映画『HIROSHIMA』で鈴木貫太郎を観る
2018 FEB 28 12:12:17 pm by 野村 和寿
先の太平洋戦争を終結させるのに貢献した鈴木貫太郎翁のとられた行いについて、ぼくはいつも敬意を払い見つめることにしてきた。
最近、『HIROSHIMA』1,運命の日、2,破滅への道というタイトルのテレビ映画(カナダ・日本・アメリカ合作1995年カナダ側・ロジャー・スポティスウッド監督、日本側・蔵原惟繕監督)があったことを思い出し、鈴木貫太郎の視点を理解する一助として興味深く見つめることが出来た。
1945年7月26日ベルリン時間夜9時30分、対日戦に関する連合国側のいわゆる「ポツダム宣言」が発出された。この映画の中から該当部分を拾ってみると
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映画『HIROSHIMA』より アメリカのニュースフィルム「日本にポツダム宣言を発しました。ヒロヒトは敵対をやめ戦争を停止しなければ、恐ろしい結果になる」
1946年7月28日 鈴木貫太郎内閣が、記者会見で、ポツダム宣言について「黙殺」と言明。
鈴木首相(松村達雄扮する)・内閣記者会との会見で
「ポツダム宣言は、カイロ宣言の焼き直しであり、政府としては、重要視しておりません。黙殺するだけです」
1946年7月28日ドイツ・ハベルスベルク 日本の反応の「黙殺」という言葉の意味を、トルーマンは随行の米國・日本語教授に問いただすというシーン
米國・日本語教授「モクサツです。めったに使われません。文字通りの意味は「沈黙」を殺すです。誰が使うかで違います。かなり年配で高い地位の人物なら、違った意味で使います。たとえて言うなら、あなたの靴を買いたい。私は100マルクを提示、あなたは500で売りたい、しかし安すぎると言って私を侮辱したくないので、そのかわりに黙っている。聞かなかったフリを。それによって条件に不満だと分かるのです」
トルーマン大統領「交渉してもよいという意味か?」
米國・日本語教授「それもあり得ます。しかし、より近い意味は最後通告を無言の軽蔑で受け止めたと見られたいのです。言い換えれば交渉の余地はないということです」
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映画『HIROSHIMA』のなかで、「黙殺」ということばを鈴木首相が使ったことに東郷外相がカンカンになって詰め寄るシーン
鈴木首相「梅津(参謀総長)は正しいよ。誰かが告げなければならなかった。軍人でない君にはわからない。連合軍に発言したんじゃない。誰かが軍に告げなきゃならなかった」
東郷外相(井川比佐志扮する)「あなたは独断で最後通牒を拒否したんです」
鈴木首相「公に言ったんじゃない。わが陸海軍兵士に告げたのだ」
東郷「ラジオでね。連合国は聞きましたよ。夕べあなたの見解が放送されたんです」
鈴木 「連合軍に対して発言したわけじゃない。わが情報部に発言した」
東郷 「ラジオでね」(強くいい放つ)
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テレビ映画『HIROSHIMA』の中では、東京からのラジオ放送で、日本政府の言明のなかに、「黙殺」という言葉を使い、米側の翻訳係が、意味をはかりとかねたために、原文の「モクサツ」と英語訳の両方を提示するというシーンがあり、「モクサツ」は、の米国随行員の日本語学者に問いただすというシーンで使われていた。
そもそも「黙殺」という言葉を鈴木首相自ら使ったかどうかについて少し書いてみる。
ポツダム宣言についての、日本政府の反応について「黙殺」という言葉を鈴木首相が使ったか?それとも使わなかったか?については、現在に至るまでも、各種の推論がなされてきた。鈴木首相の動きの中でももっとも大事なくだりである。
私の蔵書の『鈴木貫太郎自伝』(鈴木一著・昭和43年時事通信社)には、この部分についての既述が、戦後すぐの月刊「労働文化」別冊鈴木貫太郎述「終戦の表情」(労働文化社社長河野来吉 対談8時間の筆録)書かれている。
「この宣言にたいしては、意思表示をしないことに決定し、新聞紙にも帝国政府該宣言を黙殺するという意味を報道したのであるが、国内の世論と、軍部の強硬派はむしろかかる宣言にたいしては、逆に徹底的反発を加え、戦意高揚に資すべきであることを余に迫り、なんらかの公式声明をなさずして事態を推移させることは、いたずらに国民の疑惑を招くものであると極論する者さえ出てくる有様であった、そこで余は心ならずも7月28日の内閣記者団との会見において「この宣言は重視する要なきものと思う」との意味を答弁したのである。この一言は後々に至るまで余の誠に遺憾と思う点であり、この一言を余に無理強いに答弁させたところに当時の軍部の極端なところの抗戦意識が、いかに冷静なる判断を書いていたかが判るのである。ところで余の談話はたちまち外国に報道され、我が方の宣言拒絶を外字紙は大々的に取り扱ったのである。そしてこのことはまた、ソ連をして参戦せしめる絶好の理由をも作ったのであった」(『鈴木貫太郎自伝』より)
自伝のなかで、鈴木(当時元首相)は、「黙殺」とは、自分では言っていないが、新聞記者が、見出しで、「黙殺」と表現してしまったということを示唆している。ポツダム宣言の反応についての、朝日・読売各紙を調べてみると、
1945年7月28日読売新聞は「笑止 トルーマン、チャーチル、蒋連名 ポツダムより放送す」とあり、さらに「戦争完遂に邁進 帝国政府問題とせず」「敵米英並に重慶は不逞にも世界に向かって日本抹殺の対日共同宣言を発表、我に向かって謀略的屈服案を宣明にしたが、帝国政府としてはかかる敵の謀略については問題外として笑殺、断固自存自衛たつ大東亜戦争に挙国邁進、以て敵の意図を粉砕する方針である」
これに対し、1945年7月28日朝日新聞は「米英重慶 日本の降伏の最後条件を声明 三国共同の謀略放送」「帝国政府としては米英重慶三国の共同声明に関しては何ら重大な価値あるものに非ずといてこれを黙殺すると共に、断固戦争完遂に邁進するとの決意を固めている」としている。(『宰相 鈴木貫太郎』小堀桂一郎 1987年文春文庫 高見順日記より引用)
つまり、鈴木首相は「黙殺」と直接言明したことはない という説もある。
*『HIROSHIMA』というテレビ映画について
1995年に主にカナダ・スタッフと日本・オールスターキャストによって製作されたテレビ放送向け映画。カナダのほか、フランスでも放送された。映画は、1945年4月それまで蚊帳の外だったトルーマンが、ルーズベルトの突然の死によって、大統領に選任するところから、始まり、マンハッタン計画の新型爆弾である原爆の開発を知らされ、使用するかどうかで悩む。一方日本の鈴木首相をはじめとする鈴木内閣は、特に阿南陸将、梅津参謀長を向こうに回して、戦争終結反対あくまで本土決戦を主張する、阿南陸将、梅津参謀長とのやりとりを中心に、昭和天皇が、積極的に戦争終結に関与し、スターリンへの特使派遣を企図するというものになっている。
日本側部分は、ありがちだった、いわゆる「へんな日本人」のような外国の描く日本ではなく、日本側スタッフには蔵原惟繕(くらはら これよし)監督 脚本石堂淑朗(としろう)が並々ならぬ精力であたっている。
鈴木首相役に、松村達雄、阿南惟幾陸相役に、高橋幸治、米内光政海相役に神山繁、東郷外相役に、井川比佐志と当時の名優を揃えている。特に、昭和天皇裕仁役に、能役者の梅若猶彦を起用し、それまでの映画作品とは違い、昭和天皇が、直接、戦争遂行に積極的に関与したことを思わせる、近衛元首相(加藤和夫扮する)木戸内府(佐藤慶扮する)とのソ連仲介の労をとることを提案し、ある意味で、戦争終結に直接関与したと思われるシーンが登場する。それまで映画のなかでは、昭和天皇が、御前会議に臨席するシーンなどはあったが、なかなか直接の関与を思わせるシーンは、この映画が初めてだと思われる。
映画『HIROSHIMA』より
近衛:みんな戦争にうんざりしています。国民はこの戦争に疲れ切っています。これ以上戦争をつづけたならばまず大規模な反乱が起こり、それから共産主義者たちが、革命を起こすでしょう。もちろん、私はいつでもモスクワに参ります。今晩にでも参りましょうか?
天皇:今晩ではなくてもいいが、なるべく早急に。できればスターリンがポツダムに発つ前がいいだろう。
近衛:もちろんです。
天皇:国内には多くの狂信者がいるから、近衛の使命が何たるかを知れば飛行機がモスクワに着くのを妨げるかも知れない。
近衛:ひとつだけおたずねします。スターリンに頼みごとをする見返りに何を提供すればいいのですか?
天皇:いろいろ聞いているが、どんな情報を貰っても信用しないことにした。近衛自身が判断すべきだ。だがスターリンはあまり多くを求めないだろう。彼自身戦争に疲れているからな。
近衛:もちろんです陛下。そうに違いありません。
テロップ スターリンはポツダム会談前後近衛侯爵との会見を拒否した。
最近、刊行中の『昭和天皇実録』のなかで、いわゆるポツダム宣言受諾の聖断がなされたのは、1945年8月10日午前0時3分とわかってきた。
鈴木貫太郎のことを書いてくると、鈴木首相の日本の舵取りに関与した時代が難しかったかについて、改めてついつい考えてしまう。
ちなみに、このテレビ映画は、1996年8月5日と6日、2回にわけて、NHK総合テレビで『ヒロシマ〜原爆投下までの4ヶ月』というタイトルで、深夜23時50分から一度だけ放送された。後に、発売元 大映映画、販売元徳間ジャパンコミュニケーションズビデオからVHSビデオで、『HIROSHIMA ジ・エンド・オブ・パールハーバー運命の日、破滅への道』というタイトルで、2本に亘りリリースされたことがある。しかし今はほとんど知られていない作品となってしまった。
このVHSは、もちろん既に廃盤になっている。しかし、最近、私は偶然、北海道の中古ビデオ店でこの作品のVHSテープを見つけ出した。思えば、この作品を最初に観たのは、1995年東京・青山のカナダ大使館の試写室だった。当時、私の私淑していた映像作家の貝山知弘氏が、本作品のキャスティングに関わったことで試写に呼んでいただいたのだった。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPはソナー・メンバーズ・クラブをクリックしてください。
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野村 和寿
3/3/2018 | 9:21 AM Permalink
映画の中に登場する若き内閣書記官長だった「迫水久常氏」に一度だけ合ったことがありました。会うというより、お姿を拝見したといったのほうが正確なのですが、ぼくの通っていた都立日比谷高校の前身の府立第一中学は合同で年1回開催する同窓会「如蘭会」の会場で、1976年頃だったと思います。銀杏のあるベンチにどっかを腰を下ろされ、とにかく、眼光鋭かったのを覚えています。
西室 建
3/5/2018 | 5:46 PM Permalink
この人確か2・26の時に岡田首相を助け出した人ですよね。
画像を見ると確かに目付きがコワイ。
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