Sonar Members Club No.26

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賛否両論、その2、フルトヴェングラー(後半)

2013 MAR 10 4:04:37 am by

昨日書かせていただきました、指揮者フルトヴェングラーの続編です。「否」の側面に入る前に、「賛」の補足をいたします。フルトヴェングラーらしさが充分に発揮された演奏の具体例を2つ挙げておきます。

例1:ブラームス交響曲第1番の第一楽章

長い長い序奏が終わり、呈示部入りを告げる合図でもある、あの「ティンパニーの一撃」、フルトヴェングラーほど、明確に、わかりやすく、ティンパニーの音を浮かび上がらせ際立たせた例は少ないように思います。誰の指揮とは言いませんが、少し前に、あるライブ演奏で聴いた同曲では、あの大切なティンパニーの音が他の楽器の音の中に埋没し、全く目立っていないケースも耳にしました。

ベートーヴェンを超える交響曲をぜひとも書きたいとのブラームスの思い、ある意味、ベートーヴェンに対して挑戦状を叩き付けるかの如き、ブラームスの高揚感が良く出ているように思います。

例2:シューベルト交響曲第9番「ザ・グレート」第1楽章

展開部の最後の部分、そこでは徐々にリタルランドが掛かり、テンポが大変遅くなり、自分が見た夢に対する未練のような情緒が描かれます。その部分が終了して再現部に入り、第1主題が再現されると、当然テンポは呈示部の速いテンポに戻りますし、楽譜にもそのように書かれているはずです。ところが、フルトヴェングラーだけは、展開部最後の部分の遅いテンポを、そのままにして、再現部が始まったことが信じられないというような風情で、ためらいがちに遅いテンポのまま第1主題の再現を行ないます。この部分、否定意見が多く出そうですが、私個人としては、感覚的にものすごくシックリ来ます。

 

「否」の側面について

これだけ個性的で「やりたい放題」の指揮者ですから、当然、非難や否定意見は沢山出て来ます。

名前は失念してしまい申し訳ございませんが、フルトヴェングラーについての著作があるイギリス人の音楽評論家によれば、イギリスでは、フルトヴェングラーは「山師のように、いたく嫌われて」いるそうです。イギリスでは、トスカニーニやクレンペラーが信奉され、この2人の指揮者には「まるで、ベートーヴェンが指揮台に立ったような」という形容がされるほどだそうです。私が仕事で2年半ほど滞在したアメリカ合衆国でもフルトヴェングラーの人気は、それほどでもなかったようです。

さて、ここからは、あくまで私個人の意見ですが、フルトヴェングラーの「否」の側面が最も如実に出ているのは、ワーグナーとブルックナーだと思います。彼のテンポを大胆に変える手法がワーグナーとブルックナーの音楽では、著しくマイナスに作用し、その結果、ワーグナーの「毒とも言える音楽の色気」やブルックナーの宇宙を思わせるようなスケールの大きさが全く表現されていません。

その例として、ワーグナーでは「ジークフリートの葬送行進曲」、ブルックナーでは「交響曲5番や9番」が挙げられると思います。

ワーグナーやブルックナーでは、例えば、ハンス・クナッパーツブッシュ(この人も極めて個性的で色々なエピソードにこと欠かない人ではあるが)のように、テンポをあまり動かさずに、細部をコツコツと積み重ねて行く手法の方が合っているように思います。

それから、ベートーヴェンの交響曲でも第9や第5の終結部分の異常な速さには付いていけませんし、4番や8番の演奏では、曲との相性もいかにも悪い。

フルトヴェングラーを聞き慣れていない内は、その強烈な個性溢れる解釈に新鮮みを覚えますが、聞き慣れてくると、「この曲の、この部分で、きっとテンポが遅くなるぞ、あるいは速くなるぞ」などと、彼の「手口」が読めてしまうのも、「否」の側面でしょう。

私も、学生時代など若かった頃は、フルトヴェングラーの音楽を大変楽しめましたが、中年期をとっくに過ぎ去ってしまった今では、ついていけないと言うか、逆に曲の良さを損なってしまっているように感じることも多いのも正直なところです。

そうは言っても、やはり、フルトヴェングラーは凄い指揮者(本人は「指揮も出来る作曲家」と言われたいと強く願っていたそうですが)であることは間違いないと思います。

失礼いたしました。花崎洋

 

 

 

賛否両論、その1「フルトヴェングラー(前半)」

2013 MAR 9 11:11:24 am by

確か東京渋谷区の恵比寿に「賛否両論」という名のレストランがあります。行ったことはありませんが、東京駅構内にそのレストランで作っている「駅弁」が売られていて、その存在を知りました。

強く支持してくれる大ファンがいてくれる一方で、同じくらい強く否定するアンチの人が出るくらい、強烈な個性を持った料理を作りたいとの、オーナーの思いから名付けられたそうです。

そこで、クラシックの音楽家の中で、強烈な個性を持った人を、4〜5人、私なりに選び、「賛」と「否」との両面から私見(あくまで私なりの思い込みに満ちた私見です。)を述べてみたいと思い立ちました。

一人目の今回は、指揮者として没後60年近くになりながら、いまだに絶大なる人気を持つ、ウィルヘルム・フルトヴェングラーを挙げてみました。

「賛」の側面

何と言っても分かりやすくメリハリの効いた解釈・表現でクラシック音楽のファンを沢山生み出したことが功績だと思います。私自身も彼のベートーヴェン第5交響曲(1947年盤)や第9交響曲(1951年バイロイト盤)などがキッカケでクラシック音楽ファンとなりました。

やり過ぎなくらいテンポや強弱をいじりにいじり、手に汗握るスリルは他の指揮者では、まず味わえません。そのテンポもモーツアルトの交響曲40番第一楽章は全ての指揮者の中で最も速く、ベートーヴェンの田園交響曲の第一楽章は全ての指揮者の中で最も遅い、という具合に非常に極端なケースが多いです。

そして、上記に録音年を記したように、同じ曲を振っても、その時、その時で表現がかなり違って来るという点もフルトヴェングラーならではでしょう。指揮者の高関健さんはフルトヴェングラーの運命交響曲のレコードを8種類も持っていて、聴き比べているそうです。(東さんは、それ以上、お持ちかもしれません。)いわゆる「同曲異盤」がフルトヴェングラーほど数多くの種類が出ている指揮者は他にはいないでしょうし、そこに彼の凄さがあると思います。

「賛」の部の最後にフルトヴェングラーの名盤を私なりに3つ選んでおきます。

☆ベートーヴェン第9交響曲(1951年バイロイト盤、ライブ録音)     ・・今では、終結部の異様な速さ等、異論を覚える部分もあるが、曲の捉え方   が他の指揮者とは全然違い、他の指揮者が振った同曲とは全く違う曲に聞   こえる。ライブ録音ならではの、一発勝負の気迫や集中力もすさまじい。

☆シューマン交響曲第4番(これは同曲唯一の録音)             ・・スタジオ録音のために興奮し過ぎる彼の欠点が出ず、曲そのものの本質を   緻密に、かつドラマティックに描いている。

☆シューベルト未完成交響曲(1953年ベルリンフィル盤、ライブ録音)   ・・これほど暗く激しい表現の「未完成」を私は聴いたことはありません。

 

長くなりますので、フルトヴェングラーの「否」の側面については、次回に記述させていただきます。

失礼いたしました。花崎洋

2月12日(火)から旧暦の2月が始まります。

2013 MAR 9 10:10:17 am by

 

あさっての2月11日(月)で旧暦1月である睦月(むつき)が終わり、翌日12日(火)から旧暦2月である如月(きさらぎ)が始まります。

前回も記述させていただきましたが、旧暦1月の睦月は、季節上は「春」で、日の入り時刻が刻々と遅くなり、陽光も強くなって来ますが、気温は、それほど上がらず、まだまだ冬将軍が頑張っているイメージでした。

そして旧暦2月である如月に入りますと、勿論、一直線に暖かくなるわけではなく、寒さのぶり返しを挟みながらですが、気温がぐんぐんと上がり始め(すでに、この2〜3日、急に暖かくなりました。)、桜の開花という如月のメインイベントを迎えます。

如月(きさらぎ)と桜の花と言えば、歌人である「西行法師」の辞世の歌を直ぐに思い出します。

「願わくば花の下にて春死なん その如月の望月の頃」

言わずもがなですが、「花」とは「桜」、「望月」とは「十五夜の満月」です。

この歌は、まさしく素人的な見方ですが、「韻律」から見ても凄い歌と思います。きつく強い音であるハ行とサ行が連続していて(はなの→したにて→はる→しなん→その と続く)西行法師が死期が近づいたことに気付き、そのことに、ずいぶんと激しい感情を抱いていたのかな、などと推測してしまいます。

もっと凄いのは、この歌の通り、実際に西行法師が旧暦2月、如月の望月の日(15日)に亡くなっていることです。

「満開の桜を愛でながら歿っして逝く」とは、日本人冥利に尽きるのではと思ってしまいます。 花崎洋

 

 

2月10日から旧暦の新年が始まります。

2013 FEB 9 10:10:11 am by

先日の2月4日は新しい干支である「へび年」のスタートと記述いたしました。

東さんの誕生日でもあります「立春」は、中国由来の太陽暦(太陽の周りを公転する地球の位置から割り出した暦)での新年であることは確かです。

この中国由来の太陽暦、その根っこには、以前、東さんが投稿された「陰陽五行」の思想があります。甲(木の陽)、乙(木の陰)、丙(火の陽)、丁(火の陰)、戊(土の陽)、己(土の陰)、庚(金の陽)、辛(金の陰)、壬(水の陽)、癸(水の陰)という、陰陽五行をベースとした10年サイクル。その初日が「立春」です。

そして皆様良くご存知の12の干支(えと)が新しく始まるのも「立春」です。今年は癸(みずのと)の巳(へび)の年となります。 ちなみに、上記10年サイクルと、干支の12年サイクルの最小公倍数は60年で、60歳になる年に自分が生まれた時と「陰陽五行と干支」が全く同じ組み合わせになりますので、同じ暦が還って来るという意味で「還暦」というわけです。

そして、中国人が今でも日常生活で使っている旧暦は、上記太陽暦に更に、月の動きを組み合わせています(太陰暦の併用)。ごく簡単に言えば、立春に最も近い「新月」の日が、元旦というわけです。今年は、2月10日が立春に最も近い新月の日で(月齢がゼロで月が真っ暗な状態)旧暦で言う、新しい年のスタートです。中国では、爆竹をハデに鳴らして、この日から長いお正月休みに入ります。上海の株式市場も勿論、長い休みを取ります。ちなみに今年の場合ですと、西洋暦との関係は次のようになります。

旧暦1月は 西洋暦の2月10日から3月11日まで(旧暦での1月7日、春の      七草も野山に食べ頃な状態です)

旧暦2月は 西洋暦の3月12日から4月9日まで(春分の日は必ず旧暦の2月      に入る。正に春を2つに分ける日)

旧暦3月は 西洋暦の4月10日から5月9日まで(旧暦3月3日のひな祭り、      桃の節句という名の通り、桃が満開の時期) となります。

上記各月ともに、一日(ついたち)が必ず新月で、月半ばに満月、そして月末は次の月の新月前日というわけです。

そして、旧暦1月から3月は、季節は「春」です。

ただし、私たちが抱く「春」のイメージとは違っていて、旧暦1月は「寒さの最後のあがき」(秋田県内陸部の豪雪地帯では、旧暦1月の前半に最も雪が積もると言い伝えられているそうです)、旧暦2月に入るとグングンと日増しに暖かくなっていって桜が咲き、旧暦3月は完全に暖かくなった日々が続くと、だいたいこんな感じです。

我が家では旧暦で大晦日(おおみそか)の本日2月9日、旧暦元旦の明日2月10日、シャンパンでささやかにお祝いします。 花崎洋

暦について。

2013 FEB 4 12:12:38 pm by

梶浦さんが京都の節分風景について投稿してくださいました。1000年以上の歴史を感じさせる京都が持つ独特の深みが充分に伝わって来ます。

さて、今年は「へび年」ですが、厳密に言えば、節分の次の日である、本日2月4日からが「へび年」のスタートです。(節分までは「たつ年)

そして、2月10日が旧暦でいう新年の始まりです。ご存知の方も多いとは思いますが、中国では世界の主流となっている西洋暦と共に、この旧暦を併用していて、自国の新年の春節祭等のお祭り行事や、個人の誕生日などは、この旧暦に則っています。(ちなみに来年2014年は西洋暦1月31日が旧暦の元旦)

日本では江戸時代までは、この旧暦が使われていましたが、明治政府になって、法律で旧暦使用を禁じてしまい、今に至っています。

ややこしくなりますので、旧暦のメカニズムの説明は一切省略しますが(一点のみ申し上げますと新月の日が必ず各月の一日になる)、旧暦で生活してみますと、例えば次のように、まさに季節の変化と共に、情緒ある素敵な生活が可能となります。

・最近、暖かい日があったように、旧暦の1月1日が近づくと、春の気配を実感 出来る。「新春」という言葉も、しっくりと来る。

・新暦(西洋暦)の七夕、7月7日は梅雨期間中で、乙姫様と彦星様の年に一度 の逢瀬はまず不可能だが、旧暦での7月7日は、年によっても異なるが、概ね 西洋暦の8月初旬から中旬頃にやってきて、梅雨もとっくに明けていて、その 頃に雨が降ることはまず有り得ない。(今年の七夕は西洋暦の8月13日で  す。)

・旧暦では19年に7回、閏(うるう)月が入りますが、つまりその年は1年が 13ヶ月になるわけですが、どの季節に閏月が入るかで、その年の気候の特徴 もある程度予測が出来る。ちなみに温暖化が叫ばれ始めた20世紀の後半から 将来の21世紀半ば頃までは、「夏」に閏月が入り、つまり、夏が4ヶ月と長 くなる年が多くなっているそうです。暑くなるわけです。この事は何と200 0年も前から太陽と月の動きを計算することで分かっていたそうです。

さらに間接的に聞いた話ですが、ある漁師さんによれば、自分の仕事場である海に初めて秋刀魚が回遊してくる日が、旧暦で見ると、毎年ピッタリ同じ日になるとのこと。また、ある衣料品店経営の社長は旧暦で木枯らしが吹き始める日を予測して、冬物セールの計画に活かしているそうです。

四季が明確に存在し、昔から季節の変化の妙を愛でて来た日本人、旧暦(太陽太陰歴)を意識しないで過ごすのは、もったいないように思います。花崎洋

 

ライナー指揮「悲愴交響曲」

2013 JAN 28 6:06:03 am by

東さんに貸していただきましたCDへの感想、第2弾は、フリッツ・ライナー指揮、シカゴ交響楽団演奏の、チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」についてです。

ライナーの演奏に接するのは、おそらく約35年振りとなりますが、全体として私が抱いていたライナー像とピッタリ合致しておりました。明快で、やや骨太の骨格、抑制の効いたやや禁欲的な表現、主旋律中心で副旋律はそれほど強調せず、そして人事権発動型専制君主的な指揮棒の元、緊張感漂う引き締まった音色、等々がこの曲にプラスに作用していると感じました。

勿論、個人的な感じ方ですが、最も良かったのが第4楽章。この曲の初演後、わずか4、5日で忽然と世を去ったチャイコフスキー、その死の原因については昔から色々と憶測が乱れ飛んでおり、最近では、当時、厳しく禁じられていた同性愛が国家当局の知るところとなり、国家により服毒させられたという説が最も有力ですが、このライナーの演奏は、この楽章を作曲中のチャイコフスキーの胸の内を表現しようなどとは一切考えていないようです。つまりひたすら純音楽的に均整のとれた美を追求していて、そこに好感が持てました。女々しいほどの未練や慟哭を全面に出したバーンスタインの演奏とは正に対極にあり、一つの立派な見識と思います。

同じくらいたいへん良かったのが第2楽章、かなり速めのテンポでスッキリと流していますが、それでいながら、長調で書かれている部分で何故か寂しさが漂っており、その点が特に見事です。

第1楽章は展開部金管楽器の抑制が効いた音楽美が見事ですが、第2主題の弦の歌わせ方だけは、好きになれません。盛り上がる部分で弦の音色が筋肉質となり、力づくで聴衆をねじ伏せようとしているが如き押しつけがましさを感じてしまいます。

第3楽章は、第1楽章の展開部のように禁欲的にアプローチしてくれれば良かったと感じます。おそらくは、シカゴ交響楽団の実力を表に出したかったのでしょうか? テンポが速すぎて、生理的に受け入れられません。敢えて言えば、トスカニーニの調子が悪い時の演奏のように、杓子定規で堅苦しく、聴いている側は音楽を味わう余裕さえ無くなってしまいます。しかし、この野外音楽的な演奏、きっとアメリカの聴衆には受けるだろうなあとも思いました。

以上、勝手なことも書きまして、申し訳ございません。前回のジュリーニのブラームス4番と同じく、大きな刺激を与えてくれ、いろいろと考えさせられる名演奏と思います。CDを貸していただきました東さんに、心より御礼申し上げます。花崎洋

 

 

 

ジュリーニのブラームス第4番を聴いてみて。

2013 JAN 26 14:14:43 pm by

昨日のSMC新年会では、ご参加の皆様、たいへん楽しい時間を有り難うございました。その席上にて、東さんからCDをお借りするという、思ってもいなかった幸運に恵まれました。一生懸命に拝聴し、感想を投稿させていただくことが、東さんへの御礼となると考え、今回は、その第一弾であります。

今回初めて聴きましたジュリーニのブラームス交響曲第4番、第一楽章の出だしから鳥肌が立つという経験、何年ぶりでしょう? 何気なく、さりげなく開始され、音色も、ウィーンフィル独特の明るく高貴なもので、だからこそ、逆に晩年のブラームスの寂寥感が浮き彫りになって来る。この第一楽章、2分の2拍子という、他の曲にはあまりないと思われる拍子が採用されているが、ブラームスが何故、この拍子を採用したのか、その意図が、ジュリーニの演奏で何となくではあるが、わかったような気がしました。

全体的に低弦や金管の音量を抑えめにした上に柔らかく響かせ、ヴァイオリンや木管を伸びやかに響かせるジュリーニ節が、この曲にも大いに合っていると感じます。

第2楽章では、弦による第2主題の呈示で、副旋律を際立たせる部分が印象的でしたし、第3楽章、第4楽章も密度の濃い演奏で一気に聴き終えました。

中学生の時の第一印象が強烈だった、フルトヴェングラーの演奏と、つい無意識の内に比較してしまいます。フルトヴェングラーの第3楽章は、迫力はあるが、雑で味わいに乏しく、また4楽章は、テンポや強弱をあまりにも改竄し過ぎて曲の全体像が全く見えなくなってしまっていたという2点に、今回のジュリーニの演奏で初めて気付くことが出来ました。

3楽章は、こんなに聴き応えのある良い曲だったのか? そして、4楽章全体に流れる、寂寥感、諦観、前述のように音色はむしろ明るめで、表現としても敢えて強調しないので、却って、良く伝わって来る。というように後半の2つの楽章の素晴らしさに、今回初めて気付きました。

全体を通じて、表面的に聴けば、ウィーンフィルに殆ど任せていて、ジュリーニ自身の意思はあまり入っていないように聞こえるかもしれませんが、ちょっと集中して聴き入れば、正にその真逆。全曲の至る所に、ジュリーニ美学が強烈に反映されていると思います。ただ、わざとらしくならないように、控えめに上品に細やかな工夫の積み重ねで造型されているので、なかなか気付きにくいのかもしれませんね。

チェリビダッケと同じく、ジュリーニも凄い職人だ! と痛感した次第であります。たいへん味わい深い、滋味に富んだブラームスの4番でした。 花崎洋

 

「攻・習・守・伝・引」について。

2013 JAN 24 10:10:18 am by

以下に投稿させていただきます原稿は、当初、東さんのご投稿「五行陰陽思想が少しわかった気になった日」へのコメントとして送信しようと思ったものです。ところが、アップル社の「safariブラウザ」との相性の悪さのためか、「キャプチャーコードファイルを読み込むことが出来ません」との英語の表示が現れて、送信出来ませんでした。やや長文になってしまったこともあり、ここに投稿欄より、返信いたします。

 

東さん、呼びかけて下さいまして有り難うございます。

正直申し上げて、最も大切な本質をズバッと突かれて、かなりドキッとしております。四半世紀以上、この業界にいて、この程度の理解か? と批判されるかもしれませんが、どうせ、力量不足は直ぐにバレルことですから、率直に私見を申し上げさせていただきます。

まずは、攻めの心で現場に出て虚心に学ぶことの重要性、全くその通りと思います。頭で理屈をこねるのではなく、むしろ余計なことは考えず(これが意外に難しいんですね)、私心や色気を捨てて、五感を総動員し、時には第六感をも働かせて全身で仕事の本質を掴み取り、吸収する。

そうした経験を経た後に研修を行なうと、その迄のドロドロした経験の深い意味をスッキリを整理・確認出来て、単なる知識ではなく、仕事の実践の場で役立つ「知恵」として昇華出来ると思います。

同じことが、私の立場、つまり研修やコンサルティングを担当する側にも当てはまります。クライアント(お客様)の支持を最も得られないのは、全く仕事の経験が無いまま、新卒でコンサルティング会社に入った知識のみの頭デッカチの生意気な、教えてやっている意識丸出しのコンサルタントでしょう。

研修やコンサルティングを受講されるお客様は、本当に怖いくらいに鋭く見抜きます。自分たちの前で話をしている人間が、どのくらい現場で苦労をしたのだろうか? どのくらい失敗をして、そこから学び取ったのだろうか? どのくらい深く仕事の本質を体感しているのだろうか? 等々、全てをお見通しです。

最近の若手社員に多く見られる傾向として、とにかく現場に出て多くを経験し、そこから仕事の本質を五感で掴む前に(つまり「攻」の前に)、頭の中でベストシナリオを組み立てたがる(つまり、要領良く「習」いたがる)傾向があります。

東さんのお陰で、今後の仕事での、最も重要な課題に気付くことが出来ました。受講されるお客様から、どれだけ多くの現場での体験やそこで体感したことを引き出すことが出来るか?(攻) それを如何に、今後、自分の身や会社を「守ること」(つまり自分の成長や会社の業績向上)に直結する知恵をして、スッキリ整理して、お持ち帰りいただくか? そして、その実践に役立つ知恵を、後進に「伝え」、かつ部下を「引き付ける」管理者になっていくための、大きなキッカケを提供するのが、私の役目ではないだろうか、と。

東さん、「攻・習・守・伝・引」のお話、大きな刺激となりました。たいへん有り難うございます。どの仕事も同じとは思いますが、決して完成することは有り得ないことを肝に命じつつ、少しでも完成イメージに近づけるよう、一歩一歩、歩んで参ります。花崎洋

 

 

ブラームス交響曲第4番に思うこと。

2013 JAN 23 9:09:50 am by

東さんが、カルロ・マリア・ジュリーニ指揮のブラームス4番のお話をされましたが、この曲に関連していろいろな事を思い出します。ベートーヴェンを超える交響曲作曲家を目指したブラームスは、最初の交響曲第1番を作曲するに当たり、慎重にも慎重を期して、約20年もの長い歳月を費やし、その結果、全部で4曲の交響曲しか残せなかった。確か1年ちょっとで、サッと書き上げた交響曲第2番は、のびやかで牧歌的なとても良い作品だけに、もっと数多くの作品を残して欲しかったなと思う。

4曲の交響曲の中で、一番泣かせる作品が、この4番と思う。晩年のブラームスの「哀切」とでも言うべき心の葛藤が良く描かれているように感じます。日本人作曲家の某氏が「シューマンには6人の子供がいたが、下の3人は実はブラームスの子供らしい」と言ったが、そういったブラームスの人間臭さがストレートに反映されており、それを最も直接的に表現したのが、東さんも言及された、フルトヴェングラー指揮ベルリンフィルの演奏でしょう。私も中学生の時に、この演奏(1948年版)を耳にして、第一楽章のコーダの部分の常軌を逸した急加速には腰が抜けそうなほどのショックを受けたものです。

しかし最近では、そういった作品だからこそ、逆にあっさりと、サラッと表現した演奏の方が、却って作品の良さがジワジワと沁みて来て好ましいなと感じます。この4番ですと、速めのテンポのカール・シューリヒトの演奏など。

同じことは、他の作曲家の作品についても言えるかもしれません。例えば、ドボルザークの新世界交響曲だと、土臭い熱い演奏の代表格「ケルテス ウィーンフィル」も良いが、「クレンペラー」や「ライナー」のような土の匂いが一切しない演奏も、私には逆に極めて新鮮です。チャイコフスキーの悲愴交響曲も「バーンスタイン」のような周囲に一切遠慮せずに泣きわめき、慟哭しっぱなしの演奏も感動的ですが、フランス人指揮者「マルティノン」のような、品の良い独特の悲愴も却って新鮮です。

東さんがお薦めのジュリーニのブラームス4番もぜひ聴いてみたいところですが、我が家ではCDの収納スペースが制限されており、その収納スペースを捻出するため、新しく1枚購入する際には、これまでのコレクションの中から、1枚を泣く泣く売りに出す必要があり、当分は無理かなあ、ああ、残念。 花崎洋

 

「伊勢エビ弁当」の盛況から感じた事。

2013 JAN 21 8:08:14 am by

明日22日まで新宿京王百貨店で開催中の全国駅弁大会、今回の主役の一つである「伊勢エビ弁当」は、いすみ鉄道(千葉県の第3セクター)の始発駅、大原駅で最初は土日のみ一日4個限定で、1年4ヶ月前に販売が開始された。その仕掛人、同鉄道の鳥塚社長の狙いは「伊勢エビの漁獲高は地元大原港が日本一なのに、知名度はゼロに等しい。なんとか地元のPRになれば。」。いすみ鉄道が走る地元のためにと、伊勢エビ弁当以外にも様々なアイデアを実行し、万年赤字ローカル鉄道の立て直しに奮戦中だが、最初は、「よそ者に何が分かる!」と、地元の人々から、かなりの抵抗を受けたらしい。私は東京生まれに加え、父親の転勤により、様々な地域に移り住むジプシー生活を送ったので、そのような気持ちにはならないが、生まれた故郷に長く住んでいると、そのような気持ちになるだろうというのも何となく分かる。しかも、日本人共通の心理なのか、自分たちの住む場所の良さについて、長年住む内に、それが当たり前になってしまい、おらが街に(自分の国に)自信が無いことも多いようだ。私も仕事柄、いろいろな地域の人々と話す機会があり、「○○町に今度、仕事で出かけますが、お薦めの場所や美味しい食べ物はありますか?」と尋ねると、「何もありません。」という返事が返って来るのがほとんどですが、実際に訪ねてみると新鮮に感じる景色や食べ物も多いものです。よそ者だからこそ分かることも多いように思いますが。 花崎 洋

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