盟通信の日本人記者が確実にいたことである。

 

鈴木貫太郎

鈴木貫太郎は海軍大将でありながら常に背広姿だった。

鈴木貫太郎(1868(慶応3)年—1948(昭和23)年・プロフィール

鈴木貫太郎は首相就任当時79歳と高齢であり、耳が遠かったという。

経歴:1888(明治21)年 日清戦争水雷艇で従軍

1903(明治36)年 ドイツ留学

1904(明治37)年 日露戦争出駆逐艦指令でロシアスワロフを撃沈

1905(明治38)年から4年間 在アメリカ駐在武官

1918(大正7)年 練習艦隊を自ら率いて、アメリカサンフランシスコを親善訪問している。

1924(大正13)年 連合艦隊司令長官

1930(昭和5)年 ロンドン軍縮会議時の海軍軍令部長1936(昭和11)年の2.26事件の際には、天皇の側に仕える侍従長として、反乱軍の銃弾を2発受けたが、奇跡的に命を取り留めている。

1945(昭和20)年4月7日から8月15日 第42代内閣総理大臣

宰相 鈴木貫太郎 小堀桂一郎著

1987年文春文庫・絶版 本書を神保町ではなく北海道苫小牧の古書店で見つけた。いい本はこんな所に埋もれているものである。

参考資料 小堀桂一郎著『宰相 鈴木貫太郎』(1982年8月文藝春秋社刊1987年8月文春文庫)。著者の小堀桂一郎氏は、1933年生まれ。執筆当時、東京大学教養学部教授で2004年名誉教授。専攻は日本思想史 本書で1984年第14回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。近著に『鈴木貫太郎−用うるに玄黙より大なるはなし』(ミネルヴァ書房)2016年がある。

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映画『HIROSHIMA』で鈴木貫太郎を観る Ⅱ

映画『HIROSHIMA』で鈴木貫太郎を観る


 

 

 

命のビザ、遙かなる旅路

2017 JAN 4 5:05:07 am by 野村 和寿

北出明著『命のビザ、遙かなる旅路 ~杉原千畝を陰で支えた日本人たち』(交通新聞社新書044)読了。

命のビザ、遙かなる旅路

杉浦千畝を陰で支えた日本人たち 交通新聞社新書

リトアニアの首都カラナスの杉原千畝総領事の、ユダヤ人難民への日本通過ビザ発給は、つとに有名だが、本書は、ビザ発給を受けたユダヤ人たちが、シベリヤ鉄道の終点ウラジオストクから、国際航路で就航していた日本郵船の「天草丸」に乗船して敦賀港へ向かったとき、実は、JTBの前身、ジャパン・ツーリスト・ビューローや、日本郵船の多くの日本人たちが、半年以上に亘り、彼らを献身的にサポートしていた事実が書かれています。

難民が着いた敦賀市では、戦雲急を告げる中、中学の校長が「ユダヤの民は、今は、ぼろを着ているが、高名な学者や芸術家、銀行家などを多く排出しており、ぼろをきているからといって、けっしてさげすんではいけない」と子ども達に訓示。

ユダヤ人たちに、無償で銭湯を提供したり、宿を提供したり、また、難民たちにりんごを配る少年がいたなどのエピソードを発掘しています。難民たちは、敦賀から列車で、横浜や、神戸に向かい、アメリカを目指しました。著者は長く国際観光振興会に奉職後、たった一人で、ユダヤ人難民の生き残りを探し、家族達を探し当て、アメリカ中を旅をします。

リトアニア・カウナスで発給されたビザを携えたユダヤ難民は経由地である日本の敦賀をめざしました。敦賀市ホームページより引用

リトアニア・カウナスで発給されたビザを携えたユダヤ難民は経由地である日本の敦賀をめざしました。敦賀市ホームページより引用

この事実を当時のユダヤ難民たちの生き残りや家族へのインタビューを通して明らかにしていく迫真のドキュメンタリーです。多くの名もない日本人たちが、敦賀で、神戸で、ユダヤの難民を助けたという事実は重く、運命の糸でつながっていることを感じてしまいます。こんなことを70年経って発掘した本が出るとは本当に、すごいことだと思いました。

▇本書から見つけた興味深いことがら▇

1,本書には「ヴェルディヴ事件」のことが若干触れられていました。1942年7月19日早朝ヴィシー政府下のフランス警察は、自主的にパリ在住のユダヤ人1万3000人を検挙。うち4115人の子、2016人の女性、1129人の男性をエッフェル塔近くの「ヴェルディヴ」と呼ばれる自転車競技場に閉じ込め、最終的にはアウシュビッツに送り込まれ、生存者はわずか25人だった。この事件が公にされたのは1995年シラク大統領の時で、そのときはじめてフランス政府は謝罪したということでした。

2,1937年満州国ハルピンで開かれた第1回極東ユダヤ人大会を開き、ユダヤ人の立場に同情したのが、関東軍指揮下のハルピン特務機関長樋口季一郎中将だったこと。満州国の経済圏の確立を企図したことがうかがえるとはいえ、関東軍はナチスを非難し、ユダヤ人に同情。 1938年3月満州と国境にあるソ連側のオトポール駅にナチスに追われたユダヤ難民が大挙して流れ込んだ。寒さと餓えに苦しむ彼らを救ったのが、で、ユダヤ難民をハルピンに逃れることが出来た。というエピソードにも触れています。

3,ユダヤ人たちを、ウラジオストクから敦賀まで運んだ船、天草丸は数奇な運命の船でした。ドイツで竣工し、帝政ロシアに売却され、日露戦争で、日本海軍に拿捕、そして最後は、米海軍に撃沈されます。つまり、ドイツ→ロシア→日本→アメリカ と結びつきます。しかも時代は異なるものの、ユダヤ人を迫害していたドイツと、ロシアで活躍していた船が、日本でユダヤ人を助けることになるのでした。

天草丸の歴史

ウラジオストク→敦賀間でユダヤ難民を乗せた天草丸

ウラジオストク→敦賀間でユダヤ難民を乗せた天草丸

ドイツ北部バルト海に面する港湾都市ロストックのネフタン造船所で1901年浸水し、帝政ロシア東清鉄道に売却、され、貨客船アムールと命名される。1905年日本海軍が、拿捕、天草丸と改名される。

1906年に大阪商船に払い下げ、1929年北日本汽船に売却、その後日本海汽船に引き継がれ、敦賀~ウラジオストク間に就航。1932年、ジュネーブの国際連盟会議に出席する全権代表の松岡洋右:後の外務大臣が乗船していることである。

天草丸その2

数奇な運命をたどった天草丸

1943年合併から大阪商船に移籍、1944年台湾近海で、米海軍潜水艦バングとレッド・フィッシュの両潜水艦の水上雷撃により沈没

 

 

 

4,杉浦千畝の発給したビザの有効期間はわずか10日間でした。これではとても日本からアメリカへの乗船までの期間が確保できません。窮状を聞きつけたユダヤ研究家小辻節三は、松岡が南満鉄総裁時代の部下だったことから、窮状を当時の外相松岡洋右に直訴。松岡は「ドイツ・イタリアと同盟は結んだが、ユダヤ人を殺せとまでは約束していない」として、小辻に秘策を伝授。それは、元官僚らしく、ビザの延長権限は地方公共団体の警察にあることを話し、これが認められれば、外務省はぐうの根も出ないとアドバイス。そこで、小辻は神戸の警察幹部に、1回のビザ延長15日間を認め、事実上何度も申請することで、無期限までビザ延長が可能になったのです。

小辻節三については、下記のHPで詳細がありました。

ユダヤ人ビザに奔走した小辻節三についてのHP

敦賀市によるユダヤ難民関係のHP

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大森実の『戦後秘史』を読了

2017 JAN 3 7:07:42 am by 野村 和寿

1975年に刊行された、大森実の『戦後秘史』(講談社刊)を、アマゾンで1-5巻まで揃えました。ぼくはこの本を、大学のときに、本当にスゴイジャーナリストがいるもんだと、感動して読んだのを思い出します。それからもうかれこれ30年、再び読んでいます。

古書が揃えられるのは、アマゾン恐るべしです。

大森実著 戦後秘史

戦後秘史料全10巻その1
1975(昭和50)年第1冊講談社より刊行開始

元毎日新聞の国際事件記者 大森実が、終戦直前、終戦直後に、関わった人々に直接取材する時間がないと、精力的に、インタビューを重ねた力作です。

文章は、まるで目の前で事件が起きているように新聞記者の平易な文章で血湧き肉躍ります。各巻には、直撃インタビューが掲載されていて、当事者の肉声が聴けます。その多くは既に鬼籍に入っているので、今や話を聞けない人々ばかりです。

1 日本崩壊 児玉誉志夫(上海海軍児玉機関長)

2 天皇と原子爆弾 阿南綾(陸軍大臣阿南惟幾大将未亡人)

迫水久常 (鈴木貫太郎内閣 書記官長)

松本俊一(鈴木貫太郎内閣 外務次官)藤村義朗(海軍中佐

在スイス日本公使館駐在海軍武官)

3 祖国革命工作 野坂参三(日本共産党議長 参議院議員)

西氏恒次郎・ジョー小出(元アメリカ共産党員)

4 赤旗とGHQ ジョン・エマーソン(OWIスタッフ 元駐日公使)

テオドル・コーエン(GHQ労働部長)

志賀義雄(日本のこえ全国委員長)

鹿地亘(作家)

5 マッカーサーの憲法 鈴木九萬(横浜終戦連絡委員会 委員長)

後藤隆之介(近衛公ブレーン 昭和同人会代表委員)

近衛通隆(東大助教授)いずれも肩書きは本中のもの

6 禁じられた政治

曾禰益(終戦連絡事務局政治部長)敗戦時のポイントを握る外交部長

塚原太郎(GHQ民政局公職審査課適正分析官・元米国陸軍中尉)

反軍国 主義の帰米二世

福田篤泰(第一次吉田内閣総理首席秘書官)吉田茂の最大の事情通

都留重人(GHQ経済科学局アドバイザー、朝日新聞論説顧問)

財閥解体に取り組んだ第一級の経済学者

エリノア・スメドレー(GHQ民政局財閥問題担当官)

財閥解体の精密な証言者

岩崎昶(あきら)(元日映製作局長)

吉田が圧(おさ)えた「日本の悲劇」

7 謀略と冷戦の十字路

鹿地亘(作家)朝鮮戦争と絡んだ運命の変遷

山田善二郎(日本国民救援会中央本部事務局次長)鹿地亘の救出者

9 朝鮮の戦火

カール・バーナード(”タスク”・フォース・スミス戦闘部隊中隊長)

生々しい歴戦の証言者

ヒュー・ブラウン(第二十四師団二十一連隊第三大隊L中隊曹長)

徹底的に戦闘した鬼軍曹

韓載徳(『朝鮮中央通信社』主筆補兼外信部長)

『金日成将軍伝』を口述筆記

呉基完(北朝鮮人民軍第一〇五戦車旅団付政治将校)

三十八度線を突破した北朝鮮軍将校

大森実 戦後秘史その2

戦後秘史第9巻・第10巻 1976(昭和51)年初版。

9 講話の代償

ジョン・アリソン(講和工作当時 米国務省東北アジア局長 次官補を経て

吉田政権の駐日大使)対日講和の唯一の生き残り証人

ウイリアム・ディーン(朝鮮戦争時、米国第二十四歩兵師団長)

三十八度線を越えて生還してきた男

10 大宰相の虚像

リチャード・フィン(米国務省政策立案スタッフ)対日戦略に携わった米

政府きっての日本通

那須聖(毎日新聞元ワシントン特派員)池田・ロバートソン会談の取材秘

▇大森実著戦後秘史 第1巻 日本崩壊(講談社文庫81年8月15日刊)。

巻末に収録された1974年5月25日に東京銀座数寄屋橋の塚本素山ビルで行われた右翼の大物児玉誉志夫(上海・海軍児玉機関長)との、緊迫したインタビューは、大森実の真骨頂でありました。

戦時中は、上海特務として、戦後の裏面史に見え隠れする児玉の、むしろフランクな天皇観などの意外な一面を、ジャーナリストが浮き彫りにする。緊迫感がいまでも伝わってくる圧巻。児玉機関の金塊が、鳩山に流れ、自民党の結党の資金になったことなど今にもつながる内容でした。

・・・・

それから 半年かけて、元毎日新聞の大森実氏の著書「戦後秘史」全10巻を読了しました。

元新聞記者の筆致は明快で分かりやすく、無駄のない文章で、おびただしい取材によって、戦後登場した宰相から元軍人、共産党の幹部、成金の親分まで、幾多の人物に取材し、その人物像をあぶりだしていました。自分の到底知ることのなかった有象無象に現れては消えていく人物たちが、それぞれの立場でもって、戦後の混乱の中を泳ぎ、そのどの人物たちも「日本」という曖昧で独特な国家を再建していくなかで、懸命に努力し、動いていたことが活写されています。

昭和51年(1976年)の刊行。取材当時は、終戦からまだ30年しか経過しておらず、GHQのニューディーラーや参謀本部の旧軍人や、日本側の終戦対応の人たち、右翼の大物、成金や、左翼の大物など、存命であり、取材ができた最後の年代でした。曖昧模糊とした日本独特の人物の動きは、今と少しも変わっていないように思いました。偶然と偶然が重なり合って、大きなうねりとなり、「歴史」というものの、表裏を構成し、余人の想像とは違った方向に流れていくものだと思いました。この10冊は、後世に残る労作だと思います。

 

「戦後秘史」の中でみつけた、ごく小さいエピソード記事だったのですが、ボクにとって興味深いこと。

日本郵船 信濃丸

1900年英国・グラスゴー竣工、1951年廃船

「日本郵船 信濃丸の数奇な運命」です。

なにしろ、この船1900年に、イギリス・グラスゴーで竣工、シアトル航路用貨客船として、イギリス・グラスゴーで竣工。シアトル航路に、作家の永井荷風が乗船、1904年に日露戦争が起こると、仮装巡洋艦になり、対馬海域で哨戒任務についたときに、なんと、バルチック艦隊の船影を日本海軍として初めて発見し、「敵艦見ゆ」を打電、日本海海戦の勝利につながったのです。

その後、シアトル航路に復帰、乗船名簿に亡命者孫文の名前があります。1930年に日ロ漁業に売られ、太平洋漁業のサケマス船に転用、折からの太平洋戦争中には、陸軍に徴用され、輸送船として活躍しますが、戦没せず活躍を続けます。まんが家水木しげるが、乗船しています。戦役を、戦後まで生き延びます。

戦後、今度は、舞鶴を母港に、引き揚げ船として活躍し、シベリアからの帰還兵の輸送にあたります、作家の大岡昇平が、乗船名簿にあり、1951年にスクラップとなるまで活躍を続けたのです。なんと日露戦争、太平洋戦争と2度の戦役を生き延びて戦後まで活躍した船、船のことを、よく彼女にたとえますが、こんなに長生きでしかも、強い船があったなんてちょっと驚きでした。

▇大森実プロフィール

1922−2010年 神戸生まれ 神戸高商卒業 1945年毎日新聞大阪本社入社 ワシントン支局長、ニューヨーク支局長、外信部長、ベトナム戦争報道でライシャワー駐日大使の不当干渉に屈した毎日新聞社に抗議して1966年退職 UCI(米国カリフォルニア大学アーバイン校常任理事 フリージャーナリストとして、UCLA国際ジャーナリスト賞、ボーン・上田国際記者賞、日本新聞協会賞、ギャラクシー賞などを受賞。カリフォルニア州ラグナビーチに住居をかまえた。戦後秘史 全10巻、人物現代史全13巻

大森実氏の死を報じる毎日新聞

大森実氏の死を報じる2010年6月28日付け毎日新聞特別版

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イタリア人の考える神道

2016 DEC 27 21:21:10 pm by 野村 和寿

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今回は、フォスコ・マライーニ著『随筆日本 イタリア人の見た昭和の日本』(2009年松籟堂刊)という本を紹介します。この本の著者、マライーニは、戦前の1938年に、日本の外務省の国際学友会の奨学金を得て日本に留学、1941年には京都大学でイタリア語を教えていましたが、1943年に日本と同盟関係にあったムッソリーニの後継であるサロ共和国への忠誠を拒否して、名古屋の敵国人収容所に収容され、1945年敗戦後に開放され一時帰国し、1954年に再来日したという数奇な経歴をもった学者です。写真家、人類学者、東洋学者です。2001年には25000枚にも及ぶ彼の撮影した写真が、東京・恵比寿の東京都写真美術館で「イルミラモンド レンズの向こうの世界」と題する展覧会まで開かれたくらいです。
さて、本書はイタリア語で書かれ、それを*人の日本人が翻訳したという名作ですが、なにしろ、大著728ページにも及ぶ大著で新刊で価格も7500円しました。今は、絶版になっていますが、古書店などで探すと3万円(アマゾン)で今でも入手可能です。
ちょっとかなり高価な古書ですが、人にもよると思いますが、ボクは読む価値があると思っています。

この本の面白いところは、ボクの感想は、以下のようになります。
・・・通常、なんとなく通り過ぎている当たり前のような日本の景色、仕草、行動、季節的な行動、初詣のような、初日の出のような。こうしたことが実は西洋人からみると、随分不思議に映るらしい。日本人のアイデンティティを喝破されているのに等しいかもしれない。

日本人のアイデンティティとはなにか?
神社にお参りする気持ちは? 山河を愛でる気持ちはどこからきているのか? 神仏をいっしょくたにし、信じる神仏はいないと、無宗教を気取るも、どうして初詣には行き、七五三には、そして、厄年には、神社にお参りする気持ちになるのか?
何故、おみくじをひき、お札を奉納して、商売繁盛を祈る気持ちにもなるのか?
日本人とはなにか?
日本人の中に脈々と流れているものを、外国人のマライーニに言われて、ようやくわかってくるとはいったいなんと言うことだろうか?
日本人自身が、西洋的になったと思っているのに、どうして、西洋人にはない考え方を元から持っているんだろうか?

ちなみに、マライーニの本書から「神道」の項目から引用しますと
「神道の世界はきわめて複雑かつ多様である。それは、いわゆる世界宗教とは本質的に異なり、創立者も聖典も存在せず、神学としての教義を形成したこともなければ、厳密な倫理的価値観をつくることもなく、純粋に日本国内の民俗信仰のレベルにとどまった。神道は日本のあの魅惑的な風景のひとつに似ており、梅雨の日の神秘的な雲煙に霞んで見え隠れする山々の頂、滝や森、遠くの寺院の瓦屋根などからなる眺望の全体像を、想像で補ってみるのと同じようにして思い描かなければならない。神道の生命は、信条や教義ではなく、シンボルや直感、示唆やささやき、仄めかしや、詩情、魅力的な典礼や儀式、建築や庭園、音楽や沈黙、だが時には突如として想像しい民衆的な歓喜の表現になることもある。その内にこそだるのだ」引用終わり。

マライーニのイタリア的な知性にみる、日本人というものへの眼差しは、正直とても優しく、ほっとします。そして、これから正月の初詣に、神社にいくときに、備えて少しでもこんなことを感じてみてはいかがでしょうか?

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