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お久しぶりです 何から書いて良いのか

2018 DEC 14 11:11:18 am by 江崎 淳一

 正に題名の通りです。
 最後にブログを書かせて頂いた時に、既に自分はかなりの後遺症に悩まされていました。
 原因の、MTBIになったのは以前に書いた通り2011年2月13日午後6時頃の交通事故でした。

 MTBI 今の時代この単語を入力すれば簡単に概要は出てきます。日本語では、軽度外傷性脳損傷と一応それらしき名前は付いています。ですが一般にはこの病名を言った所で『何なのそれは』です。
 要するに『重度な外傷性脳損傷の形跡を受けてはいないものの、複合的症状が出る脳震盪』が正しい表現ではないかと。そして人により早期回復出来る事も有れば、一生治癒出来ない患者もいるのです。また、アメリカと日本ではMTBIの基準がほんの少し違うのです。

 私の場合は日本の基準ですと、事故の直後に意識が無いとそこで先ず該当しません。
 北海道で事故にあったのですが、スノーモービルの拠点がある新潟経由、途中3日間盛岡のビジネスホテルに泊まり、背中にブロック注射を整形病院で打ってもらい自宅に帰り着いたのは事故後10日目でした。  
 盛岡の病院は入院も出来るかなり大きな整形専門の個人病院で、入院したければしてもいいののよと看護婦さんに勧められましたが、入院などしたことも無かった為にお断りしてしまいました。
 実は、事故後3日目に北海道から青森県八戸のフェリーに乗りました。北海道に置いてあったスノーモービルを積んでいる小型トラックで乗船。小型のフェリーで客室の上層に行くにエレベーターは無い船です。そこで階段を登ろうとすると、あれ階段ってどうやって登るんだろと考えて数秒、階段の前で足が上がりませんでした。これがダメージを受けていたせいだとは思いもしていませんでした。
 また、盛岡から新潟迄車を運転しながら頭をよぎり続けていたのは、スノーモービルに乗れないじゃないかいう不安です。新潟に着くなり自分の車両を引きずり出し田んぼの上から、関越道めがけその斜面を数回全開で登り、その場で頭を上げながら360度ターンを数回。一応出来たのですが、左ターンしか力が入らないで右ターンが出来ない!取り敢えずモービルに乗れると確認出来たので、トラックで撤収した直後に体の痛みと、息切れでぶっ倒れる有り様でした。

 今、思えば一番安静にしていなければいけない時に正に正反対の事をしていたのですが、モービルに乗れないイコール自分の仕事が出来なくなる、モービルは当時の自分の生命線だったのです。
 それから今日まで、そしてこれからも、後遺症から完全に解放はされていないながらも、この様にブログを掛ける迄の数年に渡る経験は、書き残して置きたいと思います。ゆっくりと、何を何からから書けばよいなかと考えながら。
 皆様又、宜しくお願い致します。

20年前から昨年秋そして昨日までの友達の命と神山先生( 後編)

2014 APR 27 0:00:57 am by 江崎 淳一

  彼の抱えていたトラブルは、夫婦喧嘩が発端で奥さんが警察にDVの被害の通報。警察が自宅にきてDVに当たらずと帰った翌日、奥さんの近所に住んでいる義理の父から体調が悪いので病院に連れって言ってくれとの電話。免許停止処分中の彼、奥さんは自宅におらず彼が無免許覚悟うえで、義理のお父さん宅へ車に乗り駐車場から出た瞬間に、前後パトカーに挟まれそのまま拘留(無免許運転の通報で警察待ち構えてました、ハメられた)。20日間の勾留後家に帰ると、家はめぼしい物を持ち出されもぬけの殻に。何故か警察から出てくる時に、自宅に行くときは警察に事前に連絡することと言われていて自宅に住むことも出来ない状態になっているとのことだった(アメリカで旦那の知らぬ間に子供を連れ去ると逆に、奥さんは誘拐犯になるのになーとその時は思った)。 その状態で知り合いの家に身を寄せ1カ月以上。

  息子が何処に居るか未だに分からないと。

  何よりも息子がどこにいるのか知りたいと。

  ほかのことはともかく、息子さんの居場所だけ絶対に探すと思い、再び九州に。 彼が集めていた情報、親族関係(奥さんの家族は全て地元にいる)、奥さんの交友関係を聞いて、次の日地元の知り合いの方が(元タクシー運転手さん)車の運転をしてくれるために来る朝、ほんの少し考えました。 彼が住んでいた人口44万人の市それと隣合わせの人口14万の市、そのどちらかかに絶対にいる。 ただどちらの市なのか? 車に乗り込み「どこにいくのー?」の問いに、自分の勘が囁いてくる「14万の方だ」と。「その町の中学校回ってください。」とお願い出発。 その日は日曜日、閑散としている1校目の中学校を車の中か見て次の学校へ。それの繰り返しで4校目。何故か「この学校にいるな」と思うと同時に車から一人黙って降り、部活を終へ着替えをしていた生徒に「2学期に一年生でXXXX君って転校生徒きた?」と聞くと、名前身長体格共にドンピシャの転校生がいるとの事。その後何校か、通り過ぎましたが何も感じないので、その日は終わり。 翌朝月曜日、昨日の中学校門前のコンビニへ。一人目の生徒登校から30分後に彼の子供さんが。一週間あれば見つけれるかなと思っていたのに、実働時間にして6時間。

  一か月後、奥さんのフェースブックを地元知り合いが見つけ、佐世保に移り住んだと言われた彼(そんなわけないじゃん。普通の人は2か月チョイで2回も、引っ越しできるわけない)。自分の勘がささやいてくる。翌日また九州に飛びました。6枚位ある、彼女のFBの写真。その中で外で取られているのは4枚。息子さんがいた中学校へ。スマホの地図を開き水路が一枚映っていた場所のを見つけるまでに15分。学校はちょとした丘の上。後は、等高線と水路とそれに河川を見ると学校を中心に12時から2時の間に絞られる。あとの3か所探し終えるのに、一時間少々、やっぱりなと。

  この間一番の懸念は彼の体がかなり悪いなと感じていた事、彼と共に歩くと息が上がり50メーター歩くのがやっと。息子さんの件で興奮して動き回っている彼を見ているのが本当に辛かった。60過ぎたばかりの彼。ありえないほどの血圧の数値。飲みすぎの人生。あれほどタフだった40代の彼。これは神山先生に。でも連れていけるでしょうか。しかし、願って待ってると来るいいきっかけが。彼は自分がそんなになりながら知り合いの老夫婦を見てもらいたと言い出す、それが11月。それじゃついでに彼も見てもらえる。先生の見立ては内臓全てが腫れ上がってるとのこと、でも「大丈夫直せます」の先生の一言。その夜ホテルの部屋で医者からは18ヵ月前にあと2年の寿命と言われていたと聞いた。

  その後漢方薬は飲み続けていた彼。しかし1月になり体調が辛いらしく地元の市民病院に行くと検査検査の毎日に。血圧220、血糖値3倍、C型肝炎、心臓血液逆流、それに伴い肺にも影響が出てると。夜になると背中が痛くて起きるとの電話。

  あまりにも問題があるので、医者も検査をたらい廻しにし、どう手を打つか考えているようで、でも心臓の弁を人工にするのが先決だと3月末をめどに手術の予定が立てられた。今回は、無理やり呼びました。3月の第2月曜日から、中2日開けて3回の鍼、神山先生が打ってくれました。来月また同じく3回鍼しましょう。そして、もう病院に行けば手術しないから検査してきなさいとの事。見事お医者さんが信じられない数値が出て手術は延期、また検査だと。何をしたと聞いてきたお医者さんに、鍼と漢方と言っても信じなかったらしい。

  そして今回、14日から1週間また3回の鍼。「もう、心臓はいきなり止まらないよ。次は肝臓を治すから。」と先生。「また、来月ねと」もう一回来れば後は漢方で治るかなと思うと。それが、昨日(4/21)でした。(ちなみに現在血圧130切ってます)
  
  今年初乗り1月3日モービルに一日乗って以来、体調が最悪になった自分。その時、神山先生からやんわりと、「お付き合いでモービル乗るのを止めれば」とのアドバイスを頂き乗るのを止めた。例年通り乗っていたらはたして彼を神山先生に連れていけてたか。勿論モービルに乗らないなんて夢も思っていなかったわけで。乗り始めれば週末はこっちにいなかった。結果モービルの唯一の弟子、年上の男友達、しょうがない小僧といつもフォローしてくれた彼の命が延びたのか。

  20年間の借りちょと返せたかな、健さん。

  それにしても、神山先生の技術(神山先生は自分は技術者と自分を表現する)は凄い。乗り物の機械を直し改造しパワーを上げるの簡単で、ちょっとした勉強と地味に時間を掛けて上げて行く機械いじりの腕と、それを判断できる感性と、プラス体力。しかし先生は命を直す。全ての患者さんは、体質など全てワンオフな訳で。エンジン焼きついてるはずなのに、部品も変えず。何のダメージを与えず、再生させる。「君はアメリカにモービルをいじるのを教わりに行く。私は海外に教えに行く。」神山先生から頂いた、未だに頭に焼付いるお言葉です。そう、先生は THE MASTER KAMIYAMA なのですね。生きてる間に1人会えるか会えないか。出会えました。ありがとうございます先生、友達助けて頂きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

20年前から昨年秋そして昨日までの友達の命と神山先生 (前編)

2014 APR 23 0:00:37 am by 江崎 淳一

去年夏の終わり、1、2年間隔位でたまにくる彼からの電話が鳴る。

彼と最後に会ったのは約10年前。九州に移り住み、新しい奥さんと連れ子の長男、自分の3歳位の子供とを連れて、モービルに乗せるために新潟に旅行に来たのが最後の顔合わせ。

その後、彼から掛かってくる来る、3分の電話。 お互い、まだ電話が繋がってる確認のような会話で終わる電話。 それだけで蘇るあの年の思い出。彼への感謝の気持ちとともにいつも心の片隅にある感情。

20年位前のあの年、自分は24歳か25歳。 モービルに乗り始めて3シーズン目位で、夏にアルバイトで冬のモービルに焚くガソリン代の微々たるお金作っていた。当然新潟から実家の市川に帰るなんて出来ないわけで、20年落ちのランドクルザー40での寝泊り。 冬場になると関越の高速の下に、夏は農家の人が田んぼの行き来に使う雪に埋もれたトンネルで、毎日ランクルで雪を押しつぶし自分用トンネルを作り、そのトンネルの中にモービルも停め、晴れると朝から一人で黙々と田んぼを乗り越え魚野川河川敷をひたすら走っていた。当時越後湯沢あたりは、一晩で1メーターの積雪が当たり前、外に車を停めるなんかとんでもない。モービルを3日も外に置くと、雪から掘り出すのに軽く1時間の発掘土方作業だった。当時のモービルも2月以降でないと山に入れないような性能だった。

 

生意気盛りで、モービルを始めるきっかけになったレンタル・スノーモービル・ランドから飛び出し、誰にも拘束されないソロライダーに。当時からモービルは一人きりで乗るものではなく、今でも日本で出会ったモービル乗りでソロの本格的経験者は4人しかいない。

週末に人が居る山に独りで乗り入れた時、そこでスノー・モービル・ランドのメンバーになりたての彼と出会った。彼はその年に今までの仕事を辞めた人生の転換期で、学生時代全日本に出ていたスキーを15年ぶり再開するため、越後湯沢に滑りに来てモービルに出合ったばかりだった。

それから数週間、確か2月中旬頃から毎日彼と二人で乗り始める事に。自分と一緒に乗り始めた彼は、それはそれは悲惨な目に。雪に埋まる、木にぶつかる、体をぶつける、しかし汗だくになりながらもめげなかった彼。一週間経ち、ははーこのおじさん半端じゃないな、よし、一緒に乗るか、今は下手だけど上手くなるな。そんな思いを起こさせた男だった。

乗りましたよ、75日以上。雨が降ろうが、霧で10メーター先が見えなかろうが。一日も休まず5月まで。彼は1年目で、人が週末に10年乗っても達するかどうかのレベルになった。あの当時の自分は理論的に乗り方を説明出来なかったから、自身の本能に任せて乗るのを、彼は後ろから私のてラインについて来て、それだけでした。

朝起きると、毎日モービルにガソリンを積んでくれ、朝飯食べさせてもらい、飲み屋の2階の宴会場に毎日一緒に泊まっていた。本当にさりげなく面倒みてもらった。迂闊にも(本当に何で気が付かなかったのだろう)何年も経ってからその当時の事に気が付き、その借りを返さねばと心の片隅に。

そして、20年後の去年の夏の電話が。

いつもは、毎年一回のみの電話が、週一で来るようになり3日に1回、毎日になった時「何かトラブルあるでしょ」と聞くと、「実は、、、、」。20分後にチケットを取り、翌日初めての九州に。

こちらも、昨シーズンは交通事故以来悪かった調子が神山先生の針で回復したため、5月末まで毎週モービル乗っていたのがアダになり、6月には右半身麻痺。少しよくなりかけてきていた体に不安を抱えながら、スイッチを入れた。

降り立った九州の、湿度の低さに体は絶好調に、とりあえず夕飯を食べて眠った。

 

続きます。

 

 

 

 

 

平等院にて。

2014 APR 8 23:23:03 pm by 江崎 淳一

土曜始発の新幹線にのり8時過ぎに京都駅に。東さん三田さんそしてはじめてお会いする梶浦さんに改札口でお待ちいただき無事に合流、そのままローカル線で宇治駅へ。アー宇治茶ってここなのねーとお寺に向かう参道を、ゴロゴロ鞄を引きながら入場券売り場に到着。一向に入場券を買われずただボーっとして立ってること10分、出てこられた宮城様。普通にジャケット姿でいただいた名刺で、平等院住職様。ここに来る前ちょっと視線に入った平等院は10円玉の裏側?じゃないと小学生レベルの歴史のなさゆえ、目茶苦茶びっくり。その後、東さんとその話をしていると横にいた宮城さんが「一万円札の裏の鳳凰もここのですよ」と何気なく呟かれ、なお落ち込む自分の常識のなさ。(今、wiki見てましたら世界遺産でした)はーーー。

さて、平等院です。まずは本堂のなかに30分ごとに30人位の入れ入れ替えで拝観させて貰いました。気になったことが二つ。横にいらっしゃる宮城さんは、毎日一人でこのすばらしい仏像を眺めてるのではないか?ほんとになんともいえない後背の傾き方。まさに微妙その角度は不安定なほど前に倒れこんでいて、仏像様のお顔を見上げると、後背に目線が引き込まれそのまま天を見つめてしまう作りこみ。一人でここに一時間居れたらどんなに素晴らしかなと。と考えつつ天井を仏様目線で表玄関に持っていくとそこには、格子が組まれているのですが目線が外を見れる辺りだけ、格子がないのに気が付き宮城さんにその場でお伺いすると、外から仏様の顔が見えるようになっており朝日出ると仏様の顔が輝くように出来ていると、そして夕方には後光が差すように窓もあるとのこと。1000年前、本堂には入れたのほんの一部の人のみだけだったんだろうなと。ほとんどの人は、池越しに仏様を拝見していたなと外に出てみて感じました。そしてそのポジションから見る平等院の美しさ。外に出て行く途中に宮城さんに毎日一人で本堂に居られるのですか?ときいてみたところ「子供の時は、朝一人で床の雑巾がけしていたと」「しかも冬は目茶苦茶寒かった」と微笑んで教えてくれました。

 

スポーツを科学の目で見る (上村愛子さんに捧げる ソチオリンピック決勝戦観戦記) 

2014 FEB 22 9:09:24 am by 江崎 淳一

もう10年も前、自分は毎晩同じホールで愛子さんと当事の鰺ヶ沢プリンスで、晩飯食べていました。と言っても、勿論広いホールのなか違うテーブルでですが。毎年オリンピック開催の期間にはオリンピックの無い年でも模擬練習のため、アジア地区の選手を日本に集めオリンピックと同じ規格で大会をするのです。

自分はその大会でVIPの方の会場へスノーモービルで移動させるドライバーをしていました。スキー場のあらゆる会場に限られたアスリートを乗せ、しかも一番盛り上がる試合に行き、必然的に一番いい場所で競技を見ていました。

本番前の2日位は練習日で、初めてモーグルを間近でみました。
当事愛子さんのライバルだった選手は軽く1,2本滑って次の日は練習会場にも出てきていませんでした(この時点では彼女の方が愛子さんよりランキングが上だったはずです)。しかし愛子さんは練習時間中全ての時間を使い滑り込んでいて、その滑りの凄さは真剣にそのものだったのがはっきり分かりました。それでいて、夕食の時間には常に微笑みを絶やさず、他の選手にはない慄然とした雰囲気を漂わせていたものです。

決勝戦彼女は見事金メダルです。ワールドカップやオリンピッククラスに比べれば何てことないレースだと思いますが、愛子さんはひたむきに全力で戦っていました。

今回のソチ、準々決勝からの全試合、全ての選手滑りを繰り返して見ました。コースを正面から見ているとほぼ全ての選手は、コースの中央とほんのすこし左側のラインを使って滑っています。準々決勝の3人のうち二人は、もろにコースに弾かれ敗退。唯一愛子さんのみ3本全て右側のコース、それもポールに限りなく近いライン(ポールに当たれば失格だと思います)、際どく誰もチャレンジしないラインを唯一人滑り、滑るごとにタイムを削り、6人中最速タイムを出しまたのです。決勝レースの他の5人はほぼ中央からちょい左側のラインで滑ったのです。これは実は大変な勝負に出たことになります。

出場者最高齢、毎年変わっていく採点システム。しかし愛子選手はポイント上げる今の滑りではなく、不利にすらなるオールドスクール滑りで、誰も滑らないコースを取り、見事愛子流滑りで最速決勝記録。そこにはポイント狙いで減速していたメダリストとは全く違う滑りだったのです。

自分の信念による自分のスタイルを最後まで貫く。4年前4位で、本当はメダル獲りにきていたけれど惜しくも叶わなかったのですが、彼女には一切後悔はないと思います。自分の集大成の100%満足出来た滑りができた、とのコメントは本物です。あの幸せそうな表情と涙は、真のアスリートの物です。

上海で中国の旧正月を体験(でも旧正月の事、書いてないです)

2014 FEB 20 5:05:34 am by 江崎 淳一

shannhai今頃になってしまいましたが、1月30日から3泊4日東さん共に神山先生のお誘いで上海に行けました。

30日が中国の大晦日、厚さ300メーターはあったスモッグの層の上から上海空港に。 大気汚染でここまで空気が汚れるわけないって頭なの中で信じられなく、その日お世話になった中国に20年駐在なさってる日本人の方にお聞きしたら、実際その日上海の高速の一部はスモッグで通行止めだったそうで、更にひどくなると飛行機も着陸できなくなる日があり、自分たちの飛行機も結構な可能性で着陸できなかったんだーなと。 これだけの大気汚染出る程の工場?発電所?自動車?の爆発的生産力がダイレクトに入国する前から感じられました。 上海で何もかも作っているわけではないとは思いますが、現在世界中の生産工場になっている国といなんだって事は、上海の空気を見るだけで感じました。 もちろん工場や発電所などの規制がまだ緩く空気の汚し方がひどいにしろ、生産量の物凄さそれに伴う国のパワーを、逆に空気の汚れかたで直感的に感じました。

 

1980年代後半、中学卒業後16歳でアメリカにいた当時日本製品が売れに売れどこに行っても日本の家電製品をアメリカ人は買い、免許取りたてのロスの高校生たちの間では、スポーツコンパクトカテゴリーが生まれ日本車に乗りそれをいじって乗るほうが、国産のアメ車乗るよりカッコーいいなんて感じで、もちろん自分も誇りもってHONDAなんかにで沢山のスピード違反チケットを、LAPDから頂いていました。確かにあまりにも日本製品が売れ日本車を、燃やされることまで起こっていました。

 

初年度一年だけウイスコンシン州にいたときは、小学校から高校まで同じ建物で生徒数200人位、それも99パーセント白人のみの町にいました。その街で自分は一人だけの東洋人。一度高校のシャワールームでお互い裸の状態で、一人の子が第二次世界大戦でどうのこうのって絡んできたことはありました。でもこっちも負けず言いかえしそれで終わり。それ以外まったく会話にならない自分に、出会った人達みんな親切でした。いまでもあの時英語が話せたらもっと楽しかったと悔やまれるます。

 

2年目からはLAにいました。そこは全人種好き勝手に自由に各々の世界感でぶつかり人種間での殺し合い当たり前。(当時10代の子供たちはギャング全盛第一世代真っ盛りで高校の入り口で生徒全員金属探知機あてられてました)ほんとに些細なことでいつ何時、殺されるかもの毎日でした。しかしその時毎日遊んでた友達は人種の入り混じってました。人種差別なんて一切なし、英語下手だろうが日本人だろうがまったく関係なくみんな同等に接してくてたしホントに毎日毎日皆で今日はどんな過激な遊びできるかなーだけ考るのみの、それはそれは楽しかったです。

9.11以降アメリカも80年代とは比べ物にならない世界になりましたが、俺アメリカ大好きです。

 

で何でこんなこと書いたかというのは、今回上海で神山先生が話してくれた事の中に、アメリカ 日本に中国人がここ10年位の間に留学して帰ってきていると。アメリカに行って帰ってきた学生はアメリカを好きになって帰ってきてるが、それに比べ日本に来ていた留学生は全員でないにしても日本を好きになって帰ってないとのこと。多分大陸生まれの中国人にしてみると、日本の常識は非常に辛いことの連続だと思います。(とても細かい事に気を遣い自分を押し殺して周りに気を使う、でもそれが日本特有の感覚なのですが) 日本から帰国すると、ほんの些細のことで反日デモなどの、先導者なってしまいやすくなるそうです。 これはホントにやばいなって感じました。この事実は中国と日本の間にこれから長い間影響するはずです。

 

今回も含め神山先生と中国人のお友達との食事に連れて行ってもらい最低2時間は皆で話し合っているのを、まったく解らない中国語なのですが集中して会話を聞いていると15分に一回位は皆一斉に笑うんです。まったく意味は解らないのですが、必ず自分も笑うんです。その笑いが愛想笑いでなく皆心から笑ってるのが伝わり、意味なんか解んなくても自分も微笑み楽しいんです。こんな経験初めてです。でも、そこにいる人はいい人だなーて解るんですよね、心を開いて本心で話してる友達たち。神山先生の友達になる人だからなのかもしれませんが、でもそれが自分が体験させていただいた上海の大切な時間です。

だから俺、上海の人大好きです。

 

国と国の政治的問題はまったく別次元ですが、個人が訪れその国を好きになる嫌いになる、それはほんとに些細なことがきっかけになるのではと思います。どうせなら、お互い皆が訪れた国を、大好きになる世界になれればいいのにな。

 

 

2月15日からの関東広域の記録的大雪で得た経験

2014 FEB 18 6:06:28 am by 江崎 淳一

上海に出発する前日1月29日まで、自分は北海道にいました。29日千歳空港近くのホテルの駐車場に自分の車を止めたまま、上海に向かいました。

上海帰国後も、その車を取りに帰る暇がなく、天気予報とフェリーの運航スケジュールを見計らい、13日夜に成田ー千歳間を取り14日夕方成田から千歳にはいりました。

帰りの15日昼、フェリーに乗るため予約もなしに(冬の日本海側フェリィーはいつスカスカ状態なので)埠頭の事務所に早めに到着し、乗船申込みをするとなんと「今日は太平洋航路が全滅で、日本海航路に流れて満車です。」との受付のおねーさんに冷たく言い放たれ「キャンセル待ちはできますか?」と聞くと、いかにもめんどくさそうな態度で無事キャンセル待ち1番を出いただき、「19時に戻ってきてくださね。」と温かいお言葉を頂けたのが、14時位でした。

シェボレー(自分の車)は、その日とても機嫌が悪く5時間ふらふらドライブできる様な状態ではなかったので、ダダひたすらフェリー乗り場駐車場の車内の中で待つこと5時間、無事キャンセル待ちを手に入れられ乗船できました。

15日19:30苫小牧16日15;40位が今回乗ったフェリーの行程でした。新潟下船の艦内放送がかかり始めて起こされ、携帯を何気なく見ると朝の6時30分着信履歴とショートメールが(株)アドテックスオーナーの佐藤さんから入っていました。即座にショートメールを開けると、  「群馬県下仁田町で、人が遭難しています。だれか、手を貸してくれませんか」   との簡素な文章の中に込められた内容の重要性に驚き、即座に電話しました、連絡遅くなった後悔とともに。たとえ自分がフェリー中で身動きがとれなかったとしても。

結果遭難した人はその日の午前中にヘリが飛び、無事に救出されたとの佐藤さんのお言葉。しかし2日前から山に取り残されていて前日はヘリがと飛べず何も手がうてなかったので、佐藤さんには「スノーモービルで山に入ってもらうかも。」と15日から、連絡が来ていたそうです。

2年前のお盆明けの夏の盛りに、モービルに乗る際の自分の経験やモービルと自動車の運転メカニズムなど、いつも教えてくれる笠原さんにお願いをして、笠原さんの自宅で初めて紹介してもらった佐藤さん。その日初対面で自分はモービルを使った冬の自然災害のボランティア団体を作りたい、と協力をお願いしたら即座に「それいいよ、やろう。」と即決で賛成していただきました。どうせやるのなら、NPOにすればいいとその場でのアドバイス。今月2月4日の日にも佐藤さんの会社の会議室を使わせてもらいNPO登録の最終打ち合わせを忙しい中、時間を割き夜9時までしていただいてました。

その日から2週間後、佐藤さんの所に遭難救助救の打診がきて、それに一歩も引かずに佐藤さんは行動をなさいました。群馬県のモービル仲間も自分の家の除雪などにてんてこ舞いになっていたり、群馬でも指折りの人命救助が出来る方のエンジンがおしゃかになっていて八方ふさがりの状態(確かに群馬県でも人の住んでいる所で70から100センチ積もれば町中の道が埋まります)、しかし佐藤さんは電話中救助のこと以外自分(プライベート、自分の会社)の状況については語りませんでした。会話は、救助要請が来たこと、へりで無事に助かったこと、今回はモービルで貢献できそうだった寸前までいったこと、それについてちょと悔しそうな感情とに要請が来ただけ前進できたと前向きな考えのみを言われました。

モービルを介し出会い、まだ一度も一緒に乗る機会も出来ていない佐藤さんから心を揺さぶられる意志をいただきました。佐藤さんありがとうございます。

19日ー20日また荒れそうな予報がでてます。今回荒れるのを前提に新潟のモービル置き場で出動準備しています。仲間は平日仕事ですが、自分は一人でスタンバイし出動前提でいます。

(株)アドテックス www.adtex.com  佐藤様

最後にここまでの被害がでた降雪(普段降らずにせ除雪車などの配備がない県)にたいして、その当事者の県また、国の自衛隊要請 対応、の遅さにあきれ果てます。なんのために国民は納税してるのですか? 国民の生命を守生活を守ることは、最重要課題ではないのでしょうか? 3年前の地震のことも、もう忘れてるのですかね?明日19日から、大荒れしないことを切実にねがいます。

 

 

 

 

 

98年のシェビーサバーバンで、2013年のスノーモービルに点検整備に往復15時間。

2014 JAN 29 4:04:33 am by 江崎 淳一

今朝、朝10時半に200キロ先にあるお客様のご自宅へ出発。2時間半の予定が高速、通行止めで4時間で到着。その後整備が終わり21時過ぎに帰ろうと思った瞬間、エンジンをかけたまま、鍵を閉じ込めお客様宅を出れたのが、23時。お客様に迷惑かけてしまい反省しながら、25時にはホテルに帰れるつもりで高速に乗ると、次のインターで通行止めがかかり一般道に下ろされ、それから再び高速に乗れたのが、25時。ホテルに着いたのが26時過ぎでした。

今日整備したスノーモービルは、アメリカの会社が2011年に新車で売り出した現行モデルですが、今日外したネジでインチサイズは一本のみ。後は全てミリのネジで設計されています。かたや、多分25年前の乗っていったシェビーは、ほぼインチで組まれていると思います。

25年前はアメリカのインチソフでデトロイトで設計されたはずです。

2011年設計されたメイドインUSA と売られているスノーモービルはミリのソフトで、私的見解ですが確実にEOURO辺りどこかの国で(ほぼ国もわかってるつもりです)図面が引かれています。2011に初めて整備したときから、そして乗った感覚は明らかにアメリカンではありません。(整備もとても大変になりましたが、走行性能はとても優れています。)

かたや、25年前のシェビーは骨髄までアメリカ車だった最後の時代の車です。今月中頃名義変更し約3000キロ走りました。1600ー1700回転で(55マイル~60マイル)、-10℃は楽に下回っている高速道路はの上で、とても幸せなV8の音に包まれアクセルに接している右足裏からトルクが全身に伝ってきます。(当事アメリカの高速道路は、ほぼ全部の州で55マイル制限がかけられていたはずです)

千歳市ホテルにて。

 

3.01回、死を意識出来た2011年

2014 JAN 25 22:22:11 pm by 江崎 淳一

二月十四日 物理的に

北海道の全日本のレース会場観戦から帰る途中、夕方お互い70キロ同志で歩行者が横断しているのが見えていなかった対向車がいきなり自分のシート30センチ後ろにぶつかり(人生交通事故体験中初めて身構えれなかった)、その後、0.5秒以内で左側のガードレールに突き刺さり停車。これで交通事故後遺症認定者になりました。

(それから一年半激痛の毎日を過ごし、ついに図書館で神山先生の本と出会えました。)

 

 

三月十一日 距離的に

大地震。

(夏になってもボランティアに事故の後遺症で行きたいけど行けなった悔しさが今年3月に立ち上げていただけそうな、NPO団体に実りそうでとても楽しみです。)

 

 

地震後約一週間 遊びで

ドクターストップ掛かってましたが、アメリカジャクソンホールのヒルクライムのレースに向こうの友達のプロライダーの友達のマシーンを借りて出場。中学生あたりで読んでいた広瀬さんの「東京に原発を」の知識が鮮明に頭の隅っこににあり、妹夫婦もちょうどオーストラリアに一週間弱と重なっていたので両親に頼み込み、自分がアメリカにいる間だけ、奈良のウイークリーマンションに仮住してもらいまでして、レーススタート5秒でその日最初の前転一回転の大転倒。会場中からの歓声の中一度立ち上がり脳震盪を起しているので倒れこみ、それでも歓声にこたえるために立ち上がり、両手を上げるとさらに歓声を起してくれるアメリカン。ちなみにこの場所でその後に三人骨折、次の日にはコースから外れてました。(これが、0.01回分)

(今年3月第3週の木曜日そのレースに再度出ようと決心していましたら、アメリカのチューウニング屋さんからメールで 「ジュンイチ ウチノ ボアップシテアル デモシャ オマエ ジャクソンデレース二ツカウカ?」 で、「イエス」と言ったのが確か去年の10月下旬でした。)

 

 

九月上旬  意識して

アメリカでのスノーモービルのシーズンは、第2週末にミネソタのスノーモービルショウとともに始まるので、その週末前からホームタウン化してるアイダホホールで一週間ぐらい仕事?友達に会いに?いろんな会社やお宅にいくのですが、その町で世界一美しい音色(自分はそう聞こえます)を出すサイレンサー(マフラー)を、自分自身で手作りしているスコットに会いに行くと。「ジュンイチ 飛びに行くぞ」と彼のアクロバット飛行機での、7.5Gの世界へのお誘い。 その日自分は彼とのアクロバットは2回目で、彼と息子とデービットと自分四人で、彼ら自身が共同で所有している飛行場に。まず、最初にデービットとスコットとの飛行に出ていき、自分の番に。今回は後遺症が影響しかなり吐き気を感じてたのですが、「まだ大丈夫か」かとのイヤホン越しの会話の中(イヤホンでお互い喋らないとエンジン音で聞こえない)「もちろん大丈夫」とあおり続けければさらに絶叫が出るトリックをバンバン15発ほど経験させていただき、飛行場に平常飛行で帰る途中、「ユアドライブ」とのスコットの無線が入りその瞬間から自分が操縦幹を操作し始め、「左に旋回」とスコットの指令ともに左旋回、こないだの機体より鈍感だなーなんて思ってると「右に旋回」の指令で右旋回開始と共に、あれっエンジンボコついたんじゃんて本能的に感じ、スコットに話しかけようかなと思った瞬間スコットが自ら操縦幹を動かし初め、他の操作部品にも触りまくっている気配が。(自分が前席に座っていてパラシュートも付けた状態で5点式のシートベルトでびた一文動けない状態でいます) 前回飛んだときに、必ず操縦を交代する時「ユアドライブ」って声をかけ交代することと教えられてたので、「やばいじゃないみたい」なギャグを言ったら、スコットは真剣な声で「それはおもしろくない」とお互い5秒の沈黙後、、「ガス欠している緊急着陸する」と「OK」が最後の会話。

(機体をわずかに右に傾け地面を見始めたの感じ、それと共にスコットに命をあずけようって思い半分、あと数十秒は生きているなとの思い半分。アクロバットしてた時あれだけ叫んでいたから、今からは一言も発せず冷静に逝こうと次に考えていた着地までの20秒間。)

なぜに、いまこの文章を打てているのか。

 

 

何故に20年以上も未だに乗るのか?そこにはXXXXがあるから(仮題)

2014 JAN 25 3:03:25 am by 江崎 淳一

 初めてのブログ見ていただいた皆様、本当にありがとうございます。

そして、暖かなコメントありがとうございました。

あれは24歳か25歳の三月後半若しくは四月上旬の平日だった。レンタルスノーモービルのインストラクターを3年程経験を積み、入っていけるその乗り場の地理(その当時の毎週数日乗りに行っていた場所でめちゃくちゃ大雑把ですが2キロ×25キロの面積です)、スタック(雪にスノーモービルを埋めること)から二人で出せるレベルと判断し女と彼女のマシーンと共に2台のみで遊びにいきました。スノーモビルのエンジンを山で直すなど全くできず「一台壊れたら二人乗りで帰ればいいやーって」もろに若さに任せてのみの行動で乗りだしです。

(その頃は東京方面のモービル所有されている方々と、5台から10台で日曜日に全員のペースに合わせ乗っていたことが多く、気を使わないで乗れるのは彼女と二人で乗れる日だけでした。彼女も自分の後を遅れをとりながらも、必ず自分に着いてこれる技量になっていました。)

トラックからモービルを下ろし畑の上から乗りだしで、100メートルほど先からモービル3台分ほどの幅の、左右植林された杉林の林道に入り始めます。その林道は、毎週皆の往復に使われるので、ちょうどスキーのモーグルのコースのようなギャップが出来、当時のマシーンのサスペンションでは、速度を上げて行くと必ず限界の速度がおのずと決まる為に、その人その人のスキルにより出せるスピードで頭打ちをしていきます。しかし、当時の自分は前回出したスピードを上回る為にアクセルを開けれるだけ開る事が唯一の楽しみな非常に低レベル・ライダーで、アドレナリン放出を楽しんでいました。もちろん全開のままでいると、ギャップの斜度にモービルを取られ杉林に突っ込んでいくので、ギャップに入りながらも、アクセルを緩めまた全開を繰り返すのですが、結局平均速度と最高速度いかに上げて行くかです。

しかしその日は全開走行開始後5分位たった時に、今までに体験していない速度領域に入り始めると、スノーモービル最先端のスキーから最後尾のキャタピラの終わりまでが、自分の手のひらと足の裏の接点となり一体化が始まり、スノーモービルと自分が、一つの物体(肉体?)となった次の瞬間から、雪面のギャップも全て自分のコントロール下に入り始め、自分とモービルと雪面(地球)の一体感が訪れました。すべての力みや緊張・警戒・恐怖感は一切消滅し、心穏やかな気分に包まれつつ幸福感に満たされ、アクセル全開状態に。そして出せた最速移動速度と完璧なる幸福感を体感した時。

あーすみません、今晩で書き終われないです。脳みそ軽く焼き付き初めました。

(以下次号に続けさせてください)

 

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