Sonar Members Club No41

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アメリカ大統領選を見て

2021 JAN 24 13:13:21 pm by 江崎 淳一

 大好きな世界観に溢れていたアメリカ、レーガン大統領の時代にアメリカの高校にいました。英語もましてや政治など全く分からない1年目、ホストファミリーのテレビで彼がテレビ演説をしているとき、何か誇りを感じとれた事を思い出しながら昨年の大統領選挙を見ていました。
 と言ってもテレビも新聞でもなく(元々日本のテレビは25年程見ていません)全ての情報をYouTube、ネットだけで追いかけていました。フェークニュースに注意しつつ日本語、アメリカのマイナーニュース放送局、そして最後は読めない聞けない中国語のチャンネル迄(異常に情報が速いです)見ていました。
 さて、日本もトップが変わってしまいましたが、沢山の普通の日本人がここまでアメリカ大統領選挙に自体に注目したのは、初めてでは無いでしょうか。トランプの応援と言う意味ですが。それが何を意味しているのか。
 アメリカ人の行動を見るにつけ、彼らは自分自身で行動を起こしていましたね、トランプ支持者も府支持者もインターネットを使い自分の意思を明確に決断していました。

 スマートフォンと通信網がこれだけ発達していても我が国、何に使うか使わないか。そしてそれを元に行動に動けますか。来年の今日、真面目に生きている国民が、どの様な環境におかれているのでしょう。例えば、昨年の今日、日本メディアでは新型コロナはどのように報道されていましたか?覚えていますか?

良い一年が始まりますように、など言えない、何かとても悲しい年の始まりになりました。
とてもじゃないですが、まとまりません、まとまりつきません、気持ちが。

おひさしぶりです

2021 JAN 11 21:21:39 pm by 江崎 淳一

 皆様、あけましておめでとうございます。
 あいかわらずリハビリにはげんでおります。しかしここ最近(何年も)、寝て起きると額に血管が出まくり、写真で時自撮りをする度おもいっきり爺イの顔だなと。
 先日は高さ1.3mくらいの所であぐらをかいていてそのまま額から落ちました。軽い脳震盪を起こし頸椎捻挫したかとビビりました。
 私は現在運転禁止です。新幹線でSMCの神山先生を訪ね首を入れてもらいました。そして例の欠陥が浮き出た自撮り写真を見てもらったところ「全身の血管が硬化していて心筋梗塞か寝たきりになってもおかしくない」と診断されました。
 そして先生はやさしく「大丈夫直せるよ。でも2年は漢方飲みなさい」。
 薬を飲み始め、ぐっすり眠れ夜空の星が数倍見えてきました。

 閑話休題、この寒波と雪で車1000台が立ち往生しましたが、僕は倉庫に1人閉じ込められています。電気あり、トイレ無し、水道無し。
 前日、隣町に50センチ降っていたと地元の同世代の友達と笑いながら話し、一山越えたここには降らないでしょうと意見が一致しました。コンクリートむき出しの倉庫には、仮眠出来る様にしてある軽の箱車(ベットありデロンギのオイルヒーター完備)で寝てしまいました。
 朝起きると外が、、、。倉庫から公道に出る距離30メーター以上、その内20メーターの公道手前はかなりきつい登り坂。慌てて外に止めある小型4×4トラックに乗り込み雪をかき分け、公道までの道を付けました。それからほんの数時間、又仮眠してしまい、これが致命的に。
 外に出ると。先程の三倍程の積雪で自分の膝以上。車ではもう公道に出れません、車が出なけりゃこのまま雪が落ち着く迄ここにいようと腹を決め、スマホの天気予想を見ました。
 前述の近所友達に食料だけ買いに連れていっくれ、と応援要請。最寄りのコンビニには調理器具は有りません。飲み水は倉庫に確保していたので、1リッターのコーヒー2本、更にオレンジジュースを2リッター、おにぎり10個以上、そして雪山での最強な食糧、チーズ、生ハム、ベーコンもパックで売っていましたので買い占めしました。さらにデザート兼主食としての菓子パンから普通のパンも買いました。4日は楽に過ごせるはずの、人生最高額のコンビニ爆買い、福沢諭吉1枚。
 戻ると友達は笑っていました。彼は雪山など入らない地元っ子(笑)。
 帰りに下ろして貰う時には積雪は更に増え、どうにか倉庫に入ったのが夕方3時過ぎ。
 3日目の晴れに賭ける勝負の始まりです。

 タバコは十分にあります。一服つけました。

石・鉱物の不思議

2020 FEB 27 12:12:41 pm by 江崎 淳一

本日雨になる予報が出ていたので、石を探しに行きました。

 2年前の夏から汗がかけなくなくなった自分の体、日光の下にいると体がオーバーヒートしていました。

 炎天下にはいられないある日、2,000m級の山奥の渓流に行き、巨石の上で座って涼んだり巨石の中を杖を持ちながら渡り歩き、時には足を滑らせながら神経を張りつめながら独自のリハビリを(普段は普通の道を歩く事は全くしていません)始めました。

 数ヶ月後、真夏日が過ぎた頃には夕方最寄りの川原に涼みに行くようになります。

 川原の石の上を歩いていると、変わった模様や形の石が有るので適当に拾ってみると、それはとても美しく、初めて見る色彩、形、と楽しい発見の連続で、はまりました。

 それから2年弱、今年は34年ぶりの小雪(もしかするとそれ以上かもしれません)。例年まだ1メーター以上雪に埋もれているはずの川原に雪が無いので、アプローチし放題です。

 1月初旬から日本に来るぞと警戒してたのですが、今は毎日、毎分、Covit-19のニュースが更新されています。

 不謹慎ながらそのニュースも考えずに、自然の中で1人黙々と、お金で計る価値など全くないですが、数千年数億年の時間軸通して地球が生み出した美を探しに。

 これは別に書こうと思いますが、川原にかなりの石器が実は有ります。それを見つけています。土から出たままの状態ではないので角がどうしても削れてしまうのですが、アメリカの石を拾い続けているYOUTUBERが、その見分けかたを教えてくれました。

 現在地球上に余りにも人間が増え過ぎ、人々は世界を股にかけて移動し、利潤を追い求めた結果、もしかするとVirusによってとてつもない代償を払う事になってしまったのかな、などと思えてきます。

 石器を作れる様になった頃の人類は、きっと皆で捕った獲物を大切に公平に分け与え、自分たちの集団全員を大切にしていたのではないでしょうか。女性は果実や木の実などを収穫しながら子供を育ていたのではないでしょうか。

 その頃は現在に比べれば遥かに(日本の現在に比べ)厳しい環境で生きていたはずですが、遥かに美しい自然を見る事が出来き、当時もあった石と、鉱物の色彩を見ていたと思います。

 火炎土器が出まくる支流にて。

17年前のワンオーナー様のドイツ車

2019 DEC 12 12:12:51 pm by 江崎 淳一

 

 今年夏、尊敬するメカニックの社長の整備工場でズーと整備されていた車を、あって無いような値段で譲り受けました。
 2002年式VWのGOLF GTI マニュアルシフト(ATはなく)で10万キロを少し回っていました。

 社長との会話です。
「GOLFが駄目になったは5代目でしたっけ」
「うん、そう。でも、お客さんのは4代目だよ」

 駄目になったとは失礼な表現と思いますが、日本車は1990年後半迄。世界を見渡しますと、これは個人的な主観ですが2004年位でしょうか。その国々の味わいと主張が消え去ってしまったのは。一言でいえばヘッドライトがガラスかプラスチックか、それが目安になるかなと思います。

 さて、この車のオーナー様は新車の時から17年乗り続けていた訳ですね。しかも、エンジンマウント、ショックアブソーバ迄交換しながら、車高を落とさず、普通に普通に生活のパートナーとして乗っておられた、GTIでマニュアルを。

 とても魅力的な車です。

 愛情を込めいたからこそ新しい車に乗り換えなさらず、素晴らしいメカニックの元で整備され、1台の車に乗り続けていたと思います。

 ですがそんな時代ではなくなりました。

 2019年、初雪の日です。深夜、雪道の峠に向かいました。

お久しぶりです 何から書いて良いのか

2018 DEC 14 11:11:18 am by 江崎 淳一

 正に題名の通りです。
 最後にブログを書かせて頂いた時に、既に自分はかなりの後遺症に悩まされていました。
 原因の、MTBIになったのは以前に書いた通り2011年2月13日午後6時頃の交通事故でした。

 MTBI 今の時代この単語を入力すれば簡単に概要は出てきます。日本語では、軽度外傷性脳損傷と一応それらしき名前は付いています。ですが一般にはこの病名を言った所で『何なのそれは』です。
 要するに『重度な外傷性脳損傷の形跡を受けてはいないものの、複合的症状が出る脳震盪』が正しい表現ではないかと。そして人により早期回復出来る事も有れば、一生治癒出来ない患者もいるのです。また、アメリカと日本ではMTBIの基準がほんの少し違うのです。

 私の場合は日本の基準ですと、事故の直後に意識が無いとそこで先ず該当しません。
 北海道で事故にあったのですが、スノーモービルの拠点がある新潟経由、途中3日間盛岡のビジネスホテルに泊まり、背中にブロック注射を整形病院で打ってもらい自宅に帰り着いたのは事故後10日目でした。  
 盛岡の病院は入院も出来るかなり大きな整形専門の個人病院で、入院したければしてもいいののよと看護婦さんに勧められましたが、入院などしたことも無かった為にお断りしてしまいました。
 実は、事故後3日目に北海道から青森県八戸のフェリーに乗りました。北海道に置いてあったスノーモービルを積んでいる小型トラックで乗船。小型のフェリーで客室の上層に行くにエレベーターは無い船です。そこで階段を登ろうとすると、あれ階段ってどうやって登るんだろと考えて数秒、階段の前で足が上がりませんでした。これがダメージを受けていたせいだとは思いもしていませんでした。
 また、盛岡から新潟迄車を運転しながら頭をよぎり続けていたのは、スノーモービルに乗れないじゃないかいう不安です。新潟に着くなり自分の車両を引きずり出し田んぼの上から、関越道めがけその斜面を数回全開で登り、その場で頭を上げながら360度ターンを数回。一応出来たのですが、左ターンしか力が入らないで右ターンが出来ない!取り敢えずモービルに乗れると確認出来たので、トラックで撤収した直後に体の痛みと、息切れでぶっ倒れる有り様でした。

 今、思えば一番安静にしていなければいけない時に正に正反対の事をしていたのですが、モービルに乗れないイコール自分の仕事が出来なくなる、モービルは当時の自分の生命線だったのです。
 それから今日まで、そしてこれからも、後遺症から完全に解放はされていないながらも、この様にブログを掛ける迄の数年に渡る経験は、書き残して置きたいと思います。ゆっくりと、何を何からから書けばよいなかと考えながら。
 皆様又、宜しくお願い致します。

20年前から昨年秋そして昨日までの友達の命と神山先生( 後編)

2014 APR 27 0:00:57 am by 江崎 淳一

  彼の抱えていたトラブルは、夫婦喧嘩が発端で奥さんが警察にDVの被害の通報。警察が自宅にきてDVに当たらずと帰った翌日、奥さんの近所に住んでいる義理の父から体調が悪いので病院に連れって言ってくれとの電話。免許停止処分中の彼、奥さんは自宅におらず彼が無免許覚悟うえで、義理のお父さん宅へ車に乗り駐車場から出た瞬間に、前後パトカーに挟まれそのまま拘留(無免許運転の通報で警察待ち構えてました、ハメられた)。20日間の勾留後家に帰ると、家はめぼしい物を持ち出されもぬけの殻に。何故か警察から出てくる時に、自宅に行くときは警察に事前に連絡することと言われていて自宅に住むことも出来ない状態になっているとのことだった(アメリカで旦那の知らぬ間に子供を連れ去ると逆に、奥さんは誘拐犯になるのになーとその時は思った)。 その状態で知り合いの家に身を寄せ1カ月以上。

  息子が何処に居るか未だに分からないと。

  何よりも息子がどこにいるのか知りたいと。

  ほかのことはともかく、息子さんの居場所だけ絶対に探すと思い、再び九州に。 彼が集めていた情報、親族関係(奥さんの家族は全て地元にいる)、奥さんの交友関係を聞いて、次の日地元の知り合いの方が(元タクシー運転手さん)車の運転をしてくれるために来る朝、ほんの少し考えました。 彼が住んでいた人口44万人の市それと隣合わせの人口14万の市、そのどちらかかに絶対にいる。 ただどちらの市なのか? 車に乗り込み「どこにいくのー?」の問いに、自分の勘が囁いてくる「14万の方だ」と。「その町の中学校回ってください。」とお願い出発。 その日は日曜日、閑散としている1校目の中学校を車の中か見て次の学校へ。それの繰り返しで4校目。何故か「この学校にいるな」と思うと同時に車から一人黙って降り、部活を終へ着替えをしていた生徒に「2学期に一年生でXXXX君って転校生徒きた?」と聞くと、名前身長体格共にドンピシャの転校生がいるとの事。その後何校か、通り過ぎましたが何も感じないので、その日は終わり。 翌朝月曜日、昨日の中学校門前のコンビニへ。一人目の生徒登校から30分後に彼の子供さんが。一週間あれば見つけれるかなと思っていたのに、実働時間にして6時間。

  一か月後、奥さんのフェースブックを地元知り合いが見つけ、佐世保に移り住んだと言われた彼(そんなわけないじゃん。普通の人は2か月チョイで2回も、引っ越しできるわけない)。自分の勘がささやいてくる。翌日また九州に飛びました。6枚位ある、彼女のFBの写真。その中で外で取られているのは4枚。息子さんがいた中学校へ。スマホの地図を開き水路が一枚映っていた場所のを見つけるまでに15分。学校はちょとした丘の上。後は、等高線と水路とそれに河川を見ると学校を中心に12時から2時の間に絞られる。あとの3か所探し終えるのに、一時間少々、やっぱりなと。

  この間一番の懸念は彼の体がかなり悪いなと感じていた事、彼と共に歩くと息が上がり50メーター歩くのがやっと。息子さんの件で興奮して動き回っている彼を見ているのが本当に辛かった。60過ぎたばかりの彼。ありえないほどの血圧の数値。飲みすぎの人生。あれほどタフだった40代の彼。これは神山先生に。でも連れていけるでしょうか。しかし、願って待ってると来るいいきっかけが。彼は自分がそんなになりながら知り合いの老夫婦を見てもらいたと言い出す、それが11月。それじゃついでに彼も見てもらえる。先生の見立ては内臓全てが腫れ上がってるとのこと、でも「大丈夫直せます」の先生の一言。その夜ホテルの部屋で医者からは18ヵ月前にあと2年の寿命と言われていたと聞いた。

  その後漢方薬は飲み続けていた彼。しかし1月になり体調が辛いらしく地元の市民病院に行くと検査検査の毎日に。血圧220、血糖値3倍、C型肝炎、心臓血液逆流、それに伴い肺にも影響が出てると。夜になると背中が痛くて起きるとの電話。

  あまりにも問題があるので、医者も検査をたらい廻しにし、どう手を打つか考えているようで、でも心臓の弁を人工にするのが先決だと3月末をめどに手術の予定が立てられた。今回は、無理やり呼びました。3月の第2月曜日から、中2日開けて3回の鍼、神山先生が打ってくれました。来月また同じく3回鍼しましょう。そして、もう病院に行けば手術しないから検査してきなさいとの事。見事お医者さんが信じられない数値が出て手術は延期、また検査だと。何をしたと聞いてきたお医者さんに、鍼と漢方と言っても信じなかったらしい。

  そして今回、14日から1週間また3回の鍼。「もう、心臓はいきなり止まらないよ。次は肝臓を治すから。」と先生。「また、来月ねと」もう一回来れば後は漢方で治るかなと思うと。それが、昨日(4/21)でした。(ちなみに現在血圧130切ってます)
  
  今年初乗り1月3日モービルに一日乗って以来、体調が最悪になった自分。その時、神山先生からやんわりと、「お付き合いでモービル乗るのを止めれば」とのアドバイスを頂き乗るのを止めた。例年通り乗っていたらはたして彼を神山先生に連れていけてたか。勿論モービルに乗らないなんて夢も思っていなかったわけで。乗り始めれば週末はこっちにいなかった。結果モービルの唯一の弟子、年上の男友達、しょうがない小僧といつもフォローしてくれた彼の命が延びたのか。

  20年間の借りちょと返せたかな、健さん。

  それにしても、神山先生の技術(神山先生は自分は技術者と自分を表現する)は凄い。乗り物の機械を直し改造しパワーを上げるの簡単で、ちょっとした勉強と地味に時間を掛けて上げて行く機械いじりの腕と、それを判断できる感性と、プラス体力。しかし先生は命を直す。全ての患者さんは、体質など全てワンオフな訳で。エンジン焼きついてるはずなのに、部品も変えず。何のダメージを与えず、再生させる。「君はアメリカにモービルをいじるのを教わりに行く。私は海外に教えに行く。」神山先生から頂いた、未だに頭に焼付いるお言葉です。そう、先生は THE MASTER KAMIYAMA なのですね。生きてる間に1人会えるか会えないか。出会えました。ありがとうございます先生、友達助けて頂きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

20年前から昨年秋そして昨日までの友達の命と神山先生 (前編)

2014 APR 23 0:00:37 am by 江崎 淳一

去年夏の終わり、1、2年間隔位でたまにくる彼からの電話が鳴る。

彼と最後に会ったのは約10年前。九州に移り住み、新しい奥さんと連れ子の長男、自分の3歳位の子供とを連れて、モービルに乗せるために新潟に旅行に来たのが最後の顔合わせ。

その後、彼から掛かってくる来る、3分の電話。 お互い、まだ電話が繋がってる確認のような会話で終わる電話。 それだけで蘇るあの年の思い出。彼への感謝の気持ちとともにいつも心の片隅にある感情。

20年位前のあの年、自分は24歳か25歳。 モービルに乗り始めて3シーズン目位で、夏にアルバイトで冬のモービルに焚くガソリン代の微々たるお金作っていた。当然新潟から実家の市川に帰るなんて出来ないわけで、20年落ちのランドクルザー40での寝泊り。 冬場になると関越の高速の下に、夏は農家の人が田んぼの行き来に使う雪に埋もれたトンネルで、毎日ランクルで雪を押しつぶし自分用トンネルを作り、そのトンネルの中にモービルも停め、晴れると朝から一人で黙々と田んぼを乗り越え魚野川河川敷をひたすら走っていた。当時越後湯沢あたりは、一晩で1メーターの積雪が当たり前、外に車を停めるなんかとんでもない。モービルを3日も外に置くと、雪から掘り出すのに軽く1時間の発掘土方作業だった。当時のモービルも2月以降でないと山に入れないような性能だった。

 

生意気盛りで、モービルを始めるきっかけになったレンタル・スノーモービル・ランドから飛び出し、誰にも拘束されないソロライダーに。当時からモービルは一人きりで乗るものではなく、今でも日本で出会ったモービル乗りでソロの本格的経験者は4人しかいない。

週末に人が居る山に独りで乗り入れた時、そこでスノー・モービル・ランドのメンバーになりたての彼と出会った。彼はその年に今までの仕事を辞めた人生の転換期で、学生時代全日本に出ていたスキーを15年ぶり再開するため、越後湯沢に滑りに来てモービルに出合ったばかりだった。

それから数週間、確か2月中旬頃から毎日彼と二人で乗り始める事に。自分と一緒に乗り始めた彼は、それはそれは悲惨な目に。雪に埋まる、木にぶつかる、体をぶつける、しかし汗だくになりながらもめげなかった彼。一週間経ち、ははーこのおじさん半端じゃないな、よし、一緒に乗るか、今は下手だけど上手くなるな。そんな思いを起こさせた男だった。

乗りましたよ、75日以上。雨が降ろうが、霧で10メーター先が見えなかろうが。一日も休まず5月まで。彼は1年目で、人が週末に10年乗っても達するかどうかのレベルになった。あの当時の自分は理論的に乗り方を説明出来なかったから、自身の本能に任せて乗るのを、彼は後ろから私のてラインについて来て、それだけでした。

朝起きると、毎日モービルにガソリンを積んでくれ、朝飯食べさせてもらい、飲み屋の2階の宴会場に毎日一緒に泊まっていた。本当にさりげなく面倒みてもらった。迂闊にも(本当に何で気が付かなかったのだろう)何年も経ってからその当時の事に気が付き、その借りを返さねばと心の片隅に。

そして、20年後の去年の夏の電話が。

いつもは、毎年一回のみの電話が、週一で来るようになり3日に1回、毎日になった時「何かトラブルあるでしょ」と聞くと、「実は、、、、」。20分後にチケットを取り、翌日初めての九州に。

こちらも、昨シーズンは交通事故以来悪かった調子が神山先生の針で回復したため、5月末まで毎週モービル乗っていたのがアダになり、6月には右半身麻痺。少しよくなりかけてきていた体に不安を抱えながら、スイッチを入れた。

降り立った九州の、湿度の低さに体は絶好調に、とりあえず夕飯を食べて眠った。

 

続きます。

 

 

 

 

 

平等院にて。

2014 APR 8 23:23:03 pm by 江崎 淳一

土曜始発の新幹線にのり8時過ぎに京都駅に。東さん三田さんそしてはじめてお会いする梶浦さんに改札口でお待ちいただき無事に合流、そのままローカル線で宇治駅へ。アー宇治茶ってここなのねーとお寺に向かう参道を、ゴロゴロ鞄を引きながら入場券売り場に到着。一向に入場券を買われずただボーっとして立ってること10分、出てこられた宮城様。普通にジャケット姿でいただいた名刺で、平等院住職様。ここに来る前ちょっと視線に入った平等院は10円玉の裏側?じゃないと小学生レベルの歴史のなさゆえ、目茶苦茶びっくり。その後、東さんとその話をしていると横にいた宮城さんが「一万円札の裏の鳳凰もここのですよ」と何気なく呟かれ、なお落ち込む自分の常識のなさ。(今、wiki見てましたら世界遺産でした)はーーー。

さて、平等院です。まずは本堂のなかに30分ごとに30人位の入れ入れ替えで拝観させて貰いました。気になったことが二つ。横にいらっしゃる宮城さんは、毎日一人でこのすばらしい仏像を眺めてるのではないか?ほんとになんともいえない後背の傾き方。まさに微妙その角度は不安定なほど前に倒れこんでいて、仏像様のお顔を見上げると、後背に目線が引き込まれそのまま天を見つめてしまう作りこみ。一人でここに一時間居れたらどんなに素晴らしかなと。と考えつつ天井を仏様目線で表玄関に持っていくとそこには、格子が組まれているのですが目線が外を見れる辺りだけ、格子がないのに気が付き宮城さんにその場でお伺いすると、外から仏様の顔が見えるようになっており朝日出ると仏様の顔が輝くように出来ていると、そして夕方には後光が差すように窓もあるとのこと。1000年前、本堂には入れたのほんの一部の人のみだけだったんだろうなと。ほとんどの人は、池越しに仏様を拝見していたなと外に出てみて感じました。そしてそのポジションから見る平等院の美しさ。外に出て行く途中に宮城さんに毎日一人で本堂に居られるのですか?ときいてみたところ「子供の時は、朝一人で床の雑巾がけしていたと」「しかも冬は目茶苦茶寒かった」と微笑んで教えてくれました。

 

スポーツを科学の目で見る (上村愛子さんに捧げる ソチオリンピック決勝戦観戦記) 

2014 FEB 22 9:09:24 am by 江崎 淳一

もう10年も前、自分は毎晩同じホールで愛子さんと当事の鰺ヶ沢プリンスで、晩飯食べていました。と言っても、勿論広いホールのなか違うテーブルでですが。毎年オリンピック開催の期間にはオリンピックの無い年でも模擬練習のため、アジア地区の選手を日本に集めオリンピックと同じ規格で大会をするのです。

自分はその大会でVIPの方の会場へスノーモービルで移動させるドライバーをしていました。スキー場のあらゆる会場に限られたアスリートを乗せ、しかも一番盛り上がる試合に行き、必然的に一番いい場所で競技を見ていました。

本番前の2日位は練習日で、初めてモーグルを間近でみました。
当事愛子さんのライバルだった選手は軽く1,2本滑って次の日は練習会場にも出てきていませんでした(この時点では彼女の方が愛子さんよりランキングが上だったはずです)。しかし愛子さんは練習時間中全ての時間を使い滑り込んでいて、その滑りの凄さは真剣にそのものだったのがはっきり分かりました。それでいて、夕食の時間には常に微笑みを絶やさず、他の選手にはない慄然とした雰囲気を漂わせていたものです。

決勝戦彼女は見事金メダルです。ワールドカップやオリンピッククラスに比べれば何てことないレースだと思いますが、愛子さんはひたむきに全力で戦っていました。

今回のソチ、準々決勝からの全試合、全ての選手滑りを繰り返して見ました。コースを正面から見ているとほぼ全ての選手は、コースの中央とほんのすこし左側のラインを使って滑っています。準々決勝の3人のうち二人は、もろにコースに弾かれ敗退。唯一愛子さんのみ3本全て右側のコース、それもポールに限りなく近いライン(ポールに当たれば失格だと思います)、際どく誰もチャレンジしないラインを唯一人滑り、滑るごとにタイムを削り、6人中最速タイムを出しまたのです。決勝レースの他の5人はほぼ中央からちょい左側のラインで滑ったのです。これは実は大変な勝負に出たことになります。

出場者最高齢、毎年変わっていく採点システム。しかし愛子選手はポイント上げる今の滑りではなく、不利にすらなるオールドスクール滑りで、誰も滑らないコースを取り、見事愛子流滑りで最速決勝記録。そこにはポイント狙いで減速していたメダリストとは全く違う滑りだったのです。

自分の信念による自分のスタイルを最後まで貫く。4年前4位で、本当はメダル獲りにきていたけれど惜しくも叶わなかったのですが、彼女には一切後悔はないと思います。自分の集大成の100%満足出来た滑りができた、とのコメントは本物です。あの幸せそうな表情と涙は、真のアスリートの物です。

上海で中国の旧正月を体験(でも旧正月の事、書いてないです)

2014 FEB 20 5:05:34 am by 江崎 淳一

shannhai今頃になってしまいましたが、1月30日から3泊4日東さん共に神山先生のお誘いで上海に行けました。

30日が中国の大晦日、厚さ300メーターはあったスモッグの層の上から上海空港に。 大気汚染でここまで空気が汚れるわけないって頭なの中で信じられなく、その日お世話になった中国に20年駐在なさってる日本人の方にお聞きしたら、実際その日上海の高速の一部はスモッグで通行止めだったそうで、更にひどくなると飛行機も着陸できなくなる日があり、自分たちの飛行機も結構な可能性で着陸できなかったんだーなと。 これだけの大気汚染出る程の工場?発電所?自動車?の爆発的生産力がダイレクトに入国する前から感じられました。 上海で何もかも作っているわけではないとは思いますが、現在世界中の生産工場になっている国といなんだって事は、上海の空気を見るだけで感じました。 もちろん工場や発電所などの規制がまだ緩く空気の汚し方がひどいにしろ、生産量の物凄さそれに伴う国のパワーを、逆に空気の汚れかたで直感的に感じました。

 

1980年代後半、中学卒業後16歳でアメリカにいた当時日本製品が売れに売れどこに行っても日本の家電製品をアメリカ人は買い、免許取りたてのロスの高校生たちの間では、スポーツコンパクトカテゴリーが生まれ日本車に乗りそれをいじって乗るほうが、国産のアメ車乗るよりカッコーいいなんて感じで、もちろん自分も誇りもってHONDAなんかにで沢山のスピード違反チケットを、LAPDから頂いていました。確かにあまりにも日本製品が売れ日本車を、燃やされることまで起こっていました。

 

初年度一年だけウイスコンシン州にいたときは、小学校から高校まで同じ建物で生徒数200人位、それも99パーセント白人のみの町にいました。その街で自分は一人だけの東洋人。一度高校のシャワールームでお互い裸の状態で、一人の子が第二次世界大戦でどうのこうのって絡んできたことはありました。でもこっちも負けず言いかえしそれで終わり。それ以外まったく会話にならない自分に、出会った人達みんな親切でした。いまでもあの時英語が話せたらもっと楽しかったと悔やまれるます。

 

2年目からはLAにいました。そこは全人種好き勝手に自由に各々の世界感でぶつかり人種間での殺し合い当たり前。(当時10代の子供たちはギャング全盛第一世代真っ盛りで高校の入り口で生徒全員金属探知機あてられてました)ほんとに些細なことでいつ何時、殺されるかもの毎日でした。しかしその時毎日遊んでた友達は人種の入り混じってました。人種差別なんて一切なし、英語下手だろうが日本人だろうがまったく関係なくみんな同等に接してくてたしホントに毎日毎日皆で今日はどんな過激な遊びできるかなーだけ考るのみの、それはそれは楽しかったです。

9.11以降アメリカも80年代とは比べ物にならない世界になりましたが、俺アメリカ大好きです。

 

で何でこんなこと書いたかというのは、今回上海で神山先生が話してくれた事の中に、アメリカ 日本に中国人がここ10年位の間に留学して帰ってきていると。アメリカに行って帰ってきた学生はアメリカを好きになって帰ってきてるが、それに比べ日本に来ていた留学生は全員でないにしても日本を好きになって帰ってないとのこと。多分大陸生まれの中国人にしてみると、日本の常識は非常に辛いことの連続だと思います。(とても細かい事に気を遣い自分を押し殺して周りに気を使う、でもそれが日本特有の感覚なのですが) 日本から帰国すると、ほんの些細のことで反日デモなどの、先導者なってしまいやすくなるそうです。 これはホントにやばいなって感じました。この事実は中国と日本の間にこれから長い間影響するはずです。

 

今回も含め神山先生と中国人のお友達との食事に連れて行ってもらい最低2時間は皆で話し合っているのを、まったく解らない中国語なのですが集中して会話を聞いていると15分に一回位は皆一斉に笑うんです。まったく意味は解らないのですが、必ず自分も笑うんです。その笑いが愛想笑いでなく皆心から笑ってるのが伝わり、意味なんか解んなくても自分も微笑み楽しいんです。こんな経験初めてです。でも、そこにいる人はいい人だなーて解るんですよね、心を開いて本心で話してる友達たち。神山先生の友達になる人だからなのかもしれませんが、でもそれが自分が体験させていただいた上海の大切な時間です。

だから俺、上海の人大好きです。

 

国と国の政治的問題はまったく別次元ですが、個人が訪れその国を好きになる嫌いになる、それはほんとに些細なことがきっかけになるのではと思います。どうせなら、お互い皆が訪れた国を、大好きになる世界になれればいいのにな。

 

 

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