オリンピックへの道、ベルリン五輪、「前畑頑張れ」
2013 OCT 29 16:16:18 pm by 中村 順一
オリンピックへの道、というタイトルへの投稿として、過去のオリンピックで活躍した選手のエピソード等を描いていきます。一回目は前畑秀子(結婚後の名前は兵頭秀子)です。
前畑秀子を知っている人はもう少なくなった。しかし、「前畑ガンバレ」の実況放送の話を聞いたことがある人は多いだろう。世界が戦争に向かいつつあった1936年のベルリン五輪、前畑秀子は二百メートル平泳ぎで金メダルを獲得した。当時NHKラジオアナウンサーの河西三省の、前畑ガンバレ、前畑ガンバレ、の絶叫に日本中が熱狂した。日本の女子選手初の金メダル。最近のオリンピックでは日本は女子選手の活躍が目立つが、当時は事情が異なっていた。その後の女子の個人種目金メダルは、1972年ミュンヘン五輪百メートルバタフライの青木まゆみ、まで無かったのである。レースはドイツのゲネンゲルとのデッドヒートだった。結果的には前畑は3分3秒6で3分4秒2のゲネンゲルを振り切った。地元選手だけに会場の応援は当然ゲネンゲルだった。観衆だけではない、ヒトラーも会場に姿を見せてドイツ選手を応援したのである。現在のように「楽しんでオリンピックに参加できれば良い」などという考えは当時はありえなかった。ナチが国威発揚のために利用したベルリン大会、ドイツ選手には勝つことが求められており、それは日本でも同じだった。「死んでも勝ってこい」との言葉に送り出されて、前畑は日本を出発したのである。
前畑は1932年のロサンゼルス五輪にも出場している。同じ二百メートル平泳ぎで前畑はオーストラリアのデニスにタッチの差で敗れて銀メダルだった。しかし帰国すると「なぜ、金メダルを取れなかったんだ」という声ばかり。「よく頑張った」と当時18歳の少女を讃える声はほとんど無かった。前畑は前年の1931年に両親を相次いで亡くしており、寂しい中で頑張って全力を尽くして帰ってきたにもかかわらず、である。当時の国民の対応は少女の前畑には辛かった。前畑はその後1日2万メートルも泳ぐ猛練習を重ね、ベルリンに臨んだのだった。
シベリア鉄道でベルリンへ。開会式で日本選手団はなんと戦闘帽を被って行進した。今回はどうしても金メダルを取らなければならない。「負けたら、死んで(日本国民に)お詫びしようと思っていた」と前畑は後に言っている。まさに大変な死闘だった。やることはやった。しかし勝つには運も必要だ。スタート直前に「日本の神様、なんとか勝たせてください」と何度も心の中で祈ったという。
前畑は1983年に脳溢血で倒れている。両親の命を奪った同じ病気だ。だがその後五輪を目指して練習していたころよりも苦しい、毎日のリハビリにより、奇跡の回復を遂げている。前畑は、水泳で鍛えた強い精神力がこの時自分を支えてくれた、水泳に感謝したい、と述懐している。1990年には日本女子スポーツ界より初めて文化功労者に選ばれた。1995年に80歳で死去している。今でも日本選手権の女子二百メートル平泳ぎ優勝者には前畑秀子杯が授与されている。
前畑は和歌山県の現・橋本市の出身。紀ノ川で水泳を覚えた。尋常小学校5年で学童新記録、高等小学校2年で汎太平洋大会の平泳ぎで早くも優勝。紀ノ川の天才と謳われた。しかし貧しく、コーチもなく、両親も早く失った。ないないづくしの少女だった。しかし、少しでも、0.1秒でも早くなりたい、とそればかりを考え、猛練習でついに勝ち取った栄光。「前畑ガンバレ」は当時の日本国民全員に勇気と感動を与えた。前畑は正に日本スポーツ界の英雄である。
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Categories:オリンピック
西室 建
10/29/2013 | Permalink
1936年大会は確か陸上棒高跳びの銀と銅が日本人で、メダルを互いに切って溶接し、友情のメダルとしたのではなかったか?西田と大江と言ったか。
東 賢太郎
10/29/2013 | Permalink
ブログ、感動しました。負けたら死んでお詫び・・・はきっと
本気だったのだろう。五輪を楽しみたいなどハカヤローだし、次につながる10位でした!なんてマスコミが許してくれる時代でなかった。1964年はまだその空気がそこそこ残ってました。スポーツと経済は直接は関係はないが金メダル数と国力は関係あるかもしれません。
西室 建
10/30/2013 | Permalink
確かに残っていましたねぇ。円谷選手。銀メダルの後、さぁ次はの声にプレッシャーを感じて気の毒でした。そのメキシコで銀の君原健二選手は定年まで某製鉄所の教育掛長(係ではない!)をしていて、講演を聴きましたが、円谷選手との思い出はネタの一つで泣かされました。もう一つネタがあって「ウマの会わない上司というのはいるものですが、2~3年我慢すればどちらかが代わりますから。」とやって人事を怒らせていました。
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