Sonar Members Club No.22

since November 2012

私の好きな欧州の街、(1) 観光にお勧めの街、その2、ウィーン

2013 JUL 17 16:16:06 pm by 中村 順一

シュテファン寺院

シュテファン寺院

クリムト「接吻」

クリムト「接吻」

ウイーン市庁舎

ウイーン市庁舎

 

 

 

 

 

ウィーンは現在のオーストリアの首都で、ハプスブルク家の帝都であり、何といっても音楽の都であり、ヨーロッパ有数の観光都市です。私はロンドン駐在時代、オーストリアを担当していたこともあり、かなりの回数、ウィーンを訪れましたが、この町を好きなのは今でも19世紀末の雰囲気がしっかり残っているからです。

ウイーンの旧市街を取り囲んでいるのがリングシュトラーセ(環状道路、以後単にリンクと表示)です。この道路のある場所には、かつてウィーンを2度にわたって包囲(1529年、1683年)したオスマン帝国の攻撃を防ぐために作られた城壁がありました。しかし19世紀中頃にはトルコの脅威はなくなり、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は自ら立案して大規模な都市改造を行い、城壁を撤去してリンクに置き換え、その道路沿いに国立歌劇場、ウイーン市庁舎、美術館、博物館等を相次いで建設したのです。これらの建物は今でもすべて残っており、またリンクの内側はシュテファン寺院を中心に、中世の街の構造が温存されています。1873年には改造されて装いを新たにしたウイーンにて万国博覧会も開催されています。

しかしこの装い新たな景観になった19世紀後半のウイーンには哀愁が漂うのです。1866年にはビスマルクの率いるプロイセンに大敗し(普墺戦争)、ドイツから締め出されます。当時のヨーロッパはナショナリズムによる国家統一の旋風が吹き荒れ、複合民族国家であるオーストリアが対外的に軍事的な国威発揚を継続することは限界に達していました。

 

1873 年のウイーンの証券取引所の株価暴落とパニックが象徴的ですが、帝国は自信を失っていき、排他的なナショナリズムを掲げることができず、むしろ帝国内の多民族共生、多文化の共存に帝国の存続を賭けていくしかなくなったのです。始まりはハンガリーのマジャール人に自治を認めたオーストリア・ハンガリーの二重帝国の成立
(1867年)ですが、この後もオーストリア議会は20世紀に至るまで各民族の処遇を巡ってもめにもめることになります。セルビアを初めとするバルカン半島のスラブ系諸民族との対立も激しくなって行き、まずいことに1889年には皇帝フランツ・ヨーゼフの息子で唯一の帝位継承者であったルドルフ大公がウイーン郊外のマイヤーリングで愛人マリア・ベッツラとの謎の情死を遂げる悲劇も起こりました。この事件の心中があった別荘は、現在修道院になっており拝観できます。この事件を描いた映画「うたかたの恋」は、1936年のフランス映画ですが、マリア役のダニエル・ダリューの美しさは素晴らしいです。
ルドルフ大公の死後、帝位継承者に指名されたのが、皇帝の甥であるフランツ・フェルディナントです。しかし彼は1914年6月28日にサラエボにおいてセルビアの民族主義者に暗殺されてしまいます。この事件を発端に、あの忌まわしき第1次世界大戦が勃発するのです。第2次大戦はどう考えても第1次大戦の延長戦であり、第2次大戦で国策を誤った我々の日本は、今でも戦後の敗戦のくびきから逃れられていません(特に対中国、韓国)。第1次大戦が起こってしまったことは痛恨の極みなのですが、当時のオーストリアの複雑な事情がその原因の一つであることは確かです。
さて19世紀末から20世紀初頭にかけて、ウイーンに滞在し,活躍した人物を挙げてみます。
1人目は独裁者アドルフ・ヒトラーです。ヒトラーは1889年にドイツ国境に近いブラウナウという小さな町で生まれたオーストリア人です。1907年に美術大学の入学試験を受けるため、ウイーンに上京してきますが失敗、次の年も続けて失敗しています。ヒトラーに画家の才能が無かったとは断言できませんが、やはり偏屈で試験向きの作品を描かなかったことが2回連続失敗の原因のようです。しかし全くこの美術大学がヒトラーを合格させてくれていたら、世界史は大きく変わっていたでしょう。若きヒトラーはウイーンに住み、毎晩リンクを歩き、リンク沿いに建っている建物に大いに魅せられたのです。後にヒトラーは総統にならなかったら建築家になっていた、と自分で言っていますが、この頃のウイーンでの経験から影響を受けたのは間違いなく、現に2回も受験に失敗したので、大学の学長に面会を求め、落第の理由を問いただしています。学長の答えは「君は建築科の方が向いているのでは」だったそうです。建築科を受験するためには、大学受験資格を取得しておく必要があったのですが、ヒトラーはその努力をしなかったのです。ウイーン時代のヒトラーは最愛の母クララを病気で亡くしたこともあり、どうも屈折していたようです。私もウイーンに出張した時は、夜一人でリンクを歩いてみて、当時のヒトラーの心境を考えたりしていました。しかし何れにしても世界にとって、日本にとって極めて迷惑な男です。
2人目は画家のグスタフ・クリムトです。クリムトは官能的で甘美で妖艶な独特の画風で知られていますが、死の世界を常に意識させる感覚があり、世紀末のウイーンの頽廃した世界を感じることができます。1862年にウイーン郊外で生まれ、1880年代後半にはウイーン美術界で名声を確立していますが、当時の保守的なウイーン美術界がいやになり、1897年に”分離派”を結成しています。クリムトの私生活は当時の頽廃したウイーンそのもので、数多くの女性と一緒に住み、妊娠させた女性もいます。最愛の女性はエミリー・フレーゲでしたが、最後まで結婚しませんでした。クリムトの性の世界はクリムトの独特な画風の源泉です。ウイーンでは数多くのクリムトの作品を鑑賞することができます。私にとってはクリムトの世界は当時のウイーンそのものの様に感じられます。
3人目は音楽家のグスタフ・マーラーです。マーラーはユダヤ人でありオーストリア領ボヘミア、現在のチェコで1860年に生まれました。マーラーは1902年にアルマという女性と結婚しますが、アルマを通して分離派と交流するようになり、クリムトとも親しくなります。私は音楽への造詣は全く深くなく、単に歴史の流れの中で理解するのみなのですが、この時期にマーラーがウイーンで活躍し、結局受け入れられなくなって、1907年にニューヨークに脱出し、1909年にはニューヨーク・フィルの指揮者に就任したことには、この時代のウイーンの変化を感じられて興味があります。マーラーの音楽はアール・ヌーヴォーを初めとする世紀末美術への再評価がはじまった1960年代から注目されるようになり、1970年代からの新ロマン主義の流行により、極めて頻繁に演奏が行われるようになりました。私の高校時代からの友人にマーラー好きがいて、彼は当時私にマーラーを聞けといってLPを貸してくれました。しかし、冗長でくりかえしが多く、ピアノのインパクトも不足している感じがして、私はどうも馴染めませんでした。(すみません、今の私には音楽を語る自信は無いのですが、当時はもうちょっとクラシックを聴いていたのです。)マーラーは激しい性格で、それ以前の著名な作曲家の曲についても、それを演奏する際には譜面にかなり手をいれたりしており、必ずしも音楽家の間で評判が良かったわけではないようです。しかし音楽の都であるウイーンは世紀末の象徴主義的芸術で音楽を至高のものとしていました。マーラーは世紀末、20世紀初頭のウイーンを代表する音楽家でしょう。
ウイーンは歴史の都、音楽の都としてもちろん素晴らしいですが、なんとなく寂しい雰囲気を感じるのは私だけでしょうか。現在のウイーンには歴史の栄光が残り、観光客でごった返していますが、もはや世界の現状において重要な町では全くないのです。1814年にはウイーン会議を開催する世界の政治の中心都市だったのに。人口も現在は175万人ですが第1次大戦当時は220万人が居住する欧州の中心都市だったのです。第2次大戦後にソ連によって鉄のカーテンが引かれ中部ヨーロッパが分断されたのも痛かったでしょう。
ウイーンは最近行っていないので、近々行ってみたいと思っています。

 

 

 

Categories:未分類

▲TOPへ戻る

厳選動画のご紹介

SMCはこれからの人達を応援します。
様々な才能を動画にアップするNEXTYLEと提携して紹介しています。

ライフLife Documentary_banner
加地卓
金巻芳俊