オリンピックへの道、マラソンの円谷と君原
2013 NOV 1 17:17:33 pm by 中村 順一
今でもはっきりと覚えている。1964年、東京オリンピックのマラソン。僕は小学校の4年生だった。国立競技場に帰ってきた円谷幸吉はひどく疲れて見えた。精も根も使い果たしたという走り方だった。既に、レースの終盤は悠々と、ぶっちぎりで独走したエチオピアのアベベは、4分も前にゴールインしていた。円谷の後ろから英国のヒートリーが迫ってきた。オリンピック前までの世界最高記録保持者だ。ラストの200メートル、アッという間にヒートリーは円谷を抜き去り、あとは差を広げる一方だった。円谷は銅メダルに終わってしまった。それでもオリンピックの陸上競技のメインスタジアムに日の丸が揚がったのは、ベルリン五輪以来、実に28年ぶりだったのである。快挙だった。しかし円谷にとって3位では満足できなかった。とくにゴール直前でヒートリーに抜かれたことが大きな屈辱として心に重く残った。
君原健二もこのレースに出て8位だった。君原は東京オリンピックの代表選考レースでも優勝しており、最も期待されていたのだが、実力を出し切れなかった。その君原が1967年の一年後に迫ったメキシコ五輪を目指した強化合宿で円谷に会っている。円谷は競技場の中で追い抜かれたことをとても気にしていた。そして「もう一度、メキシコで日の丸を揚げることが、日本国民に対する私の約束です。」と語ったそうだ。追い込まれていたのである。この年円谷はオーバーワークが祟り、持病の腰痛が悪化、手術までしている。メキシコは近づいているのに思うように走れない日々が続いた。人には言えない苦しみに悩んだのだろう。メキシコ五輪の年の1968年1月に円谷は自衛隊体育学校宿舎の自室で剃刀で頸動脈を切って自殺した。どうしてそこまで自分を追いつめていったのか。あの当時は今とは時代の空気が違う。1984年のロサンゼルス五輪で、柔道の無差別級で金メダルの山下泰裕は勝った時「自分の為に頑張りました。」と泣きながら言った。また1992年のバルセロナ五輪で銀、1996年のアトランタ五輪で銅のマラソンの有森裕子はゴール後のインタビューで「初めて自分で自分をほめたいと思います。」と同じく泣きながら言っている。時代は変わりつつあったのだ。国の為に戦うのではない、自分の為だ、時代はオリンピックを”自己愛のスポーツの舞台”に変えていったのである。でもあの時代は違った。円谷は、自分が走るのは国の為である、と固く信じていた最後のスポーツ選手かもしれない。
円谷は遺書を遺している。
「父上様母上様、三日とろろ美味しうございました。干し柿、もちも美味しうございました。敏雄兄姉上様、おすし美味しうございました。勝美兄姉上様、ぶどう酒リンゴ美味しうございました。 (中略) 幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、立派な人になってください。父上様母上様、幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。気が休まる事なく、御苦労、御心配をおかけ致し申し訳ありません。幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」
川端康成はこの遺書を「美しくてかなしい響き、千万言も尽くせぬ哀切」と評した。また三島由紀夫は、当時ノイローゼによる発作的自殺と語られた憶測に対し、「傷つきやすい、雄々しい、美しい自尊心による自殺、この崇高な死をノイローゼという言葉で片づけたり、敗北と規定したがる、生きている人間の醜さは許しがたい」と書いている。なんという遺書だろう。ここには肉親親族への深い愛情と礼儀がある。今の核家族の時代には、これだけ並べあげるだけの肉親親族はいないだろう。しかし戦前から戦後の一時期までの農村共同体の日本社会では、ごく当たり前のことだったのである。
その後君原はメキシコ五輪で堂々の銀メダル、次の1972年のミュンヘン五輪でも5位に入賞している。君原はメキシコ五輪のレースで最終盤まで2位だったが、後続の選手も迫ってきていた。振り返って後続を確認すると不思議と活力が出た、そして2位を死守したのである。君原は言っている、「なぜあの時に普段はやらない振り返り確認をしたのか、きっと円谷さんが天国からメッセージを送ってくれたんです」。思えば円谷も「男は後ろを振り向いてはいけない」との父親の戒めを愚直に守って失敗した。共に苦労してきた盟友の君原に「おい、後ろが迫っているぞ」と、天国から伝えたかったのだろう。
円谷と君原は高校時代同学年のライバルだった。円谷は福島県須賀川市の出身、高校卒業後自衛隊に入った。君原は北九州市の出身、高校卒業後、地元の八幡製鉄に入社した。
君原は、円谷の自殺の後、「どうしてもっと声を掛けなかったのだろう、自分なら救えた命だったかもしれない」と、ひどく悩んだ。須賀川市では毎年「円谷幸吉メモリアルマラソン」が開催されている。この市民マラソンに君原はたびたび出場している。そしてマラソンの後、円谷の墓をお参りするそうだ。
円谷と君原は、あの時代の日本人を熱狂させた思い出深いランナーである。
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Categories:オリンピック
東 賢太郎
11/1/2013 | Permalink
円谷が抜かれたシーンはよく覚えてます。悔しかった。68年から84年の16年になにが消えていったのか。それから30年、今や「オリンピックを楽しみたい」だ。見物人でなく出る者が。なにが消えてしまったのか。
西室 建
11/2/2013 | Permalink
君原掛長は良く酒を飲む面白い人だった。メキシコの銀で救われたとおっしゃっていた。