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春の祭典ブーレーズ盤のミス

2024 APR 27 1:01:43 am by 東 賢太郎

完璧のように言われているブーレーズCBS盤だがミスはある。本稿では数多おられると聞く「春の祭典フリーク」の皆様のためにそれをお示しする(まだあるかもしれないが気がついた限り)。妙な音?も含まれており、ミスだけではないから「これで曲を覚えてしまったので後に困ったことになった所」のリストである。スコアは https://imslp.org/ で無料検索できる。

 

第1部

序奏2小節目       ホルンの3連符の2音目が長すぎ(ミス)

練習番号22           ティンパニがチューニングするb♭音が混入

36の3小節目       ピッコロ・トランペットの d が c になっている(ミス)

第2部

93の直前            スネアドラム?のような音がかすかに鳴る

98の前の小節      コントラバス?の g# がかすかに鳴る(なぜだろう?)

193の前の小節    ティンパニが十六分音符一個飛び出し(ミス)

〈ここでブーレーズが何か言葉を叫ぶ〉

194の2小節目       またミス(立ち直れずそこから4打が乱れる)

 

この録音は1994年のCDでは「Severance Hall, July28,1969」と記載されているが「練習場(教会)で楽員に伝えず一発どりした」とティンパニストのクロイド・ダフからきいた弟子の方が僕の上掲youtubeにコメントをくれており、とすれば記載は表向きの情報ということになる。193ミス直後のブーレーズの叫びは「止めずに最後までやれ」ではないかと想像する(聞き取れない)。あそこは切り取ってやり直しがきかない。195からエンディングまでの追い込みはライブさながらの熱したアッチェレランドであって、その瞬間に、一期一会の出来と判断したのだろう。うがった見方かもしれないが、それがあったから最後の3ページの、ライブでもそうはない白熱の締めくくりができたかもしれない、だから録り直しをしなかったのではないか。

「スコアにレントゲンをかけたようだ」という1970年当時の日本でのコピーは静的で分解能の高さを謳ったものでうまい表現だが、それは多分にCBSのプロデューサー、録音技師、スタッフの音の作りこみの特性である。演奏としての特徴を書くとこうだ。ミクロに至る指揮者のスコアリーディングのレクチャーに全奏者が納得し、技量が図抜けている彼らがモチベーションを持って実現する演奏自体が時々刻々彼らをインスパイアし、成功させるための尋常でない緊張感が支配しながら、名人ぞろいでリアライズに余裕がある演奏だ。つまり、オールスターメンバーがサドンデスの決勝戦に臨んだような、極めて稀(まれ)だが演奏会場で数回しか遭遇したことのないライブ演奏に近い。つまりレントゲン写真よりカルロス・クライバーとベルリン・フィルのブラームス4番に近い。それをこれまた稀であるオーケストラに近いマイクで倍音まで拾う分解能で記録した、稀×稀の超レアな録音なのである。

以上のミスをブーレーズが気づかなかった可能性は限りなくゼロに近い。アナログのマスターテープの修正はできなかったか、または、何らかの別な理由で見送ったと思われる。おそらく両方だ。演奏中から、録り直してもこうはいかないとブーレーズが判断したことだ。上記のティンパニ奏者クロイド・ダフ氏(1916~2000、首席奏者在籍期間1942~81)によると。朝8時に始まった「練習」は止まらず、ダフは「よし最後までやったろうじゃないか」とホルン奏者と目くばせしたと書いている。ブーレーズがオーケストラを欺いたのか興がたまたま乗ったのか、いずれにせよ奏者は予期してなかったからこそのライブ感と思われる。修正は音源をデジタル化してからなら可能だが、そうすると僕がyoutubeにあげたLPレコードとCDの齟齬をこうして指摘する者が現れ、著作権問題はなくとも指揮者、オーケストラの美学上の問題はありえた。

この稿を書くかどうか長年迷ったが、このミスを誰かが指摘しているかどうかは知らない。クロイド・ダフ氏はジョージ・セルが信頼し彼の時代のクリーブランド管弦楽団を支えた名手中の名手であり、ティンパニストの方は憚ったのかもしれない。名誉のために書くが、193,4は三連符の中なのを頭を叩いており同じ勘違いであり、セッションを分けて録るつもりだったのが一発勝負になってしまったからの本来あり得ないものだ。彼はそれ以外は全曲に渡って音程、リズムともそれこそ完璧でこの演奏の成功に大きく寄与している。152の f-d-a-f は今でもヘボいのが多く、これで記憶しているのでほとんどがアウトだ。僕がまずこのレコードを好きになったのはティンパニの音のすばらしさに衝撃を受けたからで、彼あってこそその音をアップしたバランスで録音する発想が出ただろう。

僕は同録音のLPレコード2種(①初出盤と➁米CBSリプリント盤)、③米CBSカセット、CDはドイツで買った④1994年SONY盤(Super Bit Mapping、オランダ製造)を持っているが、①が倍音成分が潤沢で音彩が豊かであり、リプリントのたびに落ちている。ただ解像度は④が高い。PCでは(僕のヘッドホンでは)チューニングのb♭は聞こえにくいかもしれないが④では明瞭だ。

クラシック徒然草《「春の祭典」論考》

2024 APR 22 21:21:56 pm by 東 賢太郎

本稿は「ブーレーズ / クリーブランドのトランペットの僅かな間違いの問題」に正答され、先日、だいぶ前の稿(マリス・ヤンソンス)にコメントをくださり、よろしければとお薦めのデプリースト / オレゴン盤を貼ってくださったhachiroさんがいかに「春の祭典」をお好きかと知ったその一点において、心よりうれしく、また触発もされたことで書いた。

同盤は初めて聴いた。hachiroさんは8位に推されているが、トーマス / ボストンを評価されていることからも納得がいく。練習番号86の第2Trのfがgなのは個人的には賛成しないのと、ティンパニが146の入りが少し(二度目も)、149の前の小節ではかなりフライングなのが惜しいが、録音もアコースティックも良く楽しめた。世界のオーケストラの同曲の演奏能力は70年代から伸びた。米国が一頭地をぬいたが、ジュリアード、カーチスの俊英(オケの人数しかいない)が各地で主席クラスにつくという欧州にはない中央集権的エリート養成システムの威力は小澤 / シカゴ響の1968年(!)の録音で確認できる。その恩恵はオレゴン響にも及んでいたのかと思わせる出来だ。

思えばもう20年前からほとんど買ってないし実演を聴いてもいないから祭典フリークは名乗れなくなった。この曲は20世紀最高のクラシック作品である。しかし、何度でも書いてしまうが、僕にとってはブーレーズCBS盤が規格外なのだ。2度きいたブーレーズの実演でもこんな音はしなかった。だからもう絶対に現れないイデア化した「レコード上のクラウドな存在」という意味でビートルズのSgt Pepper’sと同格になってしまった唯一のクラシック録音だ。となると誰のを聴いてもコピーバンドのSgt Pepper’sになってしまっているから困ったものだ。

ブーレーズCBS盤は複雑な各パートのリズムの精緻さが “数学レベル” に尋常でなく、そういう頭脳の人が指揮台に立っている緊張の糸が全編にピーンと張っているということだけにおいても驚くべき演奏記録だ。第2部序奏は、高校時代、別な恒星系の惑星に連れてこられた気がして背筋が凍っていた。管弦の mf を抑え、逆に、pである緩い張りのバスドラとティンパニを mf に増量した練習番号80は山のような岩から真っ赤な溶岩流がぷすぷすと噴煙を吐いて押し寄せるようで、恐怖で眠れなくなっていた。87(楽譜)ではいよいよ異星の奇怪で巨大な生命体を目の当たりにし、それが面妖に蠢きながら虚空に白粉のようなものを吹き上げている仰天の光景が見えてしまった。

僕は文学的、詩的な傾向の人間でもSF小説マニアでもなく、音楽からこんなにリアルで色まであるヴィジョンを受け取った経験もないから自分でも驚いた。このレコードは発売してすぐに買ったが、「スコアにレントゲンをかけたような演奏」がキャッチコピーだった。レントゲン?そんなものはかけてない。彼は mf を逆転させているように何かを “抽出” しているのだ。それはまずストラヴィンスキーの脳内に響き、スコアに内在しているものだ。いったい何だろう?僕は知りたい一心でスコア研究にのめりこみ、1991年にアップルのPCと米国製MIDIソフトとシンセサイザーとクラビノーバを買って、自分でオーケストラ・スコアを鳴らしてみた。この実験は鍵盤の前で膨大な訓練と時間を要求したが、それに見合うたくさんの感動と学習があった。

この曲はリズムだけでなく管楽器、打楽器の比重が弦より重い点でも伝統を破壊している。弦は91のVaソロ6重奏(ドビッシー「海」Vcの影響だろう)以外にレガート的要素がなく、その部分の旋律は(Vaだけロ長調で書いているが)シ、ド#、ミ、ファ#の4音だけででき、複調、鏡像の対位法であり、同じ4音のVc、Cbソロのピチカートと空疎なハーモニクスが伴奏するという超ミニマルな素材で異界の如き音楽史上空前の効果をあげ、最後の1音で弱音器付きTrがpppでひっそりG♯mを添えるとレ#が短2度でぶつかった三和音世界に回帰してほっとさせられる。以上たった8小節の事件だが文字で描写するとこれだけかかる。顕微鏡で分析すべきレベルの微細な和声とオーケストレーションの実験が為されており、ここをすいすい奏者まかせで通り過ぎる指揮者はもうそれだけでパスだ。

この曲が人口に膾炙しているのはロシア(ウクライナ)民謡由来の旋律を素材にしていること、つまり音素材も旋律素材もシンプルで朴訥で親しみやすく、奇怪の裏に仄かに人肌が残っている点で12音技法と一線を画しているからだ(「結婚」はよりそれが鮮明である)。素材がロマン派的効果に向かう火の鳥の因習的世界を「回避」したのがペトルーシュカだが、ついに「拒絶」に進んだのが春の祭典だ。従って、素材の口当たり良さを表に出しつつリズムの饗宴に仕立てて興奮を煽る最近の傾向は作曲者の意図とはかけ離れた “ロック化” であり、セリエル音楽だけがもっている、まるで入学試験会場のようなシリアスな緊迫感と微視性を張り巡らせたブーレーズ盤とは一線を画すどころか、もはや別な曲である。

論考というタイトルにしたが、この曲について語りだすとあの指揮者がどうのこうのというお話にならない話題には至らず、ワンダーランドのようなスコアのミクロ世界に入り込み、ブーレーズ盤でそこがどういう音響で鳴っているかに収束してしまうのはどうしようもない。口で話しても数時間はかかる。止まらないのでやめるが、演奏とはそこから何を読み取ったかという指揮者の脳内のリアライゼーションに他ならない。ブーレーズの聴覚、解析力は音楽世界でなくとも破格であり、高校時代、強烈に響いたのは彼の読み取ったもの、ストラヴィンスキーの脳が天界からのシグナルを受信したが自演ではリアライズされていなかった何物かだと考えるしかない。同様の経験の方はきっとおられるだろうが書物、雑誌等でそうした論評に出会った記憶はない(あれば感動して覚えている)。つまり以上はゼロからの私見であり、そこからブーレーズが産み出した音楽に興味が移り、20世紀音楽の森に分け入ることになった。クラシックへの入り口がそこだったのはやっと齢70手前でシューベルトに涙する境地に至れたという意味でとても回り道だったが、作品との関係というものは秘め事のようにプライベートでインティメートなものだと思う。

ブーレーズは春の祭典を研究している頃(または以前)にこれをピアノで着想したと思われる。ウェーベルンやメシアンが聞こえつつも、後に管弦楽に写し取った音響には春の祭典CBS盤の嗜好が伺える。

ピアノのための『12のノタシオン』1-4 & 7(1945)管弦楽版(1,7,4,3,2の順)

 

小池都知事の英語力を判定する

2024 APR 20 1:01:49 am by 東 賢太郎

英語がうまい人を「ぺらぺら」という。この語は漱石が「坊ちゃん」に使っているから古い。ぺらでもべらでも構わないが、要するに何を言っているのかわからないものの擬態語だから犬のわんわんに等しい。猫と会話できるなら「あの人、猫語にゃーにゃーだよ」という感じだ。我々は誰しも日本語ぺらぺらだがそれ以上でも以下でもないように、外国語もぺらぺらだからその国の大学を卒業できるわけではない。

政治家に必要な英語力なるものは、相手を動かすための複合的なパワーである点でビジネス英語に似るだろう。その観点からすると、動画で見る小池都知事の英語はうまい。政治家の中なら偏差値70だろう。発音のそれっぽさという点でも余裕で使いこなしているという点でも間合い・抑揚という点でも、ネイティブと相当な時間を費やさなければこうはならないと断言できる。しかし、とすると不思議なのだ。なぜカイロ・アメリカン大学からカイロ大学に転校したのだろう。学問的意図かというとそうも思えない。前者は米系私立大学で英語だから頑張れば卒業できたかもしれないし、そうしていれば何の問題もなかったわけだ。両校の違いを知る日本人は多くないだろうから、もし箔をつける目的だったならあまりリスクリターンの良くない選択だったように思える。

とすると「女帝」にある以下の仮説がより説得力を増す。中曽根総理とコネのあった父親が現地でそれを使い、エジプト政界有力者が “面倒を見よう” となった。軍政下だから大学は従うため、有力者のお墨つきを得れば「卒業」でも「首席」でも大学は否定しない。よって日本で自信をもってそう発表した。お墨だけだから卒業年月日はない。したがって、それのある名簿に載らない。卒業証明書も出しようがない。しかし有力者の決定を覆せないカイロ大は卒業していないとは言わない。よって、消去法的に、「カイロ大を卒業している」のだ。

だから2020年に日本で「嘘だ」と騒ぎになっても証明書は出なかった(よって「困ってるのよ」となり、今の偽装工作問題になっている)。2022年に小池氏はカイロ大学を公務として訪問し歓迎されているが、喉から手が出るほど欲しいはずの卒業証明書をなぜもらってきていないのかもそれなら説明がつく。押しても引いても出なかったのならカイロ大は政治に配慮しつつも学府の矜持は守ったことになる。小池氏が声明文を自作したとしても大学は自らが書いたとは言わず、エジプト国家(大使館)が裏書するだけだ。しかし大学も偽物だとは言わないのだから、「卒業がなかった」という証明は物証からは難しいのではないか。

この有力者の後継者が現在の有力者で、小池氏が日本国でODA等に関わる権力を握ることはエジプト政府にとって格好のポジションだから、私文書偽造罪で裁判になれば2020年のお手盛り声明を大学もが追認して救い、しかし卒業証明書は出さないまま小池氏の弱みを握る政略に出る可能性は否定できない。となると、法律違反であろうがなかろうが、それ以前に、小池氏が政治家でいることは日本国のリスクであるという主張には反論が難しくなる。岸田氏がアメリカ盲従なら、小池氏はエジプトのそれになるかもしれないという疑念は否定できなくなるからである。

この事態をまねいた種は小池氏が自らまいたものだから自分で除去するしかない。ただ、マスメディアにも責任がある。エジプト留学帰りだ、要人のアテンドもしてる、きっとアラビア語は堪能なのだろう。ここで彼らは「ぺらぺら」だけで海外の大学を首席卒業できると本気で信じたか、疑いはもちつつも商売として祭り上げたか、いずれにせよ彼女をキャスターに起用するなどして囃したて、様々なストーリーをまつりあげ、その国民的人気に乗じて政治家が群がってくることで『小池百合子というキャラクター』を国民の脳裏に植え付けることに成功したのである。それは小池百合子その人ではない。彼女に似てはいるが画面上だけに存在するバーチャルなイメージである点、ボーカロイドの初音ミクや、そらジローや、チコちゃんや、ひこにゃんや、くまもんや、つば九郎のようなものだと考えた方がわかりやすい。

小池氏を揶揄するわけではない。その現象はフランスのマルクス主義理論家、哲学者、映画監督であったギー・ドゥボールが看破した「スペクタクル」であるといっている。ここで詳述しないが、彼の著書によれば「社会」はマスメディアが生成して拡散するイメージ(表象)が支配し、イメージの集合体としてではなく、それが媒介する人と人との関係のことをいうようになる(もちろん政治もだ)。発刊は1967年だが半世紀を経て世界はまさにその通りの様相を呈している。トランプ大統領の出現はその象徴であり、小池百合子のキャラ化もその素地に根を張っている。だから彼女は選挙に圧倒的に強く、楽勝で東京都知事になり、キャラ化したら醜怪なだけの自民党議連のお歴々をぶっ飛ばせたのである。

もっと具体的に書こう。昭和のころ、銀幕のスターたちは映画館でしか顔を見ないにせよ、ファンには生身の人間として認識されていた。サユリストの間では吉永小百合はトイレに行かないという伝説があり、そう信じたいファンが多そうだなというフィーリングの伝播は “さもありなん” だという婉曲な形態でもって、彼女は半ばキャラクター化されてはいた。しかし、それがどうあろうと、昭和の世の中においては吉永小百合は早稲田大卒の女性であった。かたや初音ミクはというと、女性のようだが年齢も出身地も不詳であり、学歴はあるかないか誰も知らない。しかしファンにはどうでもいい。キャラクターとはそうした性質のものであり、それでも人気があって人が集まるのだから銀幕スターと何が違うのかということになり、社会も政治もイメージによってドライブされていくのである。それが「スペクタクルの社会」というものだ。我々はすでにその中に住んでいるのである。

つまり、これを世相の移り変わりであるとして、小池百合子は時代の申し子なのだで終わってはいけない。ドゥボールの「スペクタクル」は今も社会構造を根底から変えつつあるムーヴメントである。人気=権力であるという接合点を媒介して、日本の政界は芸能界と “同質化” した。参議院に芸能人やスポーツ選手が数合わせでいたのとは根本的に異なる、遺伝子交換に類するともいえるおぞましき交配現象がおきている。このままいけば、キャラで釣られる低学歴層が多数派になって国を動かし、とんでもないポピュリズム政権が誕生して独裁者が日本を破滅させかねないし、民主主義の手続きを経ながら日本を共産主義国家にすることだって可能だろう。

いま、大手メディアは報じないがネットメディアが取り上げている小池氏の学歴詐称疑惑を見るにつけ、僕はちょうど10年前に社会を騒然とさせたもうひとつの「キャラクター」を思い出している。それは、内容こそ違えども、「外国に渡って外国の利害に知ってか知らずか関わってしまい、日本を舞台として日本において利用されたと思われる女性」に関わるものであった。これが当時の稿である。

小保方発表で暴騰したセルシード株(7月25日、追記あり)

小保方さんはハーバード大学に留学した女性科学者であり、安倍内閣の「女性が輝く社会づくり」キャンペーンの花形であり、電通やマスメディアによって割烹着を着せられてテレビに登場し、「STAP細胞はあります」と世界を驚かせる論文をNature誌に発表した。日本人女性初のノーベル賞か!と報じられて世間の耳目を集め、あっという間に国民的キャラクターにまつりあがったのである。ここが小池氏のデビューと重なる。

当時、僕の関心は、セルシード社の株価がNature誌掲載と同時に急騰した裏にあると感じた不正取引(らしきもの)を調査することにあり、専門外のSTAP細胞に関心はなかった。ところが、しばらくして、小保方氏の論文にデータ改竄が見つかり、ハーバード留学も単なる数か月の短期ステイであり、密室での実験の結果STAP細胞は再現できないことが、これまた大々的に報道された。

科学の姦計と証券市場の姦計。実は「その両者が日米にまたがった同一犯の仕業である可能性がある」と指摘したのが上掲ブログと一連の補遺だ。胴元は米国だからだろう、本件を当局は捜査しなかった(と認識している)が、その帳尻は魔女狩りの如き小保方さん叩きによって合わされたかに見える。とすれば彼女は科学者としての心得の是非はともかく、巨悪に利用されて贖罪させられた犠牲者であるとも考えられる。同稿は毎日数万回ペースで読まれて多くの方の知るところとなり、不審なファイナンスが中止になるなど、天下の公器である証券市場が詐欺師に悪用されるのを抑止する一助にはなったと自負するが、後味はけっして良くはなかった。

小池氏が現況をどう打開するのかはわからないが、違法性があるとするならそれが立証されるか否かの可能性は既述のように思え、畢竟、最後の審判は有権者にゆだねられるのではないだろうか。僕は小保方氏の科学者としての心得についてだけは厳しく批判した。嘘となりすましの横行は国の幹を腐らせ、日本をますます衰退させるだろうが、真実・真理をひたすら追求するはずの科学者がそれに淫する図を見せられて心底衝撃を受けたからだ。政治は必ずしも真実・真理に基づいて行われるものではなく、国家の安泰と国民の幸福を得るための方策が何かは自国だけの都合で決まるわけでもないが、憲法が定める国民の多数決だけで常に最適解が出てくるわけでもない。それを導く叡智があり、その実行力を有し、正義に忠実な人が望まれる。国民はそれを審判するだろう。

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岸田総理の英語力を判定する

2024 APR 15 21:21:58 pm by 東 賢太郎

まず少々の前置きをしたい。他人の英語力についてネーティブでない人間があれこれ書くには、まずお前はどうなんだが問われるからだ。英語力を発音のことだと思ってる人が日本にはとても多いが、そういうものはカラスの鳴きまねを競うようなもので所詮は外人の英語だから目くそ鼻くそレベルだ(ただし帰国は違う、幼稚園からインターだった娘の英語は別次元だ)。我々後発組は正確に通じればいいのである。僕は自分の英語がうまいと思ったこともそういわれたことも一度もないが、電話一本で10年あまり何百億円も動かして失敗はない。

英語でスピーチした経験のある人もおられるだろうが、外国で現地法人の社長を7年勤めたから回数は多い。X’masパーティーや各種のセレモニーもあったが、特に多かったのは「調印式」であり、現地の銀行、証券、業者、マスコミなど100人ぐらいが集まり、株式や債券を発行する上場企業の社長が契約書に署名し、野村證券代表者として僕が署名し、幹事団の多くの皆さんが署名する。それを社長にお渡しして、握手してツーショットの記念写真、拍手という段取りである。この瞬間に何十億円というお金が動く。これが主幹事証券会社の職務であり、スイスでは多い月は週に1,2回これがあった。

調印が済むとさてレセプション(会食)となる。MC(司会)が皆さんご静粛にとやり、ホストである僕が乾杯のスピーチをするわけだ。ワインが注がれ皆さん壇上に注目し、大会場がシーンとなる。ここで当然、お会社様をほめ讃えなくてはいけないわけだが、日本人流に原稿を読んだりクソまじめな話をしては一気に座が白け、来ている幹事団は手練れのライバル社だから「あいつはボケの若造だ(他社の社長より一回り若い40歳だった)、次回は弊社に主幹事を」などと裏で平気でやられる。といって、ちょっとは気の利いた話をしようにも、それは俗にスカートにたとえられるほど短いほうがいいのである。これを何十回もやってどう切り抜けていたかはあんまり記憶にないが、高校時代にマウンドに登るぐらいの緊張はあった。まあ首にはならなかったが。

スピーチの良しあしはもちろんコンテンツにもよるが、役者と同じく演技の面もあり、これが結構大きい。慣れた人がやれば中身ゼロでも印象に残すことはでき、スピーチとしては成功なのだ。たとえば、僕はいきなりしゃべれと言われても大丈夫だ。何も頭にないのに、まず「それについて大切なことが3つあります」と、したり顔で言ってしまう。演技だ。1つぐらいはすぐ思いつく。それを語って時間を稼ぎながら2つ目3つ目を考えるのである。これはウォートンで習った技だが、MBAを取った人は訓練されている一種の「芸能」といえる。このぐらい屁のカッパでできないと金融の世界で大金を動かすことはできない。それを「英語でできる」ということであれば、通訳業はいざ知らず、ビジネスマンの僕としては「英語がうまい人」という評価になる。

ジョークが有効打であることは確実だ。面白いかどうかはともかく「ジョークを言う奴」はおしなべて好感がもたれる。言いそうもない日本人がやると効果は大だ。アメリカはエレベーターで他人と目が合うと必ずニコッとする。初めての時、若い女性にこれをされて驚いた。もちろん好感ありでもなければいい人なのでもない、誰が銃を持ってるかわからない国だ、お互い「危害を加えないよね」という合図である。ジョークも似たもの。いきなり原稿を読んだりクソまじめな話をするなんてのは匿名で顔を隠して他人をディスるイメージを持たれても文句は言えない。ジョークは中身より「人柄をあらわす」ことに意味がある。そこにウィットというひねりがあれば満点。そうなってしまえばそこから多少おかしなことを言っても受けいれられてしまうから不思議なものだ。

ということで本題に入る。

岸田総理の米国議会スピーチだ。うけるようにおさえる所をおさえていたから、十中八九プロが書いたものだろう。それはいい。述べたように、スピーチはコンテンツがどうあれ相手のハートをつかむことに意味があるからだ。つまり古典を演じる落語家やクラシックのピアニストにちかい。

結論。岸田総理は合格。英語力は日本の政治家として偏差値60代上の方、あれだけできる人は国会にほとんどいないだろう。ビジネス能力次第だが、英語だけなら証券、商社で生きていける。小学校1~3年をニューヨークで過ごしたのが大きいと思ったのは発音ではない、ここで笑いが取れると確信してあける “間” の取り方とポスチャー(所作)だ。ジョークも、ここをこう強調して言わないとうまく通じないなということをわかって言ってる。あれは日本の学校秀才ではできない芸だ。仮にスタンディングオベーションがやらせだったとしてもああいうものはごまかせないし、台本を家で猛練習しても知らないものはできない。丸暗記とディスっている人がいるが、その程度の人にあれを批判する資格はない。その場面は見てないものの、彼はアメリカ人と会話で意思疎通が十分にできるはずだ。

総理をほめているわけだが、これはもろ刃の剣で、あのシーンを見せられるとポチになってしまう素地がやっぱりあったのだ、こりゃもうだめだという危惧もいだく。ここは日本だ、英語なんかどうでもいい、そのために外務省や通訳がいるじゃないかという人もいるだろう。しかし、習近平ならともかく、ただでさえ軽くなった日本の総理の言葉が通訳をとおして米国を動かすなんて、もうそんなパワーはかけらもない。何より威力があるのは総理大臣自身の「パーソナリティと言葉」である。相手に心を開かせ、聞く耳を持たせ、日本の言い分を理解させ、納得させ、行動させる。サンフランシスコ講和会議に臨むまえ、マッカーサーは吉田茂は駐英大使だったから会話できると考えていたが、会ってみるとあまりの英語のひどさに唖然としていたとマッカーサーの側近の手記に書いてある。講和会議の契約書に日本語訳はなかった。いいようにやられてめくらサインをして今の日本のていたらくがある。最低、岸田スピーチぐらいの英語力がないと現状打開などまったく無理である。総理大臣を「純ドメ」(純粋ドメスチックの略)議員たちのくだらない政局なんかで決めていてはますますやられ放題になる、というより、純ドメがそうやって権力を握ってもアメリカのポチになるだけ、対米隷従が利権になっていくだけで、永遠に我々の子孫は独立できない。

希望は持った。岸田総理、むしろそれはあなただからやろうと思えばできる。「ポチのふり」だ。日本の国益になることを「アメリカが世界の主役であるために不可欠だ」とバイデンに思い込ませ、それを日本に「命令」させる。「さすがですね、それをやればトランプに勝てますよ」ぐらいヨイショのダメ押しもかます。そのぐらいのことはやってくれ、それなら長期政権でいいじゃないか。ぜひお願いしたい。

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大人の童話「つるのおんがえし」

2024 APR 13 10:10:23 am by 東 賢太郎

昔々、おじいさんとおばあさんが田んぼで罠にかかった1羽の鶴をみつけました。哀れに思ったおじいさんは罠をはずし、鶴を逃がしてあげます。すると、その日の晩のこと、1人の娘がおじいさんの家の戸をトントン、トントンとたたきました。「この雪の中、道に迷ってしまいました。どうか一晩泊めてくださいな」。快く受け入れると娘は家の手伝いをしてくれるようになり、喜んだおじいさんとおばあさんは「うちの娘になっておくれ」と3人で仲良く暮らしはじめたのです。

そんなある日のこと、娘は「今から布を織ります。布を織っている間は、決して部屋をのぞかないでください」とお願いをします。おじいさんとおばあさんが約束すると、娘はいいました。「これからこの部屋にこもりますからね。布を町で売っておじいさん、おばあさんの借金をゼロにします。田んぼの害虫もゼロにします」。おじいさんは涙を流してよろこびます。「おお、なんとありがたいことだ。あなたはあの日に助けた鶴だったんだね」。

数日たったある日のことでした。娘の部屋から布を織る音が聞こえなくなっていたのです。「どうしたんだろう」。気がかりになったおじいさんはとうとう部屋をのぞいてしまいました。すると、そこには憔悴し、途方に暮れた表情をした娘がいたのです。「のぞいちゃダメって言ったじゃない!」。そんな姿を見るのは初めてだったので、おじいさんはおどろきます。「いったいどうしたというんだい?」。娘は答えます。「困っているのよ」。おじいさんは助けてあげようと思い、部屋を見回すと、なんと、家具一式がなくなっているではないですか。びっくりしたおじいさんは尋ねます。「どういうことだ?あなたは鶴なんだろう?」。「そりゃ鶴だわよ。鶴の証明書だってあるわよ」。「おい、おばあさん、お奉行様を呼んでくれ!」。「おじいさん、だから言ったじゃないの、あの鳥は鶴じゃなくてサギだったのよ」。

 

鷺(サギ)

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読響 定期演奏会(カンブルランを聴く)

2024 APR 12 17:17:22 pm by 東 賢太郎

指揮=シルヴァン・カンブルラン

ヴァイオリン=金川真弓

マルティヌー:リディツェへの追悼 H. 296
バルトーク : ヴァイオリン協奏曲第2番 BB 117
メシアン:キリストの昇天

今季は読響定期(だけ)に行くことにしたが、新しい座席の音響が素晴らしいのが吉報だ(サントリーホールは席を選ぶ。途中で帰ろうかというひどい席もある)。プログラムも良い。カンブルランは僕がフランクフルトにいたころ歌劇場の音楽監督でワーグナーなどを聴いた。読響でもメシアンの「アッシジ」は歴史的演奏。彼以上にメシアンをふれる人は今はいないのではないか。「キリストの昇天」は日本では滅多に機会がなく意外にバルトークVn協もそうはない。金川真弓は中音域に厚みがあって怜悧になりすぎず、こういうバルトークもいい(楽器も良いものだろう)。良い意味でのエッジのなさはファイン・アーツのカルテットを思い出した。インパクトを受けたのはマルティヌーだ。こんないい曲だったのか。シベリウスを思いながら聴いた。

イマジンの西村さんとご一緒し音楽談義を楽しんだ。演奏者の方と話すのはinspiringだ。デレク・ハンのモーツァルト。伴奏のフィルハーモニア管がいかなるものか、クレンペラーのオケをあれだけ鳴らしているのがどれだけのことか。練習中のシューベルト即興曲D.899の1、3番、これがいかに偉大な音楽か語りだして尽きず、この人はひょっとしてモーツァルトより天才じゃないかと意見が一致。60になってだんだん大ホールでやる音楽よりinward、intimateなものが好きになっており、シューベルトこそまさにそれ。音符一つひとつ訴えかけてくる濃密な感情はとてもpersonalなもので彼と会話している気持になり、ああなるほど、そうだ、そうだよなあとぴったり自分の感情にはまる。それを感じながら弾く。西村氏ご指摘の通りこれはロザムンデのエコーだ。そういうところにも生々しくシューベルトの息吹を感じる。記憶力が落ちてるのか3番はなかなか暗譜できず譜面がないといけない。これじゃまだだめだ。教えてもらった「水の上の霊の歌」、豊饒な和声の海だ。いただいたCD、アレクセイ・リュビモフによるショパンのエラール・アップライトを弾いたバッハ、モーツァルト、ベートーベンと自作。面白かった。バッハのインヴェンションが彼にはこう響いていたのかと目から鱗だ。outwardなショパン演奏は趣味でなくまったく聞く気にならないが、彼自身は逆の人だったと思わせるものがここにある。

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自民党に漂う「オワコン感」の真因を解く

2024 APR 7 1:01:35 am by 東 賢太郎

ネーミングのセンスというものはある人にはある。「アベノマスク」は歴史に残る傑作であるし、その昔、平成になって日本に帰ってきたすぐのころ、猥雑な新宿の歌舞伎町をタクシーで通りかかったとき目にとびこんできた「平成女学園」の看板にはいたく感心したものだ。最近のところでいうなら、上から目線のぼったくりが過ぎて日本ハムファイターズに逃げられた「札幌ドーム」だろう。大繁盛の「エスコンフィールド」に対抗したいのだろうが、気張って募集した命名権は値段を半額にしても応募ゼロ。これぞ政治家とお役所による殿様商売の見本なのだが、当人たちは相場観がないから不人気の理由さえわからない。そこで週刊誌FLASHが命名した「オワコンドーム」。なかなかの出来ではないか。

札幌ドーム

「札幌市」を「日本国」にズームアップしてみよう。象徴である札幌ドームが小さく見える。日本国の政治の象徴である自民党本部も小さく見える。よく見ると、政治家とお役所の昭和的センス、いわれなき殿様感覚、救いがたい相場観の欠如において両者はいい勝負である。ということは、すなわち、論理的帰結として、「自民党のオワコン感も半端ではない」ということになってくるのである。

「裏金議員」事件。そもそも検察は裏金づくりを犯罪と考えているのかどうか?それで脱税すれば逃れようもない犯罪であるのだがどうして国税は厳格にメスを入れないのだろうか?岸田派の会計責任者だって有罪なのになぜ安倍派、二階派だけ悪いとされるのか?どうしてそういうことが法治国家で堂々とおこなわれて放置されるのか?そして、どうしてマスコミはそれを報道しないのか?

こうしたことが初めから思いっきり意味不明だったが、岸田政権が米国民主党にハイジャックされた傀儡政権だという仮定をとれば、これまで僕がブログで予言してきたことが現実になりつつあることと同様に説明できてしまう(ということは、やっぱり傀儡だったのだ)。見抜き方は実に簡単だ。マスコミがこぞって報道しない。これを見つけたら「政府は何か隠してる」「なにかバレるとやばいものが裏にある」と自動的に考えるだけでいい。マスコミは実はそれ自体が丸見えの「報道」になってることに気がつかない。確信犯かもしれないがみんなで赤信号を渡っているから怖くない。だから毎回やってくれる。

論考のスタートは検察によって安倍派だけで91人の「悪人」が疑義ありとあげられたことだ。この時点でキックバックの記載漏れ、使い残しは脱税問題であるというのが世間の認識だった。ところがそれが裏金という下世話で甘い定義の言葉に置き換わり、検察が「4千万円以上は立件」としたことで、「なんだ4千万未満はオッケーなのか」の空気に変わった。というより、マスコミが巧妙に変えた。そんなことは法律に書いてないし、堂々たる法律違反ではあるが訴訟技術上の理由で、というより、それ以前に政治資金規正法が阿保らしいほどザル法すぎて、当面は起訴はしないという判断を下しただけのことだ。

注目しておくべきは、ここまでは検察という「国家」の判断だということだ。検察庁は行政機関だから国家(=主権者である国民)ではなく総理と官邸の支配下にあるではないかという議論は違う重要な場所で展開されている。私見ではこうなったのは第2次安倍政権の功罪の「罪」の方であり、政権のチョウチン持ちであるマスコミ・政治評論家はそれを「そんなに悪事でもない」というニュアンスで報道し、世論の認識を徐々に変質させた。それこそがまさしく重罪なのである。本稿はその解明が目的ではないので「裏金」という下世話で甘い定義の言葉を「気持ちが悪い」と思いつつも、皆様への説明の便宜上、論旨を損なわない範囲で使用する。

 

検察の判断はサンフランシスコ市が決めた「950ドル以下の万引きはセーフ」と同じである。米国はバイデンの政策で激増した不法移民を現状の警察力で取り締まれず、万引き程度で厳罰にして凶悪犯罪を起こされても困るという窮余の策だ。欧米にはこの手がよくあって、僕がチューリヒにいたころ、政府が若者の麻薬取締りを断念して駅前の公園で新品の注射器を無償で配っていた。無闇に厳罰に処すと地下に潜伏されてしまい、仲間の回し射ちでエイズまで国中に蔓延するのを防ぎようがない。その国家的損失の方を重く見て「やっていいから新品で射ってくれ」と釣って中毒者を表にあぶりだしておいて、いずれ一網打尽にするという意図である。そうであるなら(そうと信じるが)、日本の検察の判断はすぐれて欧米的なのかもしれない。

目の粗いザル

とすれば、国民の理解としては、政治家の裏金作りは万引きかシャブ中毒みたいなものかという話になってくる。だから「合法だ」と言い張ってその芽を摘んでしまわないとまずい。そこで、目の粗いザルである「政治資金規正法」が大活躍だ。「ザルを通しました」といえば、どんなザルでも “合法” になる。しかし、この法律は泥棒が「戸締り用心!」と言いながらあけやすい鍵を売っておいたようなものだ。罪刑法定主義の国だからそうは言えない検察は、「4千万円以下は立件しない」とせざるを得ない。それを奇貨として、岸田総理は「検察が所要の捜査を尽くしたものと認識しております」「収支報告書の不記載については、法と証拠に基づいて、処理すべきものは厳正に処理したものであると認識しております」と、ことあるごとに “合法性” をにおわせているが、その「法」こそが問題なのはほおっかぶり。総理大臣は国会議員であり立法の責任者である。瑕疵のある法律を放置してその責務を果たさないなら国会議員を辞職してもらうしかない。あげくの果てに「報告書に記載があって領収書があれば中身は問いません、各議員がおのおのの判断に基づいて政策活動に支出していると認識しているところでございます、(50億円でも)」なんて凄まじい答弁がしゃあしゃあと出てくる。こんなものを主権者たる国民は許していいのか?

非常に重要なことだが、ひょっとして、われわれ国民は知る由もない自民党の深い闇に関わっているのではないかという直感を多くの国民が今回の事件で言わずもがなに懐いてしまったのではないか。マスコミは隠す。しかし隠されると見たくなるのが人間のサガだ。総理大臣が「認識」するなら国民だって「認識」するのだ。裏金事件をうわべのもみ消しで葬ろうとすれば、そうすればするほど、そうした国民の疑念はふくらみ、自民党は自ら終わらざるを得ないデス・ロードに入りこむだろう。

「4千万円未満はセーフでいいのか」。これはコップに半分の水を見せて「まだ」か「もう」かとやるに過ぎない。どっちであろうが「法律違反」なのだ。マスコミが「おかしいではないか!」と正義の味方のふりをして扇動し、ああだこうだとお遊びに興じているうちに国民は何が問題だったか忘れてしまう。それに乗じて法律違反という火種を消してしまう。すると「法律問題ではないのだから」というウソがだんだんホントに見えてきて、「犯罪事件」が「裏金問題」というとんでもない大嘘、つまり、やんちゃな子をお仕置きすればすむ程度の話にすり替わってしまう。これが本件のメイントリックである。だから、いつの間にか国家(裁判所)でなく自民党の党紀委員会が本件を「裁く」ことになってきて、党則および党規律規約に基づいて、国会議員ら39人の処分を決定するという、学芸会の劇にすぎない出し物で「大団円」感を演出しようとしているのである。台本作家には申しわけないが、日本国民はあなたが考えているほど馬鹿ではない。

いつの間にか悪人が39人に減っている。

まず、これがトリックの小ネタなのだ。この数字が何度も報道されて目が慣れると、なんだ91人の大事件と思っていたが高々39人の話だったのかと、事件全体の重さが軽く感じられ矮小化されてくる。10万円の物を売ろうと思ったら、10万円でも安いと説明してはいけない。まず100万円のを見せれば、何も言わなくとも安く見えてくる。猿をだます朝三暮四に引っかかってはいけない。党紀委員は民間人も入っており国家機関でない。党則および党規律規約など法律でも何でもない。ところがだ。脱税議員は裏金議員にすり替わり、裏金は犯罪ではないが怪しからん、綱紀厳正である自民党は国民と一緒に怒っておるぞ、ついては自民党の議員なのだから自民党が自ら裁くのがいいだろう。

こうして「被告人」のはずの自民党がいつの間にか「裁判長」になっていて、やりたい放題の判決を国の顔をして出してしまう。これは「換骨奪胎」という「なりすまし技」で、だまされる人がいても無理ないが、所詮はタコの変身とおんなじで、ハリボテのインチキである。

「いつの間にやら裁判長」作戦

メイントリックをわかりやすくご説明しよう。サラリーマン時代のことだ。どこかの本部で不祥事があると本部長が本社に呼びつけられ、監督不行き届きで左遷される。普段はいい稼業に見えるが実は体を張っているから部下は命令に従う。これが組織の規律というものだ。ところがだ。某本部長は被告人のような気弱な顔をして本社に出向くのだが、戻ってくると裁判長の厳しい顔になっていて部下だけ処分され自分は昇進する。サラリーマンのプロというのがいるのだ。部下は委縮して戦々恐々となり、仕事のパフォーマンスは落ちるわ、あいつ早く死なねえかなと飲み屋で呪詛するわでムードまで最悪だ。

タコの変身術

被告席にいたと思ったらいつの間にやら裁判長席に座っている某本部長の変身術はタコもビックリで、こりゃ凄いとタコが彼の顔真似をするんじゃないかと思うほどだったが、社員にも真似る奴がどんどん出てくる。これがまた見事なもので、得意なものはいろいろあるができないのは仕事だけという奴ばっかりだ。そうやって体を張らないタコ上司が蔓延しだしてからだ、会社がにわかにおかしくなったのは。いま自民党が仕掛けている技がそれであり、そうやって自民党も腐っていく。「おまいう」の岸田総理が「岸田派の超過分は性質が違う。検察がそう判断している(捜査は米国によるやらせだ)。だから再発防止、政治改革に全力で取り組まなければならない。それが総裁としての責任である」と強調。皆さんどうですか、白状してますね、「総理」でなく「(自民党の)総裁」なんです。自民党など下野すれば国家でも何でもない。その総裁が、国家元首の顔をして国民が選挙で直接選んだ国会議員を処分している。部下だけ処分され自分は昇進。外野席から見ても見事なタコ野郎っぷりでしょ?生贄(いけにえ)にされた議員たちは怒って当然。怒らないならいずれタコの仲間になって腐敗を加速する奴だ。個人的な趣味ではあるが、僕はお寿司屋のタコは好きだが、こういう糞ずるい奴は子供のころから大嫌いである。

もっと詳しく見てみよう。

39人のお裁きの理由を4月4日夜に岸田総理は「派閥幹部などの立場にありながら、結果として長年にわたり不記載の慣行を放置し大きな政治不信を招いた責任」と述べている。罰を受ける具体的な行為は1回でも法律違反の「不記載」ではなく、法律違反にならない「不記載の慣行の放置」に巧妙にすり替わっている。慣行を最初に作った人は無罪になっており、「落選中」「政界引退」の者は1人を除いて消えており、「派閥幹部などの立場にありながら」の部分が重いかのように見せている。つまり、派閥が害悪だと自分の派まで潰しておきながら、その幹部の立場は重要だったと矛盾したことを自分で言っている。「暴力団だ」と解散させながら「組長は不信を招くな」と言ってる。さすがにここまでくるとこの人は真正の馬鹿ではないかと疑わざるを得ない。「じゃあその一人であるお前は何なんだ?」と言われれると「私は裁判長だ」(=それが総裁としての責任である)としゃあしゃあと答える。タコの変身の瞬間を皆様は心の写真に残し、絶対に忘れてはいけない。そのためには、脱税議員を裏金議員にすり替え、法律問題を自民党問題にあらかじめすり替えておくことが絶対に必要であり、それが何月何日に誰によってどう行われたかは良いケーススタディなので若い方はご自分で調べてみる価値がある。

そして問題の39人の顔ぶれだ。

とても著名な面々がリストから消えており、話題にもならない人がたくさん入っており、著名だが消せないほど悪辣な場合は役職についてもいないのに「役職停止」だ。しかも「党の」である。そんなものは国民にとってどーでもいい。次の選挙に出ません。そんなものは**県民じゃない国民にとってどーでもいい。

つまり、このリストの顔ぶれを眺め、マスコミに乗せられて処分は8段階あるとかないとかクソどーでもいいことをああだこうだピーチクパーチクやりだした瞬間に、あなたはすでに自民党の詐術にかかっている。タコがアンコウに化け、あなたの目の前でゆらゆらさせてるチョウチンがそのリストなのだ。もちろん、食いたいのは「あなたの貴い一票」である。

それだけではない。チョウチンを光らせて脱税および政治資金規正法の改正という法律問題に国民の目がいかないようにしながら、総裁選のライバルになる他派閥の幹部(要は例の5人組)に罪人のイメージを着せて追い落とし、場合によってはリストから外してやってもいいがとゆすっておいて取るものは取り、雑魚はへへーっと土下座させる。森、二階はなぜリストにないのか?「落選中」「政界引退」はセーフだからで帳尻があう。派閥を消し、その幹部も葬ってしまい、選挙の公認剥奪という議員が実は最も怖いお仕置きで他派だった下々の議員を脅せば岸田と官邸にひれ伏して忠誠を誓うようになり、トップダウンがやりたい放題になる。これが狙いだろう。

ここまでが米国民主党の意図とは思わないが、巨額のウクライナ復興予算等を通すためにはトップダウンやりたい放題になっている必要がどうしてもあり、それには抵抗勢力である現状の派閥体制をぶっ壊す策略がどうしても必要だった。それが米国の意で動かせる地検特捜部を使った裏金あばき、派閥潰し、邪魔な幹部の追い落としであり、岸田氏は総理大臣としての延命にそれを利用もしたということではないか。こういうことはビジネスでも日常茶飯事であり、猫がネズミをとるようなもので政治家が目の前のチャンスを拾って悪いことはないからその行為だけをもって総理を批判する気はない。

政治資金規正法

しかし、ここからが本稿の最も大事なポイントだ。国民は「裏金議員」は脱税という “法律違反” を犯したと怒っているのである。なぜ国民は裁かれるのに国会議員は裁かれないのだと。しかしその「法律」は、税法以前に、ザルで大甘の「政治資金規正法」だ。検察が「4千万以上しか立件できない」とするのはザルの目が粗いからで、それを棚に上げて岸田総理はことあるごとに「検察が判断している」としゃあしゃあと「検察」を免罪符に使って逃げている。検察は法律は作れない。だからお前が政治資金規正法を改正して政治とカネの問題にケリをつけろ。「自民党総裁」としての責任なんかどうでもいいから「総理大臣」の仕事をしろ。

この怒りのマグニチュードは、岸田氏が食ったネズミが運悪く納税(確定申告)の最中に出てきたことで、国の隅々まで凄まじいレベルに増幅されてしまった。91人をぜんぶ打ち首にしても「金の切れ目は縁の切れ目」「百聞は一見に如かず」を払しょくできたかどうか。それが39人?課税はゼロ?政治資金規正法の改正はどこへ行っちまったんだよ? ふざけんなコノヤロー、となってる。

そこに39人の処刑の図などぶちこめば、ほとんどの国民はそれが「やらせ」「目くらまし」「ほとぼり冷まし」「いけにえ」だと知ってしまう。そのセコくて薄っぺらい人間性というか党員性というか、国民はそれを見抜いてさらに怒っているのだが、それは、自分が苦労して働いて納税した金を使ってこいつらはこんなことを一生懸命やっているのかというもっと凄まじい怒りである。

しかも、どうも、こいつらそれに気がついてないんじゃないか?命名権の値段を半額にしても応募ゼロ、それ見ても気がつかねえんじゃねえか?

そういうのをオワコン終わったコンテンツというのである。

札幌市民の皆様には申しわけないが、このままだと自民党は静かに札幌ドームの運命をたどるだろう。マスコミ、御用評論家の皆様もごいっしょに。エスコンフィールドが出てくるだろうから僕はどうでもいいのだが。

 

(追記)

39人を処刑。記憶の中でどこか引っかかる数字だ。わかった、これだ。

https://news.yahoo.co.jp/articles/e534336fa534d3ba0e51e94cc5b7e669c0620cf9

申しわけないが、この作戦を岸田氏が自分の頭で考えたとはとても思えない。参謀の人間は受験で日本史を選択していればこの事件を知らないはずはない。もし僕がするならこのぐらいは遊んでみたくなるなあと思わないでもない。

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最高のモーツァルトP協全集はデレク・ハン

2024 APR 2 14:14:08 pm by 東 賢太郎

メンデルスゾーンの「無言歌集」をyoutuneで聞きながらぐっすり寝てしまった。目が覚めると、というか、ふわふわした夢の終りの方で、鳴ってるなと意識に入ってきたのがモーツァルトのピアノ協奏曲第15番だった。これはいいな、誰のかなと画面に目を凝らすと「Derek Han(Pf)、Paul Freeman conducting Philharmonia Orchestra」とある。

「モーツァルト自身の予約演奏会の看板作品だったピアノ協奏曲を、今日はだれの演奏で楽しもうか」というささやかな迷いはクラシック音楽愛好家だけに許される究極の贅沢である。僕はヘブラー、ペライア、アシュケナージ、内田、ブレンデル、バレンボイム、アンダ、ツァハリス、シュミットを全集で、そして全集という弾き方をしないカサドシュ、R・ゼルキン、シュナーベル、リパッティ、バックハウス、カッチェン、フィルクシュニー、L・クラウス、ハスキル、ソロモン、ハイドシェック、ルフェビュール、フライシャー、スコダ、ピリス、グルダ、カーゾン、モラヴェッツ、バーンスタイン、ショルティ、プレヴィン、フランクル、タン、ヤンドー、M・フレージャー、シュテファンスカ、ティーポ、ラローチャ、ミケランジェリ、リヒテル、ギレリス、クリーン、ランドフスカ、ポリーニ、アルゲリッチ、グールドあたりも全部持っている。二度と聞かないのもあれば一生ものもある。ここ10年ほどは買っておらず最近のピアニストに有能な人がいる事情は聞こえてはいるが耳で確かめていないのだから、20世紀のピアニストならほぼ漏れなく知っている人間ということになる。

初めて買ったモーツァルトのレコードが大学生になってすぐ(1975年5月)に生協で見つけたフリッチャイの交響曲第40、41番で、ピアノ協奏曲となるとヘブラーの26、27番であり、これの購入は7月を待ってのことだからいかに奥手だったか。どちらも廉価盤(ヘリオドール、フォンタナ)ゆえの購入であり、ベートーベンもしかりなのだが、欲しかったわけでなくクラシックの王道、深淵に立ち入らねばという気合から、即ち不得意科目の参考書を買うようなもので、結局どちらもそんなには聞いておらず、没入したのはブラームス交響曲第1番やマーラー巨人の方が余程早い。モーツァルトは翌年にスイトナー(S31,35,36,38)とハイドシェック(PC23,25)の廉価版でやっとやってきた感じがしたがそこ止まり。こうして20代でかじってはいたが、まだ聴いたとはとてもいえない。

最初に魂から気に入ったモーツァルトの協奏曲はペライアの14番だ。全集録音は1975-84年だがそれを知ったのはロンドンだから84年のことだ。まだCDよりLPの時代で、出たてほやほやの全集がコヴェントガーデンのレコードショップに飾られていてとても買いたかったが、苦しい家計にはとても高価だ。仕方なくボストンでフィルクシュニーで聴いた24番の一枚と、家内の許しで3枚組のコンサートアリア集ならということでそっちを買った。つまり僕がモーツァルトを少し紐解いたといえるのは30代になってからなのだ。そこから嗜みがビッグバンのように始まっているから僕のスタイルの原型はそこにあり、次いで内田、ヘブラーもそこそこ好きになり、関心は徐々にオペラと宗教曲に行った。30歳の好みは40代、50代、60代と自分の中でワインのように熟成して今に至るが、これがクラシックの奥深さというものなのだろう。ペライアの協奏曲全集は文句なしの金字塔である。いま聞き返しても、どれもがもぎたてのレモンのように瑞々しく素晴らしい。24番を買ったつもりが裏面の14番がもっと好きになり、モーツァルトが作品目録の記述を開始した作品に偶然に僕の起点があったのも奇遇というものだ。

Derek Han

50余年のモーツァルト遍歴を重ね、それが内側でそこそこ熟成したと思われるいま最も頻繁に棚から取り出し、死ぬまで手離さないだろう全集。それが冒頭のデレック・ハン盤だ。ハンは中国系の、そして指揮者のポール・フリーマンはアフリカ系の米国人である。中国・アフリカ・米国。欧州に長く住んでウィーンに何度もモーツァルト詣でをした僕としては程遠い国々であり、並みいる大家ではないこの選択は意外に思われようし、自分でもそう思うのだが、これが抗いようもない感性の選択なのだ。音楽に人種も宗教も国境もない。ハンとフリードマンのモーツァルトPCはだいぶ前にi-Tuneで24番を片っ端からきいた折に偶然みつけた。誰だこれはと思ったが、ピアノもオーケストラも録音も非常に素晴らしい(ロンドンの聖アウグスティヌス教会)。指の回りのキレがcrispyで清冽。チェンバロ、ピアノフォルテ、クラヴィコードの時代に生きたモーツァルトの協奏曲を現代ピアノで弾くにせよ、その要素は大事と僕は思う。録音として超ミクロの耳で聴くとperfectではないが、彼はCD録音はライブの代替にはならなずミスをしないことに意味はないと語っており、ライブに近く作為なしの自然体で最上級なこのバージョンは見事というしかない。全曲がそのクオリティだ。したがって自動的に僕のモーツァルトのピアノ協奏曲全集No1だ。

Paul Freeman

同じことが指揮のフリーマン(1936 – 2015)にもいえるのだから困ってしまう。フィルハーモニア管の木管が何と美しい音で鳴ることか!このオーケストラはロンドンbig5でも特にプライドが高くティンパニは指揮者が誰であろうが楽団のパート譜に固執するなど並の指揮者では御しにくいので有名だ。ここでは弾き振りのアシュケナージ盤より同じ奏者たちの自発性がありながらピアニストの感性に寄り添って知的にコントロールされ、それが前面に出て音楽美を邪魔することがないという奇跡のようなことが成し遂げられている。楽器のクラリティ、ピッチ、アンサンブル、まさしく完璧だ。こんなことが伊達や酔狂はおろか、カネをばらまいてでもできるはずがない。31歳でミトロプーロス国際指揮者コンクールで優勝。30国以上で100を超えるオーケストラを指揮したこれだけの有能な指揮者に楽員は敬意を払っているのだろうが大衆には相応の知名度がない。人間界の不条理だ。

ハンとフリーマンの24番だ。何度聴いても心の底から熱くなる。僕がこの曲に欲しいものすべてがある。

ハンの両親は博士で夫人はスキー靴メーカーノルディカのオーナーの娘である。5000万ドル(70億円)の遺産を相続し、彼はファンド会社を設立して金融マンと二足のわらじになった。だからどうということもない、それが朝飯前の人にとってそれはそれなのだ。モーツァルトを感じ切り、音楽に奉仕することに徹している。それはどのピアニストもやりたいことだろうが、僕が心の底から満足した実演も録音も僅少であるのだから、誰にもできるわけではないことが証明されている。一流の人同士の差はごくごく僅少で、それが何かを言葉にするのは難しいが、丸めていう言葉がMusikalität(音楽的)だ。曖昧ではあるがハンについてはそれを使わせてもらうしかない。調べるとこの全集は廉価盤だったのに廃盤だ。大家の名にこだわる一般層にはあまり売れず、全曲を所有したいコレクター層には売り切ってしまい、モーツァルトをよく知らないがBGMで流したい層(ほとんどいないだろう)に売ろうとしたのか。文化財の浪費という以前にハンとフリーマンに申し訳ないという気持ちすらある。僕はアジアやアフリカの人を持ち上げたいわけでも何でもない、何事も「ホンモノ主義」であって、だから仕事もそれを貫いて生きてきたし、こういう社会の愚かな歪みは看過できない性格に生まれている。

彼の音楽がストレートに訴えかけてくるのは技術の恩恵ばかりではない、むしろパーソナリティにあったことを下のビデオで僕は強く感じた。シュナーベルが「当世の最高のベートーベン弾きといわれることをどう思うか」ときかれ「何でも弾けるよりましじゃないかね」と答えたアネクドートを子供の時に聞いたと言っているが、普通の子供に意味が分かるやりとりではない。ジーナ・バッカウアーが坊やもう一曲弾いてといい、のちにリリー・クラウスが弟子に取り、ジュリアード音楽院を18歳で卒業した何物かを彼は持っている。ポリーニもそうであったように、これだけの技術があっても彼は真に共感のある曲しか弾かなかったのだろう。

ここで聴けるショパン。演奏会ではない、まさに知り合いが家でひょいと弾いてくれる at Home なものだ。これが聞き流すわけにいかない。傾聴させ引きこまれる何かがある。何度も聴いているが退屈と思っていたイ短調のワルツの何と素晴らしいことか、こんな良い曲だったのか、練習してみたいと思ってしまう。こうした力を僕はこの人のパーソナリティと呼ぶしかない。

感動して涙が出た。ラフマニノフ第2協奏曲第2楽章のクラリネット・ソロのくだりだ。ハンの言葉による音楽描写の見事さをお伝えしたいが、英語であれ日本語であれ僕の貧困なボキャブラリーでは言葉というものにならない。この人は音楽の神髄に触れている。これほど平易な言葉とポスチャーで伝わってくるのは奇跡のようだが、だから彼は言語でそれができ、もっと雄弁にピアノでもできるのだ。どちらも僕の及ぶところではなく、こんな人が世にいたのかと何度もくりかえし見てしまい、その都度に「まさにそうだね」と感じ入ってしまった。その彼がクラリネット・ソロを書いたラフマニノフの能力を神の如く讃えている。そのテーマ、その楽器がどうのということではない。書かれたもののマジカルな力についてである。作曲家という人智の及ばぬ存在。その人の書いた音楽を何千回、何万回であろうと聴くたびに手を合わせて拝みたくなるのだが、それこそが僕がクラシック音楽を愛するゆえんであることをハンのスピーチで悟った。

あの旋律はラブロマンスだ。人の数だけまったく異なった体験として “それ” はあったにもかかわらず、人種も宗教も国境もなく、どの国の誰でもがあれを聴けばそれのことを思う。そうなるだろうという思いでラフマニノフはあの音符を書いた。それはそういう気持ちを喚起するために使われる音楽のクリシェ(和声やメロディの常套句、文法)ではなくすぐれてオリジナルなものだ。演奏家はそれを感じ取り、聴衆に伝える。そのために真剣に楽譜を読むのだが、同じものなのに年齢を重ねるとともにその時々で違う角度から違う姿が見え、新しい気づきがあり、作品が自分の変化を映し出してもくれる。自分の中でワインのように熟成する。そう語るぐらいは誰でもできようが、ハンはそれに人生をかけた人だということが語り口から如実に伝わる。口だけのくだらない人が世にはびこる今日この頃、なんというすさまじきビデオであろうか。

この人とお会いして何時間でも音楽談義をしたかった。彼がピアニストだからでも金融マンだからでも東洋人だからでもない、そう思わせてくれる人間が地球上にいた、それだけで嬉しくて泣けてくる。ハンはコロナとワクチンについても語っている。もう少しましなのが出ればと。このビデオは2020年12月より前に撮影されており、僕より2つ若い彼がそれで亡くなったのは2021年4月8日だ。

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今年のプロ野球予想

2024 MAR 30 15:15:48 pm by 東 賢太郎

東家は毎年これをしている。今年は家族が一人増えて6人のコンペ(賞金あり)。これが僕の予想。

寸評

セリーグは巨人はオープン戦(楽天)を見に行ったが投手陣が9回2死まで無安打に抑え出来がいい。グリフィンと大勢(157キロ出ていた)は安定だろう。この日は出なかったが戸郷は15は勝つし中継ぎの新人西館は使える。若手が伸びており二遊間とセンターが固まって強い。阪神も層が厚いが勢いで1位。DeNAは渡会がすごすぎ。中日は中田がケガしなければ3位もありか。広島はどうして外人にこんなヘボしか来ないのか。毎年毎年打席を浪費するカスばっかり。実にひどい。投手も森下、大瀬良が読めなくなって最下位もあり。

パリーグは山川、ウォーカーが入ったソフトバンクが強い。投手は4点やっても勝つ戦力。オリックスは山本の穴が埋まらないか。宮城はやるだろうが山下しだい。打線でソフトバンクが上回る。日ハムは外人で層が厚くなり若手が中心の勢いあり。西武は評価が難しいが打線がいまいちか。ロッテは外人が落ちるので日本人の得点力しだい。楽天は厳しいが巨人戦先発して4連続三振とった荘司は素晴らしい!彼は間違いなく一級品。

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