Sonar Members Club No41

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2月15日からの関東広域の記録的大雪で得た経験

2014 FEB 18 6:06:28 am by 江崎 淳一

上海に出発する前日1月29日まで、自分は北海道にいました。29日千歳空港近くのホテルの駐車場に自分の車を止めたまま、上海に向かいました。

上海帰国後も、その車を取りに帰る暇がなく、天気予報とフェリーの運航スケジュールを見計らい、13日夜に成田ー千歳間を取り14日夕方成田から千歳にはいりました。

帰りの15日昼、フェリーに乗るため予約もなしに(冬の日本海側フェリィーはいつスカスカ状態なので)埠頭の事務所に早めに到着し、乗船申込みをするとなんと「今日は太平洋航路が全滅で、日本海航路に流れて満車です。」との受付のおねーさんに冷たく言い放たれ「キャンセル待ちはできますか?」と聞くと、いかにもめんどくさそうな態度で無事キャンセル待ち1番を出いただき、「19時に戻ってきてくださね。」と温かいお言葉を頂けたのが、14時位でした。

シェボレー(自分の車)は、その日とても機嫌が悪く5時間ふらふらドライブできる様な状態ではなかったので、ダダひたすらフェリー乗り場駐車場の車内の中で待つこと5時間、無事キャンセル待ちを手に入れられ乗船できました。

15日19:30苫小牧16日15;40位が今回乗ったフェリーの行程でした。新潟下船の艦内放送がかかり始めて起こされ、携帯を何気なく見ると朝の6時30分着信履歴とショートメールが(株)アドテックスオーナーの佐藤さんから入っていました。即座にショートメールを開けると、  「群馬県下仁田町で、人が遭難しています。だれか、手を貸してくれませんか」   との簡素な文章の中に込められた内容の重要性に驚き、即座に電話しました、連絡遅くなった後悔とともに。たとえ自分がフェリー中で身動きがとれなかったとしても。

結果遭難した人はその日の午前中にヘリが飛び、無事に救出されたとの佐藤さんのお言葉。しかし2日前から山に取り残されていて前日はヘリがと飛べず何も手がうてなかったので、佐藤さんには「スノーモービルで山に入ってもらうかも。」と15日から、連絡が来ていたそうです。

2年前のお盆明けの夏の盛りに、モービルに乗る際の自分の経験やモービルと自動車の運転メカニズムなど、いつも教えてくれる笠原さんにお願いをして、笠原さんの自宅で初めて紹介してもらった佐藤さん。その日初対面で自分はモービルを使った冬の自然災害のボランティア団体を作りたい、と協力をお願いしたら即座に「それいいよ、やろう。」と即決で賛成していただきました。どうせやるのなら、NPOにすればいいとその場でのアドバイス。今月2月4日の日にも佐藤さんの会社の会議室を使わせてもらいNPO登録の最終打ち合わせを忙しい中、時間を割き夜9時までしていただいてました。

その日から2週間後、佐藤さんの所に遭難救助救の打診がきて、それに一歩も引かずに佐藤さんは行動をなさいました。群馬県のモービル仲間も自分の家の除雪などにてんてこ舞いになっていたり、群馬でも指折りの人命救助が出来る方のエンジンがおしゃかになっていて八方ふさがりの状態(確かに群馬県でも人の住んでいる所で70から100センチ積もれば町中の道が埋まります)、しかし佐藤さんは電話中救助のこと以外自分(プライベート、自分の会社)の状況については語りませんでした。会話は、救助要請が来たこと、へりで無事に助かったこと、今回はモービルで貢献できそうだった寸前までいったこと、それについてちょと悔しそうな感情とに要請が来ただけ前進できたと前向きな考えのみを言われました。

モービルを介し出会い、まだ一度も一緒に乗る機会も出来ていない佐藤さんから心を揺さぶられる意志をいただきました。佐藤さんありがとうございます。

19日ー20日また荒れそうな予報がでてます。今回荒れるのを前提に新潟のモービル置き場で出動準備しています。仲間は平日仕事ですが、自分は一人でスタンバイし出動前提でいます。

(株)アドテックス www.adtex.com  佐藤様

最後にここまでの被害がでた降雪(普段降らずにせ除雪車などの配備がない県)にたいして、その当事者の県また、国の自衛隊要請 対応、の遅さにあきれ果てます。なんのために国民は納税してるのですか? 国民の生命を守生活を守ることは、最重要課題ではないのでしょうか? 3年前の地震のことも、もう忘れてるのですかね?明日19日から、大荒れしないことを切実にねがいます。

 

 

 

 

 

98年のシェビーサバーバンで、2013年のスノーモービルに点検整備に往復15時間。

2014 JAN 29 4:04:33 am by 江崎 淳一

今朝、朝10時半に200キロ先にあるお客様のご自宅へ出発。2時間半の予定が高速、通行止めで4時間で到着。その後整備が終わり21時過ぎに帰ろうと思った瞬間、エンジンをかけたまま、鍵を閉じ込めお客様宅を出れたのが、23時。お客様に迷惑かけてしまい反省しながら、25時にはホテルに帰れるつもりで高速に乗ると、次のインターで通行止めがかかり一般道に下ろされ、それから再び高速に乗れたのが、25時。ホテルに着いたのが26時過ぎでした。

今日整備したスノーモービルは、アメリカの会社が2011年に新車で売り出した現行モデルですが、今日外したネジでインチサイズは一本のみ。後は全てミリのネジで設計されています。かたや、多分25年前の乗っていったシェビーは、ほぼインチで組まれていると思います。

25年前はアメリカのインチソフでデトロイトで設計されたはずです。

2011年設計されたメイドインUSA と売られているスノーモービルはミリのソフトで、私的見解ですが確実にEOURO辺りどこかの国で(ほぼ国もわかってるつもりです)図面が引かれています。2011に初めて整備したときから、そして乗った感覚は明らかにアメリカンではありません。(整備もとても大変になりましたが、走行性能はとても優れています。)

かたや、25年前のシェビーは骨髄までアメリカ車だった最後の時代の車です。今月中頃名義変更し約3000キロ走りました。1600ー1700回転で(55マイル~60マイル)、-10℃は楽に下回っている高速道路はの上で、とても幸せなV8の音に包まれアクセルに接している右足裏からトルクが全身に伝ってきます。(当事アメリカの高速道路は、ほぼ全部の州で55マイル制限がかけられていたはずです)

千歳市ホテルにて。

 

3.01回、死を意識出来た2011年

2014 JAN 25 22:22:11 pm by 江崎 淳一

二月十四日 物理的に

北海道の全日本のレース会場観戦から帰る途中、夕方お互い70キロ同志で歩行者が横断しているのが見えていなかった対向車がいきなり自分のシート30センチ後ろにぶつかり(人生交通事故体験中初めて身構えれなかった)、その後、0.5秒以内で左側のガードレールに突き刺さり停車。これで交通事故後遺症認定者になりました。

(それから一年半激痛の毎日を過ごし、ついに図書館で神山先生の本と出会えました。)

 

 

三月十一日 距離的に

大地震。

(夏になってもボランティアに事故の後遺症で行きたいけど行けなった悔しさが今年3月に立ち上げていただけそうな、NPO団体に実りそうでとても楽しみです。)

 

 

地震後約一週間 遊びで

ドクターストップ掛かってましたが、アメリカジャクソンホールのヒルクライムのレースに向こうの友達のプロライダーの友達のマシーンを借りて出場。中学生あたりで読んでいた広瀬さんの「東京に原発を」の知識が鮮明に頭の隅っこににあり、妹夫婦もちょうどオーストラリアに一週間弱と重なっていたので両親に頼み込み、自分がアメリカにいる間だけ、奈良のウイークリーマンションに仮住してもらいまでして、レーススタート5秒でその日最初の前転一回転の大転倒。会場中からの歓声の中一度立ち上がり脳震盪を起しているので倒れこみ、それでも歓声にこたえるために立ち上がり、両手を上げるとさらに歓声を起してくれるアメリカン。ちなみにこの場所でその後に三人骨折、次の日にはコースから外れてました。(これが、0.01回分)

(今年3月第3週の木曜日そのレースに再度出ようと決心していましたら、アメリカのチューウニング屋さんからメールで 「ジュンイチ ウチノ ボアップシテアル デモシャ オマエ ジャクソンデレース二ツカウカ?」 で、「イエス」と言ったのが確か去年の10月下旬でした。)

 

 

九月上旬  意識して

アメリカでのスノーモービルのシーズンは、第2週末にミネソタのスノーモービルショウとともに始まるので、その週末前からホームタウン化してるアイダホホールで一週間ぐらい仕事?友達に会いに?いろんな会社やお宅にいくのですが、その町で世界一美しい音色(自分はそう聞こえます)を出すサイレンサー(マフラー)を、自分自身で手作りしているスコットに会いに行くと。「ジュンイチ 飛びに行くぞ」と彼のアクロバット飛行機での、7.5Gの世界へのお誘い。 その日自分は彼とのアクロバットは2回目で、彼と息子とデービットと自分四人で、彼ら自身が共同で所有している飛行場に。まず、最初にデービットとスコットとの飛行に出ていき、自分の番に。今回は後遺症が影響しかなり吐き気を感じてたのですが、「まだ大丈夫か」かとのイヤホン越しの会話の中(イヤホンでお互い喋らないとエンジン音で聞こえない)「もちろん大丈夫」とあおり続けければさらに絶叫が出るトリックをバンバン15発ほど経験させていただき、飛行場に平常飛行で帰る途中、「ユアドライブ」とのスコットの無線が入りその瞬間から自分が操縦幹を操作し始め、「左に旋回」とスコットの指令ともに左旋回、こないだの機体より鈍感だなーなんて思ってると「右に旋回」の指令で右旋回開始と共に、あれっエンジンボコついたんじゃんて本能的に感じ、スコットに話しかけようかなと思った瞬間スコットが自ら操縦幹を動かし初め、他の操作部品にも触りまくっている気配が。(自分が前席に座っていてパラシュートも付けた状態で5点式のシートベルトでびた一文動けない状態でいます) 前回飛んだときに、必ず操縦を交代する時「ユアドライブ」って声をかけ交代することと教えられてたので、「やばいじゃないみたい」なギャグを言ったら、スコットは真剣な声で「それはおもしろくない」とお互い5秒の沈黙後、、「ガス欠している緊急着陸する」と「OK」が最後の会話。

(機体をわずかに右に傾け地面を見始めたの感じ、それと共にスコットに命をあずけようって思い半分、あと数十秒は生きているなとの思い半分。アクロバットしてた時あれだけ叫んでいたから、今からは一言も発せず冷静に逝こうと次に考えていた着地までの20秒間。)

なぜに、いまこの文章を打てているのか。

 

 

何故に20年以上も未だに乗るのか?そこにはXXXXがあるから(仮題)

2014 JAN 25 3:03:25 am by 江崎 淳一

 初めてのブログ見ていただいた皆様、本当にありがとうございます。

そして、暖かなコメントありがとうございました。

あれは24歳か25歳の三月後半若しくは四月上旬の平日だった。レンタルスノーモービルのインストラクターを3年程経験を積み、入っていけるその乗り場の地理(その当時の毎週数日乗りに行っていた場所でめちゃくちゃ大雑把ですが2キロ×25キロの面積です)、スタック(雪にスノーモービルを埋めること)から二人で出せるレベルと判断し女と彼女のマシーンと共に2台のみで遊びにいきました。スノーモビルのエンジンを山で直すなど全くできず「一台壊れたら二人乗りで帰ればいいやーって」もろに若さに任せてのみの行動で乗りだしです。

(その頃は東京方面のモービル所有されている方々と、5台から10台で日曜日に全員のペースに合わせ乗っていたことが多く、気を使わないで乗れるのは彼女と二人で乗れる日だけでした。彼女も自分の後を遅れをとりながらも、必ず自分に着いてこれる技量になっていました。)

トラックからモービルを下ろし畑の上から乗りだしで、100メートルほど先からモービル3台分ほどの幅の、左右植林された杉林の林道に入り始めます。その林道は、毎週皆の往復に使われるので、ちょうどスキーのモーグルのコースのようなギャップが出来、当時のマシーンのサスペンションでは、速度を上げて行くと必ず限界の速度がおのずと決まる為に、その人その人のスキルにより出せるスピードで頭打ちをしていきます。しかし、当時の自分は前回出したスピードを上回る為にアクセルを開けれるだけ開る事が唯一の楽しみな非常に低レベル・ライダーで、アドレナリン放出を楽しんでいました。もちろん全開のままでいると、ギャップの斜度にモービルを取られ杉林に突っ込んでいくので、ギャップに入りながらも、アクセルを緩めまた全開を繰り返すのですが、結局平均速度と最高速度いかに上げて行くかです。

しかしその日は全開走行開始後5分位たった時に、今までに体験していない速度領域に入り始めると、スノーモービル最先端のスキーから最後尾のキャタピラの終わりまでが、自分の手のひらと足の裏の接点となり一体化が始まり、スノーモービルと自分が、一つの物体(肉体?)となった次の瞬間から、雪面のギャップも全て自分のコントロール下に入り始め、自分とモービルと雪面(地球)の一体感が訪れました。すべての力みや緊張・警戒・恐怖感は一切消滅し、心穏やかな気分に包まれつつ幸福感に満たされ、アクセル全開状態に。そして出せた最速移動速度と完璧なる幸福感を体感した時。

あーすみません、今晩で書き終われないです。脳みそ軽く焼き付き初めました。

(以下次号に続けさせてください)

 

おばあちゃんと家族に捧げる、スノーモービルのちょっとしたエピソード

2014 JAN 24 3:03:36 am by 江崎 淳一

初めにSMCを考案された東さん、東さんを紹介して頂いた神山先生、ありがとうございます。又SMCのメンバー皆様これからよろしくお願いいたします。

さて、緊張の初投稿です。

 明日、いやもう今日ですがおばあちゃんの23回忌です。22年前心臓発作を起し、おじいちゃんと共に住んでいた老人介護施設の中の病院におばあちゃんは入院中、毎日付っきりでいた自分に 「もう、一段落ついてるからスノーモービルに乗りに行きなさい」と。最後に交す言葉になると思いもせず新潟に。数日後(携帯電話など自分は持っていませんでした)モービルに乗っていた午前中。当時一緒だったスタッフがモービルで自分を探してくれ危篤だと伝えに来てくれ、新幹線に飛び乗り、病院の地下にある霊安室に入る前段階の部屋の職員を振り切って会えた時に、ほんとうに苦しそうな表情をしていたおばあちゃんは遺体でした。本当はもっと近くにちかよって行きたかったのに、足が前に進まず10秒も見ていることも出来ずその部屋出てきてた自分を、今でも鮮明に憶えています。

その年の元旦は記憶にありませんが、たぶん家族と共にいた最後の正月でした。それ以降、家族と共に新年を迎えることなく、スノーモービルに乗る為の移動、整備、若しくは雪の上で20回の年越しをしてきました。  昨年11月、母親が生まれて初めて行った健康診断で肺がんの検査に引っかかり、(神山先生は検査入院をする前から癌ではないと微笑みながら断言していましたが)検査入院の結果がでた12月30日の始発から三本目の越後湯沢発の新幹線に乗り、家に帰る時間もないので両親と病院で落ち合い、結果幸い癌ではないとの結果がでました。 その午後には湯沢に戻り、年内中にお客様の納める新車3台を組み上げ初め、明けて31日午後3時にお客様に取りに来ていただき夏から中古のエンジンをオーバーホールを途中で止め、湯沢最終の東京行にぎりぎりに乗り23時台自宅に到着し、一月二日朝一の新幹線に乗り、昨年納めたお客様のモービルを午前中は山から引き上げに行き、夜11時まで掛かってもオーバーホールしなければいけなかったマシンを組み上げられず(エンジンオーバーホールは集中力が途切れた状態で組み上げるとその後のエンジンの耐久性が確実に落ちます)、翌朝6時作業を再開して組み上げ、31日に納めたお客様と山にテストがてら乗る予定を一時間遅らせてしまいましたが、10時台には自分を含め6人で山に初乗。その中の3台のマシンの調子、3人のお客様とマシンの相性を観察しながら、日が暮れる寸前まで遊び兼ちょと仕事兼お客様と友達に最高な一日を過ごしていだく為、自分はスキル15%程で淡々と乗っていました。これがスノーモービル乗りの自分の2014お正月でした。むろん明けて4日は、ぶっ倒れ一日寝てました。

但し今年の正月は最初で最後かもしれませんが、両親、妹、姪一緒に過ごせ今までに経験出来なかった最高に幸せな元旦からの一年が始められたことに、感謝感動でした。

皆様も幸せな瞬間ある一年が訪れますように願います。(残り340日です)

 

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