Sonar Members Club No.22

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いやーまいった、腰痛です

2014 DEC 7 18:18:31 pm by 中村 順一

皆様、お久しぶりです。ちょっと長い間投稿をしておらず、大変申し訳ありませんでした。やれやれ、10月から、ちょっと辛い腰痛になっておりました。

筆者の腰痛の歴史は長く、高校時代、ラグビーをやっていて、ちょっと痛めたのが始まり、次は80年代後半に、英国ロンドン駐在時代にぎっくりとやってしまったのが2回目。この時もかなりひどく、背中の左側の筋肉が硬直し、体の左右のバランスが崩れ、腰から背中がひん曲がり、立っていてもまともに垂直の姿勢を作れず、周りの同僚をびっくりさせてしまい、かなり心配をかけた思い出がある。ただ、基本的には筋肉の問題であり、骨に大きな異常はなく、その後は、時々問題は発生するものの、何とかごまかしつやってこれた。

ところが、今回はもっとやっかいなことに、椎間板に問題が発生したのだ。今年の6月くらいから、膝が痛いなと感じたのが始まり、膝のレントゲンを撮ってみると、膝に問題のないことがわかり、「これは腰からきていますよ」、と医者に言われたのが、7月ごろ。その後MRIを撮ってみると、背骨の4番と5番の間の左側の椎間板が弱っており、すぐ傍の神経を刺激していることがわかった。その頃はちょっといやだな、と感じていたが、まだ深刻ではなく、「まあ、命を取られるわけでないし」とか言って、平気でゴルフも続けていた。

ドジは、10月後半の欧州への10日間ほどの出張の際、無理をしてしまったことだ。昔の職場とは違い、同行してくれる同僚はいない。1人で行くのだ。投資家訪問のための出張なのだが、書類や衣類等でトランクはかなり重くなってしまった。途中の行程が最後まで決まらなかったことから、デンマークのコペンハーゲンのホテルは、出張を開始してから、ネットで予約した。次の日が早朝出発だったので、便利なところがいいと考え、コペンハーゲン中央駅のすぐ傍のホテルを選んだ。これが失敗。ヨーロッパに長く滞在し、出張も毎年のように行っている筆者が、駅の傍は”治安が悪い”ことをついつい忘れてしまっていた。誰のせいでもない、すべて筆者がドジなのだ。夜9時ごろ、ホテルに着くと、おいおいこれはやばいぞ、と感じるほど治安が悪そうな場所だった。2人の男が次々とやってきて、「金をくれ」とせがんできた。筆者も、ともかく早くホテルにチェックインしなければ、とちょっとあわててしまった。中級のぼろいホテルだ、前の道路からロビーに入る入口までには、ちょっと長い階段があった。通常ならポーターを呼ぶのだが、夜も遅くなっており、ホテルの係員などまったく見当たらず、あたりは真っ暗。ちょっとそんな雰囲気では無かった。しょうがなく、重いトランクを”えいや”とばかりに持ち上げて階段を上ってしまった。そこで、ついに”ぎくっ”ときてしまったのだ。長年腰痛とは付き合ってきたので、これはちょっと深刻だ、ということは自分でもすぐにわかった。あーあ、とうとうやってしまった、という感覚だった。MRIまで撮って、問題があることを知りながら、なんというドジか、と自分を呪ったくらいだった。

さて、帰国後、痛みも引かないので、しょうがなく、”ワラをもすがる”感じで、早速あらゆる治療院を回ることになった。近代医学(整形外科)、鍼、マッサージ、整体等である。鍼、マッサージ、整体は保険も効かず、まさにお金が飛んでいく感じの出費になっている。腰痛が悪化して、約1月半、少しずつだが、お蔭様で快方には向かっている。毎日の仕事には特段支障は無いし、その後、国内や北京への出張も問題なくこなした。

近代医学はいいのだが、要は、ヘルニアの手術をするほど深刻ではない、という結論なので、やたらと薬をくれるだけなのである。薬の一つが、最近解禁された”*リカ”という神経への刺激を抑える薬で、副作用もある。筆者の場合は、ひどい耳鳴りでこれには参ってしまい、薬を変えてもらった。鍼は、港区にある、政治家、スポーツ選手、芸能人等も使っている、腰痛に悩む人間には、一部で有名な治療院だ。ここはかなり前に、腰痛に悩んでいた部下から紹介を受け、行っていたことがあり、その時は効いた記憶があったので、10年以上ぶりにまた行きだしたわけだ。一回に50本以上の鍼を腰に刺す痛い治療だ。マッサージは普段はいい気持ちなのだが、椎間板を痛めるほどの重症になると、まったく効かないし、むしろもっと痛くなってしまう。これは今回は行くのを中止した。

整形外科、および鍼の先生の言うことは、基本的には全く違うが、ひとつだけ共通している。それは「うまくいけば、椎間板の緊張が緩み、神経への刺激が弱まり、腰痛が治る」というコメントだ。椎間板の骨のでっぱりが自然に引っ込んでいく、というシナリオなのである。そう願いたいが、うまくいくかどうか。

腰の痛みで困るのは、腰だけでなく、首や膝にまで、違和感が波及することだ。いやになってしまう。幸い、何とかなってはおり、生活は全く普段と変わりない。何とか年内に痛みを完全に取り、12月18日のSMC忘年会も完全な調子で参加したいものだ(ちょっと無理かな)。ゴルフも10月の3連休からまったくやっていないが、これは復活は来年の春になりそう。ゴルフの技術の 本でも読んで、復活に備えたい。

投稿も11月中は集中力の不足から、していなかった。これから徐々に復活していきます。皆様、よろしくお願い申し上げます。

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ラグビーのスコアみたいーヤクルト、阪神戦観戦記

2014 AUG 6 15:15:44 pm by 中村 順一

昨晩(8月5日)阪神戦に於けるヤクルト小川監督、入場料返せ

昨晩(8月5日)阪神戦に於けるヤクルト小川監督、入場料返せ

昨日、10年以上行っていなかった神宮球場に行ってきた。ヤクルト、阪神戦観戦である。筆者よりも野球に詳しい東兄も一緒である。筆者は、プロ野球は阪急の血が少しだけ流れているオリックスを応援している。既得権益にしがみつくセリーグはあまり好きではない。もちろん、一番きらいなのは、既得権益の代表である巨人なのだが、そのおこぼれに特に恩恵を受けている阪神もどうもダメ、昭和53年の日本シリーズ第7戦で大杉のインチキファールホームランで阪急に勝ったヤクルトももちろんダメ、巨人出身の、パーフォーマンスばかり考えている監督のいるDeNAもちょっとダメ、じゃあどこか、というと消去法で中日と広島になるのである。中日は筆者が小学校入学以前に住んでいた名古屋のチームというのも好感が持てるし、歴史的に巨人に立ち向かう意識はおそらくセリーグのチームでは最も強いのもいい(星野監督等)。広島も今のパリーグでは当たり前になったが、広島という地元を重視する球団方針を戦後の早い時期から追求していたのがいい、外木場と安仁屋は大ファンだった。

ところで、昨日の試合は筆者が好きでない(きらい、だが巨人よりはマシ)チーム同士の対決となった。日中は東京は36度もあり、おいおいこれは神宮は超暑そう、まいったと思ったが、球場に到着してみると、風もあって思ったよりは涼しかった。ただ暑さの影響か、球場には何かやる気のないダレた雰囲気が満ち満ちていた。まず、両軍とも選手が練習のキャッチボールすらやっていないのである。これは当たり前なのか、と隣の席の東兄に聞くと、とんでもない、長い間プロ野球を見ているが、今までではあまり記憶にない、とのこと。おいおい真面目にやってね、というところで試合開始。

ところが早くも1回表に波乱。ヤクルト先発八木は簡単に2死を取ったのだが、3番鳥谷の簡単なセンターフライをセンター比屋根が落球(エラー男)する。練習していないツケが早くも出た。ここからこの試合のドラマが始まるのだ。八木はその直後ももを痛めて退場(突然で良くわからなかった)、ヤクルトは救援陣が準備されておらず、その後はボロボロに打ち込まれてしまう。特に2番手の下手投げの山中はひどく、東兄いわく、甲子園予選の都立高校の選手にでも打たれるレベル、とのこと。

阪神先発のメッセンジャーもひどく5回までに8失点(自責点7)。最初は威力のあるボールを投げており、さすがだな、などと東兄と話をしていたのだが、味方の大量点に、自分も締まりが全く無くなった。その後は出てくるピッチャーは2流ばかりで、野手のエラーも1回表のエラー男だけでは無く、どんどん回数が追加された。締まりのない、ゲームの進行が遅い、ある意味で非常に珍しい試合になってしまった。特にヤクルトには試合に勝つ気力を全く感じられなかった。1回に満塁ホームランを浴びた山中に2回に打順が回った時、そのまま打たせたのにはびっくり。小川監督何やってんだ、草野球以下だぞ、入場料返せ!スコアは結局20対11で阪神の勝ち、ヒット数は阪神23本、ヤクルト16本、4時間半近くも時間をかけた凡戦となった。

東兄とは試合の後、軽く飲んでいくか、などと話していたのだが、球場を出ると既に10時半を回っており、やむなく帰路に着いた。さすがにこんなスコアの野球を見たのは初めてである。ラグビーのスコアみたいだ。阪神も恒例の長期ロードの初戦を勝つには勝ったが、爆勝という充実感はなかっただろう。ヤクルトもあんなにピッチャーがひどくてはどうしようもないのでは。オリックスの救援陣をレンタルに出したくなるような雰囲気だった。ただ、この試合最大のドジ男はやはりエラー男(比屋根)である。あの凡フライを落球では、高校生以下だ。ひどすぎる。

東兄に言わせると、歴史に残る大量点の試合を観戦できて良かった、ということだ。そうなのかも知れないが、キツネにつままれた様な感じの残る観戦だった。今度はパリーグの試合を見にいきます。

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謎のロシア人とワインバーで

2014 JUL 25 16:16:07 pm by 中村 順一

マレーシア航空機の残骸

マレーシア航空機の残骸

ロシア、ウクライナ情勢が風雲急を告げている。オランダのアムステルダムを出発し、マレーシアのクアラルンプールを目指していたマレーシア航空便が、親ロシア派の勢力圏であるウクライナ東部上空で、地対空ミサイル「BUK(ブク)」で撃墜されたのである。

今回の事件に関しては、東京に住むロシア人、あるいはロシア関連の仕事に従事する外国人、日本人の間でもかなりの激論が交わされているようだ。昨日は、こんなタイミングでどうして?と思ったが、ロシアへの投資を勧誘する小規模のセミナーが都内銀座で行われた。ロシアとの関係を維持したい派は、状況に当惑しつつも筆者にはだいたい以下の調子で議論してくる。

A氏「やっぱり、ロシアは重要でしょ。プーチンがいないと北方領土も解決しないよ。」

筆者「しかし、今度ばかりは、一応安全保障や政治の議論で、アメリカを中心とする西側諸国にベースを置いている日本は、ちょっとロシアをサポートするわけにはいかなくなってきた。拉致問題があり、日本人の生命がかかっている北朝鮮との交渉の方が、まだ関係諸国の理解を得られる可能性があるのでは。日本は西側諸国から孤立したら、結構ヤバくなる。核装備すら必要になってしまう。」

B氏「しかし、中東ガザ地区には、イスラエルがアメリカ製のミサイルをガンガン打ち込んでいるではないですか。そもそもアメリカへの脅迫観念がロシア人にはあるのです。今はウクライナの情勢の安定が何よりも重要だ。EU諸国も本音はそこですよ。」

筆者「そうですかねえ。オランダは相当に怒っているんじゃないの。オランダに住んでいるプーチンの娘を国外退去させろ、と主張した市長もいたでしょ。」

どうも、銀座のセミナーには親ロシア派が集まる感じになってきたので、筆者はセミナーへの出席は取りやめて、ロシア人ながらも、プーチン政権には批判的なC氏と一緒にワインバーでゆっくりと飲むことにした。C氏はかなり荒れていた。

C氏「中村さん、以前から申し上げていますが、プーチンはひどい奴です。まるでヒトラーです。ロシア国内では意図的な情報コントロールが行われています。メディアはプーチンに都合のいいようにしか情報を流しません。この間久々にロシアに帰ってびっくりしたのですが、私の兄ですら洗脳されています。彼に言わせると、クリミア併合をロシアが実行しなかったら、すぐにアメリカが侵攻してきた筈で、ロシアを守るための当然の行動だ、とのことです。ありえない話です。」

筆者「しかし、サンクトペテルブルグ在住のあなたの兄上には私も会ったことがあるが、彼は医者でありインテリだった。彼でもそうなのか。」

C氏「そうです。ロシアの中はもうひどい状態です。BUKはもちろんロシアから供給されたのですし、元プーチンの側近だった某評論家に言わせると、BUKは精密な攻撃兵器であり、間違ったターゲットに発射してしまうことなんて考えられない。これは陰謀だ、とのことです。ロシアは、ともかくウクライナを混乱させて弱くしたいのです。バルト3国が良くなるのはまだ許容できるけれども、人種的にも近いウクライナが西欧みたいに良くなっていったら、ますますロシアの酷さが目立つでしょ。ロシア国内のロシア人が目覚めたら困るんですよ。」

筆者「しかし、ウクライナなんて、そもそもロシアの一部であり国家として認めがたい、と言っているロシア人も東京にいるぞ。言語だって同じキリル文字だし、会話もロシア人とウクライナ人なら通じるんじゃないの?」

C氏「そんなことはありません。私はこの間キエフに行きましたが、ウクライナ人の会話は9割わかりませんでした。しかし、中村さんの言うように、1941年にヒトラーは大チョンボをしましたね。1941年6月の独ソ開戦後、ドイツ軍がキエフ攻略に迂回せず、モスクワを直撃したら、スターリンを間違いなく倒せたし、ウクライナ人は自動的にドイツ側に付きましたよ。ウクライナとロシアは全く違う国家であり民族です。」

筆者「うーん、随分たまっているね。ところで北方領土は?」

C氏「それはプーチンを倒して、その後の政権と交渉してください。」

いつの間にか、ワインをグラス飲みからボトルに切り替え、2人でかなり飲んでしまった。夜もどんどん更けていった。世界情勢もキナ臭くなってきた。

 

 

あーあ、駄目でした(ワールドカップ観戦記)

2014 JUN 27 15:15:28 pm by 中村 順一

筆者はサッカーに関しては、ファンではあるものの素人であり、今回の日本チームのワールドカップ、1次リーグ敗退を客観的に分析していく立場にはない。しかし、本田の「優勝を目指す」という勇ましい発言に、おおそうかな、と期待し、また去年の秋のヨーロッパ遠征でベルギーに勝ち、オランダと引き分けた実績で、日本にもついに攻撃的なサッカーが完成しつつあるのか?と従来の日本チームより強い、最強の軍団と勘違いして、第1戦のコートジボアール戦は日本時間日曜日(15日)朝10時開始という絶好の時間帯だったこともあり、テレビにかじりついた。前半に本田の強烈なシュートで先制した時は、素直に感激、よーし、やっぱり強いぞ、と思った。本田のシュートのすぐ後、内田がうまくボールをコントロール、ゴール前で敵のディフェンスをかわしシュート、惜しくもキーパーに阻まれたが、思えばあの瞬間が日本が最も輝いていた時間だったのだ。その後は日本はみるみるうちに動きが重くなり、あの魔の2分間を迎えてしまう。中盤で簡単にボールを奪われ、一気に2点を決められてしまった。2点目は川島に止めてもらいたかったが。

ギリシャ戦は朝7時からだったので、ライブでは見ていない。でもギリシャが反則で1人少なかったのにどうして1点も取れなかったの?と言いたくなってしまう。この引き分けで、もうほとんど日本は万事休すと思った。FIFAワールドランク一桁で、超格上のコロンビアに対し、勝ちにいくことが必須になったからだ。もう守るサッカーはできない。コロンビア戦は25日の朝5時から。起きて応援した。最初のうちは日本はボールを支配し、果敢に攻撃を仕掛け、チャンスも結構作っていた。ところが先制され、一度は同点に追いついたものの、カウンターを食らって1-4。惨敗だった。選手が言う「自分たちのサッカー」とは何なのか?結局最後までわからなかった。第3戦は戦い方しだいでは、僅差で”負ける”ことはできたと思う。例えば0-1で。でも日本の自分たちのサッカーが、攻撃をベースにするものなら、この1-4という結果はある程度、予想はできていた。ちょっと無理だったのだ。

今回のブラジル、ワールドカップの日本はびっくりするほど、8年前のドイツでのワールドカップに似ていた。あの時も初戦のオーストラリア戦で先制しながら、後半崩れて1-3の逆転負け、第2戦は引き分け、そして第3戦はブラジルに叩きのめされて、1-4で惨敗だった。また当時の中心選手は中田で、ものすごく目立っていたが、なんとなくチームの中で浮いている感じがあった。筆者には今回の本田と当時の中田はイメージが重なるし、第1戦から第3戦までの勝ち負けの展開も全く同じではないか。

これから日本はまた「日本らしさ」とは何なのか?を追求しながら進歩していかなければならない。厳しい道である。日本はアジア内部でしか、実績がない。ワールドカップや欧州選手権を勝っているスペインとは全く違う。「日本のスタイル、世界で勝つための合理性追求の戦略」は作りなおせるだろうか?スペインは今回1次リーグで敗退したが、今後、自分たちのサッカーを見失うことはないだろう。「無敵艦隊」はまた着実に復活してくると考えられる。しかし、日本はそうはいかない。これからの4年は大変だ。日本だけでなく、アジア勢はすべて1勝もできずに、1次リーグで敗退。次のワールドカップではアジアの出場枠は1つ減らされるだろう。日本はワールドカップに参加することさえ難しくなるかも知れない。

じっくりと、復活の強化策を作ってほしい。1ファンとして応援したい。

謎のロシア人との会食

2014 APR 18 17:17:43 pm by 中村 順一

プーチン

プーチン

北方領土、択捉島の面積が半分以上

北方領土、択捉島の面積が半分以上

ウクライナ情勢が緊迫している。ロシアは3月のクリミア自治共和国の編入に続き、ウクライナ東部、南部への影響力拡大を狙っている。冷戦終結後、最大の危機といってもいいだろう。この緊迫した情勢の分析の為、筆者は先週、従来より筆者と仲のいい、東京在住のロシア人と会食した。話題は主に、ウクライナ情勢と、北方領土問題だったので、以下に会話の要点をまとめてみる。

 

ロシア人A氏との会話

A氏 「ソチ五輪に安倍さんが来てくれたことは感謝したい。」 筆者「習近平だって行ったじゃないか」 A氏「いやG7からは安倍だけだった。プーチンは喜んでいる。日本とロシアはもっと仲良くなれる。」 筆者「ウクライナ情勢をどう考える」 A氏「そもそもウクライナの存在自体に違和感がある。ウクライナが独立国だった期間は極めて短期間だ。西ウクライナはハプスブルグかポーランド。東と南は当然ロシアだ。」 筆者「フルシチョフが1954年にウクライナにクリミアを献上してしまったじゃないか」 A氏「そうなんだ。フルシチョフはロシア人だが、どういうわけかウクライナが好きだった。あれはソ連邦内部の話だけどな。しかし、オバマ(アメリカ)もあの地域をわかりもしないくせに手を突っ込まないでくれと言いたい。ドイツのメルケルは分かっているぜ。安倍はメルケルとは仲良くないのか。ドイツと連携しろよ。」

筆者「確かに第一次大戦の終結時にアメリカのウィルソンがやってきて、民族自決主義とかいう迷惑な概念を持ち出したので、そのあと中欧、東欧は苦労したな。本来はロシアとドイツでゆっくり議論して、納得できる国境を決めるべきだったかも知れないね。」 A氏「その通りだ。その後ヒトラーが出てきて、ズデーテンランドをその論理でドイツに併合した。挙句の果ては第二次大戦さ。日本だってえらい目にあったじゃないか」 筆者「ところで北方領土を返してくれよ」 A氏「うーむ。1956年に日ソで合意した2島は返すが、それ以上は難しいぜ。」 筆者「1956年の合意は、平和条約締結後に2島返却といっているだけで、国後、択捉は継続協議になったんだ。決めつけないでくれ。」 A氏「気持ちはわかるが、国境を変えるのは難しいのだ。ロシアも国後、択捉が日本になると、潜水艦が太平洋に自由に出ていけなくなるんで困るのよ。ドイツだってケーニヒスベルグを正式に放棄したぜ。」 筆者「国境をウクライナで変えようとしているのはロシアではないか。」 A氏「いや、ウクライナは正式な国家としては認めがたいとも言えるんだ。次元が違う話だよ」

 

ロシア人B氏との会話

B氏 「中村さん、プーチンを信頼してはいけません。あれはひどい奴です。今でも人をどんどん殺しています。プーチンではロシア国民は決して幸せになれません。」  筆者「でもプーチンは強いからいいじゃないか。強大なるロシア、ソビエト連邦の復活だろ。T34戦車で再度国境突破しろよ。強けりゃ何でもありだろ(冗談)。」 B氏「冗談ではありません。私は今のロシアが大嫌いなので、最近ロシアに帰っていません。中村さんのほうが、出張で私よりロシアに行っているくらいです。」 筆者「ウクライナ情勢はどう考える。」 B氏「日本は当然アメリカとEUに同調すべきです。議論の余地なしです。軍隊を送り込んで勝手にほかの国を操縦するなんて、今のロシアはひどい。ありえないじゃないですか。」 筆者「でもせっかくプーチンと安倍が仲良くなって、北方領土問題が少し進展しかけているんだ。」 B氏「プーチンでは北方領土は解決しません。北方領土が少し進展したのはエリツインの時でしょ。当時はロシアは今より民主主義でした。民主主義的な政府でなければ、北方領土問題は解決できません。」 筆者「僕としては4島の面積等分で解決したらどうか、と思っているんだ。最近ロシアは中国やノルウェーと領土問題を面積等分で解決したろ。即ち、択捉島の南部に日露国境ができるのよ。」 B氏「日本はそれでいいんですか。外務省はいつも4島一括に拘るじゃないですか。あれじゃあ解決できるものも解決できませんよ。日本は本気で北方領土問題を解決しようと思っているんでしょうか。ロシアは実効支配しているんですから、今のままで全く困らないんですよ。面積等分はすぐにOKとは言いませんが、ぎりぎり交渉の余地はあるような気はします。」 筆者「何とかその線で行こうぜ。」 B氏「でも本当に今のロシアは危険です。チェチェンとかモスクワの地下鉄のテロだって、プーチンが裏で操っている可能性がありますよ。」 筆者「本当かよ。いずれにしても何とか北方領土を解決して仲良くなろうぜ。そうしないと大量の中国人がシベリアに殺到して、シベリアなんか100年後には簡単に中国領になっちゃうぜ。」

 

ロシア人にもいろいろな奴がいる。東京にもロシア人は住んでいる。彼らとの会話は面白い。

 

 

 

 

 

卒業 そして  『卒業式の思い出』 

2014 MAR 18 17:17:26 pm by 中村 順一

筆者の卒業した麻布学園

筆者の卒業した麻布学園

人生において、卒業式は4回は経験している筈なのだが、筆者の場合は2回である。大学と高校では残念ながら卒業式は無かった。高校は東京の私立の麻布なのだが、筆者が高2の時に学園紛争があり、40日以上学校自体がロックアウトされた余韻がまだ残っていた。卒業式どころではなく、職員室へ行って、卒業証書を先生から手渡された記憶がある。麻布はいい奴が多く、いい思い出が多い。先生とも仲がいいのだが、学校では何もやってくれなかったという記憶のみである。あんな自由放任のみで、生徒が良く大学へ入れるなあ、と思っていたが、今でもその校風はあまり変わっていないらしい。びっくりしたので、今でも覚えているのは、卒業証書と一緒に皆勤賞ももらったことだ。麻布は基本的には授業はサボり放題であり、1時間目が終わると、渋谷に映画を見に行き、昼過ぎに帰ってきて、5時間目と6時間目に出て、ラグビーの練習をやって帰宅、といった生活を繰り返していたので、皆勤賞にはアゼンとしたのだ。要は出席をまったく取っていないので、かなりの数の生徒に皆勤賞を渡したということだ。麻布での一番の記憶は、ともかく競馬に熱中していたことである。競馬の研究ばっかりやっていた。当時の競馬は今の競馬みたいに「家族そろって中央競馬」ではなく、地下鉄の駅の駅員や、工事現場のオジサンの専門科目だった。どうして、あそこまでのめり込んだのだろう、不思議な感じもする。ああ、これは卒業式とは関係ないですね。麻布の連中はあまり現役では大学に入れない(入らない?)、特にうちの学年は紛争ばかりやっていたので、現役受験はごく一部を除いて、ほぼ全滅。皆で、天下の名門、駿台予備校になだれこんだので、駿台が高校4年生みたいで、まったく高校の「卒業」が、人生の大きな出来事、という感じがない。

本郷で大学生活をおくっていて、さて卒業、ということになったのだが、今度も卒業式は催行されず。当時の東大はまだ東大紛争の名残があり、筆者の学年は入学式も卒業式も無かったのだ。最近の東大生は入学式で親も一緒に盛り上がるらしいが、隔世の感がある。安田講堂がまったく使えなかった時代であり、まあしょうがないか。本郷の時代は特に授業に毎日出た訳ではなく、卒業式が仮にあっても、あまり盛り上がらなかったと思う。

従って、良く覚えている卒業式の記憶は小学校のみである。何回も何回も予行演習をやったのが記憶にある。小学校6年生の時は、児童会の委員長だったので、結構プレッシャーがかかっていた覚えがある。「仰げば尊し」はなんといい歌なんだろう、とガキの分際で感激していた。結構気分も高揚していたのだ。筆者の小学校は千代田区立の番町小学校で、当時はほとんどが越境して通学する生徒ばかり、麹町中学、日比谷高校、に続く進学コースの入り口だった。東京に悪名高い「高校学校群」が導入される前で、旧制府立1中の日比谷高校が、東大リーグテーブルでぶっちぎり1位だった時代である。親も教育に熱心な人が多く、卒業式は一大儀式だった。先生も熱心だった。この卒業式だけは、自分が次のステップに進むのだ、と意識させられた僕にとっての大事件だった。

社会人になって、英国に駐在したが、英国は学校の過程終了が、Aレベル、とか、Oレベル、といった公的な試験で認定されるので、日本の様に、各学校で修了を祝う卒業式のような式典は無い。あったのは大学の学位授与の式典である。でも、日本の卒業式は1872年の明治初めの学制の施行に伴って始まり、明治10年代ごろに、現在のような形の儀式として定着した歴史を持つ。戦前からのいい歴史なのだ。あったほうがいい。若者にとって、人生の一つの区切りとなる、日本的ないい慣行だと思う。

 

 

 

ハムレットを満喫した土曜日(下北沢、本多劇場)

2014 MAR 11 13:13:43 pm by 中村 順一

本多劇場

本多劇場

先週の土曜日に下北沢の本多劇場にハムレットを見にいったのです。既に東、西室両氏が書いておりますが、すごく良かったです。

まずは井の頭線で下北沢下車。下北沢は駒場のキャンパスから近く、もっと来ていてもよさそうなものだが、ほとんど知らない町である。当時通っていた自動車免許教習所が小田急の駅からも行けたので、井の頭線からの乗り換えで使っていただけで、降りたことが極めて少ない駅なのである。そうか、駒場時代は渋谷でしか遊ばなかったんだ、当時、渋谷我が街、とか自分で言っていたのを思い出しました。僕は東横線沿線に住んでいるのだが、そもそも東京の街は自分の私鉄沿線から、違う私鉄沿線に行く機会が極めて少なくなる傾向になる構造になっている。皆、ひたすら山手線内の職場や繁華街を目指してしまうのだ。2週間ほど前、西室と小田急の祖師谷大蔵で飲んだのだが、これも東京生まれ育ちの僕が、生涯で降りたことのない駅だった。

さあほとんど20年ぶりに下北沢駅に降りてみると、一目でこれはなかなか面白そうな街だな、とすぐ分かる。スペースが少なくゴタゴタしてはいるが、雰囲気がある。駅から本多劇場へ行く道でやっていた青空市を思わずのぞいてしまった。聞けば劇場がたくさんある街だとのこと、これはどうも通の街だな、僕のようなトウシロで大丈夫だろうか、などと考えながら本多劇場に到着。東、西室、阿曾さんと合流。

本日の劇はハムレット、早速パンフレットを200円で購入、僕は映画に言っても必ずパンフレットを買うことにしている。後で思い出すのが楽しいからだ。あれ、でもストーリーが書いてないよ、と隣の東が言い出す。待てよ、考えてみれば、僕もシェークスピアの4大悲劇の一つで、舞台がデンマークのコペンハーゲン郊外のクロンボー城であることくらいしかわからない。シェークスピアの生まれ故郷のストラットフォード・アポン・エイボンには何回も行ったが、シェークスピアの劇の台本は読んだことがない。筋がわからないと困るな、と東がぶつぶつ、僕も同調。それを見て西室がバカにしだした。あれ、こいつは知っている感じだ、そういえば、僕よりは昔から文学青年だったか。パンフレットで早野さんの役がお妃のガートルードであることだけは認識。見かねた阿曾さんが、東と僕にハムレットのストーリーを解説してくれた。これが大いに助かった、劇を楽しく見ることができた。後で阿曾さんに、「先生、ありがとう」とお礼のメールを発信。

劇は良かった。セリフが多く、良くあれだけ暗記できるな、というのが第一印象。早野さんは、素晴らしい、さすがです。悪女の役を最高に演じていました。劇は演出がロシア人で、謎のロシア人も出演していた。ロシア語で、言っていることは意味不明なのだが、「東京大好き」とか「大丈夫」とか、笑いを誘う日本語も取りいれていた。最後にはほとんど全員が死んでしまい、「そしてだれもいなくなった」状態になるのだが、最後まで劇に引き込まれ、あっと言う間の3時間でした。ハムレット役が、かっこ良かった、キムタクみたいでした。でも待てよ、劇では、英国がデンマークに年貢を納めている設定になっているが、変だなー、確かクロンボー城は16世紀の建設の筈、当時デンマークがそんなに強かったわけはないのだが、とか考えたりした。

劇が終わると、下北沢の家庭的なレストランで、少し早い夕食を4人でスタート。少し遅れて早野さんも合流。レストランにはハムレットの劇に出ていた女性もいて、自分の息子と話していた。ああ、ここは劇関連の通が御用達の店なのだ、と思った。食事も美味しいし、下北沢の雰囲気を満喫できました。食事後、軽く2次会へ。帰りは、家が近い東とタクシーで一緒に帰ることに。そういえば東は前の晩、銀座で午前4時まで飲んでいた、とのことで、どう見ても寝不足。タクシーの中では爆睡でした。

天気も良く、お陰様で充実の土曜日でした。「熱演の早野さん」と「先生の阿曾さん」に多謝であります。

映画「ネブラスカ、ふたつの心をつなぐ旅」

2014 MAR 3 11:11:08 am by 中村 順一

父役のブルース・ダーンと次男役のウィル・フォーテ

父役のブルース・ダーンと次男役のウィル・フォーテ

「ネブラスカ」、すばらしい映画でした。正に現代のアメリカの家族と、保守的な中西部のアメリカの田舎が持っている現実、を切実に見事に描いている。

この映画を見に行こう、と決めたのは、アメリカ中西部の田舎を見たいと思ったからだった。ロードムービーを期待したのである。前職の国際金融という仕事の関係でアメリカには何十回も行った。特にニューヨークは中期的な滞在も含めて数えきれないぐらい出張した。残念ながらニューヨーク以外だと、出張では、やはりシカゴ、ロスアンゼルス、サンフランシスコあたりになってしまう。せいぜいアトランタ、ヒューストン、デンバーぐらいだ。アメリカの田舎を知らない。イエローストーン国立公園は、家族と一緒に夏休みのホリデーで、ゆっくり見たけれど。もっと見てみたい、行ってみたい、とずっと思っていた。

当選した懸賞金の100万$を受け取りに行く、と言う年老いた父を止められず、次男の息子はインチキと知りながら、モンタナ州の自宅から、ワイオミング州、サウスダコタ州を経由して1500キロも離れたネブラスカ州まで、車で送っていくことになる。ロードムービーとしても見ごたえがあった。中西部の田舎の風景を十分に楽しめた。でもこの映画の魅力は、やはり老父と次男の息子との心の触れ合いを温かく描写したところである。母は強く、既に夫にあきれている。長男は地方局のキャスターをしていて、父を厄介者扱いしている。

途中、父は酔って転倒し怪我をする。どうしようもないので、次男は父を目的地に行く前に、伯父の家に連れて行くことになる。そこはネブラスカ州の田舎町で、父と母の生まれ故郷だ。そこに父の怪我を聞いた母と長男も集合、伯父の一家や昔の仲間も出てきて、父や母の過去と対面していくことになる。父と次男はこの旅を通して、過去と向き合い、語り合う。なかなか話す機会もなかった2人だが、この旅で大いに心を通じ合わせるのだ。そして最後には次男は父の願いを実現させる。泣かせるラストシーンなのだ。

中西部は保守的な場所だ。次男の愛車は10年以上乗っているスバルだが、伯父の息子たちは不景気な田舎町で失業中でいらいらしており、「お前、そんなジャップの車に乗ってるのか」とも詰ってくる。でも次男はこのスバルを愛しているのだ。

監督はネブラスカ州生まれのアレクサンダー・ペイン。心温まる作品を見事に作り上げた。さすがヒューマン・ドラマの名手である。この作品は今年のアカデミー賞候補になっている。モノクロで描くアメリカ中西部の田舎町、老いた父のボケぶり、次男の父を見つめる目に満ちている愛情、見ごたえがあった。筆者の父は10年以上前に他界しているが、「ああ、僕もあの次男みたいにもっと親父と話せれば良かった。どうして話せなかったのだろう」とか、「待てよ、今の筆者の息子とも、今後この親子のように話す機会は作っていけるだろうか」、とか、いろいろとしんみりと考えさせられた映画でした。現在上映中です。お勧めできます。

靖国問題

2014 JAN 14 16:16:41 pm by 中村 順一

東氏の「安倍首相の靖国神社参拝について」の投稿を読ませてもらいました。確かに近隣2か国にギャーギャー言われる必要はない。ただ筆者が1978年の突然のA級戦犯合祀以降、複雑な気持ちで靖国神社を見つめてきた経緯を書いてみたい。

靖国神社の前身である「東京招魂社」は明治天皇の命により1869年に創建された。西南戦争を経て、日本国を守護するために亡くなった戦没者を慰霊追悼するための施設・シンボルとして、存続してきた。大東亜戦争後、時間が経過した現時点で、国に殉じた先人に、国民が感謝の念を捧げ、平和を誓うのは当然、という意見の一方、政教分離の議論、あの戦争は侵略だったか自衛だったか、という歴史認識、日本軍が進駐し犠牲者も出したアジアの国々への配慮から、政治家の参拝を問題視する見解もある。なかなか日本国民の中で、意見の一致を探るのが難しくなってきている。特に東京裁判でA級戦犯とされ刑死した7人が、靖国神社の祭神として合祀されてから問題が大きくなった。

筆者はこの問題は、究極的には、純粋に日本国内の問題である、と考えている。即ち「A級戦犯は戦勝国による犠牲者、とする意見」と、300万人を超える日本人の犠牲者を出し、無条件降伏という惨めな敗戦により、日本の国際的地位を無残にも落とした責任の所在から、「責任のあるA級戦犯と、国の為に戦い犠牲となった一般の軍人とを一緒に祀り、顕彰することを問題視する意見」の対立である。筆者は後者の意見の立場である。やはり国の為に戦い、無念にも帰ってこれなかった「永遠の0」の主人公のゼロ戦操縦士宮部や、戦死した筆者の2人の叔父達と、いろいろな事情があったとは言え、あの途方もない戦争を判断した男たちが同じ場所にいるのは、どうしても違和感がある。事実として日本は”自分から始めた戦争に惨敗”した。説明責任の”少なくとも一部”はあのA級戦犯にあるのだ。

靖国神社には別に遺骨があるわけではない。単に戦死した記録が残っているだけだ。筆者は以前に、二人の叔父の合祀の事実を確かめたくて、靖国神社に問い合わせたことがある。すると靖国神社社務所より、丁重な回答が手紙で来た。「御照会の御祭神につき回答申し上げます。確かにお二人は当神社の御祭神です。死亡日、死亡時所属部隊、階級、合祀年月日は以下のとおりです。」対応は極めて丁寧だった。靖国は現代及び未来の日本人が、日本の為に戦ってくれた先人を尊ぶために、もっと行くべき場所なのだ。

やはり問題は1978年の当時の靖国神社宮司、松平永芳による突然のA級戦犯合祀であろう。しかもその事実は1979年4月にA新聞が報道するまでは、国民の知るところとはならなかった。

昭和天皇がこの合祀に不快感を持っていた、という説がある。2006年になって、1988年当時の宮内庁長官だった富田朝彦が昭和天皇の発言をメモしていた手帳に、昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感を持っていたことを示すメモが残っていた、と日経新聞が報道したのである。確かに昭和天皇は1975年11月を最後に靖国に参拝しなかったし、今上天皇も参拝していない。日本国の象徴である天皇が何らかの理由で戦没者が祭られている場所に行かない、行けない、というのは何かがおかしいだろう。将来的には個人的には「A級戦犯の分祀」を期待したい。天皇にも参拝してもらいたいのだ。

しかし、近隣の2国からうるさく言われるのにも耐えられない。実はこの反日運動を煽ったのは日本のA新聞である。1978年の合祀から7年間弱、この2国は特段抗議はしてこなかった。抗議が始まったのは、A新聞が靖国問題を特集し、同時期に当時の社会党の田辺書記長が訪中し、中曽根首相が公式参拝を実行した1985年8月以降なのである。合祀が発表された1979年以降、鈴木善幸首相が何回も参拝したが、抗議はなかったのだ。最近、韓国の某金融機関の東京代表と話をしたが、彼の話で、韓国の財務省系の高官の話として「A新聞にも困ったものだ。まるで韓国と日本の国民が仲良くするのを阻害しているようだ。そこまで喧嘩を煽りたいか。韓国のマスコミも悪いが。」といった意見を紹介してくれた。A新聞が煽り、両国のマスコミが過剰反応する、という悪循環である。日本と近隣2か国は今後も仲良くしていく必要があるのは言うまでもない。A新聞のみではない。日本の左派マスコミは、日本サイドから両国の「反日」を作ってしまう傾向がある。これは良くない。戦争はもう69年も前に終わっているのだ。

安倍首相は今後も靖国参拝を続けるのだろうか。正月の民放テレビのインタビューで中曽根元首相が「安倍君も一回はどうしても行くという決意だったのだろう。一回行けば一応満足で、今後は行かないのではないか。」と発言していた。最近は近隣2か国だけでなく、欧米諸国からも批判的なコメントが出ているのが気になる。日本は世界の中で柔軟に確固としたプレゼンスを確保していく必要がある。日本の味方、友人を増やしていかなければならない。

筆者としては、近隣2か国にギャーギャー言われるからではなく、日本の歴史を勉強してきた日本人として、親族が靖国の祭神である子孫として、日本の首相には、在任中は、A級戦犯が合祀してある靖国に行ってほしくない。

 

 

 

 

中国はどこへ行くのか、「戦後の中国は全体主義だったか」

2014 JAN 6 18:18:02 pm by 中村 順一

毛沢東

毛沢東

劉少奇

劉少奇

20世紀は人類史上稀にみる戦争と殺戮の世紀であった。その20世紀を代表する国家指導者、怪物は何と言っても、ヒトラー、スターリン、(毛沢東)であろう。何と言っても殺した人間の数が桁違いであり(毛沢東に関してはまだ分析が不足)、日本の戦争期の指導者など、この3人に比較したら、人間を殺す戦略性に関しては幼稚園以下の評価になる。

ヒトラーのナチズムとスターリンのスターリニズムはまとめて「全体主義」と呼ばれている。

これはアメリカが戦後に言い出したことで、その正確な分析は、先般筆者が投稿し、評価した映画の主人公であるハンナ・アーレント著作の「全体主義の起源」にまとめられている。アメリカの自由と民主主義に敵対するものとして、ナチズムとスターリズムがある。アメリカは正義なのだから(イラク湾岸戦争の作戦名も「正義」だった)、第二次大戦に参加するのは正しく、冷戦でソ連に対抗するのも正しい。そうすると、第二次大戦と冷戦で対立した当時のドイツの体制とソ連の体制は似ていなければならない。ハンナ・アーレントは見事にこの二つの類似性を指摘する。似ている理由の一つは独裁政治の中での、党と政府の二重機構である。

ナチズムにはナチ党があり、国家を独裁一党支配している。同時にドイツ政府もある。二重権力であるが、政府は空洞化する。党は私的機関で完全にヒトラー個人の指揮権下にあり、党が政府を支配する体制になってしまう。ナチ党にはドイツ国防軍とは別に親衛隊という武力装置がある。親衛隊が反対者を逮捕したり、ユダヤ人を虐殺したりする。ドイツ国防軍の将軍の一部はヒトラーの無謀な戦略を正そうともしたが、うまくいかない。

スターリニズムも共産党と政府の二重構造である。党が政府を指導する。そして親衛隊はないけれども、秘密警察がある。秘密警察は簡単に容疑者を逮捕し、裁判抜きで処刑してしまう。粛清である。1930年代には秘密警察内部での粛清も当たり前で、党や政府はあってもないのと同然で、秘密警察は強力で党中央、すなわちスターリンに絶対に歯向かわないようになっていた。

じゃあ中国はどうか。確かに似ている。ドイツやソ連の様に公然とアメリカに敵対したわけではないので、「打倒すべき邪悪な全体主義」とは定義されていないが。似ている点は党と政府の二重構造である。ちょっと異なる点は文化大革命の時には、党が優位に立てず、党が人民大衆によって攻撃され、党が革命委員会というものに置き換えられたりしたことである。この人民大衆は毛沢東に直結していた。ナチズムの親衛隊やスターリンの秘密警察の役割を、毛沢東の体制では一般の人民が担ったのである。

この三つの体制を比較してみたい。ナチズムの排除の対象はユダヤ人と共産主義であり、一般のドイツ人では無かった。すなわち、あのナチ体制でも自分が普通のドイツ人であれば排除される心配は無かったのである。排除の対象が人種的に限定されていたのがナチズムの特徴である。スターリニズムは誰もがよくわからない理由で「お前はスパイだ」と嫌疑をかけられ、拷問の末、自白させられ粛清されてしまう。党の中の人間でも安全ではなく、ナチズムにある限定性がない、だから怖い。

毛沢東の体制はもっと凄い。スターリン体制は党の内部の人を粛清したが、攻撃したのも党の内部の幹部である。しかし、毛沢東は人民大衆とか、まだ物事がよくわかっていない若者集団の紅衛兵に党の要人を襲撃させたのである。大衆とか紅衛兵の方が党の幹部よりも毛沢東に近い、という発想である。こうなるともう誰でもいつ攻撃の対象になるかわからない。スターリニズムと同様の、限定性がわからない恐怖である。

文化大革命は1966年に始まり、1976年迄続いたとされる。しかし、あれはいったい何だったのか、謎である。どうしてあれだけ大規模な破壊を実行したのか。当時毛沢東は大躍進政策の失敗で影響力を喪失しつつあった。その毛沢東が劉少奇一派を打倒するために、大衆を動員して党中央の権力闘争に勝利することが目的だった、とされるが、それだけであれだけの破壊を実行する必要がどうしてあったのか。

「全体主義の起源」は文化大革命以前に書かれており、中国の文革の分析は無い。また、中国の現指導者も毛沢東を尊重しており、文革の歴史的分析は、まだまだ先の話になろう。ソ連の指導者もスターリンを批判したが、中国では今でも毛沢東批判は一種のタブーなのだ。

しかし、毛沢東の体制が、ハンナ・アーレントの定義による「全体主義」の体制に近かったのは確かだろう。

 

 

 

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