Sonar Members Club No.5

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ピアノ演奏と映像 その(1)

2019 NOV 5 22:22:46 pm by 大武 和夫

はじめまして。当クラブの編集ご担当が既に私の紹介文を載せてくださっていますが、重複にわたらない範囲で自己紹介させて頂きます。弁護士業42年、ピアノ演奏歴(下手の横好き)60年弱、音楽愛好歴(クラシックとジャズ)と落語愛好歴はどちらも50数年で、所属事務所のパートナーを退いた今は、予定を入れるのも音楽優先になりつつあります。

私にとっての「神」は、ベート-ヴェン、ブルックナー、セザンヌ、フォーレ、ホロヴィッツ、キース・ジャレット、古今亭志ん朝ですが、うち幾人かについてはいずれ項を改めてじっくり書きたいと思っています。

音楽好きが嵩じて、音楽関連で言いたいことが出てくると音楽好きの友人数名にメールを送ってはうるさがられる、ということを繰り返してきました。そこで、どこかに自分の意見を投稿したいと次第に思うようになりました。自己承認欲求というよりも、まとまった形で書いた物を残しておける場所があり、時折訪ねてくれる(かもしれない?)友人知人の笑覧を請うという形が、その都度メールを押しつけがましく送るよりスマートではないかと思い始めたからです。

そんな折に、発起人である東さんの書かれたものをこのSMCサイトで見つけ、興味を惹かれました。と言うより、ここまでクラシック音楽に造形が深く、しかもその体験を言語化できる愛好家がおられるこということに、同じ愛好家の一人として驚き、感動しました。そして、こういう方が主催されるサイトの片隅に私の駄文がひっそりと置かれるとしたら、それは素敵ではないか、と思ったのです。幸いお仲間に入ることができましたので、こうして初投稿に及びました。

もっとも、音楽家以外の「神」も上に挙げたことからお分かりのように、決して音楽一筋ではありません。絵画や落語、映画などについても折に触れて投稿させていただきますので、どうぞよろしくお願いします。

前置きはそのくらいにして、本題に入ります。最近二つのピアノ演奏映像を見て、いろいろ思うところがありましたので、そのことについて書いてみましょう。

一つはルドルフ・ゼルキン(以下単に「ゼルキン」。ちなみに、これも優れたピアニストである息子は、我が国では独語読みの「ペーター・ゼルキン」でも英語読みの「ピーター・サーキン」でもなく、「ピーター・ゼルキン」という不可思議な読み方をされていますが、やはり英語読みすべきでしょう。)の晩年のウィーンでのリサイタルの実況録画を収めたDVD。もう一つは、話題の映画「蜜蜂と遠雷」です。

この二つには、ピアノという以外に共通項が無いと思われるかもしれません。しかし、」私にとっては大きな共通点が存在します。それは、河村尚子さんです。(このブログでは、不統一を承知で、日本人名には基本的に「さん」を付けますが、外国人については著名人の場合は敬称を略します。)

河村さんがどれほど優れたピアニストであり、私がどれくらい彼女に惚れ込んでいるかは、日を改めて書きたいと思いますが、現在日本各地でベート-ヴェンの最後の三つのソナタを弾いておられます。また、河村さんときびすを接するようなタイミングで、これも私が敬愛するスティーヴン・オズボーンが来日して、同じ3曲を披露しました。前記の父ゼルキンのDVDは、正にベートーヴェンのOp. 109~Op. 111の演奏を収めたものでした。そして、「蜜蜂と遠雷」では、主要登場人物の一人である栄伝亜夜の演奏を、河村さんが担当しておられます。それもたっぷりと。そういうわけで、この二つの映像作品を並べて論じるには、私なりの必然性があるのです。

と言っても、河村さんのOp. 109~Op. 111の演奏はここでは論じません。河村さんのお名前を出したのは、本稿の関係では、あくまでも二つの映像作品をつなぐものとして、でした。

さて、まずはR.ゼルキンです。ホロヴィッツを「神」とし、その人間性の醜悪な一面も含めて全面的にホロヴィッツに「帰依」する私が、ゼルキンをも同等に愛し、むしろホロヴィッツ以上に深く尊敬していると言うと、驚く人がいます。そうでしょうね、一方はショーマンシップの権化のように言われ、他方は厳格なドイツ楽派でショーピースはまず弾かない石部金吉だったのですから。

しかし、この二人が肝胆相照らす仲であったことは疑いありません。ゼルキンは、道化の仮面の裏にあるホロヴィッツの深い音楽性と底知れない音楽的教養(これについても後日書く積もりですが、私は「音楽的教養」という言葉を「教養」とは区別して用います。)に畏敬の念を抱き(ある夜若き日のホロヴィッツの家を訪問しようとしたゼルキンが、窓から漏れてくるハンマークラヴィアのフーガの練習の見事さに慄然としたというエピソードは、よく知られています。)、ホロヴィッツはホロヴィッツで、独墺から見れば一種の辺境に生まれ育った自分と対比したときに、独墺の音楽的伝統のただ中に生まれながらも自由に音楽をはばたかせることができる同い年のゼルキンに対し、一種の憧憬を持ったのではないでしょうか。そしてまた、ゼルキンの音楽への徹底的で完全な没入に、自分と似た資質を読み取り、大きく共感するところがあったことは想像に難くありません。ゼルキンという人は、あの偉大なシュナーベル(私は彼も大好きで敬愛しています。)に対しても、練習をさぼるノンシャランな態度を容赦なく糾弾するという一面を持ち合わせていましたが、その彼がホロヴィッツを非難したことは、記録に残る限り一度も無いのです。逆もまたしかりです。

ああ、だめですね、ゼルキンについては、書きたいことが余りにたくさんあって、つい筆が横道に分け入ってしまいます。書いているのはウィーンでのベートーヴェン演奏のDVDについてでした。

一言で言いましょう。これほど言葉の真の意味で高貴で豊かなベートーヴェンが他にあるだろうかと。天空の高みから次第に地上に舞い降りてくるようなOp. 109の終曲コーダの、大きく弧を描くフレージングの見事さ。あらゆるフーガの中でも私が最も愛するOp. 110のフーガの、全く力みの無い充実と無理の無いテンポ(なにしろ演奏時には84歳でした)による終曲の神々しいばかりの圧倒的高揚と高らかな人間賛歌。そして、破天荒な音のドラマが静まった後、虚空に音が吸い込まれて次第に消えていくような寂寥感あふれるOp. 111のコーダ。

年齢が年齢ですから技術的には危なっかしいところは沢山ありますが、むしろ驚かされるのは彼の指の強靱さと、太くてごつい親指を中心とした回転運動の機敏さと手首/指の柔軟さです。トリルも無理のないスピードではありますが、充実しきった美しさの極み。何よりも、ごまかしが一つも無い音楽的誠実さと集中度の高さに打たれます。

実は今回音源だけを聴いた演奏には、他にも素晴らしい演奏が沢山あり(シュナーベル、バックハウス、ソロモン、ナット、ゼルキン自身のコロムビア録音、グルダ、グード、レヴィット等々)、いずれも感動的でしたが、総合的感銘度はゼルキンのDVDがダントツでした。視覚効果によるところが小さくないということかもしれません。ゼルキンの演奏中の表情を捉えるカメラワークは見事で、普通なら手を見せず表情だけ見せるアップはうるさくて嫌なのですが、この盤に限って、それが見事と思わせるのは何故なのか。ゼルキンという偉大なピアニストの圧倒的な「人間力」のなせる技でしょうか。何しろ私は、彼が音楽の本質をえぐり出すべく苦闘する表情を見るだけで感動してしまうのですから。病膏肓の誹りを甘んじて受けますが、あらゆる音に命を通わせるとはどういうことなのか、その見本がここにあります。

とかく我が国では、ゼルキンというと、所詮は伴奏ピアニストだとか、合わせ物は上手いけどね・・・と言われがちです。ブッシュ=ゼルキン、あるいはブッシュSQとの共演でしか知られていなかった時代が長かったが故の誤解であることは、彼の実演や最良の録音を知る者には明らかです。(最良の録音と書いたのは、彼はあまりに自分に厳しく、そのためにツギハギして作った音盤には、音楽の自然な流れが寸断された印象を与える物や、ゼルキン特有の白熱する高揚が捉えられていない物が少なくないからです。)ソリストとしてのゼルキンは、特に晩年は、北米は勿論ヨーロッパでも高く評価され、尊敬を集めていました。

面白いのは、このDVDでも、そしてこれより大分前のコロムビア録音でも、これほどの巨匠としては随分たどたどしく聞こえるフレーズが散見されることです。例えば、111の2楽章の第3変奏(それまでの16分の6拍子が32分の12拍子に変わり、L’istesso tempoと記載されています;ある畏友はこの変奏を「ブギウギ」と称しましたが、なるほどブギウギのリズムパターンです。)など、エッと思うくらいたどたどしく響くのです。まあ、リズム的に難しい箇所であり、楽譜通りのリズムで完璧に弾いている演奏(例えばリヒテルのフィリップス盤)が良いかというと、そうも言いきれないところがあります。しかし、この変奏におけるゼルキンのたどたどしさは、そういう一般論には収まりきらないものがあるように思えるのです。

実演でブラームスのヘンデル変奏曲や、レーガーのバッハの主題による変奏曲の圧倒的な演奏を聴き、また、手すさびに(?)入れたショパンの前奏曲全曲録音を機き、彼の鍵盤支配能力の高さに驚倒した経験のある私には、これらのフレーズをゼルキンがスムーズに弾けない訳はないと思うのです。そこで思うに、彼はわざとたどたどしく弾いたのではないでしょうか。つまり、彼が考えるベートーヴェンとは、流麗さには目もくれない音楽であり、シャイなゼルキンは、自分が流麗に弾けてしまうことを恥じて、敢えてギクシャクと弾いているのではないか、その結果がたどたどしく聞こえるのではないか、ということです。(実は1983年にはボストンでゼルキンが弾く最後の三つのソナタの実演を聴くという幸運に恵まれています。ですから、その実演でこの箇所の弾きぶりを確認できたはずなのですが、Op. 109の冒頭数小節で涙があふれ出てしまい、その後のことは、当時も今も全く覚えていないのです。思いがけない自分の心の動きに動転してしまって冷静に聴けなかったことを、ただ恥じるばかりです。)

そういえば、ブラームスの2番のコンチェルトの終楽章69節以下の左手の音型のゼルキンの、これまたややどたばたした弾きぶりについて、かつて吉田秀和さんが、「滑稽」、「野暮」、「村夫子」といったような用語を並べながらも、「こういう点ででも、ゼルキンには尊敬と親密の情を覚えずにはいられない。」と書いていたことを思い出しました。それに続く部分でも、吉田さんは、「ほかの箇所」でのゼルキンの演奏の欠点(セルとの共演盤について吉田さんが感じた不満点)を並べ立てて、「いくら私がゼルキン好きとはいえ、こういう箇所まで同情的に『人間味あふれる演奏』とか何とかいうわけにはいかない。」と締めくくっているのですが、その書きぶりにもゼルキンに対する深い愛情が見て取れて、微笑ましく読んだものでした。(この吉田さんの文章は、白水社の全集をはじめとして様々な版に収められていると思いますが、今私が正確な引用のために便宜棚から取り出して見ているのは、音楽之友社から出た「吉田秀和作曲家論集5 ブラームス」(293~294ページ)です。)

ブラームスで吉田さんが愛情をもって批判した箇所が、みな意図的な表現であったという積りはありません。それでも、それらの箇所を聴くたびに、「ブラームスがそんなに流麗であって良いのだろうか?」というゼルキンの呟きが聞こえてくるような気がしてなりません。

脱線しましたが、私が見るところ、そういう一徹さ、流麗さを犠牲にしてたどたどしく響いても、それがベート-ヴェンであれブラームスであれ、自身がその作曲家の本質だと信じるものを抉りださずにはおかないという頑固さこそが、ゼルキンのゼルキンたる所以ではないかと思えるのです。

贔屓の引き倒しと言われればそうかもしれませんが、ゼルキンのベートーヴェン演奏には、ほとんどそう確信させるintensityがあります。そして、そのように不器用でたどたどしくさえ聞こえるところのあるベート-ヴェンが、どれほど魅力的であることか!(もっとも、上述したように、彼の録音には、編集のし過ぎで自然な流れが失われたものが散見されます。そういう録音における流れの欠如と、ここで論じているたどたどしさとは、全く別のことです。両者を区別するのは易しくないかもしれませんが。)

こうしてゼルキンのベートーヴェンの気高さに思いを馳せているうちに、その対極が思い出されてしまいました。昨年の新国立劇場の「フィデリオ」です。鳴り物入りで上演されたカタリーナ・ワーグナーによる新演出は、牢獄に象徴される圧政から解放されたと思った民衆は、実はみな新たな形態の圧政に絡め取られており、しかもそのことに気付いてすらいないという、無残で吐き気を催させる結末でした。彼女の政治的意図は明らかですが、そのことによって、登場する善男善女を嘲笑するだけではなく、ベートーヴェンの音楽を卑しめ、貶めることにどうして思い至らないのでしょう。作曲家の書いた一つ一つの音符や記号、さらにはその文脈、背景、演奏史等々にも細心の注意を払ってスコアを実際に鳴り響く音とする演奏家に対する愚弄でもあることが、どうして分からないのでしょう。演劇や映画の世界で一流になれなかった人材が、舞台芸術の演出家として好き放題が許される場をヨーロッパのオペラ劇場に見いだしてから、かなりの時が経過しています。しかし、私には全く信じられないことに、その猛威はいまだに衰えていません。(保守的なメットですら読み替え演出楽派(?)に征服されつつあります。)そして、提灯持ちの批評家、マスコミは、「読み替え演出」に疑義を呈する者に対し、保守反動のレッテルを貼ります。音楽が全く分からない演出家についてでも、です。私は読み替え演出一般が嫌いですが、我慢できるものもあります(大野和士さんが今年新国等で振った「トゥーランドット」の終わり方がその一例です。)が、あの「フィデリオ」を許し、あまつさえ評価するような方とは、お付き合いしたくありません。飯守泰次郎さんがあの演出に共感して振られたのか、我慢して最後まで振られたのかは寡聞にして存じませんが、私だったら、音楽に込められた明確なメッセージを読み取ることを拒否し、自身の不潔な思いつきを試して作曲家を辱める演出家の知的不誠実と傲慢さに対する怒りと嫌悪で、とても最後まで振り通せなかったでしょう。歌手であったらリハーサルで降板していたでしょう。ゼルキンにあの「フィデリオ」を見せたら、彼は一体何と言ったことでしょう・・・。

嫌なことをも思い出してしまいましたが、その不愉快な記憶も薄らぎ、霞むほど、ゼルキンのDVDを久しぶりに視聴して感動しました。私と同様にあの「フィデリオ」に嫌悪感を持たれた音楽愛好家の皆さんには、毒消しの特効薬としてゼルキンのDVDを強くお勧めします。

思いがけず長くなってしまいましたので、「蜜蜂と遠雷」については、次回投稿に譲ります。

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