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オリンピックへの道、死闘10番勝負、その6から10

2013 NOV 25 16:16:48 pm by 中村 順一

西室氏の投稿を引き継ぎ、6から10までの勝負を僕が書いてみます。水泳と冬季五輪から選んでみました。

 

6:男子競泳自由形、山中毅とマレー・ローズ

山中毅は競泳自由形、中長距離のエースで1956年のメルボルン五輪と1960年のローマ五輪で銀メダル4個。金メダルに届かなかった悲運の男である。宿敵の豪州のマレー・ローズには五輪ではただの一度も勝てなかった。通算では5勝5敗で、実力での差は無かったとも言えるし、世界記録も20回以上記録している。しかし大舞台ではいつもローズの勝利だった。メルボルンでは米国のブリーンも交えた3選手の大接戦、山中は17歳だった。次のローマでは下馬評では山中有利で、日本国民も金を期待したがダメだった。

山中は能登半島の出身、母親は当地では有名な海女で潜水が得意だった。山中は驚異的な肺活量を母親から受け継いだのである。山中は東京五輪にも出場、ショランダーが圧勝した400Mで6位だった。この時ローズは第一線から退いており、テレビ解説者をしていた。

 

7:東京五輪女子100M背泳

1964年東京五輪の女子100M背泳はすごく印象に残るレースだった。金はアメリカのキャシー・ファーガソン、銀はフランスのクリスチーヌ・キャロン、そして日本の田中聡子が4位に入った。ファーガソンとキャロンは共に当時16歳、そして2人ともびっくりするくらいの美貌だった。キャロンはその後女優になっている。

でもやっぱり思い出すのは田中である。田中はローマ五輪にも出場し銅メダル、日本女子としては1936年ベルリン五輪の前畑秀子以来24年ぶりのメダルを取っている。惜しかったのは田中が得意だったのは100Mではなく200Mだったことだ。田中は200Mで10回も世界記録を更新している。200Mは田中が引退した直後の1968年のメキシコ五輪から正式種目になった。”もし”の議論は禁物だが、仮に200Mが田中の時代に正式種目だったなら、田中の取ったメダルがローマの銅メダル1個ということは無かっただろう。田中は長崎県佐世保市の出身、八幡製鉄に入社した。

 

8:中学2年生、最年少金メダル、岩崎恭子、本命ノールを破る

1992年バルセロナ五輪の華は何といっても女子200M平泳ぎの岩崎恭子である。沼津第五中学校2年生、14歳になったばかりの岩崎恭子は大変な偉業を成し遂げた。予選で日本新記録を出した岩崎に一躍注目が集まったが、本命はアメリカの世界記録保持者アニタ・ノールだった。後半勝負を得意とする岩崎は徐々にノールとの差を詰めていく。ノール、岩崎に中国の林莉も加えた最後の50メートルのデッドヒートは正に凄かった。タッチの差で岩崎は勝った。レース直後のインタビューで彼女は「今まで生きてきた中で、一番幸せです」と語り、一躍時の人となった。本命のノールは当時16歳、凄い調子でオリンピック開始後に記録を伸ばしてきた岩崎のプレッシャーに焦り、前半から飛ばし過ぎたレースだった。岩崎はその後2009年にラグビー選手と結婚、2011年春に女の子を出産している。幸せがあのバルセロナの一瞬だけで無かったのは喜ばしい。

 

9:伊藤みどり、とクリスティー・ヤマグチ

伊藤みどりは女子フィギュア・スケートで女子で初めてトリプル・アクセルに成功し、これを武器に1989年の世界選手権で優勝、一躍世界のトップスターの座を獲得した選手である。今では日本のフィギュア・スケートは国民的スポーツとして、オリンピックでの金メダルも期待される種目になっているが、伊藤の時代はまだ違った。戦前・戦後を通じ、日本選手がメダルを取ることは長い間の夢だった。しかし世界の壁は厚かったのである。

クリスティー・ヤマグチは米国カルフォルニア州出身の日系3世、1989年と90年の全米選手権で連勝し、伊藤のライバルとして頭角を現した。1991年のプレ五輪の大会では伊藤はフリーの演技でヤマグチを逆転、1992年のアルベールビル五輪では本命として金が期待された。しかし伊藤はオリジナルプログラムで失敗、大きく出遅れた。得意のフリーに期待が寄せられたが、最初のトリプル・アクセルに失敗、関係者の間に嘆息が漏れた。トリプル・アクセルは難しく、高いジャンプ力がいるので、競技の前半部分のみ演技が可能で、後半部分では不可能、とするのが当時の常識だったからだ。しかし伊藤の精神力は凄かった、後半部分でトリプル・アクセルに再挑戦、見事五輪史上初の演技成功を達成、日本フィギュア界初の銀メダルを獲得したのである。ヤマグチは堅実な演技だった。フリーではトリプル・ルッツを中心にまとめ、伊藤の追撃を抑え金メダルを獲得している。

伊藤は名古屋の出身、その後のフィギュア界の中心が名古屋になっていく先駆者になった。あの高いジャンプとそれを支える下半身のバネ、瞬間の驚異の精神力等は正に天才だった。ヤマグチはその後プロのスケーターとして活躍、2011年10月には東日本大震災の民間支援プロジェクトの訪問団の団長として来日、元関脇の高見山と共に福島を訪問している。

 

10:スキー・ジャンプの原田

原田雅彦は北海道上川町出身のスキージャンプ選手、長い間日本ジャンプ陣の中心選手として活躍し、ライバルも当然ながら多数存在しているのだが、僕にはどうしても原田のライバルは自分自身という気がしてしまう。

原田はまず1994年のリレハンメル五輪ジャンプ団体で、よほどの大失敗ジャンプでもない限り、金メダル確実という場面で最後の一本を飛んだ。しかし失敗、銀メダルに終わった。1998年の長野五輪でもジャンプ団体で日本の3番手となった原田に一回目は運悪くほとんど前が見えないような大雪の中で行われた。降りしきる雪でアプローチの速度が落ち、80Mにも届かない大失敗ジャンプになってしまった。この時は僕を含めた多くの国民が4年前の悪夢を思い出した。しかし原田は2本目「両足を骨折してもいい」との覚悟で137Mの大ジャンプを決め、金メダルへの立役者となった。

原田のジャンプ・スタイルは独特で、踏切りの際に上に高くジャンプし、飛行曲線が他の選手に比べ高い軌道から落下するスタイルであった。それがリレハンメル五輪のような失敗ジャンプに繋がり、「本番に弱い原田」、とか「失速男」との論調になったこともあった。でも原田は内面はいたって真面目で、言い訳や不平不満は一切言わず、愛妻家の素晴らしい男であり、国際的知名度も極めて高い。長年日本ジャンプ界を支え、多くの失敗と、多くの大感動を生んだ大ジャンプから、「ミスター・ジャンプ」との呼び声もあるが、僕には原田なら当然の呼び声、と思える。

原田のジャンプはドラマチックで数々の名実況場面を生んでいるが、有名なのは長野五輪のラージヒル個人の2本目で137Mを飛んで銅メダルを獲得した時の、NHKの工藤アナによる、「因縁の2回目」「立て、立て、立て、立ってくれ、立ったー!!」であろう。数多くの日本国民を熱狂させた瞬間だった。また長野五輪団体で、次のジャンパーである船木和善への声援「ふなき~ふなき~」を覚えている人も多いだろう。

原田は、常に「失敗ジャンプの可能性」という自分自身と正面から対決し、五輪で金、銀、銅のメダルを獲得した正に国民的英雄である。

 

オリンピックへの道 (死闘10番勝負 その1から5)


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Categories:オリンピック

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